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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第267話 先に決めるのは、見る数字の方

朝の森には薄い霧が残っていた。


 生活観測区画の窓から見える木々は、遠くなるほど白く輪郭を失っている。昨夜の雨はなかったものの、空気には湿り気があり、窓を開けると冷たい匂いと一緒に葉から雫の落ちる音が入ってきた。


 アリシアは寝台の上で身体を起こし、急がず状態を確かめた。疲労は一、痛みと息苦しさはなく、胸部にも異常はない。頭痛、吐き気、めまいもなく、人工刺激を行っていない日が続いていることもあって、身体について気になる変化は何も残っていなかった。


 それでも、頭の中には昨夜書いた一文がある。


『三件の閾値未満胸部異常報告に、記録上共通する条件があるか。』


 昨日までは、次に何を見るのかさえ決めていなかった。


 今も正式な分析を始めると決まったわけではない。けれど、少なくとも何を知りたいのかは以前より言葉になっている。


(次は、見るものを決めるところから)


 そう考えたところで、アリシアは自分の中に小さな変化があることに気づいた。


 以前なら、何を見るか決めるという言葉の直後には、どの数字を開きたいかを考えていた。


 今朝は違う。


 どの数字なら、今の問いに対して意味があるのか。


 そちらを考えようとしている。


 机の上には研究帳面が置かれているが、アリシアは開かなかった。昨日までに候補として挙がっていた入力側の固定項目を、朝の自分だけで選ぶ必要はない。


「また眉間」


 枕元からノアの声がした。


 アリシアは反射的に額へ手を当てた。


「してない」


「今触った時点で気にしてんだろ」


「ノアが言うから」


「じゃあ今日は何だ。何を見るかじゃなく何を知りたいか、その次は何を食いたいかか?」


「違うよ」


「朝飯なら俺は肉でいい」


「聞いてない」


「知りたいことを言えって昨日言ってただろ」


「ノアの朝ご飯の希望は研究じゃない」


「俺には重要だ」


 アリシアは思わず笑い、それから寝台を降りた。


 研究について考えるのは、学院が終わってからでも遅くない。


 今日は通常授業の日で、資料修復の選択授業はない。それでも、学院へ行けば友人がいるし、授業がある。


 今朝のうちに研究の一日へしてしまう必要はなかった。


     ◇


 朝食の席では、子供が丸いパンの表面をじっと見つめていた。


 何か問題があるのかと思ったアリシアが隣へ座ると、子供はパンを持ち上げて見せる。


「ここ、黒い」


 焼き色の濃い部分だった。


「焦げてるのかな」


「食べられる?」


「そのくらいなら大丈夫だと思うけど……」


 アリシアが近くにいた世話役へ確認すると、問題ないと教えられた。子供は安心したらしく、濃い部分から先にかじる。


「そこから食べるんだ」


「気になったから」


「おいしい?」


 子供はしばらく噛んでから頷いた。


「ちょっと苦い」


「じゃあ嫌い?」


「分かんない。こっちも食べる」


 今度は焼き色の薄い部分をかじる。


 アリシアはその様子を眺めながら、自分の朝食へ手を伸ばした。


 何かに似ている、と考えそうになったが、今日はその続きを追わない。


 子供がパンを食べている。


 それだけでいい。


 少し離れた場所では顔のない存在が静かに過ごしており、胸元の十一の光に目立った変化はない。重要な木箱も閉じたままで、普通の紙箱は棚の上に置かれていた。


 どれも今朝は動かさない。


     ◇


 学院の午前授業では、魔法理論の基礎復習が行われた。


 教師が黒板へいくつかの簡単な魔法式を書き、同じ量の魔力を使った場合でも、術式の組み方によって出力の安定性や持続時間が変わることを説明している。


 アリシアは板書を写しながら、途中で隣の友人の手元へ目を向けた。


「まだ青い」


 小声で言うと、友人が自分の指先を見た。


 昨日の染色実習で付いた色が、まだ爪の脇へわずかに残っている。


「薄くなったよ」


「昨日よりは」


「ちゃんと落ちるって先生言ってたし」


「痛くない?」


「全然。色だけ」


 教師がこちらへ視線を向けたため、二人は同時に口を閉じた。


 少し遅れて、前の席の生徒が肩を揺らして笑っている。


 アリシアは慌てて黒板へ目を戻した。


 教師は何も言わなかったが、次に書かれた式を指し示す。


「では、この二つを比べます。同じ魔力量だから同じ魔法になる、と考えた人はいますか?」


 何人かが手を挙げた。


「残念ながら、そう単純ではありません。比較するときは、何を同じとし、何が違うのかを確認してください。数字が一つ同じだから、全体も同じだとは限りません」


 アリシアは板書を書き写した。


 研究のことが一瞬だけ浮かぶ。


 けれど、そこで思考を止めた。


(今は授業)


 昨日の資料修復と同じだった。


 学院で聞く言葉のすべてを研究の教訓へ変えなくてもいい。魔法理論は魔法理論として覚える。


 そう意識すると、教師の説明そのものへ集中できた。


     ◇


 昼休み、二人は風の弱い校舎裏のベンチへ座った。


 朝の霧はすでに消え、空には白い雲がゆっくり流れている。近くでは別の生徒たちが昼食を取り、少し離れた場所から笑い声が聞こえてきた。


「昨日、研究で何か決まった?」


 友人が尋ねた。


 アリシアはパンの包みを開きながら頷きかけ、途中で首を横へ振った。


「次に何を見るかは、まだ」


「また決めなかったんだ」


「でも、何を知りたいかは少し決めた」


「何を?」


「前に話した、弱い変な感じが何回かあったでしょ」


「胸の?」


「うん。あれが起きた時に、記録の中で何か共通してるものがあるか」


 専門的な東西の反応や時間窓については説明しない。


 友人もそこまでは求めていなかった。


「同じ時に同じことがあったか探すってこと?」


「だいたい。でも、同じに見えても、それだけで原因とは言えない」


「また難しくなった」


「ごめん」


「謝るところじゃないって」


 友人は笑い、飲み物へ口をつけた。


「じゃあ今日は、その共通してるやつ探すの?」


「その前に、何を見るか決めるかも」


「見るもの決めるのに一日使うの?」


「一日かは分からない」


「研究って大変だね」


「私も最近そう思う」


「前は?」


「見れば分かると思ってた」


 友人が少し意外そうに目を丸くした。


「今は違うの?」


「見たあとで、『これ似てる』『こっちも似てる』って探したら、たくさんある中から都合いいのだけ選べるかもしれないから」


「じゃあ先に、『これを見る』って決める?」


「うん」


「それで何もなかったら?」


 アリシアは少し黙った。


 以前なら、その先に「じゃあ次を見る」がすぐ続いていた。


「何もなかったって記録する」


「そのあと別のを見る?」


「見るかもしれない。でも、その時は最初から見ようとしてたのとは別って分ける」


「……やっぱり難しい」


「うん」


「私、染色でよかった」


 友人が真顔で言ったので、アリシアは笑った。


「染色も難しいって言ってたよ」


「研究より布の方が話聞いてくれそう」


「紙も話さないよ」


「アリシアは紙と仲良くなりそうだけどね」


「ならないよ」


「昨日、折れがちょっと直っただけで嬉しそうだったじゃん」


 言い返せず、アリシアはパンを一口食べた。


 友人は楽しそうに笑っている。


 研究の話をしていても、最後には普通の学院生活へ戻ってこられる。


 そのことが心地よかった。


     ◇


 午後の授業を終えたあと、アリシアは昨日より迷わず研究棟へ向かった。


 今日、数字を見ると決めているわけではない。


 ただし、昨日言葉にした問いをもとに、どの既存指標を見るのかを決める相談なら進めてもいいと思っていた。


 研究室へ入ると、今日は副学長、サラ、魔導具担当教師、若い観測員、記録担当が揃っていた。


 机の中央には一枚の白紙が置かれている。


 数値表はない。


 アリシアはそれを確認してから椅子へ座った。


「今日は、何を見るか決めたいです」


 自分から言うと、副学長が頷いた。


「昨日整理した問いを変えずに?」


「はい。三件の閾値未満胸部異常報告に、記録の上で共通する条件があるか」


「原因を決める問いではない?」


「はい」


「三件が同一感覚だと仮定する?」


「しないです。三件を、今ある記録上の報告三件として比べるだけ」


「よろしい」


 サラが先に状態確認を行った。


 疲労は二。


 痛み、息苦しさ、胸部異常はゼロ。


 頭痛、吐き気、めまいもない。


 恐怖は一。


 研究参加希望は八。


 新しい値を見たい気持ちは七。


 三件に共通するものが見つかってほしい気持ちは七。


 今日のうちに実際の数値まで開きたい気持ちは六。


 止まりにくさは四。


「昨日より落ち着いていますね」


「何を見るか決めるだけでもいいって思ってきたから」


「では、その前提で進めましょう」


     ◇


 魔導具担当教師が白紙の上部へ、すでに固定されている入力側指標を書き出した。


 意図的小変動の立ち上がり時間。


 戻り時間。


 入力前固定区間の基準を満たす自然揺れ回数。


 自然揺れ振幅。


 自然揺れ間隔。


 基準からの総偏差。


 アリシアは並んだ六項目を見た。


「最初の四つは、もう前に見てる」


「はい」


「自然揺れ間隔も……」


 アリシアはそこで記憶をたどった。


 固定区間内に基準を満たす揺れが二つ以上なければ、間隔は算出できない。窓を延ばして無理に値を作ることはせず、算出不能はゼロとは扱わない。


「見られる記録と、見られない記録があった」


「その理解で合っています」


「総偏差も、もう計算の仕方は決まってる」


「はい」


 アリシアは紙を見つめた。


 六項目すべてが、結果を見てから新しく作られたものではない。


 だからといって、全部をもう一度三件に対して並べればいいわけでもない。


「三件の共通条件を見るなら……どれが一番いいんだろう」


「そこを今日は考えます」


 魔導具担当教師が椅子へ座り直した。


「まず重要なのは、すでに結果を知っている項目と、現在の問いに対してまだ個別配置を見ていない項目を分けることです」


「立ち上がり、戻り、揺れ回数、振幅は、前に見た」


「はい。ただし、そのときの主目的は現在の三件だけを比較することではありませんでした。設計群を分けたうえで、東側、西側、アリシアさんの対象感覚の確認・非確認との配置を記述しています」


「だから、今から三件だけ抜き出して見ると……」


「結果を知ったあとの再探索になります」


「だめではないけど、役割が違う」


「そうです」


 アリシアは頷いた。


「自然揺れ間隔も同じ?」


「すでに開示された範囲を使うなら、同じく既知情報を用いた探索です」


「総偏差は?」


「既存の固定補助指標ですが、現在の三件という問いに対してどの記録がどこへ位置するかを、アリシアさんはまだ見ていません」


 アリシアの視線が総偏差の文字で止まった。


 見ていない。


 その言葉だけで、少し知りたい気持ちが強くなる。


 サラがそれに気づいたのか、すぐに尋ねた。


「今、総偏差を見たい気持ちは?」


「……八」


「上がりましたね」


「まだ知らないから」


「それは悪いことではありません。ただし、『まだ知らないから』だけで選びますか?」


 アリシアは口を閉じた。


 昨日、自分で言ったことだった。


 残っているから見る。


 まだ知らないから見る。


 それだけでは、問いに対して何の役割を持つのかが決まっていない。


「総偏差って、何を表してる?」


 アリシアが魔導具担当教師へ尋ねた。


「固定された観測範囲内で、入力が基準線からどれだけ離れたかを全体としてまとめた補助量です。局所的な一か所の形だけを見る指標ではありません」


「立ち上がりが速いとか、揺れが大きいとかとは違う?」


「それらの一部が総偏差へ影響する場合はありますが、同じものではありません。総偏差が同程度でも、局所的な形が同じとは限りません」


「じゃあ、三件の入力全体のずれ方が近かったかを見るのには使える?」


「より正確には、『固定された方法で算出した総偏差が三件でどの位置にあるか』を見ることはできます」


「入力が同じだった、とは言えない」


「はい」


 アリシアは紙の端へ指を置いた。


(これなら、今の問いの一部には合ってる)


 三件の弱い胸部異常があった記録で、入力側の全体的な偏差量が近かったのか。


 もし近くても、それだけで同じ感覚だとは言えない。


 原因とも言えない。


 比較対象にも同じ範囲があれば、三件だけの特徴ではない。


 逆に三件がばらばらなら、少なくとも総偏差という一つの固定指標では共通していなかったことになる。


「総偏差を一個目にしたい」


 アリシアが言った。


 副学長はすぐに承認せず、問い返した。


「理由は?」


「まだ見てないから、だけじゃなくて……三件の時の入力側に、固定した全体量として共通するところがあるかを見るため」


「三件が近ければ?」


「同じ感覚だったとは言わない。原因とも言わない。比較相手にも同じくらいの値があるか見る」


「離れていれば?」


「総偏差では三件の共通条件は見えなかったって記録する。でも、入力側全部が関係ないとは言わない」


「よろしい」


 副学長がそこで初めて頷いた。


     ◇


 次に決める必要があるのは、比較対象だった。


 三件だけを見て「近い」と判断したあとから、都合に合わせて比較相手を追加することは避けたい。


「前に使った比較可能記録を、そのまま全部?」


 アリシアが尋ねる。


 記録担当が資料を確認した。


「そのまま、という言い方には注意が必要です。現在の三件は複数の設計群にまたがっています。また、歴史的な比較可能意図的小変動記録、三領域前向き記録、東西専用前向き記録は、設計上の役割が異なります」


「混ぜて一つの集団にしない」


「はい」


「でも、それぞれの中で比較することはできる?」


「総偏差が同じ固定法で算出可能で、現在の問いに対する比較条件を満たす記録であれば可能です。ただし、設計群を消して一つの大きな数として扱いません」


 アリシアは以前の入力側比較を思い出した。


 歴史的な比較可能意図的小変動記録。


 三領域の前向き記録。


 東西専用の前向き記録。


 同じ記録を別の一覧から重ねて数えない。


 古い主観報告の一覧や時間窓比較の記録を、別試行のように足さない。


「じゃあ、前に固定した比較可能な範囲を使う。でも設計群は分けたまま」


「一つの案です」


「三件の胸部異常があった記録だけ先に見ない」


「重要です」


 サラが言った。


「開示するときは、比較対象を含めた配置を同時に確認した方がよいでしょう。三件だけの値を先に見れば、その時点で『近い』『離れている』という印象が作られます」


「あとから比較相手を見たら、最初の印象に引っ張られる?」


「可能性があります」


「じゃあ一緒に見る」


「その方針を採用するなら、記録しておきます」


 アリシアは頷いた。


 さらに、総偏差が算出できない記録があった場合の扱いも確認する。


「ない数字はゼロにしない」


「はい」


「総偏差は全部で出せる?」


 魔導具担当教師は資料を確認した。


「実際の値を見ずに算出可能性だけ確認した範囲では、利用できない記録が存在する可能性があります。詳細な開示前に、固定基準で算出可能性を確定できます」


「値を見てから使うか決めない?」


「もちろんです」


「じゃあ先に、それを確認してほしい」


 記録担当が書き留める。


 アリシアは少し考え、もう一つ付け足した。


「総偏差を見て、もし三件が近くても、そのあとすぐ別の数字と足さない」


「平均傾きや変動性との組み合わせですか?」


「それも。立ち上がり時間とか自然揺れ間隔とかも」


「なぜです?」


「近かったら、『じゃあこれも合わせたらもっときれいになるかも』って思いそうだから」


 サラが小さく頷いた。


「その可能性を自分で予測できているなら、先に止め方を決めておくのは有効です」


「総偏差を見る日は、それだけ?」


「一つの案ですね」


 副学長が答えた。


「少なくとも総偏差の配置を見た直後、その結果を使って即席の複合指標や新しい境界を作らない。次の分析を同日に追加しない、と固定することはできます」


「それにしたいです」


「では記録する」


 紙へ新しい一文が加わった。


『総偏差開示日は、固定された総偏差の記述比較のみを行う。結果確認後に新規閾値、複合指標、局所形状指標、比較対象変更を行わない。追加分析は同日実施しない。』


 アリシアはその文章を読み返した。


「人工刺激もなし」


「当然、予定していません」


「はい」


     ◇


 そこまで決めたところで、サラが休憩を提案した。


 窓の外では午後の光が少し傾き、机の端に長い影を作っている。数字を一つも見ていないのに、アリシアは思っていたより集中していたらしく、肩へ軽い重さを感じていた。


 状態を確認すると、疲労は三。


 痛みと息苦しさ、胸部異常はゼロ。


 頭痛、吐き気、めまいもない。


 総偏差を見たい気持ちは九まで上がっていた。


 今日このまま開きたい気持ちは八。


 止まりにくさは六。


「上がった」


 アリシアが自分から言った。


「見たいものが決まったからでしょうね」


「今から見ちゃだめ?」


 尋ねたあと、サラの顔を見る。


 禁止されるのを待っている自分に気づき、アリシアは少し眉を下げた。


「……私、今、止めてもらおうとしてる?」


「そう感じますか?」


「ちょっと」


 サラはすぐに答えを与えなかった。


 アリシアは机上の紙を見る。


 今日は、何を見るかを決めるところまででもいいと思って研究棟へ来た。


 実際に総偏差を選んだ。


 比較対象の扱いも決めた。


 算出不能の扱いも確認した。


 開示当日に追加分析をしないことまで固定した。


 ここから実際の値を開けば、予定していなかったわけではない。身体状態にも問題はない。


 それでも、見たい気持ちは九。


 止まりにくさは六。


 自分の中で期待がかなり上がっている。


(見られる。でも、今日じゃなくてもいい)


 以前の自分なら、この状態を「身体が大丈夫だから続けられる」と考えただろう。


 今は、続けられることと、続ける方がいいことを分けられる。


「今日は見ない」


 アリシアが言った。


 サラが静かに頷く。


「理由を記録しますか?」


「はい。総偏差を開く手順を決めたあと、見たい気持ちが九、止まりにくさが六まで上がった。身体は大丈夫だけど、今日は決めるところまでにする」


「疲労は三ですね」


「それも」


 副学長が書類を閉じた。


「では、算出可能性の確認だけ研究側で進めます。実際の値は伏せたままにする」


「私がいない時に結果見える?」


「算出担当には必要な範囲で見えますが、次回の比較配置を作る担当には、固定された手順に従って扱わせます。アリシアさんへは開示しません」


「分かりました」


「次回はいつにしますか?」


 アリシアは少し考えた。


「明日って決めない」


「では、状態確認後に改めて判断する?」


「はい」


「それでいいでしょう」


 アリシアは最後に、今日作った紙へ視線を落とした。


 数字はない。


 それでも、次に開くものは決まった。


     ◇


 研究棟を出ると、夕方の空は朝より澄んでいた。


 霧の名残は完全になくなり、遠くの森まで輪郭が見える。冷たい風が頬へ触れたことで、室内で熱を持っていた頭が少し冷えるようだった。


 アリシアはすぐ生活観測区画へ戻らず、学院の庭をゆっくり歩いた。


 訓練場ではまだ数人の生徒が自主練習をしている。別棟から出てきた生徒たちは笑いながら寮の方へ向かい、校舎の窓には夕日が反射していた。


 総偏差。


 次に見る数字は決まった。


 その事実を思うだけで、胸の奥が少し落ち着かない。


(似ててほしい)


 期待は消えていない。


 三件の値が近い場所へ並んでほしい。


 できれば比較対象には同じ配置が少なくあってほしい。


 そうなれば何か見える気がする。


 けれど、その願いが叶ったとしても、それだけで原因にはならない。


 逆に三件がばらばらでも、六つ目の神器や東西の関係が否定されるわけではない。


 そこまで考えたところで、背後から声がした。


「歩くのおせえぞ」


 振り返るとノアがいた。


「また来たの?」


「散歩だ」


「昨日も言ってた」


「同じ道散歩しちゃ悪いか」


「待ってた?」


「散歩だっつってんだろ」


 ノアはアリシアの横へ並ぶ。


「今日は数字見たか?」


「見てない」


「三日目?」


「でも、次に見る数字は決めた」


「三日かけて一個決めたのか」


「ほかにも決めたよ」


「何を」


「どう比べるかとか、見たあと何をしないかとか」


「見てねえ数字の後始末まで先に決めたのか」


「後始末じゃない」


「じゃあ前始末」


「そんな言葉ないよ」


「今作った」


 アリシアは笑いながら歩いた。


 ノアは研究内容を詳しく聞こうとはしない。


 それがありがたかった。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供が夕食前の机で絵を描いていた。


 紙には丸いものがいくつも並び、その横に長い線が一本ある。


「何描いてるの?」


「パン」


「これ全部?」


「うん」


「長いのは?」


「机」


「パン大きくない?」


「大きいパン」


 アリシアは笑った。


 十一の光を記録する時の円とは違う。


 ただのパンだ。


 丸が並んでいるからといって、何でも研究記録へ見立てる必要はない。


「アリシアも描く?」


「何を?」


「パン」


「パンだけ?」


「好きなのでもいい」


 アリシアは子供から紙を一枚もらい、少し考えてから練習紙を描いた。


 斜めに折れが入り、端が少し破れている紙。


「それ何?」


「今、学院で直してる練習の紙」


「破れてる」


「そこはまだ直してないよ」


「なんで?」


「先生が、今は触らないって」


「あとで?」


「必要だったら」


 子供はしばらく絵を見てから、自分のパンの横へ小さな破れた紙らしい四角を描き足した。


「一緒になった」


「パンと?」


「うん」


「なんで?」


「ここ空いてたから」


 アリシアは吹き出した。


 理由はそれだけだった。


     ◇


 夕食後、顔のない存在はいつもの場所で休み、十一の光にも目立った変化はなかった。子供は絵を普通の紙箱へ入れようとして、入りきらなかったため、結局箱の下へ敷いている。


 重要な木箱は今日も閉じたままである。


 アリシアはその近くを通ったが、立ち止まらなかった。


 今進めている研究と木箱を無理につなげる材料はない。


 木箱には木箱の分からないことがある。


 東西の反応には東西の分からないことがある。


 胸の弱い異常には、その三件についてまだ分からないことがある。


 全部を一つの答えへ押し込まない。


     ◇


 夜、机へ向かったアリシアは、まず学院用の帳面を開いた。


 魔法理論の授業について書き、友人の指にまだ青い染料が少し残っていたことも端へ書き添える。


『本人は痛くない。昨日より薄い。』


 書いてから、自分で少し笑った。


 研究記録のような書き方になっている。


 その下へ付け足した。


『本人は気にしていなかった。』


 さらに少し考え、


『次の染色も楽しみにしていた。』


 そこまで書くと、ただの友人についての記録らしくなった気がした。


 次に研究帳面を開く。


 今日決めた内容を、順番に整理する。


『探索目的候補を具体化。三件の既存対象感覚非確認・閾値未満胸部異常報告について、記録上共通する入力側条件が存在するかを探索する。三件が同一感覚であることは前提としない。原因探索・因果確定を目的としない。』


 続いて使用指標を書く。


『最初に開示する入力側指標候補として、既存固定補助指標である総偏差を選択。理由は、固定観測範囲内での基準線からの全体的偏差量について、三件がどの位置にあるかを記述比較するため。局所波形の同一性を示す指標として扱わない。』


 比較対象についても記録する。


『三件のみを先行開示しない。既存の比較可能範囲を用い、設計群の違いを保持したまま比較する。同一記録を別一覧から重複計上しない。歴史的比較可能意図的小変動記録、三領域前向き記録、東西専用前向き記録を一つの均質な系列として扱わない。』


 欠測について。


『総偏差が固定基準で算出不能の場合は欠測として保持し、ゼロとしない。値を得るために観測範囲・算出方法を変更しない。開示前に算出可能性を固定確認する。』


 最後に、開示当日の停止条件を書く。


『総偏差開示日は総偏差の記述比較のみ。結果を見たあとで新規閾値、複合指標、局所形状指標、比較対象変更を行わない。他の既知指標と即席に組み合わせない。同日追加分析なし。人工刺激なし。』


 アリシアはそこまで書いてから、今日の自分の状態も残した。


『手順固定後、総偏差を見たい気持ち九、当日開示希望八、止まりにくさ六。疲労三、身体症状なし。開示可能な状態ではあったが、今日は手順固定までとして終了。次回日は固定せず、状態確認後に判断する。』


 筆を置き、頁を読み返す。


 三日前なら、ここまで決めたらそのまま数字を見ていたかもしれない。


 見られるのに見ない理由が分からなかったかもしれない。


 けれど今日は、見たい気持ちが強くなったからこそ止まった。


(我慢した、だけじゃない)


 我慢だけなら、数字を見ることが悪いことのようになってしまう。


 そうではない。


 見るための準備を終えたから、準備と開示を同じ日に詰め込まなかった。


 それだけだった。


 窓辺からノアが振り返る。


「明日は見るのか?」


「まだ決めてない」


「せっかく三日かけて一個選んだのに?」


「身体とか気持ちを確認してから」


「数字一個見るのも大仕事だな」


「一個だから、ちゃんと見るの」


 ノアは何か言い返そうと口を開き、少し考えたあとで閉じた。


「……まあ、勝手にしろ」


「うん」


「ただし朝飯は早く食え」


「それ関係ないよ」


「俺にはある」


 アリシアは小さく笑い、研究帳面を閉じた。


 次に開く数字は決まった。


 総偏差。


 けれど、その数字へ答えを背負わせるつもりはない。


 三件が近くても、同じ感覚とは決めない。


 三件が離れていても、すべての関係を否定しない。


 比較対象にも同じ範囲があるなら、そのことをそのまま残す。


 算出できない記録があれば、空いた場所を数字で埋めない。


 そして、結果を見た直後に別の指標を持ってきて、欲しい形へ整えない。


 何を見るかは決まった。


 だからこそ、その数字を見る前に何を言わないのかまで決めておく。


 机の灯りを落とす前、アリシアは閉じた研究帳面へ一度だけ指先を置いた。


 まだ知らない値は、その中には書かれていない。


 研究棟に残された記録の中で、明日も同じ値のまま待っている。


 急いで開かなくても、逃げはしなかった。

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