第263話 開く前に、期待の置き場所を決める
雨の翌朝、生活観測区画の窓から見える森には、まだ昨日の水気が残っていた。
雲はほとんど消えていたが、枝葉の先には小さな雫がいくつも残り、朝日を受けるたびに淡い光を返している。開けた窓から入り込む空気には湿った土と木の匂いが混じっており、昨夜までの雨を森全体がまだ覚えているようだった。
アリシアは寝台から身体を起こすと、枕元へ置いていた水を少し飲み、いつものように自分の状態を確かめた。
疲労は一から二の間。
痛みも息苦しさもなく、胸の中央より少し左へ意識を向けても、あの弱い異常は感じない。頭痛、吐き気、めまいもなく、身体だけを見れば研究へ参加できない理由はなさそうだった。
けれど、そこで確認を終えず、アリシアは膝を抱えるようにして少しだけ考えた。
(今日は、見たい)
昨日よりはっきりしていた。
東側奥部の事前状態について、平均傾きと変動性を確認したい。
三件の閾値未満胸部異常報告だけではなく、同じ早期位置単一意図的小変動条件と同じ事前状態記録方式を持つ前向き記録を比較相手に含めることも、すでに決めてある。
歴史記録を主比較へ混ぜない。
設計上の役割を消さない。
欠測をゼロにしない。
結果を見てから比較対象を増減しない。
数値を見るための枠は、昨日のうちに決まった。
だから今日は、開ける。
そう考えたところで、胸の奥に別の気持ちがあることにも気づいた。
(似ていてほしい)
三件の弱い胸部異常。
胸の中央より少し左。
強さはおよそ〇・五。
短く、弱まりながら消える。
既存の対象感覚としては確認されず、痛みも息苦しさもなかった。
一件目だけは「冷たいとはまだ言い切れない」という温度に関する留保があり、残る二件には温度を示す言葉そのものがなかった。それでも、自分の中では三つを並べて見たとき、どうしても似ているように感じてしまう。
時間配置も完全には同じではない。
東側の対象反応との重なり方は三件で異なる。
西側についても、一件目は確認窓と離れ、二件目は一部重なり、三件目では対象反応そのものが非確認だった。
それでも東側の反応窓の中心は、三件すべてで自分の主観時間窓の中心より早い側にあった。
(東側の前の状態も、三つとも似てたら……)
そこまで考えたところで、アリシアは口を閉じた。
何が嬉しいのか。
似ていれば、三件が同じものだったように感じられるから。
あるいは、自分の胸に起きた弱い異常が、ただ曖昧なだけのものではなかったように思えるから。
けれど、それは結果ではない。
願いだ。
「……先に書いた方がいいかも」
アリシアが呟くと、寝台の端で丸まっていた黒い塊から耳だけが持ち上がった。
「朝飯の希望か?」
「違う」
「じゃあ寝直す」
「ノア」
「朝から研究の希望なら、もっと寝直す」
毛布へ顔を埋めようとするノアを見て、アリシアは少しだけ笑った。
「昨日、次に数字を見る前に、何が出てほしいか確認するって書いたの」
「自分で仕事増やしてんじゃねえか」
「増やしたんじゃなくて、必要だと思ったから」
「研究ってのは必要な仕事を発見する研究でもしてんのか」
ノアは不満そうに片目だけ開けたが、アリシアが返事をしないまま考えているのを見ると、結局は身体を起こした。
「で、何が出てほしい」
「……三件の東側の前の状態が、似ててほしい」
「何で」
その問いに、アリシアはすぐ答えられなかった。
ノアは急かさない。
窓の外から鳥の鳴き声が聞こえ、濡れた葉から雫が落ちる。
「同じだったら……三つの胸の変なのも、同じものかもしれないって思えるから」
「思えるだけだろ」
「うん」
「同じだと決まるわけじゃねえ」
「うん。それも分かってる」
アリシアは膝の上で指を組んだ。
「だから、見る前に言っておきたいの。私が似ててほしいって思ってること」
ノアはしばらくアリシアを見ていたが、やがて尻尾を一度だけ毛布へ落とした。
「じゃあ、それ忘れんな」
「うん」
「数字が似てたら『やっぱり』って顔するだろうし、違ったら『何で』って顔するだろ。どっちも先に分かってりゃ、あとで少しはマシだ」
「ノア、研究の話してる?」
「お前の顔の話だ」
「……そっちなんだ」
「数字の専門家になる気はねえよ」
ノアはそう言って寝台から飛び降りた。
アリシアもあとに続く。
今日、数値を開くかどうかは、研究室へ行って状態を確認してから決める。
ただし、その前に自分が何を望んでいるかだけは、もう分かっていた。
◇
朝食のあと、学院へ向かう支度をしていると、子供が紙箱を持って近づいてきた。
「アリシア、これ見て」
「なに?」
紙箱の中には、丸い石、木の実、短い白い紐、ノアの毛、色紙、小さな木片が入っている。
昨日までは色ごとに寄せて遊んでいたが、今日は配置が変わっていた。
石と木片が片側へ寄せられ、白い紐とノアの毛が反対側に置かれている。木の実だけは中央に残っていた。
「今日はどうしたの?」
「かたいのと、やわらかいの」
「木の実は?」
「わかんない」
子供は困ったように木の実を指で転がした。
「じゃあ、真ん中?」
「うん」
アリシアはそれ以上、分類の意味を考えなかった。
石と木片が同じ側にあるからといって、研究の比較へ結びつける必要はない。子供が遊びの中で「硬い」と「柔らかい」を分け、迷った木の実を中央に置いただけだ。
少し離れた場所では、顔のない存在がいつものように過ごしていた。胸元の十一の光に目立った変化はなく、重要な木箱も閉じたまま置かれている。
「帰ったら、またやる?」
子供が聞いた。
「うん。今日は資料修復もあるから、少し遅くなるかもしれないけど」
「紙なおすやつ?」
「そう」
「破るの?」
「破らないよ」
「じゃあ、なおせない」
「……今日は最初から破れてる練習用の紙を使うと思う」
子供はしばらく考えたあと、納得したように頷いた。
「じゃあ、いっぱいなおせるね」
「いっぱいは、まだ無理かも」
アリシアは笑いながら鞄を持った。
研究だけではなく、今日は資料修復の授業もある。
それを楽しみにしている自分も、ちゃんといた。
◇
学院では午前の授業を終えたあと、午後に資料修復の選択授業が行われた。
実習室には乾いた紙と糊に似た淡い匂いが漂い、長い机の上へ練習用の紙、細い刷毛、柔らかな布、小さな重しが並べられている。
前回は、破れ、折れ、湿気による歪み、縁の傷みなどを、触れる前に見分けて記録することが中心だった。
今日は、その続きだった。
「今日も、いきなり直しません」
担当教師が言うと、何人かの生徒から小さな落胆の声が上がった。
アリシアもほんの少しだけ残念だったが、前回よりは理由が分かる。
「修復という言葉を聞くと、どうしても『元に戻す』ことを考えます。しかし、資料によっては元の形が完全には分かりません。分からないものを想像で補えば、それは修復ではなく、こちらが新しく作ったものを混ぜることになります」
教師は一枚の練習紙を持ち上げた。
端の一部が欠けている。
「この欠損へ、皆さんなら何を足しますか?」
教室のあちこちで手が上がった。
直線だったはずだから直線を足す。
隣の模様から推測する。
似た資料を調べる。
教師は一つずつ聞いたあと、紙を机へ戻した。
「どれも方法として考える価値はあります。ただし、今日は足しません。まず、残っているものをこれ以上失わないための処置だけを学びます」
アリシアは手元の練習紙へ目を落とした。
自分の紙には、端から中央へ向かって短い裂け目が入っている。
教師の指示に従い、裂け目の長さと位置を確認し、どちら側の繊維が持ち上がっているかを記録する。
そのあと初めて、柔らかな刷毛を使った簡単な安定化の練習へ進んだ。
アリシアの手は最初、少し固かった。
力を入れすぎれば紙が動く。
怖がって触れなければ、作業にならない。
教師が机の間を歩きながら、生徒たちの手元を確認していく。
「アリシアさん、もう少し手首の力を抜いて大丈夫ですよ」
「はい」
「紙を押さえ込むのではなく、動かないよう支える程度で」
言われた通りに力を緩める。
刷毛の先が紙へ触れ、わずかに浮いていた繊維が落ち着いていく。
(……できた)
胸の中に、小さな嬉しさが広がった。
研究の数字が揃ったときとは違う。
謎が一つ減ったわけでもない。
ただ、自分の手で紙を傷めずに扱えたことが嬉しい。
隣の席の生徒が力を入れすぎて練習紙を動かしてしまい、「あっ」と声を上げた。教師が慌てなくてよいと笑いながら位置を直し、周囲にも緊張しすぎないよう声をかける。
教室の空気が少し和らいだ。
アリシアも肩の力を抜き、もう一度刷毛を持つ。
授業が終わる頃には、完全な修復にはまだ遠いものの、紙へ触れることへの怖さは少し減っていた。
実習室を出ると、染色の授業を終えた友人が廊下で待っていた。
「どうだった?」
「今日は少し触った」
「ついに?」
「うん。でも、直したっていうより……これ以上悪くならないようにしただけ」
「それでも進んだじゃん」
「うん」
アリシアが自然に笑うと、友人も嬉しそうに笑った。
「そっちは?」
「布がすごいことになった」
「失敗?」
「先生は『予想外の色も記録しましょう』って言ってた」
「……失敗?」
「予想外」
「同じじゃない?」
「違うの。たぶん」
二人で笑いながら廊下を歩く。
友人の指先には、洗ったあとでも落ちきらなかった薄い青色が残っていた。
「今日、研究もするの?」
「うん。たぶん数字を見る」
「昨日決めたやつ?」
「そう」
「何が出てほしいか、もう決めた?」
アリシアは足を少し緩めた。
昨日、自分がそんな話をしたから覚えていたのだろう。
「決めたっていうより……分かった」
「何が出てほしいの?」
「三つが、似ててほしい」
友人は理由を尋ねる前に、アリシアの顔を見た。
「でも、似てなくても見るんでしょ?」
「うん」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「……大丈夫?」
「だって、似ててほしいのと、似てることにするのは違うでしょ」
アリシアは少しだけ目を見開いた。
友人はそれ以上難しい話をするつもりはなかったらしく、自分の青く染まった指を眺めている。
「私は今日、もっと綺麗な青になると思ってたんだけどなあ」
「予想外?」
「予想外」
今度はアリシアの方が先に笑った。
◇
研究棟へ着いたのは、選択授業を終えてから少し休んだあとだった。
研究室の中央には昨日固定した比較条件の紙が置かれている。
数値表はまだ伏せられていた。
アリシアはそれを見ただけで、心臓が少し速くなるのを感じた。
サラがいつものように状態確認を行う。
疲労は二・五。
資料修復の授業があった分、朝より少し増えている。
痛みはゼロ。
息苦しさもゼロ。
胸部異常はゼロ。
頭痛、吐き気、めまいもない。
研究参加希望は八。
数値を見たい気持ちは九。
早く結論まで進みたい気持ちは七。
止まりにくさは五。
「疲労二・五ですね」
「はい。でも、眠いとか、つらい感じじゃないです」
「選択授業のあとですから、朝より増えているのは自然でしょう。今日は人工刺激もありません。数値確認だけなら、現時点で安全上の中止理由はありません」
アリシアは頷いた。
そこでサラは、昨日の比較条件へ進む前に別の紙を出した。
「数値を開く前に、もう一つだけ確認します」
「期待?」
「はい。ただし、試験前の期待確認とは目的が違います。今日は身体感覚を報告する試験ではありませんから、報告を誘導しないためのものではありません」
「結果を見たあとの考え方のため?」
「その理解でいいと思います」
アリシアは朝から考えていたことを話した。
「三件の東側の前の状態が、似ててほしいです」
「理由も言えますか?」
「似てたら……三件の胸部異常が、同じものかもしれないって思いやすいから」
「『同じものだと分かるから』ではなく?」
「違います。そこまでは分からない」
「では、三件が似ていなかった場合は?」
アリシアは少し考えた。
「残念だと思う」
「その結果を疑いたくなりそうですか?」
「……少しは」
「数字の間違いを探したくなる?」
若い観測員が柔らかく尋ねる。
アリシアはさらに考え、正直に頷いた。
「なるかもしれないです」
「それも記録しておきましょう」
「はい」
「比較相手の胸部異常非報告記録にも同じ事前状態が見られた場合は?」
今度の問いには、アリシアは少し長く黙った。
「それも……ちょっと残念かも」
「なぜ?」
「三件だけの特徴じゃなくなるから」
言葉にすると、自分がどれだけ「三件に特別な共通点があってほしい」と願っているのかが分かった。
アリシアは少し恥ずかしくなり、膝の上で指を重ねた。
「私、かなり似ててほしいんですね」
「悪いことではありません」
サラが静かに言った。
「期待があることと、期待に合わせて結果を変えることは別です。自分に期待がないと思い込む方が危険な場合もあります」
「……はい」
副学長が記録用紙へ目を落とした。
「では、結果を見る前の状態として残す。三件の事前状態が似ていることを望む。その類似が比較対象には見られず、三件に特徴的であることも望む傾向がある。一方、それだけで三件の主観報告が同一だとは判断できないことは理解している」
「はい」
「違う結果が出た場合、残念さから追加の特徴や別の計算法を探したくなる可能性を本人も認識している」
「……はい」
最後の部分は少し恥ずかしかった。
ノアが足元から見上げる。
「逃げ道まで先に記録されてんぞ」
「逃げないよ」
「だから記録してんだろ」
アリシアは小さく息を吐いた。
「……うん」
◇
比較条件は昨日のまま変更されなかった。
同じ早期位置単一意図的小変動条件。
同じ東側奥部事前状態記録方式。
前向き記録のみ。
設計上の役割は分離して表示する。
歴史記録は主比較へ混ぜない。
平均傾きと変動性だけを見る。
欠測は欠測のまま扱う。
結果を見て比較対象を増減しない。
新しい局所波形特徴を追加しない。
アリシアは一項目ずつ確認し、変更したいところがないと答えた。
「では開きます。ただし、今日はまず平均傾きだけにします」
魔導具担当教師が言った。
アリシアは思わず顔を上げた。
「変動性は?」
「同時に二項目を開くこともできます。しかし、あなたが今かなり結果を知りたがっていることを考えると、一つずつ見た方が、それぞれの結果に対する反応も確認しやすいでしょう」
「昨日は二つ見るって……」
「二項目を比較することは決めました。必ず同時に開くとは決めていません」
アリシアは口を閉じた。
理屈は分かる。
けれど、ここまで来て片方だけというのは、かなり焦れったい。
「嫌ですか?」
サラに尋ねられ、アリシアは少し迷ってから答えた。
「嫌じゃないです。でも、両方見たい」
「では、その気持ちも残しておきます。平均傾きを見たあと、状態と止まりにくさをもう一度確認し、変動性まで進むか決めましょう」
「……分かりました」
ノアが小さく欠伸をした。
「一枚めくるのに三日かかりそうだな」
「ノア」
「急かしてねえぞ。感想だ」
その一言で少し肩の力が抜けた。
◇
記録担当が最初の覆いを外した。
表には、設計上の役割と主観報告の有無が記されている。
ただし、東西の結果を一列へまとめてはいない。
三領域前向き記録は三領域前向き記録として。
東西専用前向き記録は東西専用前向き記録として。
それぞれの役割が分かるよう区切られていた。
アリシアはまず、三件の閾値未満胸部異常報告へ目を向けた。
平均傾きの欄には、数値そのものと、あらかじめ固定されていた記述上の方向が併記されている。
一件目。
わずかな下降側。
二件目。
ほぼ平坦に近い範囲。
三件目。
わずかな下降側。
アリシアはしばらく何も言わなかった。
(同じじゃない)
三件すべてが、きれいに同じ方向へ並んではいなかった。
ただし、極端に離れているようにも見えない。
一件目と三件目は近い。
二件目だけが平坦側に寄っている。
自分が望んでいた「三件とも同じ」は、少なくとも平均傾きだけを見る限り、そのままの形では現れなかった。
「今、何を思いましたか?」
サラの声は静かだった。
「……二件は似てる」
「はい」
「でも、一件は違う」
「そう見えますね」
「二件だけなら……」
そこでアリシアは止まった。
何を言おうとしたのか、自分で分かった。
二件だけを取り出せば似ている。
だから、その二件に共通する別の条件を探したくなった。
「今、二件だけ見ようとしました」
「それ自体に気づくことは悪くありません」
副学長が言う。
「ただし、三件の共通性を見ると決めてから開いた。ここで一件を外す理由にはならない」
「はい」
アリシアは表へ視線を戻した。
「三件の平均傾きは、同じじゃない」
記録担当が確認する。
「『完全に同じ数値ではない』という意味ですか。それとも『事前に共通と扱える基準を決めていないため、共通と判定しない』という意味ですか?」
アリシアは戸惑った。
「……違うんですか?」
「違います」
魔導具担当教師が答える。
「今回、平均傾きについて『どこまで近ければ同じ状態と呼ぶ』という閾値は決めていません。ですから、数値を見たあとで近そうだから同じ、遠そうだから違うと二値化するのは避けた方がよいでしょう」
アリシアは息を止めかけた。
また、結果を見てから線を引こうとしていた。
「じゃあ……」
「そのまま記述します。一件目と三件目は近い下降側の値を示し、二件目はそれらより平坦側だった。三件すべてに単一の共通傾向があるとは、現時点では固定基準なしに判定しない」
「……はい」
少し残念だった。
それでも、その残念さは朝から予想していた。
だからか、数字を見た瞬間の揺れは思っていたほど大きくなかった。
「比較相手は?」
アリシアが尋ねる。
「見ますか?」
「はい」
覆いの残りが外された。
胸部異常非報告の比較可能記録にも、平坦側のものと、わずかな下降側のものがあった。
アリシアは目を細めた。
少なくとも平均傾きの方向だけを見れば、三件の弱い胸部異常だけにしか現れない配置ではない。
三領域すべてが確認された記録にも近い値がある。
東西とも対象反応が非確認で、アリシアにも胸部異常がなかった記録にも、三件のうち一部と近い範囲がある。
「……特別じゃない」
アリシアが言った。
副学長はすぐに補った。
「平均傾き単独については、三件だけに限定された特徴は今の比較から見えていない、だ」
「はい」
「『東側事前状態が関係ない』とも言えない」
「はい」
「平均傾き一項目だけだからな」
「……はい」
分かっている。
それでも胸の奥には、小さな落胆が残った。
(似ててほしかった)
朝、自分で認めた願いだった。
今、その願い通りではなかった。
だから残念なのは当然だった。
◇
平均傾きの確認後、研究はいったん止められた。
アリシアは席を立ち、窓際で温かい飲み物を飲んだ。
夕方の空はよく晴れ、昨日の雨が嘘のように明るい。濡れた屋根が光を反射し、遠くの校舎から部活動中の生徒たちの声がかすかに届いていた。
ノアが窓台へ飛び乗る。
「残念か」
「うん」
「どれくらい」
「……六」
「結構だな」
「でも、嫌じゃない」
「何が」
「見たこと」
アリシアはカップを両手で包んだ。
「似てなかったのは残念。でも……見なかった方がよかったとは思わない」
「ならいいんじゃねえの」
「それに、二件だけなら似てるって思ったとき、ちょっと危なかった」
「自覚あんのか」
「うん。一件を邪魔みたいに思いそうになった」
ノアは尻尾を窓台へ沿わせた。
「記録に嫌われるぞ」
「記録は嫌わないよ」
「じゃあ俺が代わりに嫌う」
「なんで?」
「都合悪くなったら仲間外れにする奴は感じ悪い」
アリシアは少し笑った。
「しないよ」
「ならよし」
休憩を終えて席へ戻ると、サラが状態を再確認した。
疲労は三。
痛み、息苦しさ、胸部異常はいずれもゼロ。
頭痛、吐き気、めまいもない。
残念さは六。
変動性を見たい気持ちは九。
早く結論まで進みたい気持ちは八。
止まりにくさは七。
最後の数字を口にした瞬間、アリシア自身が少し顔をしかめた。
「上がった」
「上がりましたね」
「見たいから」
「平均傾きが期待通りではなかったあとですから、別の項目で共通性が出てほしい気持ちもありますか?」
アリシアはしばらく黙った。
「……あります」
「どのくらい?」
「八」
朝より強くなっていた。
平均傾きで欲しかった形が出なかったぶん、変動性には出てほしい。
その気持ちがある。
「今日、変動性を開くこと自体は安全上可能です」
サラが言う。
「ただ、アリシアさん自身はどうしたいですか?」
目の前には、まだ伏せられた変動性の欄がある。
手を伸ばせば届く距離だ。
ここまで比較対象も決めた。
欠測の扱いも決めた。
数字を見る準備はできている。
(見たい)
強く思う。
けれど同時に、
(今見たら、似ててほしいって気持ちが朝より強い)
ということも分かっていた。
平均傾きが期待通りではなかったからこそ、次へ答えを求めたくなっている。
アリシアは伏せられた欄をしばらく見つめたあと、ゆっくり背もたれへ身体を預けた。
「……今日は、やめます」
室内の誰も、すぐには反応しなかった。
驚いたというより、アリシア自身が続きを言うのを待っているようだった。
「変動性、すごく見たいです。でも……今は、似ててほしいが八になってるから」
「期待が高いから見てはいけない、という規則はありませんよ」
サラが念のため確認する。
「はい。それは分かってます。高いから駄目じゃなくて……私が今、平均傾きの代わりに変動性へ答えを探したくなってるから」
副学長の表情がわずかに変わった。
「それで?」
「一回、持って帰りたいです。今日見た平均傾きだけ」
「変動性は次回まで伏せたまま?」
「はい」
「比較条件は変えない?」
「変えません」
「対象記録も?」
「増やさないし、減らさない」
「新しい波形項目は?」
「見ません」
アリシアは一つずつ答えた。
「今日の平均傾きが思ったのと違ったから、次に見るものを変えるのも……しないです」
記録担当がその言葉を書き留める。
ノアは少し離れた椅子の下からアリシアを見上げていた。
「帰るか」
「うん」
「珍しく自分から」
「……私だって帰るよ」
「前は数字の方が帰らせてくれなかったからな」
「数字は止めてないよ」
「じゃあお前が止まらなかったんだろ」
アリシアは反論できず、少し頬を膨らませた。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は朝の分類遊びをまだ続けていた。
ただし、石と木片の位置が変わっている。
「変えたの?」
「うん。木、ちょっとやわらかい」
「そうなんだ」
「爪でやったら、あとついた」
見ると、小さな木片の端に薄い跡がついていた。
アリシアは注意しようか迷ったが、危険なほど尖っているわけでもなく、子供も傷ついていない。
「じゃあ、石とは違った?」
「うん。でも、紐とも違う」
「どこに置くの?」
「ここ」
子供は木片を石と紐の間へ置いた。
朝には二つへ分けようとしていたものが、今は三つの位置へ広がっている。
アリシアはその様子を見ていたが、研究の比較へ結びつける言葉は口にしなかった。
「ご飯の前に片づけようね」
「うん」
重要な木箱は今日も閉じている。
顔のない存在の十一の光にも、目立った変化はない。
研究室で平均傾きを見たからといって、帰宅後に別の謎を開く必要もなかった。
◇
夜、アリシアは学院の帳面から先に開いた。
資料修復の授業について書く。
破損を見たあと、今日は初めて紙へ実際に触れたこと。
裂け目の周囲を支えるとき、押さえ込まず、必要以上の力を加えないようにしたこと。
完全に元へ戻すのではなく、残っているものをこれ以上失わないための処置から学んだこと。
友人の指が青く染まっていたことも、小さく書いた。
そのページを閉じてから、研究用の帳面を開く。
朝に考えていたことを最初に書いた。
『三件の東側事前状態が似ていてほしかった。三件が同じ弱い異常かもしれないと思いやすくなるから。比較相手には同じ特徴が少ない方がいいとも思っていた。』
その下へ、今日見た平均傾きの結果を、決められた範囲を超えないよう書く。
『三件は単一の同じ値・同じ方向には揃わなかった。一件目と三件目は近い下降側、二件目はそれらより平坦側。ただし事前に「どこまで近ければ同じ」とする閾値を固定していないため、見たあとで同一/不同一の二値判定はしない。』
さらに、
『胸部異常非報告の比較可能記録にも、平坦側と下降側があった。平均傾き単独について、三件だけに限定された特徴は今の比較では確認していない。これは「東側事前状態が関係ない」という意味ではない。』
と続けた。
アリシアは筆を止めた。
少しだけ胸が重い。
失敗したわけではない。
それでも、自分が望んでいた形ではなかった。
(残念って、書いてもいいかな)
少し迷ったあと、
『残念だった。』
と書いた。
ただし、その一文だけで終わらせず、続ける。
『残念だったから、一件目と三件目だけを似ているものとして見たくなった。平均傾きで欲しかった共通性が出なかったため、変動性には似た結果が出てほしい気持ちが強くなった。だから今日は変動性を開かなかった。期待が高いから記録が無効になるのではなく、自分が別の項目へ答えを求め始めていることに気づいたため、一度止めた。』
書き終えると、アリシアは長く息を吐いた。
窓辺ではノアが丸くなっている。
「今日はいっぱい書いた?」
「うん」
「答え出たか」
「出てない」
「じゃあいつも通りだな」
「……最近、それ言われてもあんまり嫌じゃなくなった」
ノアが片目を開けた。
「成長したな。答えのない生活に」
「言い方が嫌」
「やっぱり嫌じゃねえか」
アリシアは笑い、帳面へ視線を戻した。
変動性の数字はまだ伏せられている。
次に見るとき、どんな結果が出るかは分からない。
三件が似ているかもしれない。
ばらばらかもしれない。
比較相手にも同じ傾向があるかもしれない。
欠測の一件があるため、すべてが同じ数で並ぶわけでもない。
それでも、次に見るものは変えない。
平均傾きが期待通りではなかったからといって、別の記録を足したり、一件を外したり、新しい波形特徴を探したりもしない。
最後にアリシアは、今日の記録の末尾へ書いた。
『次は変動性を見る。今日の平均傾きの結果を理由に、比較対象と規則は変えない。』
少し考えて、さらに続ける。
『見る前に、似ていてほしい気持ちがどれくらい残っているか、もう一度確認する。』
筆を置く。
答えを早く知りたい気持ちは、まだある。
けれど今夜は、その気持ちを数字の置かれている研究室へ残して帰ってくることができた。
机の上には学院の帳面と研究用の帳面が別々に置かれている。
今日、資料修復で初めて練習紙へ触れたことも、平均傾きが期待した形ではなかったことも、どちらも同じ一日の中にあった。
アリシアは二冊をそれぞれ閉じると、窓の外へ目を向けた。
雨上がりの夜空には雲がほとんどなく、昨日よりはっきりと星が見えていた。
変動性の欄は、まだ閉じている。
けれど今は、それでよかった。




