第272話 不一致にも、向きがある
合同実技の組み分け表が掲示されたのは、予告どおり朝の一番早い時間だった。
アリシアが学院の正面棟へ入った時には、廊下の奥にある大きな掲示板の前へすでに十人以上の生徒が集まっていた。夜の冷えが石造りの床にまだ残っている一方、東側の高窓からは明るい朝日が斜めに差し込み、生徒たちの肩や髪を淡い金色に照らしている。いつもの連絡事項が貼られている時とは明らかに違い、誰かが名前を見つけるたびに小さな歓声や落胆の声が上がっていた。
「アリシア!」
声の方を見ると、友人が人の隙間から手を振っていた。
「もう見た?」
「見た。アリシアは?」
「まだ」
「じゃあ早く来て」
「押さないでね」
「押さないよ。たぶん」
「たぶんは嫌」
友人のところまで近づくと、彼女は掲示板の中央より少し下を指した。紙にはいくつかの班が記され、その下へ生徒の名前が並んでいる。
アリシアは上から順番に追いかけようとして、すぐに友人から「そこじゃない」と小声で笑われた。
「ここ」
指先の先に、自分の名前があった。
その二つ下には、友人の名前もある。
「……同じ」
「同じ!」
友人が嬉しそうに声を上げたため、近くにいた生徒が何人か振り返った。アリシアは反射的に肩を縮めたものの、今日は逃げるように視線を落とすことはなかった。
「よかった」
「うん。よかった」
「今の、ちゃんと聞いたからね」
「何を?」
「アリシアが自分から『よかった』って言った」
「それくらい言うよ」
「最近はね」
友人が笑う。
アリシアは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、もう一度組み分け表を見た。
同じ班にはほかにも数人の名前がある。普段の授業で何度か一緒になった生徒もいれば、挨拶程度しか交わしたことのない者もいる。合同実技は選択授業とは別で、複数の得意分野を持つ生徒が同じ課題へ取り組むためのものらしい。
「何やるんだろうね」
「午後に説明あるって」
「緊張する?」
友人に尋ねられ、アリシアは少し考えた。
「三くらい」
「また数字」
「あ」
二人のあいだに一瞬だけ間ができ、そのあと友人が吹き出した。
「研究が染みついてる」
「今のなし」
「もう聞いた」
「忘れて」
「嫌」
「なんで?」
「面白かったから」
アリシアは小さく息を吐いたが、本気で困ってはいなかった。
昨日までなら、研究のことを考えていた余韻が学院へ持ち込まれたようで少し嫌だったかもしれない。けれど今朝は、数字が口から出たことまで含めて友人と笑える。
それで十分だった。
◇
午前の授業が終わったあと、合同実技の説明は中庭に面した実習棟で行われた。
広い実習室には長机がいくつも置かれ、班ごとに座る位置が決められている。壁際には魔力測定用の器具や練習用の小型結界具、木製の標的などが整然と並び、普段使う教室より天井も高かった。
アリシアと友人は同じ長机へ座った。
向かい側には二人の男子生徒と一人の女子生徒が座り、最初は互いに少し遠慮があったものの、担当教師から「今日の説明中に役割を決める必要はない」と言われると空気が少し緩んだ。
合同実技の最初の課題は、複数人で小規模な魔力防壁を安定維持するものだった。
一人で強い魔力を出すことが目的ではない。得意属性や魔力量に差がある複数人で、一つの防壁を一定時間維持する。そのため、誰か一人が突出して強く押せばよいわけでもなく、逆に全員を同じ出力へ揃える必要もないらしい。
説明を聞きながら、アリシアは素直に興味を持った。
(できるかな)
不安はある。
人と呼吸を合わせる課題は、一人で魔法を使う時とは違う。失敗すれば自分だけではなく班全体へ影響するため、以前の自分ならその時点でかなり身体を硬くしていたと思う。
ところが隣から、友人が小声で囁いた。
「同じ班でよかったでしょ」
「授業中」
「まだ説明」
「それでも」
「でもよかったでしょ?」
アリシアは前を向いたまま、少しだけ笑った。
「……うん」
それ以上の言葉はいらなかった。
説明が終わったあと、班ごとに簡単な自己確認をする時間が与えられた。得意な魔法、苦手なこと、魔力を長く維持する方が得意か、瞬間的に強く出す方が得意かといった内容を共有する。
アリシアは自分の番になると一瞬だけ緊張したものの、必要以上に小さな声にはならなかった。
「闇属性が中心です。細かく調整する方が……たぶん、得意です。大きく出すよりは」
向かいの男子生徒が頷く。
「じゃあ維持側に向いてそうだな。俺は逆で、一気に出す方が得意なんだ」
「私は補助系が多いかな」
もう一人の女子生徒も続き、友人は自分の得意分野を簡単に説明した。
誰もアリシアの闇属性を聞いて身構えなかった。
以前なら、そのことに気づいた瞬間こそ強く意識してしまったかもしれない。
今は少し違う。
班員たちは、ただ次の実技でどう組み合わせるかを考えている。
(普通に、同じ班の一人なんだ)
胸の奥がわずかに温かくなる。
その感覚を、アリシアは研究帳面へ記録しようとは思わなかった。
◇
昼休みになると、友人は上機嫌だった。
「絶対楽しいよ」
「まだ実際にやってないよ」
「でも同じ班だし」
「それだけ?」
「大事でしょ」
「……大事だけど」
「ほら」
食堂へ向かう廊下には、別の班になった友人同士が互いの組み分けについて話している姿が多い。中には少し残念そうな者もいたが、教師側も固定班だけで全課程を進めるわけではなく、途中で組み合わせを変える場合があると説明していた。
友人は歩きながら、ふと思い出したようにアリシアを見る。
「今日は研究?」
「まだ決めてない」
「昨日、二回にしたんだよね」
「うん」
「今日もう一個決めるんじゃないの?」
「決めてもいいけど、今日じゃなきゃいけないわけじゃないから」
「へえ」
友人が妙な顔をした。
「何?」
「前より研究に行かなくなった?」
「行ってるよ」
「そうじゃなくて、行かなきゃって感じが減った」
アリシアはすぐには答えなかった。
自分では、研究への興味が減ったとは思わない。
むしろ新しい試験をやりたい気持ちは強い。
東側と西側の不一致がもう一度起きるのか知りたい。弱い胸の異常がまた起こるのかも気になる。六つ目の神器との関係があるのかないのか、その手掛かりだって欲しい。
それでも、友人の言うことには心当たりがあった。
「……急がなくなったのかも」
「いいこと?」
「たぶん」
「じゃあ今日は?」
「午後の授業が終わった時に考える」
「それでいいじゃん」
友人はあっさり言って、食堂の扉を開けた。
アリシアもそのあとへ続いた。
◇
結局、その日のアリシアは研究棟へ向かった。
ただし、学院の授業を終えてからすぐではない。
友人と少し中庭を歩き、合同実技の話をしてから別れた。友人は「次は実際に防壁作るんだから、勝手に全部支えないでよ」と冗談めかして言い、アリシアは「そんなことしない」と返した。
研究棟へ到着した頃には、午後の日差しがかなり傾いていた。
昨日と同じ研究室には、副学長、サラ、記録担当、若い観測員がいた。安全管理担当は別の業務中で、人工刺激を行わない今日の設計会議には必要時のみ呼ばれる予定になっている。
机上には昨日の設計紙が置かれていた。
予定実施試行数、二件。
入力成立を一実施試行と数える規則。
結果による増減をしないこと。
安全と本人意思がそれらに優先すること。
そこまではすでに書かれている。
「今日はどうしますか?」
サラが尋ねた。
研究者側から「続きを決めましょう」と先に進めるのではなく、まずアリシアへ意思を確認する。
「主判定を決めたいです」
「実施日まで?」
アリシアは少し考えた。
「そこまでは、今日は決めなくていい」
「分かりました」
「あと……主観のことも、できたら」
「対象感覚と、閾値未満胸部異常の扱いですね」
「うん。でも、疲れたら途中でやめます」
「そうしましょう」
短い状態確認では、身体症状に問題はなかった。
疲労二。
恐怖三。
新しい設計を進めたい気持ち八。
今日、主判定を固定したい気持ち九。
人工刺激を早く実施したい気持ちは六。
止まりにくさ四。
昨日よりも、少し落ち着いている。
「では、主判定から」
副学長が設計紙を自分の方へ引き寄せた。
「昨日までの仮の問いでは、『東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定の不一致が、独立した追加記録でも再観察されるか』としていた」
「はい」
「このままでは、一つ確認しておくべき点がある」
アリシアは紙を見る。
「不一致の向き?」
「そうだ」
旧系列で観察された不一致は、東側奥部対象反応が確認、西側対象反応が非確認だった。
東があり、西がない。
しかし、確認判定が一致しない状態には、もう一つの向きが存在する。
東が非確認で、西が確認。
「もし新しい試験で、東がなくて西だけあったら……」
アリシアが言葉を止める。
それは以前の不一致とは逆だ。
「それも不一致?」
「それを今決める」
副学長の答えは簡潔だった。
◇
記録担当が白紙の中央へ線を引き、四つの組み合わせを書いた。
東確認/西確認。
東非確認/西非確認。
東確認/西非確認。
東非確認/西確認。
アリシアは上から順番に眺める。
「前の決め方なら、上の二つが一致」
「そうだ」
「下の二つが不一致」
「そうなる」
「でも、私が見たいのは……」
アリシアは三番目を見た。
東確認。
西非確認。
以前、実際に観察された向き。
「これが、もう一回出るか」
「その期待は昨日までにも記録されている」
「うん」
「だからこそ、主判定を『以前と同方向の不一致が出るか』にするか、『東西の確認判定が不一致になるか』にするかを、結果前に区別しておく必要がある」
アリシアは四番目を見る。
東非確認。
西確認。
これが起きた時、自分はどう感じるだろう。
(たぶん、びっくりする)
そして、少し困る。
欲しかったのは三番目だからだ。
「四番目が出たら、私……違うって思うかもしれない」
「何が違う?」
「見たかったのと」
「現象としては?」
「東と西が違う」
「なら、主質問が単に『東西の確認判定が一致するか』なら、不一致になる」
「うん」
「一方、『以前と同じ方向の不一致が再現するか』を主質問にすれば、逆方向は目的とした再現ではない」
その違いは大きい。
アリシアはしばらく紙を見た。
「前と同じのを主にした方がいいのかな」
「理由は?」
「それが出たから、新しい試験をしたくなったから」
「それは一つの考え方だ」
副学長は否定しなかった。
「ただし、旧系列で最初から『東確認・西非確認』という方向を予測していたわけではない」
「あ……」
「旧系列の主判定は一致/不一致だった。その中で、最後の記録が東確認・西非確認という方向の不一致になった」
アリシアは少し眉を寄せた。
つまり、以前の結果を見てから、その向きだけを特別にした。
それ自体が悪いわけではない。
新しい問いは過去の結果から生まれることがある。
けれど、何を確かめるのかは明確にしなければならない。
「私は、二つ気になってる」
アリシアはゆっくり言った。
「不一致がもう一回あるかも気になるし、前と同じ向きになるかも気になる」
「それなら、役割を分ける方法があります」
サラが言った。
「主判定を一致/不一致にして、不一致だった場合の方向を副次的に記録する方法です」
「逆向きでも、主判定では不一致?」
「はい」
「でも、どっち向きだったかは残す」
「残します」
「前と同じ向きだったかも分かる」
「分かります。ただし、二件という小さな系列ですから、方向ごとの頻度を精密に比較するためのものにはしません」
アリシアは紙へ視線を戻した。
四つの組み合わせ。
上二つが一致。
下二つが不一致。
そのうえで、下二つは別々の向きとして記録する。
「それがいい」
「理由を言えますか?」
「私が欲しい向きだけを不一致にしたくないから」
言葉にしてから、アリシアはもう少し考えた。
「東があって西がない時だけ不一致にして、東がなくて西だけあった時を別のものにしたら……結果を見てから都合よく狭くしたみたいになる」
「今回は結果を見る前なので、狭く定義すること自体が必ずしも誤りではありません」
若い観測員が補足する。
「ただ、あなたが知りたいことが『東西判定の不一致そのものが独立記録でも起きるか』なら、方向を限定しない方が問いと合っています」
「うん。それが知りたい。あと、その中で前と同じ向きかも見たい」
副学長が頷いた。
「では、主判定案を固定しよう」
記録担当の筆が動く。
『主判定:東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定の一致・不一致。』
『東確認/西確認=一致。』
『東非確認/西非確認=一致。』
『東確認/西非確認=不一致。』
『東非確認/西確認=不一致。』
『不一致時の方向は副次記録として保持する。』
アリシアは読み返した。
「これなら、逆でも消えない」
「消えません」
「でも前と同じなら、同じ向きだったって書ける」
「書けます。ただし、それだけで同じ仕組みだとは言えません」
「分かってる」
アリシアは少し口元を引き締めた。
「同じ結果でも、原因が同じとは限らない」
「その通りです」
◇
次は、アリシア自身の感覚をどう扱うかだった。
記録担当が別の欄を作る。
「今までと同じなら、私の対象感覚は主判定には入れない?」
アリシアが尋ねる。
「今回の主質問が東西二領域の確認判定ですから、その方が自然です」
サラが答えた。
「あなたの主観を軽視するという意味ではありません」
「それはもう大丈夫」
以前なら、自分の感覚が主判定から外れると聞くだけで、自分が研究に必要ないと言われたように感じたこともあった。
今は違う。
問いによって、主になる記録が変わる。
自分の身体で感じたことは重要でも、何を確かめる試験なのかによって役割を分けられる。
「対象感覚は副次記録?」
「そうする案です」
「弱い胸の変なのも?」
サラは頷いた。
「そこを分けておきたいと思います」
アリシアは少し身を乗り出した。
「どう分けるの?」
「既存の対象感覚の確認基準を満たした場合は、対象感覚確認として記録します。満たさない主観報告があった場合は、 raw――」
サラは一度言葉を止めた。
「生の報告内容をそのまま残します。ただし、これまでの三件と似ているように見えても、最初から同じ種類だとは扱いません」
「名前を付けない?」
「付けません」
「胸じゃなかったら?」
「そのまま別の主観報告として残します」
「強さが〇・五じゃなかったら?」
「そのまま記録します」
「冷たいって言ったら?」
「その言葉を記録します」
「言わなかったら?」
「足しません」
アリシアは頷いた。
これまでの三件は、胸の中央から少し左寄りに感じた弱い異常という点で似ていた。
強度もおよそ〇・五。
短く、薄れて消えた。
痛みも息苦しさもなかった。
けれど、最初の一件には温度を断定しない形で「冷たい」という語が入り、後の二件には温度語がない。
それらを今から一つの名前でまとめれば、新しい試験で似た何かが起きた時、その名前に引っ張られるかもしれない。
「試験の前に、『胸の左に弱い変な感じがあるか見てください』って言わない?」
「言いません」
「〇・五くらいの感覚を探して、とも?」
「言いません」
「前と同じのが起きるかも、とも?」
「言いません」
「私が自分で期待してるのは?」
「それは別に記録できます。ただし、期待を消すために詳しい感覚の説明を繰り返すことはしません」
アリシアは胸元へ手を置きかけ、途中で止めた。
今は何も感じていない。
だから、わざわざ探す必要もない。
「対象感覚がなかったら、なし」
「はい」
「でも、対象感覚じゃない何かを感じたら、そのまま言う」
「はい」
「何もなかったら、何もなかったって言う」
「その通りです」
そこまで確認すると、少し安心した。
◇
記録担当が文章へまとめていく。
『アリシアの既存対象感覚確認/非確認は副次記録とし、東西一致/不一致の主判定へ含めない。』
『対象感覚確認基準を満たさない主観報告が生じた場合、身体部位、本人の語彙、概算強度、持続・変化、痛み、息苦しさ等を既存の安全・記録方式に従って保持する。』
『既存の閾値未満胸部異常報告三件との類似性を試験中に前提化しない。新規主観報告へ既存三件を一つの感覚種として表す名称を付与しない。』
『試験前に具体的な身体部位、感覚種類、強度、発生時点を示して報告を誘導しない。』
アリシアは最後の一文を見ながら尋ねた。
「でも、私が今もう胸の左を気にしてるのは消せないよね」
「消せません」
副学長が答える。
「そして、消えたことにもしない」
「期待として残す?」
「そうだ」
「前と同じ向きの不一致を見たいのも?」
「残す」
「弱い胸の異常がまた起きてほしいのも?」
「残す」
アリシアは少し恥ずかしくなった。
「起きてほしいって、変かな」
「なぜ?」
「身体の変な感じなのに」
「痛みや苦しさを望んでいるわけではないでしょう?」
サラの問いに、アリシアはすぐ頷いた。
「痛いのは嫌。苦しいのも嫌。強いのも嫌。でも、前のあれがもう一回あったら、比べられるから」
「なら、そのまま記録すればいいと思います」
「結果に影響しない?」
「影響する可能性がゼロだとは言えません。だから期待が存在することを残します。ただし、期待があるから主観報告を無効にするわけでもありません」
以前にも確認した考え方だ。
期待は補正係数ではない。
期待が高いから報告を消すわけでも、低いから証拠を強くするわけでもない。
それでも、今度は新しい系列を始める前に、自分が何を望んでいるかをもう一度言葉にしておく意味がある。
「今、前と同じ向きの不一致を見たい気持ち……七」
アリシアは少し考える。
「弱い胸の異常がまた起きてほしい気持ちは六。対象感覚そのものが出てほしい気持ちは……四くらい」
「東西が不一致なら、アリシア自身の感覚は何でもいい?」
若い観測員の問いに、アリシアは首を傾げた。
「何でもいい、は違う」
「では?」
「何も感じなくても、そのまま見たい。でも……本当は、何かあった方が嬉しいと思う」
「それも記録しましょう」
「うん」
「報告しなければならないと感じる圧力は?」
アリシアは少し時間をかけた。
「二」
「何か探さなきゃ、という感じは?」
「三。今、話してたから少し上がった」
サラが頷く。
「そこも残します。ただし実施直前には、具体的な胸部異常の話を繰り返さず、広い確認だけにしましょう」
「何も感じなくても記録になる、っていうのは言ってほしい」
「それは固定の確認として残せます」
「お願いします」
◇
ここまで決めたところで、サラが一度話を止めた。
「疲労はどうですか?」
「三」
「頭の重さは?」
「少し。痛いわけじゃない」
「続けたい気持ちは?」
アリシアは設計紙を見る。
主判定は決まった。
不一致の向きも副次記録として残すことになった。
自分の感覚も、主判定から分けたうえで消さずに記録する。
次に考えるなら、具体的な実施日や、開始前の確認手順になるだろう。
「七」
「今日、実施日まで決めたい気持ちは?」
「……五」
「止まりにくさは?」
「四」
昨日より落ち着いている。
それなら続けてもよいのかもしれない。
けれど、アリシアはすぐに「続けます」とは言わなかった。
「今日はここまででもいい?」
「もちろんです」
「明日、合同実技があるかもしれないし」
「学院予定を確認してから日程を決める方が自然でしょう」
「じゃあ、今日はここまで」
副学長も異論を挟まなかった。
「実施日は次回以降。安全確認と本人意思確認の具体的な手順も、その時に改めて確認しよう」
「はい」
アリシアは椅子の背へ少し身体を預けた。
昨日は、止まりにくさが六まで上がってから終えた。
今日は四。
続けられないから止めるのではなく、今日決める必要のあるところまで来たから止める。
その違いが、自分でも少し分かる。
◇
研究室を出る前に、アリシアは今日固定した主判定をもう一度読み返した。
東確認、西確認。
一致。
東非確認、西非確認。
一致。
東確認、西非確認。
不一致。
東非確認、西確認。
不一致。
以前の自分なら、三番目だけを特別に見たくなったかもしれない。
今だって見たい。
その気持ちは消えていない。
けれど、四番目が起きた時に「欲しかった不一致じゃないから違う」と扱うのは嫌だった。
「逆向き、出たらどう思うかな」
独り言に近い声で言うと、サラが答えた。
「それは、出てから感じればいいと思います」
「今決めなくていい?」
「感情まで前向きに固定する必要はありません」
アリシアは思わず笑った。
「それはそうか」
「驚いても、嬉しくても、困っても、その時の反応です」
「じゃあ、研究の判定だけ先に決める」
「はい」
紙を閉じる。
まだ実施日はない。
装置も動いていない。
人工刺激もない。
それでも昨日より、新しい系列の輪郭はかなり明確になった。
◇
帰り道、ノアはしばらく何も聞かなかった。
学院から生活観測区画へ続く道には薄い雲の影が落ち、森の奥では鳥の声が時折聞こえている。朝より気温は上がったものの、風には少し冷たさが混じっていた。
「聞かないの?」
アリシアの方から言う。
「何を」
「研究」
「言いたいなら勝手に言うだろ」
「聞いてほしい時もあるよ」
「面倒な女だな」
「ノアが聞かなすぎるの」
「昨日は聞きすぎって顔してたぞ」
「顔で判断するのやめて」
ノアは尻尾を揺らしながら歩き続ける。
「で?」
「不一致の決め方を決めた」
「日本語が怪しいな」
「怪しくないよ」
「説明してみろ」
アリシアは歩きながら、できるだけ研究用語を減らして話した。
「東と西が両方あるなら同じ。両方ないのも同じ。東だけあるのと、西だけあるのは違う」
「それで?」
「前は東だけあったの」
「知ってる」
「私はそれがもう一回出てほしい。でも今度、西だけあったとしても『違うのは違う』って数える」
「なるほどな」
「どう思う?」
「別に」
「それだけ?」
「東だけ違うってことにしたら、東だけ見たいだけだろ」
「……うん」
「なら両方見るならそれでいいんじゃねえの」
ノアらしい答えだった。
「あと、私の感覚は主な判定に入れない」
「お前が何も感じなくても東西が違えば不一致ってことか」
「うん」
「胸の変なのが出たら?」
「それは別に残す。でも前の三回と同じって最初から決めない」
「名前も?」
「付けない」
「なら『胸の変なの』でいいな」
「それも名前みたいになるから駄目」
「面倒くせえ」
「研究だから」
「便利な言葉だな」
アリシアは笑った。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は今日は木片の町では遊んでいなかった。
小さな布袋を膝へ載せ、中に入っていた丸い木の駒を一つずつ転がしている。床には浅い木皿が置かれ、転がった駒が縁に当たるたび、軽い音を立てて止まった。
「何してるの?」
「転がしてる」
「それだけ?」
「うん」
子供は楽しそうだった。
何かを分類しているわけでも、順番を記録しているわけでもない。ただ転がり方を見るのが面白いらしい。
アリシアは隣へ座った。
「一個やっていい?」
「いいよ」
木の駒を一つ受け取り、床へ軽く転がす。
少し曲がりながら進み、木皿の外側へ当たって止まった。
「入らなかった」
「もう一回」
「いいの?」
「遊びだから」
子供は当然のように言った。
アリシアはもう一度同じ駒を転がした。
今度は皿の縁をかすめ、中へ入る。
「入った」
「うん」
「じゃあ次」
子供は別の駒を渡してくる。
アリシアはそれを受け取った時、一瞬だけ研究のことを思い出しかけた。
一回目で入らなかったから、もう一回。
二回目で入ったから、次。
けれど、すぐにその考えを追い払った。
これは遊びだ。
何回転がしてもいい。
飽きたらやめてもいい。
研究の規則を持ち込む必要はない。
アリシアは三つ目の駒を転がし、今度は皿から大きく外れたのを見て子供と一緒に笑った。
◇
夜。
学院用の帳面には、合同実技の組み分けについて少し長めに書いた。
『友達と同じ班になった。嬉しかった。班のほかの人とも話せた。闇属性と言っても普通に役割の話になった。最初の課題は小規模魔力防壁の共同維持。まだ実施していない。』
少し迷ったあと、最後へ付け足す。
『同じ班でよかったと、自分から言えた。』
それから研究帳面を開く。
昨日の二件という数字の下へ、今日決めた内容を書く。
『主判定は東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定の一致・不一致。』
四つの組み合わせも書き写す。
『東確認/西確認=一致。東非確認/西非確認=一致。東確認/西非確認=不一致。東非確認/西確認=不一致。』
『不一致の方向は副次記録として保持する。前回と同方向だけを不一致として扱わない。』
アリシアは筆先を止め、少しだけ考えた。
『私は、前回と同じ東確認/西非確認をもう一度見たいと思っている。でも、その期待と主判定は分ける。』
次に、自分の感覚について記す。
『対象感覚は副次記録。主判定には入れない。対象感覚基準を満たさない主観報告があれば、生の言葉・場所・強さ・変化・痛み・息苦しさ等をそのまま残す。以前の三件と同じものだと先に決めない。名前を付けない。』
『試験前に胸の左、〇・五、冷たさ等を具体的に言って探させない。何も感じないことも記録になるという確認は残す。』
そして未決定欄。
『具体的実施日。』
『実施直前の安全確認・本人意思確認の最終手順。』
筆を置く。
二日前には、まだ「新しい試験をやりたい」と言っただけだった。
昨日、二件と決めた。
今日は、その二件で何を見るかを決めた。
まだ人工刺激は一度も行っていない。
急いでいるようで、以前よりずっとゆっくり進んでいる。
「今日は三回目って書いてないな」
寝台の上からノアが言った。
「まだ言うの?」
「確認だ」
「書いてない」
「よし」
「ノア、研究員みたい」
「やめろ」
「嫌なの?」
「面倒が増えそうだ」
「じゃあ何?」
「猫」
「それは知ってる」
「なら聞くな」
アリシアは笑いながら帳面を閉じた。
明日、新しい試験が始まるとは限らない。
実施日はまだ決めていない。
学院には合同実技があり、資料修復の授業も続いている。生活観測区画へ戻れば子供がいて、ノアがいて、研究とは関係なく過ぎる時間もある。
その中に、二件だけの新しい前向き系列が置かれようとしている。
東と西が同じになるのか。
違うのか。
違うなら、どちらの向きなのか。
自分は何かを感じるのか。
何も感じないのか。
まだ何一つ分からない。
けれど、どの結果を不一致と呼ぶのかだけは、結果が存在しない今のうちに決めた。
欲しい向きはある。
期待もある。
それでも、欲しくなかった向きが出た時に、それを無かったことにはしない。
アリシアは消灯前の薄暗い部屋で、閉じた研究帳面へ一度だけ視線を向けた。
次に決めるのは、いつ始めるか。
そして始める日には、設計を決めた自分とは別に、その日の自分が本当に参加したいかをもう一度確かめる。
そこまで残してあることが、今夜は少し安心だった。




