第259話 数字を開く前に、使える記録を決める
次の研究質問として、入力側の既存固定項目を用いた探索比較を正式化する方針が決まった翌朝、アリシアはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、夜と朝の境目に残った青みがかった光が、生活観測区画の庭を静かに覆っている。前日に子供が集めた落ち葉は室内へ移されていたが、庭にはまだ赤や黄色の葉が残り、夜露を含んだ地面から湿った土の匂いがわずかに上がっていた。
身体を起こして最初に確かめたのは、いつもの状態だった。
胸に冷たさはない。
左寄りの弱い違和感もない。
痛みも息苦しさもなく、頭痛や吐き気、めまいも感じない。
眠気は少し残っているが、昨夜遅くまで研究ノートを読み返していたわけではない。むしろ、早めに閉じたからこそ目覚めが少し早くなっただけだった。
(今日は数字を見ない)
起き上がりながら、アリシアは自分に確認する。
今日の研究棟で行うのは、対象記録の範囲を決めることだ。
どの記録を入力側比較に使うのか。
どの固定項目が、どの記録で算出できるのか。
東側奥部、アリシア自身の対象感覚、西側対象反応という三つの判定のうち、どれが存在する記録を、どの比較へ使えるのか。
そして、算出不能があったときにどうするのか。
そこまでを、実際の入力側数値を開く前に決める。
昨日の話し合いでは、その方針までしか固定していない。
だから今日、研究棟へ行ったからといって、すぐに「何が違っていたのか」が分かるわけではなかった。
「早い」
共用室へ出ると、子供が椅子へ座りながら言った。
「そう?」
「まだ朝ごはん来てない」
「ほんとだ」
『あんたがこの時間に自分から起きるなんて、何か企んでる?』
窓際で身体を伸ばしていたノアが、疑うようにこちらを見る。
「何も企んでない」
『研究の日でしょう』
「放課後」
『それなのに早起き』
「たまたま」
『怪しい』
「何が」
『研究者が早起きすると、大体ろくなことがない』
「そんな決まりないよ」
『今作った』
「じゃあ使えない」
『即却下されたわ』
子供がくすくす笑う。
アリシアも椅子を引きながら笑い、朝食を待った。
少し離れた場所では、顔のない存在が職員に付き添われて朝の支度をしている。胸部の十一の灯りに新しい変化はなく、歩行の様子も普段の生活観測範囲から大きく外れていない。
重要な木箱は、今日も閉じたままだった。
子供が遊びに使っている普通の紙箱の中には、小石や木の実、短い白い紐、ノアの毛、色紙、小さな木片が残っている。昨日の落ち葉をそこへ入れるのかと思っていたが、子供は別の紙へ貼りつけたらしく、箱の中身は増えていなかった。
「葉っぱ、箱に入れなかったんだ」
「貼ったから」
「そっか」
「箱は箱」
それだけ言って、子供は朝食を運んできた職員の方へ顔を向けた。
アリシアは少しだけその言葉を考えた。
箱は箱。
紙は紙。
研究ではないのだから、分類に意味を探す必要はない。
そう思いながら、温かい朝食へ手を伸ばした。
◇
学院では、午前中に資料修復の選択授業があった。
前回は刷毛を使って、練習紙の表面にある付着物のうち、取り除いてよいものだけを落とした。
今日は机の上に、わざと折り目をつけられた紙が置かれている。
ただし、破れた紙ではない。
中央近くに一本の折れ筋があり、端の一部には少しだけ波打つような変形が作られていた。
「今日は直しません」
担当教師が最初にそう言うと、何人かの生徒が不思議そうに顔を上げた。
「修復の授業なのに?」
前方の生徒が尋ねる。
「修復するために、今日は傷み方を見ます。折れているから伸ばす、波打っているから押さえる、とすぐに作業へ入ると、かえって状態を悪化させることがあります」
教師は見本の紙を持ち上げ、光へ少し傾けた。
「同じように見える折れでも、繊維が切れているものと、まだ形だけが変わっているものでは扱いが違います。表面だけ見て判断せず、光の当たり方を変えたり、裏面を確認したり、必要なら拡大して観察します」
アリシアは自分の練習紙を持ち上げた。
正面から見ると、中央の線はただの折れ筋に見える。
しかし窓から入る光へ斜めに向けると、筋の一部だけ反射の仕方が違った。
「ここ、白く見える」
隣の生徒が呟く。
「私のも」
「切れてる?」
「分かんない」
教師が机の間を歩いてくる。
「分からないなら、そのまま記録してください。今の段階では、見えたものと判断したものを分けることが大切です」
アリシアの手が止まった。
見えたものと、判断したもの。
昨日まで研究棟で何度もしてきたことに似ている。
今度こそ研究へ結びつけそうになったが、教師は続けて紙の持ち方を説明し始めたので、アリシアもそちらへ意識を戻した。
「端を強く持つと新しい折れを作ります。両手で支えて、紙そのものの重さが一か所へ集中しないようにしてください」
言われたとおりに持ち直す。
練習紙とはいえ、乱暴に扱わない。
光へ傾け、戻し、裏返す。
裏側から見ると、中央の折れ筋は表より目立たない。波打っている部分も、光の方向を変えると凹凸が分かりやすくなった。
記録用紙には、「折れ筋あり」とだけ書かず、見えた範囲をそのまま残した。
中央より少し右から左下へ向かう一本の線。
斜光では中央付近の一部が白く見える。
裏面では同じ箇所の変色は明確でない。
端の波打ちは二か所。
教師がアリシアの記録を覗き込み、少し頷いた。
「丁寧ですね」
「直さなくていいんですか?」
「今日は直しません」
「ずっと見てるだけ?」
「今日は、です」
教師は少し笑った。
「直したくなりますか?」
「ちょっと」
「では、その気持ちも覚えておいてください。修復では、触らない方がよいと判断することも仕事です」
アリシアは練習紙へ視線を戻した。
(直せそうなのに、触らないこともある)
それは研究と同じだから大切なのではない。
資料修復そのものとして、面白いと思った。
何でも手を加えればよくなるわけではない。
残すこと。
待つこと。
観察だけで終えること。
そういう仕事もある。
授業が終わる頃には、アリシアの記録用紙は文字でかなり埋まっていた。
◇
昼休み、友人はその紙を見て目を丸くした。
「修復したの?」
「してない」
「こんなに書いたのに?」
「観察だけ」
「何それ。私だったら早く直したい」
「私も言った」
「先生、何て?」
「触らない方がいいこともあるって」
「難しそう」
「でも面白かった」
「アリシア、そういうの好きそう」
「そう?」
「ずっと紙見てられるじゃん」
「ずっとは無理」
「研究の紙はずっと見てるくせに」
「それは……」
言い返せず、アリシアは弁当箱へ視線を落とした。
友人が笑う。
「今日は研究行くんでしょ?」
「うん」
「何するの?」
「使う記録決める」
「昨日決めたんじゃないの?」
「昨日は、何を調べるか決めた」
「今日は?」
「どの記録を使うか決める」
「で、その次は?」
「比べ方をちゃんと決めるかも」
「で、その次にやっと見る?」
「たぶん」
友人はしばらく無言でアリシアを見つめた。
「研究って遅いね」
「最近、私もそう思う」
「嫌じゃないの?」
「嫌なときもある」
「じゃあ何で待つの?」
アリシアは少し考えた。
「先に見ちゃったら、見たものに合わせて決めそうだから」
「アリシアが?」
「うん」
「先生たちも?」
「たぶん。だからみんなで先に決める」
「大変」
「大変」
「でも今日、数字見ないんでしょ?」
「見ない」
「絶対?」
「……たぶん」
「怪しい」
「見ないよ」
友人が笑いながら、自分の弁当のおかずを一つ口へ運ぶ。
「帰ってきたら、見なかったか教えて」
「何で」
「賭けるから」
「何を?」
「アリシアが我慢できたか」
「誰と賭けるの」
「私と私」
「意味ないよ」
「じゃあ絶対勝てる」
「どっちが?」
「どっちでも」
理屈はよく分からなかったが、アリシアは笑った。
研究棟へ行く前の昼休みが、数字や波形の話だけで終わらなかったことにも少し安心した。
◇
放課後の研究棟。
会議室へ入る前に、いつもの状態確認が行われた。
疲労二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
怖さ一。
参加したい気持ち八。
入力側の数値を見たい気持ち九。
今日の作業だけで止まれると思う気持ちは七。
止まりにくさは四。
「昨日より少し高いですね」
サーラが言う。
「何が?」
「数値を見たい気持ちです」
「昨日も高かったよ」
「今日は九です」
「決めるところまで来たから」
「なるほど」
「でも今日は見ない」
「はい。その予定です」
「もし使う記録がすぐ決まったら?」
「それでも見ません」
「……分かってる」
少し不満そうに答えたアリシアを見て、サーラは笑わずに頷いた。
こういうとき、軽くからかわれるより、そのまま受け取ってもらえる方が楽だった。
◇
会議室の机には、今日は数値表がなかった。
代わりに置かれているのは、記録群の役割だけを書いた一覧だった。
個々の入力側数値は伏せられている。
東側奥部対象反応、アリシアの対象感覚、西側対象反応についても、今日必要な範囲を除き、具体的な結果はまだ表示されていない。
副学院長が全員を見回した。
「今日の目的は、昨日決めた入力側探索比較について、対象記録の範囲と使用可能な判定を固定することです。入力側の実数値は開きません」
「はい」
アリシアは頷いた。
「まず、混同を避けるために既存記録群を整理します」
若い観測員が一覧の上段を示す。
「過去の比較可能な意図的小変動条件として管理されている八件」
アリシアも知っている。
その八件には、既存の対象感覚を含む三領域の反応が確認された六件と、対象とする三領域の反応が確認されなかった二件がある。
ただし、その八件すべてが後の時間窓比較に使われた七件と同一ではない。
役割が違う記録群を、数字だけで一つにまとめてはいけない。
「次に、三領域一致を前向きに確認するために行った記録」
そこには二件ある。
一件は東側奥部、アリシアの対象感覚、西側対象反応の三つすべてが確認された。
もう一件は、東側と西側は確認されたが、アリシアの既存対象感覚は確認されず、代わりに閾値未満の弱い胸部異常が報告された。
「次に、東側と西側の確認判定一致を主質問とした専用前向き記録」
最初の一件では東側と西側がともに確認。
その後に固定した追加二実施試行では、一件目が両側とも非確認、二件目が東側確認・西側非確認。
追加二件は予定どおりそこで終了している。
アリシアは一覧を見ながら眉を寄せた。
「これ、全部入れたら同じ試験みたいに見えない?」
「そこが今日の重要な点です」
副学院長が答える。
「入力側項目を横断して記述することはできます。しかし、設計上の役割を消して一つの系列として扱うことはしません」
「八件と、前向き二件と、専用三件を足して十三件、とか言わない?」
「単純な十三件の一系列とは扱いません」
「よかった」
アリシアは少し息を吐いた。
「ただし、固定済み入力項目が同一方法で算出可能で、特定の記述比較に利用できる場合には、設計群を明示したまま横に並べることは検討します」
「混ぜないけど、並べる」
「そうです」
◇
最初に決める必要があるのは、何を「入力側の記録」として比較対象にするかだった。
魔導具担当教師が説明する。
「現在固定されている入力側項目は、意図的小変動そのものに関する項目と、その直前区間に含まれる自然な揺れに関する項目があります」
紙へ項目が並べられる。
意図的小変動の立ち上がり時間。
戻り時間。
固定された入力前区間に存在する、基準を満たす自然な揺れの数。
その大きさ。
算出可能な場合の自然な揺れ間隔。
そして、基準からの総偏差。
「前に決めたやつ」
アリシアが確認する。
「はい。今回、新しい入力指標は追加しません」
「形が丸いとか尖ってるとかも?」
「入れません」
「自然な揺れの間隔は、揺れが一個しかなかったら?」
「算出不能です」
「ゼロじゃない」
「はい。ゼロではありません」
「時間を広げて二個目を探さない」
「しません」
「大きさが小さいのを無理に数えない」
「既存の最低振幅基準と回復幅基準をそのまま使います」
アリシアは頷いた。
以前決めた規則を、今回の結果に合わせて変えない。
ここまでは分かりやすい。
「総偏差は?」
「これも既存の補助項目です。今回だけ新しく主項目へ昇格させることはしません」
「補助のまま」
「はい」
「じゃあ、立ち上がり時間と戻り時間と、自然な揺れの数と大きさと、計算できるなら間隔。それと総偏差」
「そのとおりです」
記録担当職員が固定候補欄へ書き込む。
◇
次は、どの記録群でそれらの項目を算出できるかだった。
「過去八件は全部ある?」
アリシアが尋ねる。
「まだ個別の数値は開きませんが、記録の存在確認だけを行った担当から、項目ごとの算出可能性は報告されています」
「結果を見ない人?」
「少なくとも、算出可能性の確認に必要のない対象反応判定は伏せています」
「うん」
若い観測員が算出可能性だけを記した表を開く。
意図的小変動の立ち上がり時間と戻り時間については、対象となる記録の多くで算出可能。
自然な揺れの数と大きさについても、固定事前区間が十分残っている記録では算出できる。
ただし、一部の古い記録では、現在の固定方法をそのまま適用するために必要な記録密度が不足している。
自然な揺れ間隔については、記録が十分でも、固定基準を満たす揺れが二つ未満なら算出不能になる。
「また使えないのある」
アリシアの眉が寄る。
「あります」
「何件?」
「項目によって異なります」
「全部の項目が揃ってない記録は外す?」
副学院長が首を横へ振った。
「そこを今決めます」
アリシアは考えた。
全部揃っている記録だけを残せば、表はきれいになる。
でも、その条件を今作ると、必要以上に記録を捨てるかもしれない。
「項目ごとに使える記録を使う?」
「その案があります」
「でも、そうすると立ち上がり時間の比較と、自然な揺れ間隔の比較で件数が違う」
「はい」
「それは悪い?」
「悪くありません。むしろ、欠測をゼロや平均値で埋めるより明確です」
「じゃあ、全部揃ってることを条件にしない方がいい」
若い観測員が問い返す。
「理由は?」
「立ち上がり時間がちゃんと残ってるのに、自然な揺れ間隔が計算できないからって、その立ち上がり時間まで捨てる必要ないと思う」
「妥当です」
「ただし、項目ごとに何件使ったか残す」
「はい」
「算出不能は算出不能」
「はい」
「ゼロにしない。代わりの時間を探さない。ほかの記録を足して数を合わせない」
「その規則で固定できます」
アリシアは少し満足そうに頷いた。
◇
次に難しかったのは、三領域の判定だった。
「入力側の違いを見るなら、何と比べる?」
アリシアが尋ねる。
紙には三つの名称が書かれる。
東側奥部対象反応。
アリシアの既存対象感覚。
西側対象反応。
「三つ全部?」
「一つの判定へまとめず、まず別々に扱う案が妥当だと考えています」
副学院長が答える。
「東が確認された記録とされなかった記録で入力項目の分布を見る。西も同じ。私の感覚も同じ?」
「はい。ただし、あなたの弱い胸部異常報告は既存対象感覚の確認とは別です」
「そこ混ぜない」
「はい」
「じゃあ、弱い胸の変なのがあった三件だけ、別の印つける?」
若い観測員はすぐには答えなかった。
「それを今回の主比較へ入れるかどうかは慎重に決めた方がよいと思います」
「何で?」
「今回の問いは、すでに固定されている三領域の既存確認判定に対する入力側分布を見ることから始まりました。弱い胸部異常三件を独立した第四の判定として加えると、三件が揃った後に生じた分類を今回へ追加することになります」
「あ……」
アリシアは口を閉じた。
見たい。
かなり見たい。
三件の弱い違和感が出たとき、入力側に共通点があるのか。
昨日から考えていたことの一つだ。
(でも、それを今入れたら、三件が出たから作った比較になる)
「別にした方がいい?」
「少なくとも今回の最初の固定比較とは分ける方が、由来は明確になります」
「じゃあ入れない」
答えたあと、アリシアは少しだけ苦い顔をした。
「……すごく見たいけど」
「候補として残すことはできます」
「残す」
「はい」
「絶対消さないで」
『そこだけ勢いがすごいわね』
ノアが机の端から言う。
「だって見たい」
『分かったから。紙に書いてもらいなさい』
記録担当職員が実際に「弱い胸部異常報告三件と入力側固定項目の探索比較――別候補」と記した。
アリシアはそれを確認してから、ようやく背もたれへ身体を預けた。
◇
さらに、三領域の「一致」というまとめ方を今回使うかどうかも議論された。
「全部確認か、全部非確認か、混ざったかっていうのは?」
アリシアが尋ねる。
「既存の前向き三領域質問では、主判定として使用しました」
「今回も使える?」
「使えますが、注意が必要です」
「何?」
「過去八件は、その三領域一致を主質問として設計された系列ではありません。また、専用東西記録ではアリシアの対象感覚が主判定から外れています」
「同じ『一致』でも役割が違う」
「はい」
アリシアは紙の上で指を止めた。
「じゃあ今回、三領域一致で全部まとめない」
「私もその方がよいと思います」
「東は東。西は西。私の対象感覚は対象感覚」
「はい」
「それぞれの記録で、その判定がちゃんとあるときだけ使う」
「はい」
「専用東西記録は、東と西には使える。でも私の対象感覚を主判定みたいにはしない」
「既存対象感覚の記録自体は副次記録として存在しますが、設計上の役割を明示して扱う必要があります」
「じゃあ、使うとしても別に分かるようにする」
「その方針で固定しましょう」
少しずつ、比較の輪郭が見えてきた。
全部を一つにすれば簡単だ。
件数も増える。
数字も並べやすい。
でも、それでは何のために取られた記録なのかが消えてしまう。
アリシアは以前なら、記録が多い方が強いと思っていたかもしれない。
今は違う。
数が増えても、違う役割のものを無理に一つへまとめれば、かえって分からなくなる。
◇
休憩を挟んだあと、最後に対象範囲そのものを文章へ落とし込む作業へ入った。
副学院長が仮文を読み上げる。
「『既存の比較可能な意図的小変動条件記録のうち、入力側固定項目を既定方法で算出可能な記録を、元の設計群を保持したまま項目別に対象とする』」
アリシアが手を上げる。
「比較可能って、誰が決めるの?」
「既存の記録管理上、意図的小変動条件として比較対象に置かれているものです。今回の結果を見て新しく選び直しません」
「八件と、前向き二件と、専用の三件?」
「現時点では、その三つの設計群が中心です。ただし、同一の入力側固定項目を適用できない記録は、その項目について算出不能です」
「AからIの九件は?」
「主観報告を基点に抽出された記録群です。今回、それ自体を独立した入力条件系列として追加することはしません」
「同じ元記録が入ってる可能性もある?」
「あります。対応関係を開かずに九件を別の九件として加えると重複の危険があります」
「じゃあ入れない」
「はい」
「時間窓の七件も?」
「同様です。あれは時間配置を検討するための選択集合です。今回の入力側対象群へ『七件』として追加しません」
「よかった」
アリシアは本当に安心した。
八。
七。
九。
二。
三。
数字だけ見ていると、どれがどれだったか分からなくなる。
しかも一部は同じ元記録を別の目的で見ている可能性がある。
「同じ記録を二回数えるの、嫌」
「当然避けます」
「元の記録識別は先生たちだけ見る?」
「必要な照合担当だけが確認し、分析表では設計群と記録単位を重複なく管理します」
「私は?」
「必要なら識別記号は見られますが、今は入力側数値と結果判定を同時に開かないため、役割だけを確認しています」
「うん」
◇
次に、算出不能の扱いが正式に文章化された。
『各固定入力項目は、既定方法で算出可能な記録のみ当該項目の記述比較へ使用する。』
『算出不能はゼロとして扱わない。』
『算出不能を理由に固定区間を延長・移動しない。』
『不足値を別記録・推定値・平均値で補完しない。』
『一項目が算出不能でも、他項目が既定方法で算出可能なら、その記録を他項目の比較から除外しない。』
『項目ごとに使用可能記録数と算出不能数を明示する。』
アリシアは一文ずつ確認した。
「これなら、使えないのがあっても穴のまま残る」
「はい」
「前みたいに」
「そうです」
「穴があると気になるけど」
「埋めるために規則を変えるよりはよいでしょう」
「うん」
アリシアは昨日見た、東側事前状態比較で算出不能だった一件を思い出した。
あの記録も、別の区間を使えば何か計算できたかもしれない。
でも、それをしなかった。
今回も同じだった。
◇
最後に、結果をどう表現するかが話し合われた。
「明瞭に分かれたら?」
アリシアが尋ねる。
「まずは、どの項目でどの判定群の分布がどの程度重なったかを記述します」
「原因とは言わない」
「はい」
「分かれなかったら?」
「『当該固定入力項目だけでは、既存確認判定を明瞭に分離する分布は確認できなかった』程度でしょう」
「関係ないとは言わない」
「はい」
「一個だけすごく違うのがあったら?」
「その一件を見て新しい境界値を作りません」
「例えば、これより上なら反応するとか」
「今回の記録を見てから閾値を設定し、それを同じ記録へ当てはめて確認したことにはしません」
「候補にはできる?」
「できます。ただし別の候補です」
「また候補増える」
『おめでとう』
「嬉しくない」
『でも残すんでしょう?』
「残す」
『でしょうね』
ノアが尻尾を机へ一度だけ当てた。
◇
話し合いが終わる頃には、窓の外が夕暮れ色へ変わっていた。
人工刺激はない。
波形も開いていない。
入力側の実数値も一つも見ていない。
それなのに、アリシアは思っていた以上に疲れていた。
終了時の確認では、疲労四。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
怖さ一。
数値を今すぐ見たい気持ちは九。
続きを止めにくい気持ちは六。
「疲労四」
サーラが確認する。
「うん。頭使った」
「今日はここで終了しましょう」
「数値、一個だけでも?」
口から出た瞬間、アリシアは目を閉じた。
「……今のなし」
副学院長が笑う。
「聞かなかったことにはしません。見たい気持ちが九であることと一致していますから」
「でも見ない」
「はい」
「一個見たら、たぶん全部見たくなる」
「私もそう思います」
「じゃあ帰る」
アリシアは椅子から立ち上がり、机の上の紙をもう一度だけ見た。
数値はない。
今日決めた規則だけがある。
それでよかった。
◇
研究棟を出たところで、ノアが隣から見上げた。
『見なかったわね』
「見なかった」
『友達との賭け、勝ち?』
「何で知ってるの?」
『昼にあんたが話してたでしょう』
「聞いてたの?」
『同じ教室にいたんだから聞こえるわよ』
「私と私で賭けるって言ってた」
『ならあの子はどっちに賭けたのかしら』
「両方じゃない?」
『賭けになってないわね』
「最初からそう言ってる」
アリシアは少し笑った。
けれど、数歩進むとまた研究のことを考えた。
「ノア」
『何?』
「十三件って言わなくてよかった」
『急に何の話?』
「八件と二件と三件」
『ああ』
「足したら十三だけど、そうしたら全部同じみたいになる」
『数字は便利だけど、何を数えた数字か忘れると面倒ね』
「うん」
『猫一匹と人間一人を足して二人とは言わないでしょう』
「二人じゃないね」
『でも二つの生き物ではある』
「それ、分かりやすいかも」
『珍しく褒められた』
「珍しくは余計」
ノアは満足そうに尻尾を立てた。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は昨日の落ち葉の紙を壁際の棚へ置いていた。
赤い葉は少し色が落ち着き、端が丸まっている。
「今日、数字見た?」
子供が尋ねる。
アリシアは驚いた。
「何で知ってるの?」
「朝、見ないって言ってた」
「言ったっけ?」
「言ってない」
「じゃあ何で?」
「顔」
『ほら、研究したい顔って分かるのよ』
ノアが得意そうに言う。
「そんな顔ないよ」
「ある」
「どんな?」
子供は少し考えてから、眉間へぎゅっと皺を寄せた。
アリシアは思わず笑った。
「そんな顔してない」
「してる」
『してるわね』
「二人ともひどい」
「数字見た?」
「見てない」
「何したの?」
「どの記録使うか決めた」
「決めただけ?」
「うん」
「長かった?」
「長かった」
「何で?」
アリシアは説明しようとして、やめた。
八件と二件と三件。
重複。
設計群。
項目別算出可能性。
子供に必要な話ではない。
「間違えて同じの二回数えたり、使えないのを使ったりしないように」
「ふうん」
子供はそれだけで納得し、床の積み木へ戻った。
アリシアも隣へ座る。
顔のない存在は少し離れた場所で休んでおり、胸部の灯りに変化はない。
重要な木箱も閉じたまま。
今日は何も新しく開けない日だった。
◇
夕食後、自室でアリシアは研究ノートを開いた。
昨日の仮質問の下へ、今日固定した内容を書いていく。
『対象設計群は、既存の比較可能な意図的小変動八件、三領域前向き記録二件、専用東西前向き記録三件を、元の設計役割を保持したまま扱う。単純な一系列十三件として統合しない。』
次に、はっきり書く。
『A〜Iの九記録は主観報告基点の既存集合であり、今回の入力側対象群へ独立系列として追加しない。時間窓比較七件も同様に追加しない。元記録重複を避ける。』
その下へ固定入力項目。
『立ち上がり時間。戻り時間。固定事前区間の基準適合自然揺れ数・大きさ。算出可能時の自然揺れ間隔。基準からの総偏差は既存補助項目として保持。新規局所形状指標は追加しない。』
さらに、算出不能規則を書く。
『項目ごとに既定方法で算出可能な記録のみ使用。算出不能=ゼロではない。区間延長・移動、推定補完、平均値補完、代替記録追加なし。一項目の欠測を理由に他の算出可能項目まで除外しない。』
そして判定。
『東側奥部対象反応、既存対象感覚、西側対象反応を原則別々に記述する。設計群の役割を保持する。三領域一致へ一括統合しない。』
『弱い胸部異常報告三件を第四判定として今回へ後付けしない。入力側固定項目との比較は別候補として保持。』
最後の一文を書いたところで、アリシアは筆を止めた。
(見たかった)
弱い胸部異常三件と入力側の違い。
できれば今日、そのまま入れたかった。
けれど、それを加えれば、三件が出たあとに作った分類を、以前から決まっていた比較のように扱ってしまう。
見てはいけないわけではない。
別に見ればいい。
その違いが、以前よりはっきり分かるようになっていた。
アリシアはもう一つ書き足した。
『今回の比較で明瞭な分離が見えても因果とはしない。見えなくても無関係とはしない。結果後に閾値・新指標を作り、同じ記録で確認済みとは扱わない。』
筆を置く。
今日も答えは出ていない。
数字すら見ていない。
それでも、次に数字を開いたとき、どこまでなら見てよいのかは決まった。
◇
翌朝、研究棟から届いた確認書には、昨日の内容が簡潔にまとめられていた。
『入力側固定項目探索比較――対象設計群・項目別算出不能規則・判定別記述方針を固定。実数値未開示。次回、算出可能性のみ独立確認後、固定項目を開示予定。人工刺激なし。』
アリシアは最後まで読んでから、眉を寄せた。
「次回、すぐ数字じゃない」
『算出可能性のみ独立確認後、って書いてあるわね』
「また待つ」
『昨日、自分で決めたでしょう』
「決めたけど」
『嫌?』
「嫌」
『やめる?』
「やめない」
ノアが小さく笑った。
『なら学院行きなさい』
「分かってる」
アリシアは確認書を鞄へしまい、学院用の教科書をその上へ入れた。
次に開く数字が、自分の望む形をしているかは分からない。
入力側のどの項目にも明瞭な違いがないかもしれない。
どれか一つだけ、妙に分かれて見えるかもしれない。
算出不能が思ったより多いかもしれない。
それでも、数字を見てから使える記録を選び直すことはしない。
先に決めた範囲の中で、見えるものを見る。
見えないものは、見えないまま残す。
そして、そこから新しく気づいたことがあれば、それは次の候補として別に扱う。
玄関を出ると、朝の空気は昨日より冷たかった。
アリシアは制服の襟元を少し整え、学院へ続く道を歩き始める。
数字を開く日は、もう近い。
だからこそ、その前に決めておかなければならないことを、もう変えない。
その準備だけは、きちんと終わっていた。




