第258話 次に見るものを、結果から選ばない
東側奥部の事前状態について、固定していた二項目の比較を終えた翌朝、アリシアは研究棟から届いた短い連絡紙をもう一度読んだ。
『東側事前状態・固定二項目による群間記述比較を終了。追加指標は現比較へ導入しない。次の研究質問は未決定。』
昨日も読んだ文章なので、内容が変わるはずはない。それでも最後の「未決定」という文字を見ると、胸の奥に小さなむず痒さが残った。
知りたいことならいくつもある。
三件の弱い胸部異常報告は、本当に同じ種類の感覚なのか。
最初の一件にだけ温度を意識させる言葉が含まれていたのはなぜか。
東側と西側の対象反応が一致した記録と、一致しなかった記録には何が違っていたのか。
人工的に加えた小さな変動の細かな違いは関係しているのか。
東側奥部の平均傾きと変動性だけでは見えなかった何かが、局所的な波形の形には残っているのか。
そして、それらのどこに自分が関わっているのか。
けれど、知りたい順に調べればいいわけではないことも、今のアリシアは知っていた。
(見たいものと、次に見るべきものは同じじゃない)
連絡紙を折り、研究用の鞄へ入れる。
今日は研究棟へ行く予定がない。
学院の通常授業を受け、放課後は生活観測区画へ戻るだけだ。
次の研究質問について話し合うのは、その翌日の放課後と決まっている。
「まだ見てる」
共用室へ入ると、子供がすぐに気づいた。
「何を?」
「研究の紙」
「もう終わったやつ?」
「昨日の比較は終わったよ」
「じゃあ捨てる?」
「捨てない」
「終わったのに?」
「記録だから残す」
子供は朝食の皿を前にしたまま、しばらくアリシアの鞄を見た。
「積み木は終わったら片づけるよ」
「それはまた出せるでしょ」
「紙もまた出す?」
「出すかも」
「じゃあ同じ」
「……少し違う気もするけど」
『朝から分類論争を始めないでくれる?』
椅子の下で丸くなっていたノアが顔を上げる。
「始めてない」
『その顔は始める寸前よ』
「どんな顔?」
『研究者に片足突っ込んだ学生の顔』
「片足だけ?」
『両足って言ったら怒るでしょう』
「学生だから」
『ほら』
子供が笑い、アリシアも言い返すのを諦めて席へ着いた。
窓の外には薄い雲が広がっている。雨になるほど暗くはないが、昨日より日差しは弱く、開けた窓から入る風には少し湿り気があった。
顔のない存在は職員と一緒に朝食を終えたところで、胸元の十一の灯りに目立った変化はない。重要な木箱も保管場所から動いておらず、普通の紙箱は子供の椅子の近くに置かれている。
研究の次の問いが決まっていないからといって、周囲のすべてが止まっているわけではなかった。
◇
学院へ向かう道では、ノアも珍しく研究の話をしなかった。
道端の植え込みには昨夜の湿気が残り、風が吹くたびに葉の裏側が白っぽく返る。前を歩く学生たちは試験や選択授業の話をしており、後ろからは誰かが寝坊したらしいという笑い声が近づいてきた。
校門をくぐる直前、アリシアはようやく研究のことを口にした。
「ノアなら、次に何見る?」
『知らない』
「すぐ答えた」
『私に聞く質問じゃないもの』
「候補はあるよ」
『でしょうね』
「入力の細かい違いとか、局所的な波形の形とか」
『だから?』
「どっちがいいと思う?」
ノアは歩みを止めず、尻尾だけを小さく揺らした。
『あんたがどっちを見たいかなら聞けるけど、どっちを研究すべきかは答えないわよ』
「何で?」
『私が答えたら、あんたがそれを気にするでしょう』
アリシアは一歩遅れた。
ノアが振り返る。
『何よ』
「ちゃんと考えてたんだ」
『失礼ね。私はいつも考えてるわよ』
「寝ながら?」
『猫は寝ながらでも賢いの』
「それは嘘だと思う」
『証明してから言いなさい』
「そういうところだけ研究っぽくするのやめて」
ノアは鼻を鳴らして先へ進んだ。
けれど、アリシアの中には最初の言葉が残った。
ノアが答えれば、自分は気にする。
研究担当者の表情や立ち位置を手がかりにしてしまうことと、少し似ている。
誰かの期待は、言葉にされれば自分の期待にも混ざる。
(聞かない方がよかったのかも)
そう思ったが、ノアはすでに答えなかった。
だから、まだ何も決まっていない。
◇
午前の授業では、魔法史の教師が古い防護術式について説明していた。
現在ではほとんど使われない形式の術式で、複数の魔力線を重ねることで一定方向からの衝撃を散らす仕組みらしい。
黒板には複雑な図が描かれている。
アリシアは途中まで真面目に写していたが、隣の生徒が小さくため息をついた。
「分かる?」
「途中まで」
「どこまで?」
「ここ」
「私より前じゃん」
「ここから分かんない」
「じゃあ同じ」
「同じじゃないでしょ」
「最終的に分かってないなら同じ」
少し乱暴な理屈だった。
前方の席から別の生徒が振り返り、「静かにしないと先生来るよ」と囁く。
三人とも黒板へ向き直ったところで、教師がちょうどこちらを見た。
「そこ。分からないなら質問してください」
アリシアの隣の生徒が固まる。
「えっと……」
「どこが分かりませんか?」
「……全部です」
教室のあちこちから笑いが漏れた。
教師は呆れた顔をしながらも怒らず、術式の中央部分を指した。
「では全部ではなく、ここからやり直しましょう。最初の線が何をしているかは分かりますか?」
「衝撃を受ける?」
「正確には受けた力を隣へ逃がす準備です」
説明が始まり、アリシアも筆を持ち直した。
一つずつ確認すると、先ほどより理解できる。
全部分からないように見えても、分かるところまで戻ればいい。
それを研究へ結びつけそうになり、アリシアはまた自分で止めた。
(今日は授業)
黒板へ集中する。
その日の午前は、それで十分だった。
◇
昼休みになると、友人が机を寄せてきた。
「明日、研究?」
「うん。次に何調べるか話す」
「まだ決まってなかったんだ」
「昨日見た結果から、そのまま次を決めないことにしたから」
「何で?」
「結果見てから、そこに合いそうなの選ぶの嫌だから」
「合いそうなの選んだ方が当たりそうじゃない?」
「当たりそうに見えるだけかもしれない」
友人は弁当箱の蓋を開けながら、少し考え込んだ。
「難しい」
「うん」
「私なら、当たりそうなのからやる」
「普通はそう思うよね」
「アリシアは違うの?」
「私もやりたい」
「じゃあやればいいじゃん」
「だから駄目なんだよ」
「もっと分かんなくなった」
友人は笑いながら匙を取った。
「で、何が候補なの?」
「入力の細かい違いを見るのと、東側の波形の形を見るの」
「どっちが見たい?」
「両方」
「一個なら?」
アリシアは答えかけて止まった。
昨日までなら、局所的な波形の形と言ったかもしれない。
平均傾きと変動性で分けられなかったから、その中にもっと細かな違いがあるのではないかと思っている。
しかし、それこそ結果を見てから生まれた強い興味だった。
「……今は言わない方がいいかも」
「何で私に?」
「言ったら自分でもそっちに引っ張られそう」
「私は研究の先生じゃないよ」
「分かってる。でも口にすると、もっと見たくなるから」
「じゃあ聞かない」
友人はあっさり引いた。
そのまま食事を続け、少ししてから別の話題を持ち出す。
「次の資料修復、何やるの?」
「まだ分からない。たぶん刷毛の続きか、紙の傷み方」
「染色は試し染めするって」
「買った布?」
「うん。いきなり全部染めないで端だけ使うんだって」
「へえ」
「失敗したら笑わないでよ」
「見てないから笑えない」
「そういう意味じゃない」
友人の頬が少し膨らむ。
アリシアは笑いながら謝った。
研究の候補は頭の隅に残っている。
けれど、昼休みの中心にはならなかった。
◇
放課後、アリシアはまっすぐ生活観測区画へ戻った。
研究棟へ寄る必要はない。
途中で何度か研究棟へ続く道が視界に入ったものの、足を向けることもなかった。
『寄らないの?』
ノアが意地悪そうに尋ねる。
「予定ないもん」
『偉い偉い』
「その言い方嫌」
『じゃあ、普通』
「それも嫌」
『面倒ね』
生活観測区画へ戻ると、子供は職員と一緒に庭にいた。
地面には小さな枝や落ち葉が散らばっている。雨のあとで土が柔らかくなっているため、植え込みの近くへ入りすぎないよう範囲を決めて遊んでいた。
「何してるの?」
「葉っぱ集めてる」
「何に使うの?」
「まだ決めてない」
「集めてから?」
「うん」
アリシアは一瞬だけ口を開きかけた。
集めてから使い方を決める。
研究なら、少し危ない。
でもこれは研究ではない。
「いっぱいあるね」
代わりにそう言うと、子供は嬉しそうに両手の葉を見せた。
「赤いのもある」
「きれい」
「これ持ってて」
「いいよ」
アリシアは渡された葉を受け取った。
濡れてはいないが、少し冷たい。
茶色、黄色、赤。
形も大きさも違う。
子供はさらに二枚拾い、アリシアの手へ重ねた。
「重い?」
「全然」
「もっと?」
「まだ持てる」
『そのうち顔が見えなくなるくらい積まれるわよ』
「そんなに拾わないよ」
「拾う」
「拾うの?」
「いっぱい」
ノアの予想が当たりそうだった。
◇
翌日の放課後。
研究棟へ向かうアリシアの足取りは、少しだけ速かった。
学院で一日過ごしたあとでも疲労感は強くない。昼食も普段どおり食べ、胸部異常や頭痛もなかった。
研究棟へ到着すると、サーラがいつもの確認を行った。
疲労二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
怖さ一。
参加したい気持ち八。
次の問いを決めたい気持ち九。
今すぐ新しい記録を見たい気持ちは八。
「今日は記録を開く予定ではありません」
サーラが確認する。
「うん。決めるだけ」
「決めたあと、見たくなると思いますか?」
「なると思う」
「その場合は?」
「今日は見ない」
「止まりにくさは?」
「今は三。でも決まったら上がるかも」
「分かりました」
その答えも記録された。
◇
会議室には、前回までの比較表が置かれていなかった。
机の中央にあるのは一枚の紙だけだ。
そこには結果ではなく、今後扱える候補が記されていた。
一つ目は、人工入力側の既存固定項目を用いた探索比較。
二つ目は、東側奥部の局所波形形状について、新しい探索質問を事前に定義してから行う比較。
三つ目は、三件の弱い胸部異常報告そのものについて、現在までに固定した記述項目以外の比較軸を追加する必要があるか検討すること。
四つ目は、専用東西前向き記録で生じた一致・不一致を、今後新たな独立系列で再検討するための設計だけを考えること。
どれも候補であり、採用はされていない。
「今日はこの中から選ぶ?」
アリシアが尋ねる。
副学院長は首を横へ振った。
「いきなり選びません」
「じゃあ何するの?」
「まず、各候補がいつ生まれたものかを分けます」
「いつ?」
「現在の結果を見る前から存在した候補か、結果を見たことで新しく強く意識された候補かです」
アリシアは一枚の紙を見つめた。
「あ」
「意味は分かりますか?」
「結果から選ばないため?」
「それもあります。ただし、結果を見たあとに思いついた候補が悪いわけではありません」
「次の問いにするなら使っていい」
「はい。問題は、それを以前から予定していた確認のように扱うことです」
「後から思いついたのに、『最初からこれを見たかった』みたいにしない」
「そのとおりです」
若い観測員が別の紙を出した。
「そこで、候補の由来を整理しました。ただし、採用順位ではありません」
人工入力側の既存固定項目は、今回の東側事前状態比較より前から候補として残っていた。
局所波形形状も以前から探索候補ではあったが、平均傾きと変動性で明確な分離が見えなかったことで、アリシアを含む複数の参加者が改めて強く意識している。
三件の弱い胸部異常報告に新たな比較軸を加える案は、三件目が得られたあとに生じた候補であり、現在の比較項目を超えるなら新規の方法固定が必要になる。
東西一致・不一致を新たな前向き系列で再検討する案は、最後の専用試行で初めて不一致が記録されたあとに生じた候補だった。
「つまり、全部同じじゃない」
アリシアが言う。
「はい」
「入力の細かい違いは、前から見たいって言ってた」
「そうです」
「波形の形も前から候補ではあったけど、今の方が見たくなってる」
「はい」
「三件の別の比べ方は、三件揃ってから」
「はい」
「東西をもう一回やるのは、不一致が出てから」
「そうです」
アリシアはしばらく黙った。
四つ並んでいると、全部が同じような「次の候補」に見えていた。
けれど、生まれた時期が違う。
何を見た結果として生まれたのかも違う。
「じゃあ、一番前からあった入力を見る?」
口にした直後、アリシアは少し眉を寄せた。
「……それも単純すぎる?」
「悪い選び方ではありませんが、『古い候補だから優先』という規則を新しく作る必要はありません」
「そっか」
「候補がいつ生まれたかは、その証拠上の位置づけを明確にするためです。優先順位そのものは、別に考える必要があります」
「じゃあ何で決める?」
副学院長が答える。
「今ある記録だけで安全に検討できるか。新しい人工刺激が必要か。問いを結果から独立して定義できるか。そして、得られる答えが何を言えて何を言えないのか。そのあたりでしょう」
「一個ずつ?」
「一個ずつです」
ノアが机の端で欠伸をした。
『候補を選ぶための候補条件まで増えたわね』
「でも必要」
『否定はしてないわよ。ただ、紙が増える理由はよく分かった』
「ノアは紙使わないもん」
『猫だからね』
「便利」
『でしょう?』
◇
最初に検討されたのは、専用東西前向き記録の新しい系列だった。
アリシアが最も気にしているものの一つだ。
元の専用記録では東側と西側がともに確認。
その後、あらかじめ二回だけと固定して追加された試行では、一回目が東側・西側ともに非確認。
二回目が東側確認、西側非確認。
追加二回はそこで終了している。
「これ、もう一回やったら分かること増える」
アリシアが言う。
「増えます」
「でも、新しい人工刺激が必要」
「はい」
「今の追加二回には足せない」
「はい。行うなら別系列です」
「何回やるかも先に決める」
「必要です」
「不一致がもう一回出るまで、とかは駄目」
「はい」
アリシアは腕を組まず、机の下で両手を重ねた。
「今すぐじゃない方がいい?」
「安全面だけなら、今後状態が整った日に新しい計画を立てること自体は可能です」
「でも?」
「現在、まだ既存記録だけで検討できる候補があります」
「人工刺激しなくていい方から?」
「必ずそうしなければならないわけではありません。ただ、追加の身体負担を伴わずに得られる情報が残っているなら、それを考慮する理由はあります」
アリシアは頷いた。
「じゃあ東西の新しい試験は、候補のまま」
「それでよいですか?」
「うん。消さない。でも今は選ばない」
◇
次に、三件の弱い胸部異常報告へ新しい比較軸を追加する案が検討された。
「今まで何を比べた?」
アリシアが確認する。
若い観測員が既存の項目を読み上げる。
身体部位・位置表現。
強度表現と数値。
温度に関する語の有無、および断定か留保か。
持続・減弱・消失に関する表現。
痛みと息苦しさ。
既存対象感覚の確認・非確認。
自発的な報告開始時の言葉。
そして、別枠として固定方法による時間配置。
「かなりある」
「はい」
「ほかに何を足す?」
「現時点で、明確に必要だと決まった項目はありません」
「じゃあ、足すために探すことになる?」
「その危険があります」
アリシアは三件の言葉を思い出した。
似ている部分がある。
違う部分もある。
それ以上に細かく分ければ、もっと似ているところも、もっと違うところも見つかるだろう。
「今はやめる」
「理由は?」
「足したいものが決まってないから。三件を同じにしたいとか、違うって言いたいとか、それで探しそう」
「分かりました」
候補は消さない。
ただし、今の次の問いにはしない。
◇
残った二つは、入力側の既存固定項目と、東側奥部の局所波形形状だった。
アリシアの視線が紙の上で止まる。
「こっちが難しい」
「そうでしょうね」
魔導具担当教師が答える。
「どちらも既存記録だけで検討可能です。ただし性質が違います」
「入力はもう項目決まってる」
「はい。意図的小変動の立ち上がり時間、戻り時間、固定された事前区間の自然な揺れの数と大きさ、算出可能な場合の揺れ間隔、基準からの総偏差です」
「前から決まってた」
「はい」
「波形の形は?」
「まだ独立した比較指標として固定していません」
「丸いとか尖ってるとか?」
「そのような見た目の印象をそのまま使うことは避けたいですね。何を形として測るかを先に決める必要があります」
「結果を見ながら『ここが違う』って探したら駄目」
「探索として観察すること自体はできます。ただし、その場合はあくまで次の候補を作るための探索で、確認には使えません」
アリシアは唇を少し尖らせた。
「入力の方が先にちゃんと決まってる」
「そうですね」
「でも、今は波形の方が気になる」
「なぜですか?」
聞かれて、アリシアはすぐ答えなかった。
平均傾きと変動性では三件を分けられなかった。
だから、もっと細かな形に何かあるのではないか。
その気持ちがある。
「昨日の結果で、見たくなったから」
「はい」
「だから、今すぐ選ぶのちょっと怖い」
会議室に静かな間が生まれた。
サーラがアリシアを見る。
「怖さは、身体的な刺激への怖さとは別ですか?」
「うん。間違った選び方しそうっていう方」
「数にする必要はありませんが、記録してよいですか?」
「いいよ」
記録担当職員が短く書き留めた。
「じゃあ入力にする?」
アリシアが言う。
副学院長はすぐに頷かなかった。
「それも、波形を避けたいから入力を選ぶのであれば、少し待った方がよいかもしれません」
「避けるのも駄目?」
「駄目ではありません。ただ、入力側比較を何のために行うのかを決めずに、『こちらの方が安全な選択に見えるから』だけで選ぶと、やはり問いが曖昧になります」
アリシアは背もたれへ身体を預けた。
「じゃあ今日決まらないかも」
「決まらなくても構いません」
「また未決定」
「はい」
「嫌だ」
思わず漏れた言葉に、何人かが少し笑った。
アリシア自身も、口元を緩める。
「でも、嫌だから決めるのも違う」
「そうですね」
◇
そこで魔導具担当教師が、入力側比較について問いを一つ提示した。
「もし入力側を次に扱うなら、こういう形なら結果から比較的独立して定義できます」
アリシアが顔を上げる。
「どんな?」
「既存の意図的小変動記録について、すでに固定済みの入力側項目の範囲を記述し、東側・西側・主観報告の確認状態によって、明瞭な分離が見られるかを探索する」
「三件だけじゃない?」
「はい。特定の三件だけを説明するためではなく、既存の意図的小変動記録全体を、元の設計区分を保ったまま扱います」
「東が出たのと出なかったの、西が出たのと出なかったの、私が感じたのと感じなかったの?」
「それぞれを一つに混ぜず、既存の判定を使って記述します」
「入力の項目は増やさない?」
「増やしません」
「結果見てから、変な揺れ一個見つけても追加しない?」
「今回の比較には追加しません」
アリシアは少し前へ身体を戻した。
「それなら、何を知りたいか分かる」
「言えますか?」
「同じ意図的小変動って呼んでる中でも、入力の細かい違いが、今までの確認・非確認をきれいに分けるかどうかを見る」
「はい。ただし『きれいに』には新しい数値基準がありませんので、まずは記述的な探索です」
「分けられたら原因?」
「いいえ」
「分けられなかったら入力は関係ない?」
「いいえ」
「そこは同じ」
「はい」
アリシアは紙を見る。
この候補は、昨日の結果を見る前からあった。
比較する項目もすでに決まっている。
新しい人工刺激も必要ない。
それだけで真実に近いとは言えないが、少なくとも今の結果に合わせて新しい特徴を作る必要はない。
「これ、次の問いにしたい」
今度の言葉は、先ほどより落ち着いていた。
副学院長が確認する。
「局所波形形状ではなく、入力側の既存固定項目を先に扱う?」
「うん」
「理由は、波形形状が重要でないと思うからではない?」
「違う。そっちも見たい。でも今は、昨日の結果で見たくなってる気持ちが強い」
「はい」
「入力側は前から候補で、見る項目も決まってる。今ある記録だけでできる」
「はい」
「だから先にこっちをやる」
若い観測員が記録へ書き込む。
「では、次の研究質問として正式化する前に、対象範囲と判定方法を固定する作業へ進みます」
「今日やる?」
「今日は質問の骨格までにした方がよいでしょう」
「まだ見るのは先?」
「はい」
アリシアは明らかに残念そうな顔をした。
『その顔すると思った』
ノアが言う。
「だって決まったのに」
『決まった瞬間に開けたら、先に決めた意味が半分消えるんじゃない?』
「半分かどうかは分からない」
『そこ食いつくの?』
「でも今日は見ない」
『なら結構』
◇
正式化の前段階として、その日は問いの骨格だけが文章になった。
『既存の意図的小変動条件記録において、事前に固定済みの入力側記述項目は、東側奥部対象反応・アリシアの対象感覚・西側対象反応の既存確認判定に対して、どのような分布・重なりを示すか。』
まだ仮文だった。
対象とする記録群をどこまで含めるか。
各項目で算出不能が生じた場合にどう扱うか。
過去の八件、前向き記録、専用東西記録をどのように役割別に保持するか。
三領域すべての判定が存在しない記録を、どの比較に使い、どの比較には使わないか。
それらを次回、数値を見る前に固定する。
「また範囲決めるんだ」
アリシアが言う。
「重要ですから」
「最近ずっと範囲決めてる」
『範囲決めの専門家になれるわね』
「なりたくない」
『じゃあ何の専門家になりたいの?』
聞かれて、アリシアは少し困った。
「……まだ分かんない」
『なら範囲決めでいいじゃない』
「よくない」
会議室に笑いが広がった。
張り詰める必要のない日の、柔らかな笑いだった。
◇
終了時の疲労は三。
痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ。
次の比較を始めたい気持ちは九だったが、止まりにくさは四に留まっていた。
「今日は決めただけだから」
アリシアが説明する。
「見てないから、まだ止まれる」
「次回は上がる可能性がありますね」
サーラが言う。
「たぶん」
「では、そのつもりで予定を組みます」
「人工刺激は?」
「ありません」
「うん」
その答えには安心と、ほんの少しの物足りなさが混ざった。
けれど、今すぐ身体へ刺激を入れなくても進められることが残っている。
それなら、急ぐ必要はなかった。
◇
帰り道、空は薄紫色へ変わっていた。
風は朝より冷たく、道沿いの木々から乾き始めた葉が一枚ずつ落ちてくる。
「入力にしたね」
ノアが言う。
「うん」
『本当は波形の形が見たかった』
「今はそっちの方が気になる」
『我慢した?』
アリシアは少し考えた。
「我慢とは違うかも」
『じゃあ?』
「後にした」
『同じじゃないの?』
「違う。見ないって決めたわけじゃないから」
『なるほど』
「候補のまま残ってる」
『あんた、候補を残すの好きになったわね』
「だって消したら忘れる」
『増えすぎても忘れるわよ』
「それは……先生たちに任せる」
『急に他力本願』
「管理はみんなでするものだから」
『便利な理屈を覚えたわね』
アリシアは笑った。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は昨日集めた葉を机の上に広げていた。
赤、黄色、茶色。
乾き始めたものは少し丸まり、拾ったときより色が濃く見えるものもある。
「何に使うか決めた?」
アリシアが尋ねる。
「貼る」
「どこに?」
「紙」
「何作るの?」
「まだ」
「貼ってから決めるの?」
「うん」
「そっか」
研究なら、先に目的を決めたくなる。
けれど遊びなら、それでいい。
子供は黄色い葉の裏へ糊をつけ、紙の端へ貼った。
「アリシアもやる?」
「やる」
「好きなの選んで」
アリシアは赤い葉を一枚選んだ。
形が整っているからではない。
何かの条件に合うからでもない。
ただ、その色がきれいだと思ったから選んだ。
子供の向かいに座り、紙へ貼る。
ノアは少し離れた椅子から眺めている。
『研究の紙より楽しそうね』
「楽しいよ」
『なら何より』
「ノアもやる?」
『糊を肉球につけろって? お断りよ』
「毛貼る?」
『もっと嫌』
子供が紙箱の方を見る。
「毛、もうある」
『それは返さなくていいわ』
アリシアは吹き出した。
重要な木箱は、今日も閉じたままだった。
顔のない存在も穏やかに過ごしており、十一の灯りに新しい変化はない。
研究とは関係のない時間が、夕食までゆっくり続いた。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは研究ノートを開いた。
前日の記録には、平均傾きと変動性だけでは三件を明確に分離できなかったことが残っている。
その下へ、新しい候補整理を書き足した。
『次の候補は四つ。』
そこで一度止まり、書き方を変える。
単純に四つ並べるだけではなく、いつ生まれた候補かも残した方がいい。
『入力側固定項目比較――以前から存在する探索候補。』
『東側局所波形形状――以前から候補。ただし事前状態二項目の比較終了後、見たい気持ちが強まっている。独立指標未固定。』
『弱い胸部異常三件への新規比較軸追加――三件成立後の候補。現在は追加項目未定。』
『東西一致/不一致の新規前向き系列――専用記録で不一致が得られた後の候補。実施するなら別系列として回数・条件等を事前固定。』
その下へ、今日選んだものを書く。
『次に正式化する問い:入力側の既存固定項目による探索比較。新規人工刺激なし。局所波形形状は今回へ後付けしない。』
さらに仮の問いを書き写す。
『既存の意図的小変動条件記録において、事前に固定済みの入力側記述項目は、東側奥部対象反応・アリシアの対象感覚・西側対象反応の既存確認判定に対して、どのような分布・重なりを示すか。』
最後に、次回やることを残した。
『数値を見る前に対象記録範囲、算出不能の扱い、各既存記録群の役割、比較可能な判定を固定する。』
筆を置いた。
今夜も答えは増えていない。
むしろ、調べたい候補は四つに整理され、まだ手をつけないものが三つ残った。
けれど、何から始めるかは決まった。
(結果から逃げて選んだんじゃない。結果に合わせて選んだんでもない)
そう言い切れるように、今日は時間を使った。
平均傾きと変動性で分けられなかったから、すぐにもっと細かな波形へ潜るのではない。
以前から決めていた入力側の項目を、先に同じ規則で見る。
そこで何も分かれないかもしれない。
思いがけない違いが見つかるかもしれない。
どちらでも、そこから先はそのとき改めて考える。
アリシアは研究ノートを閉じ、学院用の紙を引き寄せた。
今日書くことは決めている。
『資料修復で刷毛を使った。慎重すぎると言われた。練習だから失敗してもいいと先生に言われて、昨日友達に同じことを言ったのを思い出した。』
書き終えると、少し恥ずかしくなった。
けれど消さない。
研究とは違う記録でも、今日の自分が覚えておきたいことだった。
机の灯りを落とす前、アリシアは二冊の紙を並べて眺めた。
次の研究質問は、ようやく形を持ち始めた。
ただし、まだ数値は見ない。
何を比べるのか。
どの記録を使うのか。
どこまでなら答えとして言ってよいのか。
それを先に決める。
答えを見つける前に、答えの方へ都合よく道を曲げないために。
今のアリシアは、その遠回りを以前ほど嫌いではなくなっていた。




