第261話 残った二つも、答えにはしない
朝の生活観測区画には、夜の冷たさがまだ少しだけ残っていた。
窓の外では薄い雲の切れ間から朝日が差し込み、木々の葉へ残った露を白く光らせている。開けた窓から入ってくる風は肌に触れるとわずかに冷たかったが、室内には朝食のパンを温めた匂いが残っており、冷えた空気と混ざることで、アリシアにはむしろ心地よく感じられた。
寝台から起きたあと、アリシアはいつものように自分の身体の状態を一つずつ確かめた。頭痛はなく、吐き気もめまいもない。胸の中央から少し左へ意識を向けても、以前の試験で感じたような微かな異常はなく、呼吸を深くしても痛みや息苦しさは生じなかった。
(疲れは……二くらい。昨日より、ちゃんと軽い)
そう判断してから、アリシアは胸元へ置いていた手を下ろした。
昨日は人工的な刺激を受けたわけではない。それでも、いくつもの記録を見比べながら、どこまで言えるのか、どこから先は言ってはいけないのかを考え続けたせいで、研究室を出る頃には頭の内側が重くなっていた。
残されていた入力側の固定項目は、あと二つ。
自然揺れ間隔と、総偏差。
昨日のうちに見ようと思えば、たぶん見ることはできた。それでも疲労が四まで上がり、自分でも「止まりにくい」という感覚が七まで高くなっていたため、そこで終わることを選んだ。
今になって振り返れば、その判断に後悔はなかった。
(昨日の私だったら、何か見つけたかったから……数字を見たあと、余計なことまで考えていたかもしれない)
もちろん、今日なら大丈夫だと決まったわけでもない。
身体が休まっていることと、数字を見たときに期待しなくなることは別だからだ。
「朝から難しい顔してんな」
寝台の端に丸くなっていたノアが、片目だけを開けた。
黒い毛並みの中から覗く金色の目が、アリシアの顔をしばらく眺めている。眠そうに見えるくせに、こういうときだけ妙に人の表情をよく見ている。
「……難しい顔、してた?」
「してた。朝飯を食う前から研究記録と脳内会議してる顔だ」
「記録は、見てないよ」
「頭ん中で見てりゃ似たようなもんだろ」
ノアは前脚を伸ばしてから、身体を起こした。アリシアは少しだけ頬を膨らませたものの、否定しきれずに視線を逸らす。
その様子を見ていた子供が、朝食の席から二人へ顔を向けた。
「きょうも、けんきゅう?」
「学校が先。研究は……まだ分からない」
「あと二つなんだろ?」
子供がそう尋ねたので、アリシアは少し驚いた。詳しい内容は話していないが、昨日帰ってきたときに「まだ見るものが二つ残った」と口にしたことは覚えていたらしい。
「うん。でも、あと二つだから今日やる、とは決めてないよ」
「なんで?」
子供はパンを両手で持ったまま首を傾げた。
アリシアは椅子へ座ると、自分の皿に置かれたパンへ手を伸ばした。すぐに答えようとしてから、少しだけ考える。
「昨日は、疲れたから途中でやめたでしょう?」
「うん」
「今日は疲れてないけど……学校もあるし、残ってるものを早く見たいって気持ちもまだあるから。ちゃんと見られる日に見る」
子供は完全には理解していないらしく、眉を寄せていた。それでも「あと二つなら早く終わらせればいい」とは言わず、しばらくパンを噛んでから頷いた。
「じゃあ、きょうじゃなくてもいいんだ」
「うん」
「なくならない?」
「記録だから、なくならないよ」
「じゃあ、だいじょうぶ」
それだけ言うと、子供は再び朝食へ意識を戻した。
アリシアはパンをちぎりながら、思わず小さく笑った。
(なくならない、か)
答えを早く知りたいときほど、今日見なければ何かを失うような気持ちになることがある。しかし実際には、固定されて保存された記録は明日になっても残っている。
ノアが向かいから鼻を鳴らした。
「お前より話が早いな」
「……私だって、分かってる」
「分かるのと実行できるのは別だ。昨日は実行できたんだから、そこは胸張っとけ」
皮肉が来ると思っていたアリシアは、一瞬だけ返事を忘れた。
ノアはそれ以上何も言わず、自分の朝食へ顔を向けている。
アリシアは少しだけ温かくなった頬を隠すように、パンを口へ運んだ。
◇
学院へ着く頃には、朝の雲はかなり薄くなっていた。
校舎へ続く石畳には何人もの生徒が行き交い、教本を抱えた者、友人と話しながら歩く者、始業前なのに急いで走って教師から注意される者までいる。研究棟とは違うざわめきの中を歩いていると、アリシアの頭から昨夜の数字が少しずつ遠ざかっていった。
「アリシア!」
背後から聞き慣れた声がして、振り向くより先に足音が近づいてくる。
友人は肩から鞄を下げ、もう片方の手には細長い紙包みを持っていた。
「おはよう。見て、昨日の染色で使った布、持って帰っていいって言われたの」
「……見てもいい?」
「もちろん。というか見せるために持ってきた」
二人は廊下の端へ寄り、友人が紙包みを少し開いた。
中に入っていたのは小さな布で、淡い青を基調にしながら、一部だけ色が濃くなっている。均一な染め上がりではないものの、その濃淡が水面のようにも見えた。
「きれい」
「ほんと? 先生には『次は液の中で動かし方を一定にしましょう』って言われたけどね」
「でも、ここの濃いところ、好き」
アリシアが指を近づけながら言うと、友人は少し意外そうな顔をした。
「そこ失敗したところなんだけど」
「失敗なの?」
「授業の目的としてはね。でも私も、ちょっと好き」
二人は顔を見合わせて笑った。
友人は布を包み直しながら、今度はアリシアの鞄へ目を向ける。
「そっちは今日、資料修復あるんでしょ?」
「うん。午後」
「今日は何するの?」
「前は練習用の紙を見て、破れとか折れとか、傷んでるところを記録したから……今日は、その続きって言ってた」
「ついに直す?」
「まだ分からない。先生、触る前に見るのが大事って言ってたから」
「アリシア向きだね。ずっと見てられそう」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる、褒めてる」
友人が笑いながら教室へ歩き出したので、アリシアも隣へ並んだ。
研究の話はしなかった。
友人も尋ねなかった。
昨日までは、研究で数字をたくさん見たあとに学院へ来ると、頭の片隅へその続きが残ることがあった。しかし今日は、友人の染めた布の濃淡や、午後の授業で何をするのかということが、自然に頭の中へ入ってくる。
(学校にいるときまで、残り二つを考えなくてもいい)
そう思えたこと自体が、アリシアには少し嬉しかった。
◇
午後の資料修復の教室には、乾いた紙と糊に似た淡い匂いが漂っていた。
大きな窓から差し込む光が長机の上へ広がり、それぞれの席には前回使った練習紙と、薄い保護布、小さな刷毛、先端の丸い道具が並べられている。ただし教師は、生徒たちが道具へ手を伸ばす前に教室の前へ立ち、まず全員の視線を集めた。
「今日は前回確認した傷みのうち、比較的軽い折れと浮きを扱います。ただし、最初から直しません」
何人かの生徒が、少し残念そうに道具から手を離した。
教師はその反応に気づいていたらしく、穏やかに笑う。
「早く手を動かしたいでしょうが、資料修復で一番困るのは、直そうとして元より悪くすることです。まず自分が何をしようとしているのか、それによって何が変わる可能性があるのかを確認します」
アリシアの指先が、机の上でほんの少し止まった。
一瞬だけ研究のことが頭をよぎったものの、すぐに練習紙へ視線を戻す。
(今日は、こっち)
以前なら、教師の言葉を聞いた瞬間に研究との共通点を探し、そのまま考え込みそうになっていた。
けれど今は、この紙そのものを見たい。
前回記録した折れ目は斜めに走っており、その端にはわずかな毛羽立ちがある。中央付近には薄い波打ちも残っていた。
「前回の記録を横に置いてください。今日は、その記録と実物を照らし合わせながら、どこへ触れてよいか、どこはまだ触れない方がよいかを分けます」
教師の説明を聞きながら、アリシアは自分の記録用紙を練習紙の横へ置いた。
前回、細かく描きすぎて「全部を再現するのではなく、修復前の状態を共有できる記録にする」と教えられたため、今日はその意味を少し意識して見ることができた。
隣の席の生徒が、紙の端へ顔を近づけながら困ったように呟く。
「これ、浮いてるのか、元から厚いのか分からない……」
教師はすぐに答えを教えず、その生徒の横へ立った。
「横から光を当ててみましょう。触る前に分かることが増えるかもしれません」
小さな照明具の角度が変わると、紙面に薄い影が生まれた。
「あ、本当に浮いてる」
「分からないときに触って確かめる方法もありますが、触らずに分かるなら、まずそちらを選びます。古い資料では、その一度の接触が傷みを広げることもありますから」
アリシアは自分の練習紙にも照明を斜めから当ててみた。
正面から見たときには気づかなかった小さな起伏が、影によって浮かび上がる。思わず顔を近づけると、紙の繊維が一方向へ押されている部分まで見えた。
「……面白い」
ほとんど無意識に声が出た。
教師が近くを通りかかり、アリシアの手元を見る。
「何か見つけましたか?」
「あ……はい。ここ、前はただの折れだと思ってたんですけど、横から見ると……少しだけ、端が浮いてます」
「では、その違いを記録してみましょう。前回の記録が間違いだったと消す必要はありません。そのとき確認できた状態と、今日別の方法で確認できた状態を分けて残してください」
「……はい」
アリシアは鉛筆を持った。
胸の奥で研究の記録方法と似たものを感じはしたが、今度はそこから思考を広げなかった。これは古い資料を傷つけずに扱うための授業であり、今、自分の前にあるのは練習紙だ。
だから紙を見た。
光の角度を少し変え、浮きの範囲を確認し、前回の記録の横へ今日確認できたことを書き加える。
しばらくすると、教室のあちこちから刷毛が紙を撫でる微かな音が聞こえ始めた。確認を終えた生徒から、教師の指示を受けて軽い浮きへの処置を試しているらしい。
アリシアの番が来たのは、それから少しあとだった。
「ここは練習紙なので、今日はこの範囲だけ試します。力を加えて平らにするのではなく、紙がどちらへ動きたがっているかを見ながら扱ってください」
教師が示した場所へ、アリシアは慎重に刷毛を置いた。
力を入れすぎないように手首を浮かせ、繊維の方向を見ながらゆっくり動かす。最初は変化が分からなかったが、二度、三度と同じ範囲を扱ううちに、小さく浮いていた部分がわずかに落ち着いた。
「……直った?」
「完全には直していません。今日はそこまでで十分です」
教師の返事に、アリシアはもう一度紙を見る。
確かに、まだ少し浮いている。
けれど、先ほどとは違う。
「全部、平らにしないんですか?」
「必要以上に変えないことも修復です。資料は新品へ戻すために直すわけではありませんから」
アリシアはしばらく紙を見つめたあと、ゆっくり頷いた。
その言葉を研究へ置き換えようとはしなかった。
ただ、古い紙には古い紙の時間が残っていて、それを全部消してしまうことが修復ではないのだという考え方が、素直に好きだと思った。
(この授業、やっぱり好き)
その気持ちは研究とは関係がない。
だからこそ、アリシアは少し嬉しかった。
◇
授業が終わり、廊下へ出たところで友人が待っていた。
手には今朝見せてもらったものとは別の布があり、今度は淡い黄色が広がっている。
「今日はどうだった?」
「少しだけ、紙を触った」
「おお、修復っぽくなってきた」
「でも、全部直さなかった」
「なんで?」
「直しすぎない方がいいこともあるんだって。新品に戻すためじゃないから」
アリシアがそう説明すると、友人は布を持ったまま感心したように目を丸くした。
「なんか格好いいね、それ」
「うん。私も、好き」
以前なら「楽しかった」と口にするだけでも少し照れていたのに、今日はそれほど迷わなかった。
友人もその変化に気づいたのか、一瞬だけ柔らかな表情を見せたものの、わざわざ指摘することはしなかった。
「私は今日、黄色をやったんだけどさ。見事に端っこだけ薄い」
「見せて」
「笑わない?」
「笑わないよ」
「朝、青の濃いところ好きって言った人だから信用しよう」
二人は窓辺へ寄り、友人が布を広げた。
確かに端の一部だけ色が薄かったが、中央から外側へ向かって淡くなる様子は、それほど不自然には見えない。
「これも、私は好き」
「アリシア、失敗した布ばっかり褒める人になってない?」
「失敗だから好きなんじゃないよ」
少し慌てて否定すると、友人が吹き出した。
その笑いにつられてアリシアも笑う。
放課後の廊下には、部活動や寮へ向かう生徒たちの声が重なっていた。誰かが階段を駆け下り、遠くでは教師が「走らない」と注意している。
そのありふれた音の中で、アリシアは研究棟へ向かうかどうかを初めて考えた。
朝からずっと忘れていたわけではない。
ただ、今まで考えなくても平気だった。
「今日、研究?」
友人が何気なく尋ねた。
「……うん。たぶん。でも、見るだけ」
「見るだけ?」
「残ってる記録があるから」
「そっか。じゃあ、無理しないでね」
友人は詳しく聞かなかった。
アリシアも詳しく説明しなかった。
それで十分だった。
◇
研究棟へ向かう前に、アリシアは生活観測区画へ一度戻った。
学校の鞄を置き、制服の上着を掛け、少しだけ水を飲む。子供は床で色紙を並べており、顔のない存在は窓に近い椅子へ座っていた。胸元の十一の光には目立った変化がなく、今日はそれを数えるために立ち止まる必要もない。
重要な木箱も、以前から置かれている場所で閉じたままだった。
誰もそれへ触れていない。
アリシアも触れなかった。
「いくの?」
子供が色紙から顔を上げた。
「うん。でも、今日は何か起こす試験じゃないよ。昨日の続き」
「あと二つ?」
「そう」
「きょうは見る?」
朝と同じ問いだったが、今度のアリシアは少し考えてから頷いた。
「今の状態を見てもらって、大丈夫だったらね」
「じゃあ、帰ってきたら教えて。二つ、なくなったか」
アリシアは少し笑った。
「なくなるんじゃなくて、見るんだよ」
「見たら、残らないの?」
「記録は残る」
「じゃあ、ずっとあるじゃん」
子供は不思議そうに首を傾げ、そのまま色紙へ戻っていった。
ノアが扉の近くで尻尾を揺らす。
「哲学みてえになってきたな」
「……たぶん、違うと思う」
「俺もそう思う」
二人は並んで研究棟へ向かった。
◇
研究室へ入ると、昨日使った資料は机の中央ではなく、壁際の保管台へまとめられていた。
今日の机には白紙の記録用紙と、状態確認用の板だけが置かれている。数字を先に目へ入れないための配置なのだと、アリシアにもすぐ分かった。
副学長、サラ、魔導具担当教師、若い観測員、記録担当、それから安全管理担当がいる。昨日と全く同じ人数ではなかったが、今日行うのは人工刺激ではなく既存記録の分析であるため、必要な役割だけが揃っていた。
「お帰りなさい、アリシアさん」
サラが声をかけた。
「……ただいま、でいいのかな」
「学校から戻ったという意味なら、それでいいと思います」
「今日は資料修復だったんだってな」
副学長が言うと、アリシアは少し驚いた。
「どうして知ってるんですか?」
「授業予定を確認しているからだ。研究予定と重ねないためにな」
「あ……」
研究側が自分の授業を覚えていることに、アリシアは少しだけ安心した。
以前なら、研究の方が重要なのだから学院側をずらした方がよいと、自分から考えていたかもしれない。しかし今は、授業も自分の時間として守ってよいのだと分かっている。
「楽しかったか?」
「はい。今日は、少しだけ紙を触りました」
答える声が自然に弾んだ。
若い観測員がその様子を見て、記録板へ手を伸ばしかけてから止めた。研究に関係する身体状態ではない。わざわざ数値化する必要のない、ただの「楽しかった」だからだ。
その小さな判断に、アリシア本人は気づいていなかった。
安全管理担当が椅子を勧め、いつもの確認を始める。
疲労は二。
痛みはゼロ。
息苦しさはゼロ。
胸部異常はゼロ。
頭痛、吐き気、めまいもない。
研究へ参加したい気持ちは八。
早く残りを見たい気持ちは八。
そして、昨日に続いて確認された「きれいな答えが出てほしい気持ち」は、アリシアが少し迷ったあとで六と答えた。
「昨日より一つ下がったんですね」
サラが確認する。
「はい。でも……なくなってはいません」
「なくす必要もありません。あると分かっていることが大切です」
アリシアは頷いた。
最後に、途中で止まりにくくなりそうな感覚を尋ねられる。
「今は……四くらい」
「昨日の終了時は七でした」
「はい。今日は、二つ見たら終わるって先に分かってるから……たぶん、昨日より止まりやすいです」
副学長がそこで指を一本上げた。
「そこだけ訂正しておこう。二つを必ず全部見る、ではない」
アリシアは瞬きをした。
「状態が変われば、一つで終える可能性もある。算出可能な記録が多く、確認に時間がかかるなら、自然揺れ間隔だけで終えてもいい。昨日止めた意味を、今日全部やる義務へ変えたら本末転倒だ」
「……はい」
ほんの少し残念だった。
その感情が顔へ出たらしく、ノアが足元から見上げる。
「二個残ってると二個とも開けたくなる。箱でも数字でも変わらんな」
「木箱とは違うよ」
「知ってる。だから開けんなとは言ってねえ」
アリシアは唇を尖らせたが、肩から少し力が抜けた。
◇
最初に確認されたのは、今日の分析範囲だった。
昨日までに開いた四項目――意図的小変動の立ち上がり時間、戻り時間、固定事前区間の基準適合自然揺れ数、自然揺れの大きさ――について、新しい分類や境界を追加しない。
特に、立ち上がり時間でアリシアの既存対象感覚が確認された記録に比較的短い値が多く見えたことについて、今日になって境界値を引いたり、短い群と長い群へ分けたりはしない。
また、自然揺れの大きさで目立っていた一件を、外れ値として除外もしない。
残る二項目を見ることで、昨日の四項目を組み合わせた新しい指標を作ることもしない。
「今日は残った固定項目を、それぞれ独立した探索項目として確認します」
魔導具担当教師が、机の端へ置いた二枚の札を示した。
一枚には「自然揺れ間隔」、もう一枚には「総偏差」と書かれている。
「自然揺れ間隔は、以前に決めた方法をそのまま使います。固定された入力前区間の中で、既存の最小振幅基準と回復幅基準を満たす自然揺れを取り、その中心時刻は基準線からの偏差による重み付き中心で定めます。適合する揺れが二つ未満なら、間隔は算出できません」
アリシアはそこで口を開いた。
「算出できないときは、ゼロにしない」
「その通りです。また、二つ見つけるために観測区間を広げることもしません」
「……はい」
「総偏差も既に固定された算出方法だけを使います。今日、記録を見てから『この部分を除いた方がきれいだ』といった変更はしません」
説明は、アリシアがすでに知っている内容の確認だった。
それでも今日は、その確認が必要だった。
昨日の結果を知った自分が、昨日より少しだけ多くの期待を持っているからだ。
「もう一つ」
副学長が言った。
「昨日と同じく、設計群を混ぜない。過去の比較可能な意図的小変動記録、三領域の前向き記録、東西判定を主にした専用前向き記録は、表示上も区切ったままにする」
机上へ置かれた用紙には、最初から太い区切り線が引かれていた。
「数字が十三並んで見えても、『同じ十三回の系列』とは扱わない」
「……同じ元の記録が別の整理にも入ってるものは、二回数えない」
「そうだ」
アリシアは息を整えた。
昨日までに何度も確認してきたことだったが、今日は自分から言えた。
「それから……自然揺れ間隔が出せない記録が多くても、その記録を悪い記録にしない」
若い観測員が静かに頷いた。
「算出不能は、その項目について値がないというだけです。対象反応がなかったという意味にも、自然揺れがなかったという意味にもなりません」
「はい」
そこまで確認したところで、サラがアリシアを見る。
「開きますか?」
アリシアはすぐには答えなかった。
胸の内側に、昨日とは違う緊張が生まれている。
人工刺激を受けるときの恐怖ではない。痛みが来るかもしれないという不安でもない。
数字を見た瞬間、自分が何を思ってしまうのか。
それが少し怖かった。
(きれいに分かれていたら、嬉しいと思う。分かれていなかったら、たぶん少し残念。でも……どっちでも、記録は変えない)
両手を膝の上で重ね、指先へ入っていた力を少し抜く。
「見ます」
◇
最初に開かれたのは、自然揺れ間隔だった。
記録担当が保管台から資料を持ってきても、すぐには全てを並べなかった。設計群ごとに分けた状態で、まず算出可能かどうかの欄だけが示される。
アリシアは表へ視線を落とした。
値が入っている欄もあれば、横線とともに「算出不能」と記された欄もある。
思っていたより多かった。
「……結構、ない」
「自然揺れが二つ以上、固定基準を満たしていなければ間隔は作れませんからね」
魔導具担当教師が答える。
「昨日見た自然揺れ数と関係はありますが、同じ項目ではありません。数が多くても、既定の条件で隣接中心を取れない場合があります」
アリシアは一度頷き、値がない欄を眺めた。
以前の自分なら、そこを空白のように感じたかもしれない。
しかし今は違う。
(分からないものを、ゼロにしない)
それだけで表の見え方が変わる。
若い観測員が、算出可能な記録についてだけ数値を開いた。
設計群の区切りは残ったままだ。
数値の幅にはばらつきがあり、短めのものもあれば長めのものもある。しかし東側対象反応の確認記録だけが一方へ集まっているわけではなく、非確認記録にも近い値がある。
西側についても同様だった。
アリシアの既存対象感覚の確認・非確認を横へ置いても、昨日の立ち上がり時間ほど「こちら側に多そう」と直感的に感じる並びすら見えにくい。
アリシアは表を上から下までゆっくり追った。
「……混ざってる」
「そう見えますね」
サラはそれ以上言わなかった。
「東側が確認された方だけ短い、とか……西側が確認されなかった方だけ長い、とかは、ない」
「少なくとも、固定したこの項目をそのまま見た範囲では、明瞭には分かれていません」
魔導具担当教師が慎重に言葉を選ぶ。
「ただし、『関係がない』とまでは言いません。今回の記録数、算出可能な記録、設計群の違いを考えれば、そこまで強い否定はできません」
「……はい」
アリシアはもう一度、算出不能の欄を見る。
「これ、もし算出できないのをゼロにしたら……」
途中まで言ったところで、若い観測員が少し困った顔をした。
「かなり違う並びに見えるでしょうね」
「でも、それは……ない数字を作ることになる」
「そうです」
アリシアは唇を閉じた。
空欄を埋めれば表は整う。
比較もしやすくなる。
けれど、その整いやすさのために意味を変えてしまえば、見つかった形は本当の記録から離れていく。
(きれいな表と、正しい表は同じじゃない)
そう思ったが、声には出さなかった。
サラが状態を確認する。
「今の疲労は?」
「二……まだ二です」
「見続けたい気持ちは?」
「八」
「止まりにくさは?」
アリシアは少し考えた。
「……五」
副学長が眉を上げる。
「上がったな」
「はい。でも、まだ……止まれると思います」
「思います、だけで進めないぞ」
「分かってます」
少しだけ不満そうな声になったため、ノアが椅子の下で鼻を鳴らした。
「その返事ができるうちは、まあ大丈夫そうだな」
「ノアは安全管理担当じゃないでしょう」
「猫管理担当だ」
「何を管理してるの?」
「主にお前が面倒くさくなってないか」
アリシアがむっとした顔をすると、室内の緊張が少しだけ緩んだ。
安全管理担当はアリシアの表情や呼吸を確認したあと、もう一度だけ念を押した。
「次へ進む前に休憩を入れます。総偏差はそのあとです」
アリシアは一瞬だけ「今見たい」と言いかけた。
けれど、言葉にする前に口を閉じた。
「……はい」
◇
休憩中、数値表は伏せられた。
アリシアは窓際の椅子へ移動し、水を少しずつ飲んだ。外では夕方の光が研究棟の中庭へ斜めに差し込み、石畳の端に長い影を作っている。
ノアは隣の椅子へ飛び乗った。
「どうだった」
「……何が?」
「分かれてなかった感想」
アリシアは水の入った杯を両手で包み、しばらく答えを探した。
「少し、残念」
「だろうな」
「でも……昨日よりは、残念じゃない」
「昨日も似たような顔してたからな」
「そんなに分かる?」
「お前、分かりやすくなったぞ」
以前なら、その言葉に恥ずかしさを感じたかもしれない。
今も少し恥ずかしい。
けれど、それ以上に不思議だった。
「前は……分からないようにしてたのかな」
「人に対してはな。自分に対してまで隠してたかは知らん」
アリシアは窓の外へ目を向けた。
夕暮れにはまだ早いが、日差しは朝より柔らかい。
「きれいに分かれてほしいって、言えるようになったから……分かれなかったときも、残念って言えるのかも」
「それで数字を曲げなきゃ問題ねえだろ」
「曲げない」
「なら残念がるくらい好きにしろ」
ノアはそこで前脚を舐め始めた。
アリシアは小さく笑い、水をもう一口飲んだ。
◇
休憩後の確認では、疲労は二のまま、頭痛や胸部異常もなかった。
止まりにくさは四へ戻っている。
そこで、最後に残っていた総偏差が開かれることになった。
「これで入力側の固定項目は最後です」
記録担当の言葉に、アリシアの背筋が少し伸びた。
総偏差は、入力波形が基準からどれだけ外れたかを、固定された方法で全体として扱う補助的な項目だった。
一部分だけを選ぶものではない。
今日の結果を見てから、特定の時間帯を除いたり、意図的小変動の周辺だけへ絞ったりもしない。
「開きます」
用紙が表向きにされた。
アリシアは息を止めないように意識しながら、最初の設計群から順番に目を動かした。
数値には幅がある。
低めの記録も、高めの記録もあった。
東側対象反応が確認された記録だけを見ても一方向へ固まらず、非確認記録と重なる。西側も同じだった。
アリシアの既存対象感覚についても、確認側に比較的大きな値と小さな値の両方があり、非確認側にもその間へ入る値が存在していた。
すぐには誰も喋らなかった。
アリシア自身も、表の一箇所だけを見て答えを作らないよう、何度か視線を上下させる。
その途中で、一つの組み合わせが目に入った。
立ち上がり時間が短めで、総偏差がある範囲に収まっている記録の中に、アリシアの対象感覚が確認されたものが複数ある。
胸の奥がわずかに高鳴った。
(これを組み合わせたら……)
そこまで考えたところで、アリシアは自分で視線を表から外した。
机の木目を見る。
呼吸を一度、ゆっくり整える。
「……今、組み合わせたくなりました」
自分から言った。
室内の誰も、すぐには返事をしなかった。
アリシアは少し恥ずかしくなったが、そのまま続ける。
「立ち上がりが短いのと、総偏差の……この辺を一緒にしたら、対象感覚が出た記録が集まるかもしれないって。でも、それ、先に決めてないです」
魔導具担当教師が頷く。
「決めていません」
「だから、今の記録の答えにはできない」
「はい」
「……でも、候補にはできますか?」
今度は副学長が答えた。
「候補として残すことはできる。ただし、どの範囲を組み合わせるかまで今ここで決め始めれば、今見た結果に引っ張られる」
アリシアは表を見ないまま聞いた。
「じゃあ……『複数の固定入力項目の組み合わせで違いが見える可能性を考えた』くらい?」
「それくらいが妥当だろうな。具体的な境界や組み合わせを確定するなら、別の問いとして設計し直す必要がある」
「今ある記録で、一番きれいになる組み合わせを探すのは?」
「探索として行うこと自体は不可能ではない。ただし、それをそのまま確認結果として扱うことはできない。組み合わせを探した記録と、それを確かめる記録を分ける必要がある」
アリシアはようやく顔を上げた。
「……次の記録が必要になる」
「もし、その候補を本当に確かめたいならな」
副学長はそこで言葉を切り、アリシアを見た。
「だが、それを次の研究にすると決めたわけではない」
「はい」
返事をしながら、アリシアは少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
今、思いついたことを捨てなくてもいい。
しかし、思いついたからといって答えにもならない。
その間に「候補」という場所がある。
以前より、その場所へ物事を置いておくことができるようになっていた。
「総偏差だけを見ると?」
サラが尋ねる。
アリシアは改めて表へ視線を戻した。
今度は立ち上がり時間との組み合わせを意識的に追わず、総偏差の列だけを見る。
「……単独では、分かれてないです」
「東側は?」
「確認と非確認が重なってる」
「西側は?」
「同じです」
「アリシアさんの既存対象感覚は?」
少し長く確認してから、アリシアは首を横へ振った。
「確認された方にも大きいのと小さいのがあって、非確認も間にある。だから……これだけでは、線を引けない」
「記録します」
記録担当の筆が動いた。
今日開いた二項目についても、単独で既存確認判定を明瞭に分離する所見は得られなかった。
ただし、それは無関係を証明したという意味ではない。
自然揺れ間隔には算出不能記録が存在し、総偏差にも値域の重なりがある。設計群も同一ではないため、全てを一つの系列として扱わない。
そして、入力側六項目を結果後に組み合わせて新しい説明指標を作り、既存記録へ遡って適用することはしない。
アリシアは記録されていく文章を眺めた。
「六つ見ても、答えにならなかった」
呟くと、サラが少しだけ首を傾けた。
「答えにならなかった、というより、単独で明瞭に分けるものは見つからなかった、ですね」
「……同じじゃない?」
「少し違います。六項目を見る意味がなかったわけではありません。少なくとも、今後『入力のこの一つだけで全部説明できる』と簡単には言えなくなりました」
アリシアはその言葉をゆっくり飲み込んだ。
何かを見つけることだけが前進ではない。
簡単な説明では足りないと分かることも、前に進んだ結果なのかもしれない。
(でも……やっぱり、少しは分かってほしかった)
そう思う自分も残っている。
アリシアはその気持ちを否定せず、指先で膝の布を軽くつまんだ。
「残念です」
「うん」
サラはそれを訂正しなかった。
「でも、見てよかったです」
「それも記録しますか?」
「……それは、しなくていいです」
アリシアが慌てて答えると、サラが笑った。
若い観測員も少しだけ口元を緩める。
研究室の空気が、ようやく柔らかくなった。
◇
しかし、その日の分析はそこで終わりではなかった。
数値をさらに掘り下げるのではなく、今日までに開いた六項目を「どこまで言える状態で閉じるか」を確認する必要があった。
副学長が新しい紙を一枚だけ机の中央へ置いた。
「今日、次の研究質問は決めない」
アリシアは少しだけ肩を落とした。
自分でも予想していた反応だったらしく、ノアが横からじっと見ている。
「……分かってます」
「顔が分かってない」
「分かってます」
「二回言ったところで顔は変わらんぞ」
「ノア」
「はいはい」
黒猫はそれ以上追及せず、机の端へ顎を乗せた。
副学長は続ける。
「入力側六項目の探索比較が終わった直後だ。ここで次の問いを決めれば、目についた並びを追いたくなる。特に今、アリシア自身が立ち上がり時間と総偏差を組み合わせたくなったと申告した」
「……はい」
「それは悪いことではない。ただ、その候補を追うか、別の候補を優先するかは、今日決めない方がいい」
机の上には、まだ他にも開いていない候補がある。
東側奥部の事前状態。
三件の弱い胸部異常について、さらにどこまで記述的に扱うか。
専用前向き記録で初めて生じた東西不一致を、別系列として再び確かめるかどうか。
入力側の複数項目の組み合わせを、独立した仮説として新しく設計するか。
どれも候補であって、まだ次に進むと決まってはいない。
「……東側の前の状態も、まだある」
アリシアが言う。
「あります」
「平均の傾きと、変動性」
「はい。ただし、それも受け手側の観測された開始状態です。こちらが操作する条件ではありません」
「都合のいい状態を待たない」
「その原則も変わりません」
アリシアは頷いた。
以前、反応があった記録となかった記録の違いを探す中で、東側奥部の事前状態は何度も候補へ上がっている。しかし、平らなら反応する、傾いていれば反応しない、といった単純な規則はすでに成立していない。
それでも、固定された平均傾きと変動性を使って比較する余地は残っている。
「弱い胸の変なのも……三つある」
「ありますね」
「でも、名前はまだつけない」
「はい」
「同じだとも、違うとも言わない」
「そのままです」
サラの返事を聞いて、アリシアは胸元へ目を落とした。
三度の微かな異常。
どれも胸の中央より少し左寄りで、強さはおよそ〇・五。短く、薄れて消え、痛みも息苦しさもなかった。
それでも、一件目には「冷たいとはまだ言い切れない」という言葉があり、二件目と三件目には温度を示す言葉そのものがなかった。
時間配置も完全には同じではない。
似ている。
だからこそ、同じだと言いたくなる。
けれど、まだ言わない。
(私は、同じだったらいいなって思ってる)
その願いも、もう隠す必要はない。
ただし願いは記録の代わりにはならない。
「今日は……ここまでにします」
アリシアが自分から言った。
安全管理担当が少し意外そうに顔を上げる。
「状態確認の前に決めますか?」
「はい。今、次を選びたくなってるから」
アリシアは机の上の紙を見た。
「たぶん、このまま話したら……立ち上がりと総偏差の組み合わせを次にしたくなります。さっき見つけたばかりだから」
副学長が静かに頷く。
「妥当だと思う」
「明日決める?」
サラが尋ねると、アリシアは少し考えた。
「明日って、決めなくていいです」
その答えに、今度こそ室内の何人かが目を見開いた。
アリシア自身も、言ったあとで少し驚いた。
「学校もあるし……資料修復の次の授業もあるし。研究する日になったら、そのとき決めたいです」
「ずいぶん立派になったじゃねえか」
ノアが言った。
「……からかわないで」
「珍しく褒めてんだよ」
「珍しくって言った」
「そこ拾う元気があるなら大丈夫だな」
アリシアはむっとしたが、笑いを完全には隠せなかった。
◇
最後の状態確認では、疲労は三。
痛み、息苦しさ、胸部異常、頭痛、吐き気、めまいはいずれもゼロだった。
次の答えを知りたい気持ちは八。
止まりにくさは五。
きれいな答えが出てほしい気持ちは六のままだった。
その数字を見て、アリシアは少し安心した。
期待は消えていない。
好奇心も消えていない。
それでも自分から終わると言えた。
研究室を出る前、記録担当が今日のまとめを読み上げた。
入力側固定六項目の探索比較を完了。
自然揺れ間隔は固定算出規則を適用し、算出不能をゼロ扱いせず、観測区間の延長も行わなかった。
総偏差も既存固定方法を変更せず使用。
今日開示した二項目を含め、入力側固定六項目のいずれについても、単独で東側対象反応、西側対象反応、アリシア既存対象感覚の確認・非確認を明瞭に分離する所見は得られていない。
立ち上がり時間には対象感覚確認側で比較的短い値が多く見える並びがあるものの重複が存在し、事前固定境界もない。
複数項目の組み合わせによる違いは候補として考えられるが、既存結果を用いて事後的に最適化した指標を確認結果として扱わない。
次の研究質問は未決定。
人工刺激の次回予定も未決定。
「……はい」
アリシアは最後まで聞いてから頷いた。
そこには、欲しかったような「答え」は書かれていない。
けれど、昨日まで閉じられていた二つの項目は、決めていた方法のまま見ることができた。
そして、きれいに分かれなかった。
それも結果だった。
◇
生活観測区画へ戻った頃には、窓の外が橙色に染まり始めていた。
子供は朝と同じ場所に座っていたが、色紙の並びは大きく変わっている。茶色、黄色、薄い赤が一列に並び、その横に小さな木片が置かれていた。
「見た?」
扉が開くなり尋ねられ、アリシアは靴を脱ぎながら頷いた。
「見たよ」
「二つ?」
「二つとも」
「なくなった?」
「だから、なくならないって」
「じゃあ増えた?」
アリシアは返事に詰まった。
ノアが横を通り抜けながら言う。
「面倒な質問しやがるな」
「……でも、少し増えたのかも」
アリシアは子供の近くへ座った。
「分かったことが?」
「分からないことの形が」
「かたち?」
「うん。これは一個だけじゃ説明できなさそう、とか。これとこれを一緒に見たくなるけど、今すぐ一緒にしちゃだめ、とか」
子供はしばらく考えたあと、目の前の色紙を二枚持ち上げた。
「これとこれ、一緒に置いちゃだめ?」
「それはいいよ」
「なんで?」
「……遊びだから」
「けんきゅうは、めんどくさいね」
あまりにも率直な感想に、アリシアは目を丸くしたあと、声を立てずに笑った。
「うん。ちょっとだけ」
「ちょっとか?」
ノアの声が飛んできた。
「……いっぱいかも」
子供も笑った。
顔のない存在は少し離れた椅子に座ったままで、胸の十一の光にも目立つ変化はない。重要な木箱は閉じたまま、夕方の薄い影の中に置かれている。
今日はそれでよかった。
アリシアは子供が並べている色紙へ目を向け、黄色い一枚を指差した。
「これ、学校で友達が染めた布に似てる」
「きいろ?」
「うん。でも、端っこだけ薄かった」
「しっぱい?」
「授業では、少し失敗だったみたい。でも私は好きだった」
子供は黄色い紙をしばらく眺め、それを茶色の紙の隣へ置いた。
「ぼくも、これ好き」
「そっか」
それ以上の意味はなかった。
研究の比喩にする必要もなかった。
アリシアは床へ座ったまま、夕方の光が色紙の上を少しずつ移動していくのを眺めた。
◇
夜、自分の机へ向かったアリシアは、二冊の帳面を前に置いた。
一冊は研究用。
もう一冊は学院で始めた、資料修復のための普通の授業帳だった。
先に開いたのは授業帳だった。
今日扱った練習紙の折れと浮きについて、横から光を当てたことで前回見えなかった状態を確認できたこと、刷毛で軽く整えたこと、完全に平らへ戻すのではなく必要以上に変えないことも修復だと教わったことを書く。
最後に少し迷ってから、
『資料を新品へ戻すことが目的ではない。残っているものを壊さず、次へ渡せる状態にする』
と書いた。
授業で教師が言った内容を、自分なりにまとめたものだった。
書き終えてから、そのページを閉じる。
次に研究用の帳面を開いた。
今日の欄には、自然揺れ間隔と総偏差を固定済み方法で確認したことを書く。
自然揺れ間隔は算出不能をゼロにしなかった。
総偏差を含め、入力側六項目の単独比較では、既存の確認・非確認を明瞭に分ける項目は見つからなかった。
立ち上がり時間と総偏差を組み合わせたくなったが、それは結果を見たあとに生じた考えなので、今日の答えにはしなかった。
そこまで書いたところで、筆が止まる。
(次は、何を見るんだろう)
候補はいくつもある。
東側奥部の事前状態。
三件の弱い胸部異常。
東西の不一致。
入力側の組み合わせ。
あるいは、まだ自分が気づいていない問い。
以前なら、ここで一つを選びたくなっていた。
今夜のうちに決めて、明日すぐ研究室へ持っていきたくなっていた。
けれど、アリシアは筆先を紙から離した。
最後に一行だけ書く。
『次に何を見るかは、まだ決めない。』
それは諦めではなかった。
分からないまま放り出したわけでもない。
六つの入力側項目を見終えた直後だからこそ、その結果から少し離れてから次の問いを選ぶための空白だった。
帳面を閉じると、窓辺にいたノアが振り返った。
「終わったか?」
「うん」
「次、決めた?」
「決めてない」
「へえ」
「……何、その顔」
「別に。明日には気が変わってるか賭けようかと思っただけだ」
「賭けない」
「つまらん」
アリシアは椅子から立ち上がり、二冊の帳面を別々の場所へしまった。
研究の帳面と、学校の帳面。
どちらも自分のものだった。
片方が大事だからといって、もう片方を小さくする必要はない。
窓の外では、森の奥から夜の虫の声が聞こえ始めていた。生活観測区画の灯りは柔らかく、隣の部屋からは子供が何かを動かす小さな音が聞こえる。
アリシアはその音へ耳を傾けながら、寝台へ向かった。
残っていた二つの数字は、今日、開いた。
けれど、そこから新しい答えを急いで作ることはしなかった。
分からないことは、まだたくさんある。
それでも今夜のアリシアには、その「まだ」が以前ほど怖くなかった。




