第260話 開いた数字は、きれいには分かれない
入力側固定項目の探索比較について、対象とする設計群と算出不能の扱いを決めてから二日が過ぎた。
その間、アリシアが研究棟で新しい数値を見ることはなかった。
研究棟では、入力側の実数値や対象反応の確認判定を比較担当へ見せないまま、固定した方法を各記録へ適用できるかどうかだけを確認する作業が進められていた。古い記録の一部では、現在の方法で必要とされる密度の記録が残っていない可能性があるため、項目ごとに算出可能か、算出不能かを先に確定する必要があったからだ。
アリシアは待った。
待てた、と言った方が正確だった。
その二日間にも学院の授業はあり、生活観測区画での食事や入浴や睡眠があり、子供との時間があり、友人との会話があった。
研究が止まっていたわけではない。
ただ、自分が今すぐ触れる場所に置かれていなかっただけだった。
そして二日目の夕方、学院から戻ったアリシアのもとへ一枚の連絡紙が届いた。
『入力側固定項目・算出可能性確認終了。固定規則の変更なし。次回、既定順序により項目別記述比較を開始可能。人工刺激なし。』
アリシアは紙を読み終えたあとも、しばらく最後の行を見つめていた。
「明日?」
近くにいた職員へ尋ねる。
「学院終了後で予定されています。朝と開始前の状態に問題がなければ、という条件です」
「分かった」
返事をしてから、もう一度紙を見る。
明日。
ようやく数字を開く。
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねるような感覚がしたが、研究対象になっている左寄りの弱い違和感とは違う。期待したときの普通の身体反応だと自分でも分かる。
(何かあるかな)
そう思った直後、アリシアは唇を結んだ。
(ある方がいい、って思ってる)
それ自体は悪くない。
期待を消す必要はない。
ただ、期待があることは自分で知っておいた方がよかった。
◇
翌朝の生活観測区画には、薄い日差しが差し込んでいた。
季節が進んだためか、窓を少し開けただけでも冷たい空気が入ってくる。共用室の外では木々の葉がかなり減り、庭の端には職員が掃き集めた落ち葉が小さな山になっていた。
アリシアは朝食前に状態を確認した。
疲労一。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
怖さ一。
研究へ行きたい気持ちは九。
数字を見たい気持ちは九。
結果がきれいに分かれてほしい気持ちは――。
そこまで考え、少し迷う。
「何してるの?」
子供が尋ねた。
「考えてる」
「何を?」
「今日、研究で数字見るから」
「数字好き?」
「今日は好き」
「昨日は?」
「昨日も嫌いじゃない」
『そのうち数字と結婚しそうね』
ノアが窓際から言う。
「しない」
『即答』
「当たり前でしょ」
『でも九なんでしょう?』
「何が」
『見たい気持ち』
「何で分かるの」
『顔』
「またそれ」
子供も頷いた。
「九の顔」
「九の顔って何」
問い返しても、子供は笑うだけだった。
アリシアは自分の頬を両手で触った。
そんなに分かりやすいのだろうか。
(結果がきれいに分かれてほしい気持ちは……七くらい)
何も分からないより、分かりやすい違いがあってほしい。
それは事実だった。
けれど、七だから記録を見てはいけないわけではない。
今日は人工刺激もない。
決めた範囲の数字を開くだけだ。
「七」
『何が?』
「きれいに分かれてほしい気持ち」
『勝手に測ってたのね』
「覚えとく」
『ノートに書けば?』
「研究棟で言う」
『それがいいわね』
◇
学院では午前中から小さな騒ぎがあった。
染色の選択授業を受けている友人が、前日の試し染めで作った布を持ってきたのだ。
「見て」
休み時間になるなり、友人が机の上へ小さな布片を置いた。
淡い青色に染まっている。
ただし全体が均一ではなく、端の一部が少し濃く、中央付近には薄い場所があった。
「きれい」
アリシアが言う。
「ほんと?」
「うん」
「失敗なんだけど」
「何で?」
「ここ。色むら」
友人が中央を指す。
「先生にも、液に入れたときの動かし方が一定じゃなかったって言われた」
「でもきれい」
「作品なら駄目」
「練習でしょ?」
言ってから、アリシアは自分で笑った。
友人も気づいたらしい。
「またそれ言う?」
「だって前に私も言われたから」
「資料修復で?」
「うん」
「じゃあお互い失敗していいってことで」
「破くのは嫌」
「私は色むら嫌」
「同じだ」
「やっと認めた」
二人で笑う。
友人は布片を窓の光へかざした。
「でも先生が、むらが出た理由を一個に決めないでって言ってた。布の湿らせ方とか、液の温度とか、動かし方とか、いろいろあるんだって」
「へえ」
「だから次は一個ずつ気をつけるらしい」
アリシアは布を見る。
研究と似ている、と思った。
今度は無理にその考えを追い払わなかった。
似ているものは似ている。
ただし、染色の授業は研究のために存在しているわけではない。
「次、同じ色?」
「たぶん。条件変えると分かんなくなるからって」
「楽しそう」
「アリシアの紙よりはね」
「紙も楽しいよ」
「ずっと見てるだけなのに?」
「見るのが楽しい」
「やっぱり向いてるよ」
友人は笑いながら布をしまった。
その会話のおかげで、午前中は研究の数字ばかり考えずに済んだ。
◇
放課後。
研究棟へ到着したアリシアは、会議室へ入る前に状態確認を受けた。
疲労二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
怖さ一。
参加したい気持ち九。
数字を見たい気持ち九。
きれいに分かれてほしい気持ち七。
止まりにくさ五。
「朝から変わりましたか?」
サーラが尋ねる。
「数字見たいのは変わってない。分かれてほしいのも七くらい」
「分かれなかったら?」
「残念だと思う」
「途中で別の項目を追加したくなると思いますか?」
「なるかも」
「その場合は?」
「今日は追加しない」
「結果を見て新しい境目を作りたくなったら?」
「候補にする。今回の答えにはしない」
「分かりました」
記録担当職員がそれらを書き残す。
サーラは最後に、身体の状態をもう一度目で確かめた。
「今日は人工刺激はありません。疲労が四へ上がった場合は相談、五なら終了側で判断します。身体症状が出た場合は分析日でも同じように申告してください」
「うん」
「では入りましょう」
◇
会議室の机には、前回より多くの紙が並んでいた。
ただし、一枚の巨大な一覧表にはなっていない。
過去の比較可能な意図的小変動八件。
三領域の前向き記録二件。
専用東西前向き記録三件。
三つの設計群は、机の上でも離して置かれている。
それぞれに記録識別記号が付けられ、同じ元記録を二重に数えないよう照合済みであることが示されていた。
AからIの主観報告基点九記録は、独立した対象群としてここにはない。
時間窓比較に使った七件も、別の七件として加えられていない。
「十三件って書いてない」
アリシアが最初に言った。
若い観測員が少し笑う。
「書きません」
「よかった」
「総数を数えること自体が禁止されているわけではありません。ただし、一系列十三件として扱うと設計の違いを隠してしまいます」
「うん」
アリシアは席へ着いた。
「今日はどこまで見る?」
「固定した入力側項目を、一度にすべて開くのは避けます」
「え」
明らかな不満が声に出た。
副学院長は表情を変えずに続ける。
「項目ごとに算出可能数を確認し、その後に分布を見ます。疲労と集中状態を見ながら進めます」
「全部見られないかもしれない?」
「はい」
「……分かった」
納得はしていない顔だったが、アリシアは頷いた。
『九の顔から八の顔になったわね』
「ノアは黙ってて」
『刺激日は黙るけど今日は分析日でしょう』
「だからって何でも言っていいわけじゃない」
会議室の空気が少し緩んだ。
◇
最初に開くことになったのは、意図的小変動の立ち上がり時間と戻り時間だった。
どちらも入力そのものを直接記述する項目であり、古い記録でも比較的残りやすい。
「まず算出可能性です」
若い観測員が紙を表へ返す。
三つの設計群について、立ち上がり時間と戻り時間が既定方法で算出可能かどうかだけが示される。
大部分は算出可能。
ただし、過去の八件のうち一部では、戻りの終端を現在と同じ基準で確定するための記録精度が足りず、戻り時間だけ算出不能となっていた。
「立ち上がりはあるのに、戻りだけない」
「はい」
「その記録、立ち上がりには使う」
「固定したとおりです」
「戻りには使わない」
「はい」
「数を合わせない」
「はい」
アリシアは頷いた。
次に実数値が開かれる。
記録ごとに数字が並ぶ。
ただし設計群は分けたまま。
さらに東側奥部対象反応の確認・非確認を示す欄、西側対象反応の欄、アリシアの既存対象感覚の欄も、それぞれ既存の判定が存在する範囲だけ表示された。
アリシアの目が一気に数字を追う。
「待って」
サーラが声をかける。
「一つずつ見ましょう」
「見てる」
「全部同時に見ています」
「……うん」
アリシアは視線を一度外し、深く息を吐いた。
「まず立ち上がり」
「はい」
東側対象反応が確認された記録。
非確認だった記録。
それぞれの立ち上がり時間を比べる。
早いものもある。
少し長いものもある。
しかし、確認側だけが明らかに短いわけではない。
非確認側の中にも、確認側と重なる値がある。
「重なってる」
「はい」
「東が出た方だけ速い、とかじゃない」
「少なくとも現在の記録では、明瞭な分離は見えません」
次に西側。
ここでも重なる。
西側確認記録の中に比較的短い立ち上がりを持つものがある一方、非確認記録にも近い値がある。
「これも」
「はい」
「私の対象感覚は?」
対象感覚の確認・非確認で見る。
こちらも、きれいには分かれない。
アリシアは表へ顔を近づけた。
「でも、こっちの確認側、少し短いの多くない?」
会議室の空気がわずかに変わった。
魔導具担当教師がすぐに否定せず、表を確認する。
「見た目として、そのように感じる並びはあります」
「じゃあ――」
「ただし、境界はありません」
アリシアが口を閉じる。
「非確認側にも同じ範囲の値があります。また、記録数も限られています。今ここで『この値より短ければ対象感覚が確認されやすい』という閾値を作ることはできません」
「分かってる」
「候補として、立ち上がり時間の分布に偏りがあるように見えた、という観察を残すことはできます」
「確認じゃない」
「はい」
「次に別の記録で確かめるなら候補」
「そうです」
アリシアは少しだけ悔しそうに表を見た。
(線を引きたい)
ある値のところへ線を置けば、かなり分かれそうに見える。
でも完全には分かれない。
そして、その線は数字を見た今だから置きたくなったものだ。
「線、引かない」
「はい」
自分から言うと、少しだけ楽になった。
◇
戻り時間も同じように確認された。
こちらは立ち上がり時間以上にばらつきがあり、確認・非確認のどの判定でも値域が重なっている。
「これはもっと分かれない」
アリシアが言う。
「現時点ではそう見えます」
「東も西も?」
「はい」
「私の対象感覚も?」
「重なりがあります」
「じゃあ戻り時間は関係ない?」
言った直後、自分で首を横へ振った。
「違う。これだけじゃ分けられない」
「はい」
副学院長が頷く。
「今の言い直しで適切です」
「最近、そればっかり」
『便利な言葉を覚えたわね』
「便利だからじゃない」
『でも正確なんでしょう?』
「……うん」
ノアはそれ以上からかわなかった。
◇
一度休憩が入った。
窓際へ移動したアリシアは、用意された水を少しずつ飲む。
外はすでに夕方へ傾き、研究棟の庭を歩く職員の影が長く伸びていた。
サーラが隣へ来る。
「疲労は?」
「三」
「頭痛は?」
「ない」
「胸は?」
「何もない」
「続けたい気持ちは?」
「九」
「止まりにくさは?」
アリシアは少し考えた。
「六」
「先ほどより上がっています」
「立ち上がりのところ、気になるから」
「続けられますか?」
「うん。でも、今日全部見ようとはしない」
「次は自然な揺れの数と大きさまでを予定しています。間隔と総偏差は、状態を見て別日に回す可能性があります」
「……うん」
残念そうな間があった。
それでも了承した。
◇
休憩後、固定事前区間に存在する基準適合自然揺れの数が開かれた。
ここでは立ち上がり時間より算出不能が増えた。
古い記録の一部では、現在の固定区間と同じ条件で十分な記録密度が残っていない。
また、記録自体が存在しても、基準を満たす揺れがない場合は「適合揺れなし」として記録される一方、記録不足による算出不能とは明確に区別されている。
「ゼロと分からないは違う」
アリシアが言う。
「はい。適合する自然揺れが実際に確認されなかった記録と、確認できるだけの記録条件がないものは別です」
表を開く。
自然揺れの数は、確認側でも非確認側でも散らばっていた。
適合揺れが少ない記録。
複数ある記録。
確認側だけに特定の数が集中しているわけではない。
「これも重なる」
「はい」
「前に、揺れが少ない方がいいとか考えたことあったよね」
「候補としてはありました」
「でも少ない記録でも出ないのがある」
「はい」
「多くても出るのがある」
「あります」
「じゃあ数だけじゃ足りない」
「現在の記録では、その表現が妥当です」
アリシアは表を眺めながら、以前なら「じゃあ大きさと合わせれば」とすぐに言っていたかもしれないと思った。
今は、その言葉を飲み込む。
大きさは最初から固定された別項目として見る。
数と大きさを結果を見てから都合よく組み合わせ、新しい指標を作るのは別の話だ。
◇
自然揺れの大きさが開かれる。
一つの記録に複数の適合揺れがある場合、それぞれをどう扱うかは以前から決めた記録方式に従い、今回だけ最大値や最小値へ置き換えることはしない。
アリシアは最初の数件を追い、次第に眉間へ皺を寄せた。
「これ……」
「どう見えますか?」
「もっと分かんない」
若い観測員が少し笑った。
実際、値は重なっていた。
東側確認記録にも比較的小さな自然揺れがある。
東側非確認記録にも同程度のものがある。
西側でも同じ。
アリシアの対象感覚でも、確認・非確認の双方に重なる範囲が広い。
「一個だけ大きいのある」
「あります」
「これ何の記録?」
尋ねてから、アリシアは自分で止まった。
「……いや、判定はもう見えてるか」
「はい。既存判定との記述比較ですから、その範囲は開示されています」
「これだけ大きくて、東は確認されてる」
「はい」
「じゃあ大きい方が――」
また止まる。
同じ東側確認群の中には小さい値もある。
非確認群にも中程度の値がある。
「一件だけ見て言えない」
「そうです」
「外れた一件?」
「『外れ値』と定義する基準も今回固定していません」
「あ」
「目立つ一件、という記述ならできます。しかし、統計的・方法的に外れ値として除外することはしません」
「消さない」
「はい」
「邪魔だからって消したら駄目」
「そのとおりです」
アリシアは少しだけ笑った。
「邪魔って言ったら記録に怒られそう」
『紙は怒らないわよ』
「分かってる」
『でも研究者は怒るかもね』
若い観測員が苦笑する。
「記録を理由なく消されたら、私は少し怒ると思います」
「やっぱり」
◇
予定していた二項目まで見終えたところで、サーラが終了側の確認を入れた。
疲労四。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛はゼロだが、目の疲れを少し感じる。
続けたい気持ち九。
止まりにくさ七。
「今日はここまでです」
サーラが言った。
アリシアは表を見たまま返事をしなかった。
「アリシア?」
「……あと、間隔だけ」
「疲労四です」
「相談でしょ?」
「はい。相談した結果、今日は終了を勧めます」
「目が疲れてるだけ」
「それも疲労です」
「人工刺激ないよ」
「刺激がない日でも、集中し続ければ判断の質は落ちます」
アリシアは唇を結んだ。
視線はまだ表へ向いている。
自然な揺れの間隔。
総偏差。
あと二つ。
ここまで来たら見たい。
(見たい。今見ても大丈夫だと思う)
そう思う一方で、自分が「大丈夫」と言いたい理由も分かっていた。
止まりにくさ七。
その数字を自分で答えたばかりだ。
「……帰った方がいい?」
「私はそう考えます」
「明日見られる?」
「明日とは約束しません。朝の状態と予定を確認します」
「じゃあ明後日かも」
「そうですね」
「嫌」
「はい」
「でも、今日はやめる」
言葉にしたあと、アリシアはようやく表から目を離した。
「今見たら、何か見つけたくなりそう」
「それも理由になります」
「立ち上がりで、ちょっと偏って見えたのも気になってるし」
「はい」
「それと間隔をくっつけたくなるかも」
「その組み合わせは今回固定していません」
「分かってる」
アリシアは深く息を吐いた。
「だからやめる」
◇
終了前、今日の結果だけが短く固定された。
立ち上がり時間。
東側・西側・アリシアの既存対象感覚、それぞれの確認・非確認群で値域の重なりあり。
アリシアの対象感覚確認側で比較的短い値が多いように見える並びはあったが、非確認側との重複が存在し、事前固定した境界もないため、分離や閾値とは扱わない。
戻り時間。
三領域の各確認判定に対し、明瞭な分離なし。算出不能記録はそのまま保持。
固定事前区間の基準適合自然揺れ数。
確認・非確認の双方に重なりあり。少数・多数いずれでも対象反応の確認状態が一意には分かれない。
自然揺れの大きさ。
各判定群で広く重なり。一件の目立つ大きな値は存在するが、事後的に外れ値として除外しない。
自然揺れ間隔と総偏差は未開示。
「今日の時点で言えるのは?」
副学院長が尋ねる。
アリシアは少し考えた。
「見た四つ……じゃない。立ち上がり、戻り、揺れの数、大きさだから四つ」
「はい」
「その四つのどれも、一個だけで東、西、私の対象感覚の確認と非確認をきれいには分けなかった」
「はい」
「でも関係ないとは言わない」
「はい」
「立ち上がりは、私の対象感覚で少し偏って見える。でも今から線を引かない」
「はい」
「一件だけ大きい自然な揺れも消さない」
「はい」
「残り二つはまだ知らない」
「そのとおりです」
アリシアは頷いた。
「じゃあ、それで終わり」
◇
研究棟を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
外灯の光が道へ細長く伸び、吐く息がわずかに白く見える。
ノアはアリシアの横を歩きながら、しばらく何も言わなかった。
「何か言わないの?」
『何を?』
「今日は黙ってる」
『疲れてる相手に喋り続けるほど意地悪じゃないわよ』
「意外」
『戻る?』
「今のなし」
『遅い』
アリシアは少し笑った。
笑うと、自分が思ったより疲れていることが分かる。
「きれいじゃなかった」
『数字が?』
「うん」
『汚れてたの?』
「そういう意味じゃない」
『知ってる』
「分かれてなかった」
『残念?』
「ちょっと」
『七くらい?』
「今は四」
『下がったのね』
「見たから」
しばらく歩く。
「でも、変な感じ」
『何が?』
「分かれなかったのに、前ほどがっかりしてない」
『慣れた?』
「分かんない」
アリシアは夜道の先を見る。
「分かれなかったっていう結果が残るからかも」
『それも記録?』
「うん」
『便利な考え方ね』
「便利だからじゃないって」
『二回目』
「覚えてるなら言わないで」
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は共用室で紙を折っていた。
何を作っているのか分からない形だ。
アリシアが近づくと、子供が顔を上げた。
「数字見た?」
「見た」
「いっぱい?」
「半分くらい」
「半分?」
「まだ残ってる」
「分かった?」
「少し」
「何が?」
「思ってたより、きれいに分かれてなかった」
子供は紙を持ったまま首を傾げた。
「きれいじゃない?」
「数字の話」
「数字、汚い?」
ノアが横で吹き出した。
「ノアと同じこと言ってる」
「ノアも?」
『この子は賢いわね』
「絶対違う意味で言ってる」
子供はよく分からないまま笑い、紙をまた折り始めた。
アリシアもその隣へ座る。
重要な木箱は閉じたまま。
顔のない存在は夕食前の休息を取っており、十一の灯りに目立つ変化はない。
研究の数字を見た日でも、ここではいつもの時間が流れていた。
◇
その夜、アリシアは研究ノートを開いたものの、すぐには書き始めなかった。
目が少し疲れている。
だから細かな数字を全部写すのはやめた。
研究棟に正式記録がある以上、自分のノートへ無理に転記する必要はない。
代わりに、今日確認した範囲だけを短くまとめる。
『入力側固定項目探索比較・第一段階。』
『立ち上がり時間:東/西/既存対象感覚の各確認・非確認で重なりあり。既存対象感覚確認側に比較的短い値が多く見えるが、重複あり・事前境界なし。事後閾値を設定しない。』
『戻り時間:各判定で重なり。明瞭分離なし。』
『固定事前区間・基準適合自然揺れ数:各判定で重なり。』
『自然揺れ大きさ:各判定で広く重なり。目立つ一件あり。ただし外れ値基準未固定のため除外しない。』
『自然揺れ間隔・総偏差:未開示。』
そこまで書き、少し休む。
次に大切なことを書く。
『本日時点で、開示済み四項目のいずれか単独により既存確認判定を明瞭に分離する所見は確認できない。無関係とは結論しない。複数項目の事後組み合わせによる新指標は作らない。』
アリシアは筆を置いた。
(立ち上がり時間、気になる)
やはり気になる。
対象感覚が確認された側に、短い値が少し多く見えた。
しかし、重なっている。
それだけだ。
もし次の自然揺れ間隔と組み合わせれば、もっと分かれるかもしれない。
総偏差も合わせれば、さらに分かれるかもしれない。
考え始めれば、いくらでも新しい組み合わせを作れる。
(でも、それは最初に決めてない)
だから今夜は書かない。
候補として残すなら、残りの固定項目を見終えたあとで、改めて何を候補にするか決めればいい。
アリシアは研究ノートを閉じた。
◇
翌朝、身体に遅れて出た異常はなかった。
疲労二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
人工刺激を受けたわけではないので当然と言えば当然だが、前日に集中していた分、少しだけ眠気が残っていた。
研究棟からの連絡には、残り二項目をすぐに開くとは書かれていなかった。
『前日分析後の固定確認を実施。本日は追加分析なし。残余固定項目――自然揺れ間隔・総偏差――は次回状態確認後に開示予定。前日観察から新規指標・閾値を追加しない。』
「また待つ」
アリシアが呟く。
『また待ちなさい』
「分かってる」
『今日は学院』
「分かってる」
『資料修復』
「覚えてる」
『友達に、数字は汚くなかったって報告』
「それはいらない」
ノアが楽しそうに先へ歩く。
アリシアは鞄を持って、そのあとを追った。
まだ二つ、開いていない項目がある。
それを見れば何かが変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれない。
ただ、今日までに開いた数字は、アリシアが朝に少し期待していたような形には並ばなかった。
東側が反応するときだけ短い。
西側が反応するときだけ大きい。
自分が感じるときだけ揺れが少ない。
そんな簡単な線は、少なくとも今見た範囲にはない。
その事実を、残念だからといって書き換える必要もなかった。
むしろ、きれいに分かれなかったからこそ、次に開く二つへ「今度こそ」と答えを押しつけないようにしなければならない。
アリシアは学院へ続く道を歩きながら、冷たい朝の空気を吸い込んだ。
残っている数字は、まだ知らない。
だから今は、知らないままでいい。
開くと決めた日までは。




