第264話 残っている期待ごと、次の欄を開く
翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い雲が広がっていた。
雨が降り出しそうな重さはなく、森の上へ淡い灰色の布を一枚広げたような空だった。昨日まで葉先に残っていた水滴もほとんど消え、生活観測区画へ入ってくる風には湿った土の匂いより、朝の冷えた木々の匂いの方が強く混じっている。
アリシアは寝台の上で身体を起こすと、すぐには研究のことを考えず、まず自分の身体へ意識を向けた。
疲労は一・五くらい。
痛みはなく、息苦しさもない。
胸の中央から少し左へ意識を向けても、弱い異常は感じなかった。頭痛、吐き気、めまいもなく、昨日の研究後から夜までの間にも遅れて現れた変化はなかった。
そこまで確かめてから、ようやく昨日伏せたまま残してきた欄を思い出す。
東側奥部の事前状態。
すでに確認した平均傾きでは、三件の閾値未満胸部異常報告が一つのきれいな形には揃わなかった。一件目と三件目は近い下降側だったが、二件目はそれらより平坦側にあり、しかも似た範囲の値は胸部異常が報告されなかった比較可能記録にも存在していた。
平均傾き単独では、三件だけに限られた特徴は見えていない。
けれど、もう一つだけ、開くと決めている既存指標がある。
変動性。
(……やっぱり、似ててほしい)
昨日ほど強くはなかった。
それでも消えてはいない。
アリシアは寝台の脇へ置いた研究用の帳面を取ろうとして、途中で手を止めた。
朝一番から研究帳面を開く必要はない。
今日は学院へ行く。
資料修復の選択授業はない日だが、通常の授業があるし、友人とも会う。変動性の数字が逃げるわけでもない。
「……あとでいい」
小さく呟いて立ち上がると、毛布の端から黒い尻尾が出た。
「何が」
「帳面」
「開けよ。そこまで手ぇ伸ばしたなら」
「今はいいの」
「珍しい病気だな」
「病気じゃない」
毛布の中から顔を出したノアは、眠そうな目でアリシアを見た。
「昨日は数字一個見て帰ってきたと思ったら、今日は帳面すら開かねえのか」
「学院に行くから」
「毎日行ってるだろ」
「だから、普通」
「研究しないと普通になれねえみたいな言い方すんな」
アリシアは一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく頷いた。
「……そうだね」
研究をしない時間が特別なのではない。
学院へ行って、授業を受けて、友人と話して、生活観測区画へ帰ってくる。それもずっと続いている自分の生活だった。
その中に研究がある。
順番を逆にしなくてもいい。
◇
朝食の席では、子供がパンをちぎりながら昨日の紙箱について話していた。
「木、真ん中にした」
「昨日の?」
「うん。石よりやわらかい。でも紐よりかたい」
「決まったんだ」
「決まった」
得意そうに頷いたあと、子供は少し考えてから首を傾げた。
「でも、木の実はまだ分かんない」
「じゃあ、まだ真ん中?」
「木と一緒じゃない真ん中」
「真ん中が二つあるの?」
「あるよ」
子供にとっては何の矛盾もないらしい。
アリシアは笑いながら自分のパンを口へ運んだ。
少し離れた場所では、顔のない存在がいつもの位置で静かに過ごしている。胸元の十一の光に目立った変化はなく、重要な木箱にも誰も触れていなかった。
紙箱の中身を分類する遊びも、十一の光も、閉じた木箱も、今日はそのままでいい。
「アリシア、今日も紙なおす?」
「今日は資料修復ないよ」
「じゃあ研究?」
「授業が終わって、身体が大丈夫だったら」
「数字見る?」
「たぶん」
「何の?」
アリシアは少し迷った。
詳しく説明しても、子供には必要のない話だ。
「前に測ってたものの、まだ見てないところ」
「まだあるの?」
「ある」
「いっぱいだね」
「……いっぱいだね」
研究を始めた頃なら、その言葉を聞いて少し嬉しくなっていたかもしれない。
見るものがたくさんある。
調べられることがたくさんある。
答えへ近づくための材料がたくさんある。
けれど今は、見られるものが多いことと、見るべきものが多いことは同じではないと分かっている。
昨日開いたのは平均傾き。
今日候補になっているのは、あらかじめ決めた変動性。
それ以外は、まだ開かない。
◇
学院の午前授業では、魔法制御の実習が行われた。
今日の課題は、手のひらの上に作った小さな光球を一定の大きさへ保ったまま、教室内をゆっくり歩くというものだった。
机は壁際へ寄せられ、生徒たちは互いに十分な距離を取っている。
窓から入る曇り空の光に、生徒たちが作った淡い魔法光が重なっていた。白、薄い黄色、青みを帯びたものまで色合いにはわずかな差があり、歩くたびにそれぞれの光が揺れている。
アリシアは自分の光球を見つめすぎないよう、前方へ視線を向けた。
歩きながら大きさを保とうとすると、どうしても光が少し縮む。
縮んだことに気づいて魔力を足すと、今度は膨らみすぎる。
「アリシアさん、修正を急がなくていいですよ」
教師の声が飛んできた。
「はい」
「少し変わったからといって、すぐ元へ押し戻そうとすると、その修正そのものが次の揺れになります。まず今の状態を見て、それから必要な分だけ動かしてください」
アリシアは返事をし、呼吸を整えた。
昨日までなら、その言葉を研究へ重ねたかもしれない。
平均傾きが思った形ではなかった。
だから変動性に答えを求めたくなった。
確かに似ているところはある。
けれど今は授業中だ。
(今は、光球)
胸の中でそう言い、研究のことをいったん脇へ置く。
歩幅を少し小さくし、魔力を足すのではなく、まず現在の光球の大きさを感じ取る。ほんの少し縮んではいるが、急いで直すほどではない。
そのまま数歩進む。
光は大きく乱れなかった。
「今の方が安定していますね」
教師が近くを通りながら言った。
アリシアは少し嬉しくなった。
研究に役立つからではない。
授業の課題が、さっきより上手にできたからだった。
◇
昼休みになると、アリシアは友人と中庭へ出た。
雲の切れ間からときどき日が差し、石造りの校舎の壁へ明るい場所と暗い場所を作っている。風は少し冷たかったが、外で昼食を取れないほどではなかった。
友人はパンを食べながら、昨日の染色実習で使った布を小さく畳んで見せてきた。
「持ってきたの?」
「見せたかったから」
広げられた布には、青と薄い紫の間のような色が広がっていた。
均一ではなく、端の一部が少し濃い。
「綺麗」
「ほんと?」
「うん」
「先生には『次は染料の量をもう少し揃えましょう』って言われた」
「でも綺麗だよ」
「じゃあこれは成功ということにする」
「先生の記録は?」
「予想外」
「昨日と同じじゃない?」
「私の中では成功」
友人が笑う。
アリシアも笑いながら布を返した。
「そっちは今日、数字見るんだっけ?」
「身体が大丈夫だったら」
「昨日見なかった方?」
「うん」
「まだ似ててほしい?」
昨日と同じ問いだった。
けれど、アリシアの答えは少し違った。
「ほしい。でも、昨日よりは……少し下がったかも」
「何点?」
「七くらい」
「昨日は?」
「最後は八」
「一しか下がってないじゃん」
「一は下がったよ」
「そこ大事?」
「大事」
友人は楽しそうに笑いながら、残っていたパンを口へ運んだ。
「じゃあ、似てなかったら?」
アリシアは中庭の木々へ視線を向けた。
風が枝を揺らし、まだ色の濃い葉が重なって音を立てている。
「残念だと思う。でも、昨日も残念だったから」
「慣れた?」
「慣れたっていうより……残念でも、数字は変わらないって分かった」
「当たり前じゃない?」
「うん。たぶん当たり前」
「研究って、当たり前を確認するのに時間かかるね」
「……そうかも」
アリシアは少し考え、それから友人へ尋ねた。
「染色で思った色にならなかったら、次どうする?」
「先生に聞く」
「自分で染料増やしたりしない?」
「勝手にやったら怒られるよ」
あまりにも普通の返事だったので、アリシアは笑ってしまった。
「なんで笑うの?」
「なんでもない」
「怪しい」
「ほんとになんでもないよ」
友人は研究者ではない。
研究の設計も知らない。
それでも時々、とても簡単な言葉でアリシアが考えすぎていたものをほどいてしまう。
だからといって、友人を研究へ引き込む必要はなかった。
青紫の布を見せてくれる友人は、それだけで十分だった。
◇
放課後、研究棟へ向かう前に、アリシアは少し遠回りをした。
理由は特にない。
すぐ研究棟へ入るより、学院の庭を歩いてから行きたかった。
石畳の脇では、風に落とされた小枝を用務員が集めている。訓練場からは剣を打ち合わせる音が聞こえ、別棟の窓からは楽器の練習らしい不揃いな音が流れてきた。
自分と同じように、たくさんの生徒がそれぞれの放課後を過ごしている。
アリシアは研究棟の前まで来ると、一度だけ空を見上げた。
(見たい気持ちは、七)
消えてはいない。
それを確認してから扉を開けた。
◇
研究室では、昨日の資料が同じ配置のまま用意されていた。
平均傾きの欄はすでに開いている。
変動性だけが伏せられていた。
ただし、昨日の結果を受けて新しい列が増えたり、比較対象が変更されたりした様子はない。
アリシアはそれを見て、少し安心した。
「まず状態確認からです」
サラに促され、席へ着く。
疲労は二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいもない。
恐怖は一。
研究参加希望は八。
変動性を見たい気持ちは九。
早く結論まで進みたい気持ちは六。
止まりにくさは五。
「昨日より下がっていますね」
「はい」
「三件の変動性が似ていてほしい気持ちは?」
「七です」
「比較相手には似ていてほしくない気持ちは?」
アリシアは少し考えた。
「……六」
「まだありますね」
「あります」
「それをなくしてから見る必要があると思いますか?」
「思わないです」
昨日、確認したことだった。
期待があるから記録が無効になるわけではない。
願いが消えるまで待つ必要もない。
大切なのは、それがあると分かった状態で、結果に合わせて規則を変えないことだ。
「昨日の平均傾きを見たあと、比較条件を変更したいと思いましたか?」
「一件目と三件目だけ見たくなりました。でも、変えないです」
「新しい指標を追加したい?」
「今はないです」
「比較対象を増やしたい、あるいは減らしたい?」
「ないです」
「変動性の値を見たあとで、近い・遠いを二つに分ける新しい境界を作りますか?」
アリシアは昨日の失敗しかけたところを思い出した。
「作りません。先に決めてないから」
「では、数値そのものと配置を記述する。三件が完全に同じ値である必要はありませんが、どの程度なら『同じ状態』とするかという新しい閾値も、結果を見たあとでは設定しない」
「はい」
「欠測があれば?」
「ゼロにしない。分からないまま」
「比較対象側でも同じです」
「はい」
副学長が記録紙へ目を落とした。
「昨日の平均傾きと組み合わせた新しい合成指標も、今日は作らない」
アリシアは一瞬だけ考えた。
平均傾きと変動性。
二つを見れば、組み合わせたくなるかもしれない。
「……はい。二つを足した点数みたいなのも作らない」
「少なくとも結果を見たあと即席ではな」
「はい」
魔導具担当教師が確認用の紙を机へ置いた。
「今日見る変動性は、これまで固定していた同じ入力前区間について算出された既存値です。局所的な形、特定の一回だけ大きく動いた箇所、細かな波の数などを、新しい説明変数として追加しません」
「はい」
「では、開けてもいいですか?」
アリシアは伏せられた欄を見た。
心臓が少し速い。
昨日より期待は下がった。
それでも、似ていてほしい。
(残っててもいい)
期待がある自分を消してから数字を見るのではない。
期待があると知ったまま見る。
「お願いします」
◇
記録担当が覆いへ手をかけた。
紙が擦れる小さな音がしたあと、変動性の欄が現れる。
アリシアはすぐに比較相手まで見ようとせず、まず三件の閾値未満胸部異常報告だけへ視線を置いた。
一件目。
低めから中程度の範囲。
二件目。
一件目よりやや高い。
三件目。
その値は表示されていなかった。
代わりに、固定された欠測表示がある。
アリシアは瞬きをした。
「……ない」
「欠測です」
記録担当が答えた。
「どうして?」
「算出に必要な事前区間の記録品質が、既存の採用条件を満たしていません。値そのものがゼロなのではなく、この指標について利用可能な値がありません」
アリシアは表へ顔を近づけそうになり、途中で止まった。
三件を並べたいと思っていた。
三件が似ているか確かめたいと思っていた。
けれど、三件目には比較できる変動性の値がない。
「直せない?」
口にした直後、自分でも何を求めたのか分かった。
記録担当は責める様子なく答えた。
「元記録から別の算出法を作れば、何らかの数字を出せる可能性はあります。ただし、それは今日見ると決めていた既存の変動性とは別の指標になります」
「……やらない」
「はい」
「今は、やらないです」
アリシアは椅子へ座り直した。
欠測は欠測。
ゼロではない。
都合が悪いから別の計算法で埋めることもしない。
決めていたことだった。
(でも、三つ見たかった)
期待していたのは、三つの数字だった。
似ている三つ。
あるいは似ていない三つ。
どちらでも、三件を並べられると思っていた。
ところが実際には、三つ目がない。
それは「違った」よりも少し困る結果だった。
「今の気持ちは?」
サラが尋ねる。
「……困った、が一番近いです」
「残念さは?」
「七」
「昨日より上がりましたね」
「三つ見られると思ってたから」
「値がないこと自体を、何かの特徴だと思いますか?」
アリシアは首を横に振った。
「思わないです。記録の条件が足りなかっただけだから」
「では、残る二件については?」
アリシアはもう一度表を見た。
一件目と二件目。
完全に同じではない。
二件目の方が変動性は高い。
ただ、どこまでなら近いと呼ぶかを事前には決めていない。
「二件だけで、同じとは言わない」
「違うとも?」
「固定した境界がないから……数字の位置だけ書く」
「はい」
副学長が頷いた。
「それでいい」
アリシアは少し唇を噛み、それから比較対象側へ目を移した。
◇
比較可能な胸部異常非報告記録にも、変動性の低いもの、高いもの、その中間にあるものが存在した。
一部には三件のうち利用可能な二件と近い範囲の値がある。
反対に、そこから離れたものもある。
さらに一件は、同じ採用基準によって変動性が欠測となっていた。
「こっちにも、ないのがある」
「はい」
「同じ理由?」
「記録品質が既存の採用条件を満たさないという点は同じです。ただし、具体的にどの部分が不足したかは記録ごとに同一とは限りません」
「欠測同士だから同じ、にはしない?」
「しません」
アリシアは頷いた。
数字がないことまで、共通点として拾いたくなる。
けれどそれは、身体に起きた現象の共通性とは別の話だった。
「変動性も……三件だけの特徴は見えてない?」
アリシアが尋ねると、副学長はすぐには答えず、言葉を選んだ。
「利用可能な二件の値は、比較対象にも見られる範囲にある。三件目は欠測だ。したがって、この既存変動性指標から『三件だけに共通し、比較対象にはない特徴』を確認したとは言えない」
「はい」
「ただし、『三件に共通する特徴が存在しない』とも言えない。三件目の値がない以上、この指標だけでは三件すべての配置を確認できていない」
「分からないところが残る?」
「残る」
その答えに、アリシアは複雑な気持ちになった。
分からない。
また、その言葉だった。
けれど以前ほど、それが空っぽには感じない。
何が分からないのかが、前より細かくなっている。
三件の胸部異常が同じものかは分からない。
東側奥部の事前状態が関係するかも分からない。
平均傾きでは三件だけに限られた特徴は見えなかった。
変動性でも、利用可能な値は比較対象と重なり、さらに三件目は欠測だった。
少なくとも、事前に決めていた二つの既存指標を開いた結果、簡単な一つの特徴が三件だけをきれいにまとめてくれたわけではない。
「……ちょっと、悔しい」
アリシアが言うと、若い観測員が顔を上げた。
「何がですか?」
「もっと、分かると思ってた」
「平均傾きと変動性を見れば?」
「うん」
「何が分かると思っていました?」
アリシアは答えようとして、少し止まった。
昨日、友人にも似たことを聞かれていた。
比べて何が分かるのか。
あの時、自分はすぐには答えられなかった。
「三件の前が似てるか」
「それは一部見ましたね」
「でも、似てるって言える境界は決めてなかった」
「はい」
「それに……似てても、三件だけじゃなかったら特別とは言えない」
「はい」
「変動性は三件目がない」
「はい」
アリシアは表を見つめた。
「じゃあ、今日分かったのは……簡単に三件だけをまとめるものは、この二つでは見つからなかった、くらい?」
副学長が少しだけ口元を緩めた。
「かなり慎重に言うなら、そのくらいだろう」
「『ない』じゃなくて?」
「ないことを証明したわけではない。今回開いた二指標で、三件に限定された明瞭な共通特徴を確認できなかった、だ」
「……長い」
「研究の記録は、短くすると別の意味になりやすい」
「知ってます」
アリシアは少しだけ笑った。
◇
そこで研究を終えてもよかった。
しかし、アリシアの視線は表の平均傾きと変動性の二列を行き来していた。
サラがそれに気づく。
「何か見たいものがありますか?」
「二つを一緒に見たら……」
言いかけたところで、アリシアは止まった。
平均傾きと変動性の組み合わせ。
それを見れば、もしかすると三件のうち利用可能なものに何か形が出るかもしれない。
平均傾きが近くなくても、変動性との組み合わせならまとまるかもしれない。
そんな期待が一瞬で膨らんだ。
「……だめ」
「何がですか?」
「今、二つを組み合わせたら何か出るかもって思った」
「思うこと自体は構いません」
「でも、今日は作らないって決めた」
「はい」
「だから見ない」
アリシアは自分から表を少し遠ざけた。
数字はもう見えている。
頭の中で組み合わせを考えることまで完全には止められない。
けれど、新しい分類を作り、線を引き、都合のいいまとまりを探す作業へ進む必要はない。
「次にやるなら、先に何を見るか決める」
「その通りです」
「でも……次にそれをやるって、今決めなくてもいい?」
「もちろんです」
副学長が答えた。
「二指標を開いたからといって、必ず組み合わせ分析へ進まなければならない理由はない」
「入力側も、まだ開いてない」
「そうですね」
「でも、それも今日見ない」
「はい」
サラが状態確認の紙を手元へ寄せた。
「今の疲労は?」
「三」
「痛み、息苦しさ、胸部異常は?」
「全部ゼロ」
「早く次へ進みたい気持ちは?」
アリシアは少し考えた。
「八」
「止まりにくさは?」
「七」
「では、今日はここまでにしますか?」
昨日なら自分から止めた。
今日は誰かに言われる前に止められるかと思っていたが、実際には次の候補がいくつも頭へ浮かんでいる。
平均傾きと変動性を組み合わせる。
入力側の既存指標を見る。
欠測した三件目について、別の既存情報がないか確認する。
比較対象をさらに広げる。
どれも考えることはできる。
けれど、今すぐ選ぶ必要はない。
「……終わります」
「分かりました」
「次に何するかも、今日は決めない」
「それも記録します」
アリシアは最後に表を見た。
三件が一列に揃う答えはなかった。
けれど、だからといって、三件を無理に揃える必要もなかった。
◇
研究棟を出る頃には、空の雲が少し薄くなっていた。
西の端だけが淡く橙色へ変わり、校舎の窓へ細い光が差している。
ノアがアリシアの隣を歩く。
「欲しい答えなかったな」
「うん」
「残念か」
「うん」
「じゃあ今日は甘いもんでも食うか」
アリシアは足を止めた。
「研究のご褒美?」
「違う。俺が食いたい」
「ノア、甘いのそんなに食べないでしょ」
「じゃあ肉」
「もっと違う」
「注文多いな」
「私が言ったんじゃないよ」
二人で歩き出す。
研究の話を続けてもよかったが、ノアはそれ以上数字について尋ねなかった。
アリシアも、自分から説明しなかった。
今日見たものは、夜に帳面へ書けばいい。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が床へ座って紙箱の中身を並べていた。
朝には「石」「木」「紐」の間にいくつかの場所を作っていたはずだが、今度はまったく別の並び方になっている。
「変えたの?」
「うん」
「今度は何?」
「好きな順」
アリシアは思わず笑った。
「朝の硬さは?」
「終わった」
「終わったんだ」
「うん」
石、色紙、木の実、ノアの毛、木片、白い紐。
硬さとは何の関係もない順番で並んでいる。
朝の分類を続ける義務など、子供にはなかった。
「アリシアもやる?」
「何を?」
「好きな順」
「私が決めていいの?」
「いいよ」
アリシアは床へ座った。
石を持ち上げ、木の実を見て、色紙を指で触る。
研究の比較とは違う。
規則を先に決める必要もない。
理由が途中で変わっても構わない。
「じゃあ……色紙が一番」
「なんで?」
「綺麗だから」
「次は?」
「木の実」
「なんで?」
「丸いから」
「次は?」
子供に急かされ、アリシアは笑いながら続きを選んだ。
少し離れた場所では、顔のない存在が静かに座っている。十一の光には今日も目立った変化がなく、重要な木箱も閉じたままだった。
研究の答えが出なかった日でも、生活は続いている。
そして、すべての並べ方に研究と同じ厳しさを持ち込む必要はなかった。
◇
夜。
アリシアは学院の帳面へ午前の魔法制御について書いた。
歩きながら光球を維持する課題で、最初は縮むたびに魔力を足しすぎてしまったこと。途中から急いで修正せず、現在の大きさを確かめるようにしたら少し安定したこと。
友人が青紫の布を持ってきたことも書く。
『先生の記録では予想外。でも本人の中では成功。』
そこまで書いて少し笑い、学院の帳面を閉じた。
次に研究用の帳面を開く。
まず、見る前の期待を書く。
『三件の変動性が似ていてほしい気持ち七。比較相手には同じ特徴が少ない方がいいと思う気持ち六。期待をなくしてから見るのではなく、期待が残っていることを記録したうえで確認した。』
続いて結果を書く。
三件のうち、変動性として利用可能だったのは二件。
一件は既存採用条件を満たさず欠測。
欠測はゼロとして扱わない。
別の算出方法で埋めない。
利用可能な二件の値は完全に同一ではなく、事前に類似判定の境界も固定していないため、結果を見たあとで「同じ」「違う」の二値へ分けない。
比較可能な胸部異常非報告記録にも近い範囲の変動性が存在し、欠測記録も存在した。
そこまで書いてから、アリシアは筆を止めた。
(今日、一番大事だったのはどこだろう)
欠測があったこと。
比較対象にも似た値があったこと。
三件がきれいに揃わなかったこと。
どれも大事だった。
けれど、自分にとって強く残っているのは、欠測を見た瞬間に「直せない?」と聞いたことだった。
アリシアはそのまま書く。
『三件目が欠測だと分かったとき、別の方法で数字を出せないかと思った。三件を並べたい気持ちがあったからだと思う。ただし、別の算出法は今日見ると決めていた既存変動性とは別の指標になるため、追加しなかった。』
さらに続ける。
『平均傾きと変動性を組み合わせれば何か見えるかもしれないとも思った。しかし、組み合わせた指標や分類は事前に決めていないため、今日は作らなかった。入力側の詳細も開いていない。』
そして最後に、今日の範囲で言えることを慎重に書いた。
『既存の平均傾きと変動性を確認した範囲では、三件の閾値未満胸部異常報告だけに限定された明瞭な東側事前状態の共通特徴は確認していない。ただし、変動性は三件目が欠測であり、二指標のみで東側事前状態の関与そのものを否定することはできない。三件の主観報告が同一か不同一かも、この結果では決めない。』
アリシアは読み返した。
長い。
けれど、短くすると違う意味になってしまう。
「……これでいい」
窓辺のノアが耳だけを動かした。
「何が」
「今日の記録」
「三つ同じだったか?」
「ならなかった」
「じゃあ違うのか?」
「それも決めてない」
「便利だな、研究」
「便利じゃないよ」
「同じでもない、違うでもない、分からない。でも紙だけ増える」
アリシアは少し頬を膨らませたが、反論しようとしてやめた。
「……紙は増えた」
「だろ」
「でも、前より分からないところが分かった」
「それ日本語として大丈夫か?」
「大丈夫」
ノアは疑わしそうな顔をしたあと、また丸くなった。
アリシアは研究帳面を閉じた。
次に何を見るかは決めていない。
入力側には、すでに固定されている既存の指標が残っている。
平均傾きと変動性を組み合わせて見る案も頭には浮かんだ。
けれど、それらはまだ候補だった。
今日の結果を見た勢いで、どちらかを次の正式な問いへ変える必要はない。
机の上には、学院の帳面と研究の帳面が並んでいる。
その横へ、生活観測区画で子供からもらった小さな色紙が一枚置いてあった。好きな順番を決める遊びのあと、「一番だったから」と渡されたものだった。
アリシアは色紙を指先でそっと撫でる。
研究では、比べる相手を結果に合わせて変えなかった。
欠けた数字を、欲しいからという理由で作らなかった。
期待していた形にならなくても、別の指標へ急いで答えを探しに行かなかった。
それでも、似ていてほしかったという気持ちまで消えたわけではない。
消す必要もなかった。
アリシアは灯りを少し落とし、椅子から立ち上がった。
次に何を開くのかは、まだ決まっていない。
だから今夜は、決めないまま眠ることにした。




