第275話 次の一件を急がないための一日
翌朝、アリシアが食堂へ入ると、窓際の席では子供が紙の風車を両手で持ち、どうすればよく回るのかを世話役と話していた。
昨夜まで降っていた雨はすっかり上がり、生活観測区画の庭には明るい日差しが戻っている。濡れた木々の葉が風に揺れるたび、窓から差し込む光も細かく動き、床には淡い緑色の影が重なっていた。食堂には焼きたてのパンの香りが漂い、朝食の準備をする人々の声が穏やかに響いている。
「アリシア、見て」
子供が風車を持ち上げた。
「昨日より回るようになったの?」
「うん。ここ、直した」
指さしたのは、紙を留めている中央の部分だった。昨日は少し傾いていた軸が真っ直ぐになり、羽根も互いに触れないよう調整されている。
「上手になったね」
「でも、風がないと回らない」
「そうだね」
「アリシア、風できる?」
アリシアは少し考えてから、首を横へ振った。
「できるけど、今日は普通の風で回してみようよ。せっかく外が晴れてるから」
「じゃあ庭?」
「朝ごはんのあとなら」
子供は嬉しそうに頷き、風車を壊さないよう窓際へ置いた。
アリシアはその向かいへ座り、用意されていた温かなスープを口へ運んだ。身体には昨日の人工刺激による痛みも息苦しさもなく、胸の弱い異常も再び現れていない。
昨夜は少し寝つきが悪かった。
原因は身体の不調ではなく、考え事だった。
東側奥部対象反応が確認され、西側対象反応も確認されたこと。自分には対象感覚の基準を満たさない、ごく弱い胸部異常があったこと。そして、新しい系列の残りが一件になったこと。
それらを思い返すうち、いつの間にか次の試験について考えていた。
(もう一回やったら、今度は違うかもしれない)
その期待は今朝になっても残っている。
けれど、今日は人工刺激を行わない日だ。
昨日の結果が一致だったからでも、不一致だったからでもない。新しい系列を設計した時点で、実施翌日は少なくとも一日、回復と遅発変化の確認に充てると決めていた。
「難しい顔してるぞ」
椅子の下からノアの声がした。
「そんな顔してた?」
「パンを持ったまま、ずいぶん長いこと眺めてた」
アリシアは自分の手元を見た。
確かに、ちぎったパンをまだ食べていなかった。
「昨日のこと、ちょっと考えてた」
「今日もやるのか?」
「やらないよ。今日は休む日」
「ならパンを食え。昨日の結果は逃げねえ」
「分かってる」
アリシアは笑ってパンを口へ運んだ。
子供が二人のやり取りを見ながら、不思議そうに首を傾げる。
「研究、休み?」
「人工刺激はね」
「アリシアも休み?」
「学校はあるよ」
「じゃあ休みじゃない」
「そうだね。でも研究を休む日でも、学校には行けるから」
子供は少し考えたあと、風車へ視線を戻した。
「じゃあ帰ってきたら庭」
「うん。雨が降らなかったらね」
アリシアが答えると、子供は満足そうに朝食を再開した。
その約束が、今日は少し嬉しかった。
◇
学院へ向かう道には、昨夜の雨で落ちた小枝がいくつか残っていた。
踏み固められた土はまだ湿っていたが、空気は澄んでいる。木々の間から差し込む朝日が道の水たまりへ映り、歩くたびに小さな光が揺れた。
アリシアはいつもより少し早く学院へ着いた。
教室へ入ると、友人が窓際で数人の生徒と話している。
「おはよう、アリシア!」
「おはよう」
「昨日どうだった?」
友人は近づいてくると、周囲に聞こえない程度まで声を落とした。
アリシアは鞄を机へ置きながら答える。
「予定してた試験はできたよ」
「身体、大丈夫?」
「うん。痛くなかったし、苦しくもなかった。今も変な感じはないよ」
友人はその返事を聞いて、肩の力を抜いた。
「よかった。昨日、帰ってからちょっと気になってたんだ」
「心配かけちゃった?」
「心配くらいするよ。友達なんだから」
何でもないことのように言われ、アリシアは少しだけ頬を緩めた。
「ありがとう」
「それで、結果は?」
「東と西が同じだった」
「前に違う結果があったって言ってたやつ?」
「うん。今回は両方とも反応が確認されたの」
「じゃあ、違う結果は出なかったんだ」
「そう。でも、それも最初から決めてた結果の一つだから」
友人は頷いたものの、すぐには言葉を続けなかった。
研究の細かな仕組みまでは知らない。それでも、アリシアが何かを期待していたことは分かったらしい。
「ちょっと残念だった?」
「……うん」
「そっか」
友人はそれ以上、残念がる必要はないとも、次はきっと望む結果になるとも言わなかった。
代わりに、アリシアの顔を覗き込む。
「でも、今日ちゃんと学校来てるし、元気そうで安心した」
「今日は研究の刺激をしない日だから」
「じゃあ放課後は?」
「帰るよ。子供と庭で遊ぶ約束したの」
「いいじゃん。今日は天気もいいし」
友人は笑った。
アリシアも頷く。
昨日の結果について、もっと詳しく話したい気持ちはある。
けれど、友人と話す時間をすべて研究へ使う必要はなかった。
「それより、次の合同実技なんだけど」
アリシアが自分から切り出すと、友人は嬉しそうに身を乗り出した。
「そうそう、それ! 昨日、班の人たちとも少し話したんだけど、次は中央の担当を変えてみようって」
「うん。私もその方がいいと思う」
二人は授業開始まで、次の実技について話し合った。
◇
午前の授業は、魔力の持続制御に関する講義だった。
教師は黒板へ複数の魔力曲線を描きながら、同じ総量の魔力でも出力の仕方によって維持時間が変わることを説明していた。
アリシアは授業内容を帳面へ書き写す。
研究で扱っている入力側の指標とは別の、学院の授業としての魔力制御だ。
似た言葉が出てきても、それを東西の研究へ結びつける必要はない。
授業の後半では、二人一組になって小さな魔力灯を一定の明るさで保つ練習が行われた。
アリシアは友人と組んだ。
「私が最初にやるね」
友人が魔力灯へ手をかざすと、淡い光が灯った。
最初は安定していたものの、しばらくすると少し明るくなり、続いて暗くなる。
「難しいなあ。一定って言われると、逆に気になる」
「明るくしようとしすぎなくてもいいんじゃない?」
「そう思ってるんだけど、暗くなりそうだと足しちゃうんだよね」
アリシアは友人の手元を見た。
光が弱くなると、友人の指先が少し強張る。
「少し暗くなっても、すぐに大きく足さなくていいかも」
「じゃあ小さく?」
「うん。先生も急に変えない方がいいって言ってたし」
友人は頷き、もう一度試した。
今度は多少の揺れが残ったものの、最初より穏やかな光を維持できた。
「おお、できた!」
「うん」
「次、アリシア」
魔力灯を受け取ったアリシアは、少しだけ呼吸を整えた。
闇属性の魔力を使って灯りの周囲を調整する課題は、単純に明るさを増やす魔法とは感覚が異なる。けれど、魔力の流れを細かく制御すること自体には慣れていた。
光が大きく揺れないよう、必要な範囲だけへ魔力を流す。
友人が隣でじっと見つめている。
「……すごい。あんまり揺れない」
「少しは揺れてるよ」
「それくらいなら十分じゃない?」
教師が近づいてきて、二人の魔力灯を確認した。
「よく調整できていますね。アリシアさんは細かな制御が安定しています。ただし、長時間続ける時には魔力を無意識に使いすぎないよう注意してください」
「はい」
「二人とも、次は交代する時の変化を小さくする練習をしましょう」
教師はそう告げて別の組へ向かった。
友人が小声で笑う。
「褒められたね」
「うん。でも、使いすぎないようにって」
「それは私も気をつけないと」
アリシアは魔力灯を机へ戻した。
授業の中で自分の得意なことを認めてもらえるのは嬉しい。
以前なら、闇属性というだけで周囲の反応を気にしていた。
今は、普通の授業の中で得意不得意を話せる。
それもまた、少しずつ変わってきたことだった。
◇
昼休みを終えた頃、アリシアは少し眠気を感じていた。
昨夜の寝つきが遅かったこともあり、午前中は問題なく過ごせたものの、昼食後になると身体が休息を求めているようだった。
痛みや胸部異常はない。
ただ、普段より少し眠い。
(今日は早く寝よう)
そう考えた時、昨日の試験後に決めた回復観察日の意味が、少しだけ身近に感じられた。
人工刺激による変化なのか、昨夜の睡眠不足によるものなのか、今の眠気だけでは分からない。
だから、勝手に原因を決めない。
アリシアは午後の授業を終えると、研究棟へ寄らずに生活観測区画へ戻った。
研究側には、予定どおり人工刺激を行わないことと、帰宅後の状態確認を通常の手順で行うことが共有されている。
今日の自分ができることは、無理に研究を進めることではなかった。
◇
生活観測区画の庭には、午後の柔らかな日差しが広がっていた。
雨上がりの土はまだ湿っているものの、石畳の上はすでに乾き始めている。庭の端では世話役が落ち葉を集めており、子供はその近くで紙の風車を持って待っていた。
「アリシア!」
「ただいま」
「晴れた!」
「うん。約束どおり遊べるね」
子供は嬉しそうに頷き、風車を差し出した。
「これ、持って」
アリシアが受け取ると、紙の羽根が弱い風を受けてゆっくり回った。
「回ってる」
「もっと速くなる?」
「風が強くなればね」
子供は庭の中央へ歩いていき、両腕を広げた。
「こっちの方が風ある!」
アリシアも後を追う。
確かに、建物の陰から少し離れると風が通りやすかった。
風車を持ち上げると、羽根が先ほどより速く回り始める。
「速い!」
子供が声を上げた。
アリシアは笑いながら、風車が壊れないよう持つ角度を少し変えた。
紙の羽根は風を受けて回り続ける。
ただそれだけの遊びだった。
どの角度で何回転したかを記録する必要もない。
風が弱まって止まれば、また吹くのを待てばいい。
子供は何度も場所を変えながら、風車が回る様子を楽しんでいた。
アリシアも付き合っていたが、しばらくすると少し疲れを感じた。
「ちょっと座ってもいい?」
「疲れた?」
「少し」
「じゃあ休もう」
子供はすぐに頷き、庭の端にある長椅子へ向かった。
アリシアが腰を下ろすと、子供も隣へ座る。
風車は二人の間に置かれ、弱い風を受けて時折ゆっくり回った。
「昨日の研究、もう終わった?」
子供が尋ねた。
「一回目は終わったよ」
「あと一回?」
「予定ではね」
「いつ?」
「まだ決めてない」
「なんで?」
「昨日やったばかりだから、今日は身体の様子を見る日なの」
子供はアリシアの顔を見た。
「痛くない?」
「痛くないよ」
「胸の変なのは?」
「今はない」
「じゃあ元気?」
「うん。でも、少し眠いかな」
「寝る?」
「今はまだいいよ」
子供は少し考えたあと、風車を持ち上げた。
「じゃあ、これ見てて」
「うん」
風車が回る。
風が弱まると止まる。
また少し吹くと回り始める。
アリシアはその様子を眺めながら、背中を長椅子へ預けた。
研究のことを考えないようにしているわけではない。
ただ、今は風車を見ている。
それでよかった。
◇
夕方の状態確認では、安全管理担当が生活観測区画を訪れた。
人工刺激を行わない日でも、前日に実施した試験のあとに遅れて現れる変化がないかを確かめる必要がある。
アリシアは庭から戻ったあと、いつもの確認場所で質問へ答えた。
「痛みは?」
「ゼロ」
「息苦しさは?」
「ゼロ」
「胸部異常は?」
「ゼロ。昨日のあと、もう一回感じたこともないです」
「頭痛、吐き気、めまいは?」
「全部ゼロ」
「疲労は?」
「三くらい」
「昨日より高いですね」
「学院の授業があったのと、昨夜少し寝つきが悪かったからだと思います。でも、どっちが原因かは分からないです」
安全管理担当は頷いた。
「そのまま記録しましょう。眠気についても、本人の申告として残します」
「はい」
「恐怖は?」
「二」
「次の試験を早くしたい気持ちは?」
アリシアは少し考えた。
「七」
「昨日は八でしたね」
「うん。まだ早く見たいけど、今日はやらないって決まってたから」
「今日、人工刺激を行いたい気持ちは?」
「……五くらい」
「もし設備が使えると言われたら?」
アリシアは少し困った顔になった。
「やりたいって思うかもしれない。でも、今日はやらない」
「その理由は?」
「回復日だから」
安全管理担当は静かに頷いた。
「分かりました」
記録用紙へ必要な内容が書き込まれる。
人工刺激なし。
痛み、息苦しさ、胸部異常の遅発出現なし。
軽い眠気あり。
疲労三。
本人は睡眠不足の可能性を挙げているが、原因は確定しない。
次回実施候補日は未定。
「明日になったら、二件目の日を決められますか?」
アリシアが尋ねた。
「明日以降、身体状態と学院予定を確認して相談することはできます」
「明日、必ず決めるわけじゃない?」
「はい」
「分かりました」
アリシアは少し安心した。
残り一件だからといって、すぐに日付を埋める必要はない。
それも、昨日までに決めた規則の一部だった。
◇
その日の夕方、研究棟では前日の記録の整理が続いていた。
若い観測員は、新しい独立前向き系列の一件目について、固定された主判定と副次記録が正しく分けられているかを確認していた。
東側奥部対象反応、確認。
西側対象反応、確認。
主判定、一致。
アリシアの既存対象感覚、非確認。
閾値未満の胸部主観異常報告あり。
予定入力成立。
安全上の中止なし。
そこまでを確認したところで、彼は別の紙へ視線を移した。
過去の三件の弱い胸部異常報告との比較を行うための資料ではない。
新しい系列の設計履歴だった。
この一件目の結果が出る前に、何を固定していたか。
それを確認するための記録である。
「次の候補日、まだ決まっていませんね」
若い観測員が記録担当へ言った。
「ええ。今日は回復観察日ですから」
「一件目が一致だったので、早く二件目を見たいという声も出そうですが」
記録担当は少しだけ手を止めた。
「出るでしょうね」
「研究側にも期待はあります」
「だから、結果で日程を変えないと決めたんです」
若い観測員は頷いた。
新しい系列は二件しかない。
一件目が一致だったからといって、二件目で不一致が出る確率が高くなるわけではない。逆に、一件目が一致だったから次も一致するとも言えない。
それでも人は、残る一件へ期待を乗せてしまう。
研究者も例外ではなかった。
「二件目が不一致だったら、どうなると思いますか?」
若い観測員が尋ねる。
記録担当は少し考えてから答えた。
「少なくとも、独立した新しい記録でも不一致が観察されたことになります」
「同じ向きなら?」
「方向についても記述できます。ただし、それだけで原因や仕組みが分かるわけではありません」
「二件目も一致なら?」
「この新しい二件では不一致が観察されなかった、という結果になります」
「旧系列の一件は?」
「消えません」
記録担当は設計履歴を閉じた。
「どちらになっても、過去の記録をなかったことにはできません。新しい結果を使って古い結果の意味を勝手に決め直すこともできません」
若い観測員は窓の外へ目を向けた。
雨上がりの空には、夕方の光が残っている。
彼自身も、次の一件が気になっていた。
だが、その気持ちを理由に予定を動かすことはできない。
そのために設計を固定したのだから。
◇
夕食後、アリシアは自室で学院の課題を終えた。
今日は研究帳面を開かないつもりだったが、夕方の状態確認で申告した内容だけは自分の記録にも残しておこうと思い、机へ向かった。
帳面には昨日の結果がすでに書かれている。
東確認。
西確認。
一致。
対象感覚非確認。
閾値未満胸部主観異常報告あり。
その下へ、今日の内容を書き足す。
『第一実施試行翌日。人工刺激なし。回復観察日。』
『痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ。昨日の弱い胸部異常は再出現していない。頭痛、吐き気、めまいもなし。』
『疲労三。軽い眠気あり。昨夜の寝つきが悪かったことや学院での活動が関係している可能性はあるが、原因は決めない。』
『次の実施候補日は未定。今日の一致という結果を理由に早めない。』
そこまで書いて筆を置いた。
まだ何か書きたい気がした。
昨日の主観異常について、前の三件との似ているところを並べたい。
東側と西側の時間配置も気になる。
入力側の数値も見たい。
けれど、それらを今日開く必要はない。
今は、新しい系列の一件目が終わり、その翌日の身体状態を確認したところだ。
(残り一件で、不一致が出なかったらどうしよう)
ふと、そんな考えが浮かんだ。
アリシアは筆を置いたまま、少し長く息を吐いた。
新しい系列を始める前にも、似た不安はあった。
二件と決めてしまえば、欲しい結果が出なくてもそこで終わる。
実際に一件目が一致だった今、その約束は以前より重く感じられる。
残る一件へ期待が集中するからだ。
(でも、二件目が一致でも、それが結果なんだよね)
そう思うと、少しだけ胸の緊張が緩んだ。
不一致が出てほしい。
その気持ちは変わらない。
けれど、出なかった時にもう一件追加したくなる自分がいることも、今は分かっている。
だからこそ、二件と決めた。
「また難しい顔してるぞ」
寝台の上からノアが言った。
「今日は研究しない日なのにね」
「帳面開いてる時点で怪しいな」
「身体の記録だけ」
「それで終わったのか?」
「うん」
アリシアは帳面を閉じた。
ノアは少しだけ目を細める。
「ならこっち来い」
「何?」
「寝る」
「まだ寝ないよ」
「昨日寝つき悪かったんだろ」
「……知ってたの?」
「何回も寝返り打ってりゃ分かる」
アリシアは少し恥ずかしくなった。
「起こしちゃった?」
「猫を甘く見るな。寝てても分かる」
「それ、起きてたんじゃない?」
「細けえこと気にすんな」
アリシアは笑いながら椅子を離れた。
寝台へ腰を下ろすと、ノアが当然のように隣へ身体を寄せてくる。
黒い毛並みへ手を伸ばし、ゆっくり撫でた。
ノアは何も言わない。
アリシアも、しばらく話さなかった。
窓の外では夜風が木々を揺らしている。
雨上がりの空には雲が少なく、月の光が庭へ淡く落ちていた。
「ノア」
「何だ」
「次の一件、楽しみ」
「そうか」
「でも、ちょっと怖い」
「知ってる」
「不一致が出なかったら、残念だと思う」
「だろうな」
「それでも、二件で終わる」
ノアは顔を上げた。
「お前がそう決めたんだろ」
「うん」
「なら、次の結果が出てからまた考えりゃいい」
「……そうだね」
アリシアは小さく頷いた。
次の一件で何が起きるかは分からない。
東と西が一致するかもしれない。
不一致になるかもしれない。
自分が何かを感じるかもしれないし、何も感じないかもしれない。
そのどれも、今夜の自分には決められない。
ただ一つ決まっているのは、今日が人工刺激を行わない日だったということだ。
昨日の結果が気になっても、次の一件を急がない。
身体に遅れて現れる変化がないかを確認し、学院へ通い、友人と授業を受け、子供と庭で遊ぶ。
その一日が終わった。
研究の数字は増えていない。
新しい判定も出ていない。
けれど、昨日の一件を終えたあとに必要な時間を、予定どおり過ごすことができた。
アリシアはノアの背中を撫でながら、静かに目を閉じた。
明日になれば、残る一件の候補日を相談することはできる。
けれど、明日必ず決める必要もない。
次の試験を待つ時間まで、研究に急かされるものにはしたくなかった。
そう思えるようになったことを、今夜は少しだけ嬉しく感じていた。




