第270話 始めると決めても、今日はまだ始めない
朝の光が生活観測区画へ差し込む頃、森には昨夜の冷気がまだ残っていた。
空はよく晴れている。窓辺から見える枝の先には露が光り、遠くでは鳥の声が何度か重なっていた。ここ数日に比べると風も弱く、閉じた窓の向こうにある景色だけを見れば、穏やかな一日になりそうだった。
アリシアは寝台の上で身体を起こし、いつもの確認を始めた。
疲労は一。
痛みはない。
息苦しさもない。
胸の中央から少し左へ意識を向けても、冷たさや違和感は感じない。頭痛、吐き気、めまいもなく、ここ数日続いている安定した状態と大きな違いはなかった。
身体だけなら、問題はない。
だからこそ、今日は別のことを考えなければならなかった。
(やるか、やらないか)
昨日、研究棟で最後に残した問いだった。
東側奥部と西側の確認判定に起きた不一致を、独立した新しい記録でもう一度確かめる。
以前の試験を延長するのではない。
終わった試験へ一件足すのでもない。
過去の結果から生まれた新しい問いとして、もし確かめるなら新しい前向き設計にする。
昨日は、そこまで整理した。
そして次に決めるのは、試行数ではなかった。
実施するかどうか。
アリシア自身が、新しい人工刺激を伴う試験へ進むことを選ぶかどうかだった。
机の上に置かれた研究帳面へ視線を向ける。
昨夜は最後に、
『次に決めるのは、実施するかどうか。』
と書いた。
朝になっても、その言葉は変わらない。
「今日は早いな」
ノアの声がした。
寝台の端で丸くなっていた黒猫が、片目だけを開いている。
「何が?」
「起きてから悩み始めるまで」
「悩んでないよ」
「じゃあ何してんだ」
「考えてる」
「同じだろ」
「違う」
「お前の中ではな」
ノアは大きく伸びをしてから、寝台を降りた。
「昨日言ってた試験か?」
「うん」
「やるのか?」
昨日の夜にも似たことを聞かれた。
その時は決めなかった。
今朝はどうなのだろう。
アリシアはすぐには答えず、窓の外を見た。
「……確かめたい」
「やるのかって聞いた」
「それを今分けてるの」
「また面倒なこと始めたな」
「確かめたい気持ちがあるのと、人工刺激を受けるって決めるのは同じじゃないから」
ノアは少しだけ目を細めた。
いつものように茶化すかと思ったが、すぐには何も言わなかった。
「怖いのか?」
「少し」
「どのくらい」
「今なら……二くらい」
「前より低いな」
「今までの安全範囲と同じ条件を候補にしてるから。でも、新しい試験だから」
「同じことやるのに新しいのか」
「条件が同じでも、確かめることが違う」
「研究ってやっぱ面倒だな」
「昨日も言ってた」
「毎日面倒だから毎日言える」
アリシアは小さく笑った。
それでも、ノアの最初の問いは残っている。
やるのか。
今日、研究棟へ行けば、その答えを出せるかもしれない。
ただし、答えを出したからといって、今日そのまま人工刺激を受ける必要はない。
(それも、分けていい)
そう思うと、少しだけ胸の奥が軽くなった。
◇
朝食を終えたあと、アリシアは学院へ向かう準備をした。
子供は今日は広間の床へ座り、小さな木片を二つ使って世話役と遊んでいる。木片を机や建物に見立てているらしく、その間を指で歩く真似をしていた。
「ここ家」
子供が一つを指す。
「こっちは?」
アリシアが尋ねる。
「お店」
「何のお店?」
「まだない」
「お店なのに?」
「あとで決める」
子供は気にした様子もなく、二つの木片の間へ短い紐を置いた。
「道?」
「川」
「渡れないね」
「橋作る」
別の木片を探し始める。
アリシアはその様子をしばらく見ていたが、研究のことへ結びつけようとはしなかった。
「行ってくるね」
「うん」
「今日は枝拾わないの?」
「昨日終わった」
「そうだった」
昨日の庭はすっかり片づいている。
終わったものは、そのまま終わっている。
アリシアはそれを確認するようなことはせず、鞄を肩へ掛けた。
少し離れた場所では顔のない存在が静かに過ごしていた。胸元の十一の光にも目立った変化はなく、重要な木箱も閉じられたままだ。
今日も、その二つを現在の研究へ無理につなげる理由はなかった。
◇
学院では、朝から合同実技の話が続いていた。
まだ組み分けは発表されていない。それでも生徒たちは誰と組むかを予想し、過去の合同実技でどんな課題が出たのかを上級生へ聞きに行った者までいるらしい。
「ねえ」
教室へ入った友人が、席へ着くより先にアリシアの机へ寄ってきた。
「何?」
「組み分け、明後日だって」
「どこで聞いたの?」
「先生」
「聞きに行ったの?」
「廊下で会ったから」
「わざわざ聞いたんじゃない?」
「違うって」
友人は自分の席へ荷物を置きながら笑った。
「一緒だったらいいね」
「うん」
「今日も即答」
「昨日言われたから考えないようにした」
「それはそれで違う気がする」
「じゃあどうすればいいの?」
「普通に答えればいいの」
「普通に答えたよ」
「ならいいじゃん」
結局何を言われたのか分からず、アリシアは首を傾げた。
近くで聞いていた生徒が笑う。
「朝から仲いいな」
「普通だよ」
友人が答える。
アリシアも何か言おうとして、やめた。
普通と言われることが、少し嬉しかったからだ。
◇
午前の授業は歴史だった。
古い王国間の交易路がどのように変化していったのかを扱い、教師は地図を使いながら、政治的な境界と実際に人が行き来する道が必ずしも一致しなかったことを説明していく。
アリシアは真面目に板書を写した。
研究とは関係ない。
少なくとも今は、それでいい。
授業の途中、教師が古い地図を回覧した。復刻された教材だが、現在の地図とは町の位置や道の太さがかなり違っている。
「ここ、今ないよね」
隣の生徒が小声で言う。
「町?」
「道。今はこっち通るはず」
「川の位置も少し違う」
「ほんとだ」
教師が前方から声をかけた。
「気づいた違いは余白へ書いて構いません。ただし、古い地図が間違っているとすぐ決めないように。川の流れが変わった可能性も、道そのものが移った可能性もあります」
アリシアは余白へ小さく記録した。
それ以上、研究へ置き換えない。
古い地図は古い地図として面白かった。
◇
昼休み、友人と食堂へ向かう途中で、アリシアは自分から研究の話をした。
「今日、決めるかもしれない」
「何を?」
「新しい試験やるかどうか」
友人が足を少し緩めた。
「昨日言ってた、違った結果のやつ?」
「うん」
「もうやるって決めたんじゃなかったの?」
「まだ」
「昨日何決めたの?」
「前の試験と別にすること」
「それだけで一日?」
「それだけじゃないよ」
「研究の人、すごいね」
「何が?」
「なかなか始めない」
アリシアは言い返そうとして、少し考えた。
「……そうかも」
「悪いって意味じゃないよ」
「分かってる」
二人は食堂へ入り、空いていた窓際の席へ座った。
友人が昼食を広げながら尋ねる。
「怖い?」
「少し」
「危ないの?」
「今まで安全って確認してる範囲と同じ条件を使う候補だから、急に強くしたりはしない。でも、絶対何もないって意味じゃない」
「じゃあ、嫌ならやらなくていいの?」
「うん」
「研究の人にやってって言われてる?」
「言われてない」
「じゃあ、アリシアがやりたいか決めるんだ」
「うん」
友人はしばらく考えたあと、スープへ口をつけた。
「やりたいの?」
ノアにも聞かれた。
同じ質問なのに、今度は少し違って聞こえた。
「……知りたい」
「それは聞いた」
「やって確かめたい気持ちもある」
「じゃあやりたいんじゃない?」
「でも、怖さもある」
「両方あっていいんじゃない?」
友人はあっさり言った。
アリシアは目を瞬かせた。
「いいの?」
「私に聞かれても困るけど」
「今言ったのに」
「だって、やりたいなら怖くないとか、怖いならやりたくないって決まってないでしょ」
友人はパンをちぎる。
「私だって合同実技楽しみだけど、知らない人ばっかりの組だったらちょっと嫌だし」
「それと同じ?」
「同じとは言ってない」
「……うん」
「でも、楽しみと嫌が一緒でも変じゃないって話」
アリシアは少しだけ笑った。
「ありがとう」
「急にお礼言わないで。恥ずかしい」
「なんで?」
「なんでも」
友人は視線を逸らした。
その後は合同実技の話になった。
研究の結論は、昼休みには出さなかった。
◇
放課後、アリシアは一度生活観測区画へ戻った。
研究棟へ直行しなかったのは、身体を休めるためだけではない。
学院から研究へ気持ちを切り替える前に、自分が本当に今日決めたいのかを確認したかった。
広間へ入ると、朝の木片はまだ床にある。
子供が作ったらしい橋が紐の上へ渡され、その先には小さな紙片が置かれていた。
「これ何?」
「パン屋」
「お店、決まったんだ」
「うん」
「どうしてパン屋?」
「パン食べたいから」
アリシアは笑った。
「夕食前だよ」
「パンある?」
「分からない」
「聞いてくる」
子供は世話役のところへ走っていった。
ノアは窓辺にいる。
「今日は早いな」
「研究棟行く前に戻ってきた」
「行くのか?」
「うん」
「決めたのか?」
「何を?」
「試験」
「まだ」
「じゃあ何を決めた」
アリシアは鞄を椅子へ置いた。
「今日、実施するかどうかを決めに行くってことは決めた」
ノアが無言になる。
「何?」
「もう一回言ってみろ」
「今日、実施するかどうかを――」
「いい。面倒くせえ」
「ノアが聞いたんでしょ」
「研究やってると文章長くなんのか?」
「ノアが短すぎるの」
「猫に説明力求めんな」
アリシアは笑い、制服の上着を少し整えた。
身体状態をもう一度確かめる。
疲労は二。
痛み、息苦しさ、胸部異常はゼロ。
頭痛、吐き気、めまいもない。
学院を一日過ごしたあとの普通の疲れはあるが、研究棟へ行くことを避けたいほどではない。
「行ってくる」
「おう」
「ノアは?」
「ここにいる」
「今日は散歩しない?」
「気が向いたらな」
アリシアは一人で研究棟へ向かった。
◇
研究室へ入ると、今日は人数が少なかった。
副学長、サラ、安全管理担当、記録担当。
人工刺激を実施する予定がないため、魔導具担当教師や調整担当は呼ばれていない。
そのことにアリシアは少し安心した。
もし全員が揃い、装置まで準備されていたら、「やる」と答えることを期待されているように感じたかもしれない。
机の上にも、昨日の候補をまとめた紙しかない。
「今日は、実施するかどうかを決めたいです」
アリシアが自分から言った。
サラはすぐに頷いた。
「分かりました。ただし、決めた場合も本日は人工刺激を行いません」
「はい」
「『実施する』を選んだ場合は、次回以降に設計を固定する段階へ進むだけです」
「今日、回数まで決めない?」
「アリシアさんが望むなら相談はできますが、こちらから一続きにはしません」
アリシアは少し考えてから首を横へ振った。
「今日は実施するかだけにしたい」
「分かりました」
◇
最初に身体状態が確認された。
疲労二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
恐怖二。
研究参加希望八。
東西不一致を独立記録で確かめたい気持ち八。
前回と同方向の不一致を見たい気持ち七。
逆方向の不一致も主判定上は同じ不一致として扱う案への抵抗二。
弱い胸部異常が再び起きてほしい気持ち六。
人工刺激を受けることへのためらい四。
今日、実施可否を決めたい気持ち八。
止まりにくさ三。
「人工刺激へのためらいは、朝より上がりましたか?」
「朝は怖さ二くらいだった。でも研究棟に来たら、やるって決めるのが近くなったから」
「その変化をどう感じますか?」
「やめたいって感じではないです」
「では、何に対するためらいでしょう」
アリシアは少し考えた。
「前の試験で、不一致が出たから次もやるっていうのが……結果を追いかけてるだけじゃないかって」
副学長が静かに尋ねる。
「昨日も似た点を確認したな」
「うん。でも今日は、自分がやるって決めるから」
「では、もう一度整理しよう」
副学長は昨日の記録を開いた。
「過去の不一致を見たから、新しい問いが生まれた。それ自体は事実だ」
「はい」
「その問いを、過去の試験で最初から確かめていたことにはしない」
「はい」
「旧系列は終了済みで変更しない」
「はい」
「新しく実施する場合は、結果を見る前に問い、主判定、試行数、数え方、安全条件、回復間隔、停止規則を固定する」
「はい」
「そして、実施しない選択もできる」
アリシアは頷いた。
「それでも、結果を追いかけてることにはならない?」
「『結果を見て新しい問いを作る』ことと、『欲しい結果が出るまで同じ試験へ後から試行を足す』ことは同じではない」
「……うん」
「ただし、アリシアさん自身が、単に前と同じ結果をもう一度見たいだけだと感じ、それを理由に実施したくないなら、その判断も尊重される」
アリシアは黙った。
そこが大切だった。
研究としてできるかどうかと、自分が参加したいかどうかは別だ。
◇
サラが白紙を一枚置いた。
「実施する理由と、実施しない理由を分けて話してみますか?」
「数字にする?」
「今日は言葉だけでも構いません」
アリシアは少し安心した。
最近は数字で自分の状態を伝えることにも慣れたが、何でも数にすれば分かりやすくなるわけではない。
「やりたい理由は……一回だけだった不一致が、もう一回あるのか知りたい」
記録担当が書く。
「一致だけじゃないって分かったけど、一回だけだと、その一回をどう考えればいいか分からない」
「はい」
「同じ安全範囲で、同じ早い位置の一回の小さい変化を使って、新しい記録を取った時にも不一致が出るなら……前の一回だけじゃないって分かる」
副学長が補足する。
「ただし、出なかった場合も『二度と不一致は起きない』とは言えない」
「分かってる」
「続けてください」
「それから……過去の数字を組み合わせ続けるより、新しい問いを先に決めてから新しい記録を取る方を、一回やってみたい」
これは昨夜から自分でもはっきりしてきた気持ちだった。
「今ある数字を見直すのが嫌なわけじゃない。でも、もう結果を知ってるものから何かを探すのと、これから起きることを先に決めた問いで見るのは違うから」
「はい」
「私は、今は後の方をやってみたい」
記録担当の筆が動く。
次に、実施したくない理由。
アリシアは少し長く考えた。
「人工刺激だから」
「具体的には?」
安全管理担当が尋ねる。
「今まで大きな痛みとか苦しさはなかった。でも、身体に何か起きるかもしれない試験だから、数字を見るだけの研究とは違う」
「はい」
「前と同じ弱い胸の変な感じが出てほしいって思ってる自分も、ちょっと怖い」
サラは黙って続きを待つ。
「本当は、何も感じない方が身体としては楽かもしれないのに、研究では出てほしいって思ってる」
「その矛盾が嫌ですか?」
「少し」
アリシアは自分の胸元へ手を置いた。
「でも、出てほしいから強くしてほしいとは思わない。前と同じ安全範囲を変えたくないし、何も感じなかったら何も感じなかったって記録したい」
「そこは重要ですね」
「あと……不一致が出なかったら、もう一回、もう一回って思いそう」
「だから試行数を先に固定する必要がある」
「うん」
「その規則を守れると思いますか?」
アリシアはすぐに「はい」とは言わなかった。
前にも、最後の追加試行で不一致が出たあと、一件増やしたいと言いかけた。
自分が結果に引っ張られることを知っている。
「守りたい」
「『守れる』ではなく?」
「その時になったら、もっと見たいって思うかもしれないから。でも、先に決めて、研究の人たちにも止めてもらうなら守れると思う」
副学長が頷いた。
「その答えでいい」
◇
実施する理由と、実施しない理由。
両方が紙へ残った。
どちらかを消す必要はない。
サラが尋ねる。
「今、この二つを見てどう思いますか?」
「やりたいです」
今度は、アリシアはすぐに答えた。
言ってから、自分の胸の内側を確かめる。
怖さが消えたわけではない。
人工刺激へのためらいもある。
前と同じ不一致を見たいという期待もある。
弱い胸部異常がもう一度起きてほしいという願いも残っている。
それでも。
「新しい試験を、やりたい」
もう一度言った。
「前の続きじゃなくて、新しい問いとして。回数も、止め方も、結果を見る前に決めてから」
研究室の誰も、すぐに「では始めましょう」とは言わなかった。
それがアリシアには嬉しかった。
サラが確認する。
「これは今日、人工刺激を受ける同意ではありません」
「はい」
「今後、設計を固定したあとでも、実施前に参加を取りやめられます」
「はい」
「試行の途中でも、安全上の基準とは別に、明確に拒否した場合は延期または中止できます」
「はい」
「現在の安全基準も変えません。新しい問いだからといって強度、速度、複数変動など新条件へ広げません」
「それがいいです」
「では記録します」
記録担当がゆっくり書いた。
『本人意思:新規前向き設計の作成段階へ進むことを希望。人工刺激実施そのものへの包括的同意ではなく、設計固定後・各実施前に参加意思を再確認する。』
アリシアはその文章を読み返した。
「設計するって決めた、ってこと?」
「はい」
「試験するって完全に決めた、ではない?」
「実施へ向けた設計を進めることを選んだ、が最も正確でしょう」
「……難しい」
「でも大事な違いです」
「うん」
アリシアは頷いた。
◇
「じゃあ回数は?」
口にした瞬間、サラと副学長が同時にアリシアを見る。
アリシアも自分で気づいた。
「あ」
「やはり聞きたくなりましたか」
「……はい」
少し恥ずかしくなりながら答える。
副学長は笑わなかった。
「今日はどこまで、と最初に決めた?」
「実施するかどうかまで」
「今、その答えは出た」
「はい」
「続けることもできるが、状態を確認してからだ」
サラが現在の状態を聞く。
疲労は三。
痛み、息苦しさ、胸部異常はゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
恐怖二。
新しい前向き設計へ進みたい気持ち九。
今日、試行数まで決めたい気持ち八。
早く最初の試行を行いたい気持ち七。
前回と同方向の不一致を見たい気持ち七。
弱い胸部異常をもう一度確認したい気持ち六。
止まりにくさ六。
アリシアは最後の数字を言ったあと、少し笑った。
「やっぱり上がった」
「実施へ向けて一段進むと決めた直後ですからね」
「今、回数決めたら、そのまま日も決めたい」
「可能性は高そうです」
「じゃあ今日はやめる」
「よろしいですか?」
「うん」
アリシアは少し残念だった。
けれど、昨日までとは違う。
今日は何も決まらなかったわけではない。
自分で、新しい前向き設計へ進みたいと選んだ。
それだけで十分大きな一歩だった。
「次は回数と、数え方?」
「それだけではありません」
副学長が指を折りながら答える。
「主判定を正式に固定する。不一致方向の扱いを確定する。実施試行数を決める。入力成立前の中止と成立後の判定不能をどう数えるか。試行間の回復条件。結果による早期終了や追加を認めるか。安全基準と本人意思の確認。そして、主観報告を副次記録としてどう保持するか」
「多い」
「だから今日やらない方がいい」
「……納得した」
若い観測員がいれば笑われたかもしれない。
今日はその代わり、サラが少しだけ口元を緩めた。
◇
最後に、今日確定した内容だけが読み上げられた。
『旧東西専用前向き系列は完了済みのまま変更しない。』
『旧系列で観察された不一致を根拠として、新しい独立前向き問いを設計する段階へ進むことを本人が希望した。』
『新規主質問候補は、固定済み安全範囲内・早期位置単一意図的小変動条件において、東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定の不一致が、独立した追加記録でも再観察されるか。』
『本日は設計開始の意思確認まで。試行数、数え方、主判定詳細、不一致方向の扱い、回復間隔、停止規則は未固定。』
『人工刺激は実施していない。実施日は設定していない。』
『設計段階へ進む意思と、各試行への参加意思は別に確認する。』
アリシアは最後まで聞いた。
「これでいいです」
自分の声に迷いが少ないことへ、自分で少し驚いた。
◇
研究棟を出る頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
今日はノアの姿がない。
一人で生活観測区画へ戻る道を歩く。
研究棟へ来る前と、景色はほとんど変わっていない。
それなのに、自分の中では一つ大きなことが変わった。
新しい試験へ進みたい。
自分でそう言った。
(怖くないわけじゃない)
それでもいい。
友人が昼に言ったように、やりたいことと怖いことが同時にあってもいい。
安全を軽く考えない。
期待も隠さない。
不一致が出てほしい気持ちがあることも、弱い胸部異常をもう一度確かめたい気持ちがあることも残す。
そのうえで、結果を見る前に規則を決める。
今度はそこから始める。
◇
生活観測区画へ戻ると、朝に子供が作っていた町が少し広くなっていた。
家とパン屋のほかに、細長い木片が一つ増えている。
「これは?」
「学校」
「学校もできたんだ」
「うん」
「川の向こう?」
「橋あるから行ける」
子供が木片の橋を指差した。
「アリシアの学校と同じ?」
「違う」
「何が?」
「こっちは近い」
「……いいな」
思わず言うと、子供が不思議そうにアリシアを見る。
「アリシアの学校、遠い?」
「ここからだと少しね」
「でも行く?」
「うん。好きだから」
答えたあと、アリシアは少し笑った。
学院へ行くことも。
資料修復の授業も。
友人と昼食を食べることも。
研究棟で分からないことを考えることも。
全部が同じ種類の「好き」ではない。
それでも、自分で行きたい場所が増えていることは悪くなかった。
顔のない存在は少し離れた場所で穏やかに休んでおり、十一の光にも目立った変化はない。重要な木箱も閉じたままだった。
今日、その箱を開く必要はなかった。
◇
夕食後、ノアが戻ってきた。
「どこ行ってたの?」
「散歩」
「今日は本当に散歩だったんだ」
「いつも散歩だ」
「研究棟の前まで来る散歩?」
「道は俺が決める」
ノアは当然のように椅子へ飛び乗った。
「で、決めたか」
「うん」
「やるのか?」
「新しい試験の設計に進む」
「試験やるんじゃねえの?」
「今日はまだそこまでじゃない」
ノアが露骨に面倒そうな顔をした。
「お前ら、扉の前に扉作るの好きだな」
「違うよ。設計してから、実施前にも確認するの」
「つまりまだやらねえ」
「うん」
「じゃあ最初からそう言え」
「でも、やりたいって決めたのは大事なの」
ノアは少しだけ黙った。
「怖くねえのか」
「怖いよ。二くらい。人工刺激を受けるのをためらう気持ちは四くらい」
「なのにやるのか」
「怖くないからやるんじゃないよ」
「じゃあ何で」
「確かめたいから」
アリシアはそう答えた。
「でも、確かめたいから何でもするわけじゃない。前と同じ安全範囲で、回数も止め方も先に決める。それができて、それでも私がやりたいって思ったらやる」
ノアはしばらくアリシアを見た。
「面倒くせえな」
「またそれ?」
「でも、まあ……前よりはマシか」
「何が?」
「昔のお前なら、確かめたいって思った時点で地下に走ってただろ」
アリシアは言い返せなかった。
少し前までなら、本当にそうだったかもしれない。
「今は走らないよ」
「知ってる」
「……ノアが止めるから?」
「俺の手柄にしてもいいぞ」
「しない」
「じゃあ返せ」
「何を?」
「手柄」
「最初から渡してないよ」
ノアが鼻を鳴らした。
アリシアは笑った。
◇
夜、机へ向かう。
最初に学院用の帳面を開いた。
『合同実技の組み分けは明後日。友達と同じ組になりたい。』
昨日と同じような内容だが、今日は消さなかった。
その下へ歴史授業で見た古い交易路の地図について少し書く。川の位置や道が現在と違っていたこと、古い地図が誤りとは限らないと教わったこと。
研究との関係は書かない。
学院の記録は、それだけで十分だった。
次に研究帳面を開く。
昨日の最後に書いた一文を読む。
『次に決めるのは、実施するかどうか。実施を選んだ場合のみ、試行数と数え方を固定する。』
その下へ、今日の日付を書いた。
『新規前向き設計へ進むことを希望すると本人意思を確認。』
少し硬い文章になり、アリシアは一度筆を止めた。
その下へ、自分の言葉でも書く。
『私は、新しい記録で東西の不一致がもう一度観察されるか確かめたい。』
さらに続ける。
『前の試験へ追加するのではない。旧系列は完了したままにする。旧結果から生まれた新しい問いとして設計する。』
『今日は人工刺激なし。実施日なし。試行数なし。』
『設計へ進むと決めたことと、実際に人工刺激を受けることは同じではない。設計固定後、実施前にも参加意思を確認する。』
アリシアは一度深く息を吐いた。
そして、今日話した自分の気持ちを書く。
『実施したい理由:
・不一致が一件だけでなく独立記録でも再観察されるか知りたい。
・既知結果の事後探索だけでなく、結果を見る前に問いを固定した新しい記録を取りたい。』
『ためらう理由:
・人工刺激を伴う。
・身体に何かが起きる可能性がある。
・前回と同じ不一致を見たい期待がある。
・閾値未満胸部異常が再び起きてほしい期待もある。
・欲しい結果が出なかった時に追加したくなる可能性を自分で知っている。』
その下へ線を引いた。
『だから、回数と停止規則を結果前に固定する。』
書き終えても、まだ頁には余白がある。
けれど、今日はそこを埋めなかった。
試行数は次に決める。
実施試行の数え方も。
東確認・西非確認と、東非確認・西確認をどう記録するかも。
結果によって途中でやめたり増やしたりしないための規則も。
回復の間隔も。
どれもまだ空白だ。
(空白があるままでいい)
以前なら、今日のうちに全部埋めたかったかもしれない。
今は、今日決めたところまでで閉じられる。
アリシアは最後に一文だけ書いた。
『始める方向へ進むと決めても、今日始めなくていい。』
筆を置く。
窓辺ではノアが眠りかけていた。
生活観測区画は静かで、遠くから子供の寝息がかすかに聞こえる。
重要な木箱は閉じている。
顔のない存在の十一の光にも、今夜新しい意味は与えない。
三件の弱い胸部異常にも、まだ名前はない。
六つ目の神器が何をしているのかも分からない。
東側と西側の間に、本当に何があるのかも分からない。
分からないものは、まだたくさん残っている。
それでも今日、アリシアは一つだけ自分で選んだ。
過去の数字を眺め続けて答えの形を探すだけではなく、新しい問いを、新しい記録で確かめてみたい。
ただし、急がない。
怖さを消してから進むのでもない。
期待をなくしてから進むのでもない。
怖さも期待も記録へ置いたまま、それらに結果の扱いを変えさせないための規則を先に作る。
明日、その規則を全部決める必要さえない。
アリシアは研究帳面を閉じ、学院用の帳面と並べた。
始めることを選ぶのと、今すぐ始めることは違う。
その違いを自分で選べるようになったことが、今夜は少しだけ嬉しかった。




