第279話 結果を待つ前に、守りたい約束
朝の生活観測区画には、昨夜の雨が残した湿り気が漂っていた。
窓の外では庭木の葉から雫が落ち、石畳の隙間にできた小さな水たまりが、雲の間から差し込む朝日を受けて淡く光っている。風はほとんどなく、開け放たれた食堂の窓からは、濡れた土と若い草の匂いが静かに流れ込んでいた。
アリシアは朝食の席で温かなスープを口へ運びながら、膝の上に置いた学院の予定表へ目を落とした。
今日は通常授業の日で、合同実技も資料修復の選択授業もない。ただし、昼休みにはメリルたちと顔を合わせることになっており、次の実技に向けて教師へ確認したいことを整理する予定だった。
昨日の授業では、五人で形成した小規模魔力防壁を、一度は崩してしまった。
けれど、そのあとに話し合い、二度目の試行では全員が声を掛け合うことで安定させられた。自分が直接魔力を足さなくても、必要な変化を伝えれば仲間が対応してくれると知ったことは、アリシアにとって大きな経験だった。
(次は、誰かが一時的に出力を下げる練習なんだよね)
教師が説明していたのは、五人のうち一人があらかじめ決められた合図に従って出力を下げ、残る四人がどう対応するかを確かめる課題だった。
まだ具体的な実施方法は示されていない。
だからこそ、班員だけで勝手に手順を決めるのではなく、事前に疑問をまとめておこうという話になっていた。
「お前、スープが冷めるぞ」
足元から聞こえた声に、アリシアは顔を上げた。
ノアが椅子の横へ座り、呆れたような目でこちらを見上げている。黒い毛並みには窓から差し込む光が細く走り、ゆっくり動く尻尾の先だけが、床へ落ちた影の中で揺れていた。
「……考え事してた」
「見りゃ分かる。問題は、考え事をするたびに飯が止まることだ」
「そんなに止まってた?」
「俺が三回あくびできるくらいにはな」
アリシアは慌ててスプーンを動かした。
温かなスープを飲み込むと、ノアが満足そうに鼻を鳴らす。
「今日は学院だけか?」
「放課後に研究棟へ少し寄る予定だけど、人工刺激はしないよ。次の候補日の設備確認がどこまで進んでるか、予定を確かめるだけ」
「それなら、学校で魔力を使う予定は?」
「今日は普通の授業。大きな実技はないよ」
「なら、余計なことを考えて疲れるなよ」
アリシアは少し笑った。
「考えるだけで疲れることもあるの?」
「お前の場合はな。気づくと、まだ起きてもいないことまで一人で背負い込んでる」
ノアの言い方は相変わらず遠慮がない。
けれど、アリシアは言い返さず、予定表を畳んだ。
次の人工刺激候補日が近づいていることは、確かに気になっている。
新しい独立前向き系列では、実施件数を最大二件と決めている。最初の一件では東側と西側の判定がともに確認となり、不一致は観察されなかった。
残る一件で何が起きるかは分からない。
けれど、今日の朝食を急いで終わらせたところで、結果が早く分かるわけではなかった。
「……今日は、ちゃんと学校を楽しんでくる」
「それでいい。研究室の連中も、お前が飯を食わずに結果を待ってるなんて知ったら、余計な仕事が増えるだけだ」
「ちゃんと食べてるよ」
「今ようやくな」
アリシアは少し頬を膨らませたが、ノアは知らん顔で毛づくろいを始めた。
その様子がおかしくて、アリシアはもう一度笑った。
◇
学院へ到着すると、教室の前でメリルが待っていた。
朝の光が差し込む廊下には、登校してきた生徒たちの足音と挨拶が重なっている。掲示板の前では数人の生徒が新しい連絡事項を確認しており、窓際では男子生徒たちが昨日の実技の結果について賑やかに話していた。
「アリシア、おはよう!」
「おはよう、メリル」
「ちょうどよかった。ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
メリルはいつもより少し真剣な顔をしていた。
アリシアが頷くと、メリルは周囲の生徒たちを避けるように廊下の端へ寄った。
「昨日、家で魔力防壁の練習をしようと思ったの。でも、実習用の結界具がないと、授業で作った形をそのまま再現できないでしょ? だから、小さい光の輪を作って、出力を一定にする練習だけやってみたんだ」
「一人で?」
「うん。でも、無理はしてないよ。すぐに止めたし、家の人にも見てもらってた」
メリルは少し慌てて付け加えた。
アリシアが心配そうな顔をしたことに気づいたらしい。
「それでね、思ったんだけど……私、弱くするのが苦手なのかもしれない」
「弱くするの?」
「そう。強くするのは簡単なんだよ。魔力を多めに流せばいいから。でも、少しだけ弱くして、そのまま保つのが難しいの。弱めようとすると、急に小さくなっちゃう」
アリシアは昨日の実技を思い返した。
一回目の試行では、左側へメリルと自分が同時に補助を入れてしまい、そのあと自分が急いで魔力を引いたことで膜の揺れが大きくなった。
強くしすぎないことだけではなく、弱める時にも注意が必要なのだ。
「……それ、私もあるよ」
アリシアが答えると、メリルは驚いたように目を見開いた。
「えっ、アリシアも?」
「うん。昨日、補助を重ねちゃったあと、慌てて魔力を弱めたでしょ。あの時、少し急ぎすぎたと思う」
「でも、アリシアは細かい調整が得意じゃない」
「得意でも、慌てたら上手くできないことはあるよ」
メリルはしばらく黙っていた。
それから、少し安心したように息を吐いた。
「そっか。私だけじゃないんだ」
アリシアは頷いた。
「次の実技では、急に出力を下げる役があるんだよね。だから、どのくらいの速さで下げるのかも先生に聞いた方がいいと思う」
「それだ!」
メリルはぱっと顔を明るくした。
「私、補助する側のことばっかり考えてたけど、出力を下げる側も練習が必要なんだよね」
「うん。勝手に練習するより、先生の指示があった方が安心だと思う」
「よし。お昼にみんなへ言ってみる!」
メリルは満足そうに頷いた。
そのまま教室へ入ろうとしたところで、ふと振り返る。
「ねえ、アリシア」
「何?」
「昨日、私が左を強くしすぎた時、嫌じゃなかった?」
予想していなかった質問に、アリシアは瞬きをした。
メリルは少しだけ視線を落としている。
「私、勢いで動いちゃうことがあるからさ。アリシアはちゃんと考えてくれてるのに、私が邪魔しちゃったんじゃないかなって」
アリシアはすぐには答えられなかった。
昨日、確かに防壁は崩れた。
けれど、それはメリルだけの失敗ではない。
自分も同じ場所へ補助を入れ、声を掛けずに動いていた。
「……嫌じゃなかったよ」
アリシアはゆっくり答えた。
「私も同じことをしたから。それに、メリルが左を支えてくれたから、二回目は上手くできたんだと思う」
メリルが顔を上げた。
「本当?」
「うん。次も一緒に頑張りたい」
その言葉を聞いたメリルは、少し照れたように笑った。
「……そっか。じゃあ、次はもっと上手くやろうね」
「うん」
二人は並んで教室へ入った。
アリシアの胸には、昨日とは違う温かさが残っていた。
失敗したことを、相手がどう思っているのか気にしていたのは、自分だけではなかったのだ。
◇
午前の授業が終わり、昼休みになると、五人は食堂の窓際に集まった。
エドガーはすでに記録紙を広げており、テオはその隣で静かに昼食を食べている。フィオナは自分の帳面を持ち、メリルは食事を置くなり、エドガーの紙を覗き込んだ。
「うわ、また増えてる」
「昨日の話を整理しただけだよ」
エドガーは少し苦笑した。
「それにしては細かいよ。これ、何枚あるの?」
「二枚」
「十分多いって!」
メリルが笑うと、テオが静かに口を開いた。
「お前も朝から考えてたんだろ」
「えっ、何で知ってるの?」
「教室へ入ってくる時、アリシアと出力の話をしてたから」
メリルは目を丸くした。
「聞こえてたんだ」
「廊下であれだけ元気に話してればな」
エドガーが肩をすくめると、メリルは少し恥ずかしそうに笑った。
「……じゃあ、ちょうどいいや。私から一つ相談してもいい?」
五人は自然に顔を上げた。
メリルは朝、アリシアへ話したことを説明した。
魔力を強めることは比較的簡単でも、少しだけ弱めて維持するのが難しいこと。出力を下げる側の練習も必要なのではないかということ。そして、実習用の結界具を使わずに防壁そのものを再現しようとするのは避けたいということ。
話し終えると、フィオナが真剣な顔で頷いた。
「それ、私も気になってた。中央を担当する時、左右が弱くなったら補助することばかり考えてたけど、もし私が出力を下げる役になったら、どのくらい下げればいいのか分からない」
「そうなんだよね」
メリルは大きく頷いた。
「先生は『合図で出力を下げる』って言ってたけど、急に全部止めるのか、少しずつ下げるのかで全然違うと思う」
エドガーは記録紙へ目を落とした。
「そこは確認しておこう。勝手に決めると、練習の目的が変わるかもしれない」
テオも頷いた。
「出力を下げる人の負担も考えないとな。残りの四人が支えられるかを見る練習でも、最初の変化が大きすぎたら対応の練習にならない」
アリシアは四人の話を聞きながら、少し考えた。
誰かが出力を下げる。
残りの四人が対応する。
その仕組みだけを見ると、単純な課題に思える。
けれど、実際には出力を下げる人も、補助する人も、全体を見る人も、それぞれ考えなければならないことがある。
「……私、もう一つ聞きたいことがある」
アリシアが言うと、エドガーが顔を上げた。
「何だ?」
「誰かが出力を下げた時、全体を見る役がすぐに補助する方がいいのか、それとも、ほかの担当者へ先に伝える方がいいのか」
テオは少し考えてから答えた。
「状況によると思う。全体を見る役が補助した方が早い場合もあるだろうけど、それを毎回やると、ほかの人が対応する練習にならないかもしれない」
「俺もそう思う」
エドガーが頷いた。
「今回の課題は、誰か一人が抜けても班全体で支えられるかを見ることだろ。アリシアが全部直してしまったら、ほかの四人の動きが分からなくなる」
フィオナは少し不安そうな顔をした。
「でも、私が中央で支えきれなくなったら、アリシアに助けてほしいと思う」
「それは言っていいんじゃないか?」
テオが答えた。
「自分で対応できない時に助けを求めるのも、連携の一つだろ」
アリシアは頷いた。
「うん。私も、誰かが困ってる時には助けたい。でも、勝手に全部直すんじゃなくて、どうしてほしいか聞けたらいいなって思う」
メリルは少し考えたあと、明るい声で言った。
「じゃあ、合図を決めようよ!」
「合図?」
フィオナが首を傾げる。
「そう。『少し補助して』とか『今は大丈夫』とか、短くても分かる言葉にしておけば、慌てても伝えやすいでしょ?」
エドガーは記録紙へ視線を落とした。
「それなら、最初に言葉を統一しておくのはよさそうだな。ただ、実技の時に使っていいかは先生へ確認しよう」
テオも同意した。
「短い言葉の方が、魔力を動かしてる時には分かりやすい」
アリシアは少し笑った。
メリルらしい提案だった。
細かな記録をまとめるのはエドガーが得意で、全体の変化を見つけるのはテオが得意だ。フィオナは自分の不安を言葉にしながら、分からないことを一つずつ確かめようとしている。
そしてメリルは、難しいことをみんなが使いやすい形へ変えるのが上手だった。
五人が同じように考える必要はない。
それぞれ違うからこそ、気づけることがある。
◇
話し合いが一段落したところで、エドガーは記録紙の端へ三つの項目を書き込んだ。
一つ目は、出力を下げる役の合図と下げ方。
二つ目は、残りの四人が補助してよい範囲。
三つ目は、防壁が大きく崩れそうになった場合の停止条件。
そこへ、メリルの提案した声掛けの方法も加えることになった。
「よし。これなら先生に聞くことがはっきりしたな」
エドガーは満足そうに頷いた。
「でも、まだ全部は決められないよね」
フィオナが言うと、エドガーはすぐに頷いた。
「そうだな。今日は質問をまとめるだけ。実際の手順は先生の説明を聞いてから決めよう」
テオは食堂の窓へ視線を向けた。
「それに、次の実技まで時間はある。今から全部決めておく必要もないだろ」
メリルは少し笑った。
「テオって、たまにすごく落ち着いてるよね」
「たまに?」
「いつもかな」
「なら最初からそう言え」
エドガーとフィオナが笑い、アリシアもつられて笑った。
その時、近くの席から少し大きな声が聞こえてきた。
「昨日の実技、そっちの班は何回目で成功したんだ?」
声を掛けてきたのは、別の班の男子生徒だった。
悪意のある言い方ではなかったが、周囲の数人も興味深そうにこちらを見ている。
エドガーが答えるより先に、メリルが口を開いた。
「二回目! 一回目は補助が重なって崩れちゃったけど、ちゃんと直せたよ」
「へえ。うちは三回目までかかったんだよな。右側の出力が強くなりすぎてさ」
男子生徒は苦笑した。
「全体を見る役って難しくないか? あれ、誰が担当しても忙しいだろ」
アリシアは少しだけ肩を強張らせた。
突然、自分の担当していた役割の話になったからだ。
けれど、エドガーは落ち着いた様子で答えた。
「うちはアリシアが担当した。全体の変化を見て、必要なところを伝えてくれたから、二回目は安定したんだ」
男子生徒の視線がアリシアへ向いた。
「そうなんだ。細かい変化が分かるの、すごいな」
アリシアは少し驚いた。
褒められるとは思っていなかった。
「……ありがとう。でも、みんなが自分の担当を調整してくれたから」
「それができるのもすごいと思うけどな。うちは全員が同時に直そうとして、余計に崩れたし」
男子生徒はそう言って笑った。
その後、互いの班の失敗について少し話し合い、相手は自分の席へ戻っていった。
アリシアは胸の奥に残っていた緊張を、ゆっくり吐き出した。
知らない生徒から突然声を掛けられることは、まだ少し怖い。
けれど、今は一人ではなかった。
エドガーが自然に話をつないでくれた。
メリルが明るく答えてくれた。
フィオナとテオも、いつもどおり隣にいた。
「アリシア、大丈夫?」
フィオナが小さな声で尋ねた。
「……うん。ちょっとびっくりしただけ」
「急に話しかけられると驚くよね」
フィオナは優しく笑った。
「でも、さっきの人、悪い感じじゃなかったね」
「うん」
アリシアも頷いた。
以前なら、知らない人から声を掛けられたことだけで、しばらく気持ちが落ち着かなかったかもしれない。
けれど今日は、少し驚いたあとに、ちゃんと話を聞くことができた。
その変化が、自分でも少し嬉しかった。
◇
午後の授業が終わったあと、アリシアは研究棟へ向かった。
今日は人工刺激を行う予定ではない。
ただし、新しい独立前向き系列の第二実施候補日が近づいているため、研究側の設備確認と予定の再確認が行われることになっていた。
研究棟へ続く廊下は、学院の教室よりも静かだった。
窓から差し込む夕方の光が床へ長く伸び、遠くの部屋からは紙をめくる音と、誰かが小さく話す声が聞こえてくる。
アリシアは扉の前で一度立ち止まり、ゆっくり息を吸った。
(今日は、予定を確認するだけ)
そう自分へ言い聞かせてから、扉を叩いた。
「どうぞ」
中からサラの声がした。
研究室へ入ると、副学長、サラ、記録担当、若い観測員が机上の資料を確認していた。安全管理担当も同席しており、机の端には設備確認用の記録紙が重ねられている。
「こんにちは」
アリシアが挨拶すると、サラが顔を上げた。
「こんにちは。学院はどうでしたか?」
「楽しかったです。昼休みに班のみんなと次の実技の相談をしました」
「それはよかったですね」
サラは微笑んだ。
「では、こちらも予定を確認しましょう。今日は人工刺激を行いませんし、第一実施試行の詳細な時間比較や入力指標を開く予定もありません」
「はい」
アリシアは椅子へ座った。
記録担当が予定表を広げる。
「第二実施候補日について、研究側の人員配置は確保できる見込みです。東側と西側の観測担当も、それぞれ独立して判定できる体制を整えられます」
「はい」
「設備の最終確認は候補日前に行います。今日の時点では、まだ実施確定ではありません」
「分かっています」
副学長が頷いた。
「第一実施試行の結果を理由に日程を早めたり、条件を変えたりすることはしない。予定どおり候補日を維持し、当日の安全状態と本人意思を確認する」
アリシアは静かに頷いた。
第一実施試行では、東側も西側も確認となった。
主判定としては一致であり、新しい系列で不一致が再観察されたわけではない。
その結果を見たからといって、次の試行を強くしたり、別の変化を加えたりしてはいけない。
最初に決めた安全範囲内で、早期位置に単一の意図的小変動を置くという条件も変えない。
アリシアはそのことを理解していた。
「……もし、次も一致だったら」
思わず口にすると、室内の視線が静かに集まった。
アリシアは少し迷ったものの、続けた。
「新しい系列では、不一致が出なかったことになりますよね」
記録担当が頷いた。
「はい。二件とも一致であれば、この系列で不一致は観察されなかったと記録します。ただし、それだけで過去の不一致が誤りだったと断定することも、今後絶対に起こらないと証明することもできません」
「……そうですよね」
副学長が言葉を継いだ。
「そして、不一致が出たとしても、それだけで六つ目の神器の正体や東西の関係が分かるわけではない。結果がどちらであっても、言えることと言えないことを分ける必要がある」
アリシアは頷いた。
それは、何度も聞いてきた説明だった。
けれど、残る一件が近づいた今だからこそ、改めて確かめておきたかった。
◇
確認が一段落したところで、サラがアリシアの顔を見た。
「今の体調を教えてください」
アリシアは少し考えた。
「痛みはありません。息苦しさも、胸の変な感じもありません。頭痛や吐き気、めまいもないです」
「疲労は?」
「二くらいです」
「怖さは?」
「三です」
「参加したい気持ちは?」
「八くらい」
「早く結果を知りたい気持ちは?」
「……八です」
サラは頷き、記録担当へ視線を向けた。
「ありがとうございます。今日の数字は、候補日の参加意思を確定するものではありません。当日、改めて確認します」
「はい」
安全管理担当も静かに口を開いた。
「疲労が四になれば相談、五以上なら延期を検討するという基準も変わりません。怖さが五なら相談、六なら停止です。痛みや息苦しさが一でも出た場合は、すぐに申告してください」
「分かっています」
アリシアは頷いた。
これまで何度も確認してきた条件だった。
けれど、繰り返し聞くことを面倒だとは思わなかった。
むしろ、結果を急ぎたい気持ちが強くなっている時ほど、同じ基準を確かめることが大切なのだと感じていた。
若い観測員が資料を一枚取り出した。
「第二実施試行の開示方法についても、正式に記録へ反映しました」
アリシアは顔を上げた。
「東と西を一緒に教えてもらうことですか?」
「はい。東側と西側の判定は、それぞれ独立に確定します。その後、両方を同時に開示する方式です」
記録担当が補足する。
「変更するのは本人への開示順序だけです。主判定そのものには影響しませんし、変更した理由と時点も記録しています」
「ありがとうございます」
アリシアは少しだけ息を吐いた。
東側の結果を先に聞くと、どうしても西側も同じであってほしい、あるいは違っていてほしいと考えてしまう。
それが観測結果を変えるわけではないと分かっていても、待つ間の気持ちは揺れる。
だから、両方が独立して確定したあと、同時に教えてほしいとお願いした。
その希望が受け入れられたことは、アリシアにとって大きな安心だった。
「もう一つ、確認してもいいですか」
アリシアが言うと、副学長が頷いた。
「何だね」
「次の試行が終わった日、新しい人工刺激の予定をすぐに決めないことです」
室内が静かになった。
アリシアは少し緊張しながらも、続けた。
「結果が気になって、もし不一致が出たら、もっと確かめたいって思うかもしれません。でも、そういう気持ちのまま次の予定を決めたくないです」
サラは静かに頷いた。
「前回、相談した内容ですね」
「はい。次の一件が終わったら、まず記録を整理して、ちゃんと休みたいです」
副学長は少し考えてから答えた。
「その方針は維持する。新しい系列は最大二件で閉じる。結果がどうであっても、その場で第三の試行を追加することはない」
「はい」
「そして、第二実施試行の当日に新しい人工刺激系列の実施計画を決めることもしない。まずは安全確認と記録の確定を優先する」
アリシアは深く頷いた。
「ありがとうございます」
その言葉を口にした時、胸の奥にあった緊張が少し緩んだ。
結果を知りたい気持ちは消えない。
けれど、結果を知ったあとにどう過ごすかまで、今から全部決めなくていい。
それが分かっただけで、少し落ち着けた。
◇
研究室を出る頃には、夕方の光が廊下へ長く差し込んでいた。
ノアは扉の外で待っており、アリシアを見るなり尻尾を揺らした。
「終わったか」
「うん」
「何か決まったか?」
「候補日はそのまま。設備の最終確認と当日の安全確認が終わって、私が参加したいと思えたら実施する」
「つまり、まだ決まりじゃねえってことだな」
「そうだよ」
アリシアは少し笑った。
ノアは歩き出し、アリシアもその隣へ並んだ。
研究棟の窓からは、夕方の空が見えていた。雲の隙間から差し込む光が遠くの屋根を淡く照らし、廊下の奥には、帰り支度をする研究員たちの小さな話し声が響いている。
「ノア」
「何だ」
「次の試験、やっぱり気になる」
「だろうな」
「不一致が出たら嬉しいと思う。でも、一致だったらまた残念だと思う」
ノアは少しだけ顔を上げた。
「そりゃ、結果に期待してるんだから当然だろ」
「うん。でも、どっちでもちゃんと受け止めたい」
「受け止めるってのは、喜ばないとか落ち込まないって意味じゃねえぞ」
アリシアはノアを見た。
「……そうなの?」
「嬉しけりゃ嬉しいでいいし、残念なら残念でいい。ただ、その気持ちで記録をねじ曲げなきゃいい」
アリシアは少し考えた。
研究室でも、似たことを何度も確認してきた。
けれど、ノアの言葉は少し違って聞こえた。
感情を持つこと自体は悪くない。
大切なのは、その感情で結果を変えようとしないこと。
「……うん」
アリシアは頷いた。
「それなら、できると思う」
「なら十分だ」
ノアは小さく鼻を鳴らした。
しばらく歩いたあと、アリシアはふと思い出したように口を開いた。
「今日ね、メリルが朝から相談してくれたの」
「何をだ」
「魔力を弱くするのが難しいって。私も昨日、同じような失敗をしたから、一緒に考えたんだ」
「ほう」
「お昼には、エドガーが記録をまとめてくれて、フィオナも自分の不安を話してくれた。テオは、みんなが何をしてるか分からなくならないようにした方がいいって」
ノアは黙って聞いていた。
アリシアは少し笑った。
「みんな、考え方が違うんだね」
「そりゃそうだろ。五人いりゃ、五人分の頭がある」
「……そうだね」
「お前が全部考える必要もねえってことだ」
アリシアは少しだけ目を丸くした。
ノアは前を向いたまま続けた。
「研究でも学校でも、お前はすぐ一人で抱え込む。だが、周りに人がいるなら使え。助けてもらうのは悪いことじゃねえ」
アリシアは静かに頷いた。
「……うん」
その言葉が、今日の出来事と重なって胸へ残った。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は窓際で木の駒を並べていた。
昨日まで庭で使っていた板は、今日は室内へ運ばれている。昨夜の雨で地面がまだ湿っているため、世話役が室内で遊べるようにしてくれたらしい。
「アリシア、おかえり!」
「ただいま」
「今日は道を長くしたよ」
子供は嬉しそうに木の板を指さした。
床には、昨日より複雑な道が作られている。
途中で二つに分かれ、最後にまた一つへ戻る形だった。
「すごいね。分かれ道がある」
「うん。どっちからでも最後に行けるようにした」
アリシアは隣へしゃがみ、道を見た。
「こっちは少し曲がってるね」
「うん。こっちは遠回り」
「じゃあ、こっちは?」
「近いけど、途中で止まりやすい」
子供は木の駒を持ち上げた。
「どっちがいいと思う?」
アリシアは少し考えた。
「……どっちも試してみたい」
子供は目を輝かせた。
「じゃあ、両方!」
二人は順番に木の駒を転がした。
近い道では途中で止まってしまったが、遠回りの道ではゆっくり最後まで進んだ。
子供は少し悔しそうにしながらも、すぐに板の位置を直し始めた。
「もう一回やる」
「うん。でも、さっきとどこを変えたか覚えておこうね」
「何で?」
「変えたところが分かると、上手くいった理由も考えやすいから」
子供は少し考えたあと、頷いた。
「じゃあ、ここだけ動かす」
子供は板を一枚だけ少しずらした。
アリシアはその様子を見ながら、静かに笑った。
遊びの中にも、少しずつ考える楽しさがある。
けれど、今は研究の記録を取るためではない。
子供が自分で工夫し、上手くいったことを喜ぶ時間だった。
その時、子供がふと顔を上げた。
「アリシア、今日は何かいいことあった?」
アリシアは少し驚いた。
「どうして?」
「いつもより笑ってるから」
その言葉に、アリシアは少しだけ頬を赤くした。
「……学校で、友達とたくさん話したんだ」
「楽しかった?」
「うん。楽しかったよ」
子供は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日も楽しいといいね」
アリシアはゆっくり頷いた。
「……うん。そうだね」
窓の外では、雨上がりの庭に夕方の光が差し込んでいた。
重要な木箱は、今日も決められた場所に置かれたままだった。厚い布に包まれた中身へ誰かが触れることもなく、顔のない存在の胸に並ぶ十一の光にも、新しい変化は見られていない。
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、今はそのすべてを確かめる時間ではなかった。
アリシアは子供と一緒に木の駒を転がし、途中で止まってしまうたびに笑い合った。
◇
夜になり、アリシアは自室で今日の出来事を整理していた。
学院の帳面には、昼休みに五人で話した内容を書いた。
『次の合同実技では、一人が出力を下げた時の対応を練習する。事前に先生へ確認することをまとめた。』
『エドガーは手順を整理してくれた。フィオナは中央の補助について考えている。テオは全体を見る役だけに頼らない方がいいと言った。メリルは声を掛け合うことを大事にしている。』
『私も、みんなへ意見を伝えられた。』
そこまで書くと、アリシアは少しだけ筆を止めた。
研究帳面は机の端に置いてある。
今日は設備と予定の確認をしただけで、人工刺激は行っていない。
身体にも新しい異常はない。
次の候補日は近づいているが、まだ実施は確定していない。
アリシアは研究帳面を開き、必要なことだけを短く記した。
『第二実施候補日は維持。設備最終確認と当日安全確認・本人意思確認が必要。東西判定は独立確定後、同時開示。』
それ以上は書かなかった。
第一実施試行の詳細な時間配置や入力指標を、今夜になって開く必要はない。
残る一件の結果を予想するために、過去の記録を都合よく探すこともしない。
アリシアは帳面を閉じ、机の上へ置いた。
寝台ではノアが丸くなっている。
「ノア」
「何だ」
「今日、五人で次の実技の話をしたよ」
「そうか」
「みんな、ちゃんと考えてるんだね」
「当たり前だろ。同じ班なんだから」
アリシアは少し笑った。
「うん。でも、前は自分が迷惑をかけないことばかり考えてたから」
「今は?」
「みんなで上手くできたらいいなって思う」
ノアは片目を開け、アリシアを見た。
「そりゃ、少しは班らしくなったんじゃねえか」
「……うん」
アリシアは頷いた。
研究では、残る一件がどうなるか分からない。
東西の判定が一致するのか、不一致になるのか。
弱い胸部異常が再び現れるのか。
六つ目の神器の正体へ近づけるのか。
まだ答えはない。
けれど、学院では次の合同実技が待っている。
五人で考え、五人で試し、失敗したらまた話し合う。
その約束は、研究の結果に左右されない。
アリシアは灯りを落とし、寝台へ向かった。
ノアが少しだけ身体をずらし、隣へ入る場所を空ける。
「おやすみ、ノア」
「おう」
アリシアは掛け布を引き上げ、静かに目を閉じた。
残る一件の候補日は、もう遠くない。
その日が来れば、また自分の意思を確かめ、東側と西側の反応を見守ることになる。
けれど、その前にも守りたい約束がある。
メリル、エドガー、フィオナ、テオと一緒に、次の実技へ向けて準備すること。
その約束を思い浮かべると、アリシアの胸には穏やかな温かさが広がった。
研究の結果を待つ時間にも、自分の大切な毎日は続いている。
今夜は、そのことを自然に信じられた。




