第266話 何を見るかより、何を知りたいか
翌朝、生活観測区画の窓を叩いたのは雨ではなく、森を抜けてきた少し強い風だった。
薄い雲は残っていたものの、その隙間から朝の光が差し込み、窓枠や床板へ細長い明るさを落としている。外では枝先が大きく揺れるたびに葉が擦れ合い、時折、乾いた一枚が風に運ばれて窓の向こうを横切っていった。
アリシアは寝台から起き上がると、いつものように身体の状態を確かめた。疲労は一、痛みと息苦しさはなく、胸の中央から少し左へ意識を向けても異常は感じない。頭痛、吐き気、めまいもなく、昨日研究棟で相談したあとから今朝まで、遅れて現れた変化もなかった。
身体の確認を終えても、すぐには研究帳面へ手を伸ばさなかった。
昨夜の最後に残した言葉を覚えている。
次にどの候補へ進むかは、まだ決めない。
入力側に残された既存の固定指標を使って探索することもできる。すでに結果を知っている東側奥部の平均傾きと変動性を組み合わせ、探索として配置を眺めることもできる。
けれど、どちらを選ぶかは決まっていない。
(昨日は、それで終われた)
以前なら、候補が二つあればどちらかを選びたくなったはずだった。あるいは両方ともやればいいと思ったかもしれない。
今も知りたい気持ちはある。
ただ、その気持ちがあることと、今日すぐに新しい紙を開くことは同じではなかった。
「朝から難しい顔すんな。顔の筋肉が研究用になるぞ」
寝台の足元から声がして、アリシアは視線を下げた。
ノアが毛布の上で前脚を伸ばしている。
「研究用の顔って何?」
「お前が最近よくやってるやつだ。紙を見ながら眉間にしわ寄せて、何か分かったような、余計分からなくなったような顔」
「そんな顔してない」
「してる」
「ノアが勝手にそう見てるだけ」
「じゃあ今度鏡置いとけ」
アリシアは眉間へ指を当てた。
その動作を見たノアが鼻を鳴らしたので、余計に悔しくなる。
「今日は資料修復あるから」
「研究じゃなく紙の方か」
「紙も研究で使うよ」
「そういう意味じゃねえよ」
「分かってる」
アリシアは制服へ着替えながら、机の上に置かれた二冊の帳面を見た。
学院用と研究用。
今日は学院用の方を先に鞄へ入れた。
◇
朝食のあと、学院へ出るまでには少し時間があった。
生活観測区画の広間では、子供が昨日拾ってきたものらしい二枚の葉を机へ並べていた。一枚は細長く、もう一枚は丸みがあり、どちらも端の一部が赤く色づいている。
「持って帰ったの?」
アリシアが近づくと、子供は丸い方を指差した。
「これは持ってきた。こっちは朝あった」
「どこに?」
「窓のとこ」
風で入り込んだらしい。
子供は二枚を重ねたり離したりしていたが、昨日の紙のように順番を決める様子はない。
「何してるの?」
「見てる」
「比べてる?」
「分かんない」
それだけ答えると、子供は細長い葉を光へ透かした。
アリシアはそれ以上聞かなかった。
見ているからといって、必ず比較しているわけではない。比較しているからといって、必ず何かを決めなければならないわけでもない。
そんなことを考えかけて、アリシアは小さく首を振った。
(また研究にしてる)
子供は葉を見ているだけだ。
朝から何でも研究の話へつなげる必要はない。
「行ってくるね」
「うん。紙なおす?」
「今日はその授業」
「破れたの?」
「練習の紙ね」
「きれいになる?」
「どうだろう。先生に教えてもらう」
「きれいになったら見せて」
「持って帰っていいか聞いてみる」
以前、友人とも同じ約束をしている。
子供まで加わったことで、アリシアは少しだけ笑った。
部屋の奥では、顔のない存在がいつもの場所で静かに過ごしていた。胸元の十一の光には目立った変化がなく、重要な木箱も閉じられたままである。
そこへ新しい意味を探しに行く必要はない。
少なくとも、今朝は。
◇
学院へ着く頃には、朝の風が少し弱くなっていた。
資料修復の選択授業が行われる教室は、通常の教室より窓が大きく、机も一人ずつ広く使えるよう配置されている。机上には薄い布が敷かれ、その上へ練習用の紙と、柔らかな刷毛、小さな支持紙、重しとして使う平たい板が用意されていた。
アリシアが席へ着くと、教師は全員が揃うのを待ってから、前方の机へ一枚の傷んだ練習紙を置いた。
「前回は、触る前に状態を見るところまで行いました。今日は少しだけ手を動かします。ただし、最初から『元通りにする』ことを目標にはしません」
数人の生徒が紙へ視線を向ける。
教師は破れの入った部分を指で示したが、直接そこへ触れはしなかった。
「修復という言葉を聞くと、破れを消す、折れをなくす、汚れを落とす、と考えやすいでしょう。しかし、資料そのものを傷めてまで見た目を整えては意味がありません。まず、これ以上傷みを広げないこと。そして、後から必要な処置ができる状態を残すこと。そのために今日は、支持紙の扱いと、軽い折れを無理なく落ち着かせる練習をします」
アリシアは机の上の紙を見た。
自分の練習紙には、斜めに一本の折れが入っている。端には小さな破れもあるが、今日はそこへ手をつけないよう教師から指示された。
以前なら、直せる場所があるのに触らないことへ少し不思議さを感じたかもしれない。
けれど今は、資料修復というもの自体が、何でも一度に元へ戻す作業ではないのだと少しずつ分かってきていた。
「水分を使いすぎないようにしてください。紙は濡らせば柔らかくなりますが、柔らかくなれば安全というわけではありません。繊維が弱っている部分では、こちらが思っているより簡単に形が変わります」
教師が実演する。
刷毛へほんのわずかに水分を含ませ、直接強く擦らず、支持紙を介して状態を整える。大きく変化したようには見えないが、折れの盛り上がりが少しだけ落ち着いた。
「完全に平らじゃない」
近くの席の生徒が小声で言った。
教師は聞こえていたらしく、そちらへ顔を向けた。
「そうですね。今日は完全に平らにする授業ではありません。紙が嫌がっているのに、こちらの都合で押さえ込まないでください」
教室の何人かが笑った。
アリシアも口元を緩めた。
紙が嫌がる、という表現が少し面白かった。
それから自分の練習紙へ向き直る。
刷毛を持つ手へ力が入りすぎないよう注意しながら、教師に示された手順を思い出す。まず折れの周辺を観察し、どちら側へ紙が浮いているかを確認してから支持紙を置いた。
すぐに触れようとして、手が止まる。
(ここ、少し毛羽立ってる)
折れの端に、ごく小さな傷みがある。
前回の観察記録にも書いたはずだが、実際に処置を始めようとすると見え方が違った。
アリシアは刷毛を置き、手を挙げた。
「先生」
「はい」
「ここ、少し毛羽立ってます。これでも同じようにして大丈夫ですか?」
教師が隣へ来て、紙へ顔を近づけた。
「よく気づきました。そこは避けましょう。今日は折れの中央側だけで十分です」
「端は?」
「今は触りません。必要なら、別の方法を考えます」
「分かりました」
教師が離れたあと、アリシアは指定された範囲だけへ手を入れた。
変化は小さい。
一度の作業で折れが消えるわけでもない。
それでも、支持紙を外したとき、先ほどまで少し浮いていた中央部分がわずかに落ち着いているのが分かった。
嬉しくなり、思わず顔を近づける。
「アリシアさん、近すぎますよ」
「あ……はい」
教師に注意され、慌てて背筋を戻す。
近くの生徒がくすりと笑った。
「すごい見てたね」
「変わったから」
「そんなに?」
「少しだけ」
「少しなのに?」
「少しだから見たいの」
言ってから、自分でも少しおかしくなった。
生徒も笑い、「好きなんだね」と言った。
アリシアは否定しなかった。
「うん。たぶん」
授業の終わりには、練習紙の状態をもう一度記録した。
どこへ処置したか。
どこは触らなかったか。
処置前後で見た目がどう変わったか。
そして、持ち帰りについて教師へ尋ねる。
「先生、この練習紙って、最後に持って帰れますか?」
「一連の練習が終われば構いません。ただし、次回以降も使いますから、まだ持ち帰らないでください」
「分かりました」
「誰かに見せるんですか?」
「友達と……一緒に暮らしてる子が見たいって」
教師は穏やかに笑った。
「では、最後まで壊さないように扱わないといけませんね」
「はい」
その言葉に、アリシアは少しだけ嬉しくなった。
研究のためではない。
友人と子供に見せたいから、練習紙を丁寧に扱いたい。
それだけの理由だった。
◇
授業後、廊下へ出ると、染色の選択授業を終えた友人が向こうから歩いてきた。
今日は布を持っていない代わりに、指先へわずかに青い色が残っている。
「手、青い」
アリシアが指差すと、友人は自分の指を見た。
「落ちなかった」
「大丈夫?」
「先生に『二、三日で薄くなる』って言われた。手袋してたのに端から入ったみたい」
「何したの?」
「二色はまだだった。今日は染料を同じ濃さに作る練習」
「難しかった?」
「見た目で『このくらい』ってやったら全然違った」
友人は笑いながら、アリシアの鞄を見た。
「そっちは直した?」
「少しだけ。折れのところ」
「見せて」
「まだ持って帰れないって」
「えー」
「全部終わったらいいって」
「じゃあ待つ」
「子供も見たいって言ってた」
「人気じゃん、その紙」
「ただの練習紙だよ」
「アリシアが直した紙でしょ」
その言い方に、アリシアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
大したことはしていない。
折れの一部を少し落ち着かせただけだ。
それでも、自分が手をかけたものを誰かが見たいと言ってくれることが、思っていた以上に嬉しかった。
「次も使うから、まだ時間かかるよ」
「いいよ。私の布も完成したら見せる」
「前も見せてくれたよ」
「あれは練習途中。今度はちゃんと最後までやったやつ」
二人は並んで階段を下りた。
廊下には別の授業を終えた生徒たちが行き交い、窓の外からは午後の訓練場の掛け声が聞こえている。研究棟へ向かうかどうかを考えるより先に、アリシアは友人との約束が一つ増えたことを覚えておこうと思った。
◇
昼食のあと、午後の授業を終えるまで、アリシアは研究についてほとんど考えなかった。
まったく思い出さなかったわけではない。
授業の合間に研究棟の方角が視界へ入れば、昨日残した二つの候補が頭をよぎる。けれど、それをその場で選ぼうとはしなかった。
放課後、友人と昇降口を出たところで、昨日と同じ分かれ道が近づいてくる。
「今日は行くの?」
友人が研究棟の方を見ながら尋ねた。
「まだ分からない」
「昨日もそれ言ってたね」
「昨日は行ったよ」
「数字は見なかったんでしょ?」
「うん。相談だけ」
「今日は?」
アリシアは足を止めた。
昨日は、次の候補を整理した。
今日は、そこから何も増えていない。
それでも研究棟へ行けば、何か話したくなるだろう。もしかすると、今日こそ次を決めたくなる。
けれど、それが悪いわけではない。
問題は、何を決めるために行くのかだった。
「……ちょっとだけ行く」
「また相談?」
「うん。でも今日は、昨日と違うこと聞きたい」
「何?」
アリシアは答えようとして、言葉がまだまとまっていないことに気づいた。
「まだちゃんと言えない」
「じゃあ、言えるようにしてくる?」
「たぶん」
「そっか」
友人はそれ以上聞かなかった。
「じゃあまた明日。紙の続き、次いつ?」
「次の選択授業」
「忘れないでね」
「忘れないよ」
友人が手を振って去っていく。
アリシアはしばらくその背中を見送ってから、研究棟へ向かった。
◇
その頃、研究棟ではサラと若い観測員が昨日の記録を確認していた。
机上に新しい比較表はない。
入力側の未使用記録も閉じたままで、平均傾きと変動性の組み合わせ図も作成されていなかった。
若い観測員は昨日の記録末尾を読み返し、隣にいるサラへ視線を向けた。
「今日は来ると思いますか?」
「分かりません」
「昨日は、次を決めないために来たような感じでしたね」
「正確には、決めないという選択を自分で確認しに来たのでしょう」
サラは紙を揃えながら答えた。
アリシアが以前より待てるようになったことは、近くで見ていれば分かる。
しかし、待てるようになったからといって、知りたい気持ちが弱くなったわけではない。むしろ最近のアリシアは、自分が何を期待しているかを以前よりはっきり口にする。
三件の弱い胸部異常が似ていてほしい。
数字がきれいに分かれてほしい。
何か一つでも説明につながってほしい。
それらを隠さなくなった。
「入力側の比較を提案しますか?」
若い観測員が尋ねた。
サラは首を横へ振った。
「こちらから順番を与える必要はありません。昨日、候補までは整理しました」
「でも、入力側には既存の項目がありますよね」
「あります。ただ、『残っているから次に見る』では、アリシアさんが昨日気づいた問題へ戻ってしまいます」
「何を知りたいか、ですか」
「そうです」
サラはそこで一度言葉を切り、閉じた資料へ視線を落とした。
「研究する側は、測れるものがあると測りたくなります。記録があると開きたくなる。アリシアさんだけの問題ではありません」
若い観測員は苦笑した。
「耳が痛いです」
「私もです」
だからこそ、今は待つ。
何を見るかではなく、その比較で何を知りたいのか。
それが言葉になる前に、研究側から便利な問いを渡してしまわないように。
廊下の向こうで扉の開く音がした。
サラは資料をそのまま閉じておいた。
◇
研究室へ入ったアリシアは、机の上を見て少しだけ安心した。
昨日と同じように、新しい数字は用意されていない。
サラと若い観測員のほか、副学長も少し遅れて入室した。魔導具担当教師は別の作業中らしく、今日は席にいない。
「今日はどうしました?」
サラに尋ねられ、アリシアは椅子へ座った。
「昨日の候補のこと、少し考えました」
「どちらへ進むか決まりましたか?」
「決まってないです」
「では、今日は何を?」
アリシアは膝の上で指を組んだ。
友人へ言えなかったことを、もう一度頭の中で組み立てる。
「昨日、入力側を見るなら、何を確かめたいか決めないとって言われました」
「はい」
「それで……私は、何を見るかばっかり考えてた気がして」
副学長が椅子へ腰を下ろし、続きを待った。
「平均傾き。変動性。入力の立ち上がりとか、戻りとか、揺れとか。名前があるものを順番に見れば、いつか何か分かる気がしてた」
アリシアはそこで一度息を整えた。
「でも、本当に知りたいのは、項目の数字じゃない」
「何を知りたいですか?」
サラの問いに、アリシアはすぐ答えなかった。
胸の中央から少し左。
強さは一より下、〇・五くらい。
痛くも苦しくもない、短くて弱い異常。
一度目には「冷たいとはまだ言い切れない」と口にした。
二度目と三度目には温度の言葉を使わなかった。
どれも、もともと対象としていた感覚の確認基準には届いていない。
それでも三度、記録として残った。
「三回の胸の変な感じが……同じものだったのか知りたい」
アリシアはゆっくり言った。
「でも、それだけじゃない」
サラは黙って待っている。
「もし同じだったとして、どういう時に起きやすいのかも知りたい。東側の前の状態なのか、入力の違いなのか、それとも全然別なのか。でも……今ある記録だけで、そこまで決められないのも分かってます」
「はい」
「だから、次に見るものを決める前に……今の記録で答えられる問いと、答えられない問いを分けたいです」
言い終えたあと、研究室は少し静かになった。
窓の外では風が枝を揺らし、ガラス越しに葉の擦れる音がかすかに聞こえる。
副学長がゆっくり頷いた。
「それなら、昨日より一段前へ戻ることになるな」
「戻る?」
「分析項目を選ぶ前に、問いの範囲を整理する」
「悪いこと?」
「逆だ。今やる価値はある」
アリシアは少し肩の力を抜いた。
「じゃあ、今日は数字見なくてもできる?」
「できます」
◇
新しい紙が一枚だけ用意された。
ただし、そこに数値は書かれない。
上部へ記録担当が三つの欄を作った。
『現在の記録で記述できること』
『探索すれば候補を作れること』
『現在の記録だけでは決められないこと』
アリシアは三つの欄を見比べた。
「これ、答えを書くの?」
「まずはアリシアさんが思うものを挙げてください。そのあと、研究側で言葉を確認します」
「間違ってても?」
「構いません。今日は試験ではありません」
アリシアは少し考え、最初の欄を指した。
「三件とも、胸の真ん中から少し左のあたり」
「一件目の表現は?」
「あ……左寄り。全部まったく同じ場所って言わない方がいい」
「そうですね」
記録担当が言葉を調整する。
『三件とも胸部、中央〜左寄りの報告。位置表現は完全同一ではない。』
「強さは、だいたい〇・五」
「記録上は三件とも一未満で、本人推定がおおむね〇・五ですね」
「痛みゼロ、息苦しさゼロ。短くて、弱くなって消えた」
「対象感覚としては?」
「全部、確認になってない」
それも書かれる。
時間配置については、アリシア自身がすでに確認した範囲だけを挙げた。
「三件とも、東側の中心より主観の中心が後ろ側だった。でも、重なり方は同じじゃない」
「西側は?」
「一件目は主観と重ならなくて、西側の中心があと。二件目は西側と一部重なって、西側の中心があと。三件目は西側の対象反応が確認されてないから、同じ比べ方はできない。主観の窓は、西側の非確認区間の中に全部入ってた」
「その通りです」
アリシアは少しだけ嬉しくなった。
覚えていたことを褒められたからではない。
以前なら、三件を一つの順序へまとめたくなっていたかもしれない。今は違うところを違うまま言える。
「ここまでは、『今の記録で記述できること』?」
「はい」
次の欄へ移る。
『探索すれば候補を作れること』
アリシアは少し迷った。
「東側の事前状態?」
「すでに一部探索しましたね」
「平均傾きと変動性」
「その結果は?」
「三件だけの分かりやすい特徴は確認してない。変動性は一件ない」
「では、その二指標を組み合わせて見ることは?」
「探索の候補。でも、もう個別の結果を見たあとだから、何か見えても答えにはしない」
「はい」
「入力側もここ?」
「何を目的にするかによります」
アリシアはそこで黙った。
昨日までは、入力側を見ること自体が候補だった。
しかし今は、それだけでは足りないと感じる。
「入力側で……三件の時に共通してる特徴があるか見る?」
「それなら探索として成立します。ただし、『共通しているものを探す』だけでは範囲が広すぎます」
「全部の形を見るのはだめ」
「結果を見てから都合のよい形を選ぶ危険が高くなります」
「じゃあ、使うなら既存の固定項目から先に選ぶ」
「そうです」
アリシアは頷いた。
そして三つ目の欄を見る。
『現在の記録だけでは決められないこと』
ここは、思ったよりたくさんあった。
「三件が、本当に同じ感覚かどうか」
「はい」
「六つ目の神器が関係してるか」
「はい」
「東側が原因か」
「はい」
「私が何かを西側へ送ってるか」
「はい」
「西側が反応しなかった時、私の胸の変な感じがあったのは……」
アリシアは言葉を止めた。
あの一件が、今も強く残っている。
東側では対象反応が確認された。
自分には弱い胸部異常があった。
西側では対象反応が確認されなかった。
もし自分が東から西へ何かを渡しているのなら、と考えたくなる。
けれど、それはまだ物語にすぎない。
「……私が途中まで受け取って、西に届かなかったっていうのも、決められない」
「そうですね」
副学長の声は穏やかだった。
「その説明は現在の記録と矛盾しない可能性はある。しかし、それ以外の説明も残っている」
「東側と私が同じ何かに反応しただけかもしれない」
「あり得ます」
「西側は別の条件が必要だったかもしれない」
「それも候補です」
「全部、まだ候補」
「はい」
アリシアは紙を見つめた。
三つ目の欄が一番長くなっていく。
以前なら、そのことに落ち込んだかもしれない。
けれど今日は、不思議と少し違った。
分からないものが増えたのではない。
もともと分からなかったものを、「今の記録では決められない」と正しい場所へ置いただけだ。
(空っぽじゃない)
胸の中で言葉にすると、少しだけ呼吸が楽になった。
◇
整理を終えたあと、サラが状態確認を行った。
疲労は三。
痛み、息苦しさ、胸部異常はゼロ。
頭痛や吐き気、めまいもない。
新しい数字を見たい気持ちは六。
次の分析を今日決めたい気持ちは四。
止まりにくさも四まで下がっていた。
「下がりましたね」
「はい」
「なぜだと思いますか?」
アリシアは三つの欄を見た。
「次に何を見るか決めなくても、今日やったことが残るから」
「もう一つ聞いていいですか?」
「はい」
「今、一番知りたいことは何ですか?」
アリシアはすぐには答えなかった。
三件が同じ感覚だったのか。
どういう条件で起きるのか。
東と西に何があるのか。
六つ目の神器は何なのか。
どれも知りたい。
それでも、今の研究のすぐ近くにある問いを選ぶなら――。
「三件の弱い胸の変な感じに、記録の上で共通する条件があるか」
「それなら、昨日より目的が明確ですね」
「入力側を見る?」
アリシアはそう尋ねてから、自分で少し考えた。
「……でも、今決めなくていい」
副学長が頷いた。
「今日はそこまでで十分だろう」
「次にやるなら、今言った問いに対して、どの既存項目を使うか先に決める」
「そうなります」
「比較相手も先に決める」
「はい」
「三件だけ見てから広げない」
「はい」
アリシアは紙の余白へ小さく書き足した。
『次の候補:三件の閾値未満胸部異常報告に、記録上共通する条件があるかを探索する。使用領域・対象記録・指標は開示前に固定する。』
書き終えてから、筆を置く。
これはまだ正式な分析開始ではない。
次に進むなら、という候補だ。
それでも昨日より、何をしたいのかは少し見えるようになった。
◇
研究棟を出たときには、空が夕方の色へ変わり始めていた。
風は朝より穏やかで、雲の端が淡い金色に染まっている。
入口近くの石段ではノアが待っていた。
「遅え」
「待ってたの?」
「散歩してたらここに着いただけだ」
「それ、待ってたって言わない?」
「言わねえ」
アリシアが隣へ並ぶと、ノアは歩き出した。
「今日は数字見たか?」
「見てない」
「二日連続か」
「でも、何を知りたいか整理した」
「今まで知らなかったのか?」
「知りたいことが多すぎたの」
「今も多いだろ」
「多い」
「減ってねえじゃん」
アリシアは少し笑った。
「でも、今の記録で決められないことも分けた」
「じゃあ分からねえことを整理したのか」
「うん」
「研究って片づけ好きだな」
「ノアの寝床よりは片づいてるよ」
「俺の寝床は完成形だ」
「毛布ぐちゃぐちゃだった」
「最適配置だ」
「毎日変わってる」
「毎日最適化してんだよ」
くだらない会話をしながら歩くうちに、研究室で張っていた肩の力が抜けていった。
◇
生活観測区画へ戻ると、朝に机へ置かれていた二枚の葉はなくなっていた。
子供は床へ座り、紙を細長く折っている。
「葉っぱは?」
アリシアが尋ねると、子供は窓の外を指差した。
「戻した」
「二枚とも?」
「うん。乾いたから」
「そっか」
紙箱は棚の上に置かれたままで、重要な木箱も閉じている。
顔のない存在は少し離れた場所で休んでおり、十一の光に目立った変化はなかった。
「紙なおした?」
子供が尋ねる。
「少しだけ」
「持ってきた?」
「まだ。全部終わったら持って帰っていいって」
「いつ?」
「まだ分からない」
「じゃあ待つ」
「うん」
子供はあっさり言い、また紙を折り始めた。
アリシアはその隣へ座った。
「何作ってるの?」
「分かんない」
「決めてないの?」
「折ってから決める」
「途中で変わってもいい?」
「いいよ」
研究とは違う。
だからこそ、その答えを聞いて少し安心する。
全部の行動に先に目的を決める必要はない。
遊びなら、折りながら決めてもいい。
研究では、どこまで先に決めるべきかを考える。
その違いを混ぜなければいい。
◇
夜、アリシアは学院用の帳面から開いた。
資料修復の授業について、折れの中央側だけを処置したこと、毛羽立ちのある端は触らなかったこと、練習紙は一連の授業が終われば持ち帰ってよいと言われたことを書く。
最後に少し迷ってから、一行だけ付け足した。
『友達と子供に見せる。』
それを見て、アリシアは小さく笑った。
次に研究帳面を開く。
今日の記録には、新しい数値が一つもない。
けれど書くべきことは多かった。
『次の分析項目を決める前に、現在の記録で記述できること、探索により候補を作れること、現在の記録だけでは決められないことを分けた。』
その下へ、三件についてすでに記述できる範囲をまとめる。
三件とも胸部、中央から左寄りの範囲に報告されているが、位置表現は完全には同一でない。
強度は一未満、おおむね〇・五。
痛みゼロ、息苦しさゼロ。
短時間で弱まり、消失。
いずれも既存の対象感覚確認基準には届かない。
一件目だけ温度に関する保留表現があり、二件目と三件目には温度語がない。
時間配置では、三件とも東側確認反応の中心より主観時間窓の中心が後ろ側に位置したが、重なり方は同じではない。西側についても、一件目と二件目では確認反応との配置が異なり、三件目は西側対象反応そのものが非確認であるため、確認窓同士と同じ比較をしていない。
次に、探索候補を書く。
『東側事前状態については平均傾き・変動性を個別確認済み。三件だけに限定された明瞭な共通特徴は現時点で確認していない。二指標の組み合わせを見る場合は、個別結果確認後の探索として扱う。』
『入力側について探索する場合、既存固定項目を無条件に全開示せず、三件の閾値未満胸部異常報告に記録上共通する条件があるかという目的に対し、使用する記録群と指標を開示前に固定する。』
最後に、今の記録だけでは決められないことを書く。
『三件が同一感覚かどうかは未確定。東側奥部対象反応が主観異常の原因か未確定。主観異常が西側対象反応の原因・中継過程か未確定。六つ目の神器がこの現象に直接関与するか未確定。東・主観・西の時間配置から因果順序を確定しない。』
そこまで書くと、アリシアは筆を置いた。
研究帳面の頁はかなり埋まっている。
数字は増えていないのに、昨日よりも少しだけ頭の中が整理されていた。
(何を見るかじゃなくて、何を知りたいか)
言葉にすると当たり前に聞こえる。
けれど、自分は長い間、目の前にある記録を開くことそのものへ引っ張られていたのかもしれない。
見れば分かる。
比べれば近づく。
数字が増えれば答えになる。
そうではなかった。
何を知りたいのかによって、見るべきものも、比べる相手も、言える範囲も変わる。
そして、今ある記録だけでは答えられない問いもある。
それを認めることは、諦めることとは違った。
窓辺では、ノアが前脚へ顎を乗せている。
「まだ書いてんのか」
「終わった」
「今日は数字増えてねえんだろ」
「うん」
「なのに紙は増える」
「今日は大事な紙」
「毎回言ってねえか?」
「言ってない」
「研究者は紙を増やす言い訳だけは上手くなるんだな」
「私、研究者じゃなくて学生」
言った瞬間、アリシアは少しだけ目を見開いた。
以前にも似たやり取りをしたことがある気がして、ノアも同じことを感じたらしい。黒猫は面倒そうに片耳を動かした。
「その返し、もう飽きた」
「……私も今思った」
「じゃあ二度と言うな」
「ノアも言わせないで」
「俺のせいかよ」
アリシアは笑いながら研究帳面を閉じた。
明日すぐに入力側の指標を開くとは決まっていない。
平均傾きと変動性を組み合わせるとも決まっていない。
新しい人工刺激を行う予定もない。
ただ、次に探索するとすれば、以前より一つだけはっきりしたことがある。
三件の弱い胸部異常報告に、記録上共通する条件があるのか。
その問いへ近づくために、何を見るべきなのかを先に決める。
アリシアは机の灯りを落とし、二冊の帳面を並べて置いた。
昼間に触れた練習紙の折れは、完全には消えていない。
それでも、必要以上に触らなかったことで、次に扱える状態が残っている。
研究も同じだ、と決めつけるつもりはなかった。
けれど今夜は、開けられる記録を全部開けなかったことを、失敗だとは思わなかった。
次に何を見るのかは、まだ決まっていない。
その代わり、何を知りたいのかは、昨日より少しだけ言葉になっていた。




