第273話 始める日は、元気な日とは限らない
合同実技の最初の本格的な課題が始まった朝、アリシアは研究帳面を鞄へ入れなかった。
持っていこうと思えば持っていけたし、放課後に研究棟へ寄る可能性がまったくないわけでもない。それでも、今日は学院で初めて班の仲間たちと小規模魔力防壁を作る日だったため、朝から研究の続きを持ち歩く必要はないと思った。
生活観測区画の外には薄い霧が残っていた。昨夜から気温が下がったらしく、庭の草には細かな露がつき、朝日を受けるたび小さく光っている。窓を開けた時に入ってきた空気は冷たかったものの、頭はよく冴えていた。
疲労はほとんどない。
胸にも違和感はなく、痛みや息苦しさもない。頭痛、吐き気、めまいもなく、身体だけを見れば調子の良い朝だった。
(今日なら試験もできそう)
そう思った瞬間、アリシアは着替えの途中で手を止めた。
まだ実施日は決めていない。
それに、身体の調子が良い朝だからといって、その日の予定を急に人工刺激へ変えるわけではない。
「何固まってんだ」
寝台の端で丸くなっていたノアが、片目だけ開けた。
「今日、調子いいなって思って」
「結構なことじゃねえか」
「試験できそうって思った」
「で?」
「まだ決めてないから、やらない」
ノアはもう片方の目も開けた。
「一人で話終わってるじゃねえか」
「確認しただけ」
「誰に」
「自分に」
「朝から忙しいな」
アリシアは少し笑い、制服の袖を整えた。
「今日は合同実技だから」
「昨日騒いでたやつか」
「騒いでないよ」
「お前じゃなくて友達がな」
「……それは否定できない」
友人と同じ班になれたことは、今でも嬉しい。
今日は研究の前に、その時間を楽しみたかった。
◇
朝食の広間では、子供が世話役と一緒に果物の皮を小さな皿へ集めていた。
食べ終えたものを片づけているだけなのだが、形の違う皮を重ねようとしては崩し、そのたびにもう一度積み直している。
「何作ってるの?」
「山」
「片づけてるんじゃなかったの?」
「山にしてから片づける」
「遠回りしてるね」
「楽しいから」
子供は迷いなく答えた。
アリシアはそれ以上何も言わず、自分の朝食を食べ始めた。
研究なら、目的のない遠回りは減らした方がいい場面もある。
けれど朝食後の果物の皮を積むことに、効率など求めなくてもいい。
子供は三度目にしてようやく小さな山を完成させると、満足そうに眺めたあと、あっさり崩して片づけた。
「できたのに崩すの?」
「片づけるから」
「そっか」
「アリシアも学校?」
「うん。今日は友達と一緒に魔法使うんだ」
「戦う?」
「戦わないよ。壁を作る」
「本物の壁?」
「魔法の壁」
子供は少し考え、両手を前へ出した。
「こう?」
「たぶん、そんな感じ」
「壊れる?」
「失敗したら消えるかも」
「じゃあまた作る?」
「うん。授業だから」
子供は納得したように頷き、果物の皮を入れた皿を世話役へ渡した。
その様子を見ていたノアが、アリシアの足元で小さく欠伸をする。
「今日は壁作ってこい。研究の壁は明日でも逃げねえ」
「研究の壁って何?」
「知らん。今作った」
「適当」
「朝から真面目な話ばっかしてられるか」
アリシアは笑いながら席を立った。
◇
学院の実習棟は、普段より少し早い時間から人の出入りが多かった。
合同実技に使う小型結界具の点検が行われており、教師たちが壁際の器具を一つずつ確認している。天井近くの窓から差し込む光の中には細かな埃が浮かび、床には班ごとの立ち位置を示す白い線が引かれていた。
「こっち!」
友人がすでに班の場所へいた。
「早いね」
「楽しみだったから」
「昨日からずっとそれ言ってる」
「アリシアだって楽しみでしょ」
「うん」
今度は迷わなかった。
友人は一瞬だけ目を丸くしたあと、満足そうに頷く。
「よし」
「何が?」
「素直」
「最近そればっかり」
「前が素直じゃなさすぎたんだよ」
「そんなことない」
「ある」
向かい側にいた班員の男子生徒が、二人のやり取りを聞いて小さく笑った。
「仲いいんだな」
アリシアの肩が少しだけ上がる。
友人は平然としていた。
「仲いいよ」
「……うん」
アリシアも小さく続けた。
男子生徒はそれ以上からかうこともなく、「じゃあ連携は任せた」と冗談めかして言っただけだった。
それがありがたかった。
実技が始まると、班員たちは昨日の自己確認をもとに大まかな役割を決めた。
瞬間的な出力が得意な男子生徒が防壁の立ち上げを補助し、アリシアは形成された魔力の縁を安定させる。友人ともう一人の女子生徒は左右の偏りを補い、残る男子生徒が全体の状態を見ながら必要な箇所へ魔力を足す。
「最初から完璧に維持しようとしなくていい」
担当教師が各班を見回りながら声を掛けた。
「崩れた原因を一人に求めないこと。複数人で作る防壁は、一人の出力だけで決まるものではない。声を掛け合いながら調整しなさい」
開始の合図が出る。
班員の魔力が中央の結界具へ流れ込み、淡い半透明の膜が立ち上がった。
最初の数呼吸は安定していた。
ところが、右側の縁が急に明るくなったかと思うと、反対側が薄くなる。
「右、少し強いかも」
友人が言った。
「下げる」
男子生徒がすぐに応じる。
アリシアは中央を支えながら、薄くなった左側へ自分の魔力を回そうとした。
その瞬間、以前なら自分だけで埋めようとしていたかもしれない。
けれど今日は、隣にいる班員たちの魔力も感じている。
「左、私だけだと少し足りない」
声に出した。
「こっちから足す」
向かいの女子生徒が応じた。
二人分の魔力が重なり、防壁の左側が戻っていく。
しかし今度は中央がわずかに揺れた。
「アリシア、中央!」
「うん」
友人の声を聞き、アリシアは左右へ広げていた力を少し戻した。
防壁全体の光が均一になる。
その状態が数呼吸続いたところで、教師が終了を告げた。
魔力を抜くと、半透明の膜はゆっくり薄くなり、空気へ溶けるように消えた。
「できた?」
友人が息を吐きながら尋ねる。
「最後は」
「最初も壊れてないから成功だろ」
男子生徒が言った。
担当教師が近づいてくる。
「最初としては悪くない。ただし、右側の出力が上がった時に全員が右へ注意を向けすぎた。その結果、左と中央への反応が一拍遅れている」
「すみません」
右側を担当した男子生徒が反射的に謝る。
教師は首を横へ振った。
「だから一人の原因にするなと言っただろう。右が強くなったことより、ほかの四人がどう調整したかを見るんだ。次は声を早めに出してみなさい」
班員たちが頷く。
アリシアも、自分が左を一人で補おうとした瞬間を思い出した。
(ちゃんと言えてよかった)
胸の奥に、少しだけ達成感が残る。
研究で学んだからではない。
友人や班員と一緒に授業を受けて、失敗して、声を掛けて、少しだけ上手くいった。
それだけのことが嬉しかった。
◇
二度目の試行では、最初より声が増えた。
「右、上がる」
「中央そのまま」
「左、少し足すね」
「うん」
短い声掛けのあいだにも、それぞれが防壁の揺れを見ながら出力を調整する。アリシアも黙って抱え込まず、必要な時だけ自分の状態を伝えた。
最後まで完全に均一とはいかなかったが、一度目より長く安定した。
終了後、友人が両腕を伸ばしながら笑う。
「楽しい!」
「疲れた」
「でも楽しかったでしょ?」
「うん」
「今日、素直すぎない?」
「どっちがいいの?」
「今の方」
友人は笑った。
班員たちも少しずつ緊張が解けたようで、次回は立ち位置を一部変えてみようという話が自然に始まった。
アリシアはその輪の中にいた。
会話の中心ではない。
それでも、誰かが意見を求めれば答え、自分から一度だけ「中央を担当する人を変えてみてもいいかも」と提案することもできた。
教室を出る頃には、魔力を使った分だけ身体に心地よい疲れがあった。
◇
「今日、研究行くの?」
昼食の席で友人に尋ねられ、アリシアは自分の腕を軽く動かした。
「行かない」
「即答だ」
「実技で魔力使ったし」
「疲れた?」
「少し。でも、研究できないほどじゃないと思う」
「じゃあなんで?」
アリシアは少し考えた。
「今日できるからって、今日やる必要ないから」
友人はパンを持ったまま瞬きをした。
「研究、今日できるなら今日やるものじゃないの?」
「前はそう思ってた」
「今は?」
「試験の日を決めるなら、学院で何する日かも見て決めたい」
「今日みたいな実技の日は避ける?」
「たぶん。その方が、試験の前から疲れてるとか考えなくていいし」
「じゃあ次の実技いつ?」
「数日後」
「その間にやるの?」
「まだ分からない。研究の人たちと決める」
友人は少し考え、スープへ匙を入れた。
「元気な日にやればいいじゃん」
「それも、ちょっと違うかも」
「なんで?」
「朝元気でも、急に今日やろうって決めるのは違う気がする」
「難しいね」
「うん」
「じゃあ私は、実技の日だけ覚えとく」
「なんで?」
「アリシアが忘れて研究入れたら言うため」
「忘れないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
友人が笑った。
アリシアも笑い返した。
◇
その日は研究棟へ行かなかった。
放課後は生活観測区画へ戻り、子供と少し話し、夕食まで自分の部屋で学院の課題を進めた。
研究帳面も開かなかった。
翌日も人工刺激はなかった。
学院では通常授業が続き、資料修復の選択授業では、以前から扱っている練習用紙の状態を確認しながら次の工程へ進んだ。持ち帰れる段階にはまだ達していなかったものの、担当教師から「急いで終わらせるものではない」と言われ、アリシアも素直に頷いた。
その日の放課後。
前日の合同実技による疲れも残っておらず、身体状態も安定していたため、アリシアは研究棟へ向かった。
研究室には副学長、サラ、安全管理担当、記録担当、若い観測員が揃っていた。
机上には、新しい前向き系列の設計紙が置かれている。
二件。
入力成立後は判定不能でも一件。
結果による補充なし。
東西の確認/非確認による一致・不一致が主判定。
不一致方向は副次記録。
アリシアの対象感覚とその他の主観報告も副次記録。
そこまでが、すでに固定されている。
「今日は実施日の相談をしたいです」
アリシアが席へ着いて言った。
副学長が頷く。
「その前に、開始前確認の手順を固定する」
「はい」
「日を決めても、その日に必ず実施するとは限らない。その線引きを先に作っておく」
アリシアは設計紙へ視線を落とした。
日程が決まれば、いよいよ試験が近づく。
その実感が、昨日までより少し強かった。
◇
安全管理担当が、従来使ってきた基準を一つずつ確認した。
新しい系列だからといって、安全基準を作り直すことはしない。
冷感については二で相談し、二・五以上なら即時停止。
恐怖は五で相談、六で停止。
痛み一、息苦しさ一があれば即時申告し、安全判断へ移る。開始前に存在する場合は原則として延期を検討する。
疲労五以上なら延期。
四なら必ず相談。
三以下でも、本人が普段と違う、参加したくない、無理をしていると感じる場合は延期できる。
そして、数値にかかわらず明確な拒否があれば実施しない。
「ここまでは変えない?」
アリシアが確認する。
「変えません」
「新しい試験だから厳しくする、とかも?」
「現時点では必要ありません。入力条件自体を従来の固定済み安全範囲から広げない設計だからです」
「逆に、慣れたから緩くするのも?」
「しません」
「分かりました」
次に、安全基準とは別の参加意思確認が話題になった。
サラが紙へ二つの欄を作る。
「ここを混ぜないようにします」
「身体と、気持ち?」
「大まかにはそうです。安全基準を満たしていることと、本人が今日参加したいことは別です」
アリシアは前日の朝を思い出した。
身体は調子が良かった。
試験もできそうだと思った。
けれど、合同実技があった。
仮に研究側が「身体状態が良いから今日やりましょう」と言ってきたら、以前の自分なら断りにくかったかもしれない。
「安全なら、やっていい。でも、安全だからやらなきゃいけないわけじゃない」
「その通りです」
「参加したいが低かったら?」
「理由を説明する義務はありません」
「怖さが六じゃなくても?」
「はい」
「身体全部ゼロでも?」
「はい」
アリシアはゆっくり頷いた。
安全値が悪くないから断る理由がない、とはしない。
「じゃあ、実施前に『今日やりますか』って聞く?」
「そうします。ただし、研究者側が圧力をかけないよう質問順も固定した方がいいでしょう」
若い観測員が口を挟んだ。
「先に『今日は予定日です』『装置は準備できています』『皆待っています』と強調してから意思を聞くと、断りにくくなる可能性があります」
「あ……それ嫌かも」
「なので、まず身体状態と安全確認。その後、今日は人工刺激予定候補日であることを簡潔に確認し、参加意思を聞く。参加意思がなければそこで終了します」
「理由は?」
「本人が言いたければ記録できますが、求めません」
「やりたくない、だけでもいい?」
「十分です」
アリシアは少し安心したように息を吐いた。
「それ、書いてほしい」
記録担当の筆が動く。
『予定実施候補日であっても、当日の実施を義務化しない。安全確認と本人参加意思を別に確認する。』
『明確な不参加意思がある場合、理由の提示を参加者へ要求せず人工刺激を実施しない。』
『不参加・延期を予定実施試行の失敗または実施試行一件として数えない。予定入力成立前であるため、実施試行数には算入しない。』
アリシアが最後の一文を見て尋ねる。
「それだと、何回でも延期できる?」
「本人意思による延期という意味では、回数上限を設けません」
「研究が終わらなくても?」
「終わらない可能性はあります」
副学長が答えた。
「予定二件は、必ず二件実施する義務ではない。実施できた場合に二件で系列を閉じるという上限だ」
「一件もやらないまま終わることもある?」
「本人が今後参加しないと決めれば、ある」
「その時は?」
「予定二件、実施ゼロ件で終了した事実を残す」
アリシアはしばらく黙っていた。
(それでも研究なんだ)
何も実施できなければ、知りたい答えは増えない。
けれど、研究のために自分が二件を差し出さなければならないわけではない。
「分かりました」
その言葉は、思ったより静かに出た。
◇
次に、開始直前の期待確認をどこまで行うかを決めた。
これまでの経験から、アリシアにはすでに明確な期待がある。
東確認・西非確認という以前と同方向の不一致をもう一度見たい。
閾値未満の弱い胸部異常も、比較できる形で再び起きてほしい気持ちがある。
一方、具体的な身体部位や感覚種類を試験直前に繰り返せば、主観報告を誘導する可能性がある。
「毎回、胸の異常が起きてほしい気持ち何点、って聞くのはやめる?」
アリシアが尋ねた。
「実施直前には避ける方がよいと思います」
サラが答える。
「系列開始前の期待として、現在の内容はすでに記録されています。当日は広い確認に留めましょう」
「何を聞く?」
「何かを報告しなければならないと感じているか。感じていないものを探そうとしていないか。そして、何も感じないこともそのまま記録になると確認する」
「東西の結果の期待は?」
「装置側の判定ですから、主観報告ほど直接の誘導にはなりませんが、毎回細かく尋ねる必要はありません。本人から変化を感じたと申し出た場合に記録する方法でよいでしょう」
「じゃあ、私が『今日は不一致が出そう』って思ったら言う?」
「言いたければ言えます。ただし、言わなければならないとはしません」
アリシアは頷いた。
期待を記録することと、期待ばかり探すことは違う。
そこも、少しずつ分かるようになっていた。
固定する直前確認は簡潔になった。
身体安全確認。
本人参加意思。
何かを報告しなければならないという圧力感の確認。
そして固定の注意。
『何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません。』
「これ、前と同じ言葉でいい」
アリシアが言う。
「変えない方がいい?」
「少なくとも今回、変える必要はないでしょう」
「じゃあ同じにして」
サラが頷いた。
◇
「では日程だ」
副学長が学院予定表と研究棟側の運用表を机へ並べた。
アリシアは少し姿勢を正した。
いよいよ、数字や規則ではなく日付の話になる。
「まず、明日はどうだ?」
問いかけられた瞬間、アリシアの胸がわずかに跳ねた。
「できるの?」
「設備と人員だけなら可能だ。ただし、可能であることと実施することは別だ」
学院側の予定を見る。
明日は通常授業。
選択授業も合同実技もない。
放課後の必須行事もない。
研究棟側も、東側奥部と西側の両観測担当を揃えられる。装置の事前確認時間も確保できる。
「身体の調子が今日みたいなら……」
アリシアは言いかけて止まった。
明日の身体は、まだ分からない。
「明日の状態は明日見る」
「そうだ」
「でも、候補日にはできる」
「できる」
サラがアリシアを見る。
「候補日にしたいですか?」
アリシアは自分の内側を確かめた。
怖さはある。
昨日まで設計紙の上にしかなかった試験が、急に明日の放課後という具体的な時間を持とうとしている。
胸の奥が少し落ち着かない。
けれど逃げたいわけではない。
「したいです」
「では第一実施候補日を明日とします。ただし当日の確認を通過し、本人が参加を希望した場合のみ実施」
「はい」
「実施できた場合、その翌日は人工刺激なし」
「はい」
「第二候補日は、その回復日を挟んだあとに改めて決める」
アリシアが瞬く。
「今、二回目の日まで決めないの?」
「決めることもできる。ただ、学院予定と一件目後の身体状態を見ずに固定する必要はない」
「一件目の結果で決めない?」
「日程は結果の一致/不一致では変えない。だが安全状態や学院予定では変えられる」
「じゃあ、一件目が一致だったから早く二件目をやる、とかは駄目」
「駄目だ」
「不一致だったから確認したくて早くするのも?」
「同じく駄目だ」
「身体が元気でも?」
「結果を理由に回復間隔を縮めない」
アリシアは頷いた。
「じゃあ、明日一件目ができても、その次の日は絶対に人工刺激なし」
「原則として、ではなく今回の系列では固定してもよい」
安全管理担当が口を開く。
「既存運用でも翌日は原則刺激なしですが、今回については少なくとも一日を回復観察日にすると明記できます。状態に応じてそれ以上空けることは可能。短縮はしない」
「それがいい」
アリシアはすぐに答えた。
記録担当が追記する。
『各実施試行後、少なくとも翌一日は人工刺激を行わず回復・遅発変化確認日とする。状態、学院予定、本人意思により間隔を延長できる。結果の一致/不一致を理由として間隔を短縮しない。』
「これなら、一件目がどうなっても次の日は休み」
「はい」
「二件目の日は、そのあと決める」
「はい」
設計の最後の大きな空白が、少し埋まった。
◇
けれど、まだ一つ残っていた。
「入力条件」
アリシアが自分から言った。
「前と同じ?」
「そこも正式に固定しておこう」
副学長が答える。
新しい系列で使う候補は、固定済み安全範囲内の早期位置単一意図的小変動。
旧系列で使用したものと同じ基本条件であり、強度を上げない。速度を変えない。複数変動にしない。以前の不一致を再現したいからといって、最後の不一致記録の細かな波形へ似せるための新しい局所調整もしない。
「前の不一致をもう一回見たいから、前の時と完全に同じ波にする、はやらない?」
「そもそも自然揺れを含むため、完全に同じ波形を作ることは目的にしない」
「じゃあ、決めてある入力条件の範囲を使う」
「そうだ」
「東側の始まる前の状態が違っても?」
「それを結果前に操作して揃えることはしない」
「前に平均傾きとか変動性を見たけど、それで開始を選ばない?」
「選ばない」
アリシアは少し考えた。
「もし始まる前に、東側が前の不一致の時と似てるって分かったら?」
「今回、その情報を用いて実施可否を決めない。観測上必要な安全・装置確認とは分ける」
「私にも言わない?」
「試験前に不要な期待を増やす情報は提示しない」
「分かりました」
また一つ、欲しい結果へ近づけるための道が閉じられた。
不思議と、嫌ではなかった。
むしろ安心する。
明日、不一致が起きるように条件を寄せるのではない。
不一致が起きるかどうかを、決めた条件の中で見る。
◇
設計紙の最後に、今日固定された内容が整理された。
『入力条件:固定済み安全範囲内・早期位置単一意図的小変動。新規強度、新規速度、複数意図的変動を導入しない。過去の不一致記録へ局所波形を似せるための事後的調整を行わない。』
『東側事前状態の平均傾き・変動性等を、実施選択や入力調整の条件として用いない。』
『第一実施候補日:翌学院日放課後。設備・人員の事前確認を行う。』
『当日、安全確認後に本人参加意思を独立確認する。不参加の場合は入力を行わず、実施試行へ算入しない。』
『実施直前の主観確認は広い報告圧力確認に留め、具体的身体部位・感覚種類・強度・発生時点を誘導しない。』
『固定注意文:何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません。』
『実施後少なくとも翌一日は人工刺激なし。結果によって回復間隔を短縮しない。』
『第二実施候補日は第一実施試行後の回復確認および学院予定を踏まえ、結果の方向とは独立に決定する。』
アリシアは最初から最後まで読んだ。
二件。
一致か不一致。
不一致には二つの向きがある。
自分の感覚は副次記録。
入力条件は広げない。
身体が安全でも、嫌ならやらない。
明日は候補日であって、実施義務日ではない。
「これで、明日やるかもしれないんだね」
「はい」
サラが答えた。
「怖さは?」
アリシアは少し考える。
「四」
「参加したい気持ちは?」
「八」
「明日実施したい気持ちは?」
「八」
「前と同じ向きの不一致を見たい気持ちは?」
「七」
「弱い胸部異常を再確認したい気持ちは?」
「六」
「何か報告しなければならないと感じていますか?」
「今は二」
「止まりにくさは?」
「五」
サラが記録する。
「今日、このまま人工刺激をしたい気持ちは?」
その問いには、アリシアも少し驚いた。
けれど自分の中を探すと、答えはすぐに見つかった。
「六」
「実施可能だと言われたら?」
「……やりたくなる」
「でも?」
「今日は候補日じゃない」
「はい」
「だからやらない」
サラが微笑んだ。
「では設計はここで終了です」
アリシアは大きく息を吐いた。
明日。
その言葉が、ようやく現実のものとして胸へ落ちてきた。
◇
研究室を出たあと、若い観測員は記録担当と二人で設計紙をもう一度確認していた。
アリシアの姿が廊下の向こうへ消えてから、彼は小さく息を吐く。
「ずいぶん時間をかけましたね」
記録担当が紙を揃えながら答える。
「かける必要があったと思います」
「私もです」
以前なら、既存の安全条件があり、入力方法もあり、東西の観測方法もあるのだから、旧系列終了後にすぐ新しい試験へ入ることも技術的にはできた。
だが、それでは最後に観察された不一致へ引っ張られたまま、追加試行を別名で続けただけになりかねない。
今回は違う。
旧系列を閉じた。
新しい問いを作った。
件数を決めた。
何を一件と数えるかを決めた。
主判定を決めた。
不一致の方向を分けた。
主観報告の役割を分けた。
安全と本人意思を分けた。
回復日を決めた。
そして、ようやく第一候補日を置いた。
「明日、不一致が出れば研究室はざわつくでしょうね」
若い観測員が言う。
「一致でもざわつく人はいるでしょう」
「どちらでも、ですね」
「だから今日決めたんです」
記録担当は設計紙の一番上を軽く指で押さえた。
「明日の結果を見てから、この紙を直さないために」
若い観測員は頷いた。
期待があるのは、アリシアだけではない。
研究者側にもある。
だからこそ、紙に書かれた規則はアリシアを縛るためだけのものではなかった。
◇
生活観測区画へ戻る道で、ノアは今日もアリシアの少し前を歩いていた。
空は夕焼けに染まり始め、木々の隙間から差し込む橙色の光が道の上へ細長く伸びている。
「明日になった」
アリシアが言った。
「何が」
「試験」
ノアの耳が少し動いた。
「決まったのか」
「候補日」
「また細けえな」
「大事なの」
「明日になって嫌ならやらねえってやつか」
「うん」
「じゃあ候補で合ってるな」
アリシアは歩きながら、自分の手を見た。
「今はやりたい」
「そうか」
「怖いのもある」
「そうか」
「もっと何か言わないの?」
「何を言えってんだ」
「分からないけど」
ノアは少し歩いてから振り返った。
「明日のことは明日決めりゃいいだろ」
「それだけ?」
「今日の体調で明日の体調決められんのか?」
「無理」
「じゃあ終わりだ」
あまりにも簡単な言い方だった。
それでもアリシアは、そのくらいでいいのかもしれないと思った。
「ノアは明日来る?」
「行けるならな」
「試験中は静かにしてね」
「誰に言ってんだ」
「ノア」
「今まで黙ってただろ」
「確認」
「研究者みてえな確認すんな」
「猫なんでしょ?」
「そうだよ」
アリシアは笑った。
◇
夕食後、子供は床へ座り、小さな布を二枚重ねていた。
何を作っているのか尋ねると、「布団」と答える。
「誰の?」
「これ」
布を少し持ち上げると、その下には丸い木の駒が一つ寝かされていた。
「昨日転がしてたやつ?」
「疲れたから寝る」
「木の駒も疲れるの?」
「いっぱい転がったから」
「そっか」
アリシアは隣へ座った。
子供が布の端を整える。
「アリシアも疲れた?」
「今日はそんなに」
「明日研究?」
少し驚いた。
「覚えてたの?」
「二回するって言った」
「うん。明日、一回目をするかもしれない」
「かもしれない?」
「明日になって、身体が大丈夫で、私もやりたいって思ったらする」
「やりたくなかったら?」
「しない」
「怒られない?」
「怒られないよ」
子供はしばらくアリシアを見た。
「じゃあいいね」
「うん」
「痛かったら?」
「すぐ言う」
「怖かったら?」
「それも言う」
「ノアもいる?」
「たぶんね」
「ならいい」
子供は安心したように木の駒へ布を掛け直した。
アリシアはその横顔を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
明日の試験で何が起きるかは分からない。
けれど、自分が嫌だと言えることを、子供にも説明できた。
以前の自分なら、それをここまで自然に言えただろうか。
◇
夜の机には、学院用の帳面と研究帳面が並んだ。
アリシアは先に学院用を開く。
『合同実技、一回目。班で小規模魔力防壁を作った。最初は右が強くなって左と中央が少し崩れた。二回目は声を増やして少し安定した。』
その下へ書く。
『一人で足りないところを埋めようとせず、「少し足りない」と言えた。友達と同じ班で楽しかった。ほかの班員とも話せた。』
そこまで書くと、自然に笑みが浮かんだ。
次に研究帳面。
『新規独立前向き系列――設計固定を継続。人工刺激なし。』
今日決まった内容を、一つずつ自分の言葉で書き直す。
『身体が安全基準内でも、本人が参加したくなければ実施しない。候補日は実施義務日ではない。拒否理由は必須ではない。』
『予定二件は「必ず二件受ける」という意味ではなく、実施できる場合に結果を理由として二件を超えないための上限でもある。』
『入力は固定済み安全範囲内、早期位置、単一意図的小変動。強くしない。速さを新しく変えない。二回動かさない。前回の不一致へ波形を似せるための調整をしない。』
『東側事前状態を見て、前回に似た日にだけ試験することもしない。』
『第一実施候補日は明日の放課後。明日の身体状態と本人意思を確認してから決める。』
『実施した場合、翌日は必ず人工刺激なし。必要ならもっと空ける。結果が気になるからという理由で短くしない。』
『二件目の日は、一件目の結果ではなく、回復状態、学院予定、本人意思を見てあとで決める。』
そして、固定注意文もそのまま写した。
『何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません。』
書き終えたところで、アリシアは筆を置いた。
明日。
ついに一件目を実施するかもしれない。
(不一致、出るかな)
すぐに思う。
(胸の変な感じも、またあるかな)
それも思う。
期待している。
かなり。
けれど、その期待を消す必要はない。
明日、東も西も確認されるかもしれない。
両方とも確認されないかもしれない。
東だけかもしれない。
西だけかもしれない。
自分は何か感じるかもしれないし、何も感じないかもしれない。
どれが出ても、すでに決めた分類へ入れる。
気に入らないから名前を変えない。
そして一件目がどんな結果でも、それを理由に二件目を増やしたり消したりしない。
ただし、明日の自分が嫌なら、やらない。
アリシアはそこまで考えてから、研究帳面を閉じた。
窓の外には雲が少なく、細い月が森の上へ浮かんでいる。生活観測区画は静かで、重要な木箱が開かれる気配もなければ、顔のない存在の十一の光にも目立った変化はない。
六つ目の神器の正体は、まだ分からない。
東と西がなぜ時に揃い、なぜ一度だけ異なる判定になったのかも分からない。
三件の弱い胸部異常が同じものなのかさえ分からない。
明日の一件で、それらすべてが解けることもない。
アリシアはもう、それを分かっていた。
一件目は一件目だ。
答えではなく、新しい問いに対して初めて作る一つの記録。
だからこそ、明日の朝に身体の調子が良くても、それだけで実施は決まらない。
研究棟へ着いても決まらない。
安全確認をして、自分の気持ちを確かめ、それでも参加したいと思えた時に初めて始まる。
アリシアは寝台へ入り、掛け布を胸元まで引き上げた。
「ノア」
「何だ」
「明日、やりたいって思えるかな」
「知らん」
「即答」
「明日のお前に聞け」
暗がりの中で、アリシアは小さく笑った。
「うん。そうする」
今日の自分は、明日試したいと思っている。
それだけを残して、明日の自分の答えまで先に決めない。
新しい系列の第一実施候補日は、ようやく決まった。
けれど、最初の一件が本当に始まるかどうかは、まだ誰にも決められていなかった。




