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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第274話 候補日を、実施日に変えるのは



 目を覚ました時、アリシアが最初に感じたのは、身体の異常ではなく窓の外から聞こえる雨音だった。


 強い雨ではない。細かな雫が一定の間隔で窓硝子を叩き、ときおり森から吹き込む風が枝葉を揺らすと、その音だけが少し大きくなる。空は朝から薄い灰色に覆われており、生活観測区画の室内にも晴れた日ほどの明るさは入っていなかった。


 寝台の中で身体を動かしてみる。


 頭は重くない。胸にも異常はなく、息苦しさも痛みもない。昨日の学院で感じていた魔力使用後の疲れはすでに消えており、手足にも普段と違う感覚はなかった。


(調子は悪くない)


 そこまで考えたところで、昨日までとは少し違う緊張が胸の奥へ浮かんだ。


 今日は、新しい独立前向き系列の第一実施候補日だ。


 ただし、実施日ではない。


 昨日の研究室で、その違いを何度も確認した。


 今日になったから自動的に試験を受けるのではなく、学院の授業を終えたあと、その時点の身体状態を確認する。そして自分自身が参加したいと思っているかを確かめる。


 そこで初めて、候補日が実施日になる。


「……起きてるなら起きろ」


 低い声が聞こえた。


 寝台の足元を見ると、ノアが前足の間へ顔を埋めたままこちらを見ている。


「起きてる」


「知ってる。さっきから天井と会議してる顔してるからな」


「会議してないよ」


「じゃあ何してた」


「身体の調子見てた」


「それを会議って言ってんだ」


 アリシアは掛け布をどけて起き上がった。床へ足を下ろすと少し冷たかったが、それ以外に気になることはない。


「今日なんだろ」


「候補日」


「昨日からそこだけは絶対間違えねえな」


「大事だから」


「なら朝から実施するかどうか決めんなよ」


 着替えようとしていたアリシアの手が止まる。


 ノアは顔を上げたものの、それ以上こちらを見ることなく前足を舐め始めた。


「今の元気なお前が、放課後のお前の返事まで決めたら候補日にした意味ねえだろ」


「……分かってる」


「なら学校行ってこい」


「ノアもあとで来る?」


「必要ならな」


「来てほしい」


 言ってから、アリシアは少しだけ恥ずかしくなった。


 けれど取り消さなかった。


 ノアは一度だけ尻尾の先を動かす。


「じゃあ行く」


「うん」


 それだけで、朝の緊張が少し薄くなった。


     ◇


 雨は登校する頃にも続いていた。


 学院へ着くと、正面棟の入口付近には濡れた外套を払う生徒たちが集まっており、普段より少し騒がしい。石床には細かな水滴が残り、職員が滑らないよう布で拭き取っていた。


「おはよう」


 教室へ入るなり、友人が声を掛けてきた。


「おはよう」


「今日、研究の日?」


 鞄を置きながら尋ねられ、アリシアは少し迷ってから首を傾げた。


「候補日」


「候補?」


「今日の放課後に、やるかどうか決める」


「まだ決まってないんだ」


「うん」


「じゃあ今は?」


「授業」


「真面目」


「学生だから」


 友人は笑いながら自分の席へ戻った。


 その日の午前は魔法理論と一般教養が中心で、合同実技のように大きく魔力を使う授業はなかった。雨音が窓の外で続く中、教師の声と紙をめくる音が教室へ穏やかに重なる。


 アリシアも授業へ集中していた。


 それでも、完全に研究のことを忘れていたわけではない。


 ふと時計を見るたび、放課後までの時間を意識する。


(今なら、やりたい)


 午前の途中でもそう思った。


 けれど、それは今の気持ちだ。


 昼休みになれば変わるかもしれないし、授業が終わる頃には疲れているかもしれない。


 だから、決めない。


 そのこと自体が、今日は少し難しかった。


     ◇


 昼休み。


 雨のため中庭へ出られず、アリシアと友人は食堂の窓際で昼食を取っていた。


 窓の向こうでは石畳が濡れ、排水路へ細い水の流れができている。外へ出られない生徒が多いせいか食堂はいつもより混んでおり、周囲から話し声や食器の触れ合う音が絶えず聞こえていた。


「緊張してる?」


 友人が尋ねた。


「少し」


「怖い?」


「少し」


「やりたい?」


 アリシアはパンをちぎる手を止めた。


「今は、やりたい」


「じゃあやるんだ」


「まだ」


「まだなんだ」


「放課後の私が決めるから」


 友人はしばらくアリシアを見つめたあと、少し笑った。


「なんか変な感じ」


「何が?」


「朝のアリシアと昼のアリシアと放課後のアリシアが別の人みたい」


「別じゃないよ」


「分かってる。でも、朝元気だから放課後も絶対元気ってわけじゃないってことでしょ?」


「うん」


「それなら分かる」


 友人はスープを一口飲んだあと、少し声を落とした。


「嫌になったら、やらなくていいんだよね?」


「うん」


「じゃあいい」


「心配?」


「少しはね」


 友人は視線を皿へ落とした。


「研究のこと、私は詳しく分からないし。アリシアがやりたいなら止めるつもりもないけど、前に身体で変な感じがあったのは知ってるから」


 技術的な内容までは話していない。


 それでも、アリシアが身体の感覚も含めて研究へ参加していることを、友人は知っている。


「痛いことはしないよ」


「それでも嫌だったらやめてね」


「うん」


「約束」


「約束する」


 友人はそこでようやく安心したように笑った。


「じゃあ研究の話終わり。次の合同実技、中央誰やる?」


「もうその話?」


「大事でしょ」


 話題が切り替わる。


 アリシアもそれに乗った。


 午後の授業が始まるまで、二人は次の合同実技で誰がどの位置を試すか、班員たちが昨日話していた内容を思い出しながら話した。


     ◇


 放課後になる頃には、朝から続いていた雨がかなり弱くなっていた。


 授業を終えたアリシアは、教室で鞄を整えてから自分の身体へ意識を向けた。


 疲れてはいる。


 ただし、普段の授業を一日受けた程度の疲れだ。


 頭痛はない。


 吐き気もめまいもない。


 胸の異常もない。


 痛みも息苦しさもない。


(行ける)


 そう思う。


 その直後、別の問いを自分へ向けた。


(行きたい?)


 答えは、やはり同じだった。


(行きたい)


「アリシア」


 友人が鞄を肩へ掛けながら近づいてきた。


「行く?」


「うん。研究棟には行く」


「試験は?」


「向こうで決める」


「分かった」


 友人は一瞬だけ何か言いたそうにしたものの、結局は笑って手を振った。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 教室を出たアリシアは、雨上がりの廊下を研究棟へ向かった。


     ◇


 研究室の扉を開けた時、最初に目へ入ったのは装置ではなかった。


 机だった。


 中央の長机には、昨日まで使ってきた設計紙と状態確認用の記録用紙だけが置かれている。人工刺激に使用する装置は別室にあり、まだアリシアの前へ準備された状態ではなかった。


 それだけで少し安心した。


 自分が来る前から「今日は実施する」と決められていたわけではない。


「こんにちは」


 サラが声を掛ける。


「こんにちは」


 副学長、安全管理担当、記録担当、若い観測員もいる。


 ノアはまだ来ていなかった。


「まず座りましょう」


「はい」


 アリシアが椅子へ座ると、安全管理担当が向かい側へ腰を下ろした。


「今日は第一実施候補日です」


「はい」


「まだ実施は決定していません。最初に身体状態を確認します」


「お願いします」


 質問は、これまで使ってきたものと変わらない。


 疲労。


 痛み。


 息苦しさ。


 胸部異常。


 頭痛。


 吐き気。


 めまい。


 恐怖。


 そのほか本人が気になる変化。


 アリシアは一つずつ、自分の身体を確かめながら答えた。


「疲労は二」


「痛みは?」


「ゼロ」


「息苦しさ」


「ゼロ」


「胸の異常」


「ゼロ」


「頭痛、吐き気、めまい」


「全部ゼロ」


「恐怖は?」


 少し考える。


「四」


「朝より上がっていますか?」


「たぶん少し。でも、試験が近くなったからだと思う」


「ほかに気になることは?」


「ないです」


 安全管理担当が記録用紙を確認する。


「現時点で、安全基準による延期条件には該当しません」


 その言葉を聞いた瞬間、アリシアの胸が少し強く鳴った。


 実施できる。


 けれど、次がある。


 サラが設計紙を見ずにアリシアへ向き直った。


「今日は人工刺激の実施候補日です。身体状態とは別に確認します。アリシアさんは、今日の試験へ参加したいですか?」


 研究室が静かになる。


 誰も「準備できています」とは言わない。


 誰も「せっかく皆が集まった」とも言わない。


 装置も見えていない。


 アリシアは膝の上で両手を重ねた。


(やりたい)


 朝から何度も浮かんだ気持ちだ。


 けれど今は、朝の自分の答えではない。


 授業を終え、研究棟まで歩き、この椅子へ座った今の自分がそう思っている。


「参加したいです」


「理由は必要ありません」


「でも、言ってもいい?」


「もちろんです」


「結果を見たいから。昨日までに決めたやり方で、本当に新しい一件を作りたい」


 少しだけ息を整える。


「怖いけど、嫌ではないです」


 サラは静かに頷いた。


「分かりました」


 その時、扉の外から小さな音がした。


 ほどなくして扉が開き、ノアが入ってくる。


「遅い」


 アリシアが言うと、ノアは耳を動かした。


「まだ始めてねえだろ」


「今、参加するって言ったところ」


「じゃあ間に合ったな」


「うん」


 ノアはいつものようにアリシアの近くまで来ると、邪魔にならない位置へ座った。


 これで、候補日は実施日へ変わった。


     ◇


 それでも、すぐに装置室へ移動したわけではなかった。


 まず、今日の試験で何を見るかを短く確認する。


 確認は、結果を予想するためではなく、決めた設計から逸れていないかを見るためのものだった。


「予定実施試行数は二件。本日実施できれば一件目」


 副学長が読み上げる。


「予定入力が成立した時点で一実施試行として数える。入力成立前の中止は算入しない。入力成立後に主判定不能となっても一件として保持し、補充しない」


「はい」


「入力条件は固定済み安全範囲内、早期位置単一意図的小変動。新しい強度、速度、複数変動を導入しない」


「はい」


「主判定は東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定による一致・不一致」


 記録担当が四つの分類を確認する。


 東確認/西確認なら一致。


 東非確認/西非確認でも一致。


 東確認/西非確認なら不一致。


 東非確認/西確認でも不一致。


 不一致の場合、その方向を副次記録として保持する。


 アリシア自身の対象感覚は副次記録であり、東西の主判定へは含めない。


 対象感覚基準を満たさない何らかの主観報告があった場合も、その言葉をそのまま残し、既存の三件と同じものだと最初から決めない。


「変更したいところはありますか?」


 副学長が尋ねる。


 アリシアは設計紙を見た。


「ないです」


「今日の結果によって、二件という予定数は変更しない」


「はい」


「今日不一致でも、追加しない」


「はい」


「今日一致でも、増やさない」


「はい」


「今日の結果を理由に二件目を早めない」


「はい」


 アリシアは最後の返事をしたあと、少しだけ笑った。


「いっぱい確認するね」


「始めたら変えないためです」


「分かってる」


 そして、主観報告についての広い確認へ移る。


「何かを報告しなければならない、と感じていますか?」


 サラが尋ねる。


「二」


「感じていないものを探そうとしている感じは?」


 アリシアは少し迷った。


「三。胸のことは少し気になる。でも、探さないようにする」


「探さないように努力しすぎる必要もありません」


「あ……そっか」


「感じたことがあれば言う。なければない。それだけで構いません」


「はい」


 サラは、決めていた言葉をそのまま告げた。


「何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません」


 アリシアは一度だけ深く息を吸った。


「分かりました」


     ◇


 観測室へ移動すると、空気が少し変わった。


 研究室より静かで、機器の低い作動音だけが一定に続いている。東側奥部と西側の観測担当は別位置に配置され、互いの判定を先に知って影響されないよう、これまで固定してきた手順に従って記録する。


 アリシアから入力の細かな成立時点は分からない。


 担当者の動きや視線から予測しにくいよう、室内での位置や声掛けも揃えられている。


 ノアはアリシアから少し離れた場所へ座った。


 試験中は話さない。


 それも、以前から変わらない。


 安全管理担当が最後の確認をする。


「現在、痛みは?」


「ゼロ」


「息苦しさ」


「ゼロ」


「恐怖」


「四」


「中止したいですか?」


「いいえ」


「参加を続けますか?」


「はい」


 アリシアは椅子へ深く座り直した。


 手は膝の上。


 肩へ余計な力が入らないよう、一度だけ息を吐く。


(不一致、出るかな)


 浮かんだ。


 消そうとはしない。


(前と同じ向きだったら、たぶん嬉しい)


 それも事実だ。


 けれど、今から自分ができることはない。


 東側の反応を起こすことも、西側の反応を止めることもできない。


 自分の胸へ何かを感じさせることもできない。


 だから待つ。


 室内には機器の低い音が続いていた。


 誰もカウントしない。


 誰も「もうすぐ」と言わない。


 アリシアは前方の決められた位置へ視線を置いたまま、呼吸だけを普段どおりに続ける。


 数呼吸。


 さらに少し。


 何もない。


(まだ?)


 思った直後、自分で少し困った。


 入力がいつなのかを知らないのだから、「まだ」かどうかも分からない。


 それでも身体は待っている。


 胸へ意識が寄りそうになるたび、無理に遠ざけるのではなく、足裏が床へ触れている感覚や背中が椅子へ支えられている感覚も一緒に受け取った。


 その時だった。


 胸の中央より、わずかに左。


 ごく弱い何かが触れたような気がした。


 アリシアの眉が少し動く。


 冷たいとは思わない。


 痛くもない。


 けれど、普段と同じとも言い切れない。


「……今、少し変です」


 サラはすぐに詳細を決めつけない。


「場所を言えますか?」


「胸。真ん中より……少し左」


「痛みは?」


「ゼロ」


「息苦しさは?」


「ゼロ」


「強さを言えますか?」


 アリシアは感覚を追いかけすぎないよう気をつけながら答える。


「一より下。〇・五……くらい」


 口にした瞬間、既存三件と同じ数字になったことへ自分でも気づいた。


(同じって思っちゃ駄目)


 だが、その考えもすぐに言い換える。


(違う。今は、同じかどうかを決めない)


 感覚はまだわずかに残っている。


「変化していますか?」


「……少し弱くなってる」


 呼吸を一度。


 もう一度。


「今は?」


「……ほとんど、ない」


 さらに少し待つ。


「今は、ないです」


 サラはそのまま記録する。


 温度については尋ねない。


 アリシア自身も「冷たい」とは言わなかった。


 対象感覚の既存確認基準を満たしたという判断も、その場でアリシアへ告げられない。


 記録が続く。


 アリシアは自分の胸へ手を当てなかった。


 ただ、消えたあとの感覚を確かめるように静かに呼吸した。


(あった)


 嬉しさが少し出る。


(また似てる)


 そこまで思ってから、胸の奥がざわついた。


 似ているように感じる。


 けれど、まだそれだけだ。


 そして、肝心の東西判定は知らない。


     ◇


 予定された観測区間が終わるまで、追加の主観異常はなかった。


 痛みゼロ。


 息苦しさゼロ。


 胸部異常も消失後は再出現しない。


 頭痛、吐き気、めまいもない。


 安全管理担当が終了確認を行い、入力担当から予定入力が固定範囲内で成立したことが別経路で確認された。


「予定入力成立を確認しました」


 記録担当が告げる。


「本記録は、新規独立前向き系列の実施試行一件として保持します」


 アリシアの指先がわずかに動いた。


 一件目。


 今度は本当に、その言葉を使える。


 候補ではない。


 設計だけでもない。


 新しく作られた一件だ。


「主観記録の確認を先に行います」


 サラが言う。


 アリシアは頷いた。


 自分が報告した言葉を、必要以上に整えず確認する。


『今、少し変です』


『胸。真ん中より……少し左』


『一より下。〇・五……くらい』


『少し弱くなってる』


『今は、ないです』


 痛みゼロ。


 息苦しさゼロ。


 温度語なし。


 対象感覚の既存確認基準は満たさず、対象感覚非確認。


 ただし、閾値未満の主観異常報告として生の記録を保持する。


「前の三件と同じ?」


 聞きかけて、アリシアは口を閉じた。


 サラは急かさなかった。


「……今は決めないんだった」


「はい」


「似て見えるところはあるけど」


「それを記述することはできます。ただし、同一感覚種とはまだ扱いません」


「うん」


 アリシアは自分の胸元へ一度だけ視線を落とした。


 四件目。


 そう呼びたくなる。


 けれど厳密には、「既存対象感覚非確認の主観異常報告が新しい前向き記録でも一件生じた」としか、今は言えない。


 それでも、心は少し浮いていた。


 もう一度起きた。


 その事実だけで嬉しい。


「嬉しいですか?」


 サラに尋ねられ、アリシアは隠さなかった。


「少し。……かなりかも」


「それも記録しますか?」


「お願いします」


「理由は?」


「前と似て見える弱い感覚が、またあったから。でも、同じだって決まったわけじゃないのは分かってる」


「分かりました」


 記録担当の筆が動く。


 アリシアはその音を聞きながら、次の判定を待った。


     ◇


 東側と西側の判定は、それぞれ独立に確定されてから開示された。


 最初に東側。


「東側奥部対象反応――確認」


 アリシアの背筋がわずかに伸びた。


 東は、ある。


 胸の奥で期待が一気に強くなる。


(じゃあ、西がなかったら)


 以前と同じ向き。


 自分が見たいと思っていた結果だ。


 だが、まだ西側は開かれていない。


 アリシアは唇を閉じたまま待った。


 記録担当が東側の判定を固定欄へ記入し終える。


 そのあと、西側担当の確定記録が開示された。


「西側対象反応――確認」


 ほんの一瞬、アリシアは動かなかった。


 東、確認。


 西、確認。


 それは、すでに決めてある分類へ入る。


「……一致」


 アリシアが自分で言った。


「はい」


 サラが頷く。


「主判定は一致です。東確認/西確認」


 不一致ではなかった。


 前と同じ向きでもない。


 逆向きでもない。


 両方が確認された。


 アリシアは膝の上で組んでいた指へ少し力を入れた。


 落胆がないと言えば嘘になる。


(不一致、見たかった)


 かなり見たかった。


 それは昨日までに記録してある。


 だから、今がっかりしたことまで隠す必要はない。


「……ちょっと残念」


 アリシアは小さく言った。


「そう感じていますか?」


「うん。不一致が出てほしかったから」


「それで、この記録を失敗だと思いますか?」


 サラの問いに、アリシアはすぐには答えなかった。


 東と西は両方確認。


 自分には対象感覚基準を満たさない弱い胸部異常報告があった。


 入力も予定どおり成立した。


 主判定も可能だった。


 結果が欲しかった方向ではなかっただけだ。


「……失敗じゃない」


「なぜ?」


「一致も、最初から結果に入ってたから」


「はい」


「東も西もあるなら一致って、見る前に決めた」


 アリシアは息を吐く。


「だから、これは一致」


「その通りです」


「でも残念なのは残念」


「それもそのままで構いません」


 アリシアは少しだけ笑った。


「便利だね」


「何がですか?」


「研究の結果と、私が嬉しいかどうかを別にできるの」


 サラもわずかに表情を緩めた。


「分けて記録できる、という意味ならそうですね」


     ◇


 若い観測員は、アリシアの言葉を聞きながら別の記録紙へ視線を落としていた。


 新系列一件目。


 予定入力成立。


 東確認。


 西確認。


 主判定、一致。


 アリシア対象感覚、非確認。


 閾値未満主観異常報告あり。


 その並びは、過去の記録を知っている者にとって興味を引くものだった。


 東西がともに確認され、その一方でアリシアの既存対象感覚は確認されず、弱い胸部異常だけが報告されている。


 過去にも似て見える配置はある。


 だが、それを口にするのは簡単だった。


 そして、簡単だからこそ危うい。


 若い観測員は何も言わず、決められた欄だけを確認した。


 新しい一件を、過去のどれかへ急いで重ねない。


 それはアリシアに求めているだけの規則ではない。


 研究側にも同じだけ必要だった。


     ◇


「ここから先は、今日どこまで見ますか?」


 副学長が尋ねた。


 アリシアは少し驚いた。


「まだ見るものある?」


「詳細な時間配置や入力側の既知指標との関係など、見ようと思えばあります」


「……今日、見た方がいい?」


「こちらから勧めるつもりはない」


 アリシアは考えた。


 胸の弱い異常がまた起きた。


 東も西も確認された。


 今すぐ時間配置を知りたい気持ちはある。


 東側の中心がまた自分の主観窓より早かったのか。


 西側との重なりはどうだったのか。


 総偏差や立ち上がり時間はどうだったのか。


 次々と気になる。


 その一方で、今日の主質問はそこではない。


「今、詳しく見たい気持ち……八くらい」


「疲労は?」


「三」


「止まりにくさは?」


 アリシアは少し迷った。


「七」


 答えた瞬間、自分でも分かった。


 かなり高い。


 不一致が出なかったから、別のところに何か特別なものを探したくなっている。


(胸の変なのは出た。じゃあ、そこに何かあるかも)


 その考えが悪いわけではない。


 けれど今すぐ開く理由にはしなくていい。


「今日は見ない」


 アリシアが言った。


「理由を言えますか?」


「不一致じゃなかったから、別の面白いところを探したくなってる気がする」


 室内に短い沈黙が生まれた。


 副学長が頷く。


「妥当な自己認識だと思う」


「胸の異常がまたあったのは残したい。でも、今日すぐ前の三件と時間を比べたり、入力の数字を並べたりはしない」


「分かりました」


「それと……二件目を早くしたい気持ちもある」


「どのくらいですか?」


「八」


「今日の一致を見たから?」


「たぶん、かなり」


 アリシアは正直に答えた。


「もう一回やったら不一致かもしれないって思ってる」


「その気持ちは記録します。ただし、設計どおり明日は人工刺激を行いません」


「うん」


「明後日以降の候補日も、今日の結果を理由に早めません」


「分かってる」


 少し悔しい。


 けれど、それでいい。


 昨日決めた規則が、今日の自分を止めてくれている。


     ◇


 終了時の状態確認では、痛み、息苦しさ、胸部異常、頭痛、吐き気、めまいはいずれもゼロだった。


 疲労三。


 恐怖は二まで下がっている。


 今日の記録を詳しく見たい気持ち七。


 二件目を実施したい気持ち八。


 今日中に二件目の日を決めたい気持ち六。


 止まりにくさ六。


 アリシアは数字を言い終えたあと、自分から付け加えた。


「二件目の日、今日は決めない方がいいと思う」


「なぜですか?」


「一致だったから早く次を見たいって気持ちが強いから」


「分かりました」


「明日は刺激なし。それだけ決まってればいい」


「はい」


 記録担当が終了欄へ書き込む。


 新規独立前向き系列。


 実施一件。


 残る予定実施試行、一件。


 ただし次回候補日は未定。


 今日の結果による日程変更なし。


 アリシアはその文字を見つめた。


 一件終わった。


 あと一件。


 それでも、今夜や明日に次を詰め込むことはできない。


 最初からそう決めたのは、自分たちだった。


     ◇


 観測室を出たあと、ノアが廊下の窓辺で待っていた。


「終わったか」


「うん」


「生きてるな」


「見れば分かるでしょ」


「で?」


 アリシアは少し歩いてから答えた。


「東も西もあった」


「じゃあ同じか」


「一致」


「お前は?」


「対象感覚はなかった。でも……また胸に弱い変な感じがあった」


 ノアが歩みを少しだけ緩めた。


「痛かったのか」


「痛くない。苦しくもない。もう消えてる」


「なら今はそれでいい」


「〇・五くらいで、場所も前と似てて――」


「待て」


「何?」


「今から全部比べ始める気か」


 アリシアは口を閉じた。


「……研究室でも同じこと言われそうになった」


「言われたのか?」


「言われてない。自分で止めた」


「なら俺の仕事ねえじゃねえか」


「あるよ」


「何だ」


「聞く仕事」


「勝手に増やすな」


 アリシアは笑った。


 外へ出ると、雨は完全に上がっていた。


 濡れた道の上には夕方の光が反射し、森の葉からはまだ時折雫が落ちている。空気は冷たく湿っていたが、試験前に感じていた緊張はもうほとんど残っていなかった。


「不一致じゃなくて、ちょっと残念だった」


「だろうな」


「分かる?」


「昨日から不一致出ろって顔してたからな」


「顔に出てた?」


「お前は思ってるより出る」


「嫌だ」


「諦めろ」


「でも、一致も結果だから」


「それも昨日決めたんだろ」


「うん」


「なら終わりだ」


「ノアは簡単に言うね」


「難しく言ったら結果変わんのか?」


「変わらない」


「じゃあ今日は帰って飯食え」


「うん」


 その言葉に、今度は素直に頷けた。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供が入口近くまで来ていた。


 アリシアの姿を見るなり駆け寄ってくるわけではなく、数歩離れたところで立ち止まり、顔を見上げる。


「やった?」


「やったよ」


「痛かった?」


「痛くなかった」


「怖かった?」


「始める前は少し。でも、終わったら大丈夫」


「変なのあった?」


 アリシアは少し驚いた。


「少しだけ。でも、もうないよ」


 子供はアリシアの胸元を見る。


「ほんと?」


「ほんと」


「じゃあごはん食べられる?」


「食べられる」


「ならいい」


 子供は安心したように頷いた。


 それから、研究の結果を尋ねることもなく、今日世話役と作った紙の風車を見せてくれた。


 窓際へ持っていくと、外から入る弱い風でゆっくり回る。


「回った」


「うん」


「もっと風あると速い」


「今日は雨だったからね」


「明日は晴れる?」


「どうだろう」


 アリシアは子供の隣へ座った。


 重要な木箱は今日も閉じられたまま、いつもの場所に置かれている。


 顔のない存在も、少し離れた場所で穏やかに過ごしており、胸元の十一の光に目立った変化はない。


 新しい試験を一件終えたからといって、生活観測区画のすべてが同時に動くわけではなかった。


     ◇


 夕食後、アリシアはすぐに研究帳面を開かなかった。


 子供の紙風車がうまく回る場所を探すのに付き合い、そのあと湯を飲みながらノアと少しだけ話した。


 自室へ戻った頃には、窓の外はすっかり暗くなっている。


 机へ座り、まず学院用の帳面を開いた。


『通常授業。研究の候補日だったが、授業中に実施を決めなかった。友達に、嫌ならやめる約束をした。』


 それだけ書いて閉じる。


 次に研究帳面を開いた。


 昨日書いた『第一実施候補日』の横へ、小さく追記する。


『当日確認後、本人参加意思あり。実施。』


 そして新しい欄。


『新規独立前向き系列 実施試行一件目。』


『予定入力成立。固定済み安全範囲内・早期位置単一意図的小変動。実施試行として算入。』


『東側奥部対象反応=確認。西側対象反応=確認。主判定=一致。』


 そこまで書き、少しだけ筆が止まる。


 不一致を期待していた。


 けれど、紙の上には迷わず「一致」と書ける。


『不一致を期待していたため、結果開示時に残念と感じた。ただし一致は事前に定めた主判定上の正規の結果であり、失敗ではない。』


 次に自分の感覚。


『既存対象感覚=非確認。』


『主観報告あり。胸の中央より少し左。強度一未満、本人概算〇・五程度。痛みゼロ。息苦しさゼロ。弱くなったのち消失。温度語なし。』


『既存三件との類似点があるように感じたが、同一感覚とは扱わない。名称を付けない。詳細時間配置比較は本日行わず。』


 筆先が少し震える。


 四件目と書きたい。


 だが書かない。


 今までの三件と今回の一件が、本当に同じ現象かは分からないからだ。


 その代わり、別の一文を書く。


『新しい前向き記録でも、対象感覚基準を満たさない弱い胸部主観異常報告が一件生じた。』


 さらに、終了後の自分の状態を残す。


『一件目が一致だったため、二件目を早く見たい気持ちが強くなった。結果を理由に日程を早めない。明日は人工刺激なし。第二実施候補日は未定。』


 そこまで書き終え、アリシアは椅子の背へ身体を預けた。


 新しい問いを作り始めてから、ようやく一つの結果が出た。


 東と西は一致した。


 自分には、対象感覚ではない弱い異常があった。


 欲しかった不一致ではない。


 それでも、何も進まなかったわけではない。


(あと一件)


 その言葉が頭に浮かぶ。


 期待も浮かぶ。


(次は不一致かもしれない)


 けれど、アリシアは研究帳面を閉じた。


 次の一件は、今日の一致を打ち消すために行うものではない。


 今日の結果へ納得できないから追加するものでもない。


 最初から二件と決めた、その残りの一件だ。


「ノア」


 寝台の上で丸くなっていた黒猫が、面倒そうに顔を上げる。


「何だ」


「今日、やってよかった」


「そうか」


「一致だったけど」


「不一致じゃねえと『やってよかった』にならねえのか?」


「……違う」


「なら余計なもん付けんな」


 アリシアは少しだけ目を丸くした。


 それから笑う。


「うん。今日、やってよかった」


「じゃあ寝ろ」


「まだ早いよ」


「俺は寝る」


「猫だから?」


「猫だから」


 ノアは目を閉じた。


 アリシアは灯りを少し落とし、窓の外を見る。


 雨雲の切れ間から、わずかに星が見えていた。


 明日は人工刺激をしない。


 東西の詳細な時間配置も、入力側の数字も開かない。


 今日の弱い胸部異常を急いで既存三件と一つにまとめることもしない。


 新しい一件ができたからこそ、その一件へ答え以上のものを背負わせない。


 そして、残る一件を今日の結果の続きを取りに行くためのものにもしない。


 第一実施候補日は終わった。


 候補日を実施日に変えたのは、朝の体調でも、設備が使えることでも、研究者が揃っていたことでもなかった。


 放課後の自分が、安全を確認したうえで、それでも参加したいと答えたことだった。


 その事実を思い返すと、不一致が出なかった小さな残念さとは別のところで、アリシアの胸には静かな満足が残っていた。


 次にいつ試すのかは、まだ決めていない。


 だから今夜は、次の結果を先に想像し続けるより、今日作った一件を一件のまま置いておけばいい。


 アリシアは机の上の研究帳面から視線を外し、明日の学院で使う教本を鞄へ入れた。


 新しい系列は半分まで進んだ。


 けれど明日は、研究を進めない日だった。

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