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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第269話 新しい記録へ進む前に、終わった試験を分けておく


 翌朝、生活観測区画の窓を細く開けると、ひんやりした風が室内へ流れ込んだ。


 前日に空を覆っていた雲は夜のうちに薄くなったらしく、東の空には淡い朝日が見えている。森の枝葉には細かな露が残り、風が通るたびに小さな雫が落ちて、下草をかすかに鳴らしていた。


 アリシアは窓辺に立ったまま、自分の身体へ意識を向けた。疲労は一、痛みと息苦しさはなく、胸にも異常はない。頭痛、吐き気、めまいもなく、昨日の研究を終えたあとから今朝まで、気になる変化は何も起きていなかった。


 身体について確かめ終えると、今度は昨日の研究が浮かんだ。


 総偏差は、まだ見ていない数字ではなかった。


 以前、入力側の固定六指標を確認した際に、自然揺れ間隔とともにすでに開いている。現在の三件の閾値未満胸部異常報告を主対象として整理したことはなかったとしても、値そのものを初めて見るわけではない。


 昨日はその誤りを正式に訂正した。


 そして、新しい候補が一つ浮かんだ。


 東西の確認判定に起きた不一致を、独立した追加記録でもう一度確かめること。


(気になってる)


 今朝になっても、その気持ちは残っていた。


 ただし、すぐ人工刺激を行いたいわけではない。


 むしろ昨夜から何度か考えるうちに、別のところが引っかかり始めていた。


 以前の東西専用の前向き試験は、すでに終わっている。


 最初の一件があり、そのあとに追加する二件の実施試行数を固定した。追加一件目では東西ともに対象反応が確認されず、追加二件目では東側のみ確認、西側は非確認となった。


 そこで終わった。


 欲しい結果が出なかったから増やすことも、不一致が出たからもう一件足すこともしなかった。


 もし今から新しい記録を取るなら、それを「前の続き」と呼んではいけない気がする。


(新しい試験にするなら……どこから新しくなるんだろう)


 問い。


 回数。


 数え方。


 主判定。


 安全条件。


 回復の間隔。


 考え始めればいくつも出てくる。


 それでも、今朝のアリシアは研究帳面を開かなかった。


 今日は学院がある。


 研究棟へ行くかどうかも、まだ決めていない。


「朝から難しい顔してんな」


 背後からノアの声がした。


 振り返ると、黒猫は寝台の端で前脚を伸ばしている。


「そんな顔してた?」


「してた。昨日は紙に負けた顔で、今日は紙に復讐する顔だ」


「復讐しないよ」


「じゃあ何だ」


「前に終わった試験と、次にやるかもしれない試験を混ぜたくないなって」


「朝飯前に?」


「今思ったから」


「腹減ってる時に考えたこと信用すんな」


「ノアだけだよ、それ」


「人間も腹減ったら機嫌悪くなるだろ」


「研究の設計は変えないよ」


「なら先に食え」


 ノアはそう言って床へ飛び降りた。


 アリシアも窓を閉め、制服へ着替える。


 今日の研究で何をするかは決まっていない。


 けれど、昨日より一つだけはっきりしている。


 新しい記録へ進むなら、終わった試験を勝手に延長しない。


 それだけは、忘れたくなかった。


     ◇


 朝食後、子供は世話役と一緒に外へ出る準備をしていた。


 今日は生活観測区画のすぐ近くにある庭で、落ちた枝を拾うらしい。何かを集めて分類するためではなく、歩く場所へ伸びた細い枝を片づけるだけだと世話役が説明していた。


「アリシアもやる?」


 子供が尋ねる。


「今日は学校」


「帰ってきたら?」


「残ってたら手伝う」


「いっぱいあるよ」


「じゃあ少しくらい残ってるかな」


「全部やるかも」


「それならそれでいいよ」


 子供は少し考えてから頷いた。


 アリシアは鞄を持ち上げる。


 重要な木箱はいつもの場所で閉じたままになっている。普通の紙箱も今日は使われておらず、顔のない存在は離れた場所で穏やかに過ごしていた。


 十一の光にも目立った変化はない。


 何かを進めるためだけに、そちらへ話題を広げる必要はなかった。


     ◇


 学院へ到着すると、校舎前がいつもより少し騒がしかった。


 掲示板の前へ何人もの生徒が集まり、張り出された紙を見ながら話している。


「何だろう」


 アリシアが立ち止まると、後ろから友人が肩越しに覗き込んだ。


「来月の合同実技だって」


「合同?」


「ほら、学年の中で何組か混ぜてやるやつ。去年もあったでしょ」


「あ……」


 アリシアも思い出した。


 複数人で簡単な課題へ取り組み、魔法制御や判断、協力の仕方を見る実技授業だ。競技大会ほど大がかりではなく、成績だけを競うものでもない。


 掲示板には日程と大まかな内容だけが書かれており、組み分けは後日発表となっていた。


「一緒の組になるかな」


 友人が言う。


「分からない」


「私は一緒がいい」


「私も」


 アリシアが答えると、友人が少しだけ目を丸くした。


「即答した」


「嫌だった?」


「逆。アリシアって、こういう時ちょっと考えてから言うじゃん」


「……そうかな」


「うん」


 周囲では、誰と同じ組になりたいかを話す生徒もいれば、課題内容を予想している生徒もいる。去年の実技で失敗した話を大げさに語り、友人たちに笑われている男子生徒もいた。


 アリシアはその騒がしさの中で、隣にいる友人を見た。


 一緒の組になれたら嬉しい。


 ただ、それだけだった。


 研究の比較対象にも、条件固定にもつなげない。


「でも別の組でも、終わったら話せるよ」


 アリシアが言うと、友人は少し笑った。


「そうだけど、最初から別の組になる準備しなくていいでしょ」


「準備?」


「アリシア、たまに悪い方も先に考えるから」


「別の組は悪いことじゃないよ」


「そういうところ」


 意味が分からず、アリシアが首を傾げる。


 友人は説明せず、教室へ向かって歩き始めた。


「遅れるよ」


「待って」


 アリシアは慌ててその背中を追った。


     ◇


 午前の授業が終わり、昼休みになると、二人は中庭の端にある石造りの低い囲いへ腰掛けた。


 今日は風が穏やかで、日差しも強くない。庭木の影が足元へ落ち、少し離れた場所では数人の生徒が合同実技の話を続けている。


 友人は昼食の包みを開きながら、アリシアへ尋ねた。


「今日は研究?」


「まだ決めてない」


「珍しいね。最近、だいたい放課後行ってたから」


「昨日、ちょっと予定が変わったから」


「数字、前に見たことあったやつ?」


 アリシアが驚いて友人を見る。


「言ったっけ?」


「昨日帰る時にちょっとだけ。『見ようとしてたの、前に見てた』って」


「……言ったかも」


「研究してる本人が忘れることもあるんだね」


「あるみたい」


「授業だって忘れるしね」


「一緒にしないで」


「でも私、先月習った魔法史の年代もう怪しいよ」


「それは復習した方がいいと思う」


「急に真面目」


 二人で笑った。


 友人はパンをちぎりながら、少しだけ声を落とす。


「じゃあ次は何するの?」


「前に一回だけ違った結果があったから、それがもう一回起きるか確かめるのが気になってる」


「違った結果?」


「二つ一緒に見てたものが、それまでは同じ判定だったのに、一回だけ違ったの」


 東側と西側という詳しい話はしない。


 人工刺激や胸部異常の細かな内容も必要ない。


「それ、もう一回やったら分かる?」


「一回で全部は分からないと思う」


「じゃあ何回?」


「そこを決めないといけない」


「まだ決めてないんだ」


「うん」


「じゃあ今日決める?」


 アリシアはすぐには答えなかった。


 友人はパンを食べながら待っている。


「……回数を決める前に、前の試験と別ってちゃんとしたい」


「別?」


「前のは、やる回数を決めて終わったの。だから今から追加したら、終わったあとで勝手に増やしたみたいになる」


「ああ」


 友人が少し納得したように頷く。


「終わった宿題に、先生があとから一枚足すみたいな?」


「ちょっと違う」


「また?」


「でも……終わったものに後から足すってところは近いかも」


「じゃあ新しい宿題にする」


「研究は宿題じゃないよ」


「分かりやすくしたのに」


「ありがとう」


 素直に礼を言うと、友人は少し照れたように鼻を鳴らした。


「じゃあ、新しい方をやるかどうか決める日?」


「そこまで行けるかは分からない」


「最近それ多いね」


「何が?」


「今日どこまでやるか、最初から決めすぎないやつ」


 アリシアは少し考えた。


「前は、研究棟に行ったら何か結果を持って帰りたかったから」


「今は?」


「何も増えなくても、間違えない方がいいかなって」


「昨日みたいに?」


「うん」


 友人はそれ以上研究のことを聞かなかった。


 代わりに、合同実技で一緒の組になった場合にどちらが指示役をやるかという話になり、アリシアは「交代じゃない?」と答えた。


 その後は、昼休みが終わるまで普通の学院の話をした。


     ◇


 放課後、アリシアは研究棟へ向かった。


 行くと決めたのは、午後最後の授業が終わったあとだった。


 新しい人工刺激を始めるためではない。


 東西不一致を再び確かめるという候補について、前の試験と何を分けなければならないのかを整理したいと思った。


 研究室へ入ると、副学長、サラ、魔導具担当教師、若い観測員、記録担当がいた。今日は机の上に数値表はなく、前回までの試験設計をまとめた書類だけが閉じて置かれている。


「今日は数字を見ません」


 アリシアが椅子へ座る前に言うと、若い観測員が少し笑った。


「宣言から始まりましたね」


「昨日、間違えたから」


「慎重になるのは分かりますが、数字そのものが悪いわけではありませんよ」


「分かってます」


 サラが状態確認を行う。


 疲労は二。


 痛み、息苦しさ、胸部異常はゼロ。


 頭痛、吐き気、めまいもない。


 恐怖は一。


 研究参加希望は八。


 東西不一致を新しい記録で確かめたい気持ちは七。


 今日、正式な新規試験を決めたい気持ちは五。


 止まりにくさは三だった。


「昨日より、急いで決めたい気持ちは下がっていますね」


「昨日は間違いを直したあとだったから」


「では、今日はどこまで進めたいですか?」


「前の試験と、新しくやるかもしれない試験を分けたいです」


 副学長が頷く。


「それなら、まず前の試験がどこで終わったのかを確認しよう」


     ◇


 記録担当が一枚の紙を机へ置いた。


 そこには数値ではなく、設計だけが書かれている。


 固定済みの安全範囲内。


 早期位置。


 単一の意図的小変動。


 東側奥部対象反応と西側対象反応の確認・非確認判定が一致するか。


 アリシアの主観感覚は副次記録。


 固定された共通観測範囲。


 安全上の理由を除き、結果によって観測範囲を変えない。


「最初の専用前向き記録では、東側確認、西側確認で一致でした」


 記録担当が説明する。


「その後、既存の一件を含めて最初から三件と決めていたわけではありません。最初の記録を得たあとで、追加二件を実施すると固定しました」


「覚えてる」


「追加一件目は、予定入力が成立したため一実施試行として数えました。東側非確認、西側非確認で一致。アリシアさんの対象感覚も胸部異常報告もありませんでした」


「うん」


「追加二件目も予定入力が成立し、一実施試行として数えました。東側確認、西側非確認で不一致。アリシアさんの対象感覚は非確認でしたが、閾値未満の胸部異常報告がありました」


 アリシアは頷いた。


 胸の中央より少し左。


 一より下。


 〇・五くらい。


 痛みも息苦しさもなかった。


 弱くなり、その後消えた。


 その時も「冷たい」とは言っていない。


「そこで追加二件は終了」


「はい」


「もう一件やりたいって、私が言いかけた」


「そして、ご自身で止まりました」


「結果が違ったから増やしたら、最初に二件って決めた意味がなくなるから」


「その理解で合っています」


 アリシアは紙を見る。


 最初の一件。


 その後に固定した追加二件。


 追加二件は予定どおり終わった。


 今から何かを行っても、その二件目の次に番号を足すような扱いにはできない。


「前の追加試験は、終わったって書いてある?」


「明確に記録されています」


 記録担当が該当部分を示す。


『固定追加実施試行二件、完了。結果による追加なし。』


 アリシアはその一文をしばらく見つめた。


「じゃあ、ここは動かさない」


「はい」


「次にやるなら、別の問い」


「その方が適切です」


 魔導具担当教師が答えた。


「条件の多くを同じにすることはできます。むしろ独立した再確認を目的とするなら、比較可能性のために同じ条件を維持する理由があります。しかし、設計上の役割は別です」


「同じ条件でも、同じ試験の追加じゃない?」


「はい」


「前の結果を見てから作る問いだから」


「その点も重要です」


 アリシアは少し考えた。


「じゃあ、次の問いは『東西が一致するか』じゃない?」


「候補によります」


「前は一致するかを見た。でも、今気になってるのは、不一致がもう一回出るか」


「そうですね」


「それって、前の結果を見たから作れる問いだよね」


「はい。だからこそ、前の試験の結果を利用して作った新しい前向き問いとして扱う必要があります」


 アリシアは紙の余白へ目を落とした。


(結果を見てから作る。でも、次の結果を見る前に決める)


 過去の結果から新しい問いを作ることと、次の結果を見たあとで問いを変えることは違う。


「それなら、ずるくない?」


 アリシアが尋ねる。


 副学長は少しだけ眉を上げた。


「何を『ずるい』と感じていますか?」


「一回不一致が出たから、それをもう一回探すこと。結果を見てから選んでるから」


「過去の結果をもとに次の仮説や問いを作ること自体は問題ではない。ただし、それが過去の試験で最初から確かめていた問いだったように扱えば問題になる」


「新しい問いだって書けばいい?」


「書くだけではなく、実際に新しい設計として扱う。そこが大事だ」


「前の三件と、新しい記録を全部一つにして『四件中何件』みたいにしない?」


「少なくとも、新しい独立確認の主結果として安易に一つへまとめるべきではありません。旧系列は問いを作った資料、新系列はその問いを前向きに確かめる資料として役割を分ける必要があります」


「分かった」


 アリシアはゆっくり頷いた。


     ◇


 次に問題となったのは、不一致をどう定義するかだった。


 前回実際に起きたのは、東側確認、西側非確認である。


 ならば、それと同じ向きだけを再観察対象にするのか。


 それとも、東側非確認、西側確認も含めて「不一致」とするのか。


「私は、前と同じのがもう一回あるか気になってる」


 アリシアが正直に言う。


「東があって、西がない方」


「その期待は記録できます」


 サラが答える。


「ただし、主判定をどちらにするかは別に決める必要があります」


「東なし、西ありだったら?」


「それも確認判定としては不一致です」


「でも前と逆」


「はい」


「それを同じ『不一致』にするか、別にするかを先に決める?」


「そうです」


 アリシアは腕を組まず、机の上へ両手を置いたまま考えた。


 前と同じ向きが出れば、確かに気になる。


 しかし、逆向きの不一致が出た時に「欲しかった不一致じゃない」と除外すれば、それは結果を見てから扱いを変えることになる。


「主判定は、向きに関係なく不一致が出たかにする方がいい?」


「それには利点があります」


 副学長が答えた。


「ただし、前回と同方向か逆方向かという情報を捨てる必要はない。主判定を『一致/不一致』として、方向を副次的に記録する設計は可能だ」


「前と同じ東あり西なしだったら、それも書く。逆でも書く。でも主判定ではどっちも不一致」


「そういう設計だ」


「まだ決めないけど……私はそれが分かりやすい」


「候補として残しましょう」


 記録担当が書き留める。


『新規前向き設計候補:主判定は東西確認判定の一致/不一致。東確認・西非確認、東非確認・西確認の方向は副次記録として保持する案。未確定。』


 アリシアはその最後に「未確定」と書かれていることを確認した。


     ◇


「私の胸の変な感じは?」


 次にアリシアが尋ねた。


 前回の不一致記録では、閾値未満の胸部異常があった。


 そのため、もし新しい試験を行うなら、自分の感覚をどう扱うのかも決めなければならない。


「前の東西専用試験と同じ役割を維持するなら、副次記録です」


 サラが答える。


「主判定に入れない?」


「現在の候補が東西確認判定の不一致再観察であるなら、その方が問いは明確です」


「胸の変なのがあってもなくても、東西だけで主判定する」


「はい。もちろん安全上の報告はこれまでどおり最優先ですし、主観報告そのものも記録します。ただし、それを結果を見てから主判定へ加えません」


「前と同じ対象感覚があったかどうかも?」


「副次記録です」


「弱い変なのも?」


「自然に報告されたものは、そのまま残します。事前に胸の位置や種類を細かく誘導する質問は避けます」


 アリシアは少し安心した。


 新しい試験をするからといって、三件の弱い胸部異常を再現する試験に変わるわけではない。


 それは別の問いだ。


「私、前と同じ変なのが出てほしい気持ちもある」


「今はどのくらいですか?」


「……六」


「東西不一致を見たい気持ちは?」


「七」


「その二つも別に記録しておきましょう」


「はい」


 アリシアは頷いた。


 欲しい結果が一つではないことにも、少しずつ慣れてきた。


 東西不一致をもう一度見たい。


 胸の弱い異常も、もう一度起きれば比較できると思っている。


 でも、それらは同じ問いではない。


 どちらかが起きて、どちらかが起きないこともある。


 前回がそうだったからといって、次も同じ組み合わせになる保証はない。


     ◇


 話が試行数へ移りそうになったところで、アリシアは自分から手を上げた。


「今日はそこまでにしたい」


 副学長が時計へ目を向ける。


「疲れましたか?」


「少し。でも、それより……回数まで決めたら、やることも決めた感じになりそう」


「現在はまだ実施自体が未確定です」


「うん。だから、今日は前の試験と分けるところと、主判定の候補までで止めたい」


 サラが状態を確認する。


 疲労は三。


 痛み、息苦しさ、胸部異常はゼロ。


 頭痛、吐き気、めまいもない。


 東西不一致を新しい記録で確かめたい気持ちは八へ上がっていた。


 前回と同方向の不一致が出てほしい気持ちは七。


 弱い胸部異常がもう一度出てほしい気持ちは六。


 今日中に試行数まで決めたい気持ちは六。


 止まりにくさは五だった。


「やっぱり上がってる」


 アリシアが自分で数字を見て言う。


「話を具体化した影響はありそうですね」


「今ここで回数決めたら、たぶんそのままいつやるかも決めたくなる」


「その可能性はあります」


「だから今日は終わる」


「分かりました」


 記録担当が、今日確定したことと候補のまま残したことを分けて書く。


【確認済み】


 旧東西専用前向き系列は完了済み。追加実施試行二件の終了記録を変更しない。


 今後新しい記録を取る場合、旧系列への事後的追加とは扱わず、新しい前向き設計とする。


 旧系列の結果は新規問いを作る根拠として利用できるが、新系列と役割を混同しない。


【候補・未確定】


 新規主質問候補は、固定済み安全範囲・早期位置単一意図的小変動条件において、東西確認判定の不一致が独立した追加記録でも再観察されるか。


 主判定候補は東西一致/不一致。


 不一致方向は副次記録として保持する案。


 アリシアの対象感覚および閾値未満胸部異常報告は副次記録とする案。


 実施可否、試行数、実施試行の数え方、回復間隔、停止規則は未決定。


 人工刺激予定はまだ設定しない。


 アリシアは最後まで読んだ。


「これなら、まだ試験をやるって決まってない?」


「決まっていません」


「次に来た時、やっぱり過去の記録を整理する方を選んでもいい?」


「もちろんです」


「何もしない日を入れても?」


「問題ありません」


 アリシアは安心して椅子から立ち上がった。


     ◇


 研究室にアリシアがいなくなったあとも、サラはしばらく今日の記録を見ていた。


 若い観測員が書類を揃えながら、小さく息を吐く。


「以前なら、試行数まで聞いていたかもしれませんね」


「私たちが?」


「はい。問いが見えたら、そのまま設計を完成させたくなっていたと思います」


 サラは否定しなかった。


 研究側にとっても、進んでいる感覚は心地よい。


 問いが決まれば回数を決め、日程を決め、測定へ進みたくなる。何も測らない日より、一件でも新しい記録が増えた日の方が成果を感じやすい。


 けれど、その速度がアリシアの速度と同じとは限らない。


「本人が止めた理由は妥当でした」


「具体化すると期待も上がっていましたしね」


「それに、今回は人工刺激を伴います。過去記録の再分析とは違う」


 サラは記録の最後へ視線を落とす。


 実施未決定。


 その四文字は、単なる保留ではない。


 アリシアが参加者として選べる余地そのものだった。


「次回、こちらから試行数を先に提示しないようにしましょう」


「複数案も?」


「必要になるまでは出さなくていいと思います。先に数を見せれば、その中から選ばなければならないように感じるかもしれません」


「本人が『やる』を選んでからですね」


「ええ」


 サラは書類を閉じた。


 研究側が先へ進まないことも、時には研究を守る。


 それはアリシアだけが学んでいることではなかった。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、庭の枝はほとんど片づいていた。


 子供が小さな枝を一本だけ持って歩いている。


「全部やったの?」


「まだある」


 子供が指した先には、庭の端に少しだけ枝が残っていた。


「手伝う?」


「もう終わる」


「じゃあ見てる」


 アリシアは石の縁へ腰を下ろした。


 子供は枝を拾い、世話役が用意した籠へ運ぶ。


 大きな枝は世話役が持ち、小さな枝だけ子供が拾っている。


 最後の一本を入れ終えると、子供は籠の中を見た。


「終わった」


「お疲れさま」


「アリシア、何もしてない」


「見てた」


「それだけ」


「朝、全部やるかもって言ってたでしょ」


「やった」


「うん」


 子供は満足そうだった。


 アリシアは、残っていた枝を自分のために一つ取っておいてほしかったとは思わなかった。


 終わったものは終わったままでいい。


 朝の自分なら、そこに研究との似たところを見つけていたかもしれない。


 今はただ、子供が自分で最後まで片づけたことを一緒に喜んだ。


「手、汚れてる」


「洗う」


「私も一緒に行く」


 子供と並んで室内へ戻る。


 少し離れた場所では顔のない存在が静かに過ごしており、十一の光にも目立った変化はない。重要な木箱も閉じたままだった。


 今日進んだのは、そちらではない。


     ◇


 夕食後、アリシアはノアと一緒に窓辺へ座った。


 外はすっかり暗くなり、森の向こうから虫の声が聞こえる。室内には暖かな灯りがあり、子供は少し離れた机で世話役と絵を見ていた。


「今日は何した」


 ノアが尋ねる。


「前の試験が終わってること確認した」


「知ってただろ」


「知ってたけど、新しくやるなら混ぜないようにしたかったの」


「新しくやるのか?」


「まだ決めてない」


「じゃあ何で確認した」


「決める前に必要だから」


「面倒くせえ」


「研究だから」


「便利な言葉だな、それ」


 アリシアは窓の外を見る。


「でも、前の続きじゃなくて新しくするなら、前に起きた不一致がもう一回あるか確かめられる」


「やりたいのか?」


「……ちょっと」


「ちょっと?」


「八くらい」


「全然ちょっとじゃねえな」


「でも、やるって決める気持ちはまだそこまでじゃない」


「数字で分けんな」


「サラ先生も分けてる」


「研究室の外まで持ち出すな」


 アリシアは笑った。


 けれど、ノアの問いは胸に残った。


 やりたいのか。


 気になる。


 確かめたい。


 でも、人工刺激を使う試験である以上、「気になる」だけで決めたくはない。


 自分の身体に何かを起こす可能性がある。


 これまで安全範囲で行ってきたとはいえ、そこを軽く扱うつもりはなかった。


     ◇


 夜、アリシアは学院用の帳面へ合同実技の掲示について書いた。


『組み分けは後日。友達と同じ組になれたら嬉しい。』


 そこまで書いて、少しだけ手を止める。


 以前なら「別でも大丈夫」と続けていた気がする。


 今日は書かなかった。


 大丈夫かどうかを先に準備しなくても、同じ組になりたいと思っていることはそのまま残していい。


 帳面を閉じ、研究帳面を開く。


 まず、今日確認した旧系列の終了状態を書く。


『東西専用前向き系列について再確認。最初の専用記録取得後、追加実施試行二件を固定。追加一件目=東非確認/西非確認で一致。追加二件目=東確認/西非確認で不一致。固定追加二件は完了済みであり、結果を理由とした追加は行っていない。旧系列は終了済み。』


 続けて書く。


『今後新しい記録を取る場合、旧系列の第三追加試行とは扱わない。旧結果から生じた新しい問いを、独立した前向き設計で確認する候補とする。旧系列と新系列の役割を混同しない。』


 少し間を空ける。


『新規主質問候補:

固定済み安全範囲内・早期位置単一意図的小変動条件において、東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定の不一致が、独立した追加記録でも再観察されるか。』


 その下へ、まだ決まっていないことを書く。


『主判定候補=一致/不一致。不一致方向は副次記録として保持する案。アリシア対象感覚・閾値未満胸部異常報告は副次記録とする案。実施可否、実施試行数、実施試行の数え方、安全・回復間隔、停止規則は未決定。人工刺激予定なし。』


 最後に自分の気持ちを残す。


『東西不一致を独立記録で確かめたい気持ち八。前回と同方向の不一致を見たい気持ち七。弱い胸部異常が再び起きてほしい気持ち六。これらは同じ問いではない。』


 筆先が止まる。


(前と同じ結果がほしいんだ)


 そのことを、以前ほど怖いとは思わなくなった。


 欲しい結果がある。


 期待がある。


 だから結果が全部無効になるわけではない。


 ただ、期待があることを自分で知ったうえで、結果を見てから規則を変えないようにする。


 そのために、まだ数字も回数も決めていない。


 アリシアは最後に一文を書き足した。


『次に決めるのは、実施するかどうか。実施を選んだ場合のみ、試行数と数え方を固定する。』


 そこまで書いて帳面を閉じる。


 前の試験は、もう終わっている。


 不一致が一件出たからといって、終わった試験を開き直して都合よく続きを足すことはしない。


 もし次へ進むなら、それは新しい問いとして始める。


 過去の結果を消さず、過去の設計も変えず、そのうえで次に何を確かめたいのかを決める。


 窓辺ではノアがすでに目を閉じていた。


「ノア」


「……何だ」


「明日、やるか決めるかもしれない」


「何を」


「新しい試験」


「好きにしろ。ただし眠い時に決めんな」


「今は決めないよ」


「なら寝ろ」


「うん」


 アリシアは灯りを弱くした。


 明日、実施を選ぶとは限らない。


 過去の記録をもう一度整理したくなるかもしれないし、何も研究しない一日を選ぶかもしれない。


 それでも、次へ進むための境界だけは今日引けた。


 終わった試験は、終わったまま残す。


 そして新しい問いを確かめるなら、結果が出る前の場所から、もう一度始める。

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