第265話 次に開くものを、今日の結果だけで決めない
翌朝、生活観測区画の窓から差し込んだ光は、昨日よりずっと明るかった。
夜のうちに雲が流れたらしく、森の上には薄い青空が広がっている。窓を少し開けると冷えた風が入り込み、乾き始めた落ち葉が地面を擦る音と、遠くで鳴く鳥の声が一緒に室内へ届いた。
アリシアは寝台の端へ腰掛けたまま、両手を膝の上に置いて身体の状態を確かめた。
疲労は二。
痛みはない。
息苦しさもなく、胸の中央から少し左へ意識を向けても異常は感じない。頭痛、吐き気、めまいもなく、昨夜から今朝までの間に遅れて現れた変化もなかった。
身体について確かめ終えたあと、昨日の研究結果が自然と頭へ戻ってくる。
東側奥部の事前状態について、あらかじめ見ると決めていた二つの既存指標を確認した。
平均傾き。
変動性。
平均傾きでは、一件目と三件目が比較的近い位置にあったものの、二件目はそれらより平坦側だった。そして似た範囲の値は、胸部異常が報告されなかった比較可能記録にも存在していた。
変動性は、三件のうち一件が欠測だった。
残る二件も完全に同じではなく、比較対象にも近い範囲の値があった。
少なくとも、事前に開くと決めていた二指標だけを見れば、三件の閾値未満胸部異常報告だけをきれいに囲める特徴は確認できなかった。
(じゃあ、次は……)
そこまで考えたところで、アリシアは意識して続きを止めた。
昨日の夜にも候補は浮かんでいた。
平均傾きと変動性を組み合わせる。
入力側に残っている既存の固定指標を開く。
欠測した一件について、別の情報から補えないか考える。
けれど、どれもまだ次の正式な作業にはなっていない。
昨日の結果を見た直後だからこそ、「次」を急いで選びたくなっている可能性がある。
「……今日は、決めなくてもいい」
呟きながら立ち上がると、枕の近くで丸くなっていたノアが片目だけを開けた。
「朝から何と戦ってんだ」
「次に何を見るか」
「まだ何も見てねえのに?」
「昨日の続き」
「ああ。三つ揃わなかったやつか」
「揃わなかったっていうより、一つは数字がなかったの」
「余計に揃ってねえだろ」
「そうだけど……」
アリシアは言い返しかけてから口を閉じた。
ノアは欠測とゼロの違いを研究上の言葉で正確に説明しようとしているわけではない。ただ、三つ並べたかったアリシアにとって、一つが欠けていたという事実を雑に言っているだけだ。
「今日は研究棟行くのか?」
「分からない」
「珍しいな。身体が平気なら行く、じゃねえのか」
「身体が平気でも、見るものが決まってないから」
ノアはしばらくアリシアを見たあと、毛布の上で前脚を伸ばした。
「じゃあ、決めるために研究棟行くんじゃねえの?」
「……それもできる」
「行かねえの?」
「まだ分からない」
「朝から分からないが多いな」
「ノアが聞くから」
「聞かなきゃ一人で考えてるだろ」
それは否定できなかった。
アリシアは小さく息を吐き、学院の制服へ着替え始めた。
◇
朝食を終えたあと、子供は生活観測区画の窓辺へ座り、小さな紙片を何枚も並べていた。
昨日まで使っていた普通の紙箱は脇へ置かれている。中には石や木の実、白い紐、ノアの毛、色紙、小さな木片が入ったままで、今日は中身を取り出してはいなかった。
「何してるの?」
アリシアが尋ねると、子供は窓から差す光へ一枚の紙をかざした。
「明るいの探してる」
「紙の?」
「うん。これ、白い。でもこっちの方が明るい」
並べられている紙は、どれも白か、それに近い色だった。
けれど、よく見ると少し黄みのあるもの、灰色がかったもの、青白いものが混じっている。
「同じ白じゃないんだね」
「うん」
「一番は決まった?」
「まだ」
「全部比べるの?」
「分かんない」
子供はそう言うと、一枚を脇へよけた。
「それは?」
「今日はいい」
「比べないの?」
「うん」
「どうして?」
「なんとなく」
研究なら、それでは困る。
なぜ除外したのか、先に規則を決めなければならない。
けれどこれは遊びだ。
アリシアは余計なことを言わず、「そっか」とだけ答えた。
少し離れた場所では、顔のない存在が静かに過ごしている。胸元の十一の光に目立った変化はなく、重要な木箱も閉じたままだった。
今日は誰も、その箱へ近づこうとはしていない。
アリシアも見ただけで視線を戻した。
◇
学院では午前中、資料読解の授業が行われた。
選択授業の資料修復とは違い、こちらは全員が受ける通常授業だった。
教師が用意したのは、複製された古い商業記録である。
文字そのものは読めるが、記録した人物によって略し方が違い、同じ品物でも日によって表記が微妙に変わっている。生徒たちは数人ずつの組に分かれ、記録の内容を読み解いていた。
「これ、同じものじゃない?」
向かいに座った生徒が、二つの表記を指差した。
友人が横から覗き込む。
「でも最後の文字が違うよ」
「書いた人が違うからじゃない?」
「それを今から確かめるんでしょ」
アリシアも紙へ顔を寄せた。
二つの表記は確かによく似ている。
けれど、似ているから同じだと決めることも、少し違うから別物だと決めることもできない。
教師から与えられているのは、その記録だけではなかった。
同じ時期の在庫表。
荷の受け入れ記録。
支払い記録。
複数の資料を照らし合わせることで、略記された品名が何を指しているのか考える課題になっている。
アリシアは一瞬だけ、三件の胸部異常報告を思い出した。
けれど、そのまま研究へ思考を引っ張らせず、目の前の資料へ戻る。
「こっちの日、同じ数だけ減ってる」
アリシアが在庫表を指差すと、友人が身を乗り出した。
「ほんとだ。じゃあ同じ?」
「まだ。こっちの支払いも見た方がいいかも」
「アリシア、資料修復始めてから紙に強くなってない?」
「まだ直してないよ。練習用の紙見てるだけ」
「でも前より楽しそう」
友人が何気なく言った。
アリシアは少しだけ目を丸くしたあと、手元の複製資料を見た。
「……楽しいよ」
以前なら、言うまでにもう少し時間がかかったかもしれない。
けれど今は、素直にそう答えられた。
古い紙を観察すること。
残された文字から、その時代の人が何を記録しようとしたのか考えること。
傷んだ紙をどう扱えば壊さず残せるのか学ぶこと。
六つ目の神器とは関係なくても、東西の反応とは関係なくても、面白いと思える。
友人は満足そうに笑った。
「じゃあ今度、修復した紙見せて」
「学院の資料は勝手に持ち出せないよ」
「分かってるって。見せられるやつがあったら」
「練習紙なら、先生に聞いてみる」
「約束ね」
「うん」
そのやり取りのあと、アリシアは再び目の前の資料へ意識を戻した。
研究ではない「次の楽しみ」が一つ増えたことが、少し嬉しかった。
◇
昼休みは昨日と違い、風が強かったため教室で過ごすことになった。
窓際の席へ二人で椅子を寄せ、昼食を広げる。
友人は昨日見せた青紫の布を今日は持ってきていなかったが、次の染色授業で何をするのか楽しそうに話していた。
「今度は二色使うかもしれないんだって」
「混ぜるの?」
「混ぜるのと、順番に染めるのは違う色になるらしいよ。まだ詳しく聞いてないけど」
「へえ……」
「資料修復は?」
「次は、練習紙の破れを少し触るかも」
「直すの?」
「たぶん。でも最初から全部は直さないと思う」
「破れた紙を直すって、何するの?」
「まだちゃんと習ってない」
「じゃあ次までのお楽しみか」
「うん」
アリシアはパンを一口食べ、窓の外へ目を向けた。
中庭の木が風で大きく揺れている。
友人は少し間を置いてから尋ねた。
「今日は研究?」
「まだ決めてない」
「身体悪いの?」
「ううん。大丈夫」
「じゃあ、なんで?」
アリシアは昨夜から考えていたことを、研究の細部へ入りすぎないように言葉へした。
「昨日、見るって決めてたものを全部見たの」
「全部?」
「その二つは」
「じゃあ終わったんじゃないの?」
「その比べ方は終わった。でも、次に見られるものはまだある」
「見るの?」
「それを今日決めるか迷ってる」
友人はパンを持ったまま首を傾げた。
「見られるなら見ればいいんじゃない?」
「前なら、そうしてたかも」
「今は違うの?」
「昨日の結果を見てから、『じゃあこっち』『じゃあ次はこれ』って続けると……自分が欲しい答えが出るまで探してるだけになるかもしれないから」
友人はしばらく黙った。
研究の方法を理解しようとしているというより、アリシアが何に困っているのかを考えている顔だった。
「じゃあさ」
「うん」
「今日決めなきゃいいんじゃない?」
あまりにも簡単に言われ、アリシアは瞬きをした。
「……うん」
「明日でも同じ数字なんでしょ?」
「たぶんじゃなくて、同じ。記録だから」
「なら逃げないじゃん」
「うん」
「だったら今日は資料修復の話しようよ。私、そっちの方が分かる」
「まだ私もあんまり分からないよ」
「じゃあ二人とも分からないからちょうどいい」
友人はそう言って笑った。
アリシアも少し遅れて笑う。
研究で「分からない」と言うときとは、まるで重さが違った。
◇
放課後になっても、アリシアはすぐには研究棟へ向かわなかった。
友人と昇降口まで歩き、そこで別れる。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
「研究行くなら、遅くなりすぎないようにね」
「分かった」
「行かなくても明日ね」
「……うん」
友人が手を振り、染色の道具について話していた別の生徒たちの方へ走っていく。
アリシアはその背中を見送った。
(行かなくても、また明日)
研究をしなかったからといって、一日が空白になるわけではない。
分かっている。
けれど、それを友人から言われると少し違って聞こえた。
アリシアは研究棟へ続く道と、生活観測区画へ戻る道が分かれる場所で立ち止まった。
風が制服の裾を揺らす。
研究棟へ行きたい気持ちはある。
次を決めたい気持ちもある。
入力側には、まだ開いていない既存指標がある。
以前から固定されているものだから、結果を見てから新しく作る指標ではない。
だから、見ること自体が悪いわけではない。
けれど、「既存だから全部見る」というのも違う。
何のために見るのか。
何が分かり、何は分からないのか。
それを決めずに開けば、また数字を見たあとで意味を探すことになる。
(研究棟には行こう)
ただし、数字を見るためではない。
次に何を開くべきか決めるためでもない。
今の候補を整理し、今日決める必要があるかを相談する。
そう考えると、足が自然に研究棟へ向いた。
◇
研究室へ入ると、昨日まで使っていた比較表は机の端へまとめられていた。
平均傾きと変動性はすでに開かれているが、新しい指標の欄は追加されていない。
入力側の詳細記録も閉じたままだった。
アリシアはその状態を見てから席へ着いた。
「今日は値を開く予定ではありません」
サラが最初にそう言った。
「アリシアさんが来るかどうかも決まっていなかったので、昨日の記録固定と整理だけしています」
「はい」
「まず、来た理由を聞いても?」
アリシアは少し考えた。
「次を決めたい気持ちはあります。でも、今日決めない方がいいかもしれないと思って……それを相談しに来ました」
「分かりました」
いつもの状態確認を行う。
疲労は二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいもない。
恐怖は一。
研究参加希望は七。
何か新しい値を見たい気持ちは八。
次の問いを今日決めたい気持ちは七。
止まりにくさは五。
「昨日の結果について、今朝から何か考えましたか?」
副学長に尋ねられ、アリシアは頷いた。
「入力側を見るのが次かなって思いました」
「理由は?」
「まだ見てないから……」
答えたところで、アリシアは眉を寄せた。
「それだけだと、だめ?」
「駄目とは言いません。ただ、『まだ見ていない』と『次に見る必要がある』は同じでしょうか」
「……違います」
「では、入力側を見ることで何を確かめたい?」
アリシアはすぐには答えられなかった。
机の上には、昨日までの記録をまとめた紙が伏せられている。
入力側について、すでに固定されている指標があることは知っている。
意図的小変動の立ち上がり時間。
戻り時間。
入力前の固定区間における自然な揺れの回数や振幅。
条件を満たす場合に算出される自然揺れ間隔。
基準からの総偏差。
どれも、結果を見てから思いついた項目ではない。
けれど、それらを全部開けば何かが見つかるかもしれない、という考え方は危うい。
「三件の胸の変な感じがあった時に、入力が似てたか……」
「それを知りたい?」
「はい」
「比較対象は?」
アリシアは少し黙った。
そこで昨日までと同じ問題が出てくる。
三件だけを見て似ていたとしても、それが特別なのか分からない。
「三件だけじゃ、だめ」
「なぜ?」
「ほかの記録でも同じ入力だったら、胸の変な感じだけの特徴じゃないから」
「そうですね」
サラが頷く。
「では、入力側を比較するなら、また比較対象を先に決める必要があります」
「はい」
「さらに、どの入力指標を見るのかも決める必要があります」
「全部じゃない?」
アリシアが尋ねると、魔導具担当教師が首を横へ振った。
「既存項目だからといって、無条件に全部開く必要はありません。項目が増えれば増えるほど、どこか一つくらいは偶然似て見える可能性も増えます」
以前にも聞いた話だった。
比較できるものを増やせば、何かは似て見える。
それを結果が出たあとで「これが重要だった」と選べば、最初からそれを確かめていたように見えてしまう。
「じゃあ……一個?」
「一個にしなければならない、と決まっているわけでもありません」
「難しい」
「だから今日、無理に決める必要はありません」
アリシアは唇を少し尖らせた。
「そればっかり」
副学長がわずかに笑う。
「研究では便利な言葉だ」
「ノアと同じこと言ってる」
「それは褒められているのか?」
「分からないです」
室内に小さな笑いが広がった。
緊張が少しだけほどける。
◇
話を続けるうちに、もう一つの候補も机上へ出た。
平均傾きと変動性の組み合わせである。
昨日は結果を見た直後に思いついたため、その場で新しい合成指標を作らないと決めた。
今日になっても、その候補自体は消えていない。
「二つを一緒に見るのは、絶対だめ?」
アリシアが尋ねた。
「絶対に駄目ではありません」
副学長は答えた。
「ただし、何を意味する組み合わせなのかを先に定義する必要がある。平均傾きと変動性を足すのか、別々の軸として配置するのか、それとも一定の分類を作るのか。それぞれ意味が違う」
「昨日の数字をもう知ってる」
「そこも重要です」
サラが続けた。
「結果を知らない状態で決める規則と、結果を見たあとで決める規則は同じ扱いにはできません。今から組み合わせを見るなら、『二指標の個別結果をすでに知ったあとの探索』として扱う必要があります」
「悪い記録になる?」
「悪いのではなく、役割が違います」
「探索」
「はい。そこから何か気になる配置が見えても、それ自体を確認済みの答えにはしない。次に独立して確かめる候補にはできます」
アリシアは頷いた。
以前より、この区別は分かるようになってきた。
結果を見たあとで気づいたことは、なかったことにする必要はない。
ただし、それを最初から確かめる予定だった答えへ変えてはいけない。
「入力側も探索?」
「今の三件との関係を見るのであれば、少なくとも現在の段階では探索的な比較になります」
「じゃあ、どっちを先にやっても答えじゃない?」
「それだけで原因を決める答えにはなりません」
「……なら、急がなくていいか」
口にしてから、アリシア自身が少し驚いた。
副学長もすぐには返事をしなかった。
研究室の中に、短い沈黙が落ちる。
以前なら、「答えではない」と聞けば、それでも何か分かるなら早く見たいと思っていた。
今も見たい。
けれど、今日でなくてもいいという気持ちが、その隣にある。
「今、何が変わりましたか?」
若い観測員が尋ねた。
アリシアは胸の前で指を組んだ。
「見たいのは変わらないです。でも……どっちを先に見ても、すぐ『これだった』にはならないなら、今日決める理由が少ないと思った」
「なるほど」
「それに、昨日見たから今日次を決めるってすると、毎日一個ずつ開けるみたいになる」
「それは嫌ですか?」
「ちょっと嫌」
「なぜ?」
「……箱を全部開けるまで止まれなくなりそう」
ノアがこの場にいたなら、きっと何か言っただろう。
研究箱が増えるとか、開けても中からまた箱が出るとか。
アリシアはそれを想像して、少しだけ笑った。
「今日は、候補だけ残したいです」
「候補は?」
「入力側の既存指標を比べること。平均傾きと変動性を組み合わせて探索すること。でも、どっちを次にやるかは決めない」
「ほかには?」
アリシアは考えた。
「三件目の変動性が欠測だったことは、そのままにする。埋める方法を探すのは、今は候補にもしなくていい」
「理由は?」
「数字が欲しいから探しそうだから」
サラが記録紙へそのまま書き留めた。
「分かりました」
「あと……新しい人工刺激はしない」
「それは現在の候補にも入っていません」
「うん。でも言っておきたい」
「では記録します」
アリシアは少し肩の力を抜いた。
東西の一致・不一致をもう一度確かめたい気持ちは、もちろん残っている。
あの一件だけ違ったことが、今も気になる。
けれど、固定していた追加試行はすでに終わった。
違った結果が出たから一回足すことはしなかった。
その判断を、後から分析が難しくなったという理由で崩す必要もない。
◇
研究室を出る前の状態確認では、疲労は二・五。
痛み、息苦しさ、胸部異常はすべてゼロ。
何か新しい値を見たい気持ちは七。
次を今日決めたい気持ちは三まで下がっていた。
「下がった」
アリシアが自分から言うと、サラが頷いた。
「今日は何も開いていませんが」
「うん」
「物足りないですか?」
「少し。でも、来てよかった」
「なぜ?」
「見なくても研究できるっていうのが……前より分かったから」
副学長が書類を閉じる。
「数字を見ることだけが研究ではない」
「知ってたつもりだった」
「知っていることと、自分で止まれることは別だ」
「……はい」
アリシアは素直に頷いた。
◇
生活観測区画へ戻ると、朝に窓辺へ並んでいた白い紙は片づけられていた。
代わりに子供は床へ寝転がり、ノアの尻尾を目で追っている。
「明るい紙、決まった?」
「決まらなかった」
「やめたの?」
「うん。外行った」
「そっか」
「アリシアは数字見た?」
「見てないよ」
「やめたの?」
「今日はね」
子供は少し考えてから、あっさり「そっか」と答えた。
それだけだった。
なぜ見なかったのか。
明日は見るのか。
いつ決めるのか。
何も聞かない。
子供にとっては、今日やらなかったことを今日やらなかったままにしておくのは、難しいことではないらしい。
「外、行く?」
子供が尋ねた。
アリシアは窓の外を見る。
夕方までにはまだ少し時間がある。
「行こうか」
「ノアも」
「勝手に俺を数に入れんな」
「行かない?」
「行く」
「行くんじゃん」
アリシアが笑うと、ノアは不満そうに尻尾を振った。
◇
三人で外へ出ると、昼より風は弱くなっていた。
森の縁に近い広場には、長く伸びた木々の影が落ちている。
子供は落ち葉を踏みながら歩き、ときどき形の違う葉を拾った。
「これ大きい」
「ほんとだ」
「こっちは穴ある」
「虫かな」
「分かんない」
拾った葉を持ち帰るのかと思ったが、子供はしばらく眺めたあと地面へ戻した。
「持ってかないの?」
「うん」
「どうして?」
「ここにあったから」
アリシアはその言葉を聞き、少しだけ立ち止まった。
何でも集めなくていい。
見つけたものを全部持ち帰らなくてもいい。
もちろん、それを研究の教訓にする必要はない。
今日はただ、子供が落ち葉を地面へ戻しただけだ。
アリシアも葉を一枚拾った。
縁が少し赤くなっている。
綺麗だと思ったので、しばらく手に持っていた。
研究用の記録にはしない。
学院の帳面にも書かないかもしれない。
それでも、見つけたことには変わりなかった。
◇
夜、アリシアは机へ向かった。
最初に開いたのは研究帳面ではなく、学院用の帳面だった。
午前の資料読解で扱った古い商業記録について書き、同じ品名らしい略記でも、一つの記録だけで決めず、在庫表や支払い記録を照合したことをまとめる。
友人と交わした約束も、小さく端へ書いた。
『資料修復の練習紙を持ち帰ってよいか、次の授業で先生に聞く。』
書き終えてから研究帳面を開いた。
今日、新しい数値は一つもない。
だから書くことが少ないかと思ったが、実際にはそうでもなかった。
『昨日確認した東側事前状態二指標の結果を受け、次の探索候補について相談した。新規データ開示なし。』
その下へ候補を書く。
『候補一:入力側の既存固定指標を用いた探索的比較。実施する場合、目的、対象記録、使用指標を開示前に決める必要がある。既存指標であることだけを理由に全項目を開かない。』
『候補二:既に結果を確認した平均傾きと変動性の組み合わせを探索的に見る。ただし個別結果を確認した後の分析であることを明示し、新たな確認済み結果として扱わない。』
続けて、今日は採用しなかったものを書く。
『三件目の変動性欠測を別算出法で補う作業は、現時点では進めない。既存指標の欠測を、三件を並べたいという理由で新規算出法により埋めない。』
『新たな人工刺激は現在の次段階として設定しない。』
最後に、今日決めなかったことを書く。
『次にどの候補へ進むかは未決定。今日決める必要がないと判断した。』
アリシアは筆先を止めた。
未決定。
以前なら、その言葉を見ると落ち着かなかった。
空欄のように感じていた。
けれど今は、未決定にした理由がある。
何も考えなかったから決まっていないのではない。
候補を分け、それぞれの意味を考えたうえで、今日の結果だけを理由に次を選ばないことにした。
(これも、記録なんだ)
そう思いながら帳面を閉じる。
窓辺ではノアが外を眺めていた。
「今日は紙増えたか?」
「増えた」
「数字見てねえのに?」
「増えた」
「終わってんな」
「終わってないよ」
「じゃあいつ終わるんだ」
アリシアは少し考えた。
六つ目の神器が何なのか。
なぜ自分が選ばれたのか。
東と西で起きていることにどんな関係があるのか。
弱い胸の異常が三度現れたことに意味があるのか。
まだ分からないことは多い。
「……分からない」
「便利だな、それ」
「今日はそれでいいの」
ノアは振り返り、しばらくアリシアを見たあと、小さく鼻を鳴らした。
「なら寝ろ。明日も学院だろ」
「うん」
アリシアは研究帳面を学院の帳面の隣へ置いた。
机の端には、昨日子供からもらった色紙が残っている。その横へ、夕方に拾った赤みのある葉を置こうとして、少し考えた末にやめた。
葉は外へ戻すことにした。
すべてを手元へ残す必要はない。
すべての数字を今日開く必要もない。
すべての候補を次の問いへ変える必要もない。
何を調べるのかを決めることと、調べられるものを片端から見ることは違う。
アリシアはその違いを、以前より少しだけ自分のものとして理解し始めていた。
次に開く欄は、まだ決まっていない。
けれど今夜、その空欄は以前ほど怖くなかった。




