第262話 次の問いは、数字から少し離れて選ぶ
翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、窓の外では細かな雨が降っていた。
強く屋根を打つような雨ではなく、森の向こう側を薄い白に変えるほど細かな雨だった。葉へ落ちた雫が時折まとまって落ちる音と、窓枠へ触れる柔らかな風の音が重なり、生活観測区画の朝はいつもより少し静かに感じられる。
寝台の中で身体を起こしたアリシアは、まだ眠気の残る目を擦る前に、自分の胸へ意識を向けた。
痛みはない。
息苦しさもない。
胸の中央より少し左へ意識を寄せても、あの弱い異常は感じなかった。頭痛も吐き気もめまいもなく、昨日の研究で数字を見続けたことによる頭の重さも、眠っている間にほとんど消えている。
(疲れは……一か、二くらい)
そこでアリシアは、昨日閉じた研究用の帳面を思い出した。
入力側の固定六項目を見終えた。
そのどれか一つだけで、東側奥部の対象反応、西側の対象反応、自分の既存対象感覚の確認と非確認を、きれいに分けるものは見つからなかった。
立ち上がり時間と総偏差を組み合わせたら何か見えるかもしれない、と自分は思った。しかし、それは結果を見たあとで浮かんだ考えだったため、その場で新しい答えにはしなかった。
そして最後に、
『次に何を見るかは、まだ決めない。』
そう書いて帳面を閉じた。
そこまでは覚えている。
けれど、一晩眠った今、アリシアの頭には昨日とは少し違う考えが浮かんでいた。
(東側の前の状態……)
平均の傾きと、変動性。
入力が入る前に、東側奥部がどのような状態だったのかを示すため、すでに固定されている二つの項目だ。
昨日も候補として名前は出ていた。
それでも、その場では開かなかった。
アリシアは布団の上へ両手を置き、しばらく雨音を聞いていた。
(見たい)
その気持ちは確かにある。
ただ、昨日のように「今すぐ見なければ」と胸を急かす感じではなかった。
むしろ、一晩置いたことで、自分が何を知りたいのかを先に決めた方がよいのではないかという思いが強くなっている。
東側の事前状態を開けば、数字は出てくる。
しかし数字が出たあとで、「これが似ているから重要だ」「こっちは違うから関係ない」と選び始めれば、入力側の比較で避けてきたことを繰り返すだけだ。
「……見る前に、何を知りたいか」
小さく口にしたところで、寝台の足元から黒い耳が動いた。
「朝一番から独り言か」
ノアが毛布の端から顔を出した。
「起きてたの?」
「今起こされた」
「ごめん」
「謝るくらいなら研究会議は朝飯のあとにしろ」
「会議じゃないよ」
「一人で議題まで出してりゃ十分だろ」
ノアは大きく欠伸をし、前脚を伸ばしてから寝台を降りた。
アリシアも布団から足を出す。
「でも……昨日より、少し分かった気がする」
「何が」
「次に何を見るかを決める前に、何を知りたいのかを決めないといけないってこと」
ノアは床へ着地すると、尻尾を一度だけ揺らした。
「それを昨日の夜に決めなかったから、一晩寝て考えられたんじゃねえの」
アリシアは返事をせず、少しだけ目を丸くした。
ノアはすでに扉の方へ歩いている。
「ほら、朝飯。腹減った状態で賢そうなこと考えると、大抵ろくなことにならん」
「それ、ノアだけじゃない?」
「腹が減る生き物全般への重要な知見だ」
「研究しないでね」
「お前に言われたくねえ」
雨の朝でも、生活観測区画の一日はいつも通り始まった。
◇
朝食の席では、子供が窓の外を何度も気にしていた。
昨日まで床へ広げていた色紙は片づけられており、今日は小さな紙箱の中に、丸い石、木の実、短い白い紐、以前拾ったノアの毛、色紙、小さな木片が入っている。
重要な木箱とは別の、ただ遊ぶための紙箱だった。
「雨、やむ?」
子供が尋ねる。
「たぶん、すぐにはやまないと思う」
「外いけない?」
「強くなければ、屋根のあるところまでは行けるかもしれないけど……今日は中で遊ぶ?」
「雨みたい」
「見るだけ?」
「うん」
アリシアは少し考えてから頷いた。
「学校から帰ったとき、まだ降ってたら一緒に見よう」
「ほんと?」
「うん」
子供の表情が明るくなった。
その隣では、顔のない存在が椅子へ座っている。胸元に並ぶ十一の光は今日も淡く灯っていたが、昨日までと比べて目立った変化は見られない。
アリシアは一度だけ視線を向け、それ以上観察を続けなかった。
朝食を食べ終え、学校へ向かう支度をする。
扉の近くには、以前から閉じたままの重要な木箱が置かれていた。
雨の日だからといって開ける理由はない。
研究が一区切りついたからといって、別の謎を進めなければならないわけでもない。
アリシアはその前を通り過ぎた。
◇
学院へ向かう道では、傘代わりの簡易防雨術具へ細かな雨粒が当たり続けていた。
透明な薄膜の表面を雫が流れ、端へ集まって地面へ落ちる。石畳にはいくつもの小さな水たまりができ、通学中の生徒たちは裾を濡らさないよう、普段よりゆっくり歩いていた。
学院の正門近くで友人と合流すると、彼女はアリシアの顔を見るなり眉を寄せた。
「ちょっと待って。そこ濡れてる」
「え?」
「肩」
言われて見ると、左肩の布地だけ色が濃くなっていた。
防雨術具を出したとき、膜の端が少しずれていたらしい。
「気づかなかった……」
「研究の数字は細かく見るのに、自分の肩は見ないんだから」
「……今日はまだ研究してないよ」
「そこは否定するところ?」
友人は笑いながら、持っていた布でアリシアの肩を軽く押さえた。
アリシアは少し恥ずかしくなりながらも、そのまま拭いてもらう。
「ありがとう」
「どういたしまして。昨日はちゃんと終われた?」
「うん」
「全部見た?」
「見たよ」
「何か分かった?」
以前なら、この質問に答えるため、研究内容をどこまで話してよいか考え込んでいたかもしれない。
今日は少しだけ違った。
「簡単には分からないってことが、前より分かった」
友人は数秒黙ったあと、微妙な顔をした。
「それ、研究してる人は嬉しいの?」
「……ちょっと残念。でも、見てよかった」
「じゃあ、半分くらい嬉しい?」
「数字にしなくていいよ」
アリシアが思わず言うと、友人が吹き出した。
「自分でいつも数字にしてるくせに」
「必要なときだけ」
「はいはい」
二人は並んで校舎へ入った。
雨の日特有の湿った空気が廊下にも入り込み、生徒たちが持ち込んだ傘や防雨具から水の匂いが漂っている。窓の近くでは何人かが外を眺め、午後には晴れるのかと話していた。
その日最初の授業は、魔法史だった。
古い都市で使われていた公共魔法設備が、時代とともにどのように変化したかを扱う内容で、教師は黒板へ簡略化した街路図を描きながら説明している。
アリシアは教本を開き、話を聞いた。
途中、教師が「現在残っている設備だけを見て、昔から同じ配置だったと考えてはいけない」と説明したとき、一瞬だけ研究のことが頭をよぎった。
けれど、その考えを追いかけなかった。
教本の余白へ授業内容を書き込み、古い街路図と現在の街路図の違いを見る。
(これは授業)
わざわざ自分へ強く言い聞かせる必要もなくなっていた。
研究に似た言葉を聞いても、すべてを研究へ持ち帰らなくていい。
そのことが、以前より自然になっていた。
◇
昼休みには、雨が少し弱くなっていた。
アリシアと友人は食堂の窓際へ座り、外の中庭を眺めながら昼食を取った。雨で外へ出られない生徒が多いため、普段より食堂は混雑しており、あちこちから椅子を引く音や話し声が聞こえてくる。
友人はスープへパンを浸しながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、昨日の続きって今日もやるの?」
「研究?」
「うん」
アリシアはスプーンを止めた。
朝には東側の事前状態を見たいと思った。
その気持ちは今もある。
「まだ決めてない」
「珍しい」
「……そんなに?」
「前だったら、『見たい』って言ってた気がする」
アリシアは否定しようとして、やめた。
たぶん、その通りだった。
「見たいよ」
「じゃあ見るの?」
「それと、今日見るかは別」
友人が目を丸くした。
アリシアは少し考えながら続ける。
「数字って……開いたら、見えちゃうでしょう?」
「うん。まあ、見るんだからね」
「見えたあとで『これが大事そう』って決めると、見える前とは違う決め方になることがあるの」
友人はパンを持ったまま、しばらく考えた。
「テストの答え見てから、『私も最初からこれだと思ってた』って言うみたいな?」
「……少し違うけど、近いかも」
「じゃあ、見る前に何を探すか決める?」
「うん」
「それ、もう決まってるの?」
アリシアは答えようとして止まった。
東側の事前状態を見たい。
けれど、何のために見るのか。
三件の弱い胸部異常に共通する状態があるかを見たいのか。
東側の対象反応が確認される条件と関係するかを見たいのか。
西側との一致・不一致まで含めたいのか。
それぞれ違う問いになる。
「……まだ、ちゃんとは決まってない」
「じゃあ、今日はそれ決める日なんじゃない?」
友人は何気なく言った。
研究方法を理解して提案したわけではない。
ただ、アリシアの話を聞いて、自然にそう思っただけなのだろう。
それでもアリシアは、すぐには返事をしなかった。
(数字を見る日じゃなくて、見る理由を決める日)
それなら、今日研究棟へ行く意味がある。
「そうするかも」
「かも?」
「研究の人たちとも話さないと決められないから」
「そっか」
友人はそれ以上踏み込まず、残っていたパンを口へ運んだ。
アリシアもスープへ視線を戻した。
次に何を見るかは、まだ決まっていない。
けれど、次に何を決める必要があるのかは、少し見えてきた。
◇
放課後、アリシアは研究棟へ直行しなかった。
生活観測区画へ戻ると、朝より雨は弱くなっていたものの、まだ細かな雫が落ち続けている。
約束を覚えていた子供が、扉の音を聞くなり駆け寄ってきた。
「雨、まだある!」
「うん。見に行こうか」
「研究は?」
「そのあと」
子供は嬉しそうに頷いた。
アリシアは鞄を置き、屋根のある外廊下へ出た。
ノアも少し遅れてついてくる。
雨に濡れた森は、晴れた日より色が濃く見えた。木の幹は黒く湿り、葉の表面には無数の雫が残っている。屋根から一定ではない間隔で水滴が落ち、地面にできた浅い水たまりへ小さな輪を広げていた。
子供は欄干の近くへ立ち、落ちる雫をじっと見ている。
「いっぱい丸いの出る」
「水の輪?」
「うん。あっちは大きい」
指差された先では、屋根からまとまって落ちた水が大きな波紋を作っていた。
アリシアも隣へ立った。
雨を見るためだけに外へ出る。
何かを測るわけでも、記録するわけでもない。
十一の光の変化を確かめるわけでも、木箱を開くわけでもない。
ただ雨を見る。
それが思っていた以上に心地よかった。
「アリシア」
「なに?」
「雨、同じところに落ちないね」
「うん」
「でも、いっぱい落ちる」
「そうだね」
子供はそれだけ言うと、また水たまりへ目を向けた。
アリシアも答えを足さなかった。
何かの例えにしなくてもいい。
雨は雨だった。
しばらくして身体が冷え始めたため、二人は室内へ戻った。
子供は紙箱を持って遊び始め、アリシアは温かい飲み物を少し飲んでから研究棟へ向かった。
◇
研究室へ入ると、机の上に数値表は置かれていなかった。
昨日使った入力側六項目の資料も保管台へ戻され、中央には白紙の大きな紙が一枚だけ置かれている。
その状態を見ただけで、アリシアは少し安心した。
「今日は開かないんですね」
サラが頷いた。
「アリシアさんが来る前に、こちらでも相談しました。昨日の結果から直接次の数字へ進むより、候補になっている問いを整理した方がよいだろうと」
副学長が椅子を示した。
「まず状態確認からだ」
アリシアは座り、いつもの項目へ答えていく。
疲労は二。
痛みはゼロ。
息苦しさはゼロ。
胸部異常はゼロ。
頭痛、吐き気、めまいもない。
研究へ参加したい気持ちは八。
次の答えを知りたい気持ちは八。
早く次の数字を開きたい気持ちは六。
昨日までより少し低かった。
「きれいな答えが出てほしい気持ちは?」
「……六です」
「昨日と同じですね」
「はい」
「今日は人工刺激を行いません」
「はい」
「既存の未開示数値も、問いと比較範囲が決まるまでは開きません」
「……はい」
最後の返事だけ、少し間が空いた。
ノアが足元から見上げる。
「今の『はい』だけ若干しぶかったぞ」
「だって、見たいのは見たいから」
「知ってる」
副学長は二人のやり取りを待ってから、白紙の中央へ一本の横線を引いた。
「では、昨日までに残っている候補を整理する。ただし、候補を並べることと、次に採用することは別だ」
紙の上へ、四つの項目が書かれた。
一つ目は、東側奥部の事前状態。
二つ目は、三件の閾値未満胸部異常報告。
三つ目は、東西確認判定の不一致を今後どう扱うか。
四つ目は、入力側複数項目の組み合わせ。
アリシアはそれを見つめた。
「四つ」
「大きく分ければ、今はこの四つだ。もちろん細かく分ければ増えるが、今日は増やさない」
「木箱は?」
ノアが横から言った。
アリシアが思わずそちらを見る。
副学長は苦笑した。
「別の研究線だ。今日ここへ混ぜる必要はない」
「十一の光も?」
「同じく別だ」
「よし。増殖防止確認終了」
「……ノア、わざと聞いたでしょう」
「候補が増えるとお前の目が輝くからな」
アリシアは反論しかけたが、否定できなかった。
副学長が話を戻す。
「問題は、この四つのどれが一番面白そうか、ではない。次に何を確かめる意味があるかだ」
アリシアは昼休みに友人と話したことを思い出した。
「今日、友達にも似たことを言われました」
「友人に?」
「詳しい研究の話はしてないです。ただ……見る前に何を探すか決めるのかって」
サラが少し笑った。
「よい質問ですね」
「本人はたぶん、そんなに深く考えてないと思います」
「それでも、よい質問はよい質問です」
アリシアは白紙へ視線を戻した。
「東側の前の状態を見るなら……何を知りたいかを先に決めたいです」
魔導具担当教師が頷く。
「そこから始めましょう」
◇
東側奥部の事前状態について、すでに固定されている項目は二つだけだった。
固定された入力前区間における平均の傾き。
同じ区間における変動性。
それ以上の細かな波形形状や、局所的な山谷の位置などは、現時点で独立した固定項目にはなっていない。
「まず、何を比較したいですか?」
魔導具担当教師が尋ねた。
アリシアはすぐに答えようとした。
「三つの胸の――」
そこまで言って止まる。
「胸部異常報告三件ですね」
サラが、名称を固定しない形で補う。
「はい。その三件で、東側の前の状態が似てるか……見たいです」
「それを見ることで、何が分かりますか?」
昼休みに友人から受けたものと、ほとんど同じ問いだった。
アリシアは今度こそ慎重に考えた。
「三件が似てたら……その胸部異常が起きたとき、東側が似た状態だった可能性がある」
「はい」
「でも……それだけだと、特別か分からない」
言いながら、アリシア自身の中で考えが繋がった。
「胸部異常がなかった記録でも同じ状態だったら、三件だけ似てても……それが胸部異常に特有とは言えない」
「その通りです」
若い観測員が答えた。
「だから三件だけを見ると危ない」
「危ない、というより、言える範囲が狭いですね。三件が似ているかという記述的な問いには答えられます。しかし、それがその三件に特有かという問いには答えられません」
アリシアは白紙へ視線を落とした。
ここまでは以前にも触れた問題だった。
だからこそ、三件の数字を先に開かず、比較相手をどうするか決めるところで止まっていた。
「比較する相手を……先に決める」
「はい」
「でも、どの記録でもいいわけじゃない」
「なぜですか?」
「条件が違いすぎたら、東側の前の状態だけ比べても……何が違うのか分からなくなるから」
副学長が頷いた。
「続けてみろ」
アリシアは少し緊張した。
試験ではない。
正解を当てる場でもない。
それでも、ここまで自分たちが決めてきたことを、自分の言葉で繋げようとすると慎重になる。
「三件の胸部異常は……全部、意図的小変動がある記録です」
「そうだ」
「それから、早い位置の単一の小変動で、安全範囲の中……」
「その条件で前向きに記録されたものですね」
魔導具担当教師が補った。
「はい。だったら、比較相手も……同じように、早い位置の単一意図的小変動で、同じ方法で東側の事前状態を記録してるものにした方がいい?」
室内に短い沈黙が生まれた。
否定の沈黙ではない。
記録担当と若い観測員が互いに資料棚へ視線を向け、魔導具担当教師は白紙の端へ条件を書き始める。
「候補としては妥当です。ただし、今の言い方をそのまま採用する前に、既存記録が本当に同じ事前区間と算出法を持っているか確認する必要があります」
「数字は見ないで?」
「数値そのものは見ません。比較可能性の監査だけをします」
アリシアは少し身を乗り出した。
「どの記録が入るかだけ?」
「そうです。条件、記録方式、事前区間、平均傾きと変動性の算出可能性を確認します。値が大きいか小さいかは開きません」
アリシアの胸が少し高鳴った。
数字を見ずに、数字を見る相手だけを決める。
昨日までとは違う種類の作業だった。
◇
記録棚から持ち出されたのは、結果の数値を隠した索引資料だった。
表紙には試験条件、記録方式、観測区間、設計上の役割だけが記されている。東側事前状態の実際の平均傾きや変動性は、別紙に封じたままだ。
まず確認されたのは、三件の閾値未満胸部異常報告だった。
最初の一件は、三領域の確認判定を前向きに扱った記録のうち、アリシアの既存対象感覚が非確認でありながら、胸の中央より少し左に強さ〇・五ほどの異常を報告したもの。
二件目は、東西二領域の確認判定を主質問とした最初の専用前向き記録。
三件目は、その専用記録へ後から固定追加された二実施試行のうち、最後の一件だった。
設計上の役割は同じではない。
しかし、いずれも早期位置の単一意図的小変動を、安全範囲内で行っている。
「ここで重要なのは、設計上の役割が違うから同じ系列へまとめる、という意味ではないことです」
サラが言う。
「……比較する項目の条件が同じかを見るだけ」
「はい。三領域前向き記録と東西専用前向き記録を、一つの試験系列だったことにはしません」
「分かりました」
次に確認されたのは、胸部異常が報告されなかった前向き記録だった。
三領域前向き記録の一件目。
そこでは東側、アリシアの既存対象感覚、西側の三領域すべてが確認されている。
そして、東西専用の追加実施試行の一件目。
そこでは東側も西側も対象反応が非確認であり、アリシアにも既存対象感覚や胸部異常は報告されなかった。
「この二件は?」
アリシアが尋ねる。
「条件だけを見る限り、同じ早期位置単一意図的小変動です」
魔導具担当教師は索引を確認する。
「東側事前状態の平均傾きと変動性についても、現在の比較に使う固定事前区間と同じ方法で保存されています」
「じゃあ……入れられる?」
「少なくとも比較可能性の条件は満たします」
アリシアは頷いた。
三件だけではない。
胸部異常がなかった記録も、最初から比較相手へ入れる。
結果を見てから選ぶのではない。
「昔の八件は?」
アリシアが尋ねた。
過去の意図的小変動を含む比較可能な管理試験群。
そこには反応が確認されたものも、確認されなかったものもある。
若い観測員が索引を開き、首を少し傾けた。
「ここは慎重に扱った方がいいです」
「違う?」
「東側の事前状態そのものは記録されています。ただ、現在使っている固定事前区間と、平均傾き・変動性の算出規則が、全件で完全に同じ形で前もって保存されていたわけではありません」
アリシアは資料を覗き込まず、説明だけを聞いた。
「あとから同じように計算し直すことは?」
「元記録が残っているものなら可能な場合もあります。ただし、それを今回の比較へ入れるかどうかは別問題です。前向き記録と、後から現在の規則で再算出した歴史記録を同じ欄へ並べれば、記録の役割が見えにくくなります」
「……じゃあ、最初から入れない?」
「それも一つの方法です」
副学長が口を挟んだ。
「今回の問いを狭くするなら、同じ事前状態記録方式を持つ前向き記録だけで探索比較を行う。歴史記録は別の補助資料として、必要になったとき改めて扱う」
「でも、それだと数が少ない」
アリシアは正直に言った。
「少ないな」
「少ないから昔のを入れる、は駄目?」
「駄目とまでは言わない。ただし、『数を増やしたい』だけで記録方式の違うものを混ぜるなら、比較の意味が曖昧になる」
アリシアは唇を閉じた。
たくさんあれば安心する。
数字が多い方が何か分かりそうに思える。
けれど、多ければよいわけではないことも、もう知っている。
(少ないのが嫌だから入れる、は違う)
「前向きの、同じ方法のものだけにしたいです」
アリシアが言うと、サラが確認した。
「歴史記録を捨てるという意味ではありませんね?」
「はい。今回の比較には混ぜないだけ。あとで必要なら、別に考える」
「それなら整理できます」
記録担当が新しい紙へ条件を書き始めた。
◇
ここで一度、対象記録の数を確定する作業が入った。
ただし、アリシアが期待していたほど簡単ではなかった。
「この記録は早期位置単一意図的小変動ですが、事前状態の変動性について機器側の一部記録欠落があります」
若い観測員が一件を示す。
「平均傾きは?」
「算出可能です」
「じゃあ、平均傾きだけ入れる?」
アリシアが尋ねると、魔導具担当教師はすぐには答えなかった。
「それをどう扱うかも、数値を見る前に決めましょう」
「……欠けてるのをゼロにはしない」
「もちろんです」
「変動性だけ、その記録は欠測?」
「そう扱うのが自然でしょう。ただし、平均傾きの比較からまで除外する必要があるかは別です」
アリシアは考え込んだ。
二つの項目を必ず同じ件数で並べた方が表はきれいになる。
けれど、一方の値がないからといって、存在するもう一方の値まで捨てる必要があるのだろうか。
「平均傾きは使う。変動性は、その一件だけ欠測にする」
「理由は?」
「平均傾きの記録まで悪くなったわけじゃないから」
「私もそれでよいと思います」
魔導具担当教師が頷いた。
「ただし、二項目を組み合わせた比較を後からしたくなった場合、その記録は両方揃っていないことを忘れないようにします」
「はい」
アリシアは記録用紙へ目を向けた。
また一つ、空欄を空欄のまま残す決まりが増えた。
それは不完全さを隠さないための空欄だった。
◇
比較対象の監査が終わった頃には、窓の外の雨はほとんど止んでいた。
研究室の窓へ残った雫が、雲の切れ間から差し込んだ夕方の光を細く反射している。
最終的に、今日固定された問いは長かった。
記録担当が読み上げる。
「同一の早期位置単一意図的小変動条件かつ、同一の東側奥部事前状態記録方式を持つ前向き記録を対象とし、既存固定項目である平均傾きおよび変動性について、閾値未満胸部異常報告三件に記述的な共通性が見られるかを確認する。また、その共通性が胸部異常非報告の比較可能記録にも見られるかを併せて確認し、三件のみの類似を特異的所見として扱わない」
アリシアは最後まで聞いてから、少しだけ眉を寄せた。
「長い」
「短くして意味を落とすよりいい」
副学長が即答した。
「名前つけないの?」
ノアが聞く。
アリシアは少し考えた。
「……今は、つけなくていい」
「珍しいな」
「三つの胸の変なのも、名前つけてないから」
「そっちは名前つけると勝手に一種類に見えそうだからだろ」
「うん。こっちも……短い名前にしたら、何を比べるのか忘れそう」
記録担当がその判断を受け、長い問いをそのまま残した。
さらに補足条件が書き加えられる。
設計群の役割は表示上分離する。
三領域前向き記録と東西専用前向き記録を、一つの系列として数えない。
歴史的な意図的小変動記録は、今回の主比較へ混ぜない。
欠測はゼロにしない。
一方の固定項目のみ利用可能な記録については、利用可能な項目では保持し、欠測項目だけを欠測として扱う。
平均傾きと変動性を見たあと、新しい局所波形特徴を追加しない。
値を見てから比較対象を増減しない。
三件が似ていても、それだけで胸部異常の原因や発生条件とは呼ばない。
三件が異なっていても、三件の主観報告が別種類だとは決めない。
比較相手にも同じ状態があれば、その状態を三件特有とは扱わない。
「……いっぱいある」
アリシアが呟いた。
「見る数字は二種類なのにな」
ノアが言う。
「数字より、見る前の方が長い」
「研究ってのは、箱開ける前に箱の扱い方を延々相談する仕事らしい」
「木箱は開けないよ」
「誰もあれの話はしてねえ」
アリシアが思わず重要な木箱のある生活観測区画の方向を意識してしまい、副学長が苦笑する。
「今日は本当に開けないぞ。木箱も、数値も」
「数値も?」
アリシアの声が少しだけ高くなった。
「不満か?」
「……ちょっと」
正直に答えると、サラが笑った。
「問いと比較範囲を決めるところまでが今日の目的です。ここから数値まで開くと、結果の確認と解釈まで続けたくなるでしょう?」
アリシアは否定できなかった。
状態確認では疲労こそ二から二・五程度だったが、数字を開きたい気持ちは八へ上がっている。
止まりにくさも、先ほどの四から六になっていた。
「……明日?」
口にしてから、アリシアは自分で首を横へ振った。
「違う。明日って決めなくていい」
副学長が何も言わず待つ。
「次に研究する日に、状態が大丈夫なら見る」
「それでいい」
アリシアは少し残念だった。
けれど昨日と同じように、その残念さを隠す必要はない。
「見たかったです」
「うん」
「すごく」
「それも分かってる」
「でも、今日はここまでにします」
自分で言い切ったあと、アリシアは白紙へ書かれた長い問いをもう一度見た。
数字は一つも開いていない。
それでも、研究は進んでいた。
◇
生活観測区画へ戻る頃には雨が上がり、雲の向こうに夕焼けが薄く残っていた。
子供は外廊下から戻ってきたアリシアへ駆け寄る。
「雨、なくなった」
「うん」
「研究した?」
「したよ」
「あと何個見た?」
「今日は、一個も見てない」
子供が目を丸くした。
「研究したのに?」
「うん」
「なにしたの?」
アリシアは靴を脱ぎながら考えた。
「次に見るものを……誰と比べるか決めた」
「見るもの、見なかったの?」
「見なかった」
「へんなの」
「……私も、ちょっとそう思う」
子供は納得していない様子だったが、すぐに別のことへ興味を移した。
「外、雨のあと光ってるよ」
窓の外を見ると、濡れた葉へ夕方の光が当たり、森のあちこちが細かく輝いている。
「見に行く?」
「うん」
アリシアは再び外廊下へ出た。
今度はノアも一緒だった。
濡れた木の匂いが強く、雨上がりの空気は冷たい。遠くでは鳥が鳴き始め、屋根の端から残った雫が時折落ちている。
子供は欄干へ手を置き、朝とは違う森を眺めた。
アリシアも隣に立つ。
研究室では、見る前に比べる相手を決めた。
ここでは、ただ雨上がりの森を見る。
その二つを、同じものにしなくてよかった。
◇
夜。
机の上には、昨日と同じ二冊の帳面が置かれていた。
アリシアは最初に学院の帳面を開いた。
今日の魔法史で扱った古い公共魔法設備について、現在残る配置だけから過去を決めつけないこと、街路の変化とともに設備位置も変わっていることを書き留める。
研究との類似は書かなかった。
授業の記録は授業の記録として残した。
次に研究用の帳面を開く。
『今日は数字を見なかった。』
最初の一行を書いてから、アリシアは少し笑った。
研究の記録なのに、数字を一つも見ていない。
けれど、その下には書くことがたくさんあった。
東側奥部の事前状態を次の探索候補とすること。
使うのは既存固定項目の平均傾きと変動性だけ。
三件の閾値未満胸部異常報告だけを見て終わらず、同じ早期位置単一意図的小変動条件と同じ事前状態記録方式を持つ前向き記録を、結果を問わず比較対象とすること。
設計群の役割は混ぜないこと。
歴史記録は今回の主比較へ入れないこと。
欠測はゼロにしないこと。
結果を見てから比較対象を増減しないこと。
そして、似ていても原因とは呼ばず、違っていても三件の感覚が別物だとは決めないこと。
そこまで書くと、ページの半分以上が埋まった。
(数字を見てないのに、いっぱい書いた)
少し不思議だった。
けれど、嫌ではない。
最後にアリシアは、
『次に見るときは、見る相手をもう決めてある。』
と書いた。
その下へ、もう一行だけ付け加える。
『何が出てほしいかは、見る前にもう一度確認する。』
筆を置いたところで、窓辺からノアの声がした。
「今日は次を決めたな」
「うん」
「昨日は決めないって書いてたくせに」
「昨日は、昨日決めないって意味だよ」
「便利な言い方だな」
「ちゃんと一晩置いたもん」
「はいはい」
アリシアは帳面を閉じた。
明日見るとは決めていない。
平均傾きと変動性が何を示すかも知らない。
三件の弱い胸部異常が似た事前状態を持つのか、それとも全く違うのかも分からない。
比較相手となる記録が同じような状態を持っている可能性もある。
だから、まだ答えはない。
それでも昨日とは違って、次に開く数字の前に置くべき問いは決まった。
窓の外では雨雲が途切れ、濡れた森の上に細い月が見え始めていた。
アリシアは灯りを落とす前に、研究用の帳面と学院の帳面をそれぞれの場所へ戻した。
数字を開く前に決めたことが、明日になっても変わらず残るように。




