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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第276話 残り一件を、誰のために待つのか


 朝の生活観測区画には、焼きたてのパンの香りと、窓の外で鳴く小鳥の声が満ちていた。


 雨上がりの翌日から続いていた晴天は今日も崩れず、東側の窓から差し込む日差しが食堂の木製の床を明るく照らしている。庭では世話役たちが洗濯物を干しており、白い布が風を受けて大きく膨らむたび、窓辺へ落ちる影もゆっくりと形を変えていた。


 アリシアは朝食の席で、温かなスープを飲みながら今日の学院予定を思い返していた。


 午前は通常授業。午後には資料修復の選択授業があり、放課後には研究棟へ立ち寄る予定を入れている。


 ただし、人工刺激を受ける予定ではない。


 昨日までの回復観察で大きな異常は見られず、身体の状態も落ち着いている。今日は、新しい独立前向き系列に残された一件について、次の実施候補日を相談するつもりだった。


「今日は研究へ行くのか」


 足元からノアの声がした。


「うん。でも試験はしないよ」


「何しに行く」


「次の候補日を相談するの」


「昨日のうちに決めなかったのか」


「昨日は回復日だったから」


 ノアは椅子の下から顔を出し、アリシアを見上げた。


「今日はもう元気なのか?」


「今のところは。昨日より眠くないし、胸の変な感じもないよ」


「なら結構なことだ」


 そう言ってノアは食堂の窓際へ移動した。


 アリシアはその後ろ姿を見ながら、少しだけ笑った。


 以前の自分なら、身体が元気になった時点で「すぐに次を試したい」と考えていたかもしれない。今もその気持ちはあるが、今日はまず日程を相談するだけだと、自分で区切ることができている。


 それでも、心の奥では別の期待が静かに膨らんでいた。


(次は不一致になるかもしれない)


 新しい系列の一件目では、東側奥部対象反応も西側対象反応も確認され、主判定は一致だった。


 自分には既存対象感覚の確認基準を満たさない弱い胸部異常が生じたものの、そのことと東西の判定との関係は分からない。


 だからこそ、残り一件が気になる。


 次も一致するのか。


 それとも、以前の旧系列で一度だけ観察された不一致が、新しい独立記録でも現れるのか。


 結果を早く知りたいという気持ちは、昨日より少し強くなっていた。


「アリシア、今日も学校?」


 向かい側に座っていた子供が尋ねた。


「うん。午後は資料修復の授業があるの」


「紙を直すやつ?」


「そう。古くなった紙を傷めないように扱う練習だよ」


「昨日の風車も直せる?」


 子供は自分の膝の上へ置いていた紙の風車を持ち上げた。


 よく見ると、羽根の一枚に小さな折れ目ができている。昨日、庭で遊んでいる時に何度か地面へ落としたため、紙の端が少し曲がってしまったらしい。


「それなら、今でも少し直せるかもしれないね」


「ほんと?」


「でも、学校で習っている修復とは違うよ。これは遊ぶための風車だから」


 アリシアは子供から風車を受け取り、折れた部分を指先で慎重に伸ばした。


 完全に元どおりにはならないが、羽根が隣の紙へ触れない程度には整えられる。


「これでどうかな」


 子供が息を吹きかけると、風車は少し不規則に揺れながらも回り始めた。


「回った!」


「よかった」


「アリシア、紙のお医者さんみたい」


 思いがけない言葉に、アリシアは目を丸くした。


「お医者さんではないよ」


「でも直した」


「少しだけね」


 子供は満足そうに風車を眺めている。


 その笑顔を見ていると、今日の資料修復の授業も楽しみになってきた。


     ◇


 学院へ到着すると、友人が教室の入口で待っていた。


 アリシアの姿を見つけると、彼女は手にしていた帳面を閉じて近づいてくる。


「おはよう。昨日はちゃんと休めた?」


「おはよう。うん、研究の刺激はしなかったよ」


「身体の方は?」


「胸の変な感じも戻ってないし、昨日より元気」


 友人は安心したように息を吐いた。


「それならよかった。今日は資料修復だよね?」


「うん。そっちは染色?」


「そう。今日は布の色を重ねる練習をするんだって」


「楽しそう」


「失敗すると変な色になるらしいけどね」


 友人は笑いながら、自分の帳面を開いた。


 そこには、いくつかの色を重ねた時の予想が書き込まれている。淡い青の上へ黄色を重ねた場合や、赤みのある色へ薄い灰色を重ねた場合など、友人なりに考えた組み合わせが並んでいた。


「これ、どう思う?」


 友人が指さしたのは、青と紫を重ねる案だった。


「きれいになりそう」


「でしょ? でも先生には、最初から思った色になるとは限らないって言われた」


「そうなんだ」


「だから今日は、思ったとおりにならなくてもちゃんと見てみる」


 アリシアは少しだけ笑った。


「研究みたい」


「えっ、そう?」


「結果を先に決めないところ」


 友人は一瞬考えたあと、肩をすくめた。


「でも私の場合、変な色になったら普通にがっかりするよ」


「私もがっかりするよ」


「そうなの?」


「この前の研究、欲しかった結果じゃなかったから」


 友人はアリシアの顔を見た。


 アリシアは少し恥ずかしくなりながらも、続けた。


「でも、がっかりしたからって結果を変えたりはしない。そういうところは似てるかなって」


 友人はしばらく考え、それから笑った。


「じゃあ今日、変な色になっても消さずに残しておこうかな」


「うん。あとで見せて」


「もちろん。アリシアも紙の修復、見せられるようになったら見せてよ」


「先生の許可が出たらね」


 二人はそんな約束を交わし、教室へ入った。


     ◇


 午後の資料修復の授業では、薄く傷んだ練習用紙の端を補強する工程へ進んだ。


 実習室には乾いた紙の匂いと、修復に使う材料のかすかな香りが漂っている。窓際の長机には生徒ごとの練習用紙が置かれ、教師が一人ずつ状態を確認していた。


 アリシアは自分の席へ座り、前回までに扱った紙を慎重に広げた。


 紙の端には小さな裂け目があり、今日はそこへ補強用の薄い紙を当てる練習を行う。


「急いで貼り合わせないようにしてください」


 教師が説明する。


「紙の繊維がどちらへ伸びているか、傷みがどこまで広がっているかを先に見ます。見た目だけを整えようとすると、あとで別の場所へ負担がかかることがあります」


 アリシアは説明を聞きながら、練習用紙へ顔を近づけた。


 小さな裂け目は、最初に見た時よりも複雑だった。


 表面からは一本の線に見えるが、端の方では繊維が少しずつほどけている。そこを無理に押さえれば、かえって傷みを広げてしまうかもしれない。


(見えているところだけ直せばいいわけじゃないんだ)


 アリシアは道具を置き、もう一度紙の状態を確認した。


 その様子を見ていた教師が、静かに頷く。


「よく観察できていますね。今の段階なら、補強材を少し小さくした方がよいでしょう」


「はい」


「裂け目を隠すことより、紙がこれ以上傷まないようにすることを優先してください」


 アリシアは助言に従い、補強用の紙を慎重に整えた。


 作業は思っていたより時間がかかった。


 途中で一度、位置が少しずれていることに気づき、貼り合わせる前にやり直した。焦ればそのまま進めてしまいそうだったが、教師から「今なら直せます」と声を掛けられ、落ち着いて手を動かすことができた。


 授業の終わり頃、補強は無事に終わった。


 見た目にはまだ修復の跡が残っている。


 それでも、紙の端は以前より安定していた。


「今日はここまでにしましょう」


 教師が各机を回りながら言った。


「乾燥後の状態を次回確認します。今の段階で完成と判断しないようにしてください」


 アリシアは頷いた。


 作業を終えた紙を所定の場所へ置き、道具を片づける。


 持ち帰りの許可はまだ出ていない。


 それでも、以前より少し進んだことが嬉しかった。


     ◇


 放課後、アリシアは研究棟へ向かった。


 今日は人工刺激を行わないため、観測室へ移動する予定もない。研究室には副学長、サラ、安全管理担当、記録担当、若い観測員が集まり、机上には新しい系列の設計紙と第一実施試行の概要記録が置かれていた。


「こんにちは」


 アリシアが挨拶すると、サラが顔を上げた。


「こんにちは。今日は日程相談ですね」


「はい」


「その前に、回復状態を確認しましょう」


 アリシアは椅子へ座り、いつもの質問へ答えた。


 痛みゼロ。


 息苦しさゼロ。


 胸部異常ゼロ。


 頭痛、吐き気、めまいもない。


 疲労二。


 恐怖三。


 次の試験へ参加したい気持ち八。


 早く結果を見たい気持ち八。


 止まりにくさ五。


「昨日より眠気はどうですか?」


 安全管理担当が尋ねる。


「今日はあまりないです。昨夜はちゃんと眠れました」


「分かりました。昨日の眠気が何によるものかは、引き続き確定しません」


「はい」


 状態確認が終わると、副学長が学院予定表を広げた。


「では、第二実施候補日を相談しよう」


 アリシアは少し姿勢を正した。


「お願いします」


「まず、今日の時点で身体状態は落ち着いている。ただし、次の実施日を決める理由は、第一試行の主判定が一致だったからではない」


「はい」


「残る予定実施試行が一件あり、回復観察日を終え、学院予定と研究側の体制を確認できる段階になったからだ」


 アリシアは頷いた。


 分かっている。


 けれど、改めて言葉にされると少し安心した。


「次の合同実技はいつですか?」


 サラが尋ねる。


「明後日です」


「その日は避けたい?」


「はい。班の人たちと役割を変えて練習する予定なので」


「では、候補から外しましょう」


 記録担当が予定表へ印を付ける。


 アリシアは少し驚いた。


「そんなに簡単に外していいんですか?」


「学院の授業も、あなたの生活の一部です」


 サラが答える。


「研究のために毎回そちらを動かす必要はありません」


「……はい」


 アリシアは予定表へ視線を落とした。


 次の合同実技を楽しみにしている。


 友人と同じ班で、前回より上手く防壁を維持したい。


 その気持ちを研究より下へ置かなくてもいい。


「では、合同実技の翌日以降で考えましょう」


 副学長が言った。


 研究棟側の人員配置を確認すると、数日後の放課後なら東側と西側の観測担当を揃えられる見込みがあった。


 ただし、まだ設備の最終確認は終わっていない。


「その日を第二実施候補日にする案はどうだろう」


 副学長が尋ねた。


 アリシアは予定表を見つめた。


 今日から数日後。


 明日でも明後日でもない。


 合同実技を終え、その翌日に身体状態を確認できる。


 研究側も準備時間を確保できる。


「……その日がいいです」


「理由は?」


「合同実技と重ならないし、急いで明日にしなくてもいいから」


 副学長が頷く。


「では、第二実施候補日として仮置きする。設備確認と本人の当日意思確認を経て、実施可否を決める」


「はい」


「第一試行の結果が一致だったことを理由に日程を変更しない」


「はい」


「仮にその日が実施できなくても、結果を見たいからといって安全条件を緩めない」


「分かりました」


 記録担当が予定表へ候補日を書き込んだ。


 これで、残り一件にも具体的な予定ができた。


     ◇


 日程相談が終わったあと、若い観測員が一つの確認を申し出た。


「主判定の結果について、次回も同じ開示手順を使いますか?」


 副学長が頷く。


「変更する理由はない」


「東側と西側の判定を独立に確定してから開示する方式ですね」


「そうだ」


 アリシアは二人の会話を聞きながら、第一試行の結果が開示された時のことを思い出した。


 先に東側の確認が告げられた。


 その時、自分は西側が非確認であることを強く期待した。


 けれど、西側も確認だった。


 主判定は一致。


 その瞬間の落胆は、今でも覚えている。


「次も、東と西を別々に教えてもらうんですか?」


 アリシアが尋ねる。


「判定を独立に確定することと、あなたへどの順序で開示するかは別の問題です」


 副学長が答えた。


「開示順序を変える必要があるか、確認しておこう」


 アリシアは少し考えた。


 東側が先に確認と分かった時、自分の期待が強くなった。


 そのあと西側も確認と聞いて、残念だった。


 もし西側が先だったら、どう感じただろう。


 あるいは、最初から二つを同時に教えられたら。


「……結果は変わらないよね」


「変わらない」


「でも、私の気持ちは変わるかもしれない」


「そうだな」


 サラがアリシアを見る。


「どの開示方法がよいと思いますか?」


 アリシアは少し迷った。


 次は不一致が出てほしい。


 その気持ちは強い。


 けれど、東側の判定を先に聞いてから西側を待つ時間は、思っていた以上に緊張した。


「二つとも決まってから、一緒に聞きたいです」


 静かな声だった。


「東と西の担当の人が、それぞれちゃんと決めるのは変えない。でも、私が聞く時は同時がいい」


 サラは頷いた。


「理由を記録してもいいですか?」


「はい。片方だけ先に聞くと、残りがどうなるかを考えすぎるから」


 副学長は少し考えてから答えた。


「判定確定後の本人への開示順序は、主判定そのものには影響しない。次回は東西両判定を確定したうえで、同時に開示する方式へ変更しよう。ただし、今回の変更理由と時点は記録する」


「ありがとうございます」


 アリシアは少し安心した。


 研究の判定を自分の望む結果へ寄せることはできない。


 けれど、結果をどう受け取るかについて、自分の希望を伝えることはできる。


 その違いを、今日は新しく知った気がした。


     ◇


 会議の最後に、サラがアリシアへ尋ねた。


「残る一件が終わったら、どうしたいですか?」


 アリシアは少し驚いた。


「どうしたいって?」


「研究を続けるかどうかではなく、二件目が終わった直後のことです」


 アリシアは設計紙を見る。


 残り一件。


 その結果が一致でも不一致でも、新しい系列は予定どおり二件で閉じる。


 ただし、閉じたあとに何を考えるかまでは、まだ決めていない。


「……結果を見たい」


「それは当然ですね」


「でも、すぐ次の試験を考え始めそう」


 サラは黙って続きを待った。


「一件目が一致だった時も、すぐ二件目を早くしたくなったから」


 アリシアは膝の上で指を組み直した。


「二件目が不一致だったら、もう一回同じのが出るか見たくなると思う。二件目も一致だったら、今度こそ不一致が出るか見たくなると思う」


「どちらでも、次が欲しくなる?」


「うん」


 言葉にしてみると、少し困った。


 結果がどちらでも、次を欲しがる。


 それでは、終わりがなくなってしまう。


「だから……二件目が終わった日は、新しい試験の話をしない方がいいかも」


 副学長が顔を上げた。


「結果の確認も?」


「結果は確認したい。でも、その結果を見て次の人工刺激を決める話はしない」


「なるほど」


「一件目の時みたいに、すぐ数字を開いて何か探すのも……少し待ちたい」


 アリシアは自分の言葉を確かめるように続けた。


「二件目が終わったら、まず二件の記録を閉じる。それから、少し時間を置いて考えたい」


 副学長は静かに頷いた。


「それは合理的な提案だ」


「本当に?」


「結果を見た直後の期待や落胆で、新しい試験を決めないための手順になる」


 サラも頷く。


「では、第二実施試行が成立した場合、その日は主判定と安全状態、必要な副次記録の確認までに留め、新しい人工刺激系列の設計や追加実施の相談は行わない、という方針にしますか?」


「はい」


「翌日も回復観察日ですから、少なくともその日は人工刺激を行いません」


「うん」


「その後、必要な整理をしてから次の研究方針を考える」


「それがいいです」


 記録担当が新しい一文を書き加えた。


『第二実施試行後、当日は当該系列の記録確定と安全確認を優先し、新規人工刺激系列の設計・追加実施の相談を行わない。結果への即時反応を理由とした研究計画変更を避ける。』


 アリシアはその文章を読み、ゆっくり息を吐いた。


 残り一件を終える前に、終えたあとの自分がどうなりそうかを考えた。


 それは少し怖かった。


 けれど、今決めておけば、結果が出た時に慌てずに済むかもしれない。


     ◇


 研究室を出る頃には、夕方の光が廊下へ長く差し込んでいた。


 ノアは扉の外で待っており、アリシアを見るなり尻尾を揺らした。


「終わったか」


「うん」


「次の日は決まったのか」


「候補日だけ」


「また候補か」


「当日になってから決めるんだよ」


 ノアは鼻を鳴らした。


「で、いつだ」


「数日後。合同実技が終わったあと」


「学校優先か」


「どっちも大事だから」


 アリシアは少し笑った。


「あと、次は東と西の結果を一緒に教えてもらうことにした」


「何でだ」


「片方だけ先に聞くと、残りを待つ間に期待しすぎちゃうから」


「なるほどな」


「それと、二件目が終わった日は新しい試験の相談をしない」


 ノアは少しだけ足を止めた。


「そりゃ珍しい」


「何が?」


「お前が自分から次の試験の話を止めるなんてな」


「……私だって考えるよ」


「知ってる。考えすぎるくらいにな」


 アリシアは少し頬を膨らませた。


 ノアは気にした様子もなく歩き出す。


「でもまあ、いいんじゃねえの。結果が出るたび次を欲しがってたら、いつまで経っても終わらねえ」


「うん」


「それで、二件目が終わったら何するんだ?」


 アリシアは少し考えた。


「……まだ決めてない」


「研究以外でだ」


「研究以外?」


「そうだ」


 アリシアは足を緩めた。


 研究が終わったあとのことを、研究以外で考える。


 その発想は、少し新鮮だった。


「友達と何かしたいかも」


「何を」


「まだ分からない。でも、合同実技のあとにみんなで少し話したり、資料修復の練習が進んだら見せたり」


「それでいいだろ」


「うん」


 アリシアは頷いた。


 残り一件が終わったあとにも、学院生活は続く。


 友人との約束もある。


 子供と遊ぶ時間もある。


 研究だけが、自分の毎日ではない。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は風車を窓際へ置いていた。


 紙の羽根は朝より少し形が整っており、弱い風を受けてゆっくり回っている。


「アリシア、おかえり」


「ただいま」


「紙のお医者さん、どうだった?」


 アリシアは思わず笑った。


「今日は古い紙の端を補強する練習をしたよ」


「直った?」


「少しね。でも、まだ乾かしてから確認するの」


「すぐ完成じゃないんだ」


「うん。急いで触ると傷むかもしれないから」


 子供は風車を見た。


「これも、直したあとすぐいっぱい回したら壊れる?」


「強く回しすぎたら、そうかもしれないね」


「じゃあ今日は少しだけ」


 子供は風車へ軽く息を吹きかけた。


 羽根がゆっくり回る。


 その様子を見ながら、アリシアは少しだけ胸が温かくなった。


 直したものをすぐに試したくなる気持ちは、子供にもある。


 けれど、少し待つこともできる。


 それは研究と同じだからではなく、大事にしたいものがある時には自然に生まれる気持ちなのかもしれない。


     ◇


 夜。


 アリシアは研究帳面を開き、今日決まったことを整理した。


『第一実施試行後の回復観察を経て、第二実施候補日を数日後の放課後へ仮置き。合同実技の日は避ける。設備確認と当日の本人意思確認が必要。』


『次回も東西判定は独立に確定する。本人への開示は両方の判定確定後に同時とする。変更理由と時点を記録する。』


『第二実施試行後、その日は当該系列の記録と安全確認を優先し、新しい人工刺激系列の設計や追加実施の相談を行わない。』


 そこまで書き終えると、アリシアは少しだけ筆を止めた。


 残り一件。


 その一件が終われば、新しい系列は閉じる。


 東と西が一致しても、不一致でも。


 自分が何かを感じても、感じなくても。


 もちろん、安全や本人意思によって実施できなければ、予定二件を完了しないまま終わる可能性もある。


 それでも、今は残る一件を実施したいと思っている。


(次は、どんな結果になるんだろう)


 期待はある。


 怖さもある。


 けれど、そのどちらも今夜の自分が答えを決める理由にはならない。


 アリシアは帳面を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 生活観測区画の庭には月明かりが落ち、木々の影が静かに揺れている。重要な木箱は今日も閉じられたままで、顔のない存在の十一の光にも目立った変化はない。


 六つ目の神器の正体は分からない。


 東西の不一致が何を意味するのかも分からない。


 弱い胸部異常が既存三件と同じ現象なのかも分からない。


 それでも、今夜は少しだけ違うことを考えていた。


 残り一件を終えたあと、自分は何をしたいのか。


 研究の続きを探すことだけではなく、友人と過ごしたり、子供と遊んだり、学院で新しいことを学んだりする時間を、もっと大事にしたい。


 その気持ちは、研究への興味が薄れたから生まれたわけではない。


 研究を続けたいからこそ、研究だけに自分の全部を預けない。


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ向かった。


 ノアはすでに丸くなっていたが、アリシアが近づくと片目を開けた。


「もう寝るのか」


「うん。明日も学校だから」


「珍しく早いな」


「昨日より元気だけど、ちゃんと休みたいから」


「いい心がけだ」


「ノアに褒められた」


「調子に乗るな」


 アリシアは笑いながら掛け布を引き上げた。


 残る一件は、数日後に候補日を迎える。


 その日、実施できるかどうかはまだ分からない。


 結果も分からない。


 けれど、次の一件を待つあいだに、何もかもを研究へ差し出す必要はなかった。


 アリシアは目を閉じた。


 明日は学院で、友人とまた会える。


 それも、今の自分にとって確かに楽しみなことだった。

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