第278話 五人の名前を呼べる場所
朝の教室には、窓から差し込む柔らかな日差しと、生徒たちの話し声が満ちていた。
昨夜まで吹いていた風は弱まり、校庭の木々も今日は穏やかに枝を揺らしている。開け放たれた窓からは乾いた土と草の匂いが運ばれ、廊下を行き交う生徒たちの足音が、ときおり教室のざわめきへ重なっていた。
アリシアは自分の席へ鞄を置くと、昨日の合同実技で使った記録紙を取り出した。
五人で作った小規模魔力防壁。
最初は補助が重なって崩れたが、二度目には互いに声を掛け合うことで安定させられた。
そのことを思い出すだけで、少し嬉しくなる。
ただ、今日のアリシアには、もう一つ気になっていることがあった。
(次の実技、みんなでちゃんと準備できるかな)
昨日、班員たちとは次回の授業前に少し集まって相談しようと約束している。
けれど、何をどこまで決めておけばいいのかは、まだはっきりしていなかった。
教師から示された次の課題は、五人のうち一人が合図に従って一時的に出力を下げた場合、残りの四人がどう対応するかというものだった。
誰が出力を下げるのか。
どこを補助するのか。
全体を見る役は何を伝えるのか。
考え始めると、いくつもの疑問が浮かんでくる。
「おはよう、アリシア」
声を掛けられて顔を上げると、フィオナが机の横に立っていた。
栗色の髪を肩のあたりで結び、両手には数枚の紙を持っている。
「おはよう、フィオナ」
「昨日の実技のことなんだけど、ちょっと相談してもいい?」
「うん」
アリシアが頷くと、フィオナは少し安心したように笑った。
「昨日、中央を担当したでしょ。二回目は安定したけど、次に誰かが出力を下げた時、私が中央をどう調整すればいいのか分からなくて」
フィオナは持っていた紙を机へ広げた。
そこには、昨日の防壁の形が簡単な図で描かれていた。
中央に丸い印があり、その左右へ細い線が伸びている。
「これ、家で考えてみたの」
フィオナは少し恥ずかしそうに言った。
「左が弱くなったら、中央から補助できるかもしれない。でも、中央を弱くしすぎたら全体が崩れるかもしれないでしょ?」
「うん」
「だから、最初から中央を強くしておいた方がいいのかなって思ったんだけど……それも違う気がして」
アリシアは図を見つめた。
中央を最初から強くする。
それなら左右へ余裕を持って補助できるかもしれない。
けれど、必要以上に強い出力を維持すれば、その分だけ魔力を使う。
さらに、左右との均衡も変わる。
「……最初から強くしすぎない方がいいと思う」
アリシアはゆっくり答えた。
「中央が強すぎると、左右がそれに合わせて調整しないといけなくなるかもしれないから」
「やっぱりそうだよね」
「でも、誰かが弱くなった時に、中央が少し補助できる余裕はあった方がいいのかも」
フィオナは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、普段は安定させておいて、必要になったら少しだけ補助する?」
「うん。ただ、どのくらい補助するかは、先生に確認した方がいいと思う」
フィオナは少し笑った。
「そうだね。私たちだけで決めて、また崩したら困るし」
アリシアも笑った。
フィオナは紙を丁寧に畳み直した。
「ありがとう。アリシアに聞いてよかった」
「私も、フィオナが考えてくれたから気づいたことがあるよ」
「本当?」
「うん。次の実技、中央がどこまで補助できるかも確認したい」
フィオナは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、授業前にみんなで相談しようね」
そう言って、自分の席へ戻っていった。
アリシアはその後ろ姿を見送りながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
昨日まで、フィオナとは合同実技の時に話すことがほとんどだった。
けれど今日は、フィオナの方から教室で声を掛けてくれた。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
◇
午前の授業が終わり、昼休みになると、アリシアはメリルと一緒に食堂へ向かった。
廊下には多くの生徒が行き交い、昼食の献立について話す声や、午後の授業を気にする声が聞こえてくる。
メリルは歩きながら、昨日の実技のことを楽しそうに話していた。
「昨日の二回目、本当に気持ちよかったよね。みんなの魔力がちゃんと合ってる感じがして」
「うん。最初より落ち着いてできた」
「私、アリシアが『左、少し弱い』って言ってくれた時、すごく助かったんだ」
アリシアは少し驚いた。
「そうなの?」
「うん。自分でも左を見てたけど、ちょっと不安だったから。ほかの人も同じ変化に気づいてくれてるって分かると、安心するんだよね」
メリルはそう言って笑った。
「だから次も、遠慮しないで言ってね」
「……うん」
アリシアは頷いた。
以前なら、誰かへ指示を出すことに抵抗があった。
自分が間違っていたらどうしよう。
相手に嫌な思いをさせたらどうしよう。
そんなことを考えてしまう。
けれど、メリルは自分の言葉を助けになったと言ってくれた。
その事実が、少しずつ自信へ変わっていく。
食堂へ入ると、窓際の席にエドガーとテオが座っていた。
二人は昼食を前に、何かの紙を広げて話している。
「あ、いた!」
メリルが手を振った。
「エドガー! テオ! 一緒に食べてもいい?」
エドガーが顔を上げる。
「もちろん。ちょうど昨日の記録を見てたところだ」
「また実技の話?」
メリルが笑う。
「お前も好きだろ」
テオが静かに返した。
「好きだけど、昼ごはんまで研究会みたいにしなくてもいいじゃん」
「研究会じゃない。次の実技の準備だ」
エドガーが少し苦笑した。
アリシアは二人の向かいへ座り、昼食を置いた。
「何を見てたの?」
尋ねると、エドガーが紙をこちらへ向けた。
「昨日の一回目と二回目の違い。維持時間だけじゃなくて、途中で誰が何をしたかも書いておこうと思って」
紙には、簡単な時間の流れと、各担当者の動きが記されていた。
一回目は、左側への補助が重なったところから崩れている。
二回目は、アリシアが変化を伝え、メリルが対応したあと、右側の調整もテオ自身が行っていた。
「こうして見ると、二回目は余計な補助が少ないんだよな」
エドガーが言った。
「一回目はみんなが同時に動いてる。二回目は、必要な人だけが動いてる」
アリシアは頷いた。
「うん。私もほとんど魔力を足してない」
「それがよかったんだと思う」
テオが言った。
「全体を見る人が毎回補助してたら、担当者が自分で調整する前に形が変わる。そうなると、誰が何をしたのか分かりにくい」
メリルは少し考えたあと、頬を膨らませた。
「でもさ、次は誰かが出力を下げるんでしょ? その時は、担当者が自分で直せないんだから、ほかの人が補助しないといけないよね」
「そうだな」
エドガーが頷く。
「だから、次は補助の順番を考えないといけない」
アリシアは朝のフィオナとの会話を思い出した。
「フィオナも同じこと考えてたよ」
「フィオナが?」
メリルが顔を上げた。
「うん。中央からどこまで補助できるか、先生に確認したいって」
エドガーは少し感心したように頷いた。
「いいな。じゃあ、次の実技の前に先生へ聞くことをまとめておこう」
テオも同意する。
「中央が補助できる範囲と、左右が互いに補助する時の限界。それが分かれば、役割を決めやすい」
メリルは笑った。
「なんか、みんな真面目だね」
「お前も十分真面目だろ」
テオが言うと、メリルは目を丸くした。
「えっ、私?」
「昨日、左側を強くしすぎないようにって何回も言ってただろ」
「それは失敗したくなかったから!」
「それを真面目って言うんじゃないか」
エドガーが笑った。
アリシアも思わず笑みをこぼす。
食堂のざわめきの中で、五人の班の話をしている。
それが、以前よりずっと自然に感じられた。
◇
昼食の途中、エドガーがふとアリシアへ尋ねた。
「そういえば、アリシアは研究もしてるんだよな」
アリシアは少しだけ背筋を伸ばした。
「うん」
「最近、放課後に研究棟へ行くことがあるって聞いたから」
「そうだね」
エドガーは興味深そうに頷いたが、すぐに続けた。
「詳しい内容は聞かない方がいい?」
アリシアは少し驚いた。
研究のことを尋ねられると、どう答えればいいのか迷うことがある。
けれど、エドガーは先に聞いてもよいか確かめてくれた。
「……うん。まだ詳しく話せないこともあるから」
「分かった。じゃあ無理に聞かない」
エドガーはあっさり頷いた。
「ただ、合同実技の日と研究の日が重なるなら、早めに言ってくれれば調整できると思う」
アリシアは少しだけ目を丸くした。
「……ありがとう」
「同じ班だからな」
テオも静かに頷いた。
「無理して来ても、集中できないだろうし」
メリルは二人を見ながら笑った。
「ほらね。みんなちゃんと分かってくれるでしょ」
アリシアは少し恥ずかしくなり、視線を落とした。
研究の内容をすべて話さなくても、班員として受け入れてもらえる。
そのことが嬉しかった。
◇
午後の授業を終えたあと、アリシアは教室へ残って課題を整理していた。
窓の外では、校庭を横切る生徒たちの姿が見える。夕方へ向かう日差しが机の上へ斜めに差し込み、帳面の白い紙を淡く照らしていた。
そこへ、フィオナが再び近づいてきた。
「アリシア、まだいたんだ」
「うん。少し課題をまとめてた」
「よかった。朝の話、もう少し聞いてもいい?」
「もちろん」
フィオナは隣の席へ腰を下ろした。
手には、朝見せてくれた防壁の図がある。
「中央の補助について考えてたんだけど、私、やっぱり少し怖いんだよね」
アリシアは顔を上げた。
「怖い?」
「うん。もし私が中央を担当してる時に、左右のどちらかが弱くなったら、ちゃんと助けられるかなって」
フィオナは紙の端を指先で押さえた。
「昨日は、みんなが何をしてるか分かったから落ち着いていられた。でも、次は誰かが出力を下げるんでしょ? その時、私が慌てたらまた崩れるかもしれない」
アリシアは少し考えた。
フィオナの気持ちは、よく分かる。
自分も、全体を見る役をやる前は同じように不安だった。
「……私も昨日、最初は怖かったよ」
アリシアが言うと、フィオナは少し驚いた。
「アリシアも?」
「うん。全体を見る役をやりたいって言ったけど、みんなにちゃんと伝えられるか分からなかった」
「でも、二回目はすごく落ち着いてたよ」
「一回目に失敗したから」
アリシアは少し笑った。
「一回目は、私が先に補助しちゃって崩れた。でも、そのあとみんなで話したら、次はどうすればいいか分かった」
フィオナは静かに頷いた。
「……そうだね」
「次も、最初から全部できなくてもいいと思う。先生が見てくれてるし、危ない時は止めてもらえるから」
フィオナは少しだけ肩の力を抜いた。
「そっか。私、失敗しちゃいけないって思いすぎてたのかも」
「私もよく思うよ」
「アリシアも?」
「うん」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
フィオナは図を畳みながら言った。
「ありがとう。次の実技、少し楽しみになってきた」
「私も」
「じゃあ、また一緒に頑張ろうね」
「うん」
アリシアは頷いた。
教室の窓から差し込む光が、二人の机の上へ静かに落ちていた。
◇
その日の放課後、アリシアは生活観測区画へ戻った。
研究棟へ立ち寄る予定はない。
新しい独立前向き系列の第二実施候補日は、すでに数日後の放課後へ仮置きされている。
ただし、設備確認と当日の本人意思確認を経なければ実施は決まらない。
アリシアはそのことを分かっていた。
今日は研究を進める日ではなく、学院で過ごした一日を終える日だった。
生活観測区画へ入ると、子供が窓際で紙の風車を持っていた。
「アリシア、おかえり!」
「ただいま」
「今日は学校どうだった?」
「楽しかったよ」
「何したの?」
「友達と話したり、授業を受けたりした」
子供は少し考えた。
「研究は?」
「今日はしてないよ」
「じゃあ、遊べる?」
「うん。少しなら」
子供は嬉しそうに笑った。
アリシアは鞄を置き、子供の隣へ座った。
風車はまだ少し折れ目が残っているものの、軽く息を吹きかけるとゆっくり回った。
「まだ回るね」
「うん。大事にしてる」
子供はそう言って、風車を両手で包むように持った。
アリシアはその様子を見ながら、今日のフィオナとの会話を思い出した。
大事にしたいものがあると、失敗が怖くなる。
けれど、怖いからといって何もしなければ、できることは増えない。
少しずつ試して、必要なら助けてもらう。
それでいいのかもしれない。
◇
夜になり、アリシアは自室で学院の帳面を開いた。
今日の出来事を、忘れないうちに書いておきたかった。
『フィオナが中央の補助について相談してくれた。次の実技では、誰か一人が出力を下げた時にどう対応するかを練習する。』
『エドガーとテオも、次の実技の準備を考えていた。メリルは相変わらず明るいけれど、ちゃんと失敗を振り返っている。』
『研究のことを詳しく話さなくても、みんなが私の予定を気にしてくれた。嬉しかった。』
そこまで書き、アリシアは少しだけ筆を止めた。
五人の名前が、帳面の中に並んでいる。
メリル。
エドガー。
フィオナ。
テオ。
そして、自分。
以前なら、合同実技の班員たちを「同じ班の人たち」としか考えられなかったかもしれない。
けれど今は、それぞれの顔や声、話し方が思い浮かぶ。
エドガーは慎重で、手順を大事にする。
フィオナは不安があっても、分からないことをそのままにしない。
テオは口数が少ないけれど、周囲をよく見ている。
メリルは明るく、失敗しても前を向こうとする。
その四人と一緒に、自分も防壁を作っている。
(……私、ちゃんと班の一人になれてるんだ)
そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
寝台ではノアが丸くなっていた。
「ノア」
「何だ」
「今日、フィオナとたくさん話したよ」
「そうか」
「エドガーとテオとも、お昼一緒に食べた」
「ほう」
「メリルだけじゃなくて、ほかの班の人とも話せるようになってきた」
ノアは片目を開け、アリシアを見た。
「いいことじゃねえか」
「うん」
アリシアは少し笑った。
「前は、知らない人と話すのがすごく怖かったから」
「今も怖い時はあるだろ」
「あるよ。でも、前より少しだけ大丈夫になった」
ノアは小さく鼻を鳴らした。
「そりゃ、ちゃんと進んでるってことだ」
アリシアは頷いた。
研究では、まだ分からないことが多い。
六つ目の神器の正体も、東西の反応の意味も、弱い胸部異常の原因も分かっていない。
新しい系列の残り一件がどうなるかも分からない。
けれど、学院での自分は少しずつ変わっている。
誰かに名前を呼ばれる。
自分も、その人の名前を呼ぶ。
困った時に相談される。
自分も、困った時に助けを求められる。
その積み重ねが、今の自分を支えている。
アリシアは帳面を閉じ、灯りを落とした。
ノアが寝台の端で身体を伸ばし、アリシアのために少し場所を空ける。
「おやすみ、ノア」
「おう」
アリシアは掛け布を引き上げ、静かに目を閉じた。
次の人工刺激候補日は、少しずつ近づいている。
その日が来れば、また研究室で自分の意思を確かめ、東側と西側の反応を見守ることになる。
けれど、その前に明日がある。
明日も学院へ行けば、メリルが声を掛けてくれるかもしれない。
フィオナが新しい疑問を持ってくるかもしれない。
エドガーが次の手順を考えているかもしれないし、テオが誰も気づかなかった変化を見つけるかもしれない。
そんなふうに、誰かと過ごす明日を想像できることが、今夜のアリシアには嬉しかった。




