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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第268話 開く前に、記録の方が間違いを止めた



 翌朝、生活観測区画の窓の外には、前日より濃い雲が広がっていた。


 雨が降るほどではないものの、朝日は雲の向こうへ隠れ、森の色もいつもより少し暗い。開けた窓から入ってくる風には冷たさがあり、遠くの枝が揺れる音に混じって、どこかで鳥が短く鳴いていた。


 アリシアは寝台から起き上がると、しばらくその音を聞いてから身体の状態を確かめた。疲労は一、痛みと息苦しさはなく、胸の中央から左寄りへ意識を向けても異常はない。頭痛、吐き気、めまいもなく、昨夜から今朝までに遅れて現れた変化もなかった。


 身体について気になることがないと分かると、意識は自然に昨日の研究へ向かった。


 次に見る入力側指標として、総偏差を選んだ。


 三件の閾値未満胸部異常報告について、入力が基準線から全体としてどの程度離れていたのかを、固定済みの方法で比較する。三件だけを先に見ず、比較可能な記録も同時に扱い、設計群は分けたままにする。


 結果を見たあとで新しい閾値を作らない。


 別の指標を即席で組み合わせない。


 同日に追加分析をしない。


 そこまで決めたところで、総偏差を見たい気持ちが九まで上がったため、実際の値は開かずに帰ってきた。


(今日は……)


 続きを考えかけたところで、アリシアは止めた。


 今日見ると決めたわけではない。


 身体が安定していても、学院で一日を過ごしたあとに状態が変わるかもしれないし、研究側で算出可能性を確認した結果、何か手順上の問題が見つかっている可能性もある。


 昨夜の自分は「次に見る数字が決まった」と思って眠った。


 だからこそ、今朝の自分が勝手に「今日は見る日」と続きを作らない方がいい。


「今日は眉間じゃなく天井か」


 ノアの声がして、アリシアは視線を下げた。


 黒猫は寝台の端で身体を丸めたまま、こちらを見上げている。


「天井?」


「さっきからずっと上見て考えてただろ」


「窓も見てたよ」


「細けえ」


「ノアが言ったんでしょ」


「で、今日は例の数字を見るのか?」


「まだ分からない」


「せっかく選んだのに?」


「選んだからって、今日って決めたわけじゃないよ」


 アリシアが答えると、ノアは片耳を動かした。


「最近のお前、分からないの使い方が増えたな」


「前から分からないこと多かったよ」


「前は分からねえくせに見に行ってた」


「……それは、そうかも」


「今は分からねえから考えてんのか」


「たぶん」


「面倒くせえ成長だな」


「成長って言った」


「聞き間違いだ」


 ノアは毛布へ顔を埋めた。


 アリシアは小さく笑いながら制服へ着替え始めた。


     ◇


 朝食を終える頃には、空の雲が少し薄くなっていた。


 子供は今日は紙箱にも葉にも触れず、世話役と一緒に小さな卓上遊戯をしていた。四角い盤の上へ丸い駒を置き、決められた線に沿って一つずつ動かしている。


 アリシアが横を通ると、子供が顔を上げた。


「学校?」


「うん」


「紙なおす?」


「今日は資料修復の授業じゃないよ」


「じゃあ何する?」


「普通の授業」


「普通って何?」


 思いがけない質問に、アリシアは少し困った。


「魔法とか、歴史とか……日によって違う」


「それ普通?」


「学院では」


「ここではしない」


「そうだね」


 子供は納得したのかしていないのか分からない顔で盤へ戻った。


 アリシアはその隣にある駒を見る。


「これ、勝ち負けあるの?」


「ある」


「今どっち勝ってる?」


「分かんない」


 世話役が笑った。


「まだ始まったばかりですからね」


「最後までやる?」


 アリシアが尋ねると、子供は盤から目を離さないまま答えた。


「ごはん終わったから、学校行った方がいいよ」


「……はい」


 今度はアリシアが世話役に笑われた。


「追い出されたな」


 いつの間にか近くまで来ていたノアが言う。


「追い出されてない」


「どう聞いても追い出されてんだろ」


「学校に遅れないように言ってくれたの」


「そういうことにしとけ」


 アリシアは鞄を持ち、子供へもう一度「行ってきます」と声をかけた。


 顔のない存在は少し離れた場所で静かに過ごしており、胸元の十一の光にも目立った変化はない。重要な木箱も閉じたままで、今朝もそこへ近づく理由はなかった。


     ◇


 学院の午前中は、魔法制御の実技だった。


 今日の課題は二人一組で行う。


 一人が小さな光球を一定の高さへ保ち、もう一人が教師の指示した位置へゆっくり移動させる。光球を作った本人は大きさと明るさを保つことへ集中し、相手は進む方向や速度を伝える役割を担う。


 アリシアは友人と組んだ。


「私が先に光出す?」


「うん」


「落としたらごめん」


「落ちても爆発しないよ」


「そういう問題じゃない」


 友人が掌の上へ小さな光球を作る。


 最初は少し揺れていたものの、呼吸を整えると大きさが安定した。


「じゃあ右へ少し」


「どのくらい?」


「……手の幅一つくらい」


「分かった」


 友人がゆっくり動く。


「もう少し」


「今?」


「そこ」


 光球は指定された位置へ収まった。


 けれど、友人がほっとした瞬間、明るさが少し強くなる。


「あ」


「大きさは同じ?」


「たぶん」


 教師が近くを通りながら光球を確認した。


「大きさは大きく変わっていませんが、出力が少し上がりましたね。移動が終わったことで集中を緩めましたか?」


「はい……」


「位置だけではなく、維持している状態も最後まで確認してください。ただし、今の変化を慌てて逆方向へ戻そうとすると、今度は弱くしすぎることがあります。少しずつ整えましょう」


 友人は慎重に出力を落とし、元の明るさへ近づけた。


 次はアリシアの番になる。


 掌の上へ小さな光球を作ると、友人が横から覗き込んだ。


「もうちょっと高く」


「これくらい?」


「少しだけ上」


「少しってどのくらい?」


「私の指一本分」


「分かった」


 アリシアは光球の高さを調整する。


 以前の実技で、変化が起きた瞬間に大きく修正しすぎたことがあった。そのため今日は、動かす量を小さく意識した。


「左」


「うん」


「もうちょっと」


「まだ?」


「そこ。止めて」


 友人の声に合わせて止める。


 光球は大きく乱れなかった。


「できた」


 友人が嬉しそうに言った。


 アリシアも光球を見て笑う。


「今度は明るさも大丈夫?」


「たぶん。先生に聞こう」


「自分で大丈夫って言ってよ」


「私、先生じゃないし」


「こういう時だけ慎重なんだから」


 二人のやり取りを聞いていた隣の組の生徒が笑った。


 アリシアは少し恥ずかしくなったが、光球を消すまでは集中を切らさなかった。


 授業は授業として面白かった。


 研究の話へ置き換えなくても、それで十分だった。


     ◇


 昼休みは食堂へ向かった。


 今日は利用する生徒が多く、広い室内には食器の触れ合う音と会話が重なっている。焼いた肉と温かいスープの匂いが漂い、窓際の席には午後の淡い光が差し込んでいた。


 友人と向かい合って座る。


「今日、研究行く?」


 スープを一口飲んだ友人が尋ねた。


「行くと思う」


「数字見る?」


「状態が大丈夫なら、見るかもしれない」


「昨日決めたやつ?」


「うん」


「三日くらい決めてたやつ?」


「三日ずっと同じこと決めてたわけじゃないよ」


「でもまだ見てないんでしょ?」


「見てない」


 友人は不思議そうに首を傾げた。


「私だったら気になって無理かも」


「私も気になってるよ」


「じゃあよく待てるね」


 アリシアはスプーンを置いた。


「前よりは。でも昨日も、見たい気持ち九だった」


「十まであるやつ?」


「うん」


「ほとんど見たいじゃん」


「だから帰った」


「逆じゃない?」


「前はそう思ってた」


 友人は少し考え、パンをちぎった。


「楽しみすぎるから、今日開けないみたいな?」


「ちょっと違うけど……近いかも」


「誕生日の贈り物だったら絶対無理」


「研究の記録は贈り物じゃないよ」


「分かってるって」


 友人は笑い、アリシアもつられて笑った。


 それから研究の話は終わった。


 午後の授業について話し、友人が次の染色でどんな色を使いたいかを聞き、資料修復の練習紙をいつ持ち帰れるかという話へ移る。


 食堂を出る頃には、総偏差のことをしばらく忘れていた。


     ◇


 午後の授業が終わり、アリシアが研究棟へ向かっている頃、研究室では予定されていた開示前確認が行われていた。


 総偏差そのものを新たに計算する作業ではない。


 どの記録が固定済みの方法で算出可能なのか、比較対象として扱う記録に重複や設計上の取り違えがないか、そして昨日の手順が過去の記録と矛盾していないかを確認する作業だった。


 記録担当が古い整理紙と現在の手順書を並べ、その一行へ指を止めた。


「……サラ先生」


「どうしました?」


「これを確認してください」


 サラが隣へ移動する。


 示されたのは、以前行った入力側固定指標の開示記録だった。


 立ち上がり時間。


 戻り時間。


 自然揺れ回数。


 自然揺れ振幅。


 自然揺れ間隔。


 そして、総偏差。


 六つすべてに、すでに開示済みの印がある。


 サラの表情が変わった。


「総偏差も?」


「はい。残り二項目を開いた日の記録です。自然揺れ間隔のあと、休憩を挟んで総偏差まで確認しています」


 若い観測員も資料を確認した。


「昨日は、現在の三件という問いに対して個別配置を見ていない、という話と、指標そのものが未開示であることが混ざっていましたね」


「そうです」


 サラはすぐに別の記録を開いた。


 当時の総偏差比較では、設計群を分けた状態で既存の比較可能記録を扱い、確認・非確認の各状態に広い重なりがあることまで確認している。


 少なくとも、「まだ知らない総偏差を初めて開く」という扱いは誤っている。


「値を再表示する前に気づけてよかった」


 若い観測員が息を吐いた。


 サラは頷いたものの、表情は緩めなかった。


「アリシアさんへ最初に説明します。こちらの確認不足です」


「昨日決めた手順は?」


「全部を無駄にはしません。比較対象を先に固定する、設計群を混ぜない、欠測をゼロにしない、結果後に即席の複合指標を作らないという部分は維持できます。ただし、『未開示の総偏差を次に開く』という前提は取り消す必要があります」


「現在の三件だけを総偏差上で再整理することはできますが、それは既知データの事後探索ですね」


「はい。昨日考えていたものとは役割が違います」


 サラは資料を閉じた。


 ちょうどその時、廊下から足音が近づいてきた。


     ◇


 研究室へ入ったアリシアは、机の上に数値表が出ていないことへまず気づいた。


 昨日は、状態が安定していれば総偏差を開く可能性があった。


 それなのに、中央の机には閉じられた資料と白紙しか置かれていない。


「何かあった?」


 椅子へ座る前に尋ねる。


 サラが頷いた。


「ありました。まず、昨日の確認について訂正しなければなりません」


 アリシアの胸が少しだけ強く鳴った。


「危ないこと?」


「安全上の問題ではありません。記録管理上の確認不足です」


「……記録?」


「はい」


 アリシアが席へ着くと、副学長も向かい側へ座った。


 サラは閉じた資料へ手を置いたまま説明する。


「昨日、総偏差を『現在の問いに対して、まだ値の配置を見ていない固定指標』として扱いました。しかし、過去の入力側固定指標比較記録を再確認したところ、総偏差そのものはすでに一度開示されています」


 アリシアはすぐには意味を理解できなかった。


「……見たことある?」


「あります」


「私も?」


「はい。アリシアさんも同席しています」


 記憶を探る。


 入力側の数字をいくつも見た日。


 最初に立ち上がり時間や戻り時間を見て、自然な揺れの回数や振幅も確認した。


 別の日には、算出できない記録が多い自然揺れ間隔を確認した。


 そのあと――。


 アリシアの目が少し大きくなった。


「……総偏差も見た」


「はい」


「広く重なってた」


「その通りです」


 記憶がつながった瞬間、顔が熱くなった。


「私、忘れてた」


「私たちも昨日、その場で正しく確認できませんでした」


 サラは責任をアリシアだけへ置かなかった。


「昨日の説明では、『総偏差は固定済みだが、現在の三件という問いに対する個別配置はまだ見ていない』という点と、『総偏差そのものをまだ開示していない』という点を混同しました。後者は誤りです」


「じゃあ、今日見る予定だった数字は……もう見た数字?」


「はい。ただし、現在の三件を主対象として抜き出した比較はしていません」


「でも、値そのものは知ってる」


「過去に見ています」


 アリシアは膝の上で手を握った。


 昨日、総偏差を見たい気持ちは九まで上がった。


 まだ知らない数字だと思っていた。


 今日も、学院へいる間に何度か思い出していた。


 それなのに、実際には以前見たことがある。


(忘れてた……)


 恥ずかしさが先に来た。


 研究を続けているのに、自分が何を見たのかさえ忘れていた。


「ごめんなさい」


 小さく言うと、副学長がすぐに首を横へ振った。


「謝る必要はない」


「でも、私も見たのに」


「記録を使う研究で、参加者一人の記憶を管理台帳の代わりにはできない。昨日その場で確認しなかった研究側にも問題がある」


「でも……」


「アリシアさん」


 サラが穏やかに呼ぶ。


「忘れていたことと、忘れていた情報を都合よく新しい結果として扱うことは別です。今日は値を再開示する前に記録との食い違いが見つかりました。なら、ここで止めて役割を修正できます」


 アリシアは閉じられた資料を見る。


 数字はまだ出ていない。


 昨日決めた手順のまま、知らない値だと思って開く前に止まった。


「……じゃあ、昨日決めたの全部だめ?」


「いいえ」


 記録担当が昨日の紙を取り出した。


「比較対象を先に決めること、設計群を混ぜないこと、同一記録を重複計上しないこと、算出不能をゼロにしないこと、結果を見たあとで新しい閾値や複合指標を作らないこと。これらはそのまま有効です」


「総偏差だけが違う?」


「より正確には、総偏差を使う分析の役割が変わります」


 魔導具担当教師が説明を引き継いだ。


「総偏差を初めて開く比較ではありません。すでに開示済みの指標を、後から定めた『三件の閾値未満胸部異常報告に共通する条件があるか』という問いに対して再整理する、事後的な探索になります」


「平均傾きと変動性を組み合わせるのと近い?」


「結果をすでに知ったあとで行う探索、という点では近い部分があります。ただし、扱う情報と目的は異なります」


 アリシアは少し黙った。


 昨日、自分は「まだ知らないから」という理由だけで総偏差を選ばないよう注意した。


 そのうえで、現在の問いに合う指標として選んだ。


 だから、完全に無意味だったわけではない。


 けれど「まだ知らない」という前提そのものが間違っていた。


「今から三件の総偏差だけ見直したら、どうなる?」


「既知データを現在の問いで再配置する探索です」


「そこで三件が近かったら?」


「候補にはできます。しかし独立した確認にはなりません」


「比較相手にも同じところがあったら?」


「三件だけに限定された配置ではない、と記述できます」


「三件が離れてたら?」


「総偏差という既存指標では、三件の共通性は見えにくいと記述できます。ただし入力側全体の関与を否定するものではありません」


 昨日決めた言葉とよく似ている。


 違うのは、その数字が新しく開くものではないことだった。


「……今日、見直す?」


 アリシアは自分から口にした。


 サラは答える前に尋ねた。


「今、どうしたいですか?」


 アリシアは正直に自分の内側を探った。


 総偏差を見たい気持ちは、研究棟へ来る前には八ほどあった。


 今は少し違う。


 驚き。


 恥ずかしさ。


 せっかく昨日決めたのに、という残念さ。


 それから、間違いを見つけたなら早く修正したいという気持ち。


「……見たい気持ちは六くらい。でも、今すぐ正しくやり直したい気持ちは八」


「その二つは分けた方がよさそうですね」


「うん」


「疲労は?」


「二」


「身体症状は?」


「ないです」


「止まりにくさは?」


 アリシアは少し考えた。


「六。たぶん、間違えたまま帰るのが嫌だから」


 言葉にしたことで、自分でも理由が分かった。


 数字を知りたいだけではない。


 昨日間違えた。


 だから今日、その場で正しい形へ直して終わりたい。


 その気持ちが強い。


(でも、間違えたから急ぐのも違う)


 アリシアは手を開き、膝の上へ置き直した。


「今日は見直さない」


 サラがわずかに表情を緩めた。


「理由は?」


「間違いを見つけた直後だから。今は数字より、間違えたのを早く直したい気持ちが強い。そこで見たら、ちゃんと探索したいのか、失敗した感じを消したいのか分からなくなりそう」


 研究室の中に短い沈黙が落ちた。


 副学長がゆっくり頷く。


「妥当だと思う」


「じゃあ今日は、昨日の紙を直したい」


「値は開かずに?」


「はい」


     ◇


 昨日作った手順書が机の中央へ置かれた。


 消すのではなく、どこが誤っていたのかを残したうえで修正する。


 最初に訂正されたのは、総偏差を未開示指標として扱っていた部分だった。


『訂正:総偏差は既存入力側固定指標比較において開示済み。現在の三件を主対象とする問いの設定は当該開示後であるため、今後総偏差を用いる場合は既知データの事後探索として扱う。』


 アリシアはその文章を読み、少しだけ顔をしかめた。


「長い」


「短くしますか?」


「意味が減らないなら」


 記録担当が少し考え、補助見出しを付けた。


『総偏差=開示済み。現在の問いへの適用は事後探索。』


「こっちは分かる」


「正式記録には長い方を残します」


「はい」


 次に、昨日決めた比較対象の規則は維持された。


 設計群を分ける。


 同一記録を重複して数えない。


 比較可能性を先に確認する。


 算出不能をゼロにしない。


 三件だけを先に見てから比較対象を選ばない。


 結果を見たあとで新しい閾値や複合指標を作らない。


「ここは昨日のままでいいんだ」


 アリシアが確認すると、魔導具担当教師が頷いた。


「はい。分析の役割が変わっても、比較を恣意的にしないための規則として有効です」


「じゃあ、昨日は全部間違いじゃない」


「もちろんです」


「……よかった」


 思わず漏れた言葉に、アリシア自身が少し恥ずかしくなる。


 サラは笑わなかった。


「間違いが一つ見つかった時に、周囲まで全部失敗に見えることはあります。でも、実際には残せる部分と直す部分を分ける必要があります」


「資料修復みたい」


 アリシアが言ってから、すぐに首を振った。


「……違う。何でも研究と学院でつなげないって決めてたのに」


 今度は若い観測員が少し笑った。


「似ていると思った時まで禁止する必要はないのでは?」


「でも最近、すぐつなげるから」


「つなげるために授業を見ているのでなければ、自然に思い出すくらいは問題ないでしょう」


「そうかな」


「少なくとも私は、今の一言で研究規則を変更しようとは思いません」


 その言い方に、アリシアも笑った。


「じゃあ、少しだけ似てた」


「そのくらいで」


     ◇


 修正作業が終わっても、研究室ではすぐに次の指標を選ばなかった。


 総偏差が「新しく開く数字」ではなくなったからといって、空いた場所へ別の未開示情報を入れる必要はない。


 そもそも入力側の固定六指標は、すでにすべて一度開示されている。


 その事実を改めて確認した時、アリシアは少し驚いた。


「じゃあ、入力側でまだ開けてない固定数字はない?」


「現在固定されている六項目については、ありません」


「全部見たんだ……」


「はい」


「なのに、分からない」


 言ったあと、アリシアは少し笑った。


 悲しいというより、妙な気分だった。


 六つの数字を全部見れば何かが分かると、どこかで思っていた時期がある。


 実際には、六項目を開いても確認状態をきれいに分ける単独指標はなかった。


 東側事前状態の平均傾きと変動性を見ても、三件の弱い胸部異常だけに限定された明瞭な特徴は見つからなかった。


「数字が足りないから分からない、だけじゃないんだ」


 アリシアが呟く。


 副学長が答えた。


「そうだな。すでにある数字の中に、単純な分離がないということも情報だ」


「じゃあ次は、新しい数字を作る?」


「それを今日決める必要はない」


「……やっぱりそれ」


「便利だと言っただろう」


 アリシアは少し唇を尖らせた。


 それでも、すぐに新しい指標を作りたいとは思わなかった。


 むしろ今日の間違いは、項目が増えるほど「何を見たか」を管理すること自体が難しくなると教えている。


「新しい数字を作る前に、今まで見たものをちゃんと整理した方がいい?」


「それも候補です」


「でも整理して、そこからまた似てるもの探したら?」


「事後探索になります」


「何しても探索になる」


「既存結果を使って新しい候補を探すなら、基本的にはそうです」


「悪いことじゃない?」


「悪くありません。確認と呼ばなければいい」


 アリシアはその言葉をしばらく考えた。


 探索は悪いものではない。


 結果を見てから気づくこともある。


 そこから次の問いを作ることもできる。


 問題は、あとから見つけたものを、最初から確かめる予定だった答えのように扱うことだった。


「じゃあ……総偏差を三件で見直すのも候補のまま?」


「はい」


「平均傾きと変動性を一緒に見るのも?」


「はい」


「前に見た入力側の六個を、今の問いで整理するのも?」


「それも候補にはできます。ただし項目数が多いので、何をどう見るかの規則は先に必要でしょう」


「東西の不一致をもう一回確かめるのは?」


 その問いを口にした瞬間、研究室の空気が少し変わった。


 誰かが驚いたわけではない。


 ただ、これまでの事後探索とは違う種類の問いが出たことを、全員が認識したようだった。


 アリシア自身も気づいた。


「あ……これは、数字を見直すのと違う」


「そうですね」


 サラが答えた。


「以前の専用前向き記録では、東西の確認判定が一致した記録だけでなく、不一致となった記録も一件ありました。その不一致が再び観察されるかを新しい独立記録で確かめる、という問いは、過去データの再整理とは役割が異なります」


「でも、やるなら人工刺激になる」


「そうなります」


「すぐはやらない」


「はい。現在、予定された新規刺激はありません」


 アリシアは頷いた。


 あの不一致は気になっている。


 東側は確認。


 西側は非確認。


 自分には弱い胸部異常があった。


 だからといって、それをもう一度見たいという理由だけで試行を追加しなかった。


 固定した二件の追加試行は、そこで終わっている。


 もし今後もう一度確かめるなら、以前の追加ではない。


 新しい問いとして、新しい規則を先に決める必要がある。


「候補にだけ残していい?」


「もちろんです」


 記録担当が新しい欄へ書く。


『将来候補:固定済み安全範囲・早期位置単一意図的小変動条件における東西確認判定の不一致が、独立した追加記録でも再観察されるか。新規前向き設計が必要。現時点で実施未決定。』


「東が確認で西が非確認、って限定しないの?」


 アリシアが尋ねる。


 副学長が答えた。


「限定する設計も可能だが、まず候補として残す段階なら『不一致』の再観察とした方が狭めすぎない。もし正式に設計するなら、東確認・西非確認だけを対象にするのか、逆方向も不一致として扱うのかを先に決める必要がある」


「結果を見てから、こっちの不一致だけ数えるのはだめ」


「そういうことだ」


「試す回数も先に?」


「実施するなら必要です」


「途中で欲しい結果が出てもやめない?」


「それも設計時に決める」


 アリシアはそこで口を閉じた。


 少しずつ、気持ちがそちらへ向いているのが分かる。


 過去の数字を組み合わせて何かを探すより、新しい記録で同じ問いをもう一度確かめたい。


 けれど、それは人工刺激を伴う。


 安全確認も必要になる。


 回数も決めなければならない。


 そして何より、今この瞬間に決める必要はない。


「今日は候補だけ」


 アリシアが自分から言った。


「はい」


「人工刺激の予定は作らない」


「作りません」


「次に研究棟へ来た時も、すぐ設計するって決めない」


「それもアリシアさんが選べます」


 アリシアは息を吐いた。


 総偏差を開くつもりで来た日だった。


 それが、過去記録の確認不足によって止まった。


 結果として新しい数字は一つも増えていない。


 それでも、研究が後ろへ戻ったとは思わなかった。


     ◇


 終了前の状態確認では、疲労は三だった。


 痛み、息苦しさ、胸部異常はゼロ。頭痛、吐き気、めまいもなく、身体状態は安定している。


 総偏差を見直したい気持ちは四。


 過去の六指標を今の問いで整理したい気持ちは五。


 東西不一致を新しい記録で確かめたい気持ちは七。


 今日その設計まで進めたい気持ちは五。


 止まりにくさは四だった。


「不一致の方が上がった」


 アリシアが数字を見て言う。


「気づいたこと自体は記録しますが、七だから採用、とはしません」


 サラが答える。


「分かってる」


「明日までに変わるかもしれません」


「うん」


「変わっても問題ありません」


「それも分かってる」


 アリシアは少し笑った。


「でも……今日は間違い見つかってよかった」


「そうですね」


「もし見つからないまま総偏差を見てたら?」


「既知の値を新規開示のように扱うところでした」


「それ、かなり嫌」


「私もです」


 サラの返事ははっきりしていた。


「ですから、今日の訂正も正式な記録として残します」


「間違えたことも?」


「もちろんです。消して、最初から間違えなかったことにはしません」


 アリシアはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。


「うん。その方がいい」


     ◇


 研究棟を出ると、空の雲は朝より薄くなっていた。


 夕日は直接見えないものの、西の空だけが淡い橙色に明るんでいる。風も弱く、学院から帰る生徒たちの声が遠くまで聞こえた。


 アリシアは生活観測区画へ戻る道を歩きながら、今日の出来事を頭の中で何度もなぞった。


 恥ずかしさはまだ少し残っている。


 総偏差を見たことを忘れていた。


 しかも昨日は、それを新しく見る数字だと思って、見るか見ないかでずいぶん悩んだ。


(でも、昨日止まってよかった)


 もし勢いのまま開いていたら、過去に見た値を新しい結果として受け取っていたかもしれない。


 止まった理由は、記録の重複を疑ったからではない。


 ただ、自分の見たい気持ちが強かったから一日置いただけだった。


 それでも、一日置いたことで確認する時間ができた。


 偶然助かった部分もある。


 だから次からは、「覚えているつもり」を確認項目にした方がいいのかもしれない。


 そんなことを考えていると、道の先に黒い影が見えた。


 ノアだった。


「今日は散歩?」


 アリシアから先に尋ねる。


「そうだ」


「待ってない?」


「待ってねえ」


「じゃあ今日は信じる」


「なんで昨日までは信じてなかったんだよ」


 ノアが隣へ並ぶ。


「数字見たか?」


「見なかった」


「また?」


「見ようとしてた数字、前に見たことあった」


 ノアが歩きながら顔を上げた。


「お前、とうとう自分の研究忘れたのか」


「……言い方」


「事実だろ」


「研究の人たちもその場で気づかなかったの」


「集団で忘れたのか」


「あとで記録確認して見つけた」


「紙の方が覚えてたんじゃねえか」


 アリシアは言い返そうとして、できなかった。


「……そうかも」


「だったら紙に謝っとけ」


「なんで紙に?」


「せっかく書いてあったのに誰も読まなかったから」


「今日は読んだよ」


「じゃあ許してもらえるな」


「紙は怒らないよ」


「資料修復の先生に聞いてみろ」


「絶対聞かない」


 アリシアは笑った。


 恥ずかしさが少しだけ軽くなった。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は朝の卓上遊戯をまだ机の端へ残していた。


 盤面は朝とは大きく変わっている。


「終わった?」


 アリシアが尋ねると、子供は首を横へ振った。


「途中」


「ずっとやってたの?」


「途中でやめた」


「あとで続き?」


「たぶん」


「駒の場所、覚えてる?」


 子供は盤を指差した。


「ここにあるから」


 アリシアは思わず黙った。


 ノアが横で小さく喉を鳴らす。


「紙どころか駒にも負けてんな」


「何が?」


「記憶」


「ノア、うるさい」


 子供は意味が分からないまま二人を見比べていた。


 アリシアは笑いながら子供の隣へ座った。


「続き、今やる?」


「ごはんのあと」


「じゃあ私も見る」


「アリシア、ルール知らない」


「教えて」


「いいよ」


 それだけで、夕食後の予定が一つ決まった。


 研究とは何の関係もない予定だった。


     ◇


 夕食後、アリシアは子供から卓上遊戯の規則を教わった。


 丸い駒は線に沿って一つずつ動き、相手の駒を挟むと動けなくできる。説明は途中で何度も抜けたが、世話役が必要なところだけ補ってくれた。


「それ、そこ動かしたら取られるよ」


 子供に言われ、アリシアは指を止めた。


「先に言ってよ」


「今言った」


「動かす前に」


「まだ動かしてない」


「……確かに」


 ノアは少し離れた椅子の上から眺めている。


「研究より弱そうだな」


「今覚えてるところだから」


「言い訳が早い」


「ノアもやる?」


「猫の前脚でその駒動かせると思うか?」


「できそう」


「できてもやらねえ」


 子供が笑った。


 顔のない存在は同じ空間の少し離れた場所で静かに過ごしており、胸元の十一の光にも目立った変化はなかった。重要な木箱も閉じたままで、その夜、誰も箱の話をしなかった。


     ◇


 夜遅く、アリシアは机へ向かった。


 最初に研究帳面を開こうとして、少し迷ったあと学院用の帳面を先に手に取る。


 魔法制御の実技について書き、友人と二人一組で光球を移動させたことをまとめた。資料修復の授業はなかったため、その欄には何も増えない。


 それから研究帳面を開く。


 昨日の頁を見返すと、『最初に開示する入力側指標候補として総偏差を選択』という文章がある。


 アリシアはそれを消さなかった。


 横へ訂正を書く。


『訂正。総偏差は以前の入力側固定指標比較で開示済み。自然揺れ間隔とともに確認しており、確認・非確認各状態の間に広い重なりがあった。未開示指標として扱ったのは記憶および記録確認の誤り。』


 続けて書く。


『昨日固定した比較上の規則は維持可能。設計群を混ぜない。同一記録を重複計上しない。欠測をゼロにしない。比較対象を結果後に変更しない。新規閾値・複合指標を結果後に作らない。』


 その下へ、今日新たに確認したことを書く。


『入力側の既存固定六指標――立ち上がり時間、戻り時間、自然揺れ回数、自然揺れ振幅、自然揺れ間隔、総偏差――はすべて既に開示済み。単独で既存の東側・西側・対象感覚確認状態を明瞭に分離する指標は確認されていない。ただし、これを入力側が無関係である証拠とはしない。』


 アリシアは筆を止めた。


 以前見た総偏差の細かな値を、今ここで記憶だけから書き直そうとはしなかった。


 必要なら正式記録を見ればいい。


 自分の記憶で埋める必要はない。


 次に、今日浮かんだ新しい候補を書く。


『既知データの事後探索候補:

・総偏差を現在の三件の問いに対して再整理する。

・平均傾きと変動性を組み合わせて探索する。

・入力側既存六指標を、現在の問いに対して事前に規則を固定したうえで再整理する。

いずれも既知結果を用いる探索であり、独立確認ではない。現時点で採用未決定。』


 その下へ少し間を空けた。


『新規前向き候補:

固定済み安全範囲・早期位置単一意図的小変動条件において、東西確認判定の不一致が独立した追加記録でも再観察されるか。実施する場合、試行数、実施試行の数え方、両方向の不一致の扱い、主判定、停止規則、安全・回復間隔を事前固定する必要がある。現時点で人工刺激予定なし。』


 最後の一文を書くまで、少し時間がかかった。


『今日は次の研究方針を確定しない。』


 アリシアは筆を置いた。


 昨日より、候補は増えたようにも見える。


 それでも頭の中は、昨日より少し整理されていた。


 過去の数字を使って候補を探すこと。


 新しい記録で、前に起きた不一致がもう一度起きるか確かめること。


 その二つは同じではない。


(私は……どっちを知りたいんだろう)


 今すぐ答えを出さなくていい。


 ただ、気持ちは少しだけ新しい記録の方へ傾いている。


 それが「新しいものを見たい」というだけなのか。


 それとも、過去の数字を組み合わせ続けるより、一度起きた不一致を独立して確かめる方が今の問いに合っていると思っているのか。


 そこは、もう少し考える必要があった。


 ノアは窓辺ですでに身体を丸めている。


「寝ないのか」


「もう寝る」


「今日は紙に負けた日だったな」


「まだ言うの?」


「記念日だ」


「記念日にしないで」


「じゃあ忘れろ」


 アリシアは一瞬だけ黙り、それから笑った。


「忘れたからこうなったんだけど」


「じゃあ覚えとけ」


「うん」


 それは、研究の内容だけではない。


 自分が一度見た情報でも忘れることがある。


 研究する側も、記録をその場で取り違えることがある。


 だから記録を残す。


 だから開く前に確認する。


 間違いを起こさないためだけではなく、間違いが起きた時に戻れる場所を残すために。


 アリシアは研究帳面を閉じ、学院用の帳面と並べた。


 明日、新しい数字を開く予定はない。


 人工刺激の予定もない。


 東西不一致をもう一度確かめるかどうかさえ、まだ決まっていない。


 けれど、今日一つだけはっきりしたことがある。


 記録は答えをくれるだけではない。


 時には、自分たちが間違った方向へ進もうとしたことを、答えを見る前に止めてくれる。


 その役割を知った今夜は、昨日までより少しだけ、閉じた帳面を信じて眠れそうだった。

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