↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
257/331

第257話 比べる相手は、もう変えない



 東側奥部の事前状態について、第一群にあたる三件の記録を開いてから二日が過ぎた。


 その間、アリシアが研究棟へ呼ばれることはなかった。比較担当とは別の職員が、すでに固定された基準だけを使い、第二群と第三群に含められる記録を確認していたからだ。


 意図的小変動が始まる前の固定区間について、必要な東側記録が残っていること。


 現在と同じ方法で平均傾きと変動性を算出できること。


 条件を満たさない場合には、都合のよい別区間へ広げたり、似た記録を代わりに加えたりせず、事前状態比較については評価不能として残すこと。


 作業を始める前に決めた線を、結果を見ながら動かさない。その確認が終わるまで待つことも、今の研究の一部だった。


 生活観測区画の朝は穏やかだった。


 前夜に少し雨が降ったらしく、窓の外では湿った土の匂いが風に混じっている。庭の石畳にはところどころ濃い色が残り、木々の葉から落ちた水滴が朝日を受けて細く光っていた。


 アリシアは窓辺で学院の鞄を整えながら、自分の身体の状態を確かめた。胸に違和感はなく、痛みも息苦しさもない。頭痛や吐き気もなく、睡眠不足を感じるほどの重さもなかった。


 今日は学院へ行き、その後で研究棟へ向かう。


 昨日の夕方、比較対象の確認作業が終わったという連絡が届いていた。


 ただし、そこに結果は書かれていない。


 何件が評価可能だったのかも、どの記録が評価不能だったのかも、アリシアにはまだ知らされていなかった。


(ちゃんと待てた)


 そのことに少し満足しながら鞄を閉じる。


 知りたい気持ちが消えたわけではない。むしろ連絡を受けてからは、何度も研究棟のことを考えた。


 それでも、自分から早く見せてほしいとは頼まなかった。


「今日、見る?」


 共用室へ出ると、子供が朝食の席から尋ねてきた。


「見るよ」


「三つの続き?」


「うん。でも三つだけじゃなくて、前の記録も見る」


「いっぱい?」


「たぶん」


「たぶん?」


「何個使えるか、まだ聞いてないから」


 子供は少し不思議そうに首を傾げた。


「アリシア知らないの?」


「知らない」


「今日見るのに?」


「今日見るから、まだ知らないんだよ」


『それが普通なんだけど、この子の場合は説明が必要なのよね』


 ノアが椅子の下から出てくると、アリシアの足元へ座った。


「何で私の場合なの」


『知りたいものがあると、自分から紙の山へ突っ込んでいくでしょう』


「最近は待ってる」


『最近はね』


「今日だって待った」


『二日』


「二日も」


『二日しか』


「どっちなの」


 向かいにいた子供が笑う。


 その声につられてアリシアも笑い、朝食へ手を伸ばした。


 少し離れた場所では、顔のない存在が職員と一緒に朝の時間を過ごしている。十一の胸部灯に目立った変化はなく、歩行や休息も普段の生活観測の範囲だった。


 重要な木箱も閉じたままで、今日は誰もそこへ近づく予定はない。


 今扱うべき記録があるからといって、生活観測区画にあるすべての謎を同時に動かす必要はなかった。


     ◇


 学院の午前は、資料修復の選択授業から始まった。


 実習室へ入ると、前回使った練習紙とは別に、今日は一人ずつ小さな紙片と柔らかな刷毛が用意されていた。紙片にはわざと薄い埃や細かな繊維片が付着しており、机の横には白い受け紙が置かれている。


 担当教師は全員が席へ着くのを待ってから、机の前で一枚の練習紙を持ち上げた。


「今日は汚れを落とします。ただし、落とせるものを全部落とす授業ではありません」


 何人かの生徒が顔を上げた。


「紙の表面についているものには、取り除いてよいものと、残すべきものがあります。埃に見えても顔料の一部かもしれませんし、染みに見えても資料が使われてきた過程を示す痕跡かもしれません。ですから、最初にすることは掃除ではありません」


 教師は刷毛を机へ戻した。


「観察です。何が付着しているのか、どこまで触れてよいのか分からない状態で、いきなりきれいにしようとしないこと」


 アリシアは自分の机に置かれた練習紙を見る。


 薄い灰色の粉のようなものが端に付着し、中央近くには少し濃い小さな点がある。右上には繊維片らしいものが引っかかっていた。


 隣の生徒がすぐ刷毛を持ち上げようとして、途中で手を止めた。


「あ、観察が先だった」


 前方から小さな笑いが起こる。


 教師も怒ることなく、「今止められたなら十分です」と答えた。


 アリシアは紙へ顔を近づけすぎないよう気をつけながら、付着物の位置を記録用紙へ簡単に写した。


 右上の繊維片。


 左端の薄い粉。


 中央付近の濃い点。


 そのうち、練習用として取り除いてよいと指定されたのは右上と左端だけだった。


 中央の点は残す。


「これ、汚れじゃないんですか?」


 前の席の生徒が尋ねる。


「練習紙を作る段階で意図的に付けた顔料です。見た目だけなら汚れに見えるでしょう?」


「はい」


「だから、きれいにすることを目的にすると消してしまいます」


 アリシアは中央の点を見つめた。


 汚れているように見える。


 でも、消してはいけない。


 教師がそう言ったからではなく、そこに残る意味が違うからだ。


(研究と同じ、って考えそうになる)


 そこまで考えて、アリシアは自分で少し笑った。


 何でも研究へ結びつける必要はない。


 今は紙を直す授業だ。


 刷毛を持ち、教師から教えられた角度で紙面を軽く払う。力を入れすぎると紙の表面を傷めるため、毛先だけを使って端から外へ動かした。


 一度で全部取ろうとしない。


 浮いたものを少しずつ受け紙へ落とす。


「アリシア、慎重すぎない?」


 隣の生徒が小声で言った。


「破きたくないから」


「練習紙だよ」


「練習でも破きたくない」


「分かるけど、それだと今日中に終わらないかも」


 アリシアは自分の手元を見る。


 確かに遅い。


 教師が近くを通ったので尋ねると、手元を見てから穏やかに言った。


「慎重なのは悪くありません。ただ、刷毛を当てること自体を怖がると、必要な作業もできなくなります。紙を傷めない範囲で触れる練習でもありますから、もう少し手首の力を抜いて大丈夫ですよ」


「はい」


「それと、失敗しないことだけを目標にしなくていいですよ。今日は練習紙です」


 昨日、友人へ言った言葉を思い出し、アリシアは少しだけ頬を赤くした。


「……はい」


 隣の生徒が不思議そうにこちらを見る。


「何で赤くなってるの?」


「何でもない」


 アリシアは刷毛を持ち直した。


 少しだけ力を抜く。


 今度は先ほどより滑らかに毛先が動き、薄い埃が受け紙へ落ちた。


 紙は破れなかった。


 それだけで少し嬉しかった。


     ◇


 昼休み、友人にその話をすると、予想どおり笑われた。


「昨日、私に『練習なんだから失敗してもいい』って言ったよね?」


「言った」


「自分は?」


「破きたくなかった」


「同じじゃん」


「布と紙は違う」


「昨日の私と同じこと言ってる」


「……そうかも」


「ほら」


 友人は満足そうに笑い、自分の弁当箱を開けた。


 アリシアも向かいで昼食を広げる。


「で、破かなかった?」


「うん。埃も取れた」


「楽しかった?」


「楽しかった」


「また毛羽立ち?」


「今日は刷毛」


「そこなんだ」


「きれいになったの見えたから」


「でも、全部きれいにはしないんでしょ?」


「うん。残すところもあった」


「汚れてるのに?」


「汚れじゃないのもあったから」


「へえ」


 友人はそこで研究の話へ結びつけたりせず、次の染色授業で使う布を昨日買ったことを話し始めた。


 アリシアもそれに合わせて、どんな色を使う予定なのか尋ねる。


 昼休みの半分ほどは、染色と資料修復の話だけで終わった。


 研究のことを思い出したのは、午後の授業が始まる少し前だった。


 今日、いよいよ第二群と第三群を見る。


 その期待が胸の中に戻ってきたが、朝からずっとそれだけを考えていたわけではない。


 アリシアはそのことを、少し嬉しく感じていた。


     ◇


 放課後の研究棟には、いつもより多くの紙が用意されていた。


 ただし、机の中央に積み上げられているわけではない。


 第二群。


 第三群。


 第一群。


 それぞれが混ざらないよう、別々の場所に置かれている。


 アリシアが会議室へ入ると、若い観測員が立ち上がった。


「まず状態確認からお願いします」


「うん」


 疲労二。


 痛みゼロ。


 息苦しさゼロ。


 胸部異常ゼロ。


 頭痛、吐き気、めまいなし。


 怖さ一。


 参加したい気持ち八。


 結果を知りたい気持ち九。


 続きを急ぎたい気持ちは七。


「止められたら?」


 サーラが尋ねる。


「帰れる」


「嫌ではありますか?」


「たぶん嫌。でも昨日よりは大丈夫」


「止まりにくさは?」


「四」


 サーラは頷き、記録担当職員が数字を残した。


 人工刺激はない。


 身体へ何かを行う日ではないが、集中しすぎて疲労を増やすことはある。そのため、分析だけの日でも状態確認は続けられていた。


「昨日までの確認作業について説明します」


 若い観測員が資料の前へ立つ。


「比較範囲そのものは前回固定したとおりで、変更していません」


「うん」


「算出可能性の確認担当は、平均傾きと変動性の値そのものを比較対象選択へ使用していません。固定された入力前区間に必要な東側記録が存在するか、同一の算出方法を適用できるかだけを確認しました」


「使えないの、あった?」


「あります」


 アリシアの視線が少し鋭くなる。


「何件?」


「その前に、今回の扱いを確認します。算出不能だった記録を除外して存在しなかったことにはしません。該当記録は、事前状態比較について評価不能だったものとして残します」


「代わりも足さない」


「はい」


「違う時間のところから計算もしない」


「はい」


「じゃあ聞く」


 若い観測員が頷いた。


「第二群では、固定した対象範囲のうち、一件が事前区間の記録欠損により二項目を同一方法で算出できませんでした」


「一件」


「はい。したがって、その一件は評価不能として残ります」


「どの結果だった記録?」


「それは後ほど元の役割と一緒に確認できます。ただし、欠損の判定自体は結果を見る前の基準だけで行われています」


「分かった」


「第三群では、対象となった記録はいずれも二項目を算出可能でした」


 アリシアは机の紙へ視線を落とした。


 一件、使えないものがある。


 少し気になる。


 けれど、その一件だけ別の方法で計算することはしない。


(見たいけど、穴を埋めるために違うやり方をしたら、最初に決めた意味がなくなる)


「そのままでいい」


「はい」


     ◇


 第二群の資料から開かれた。


 ここには、過去の比較可能な意図的小変動条件の記録が、元の役割を失わない形で並べられている。


 反応が確認された記録。


 反応が確認されなかった記録。


 早い位置の意図的小変動。


 遅い位置の意図的小変動。


 ただし、今日の目的はそれらを再評価することではない。


 見るのは入力前の東側事前状態、平均傾きと変動性だけだった。


「数値を一件ずつ読み上げますか?」


 若い観測員が尋ねる。


 アリシアは少し考えた。


「全部残すけど、まず並びを見たい」


「では、記録表を開きます」


 伏せられていた紙が表へ返される。


 アリシアは黙って目を走らせた。


 平坦に近いもの。


 弱く下降しているもの。


 それより少し下降側にあるもの。


 わずかに上昇側へ位置するものもある。


 変動性も一様ではなく、小さいものから比較的大きいものまで散らばっていた。


 第一群の三件だけを見たとき、一件目と三件目が下降側、二件目がほぼ平坦に近いという違いがあった。


 今、第二群を並べると、そのどちらも過去記録の中に存在している。


「……ある」


 アリシアが小さく言った。


「何がですか?」


「三件にあったくらいの傾き、ほかにもある」


「はい」


「平坦に近いのも、下降側も」


「はい」


「変動性も?」


「第一群の三件が位置する範囲と重なる記録があります」


 アリシアは少し身を引いた。


「じゃあ、三件だけの特別な状態には見えない?」


 魔導具担当教師が答える。


「少なくとも、今回固定した平均傾きと変動性という二項目だけを見る限り、第一群三件にしか現れない明確な値域は確認できていません」


「『ない』じゃなくて、『確認できてない』」


「はい。記録数にも限りがありますし、今回は探索的な比較です」


「それと、一件評価不能」


「そうです」


 アリシアは評価不能の欄を見る。


 そこには数値の代わりに、事前区間記録欠損のため算出不能とだけ記されている。


「これ、何だった記録?」


「過去の意図的小変動条件のうち、対象反応が確認された側の一件です」


「反応あり?」


「はい」


「もしこれがすごく違う値だったら?」


「分かりません」


「逆に、三件と同じだったかもしれない」


「分かりません」


「だから穴のまま」


「はい」


 アリシアは少し悔しそうに唇を結んだ。


「見たい」


「そうですね」


「でも見られない」


「同じ方法では」


「別のところ使ったら?」


「今回の比較では使いません」


「分かってる」


 声には惜しさが残ったが、そこから先は求めなかった。


     ◇


 次に第三群が開かれた。


 現在の弱い胸部異常報告三件以外の前向き記録のうち、同じ固定区間から二項目を算出できるもの。


 ここにも役割の異なる記録が含まれている。


 既存の対象感覚が確認された記録。


 対象感覚が確認されず、弱い胸部異常報告もなかった記録。


 東側と西側の判定が一致したもの。


 それぞれは一つの群として混ぜられるのではなく、どの設計に属していたかを残したまま並べられていた。


 アリシアは一つずつ確認していく。


 平均傾きがほぼ平坦なもの。


 弱く下降側のもの。


 変動性が第一群二件目に近いもの。


 一件目と近い範囲のもの。


 三件目と大きく離れていないもの。


 ここでも、第一群三件だけにしか見られない明瞭な位置は見つからなかった。


「……こっちにもある」


「はい」


「胸の弱い違和感がなかった記録にも?」


「あります」


「対象感覚がちゃんと確認された記録にも?」


「あります」


「東西が両方非確認だった記録は?」


 若い観測員は該当欄を示した。


「この記録です」


 アリシアは見る。


 平均傾きは、第一群の二件目と大きく離れていない。


 変動性も、第一群三件の範囲から明確に外れているわけではない。


「これも似てる」


「二項目だけなら、重なる範囲があります」


「でもこのとき、私は胸の変なのなかった」


「はい」


「東も西も対象反応は確認されなかった」


「はい」


「じゃあ、この二つだけで弱い違和感が出るとは言えない」


「言えません」


「逆も?」


「平均傾きと変動性がこの範囲なら弱い違和感が出ない、とも言えません」


 アリシアは椅子の背へ少し身体を預けた。


 期待していたような、分かりやすい線はない。


 三件の弱い違和感が出たときだけ、東側の事前状態が特別な形だった。


 そんな結果ではなかった。


 それでも、胸の奥に強い落胆は生まれなかった。


(違ったんじゃなくて、これでは分けられなかった)


 それは似ているようで、かなり違う。


「平均傾きと変動性だけじゃ、三件を分ける目印にはならなかった?」


「現時点の記録では、明確な分離は確認できませんでした」


「原因でもない?」


「原因かどうかは、この比較では判断できません」


「関係ないとも言えない?」


「はい。二項目だけで明確に分離できなかった、という範囲です」


「それ以上は言わない」


「そうしましょう」


     ◇


 机の上には、三つの群が別々に残されている。


 誰も一つの大きな表へまとめようとはしなかった。


 アリシアは第一群へ戻り、三件の値を見る。


 一件目。


 二件目。


 三件目。


 その隣には第二群があり、さらに離れて第三群がある。


 似た値は見つかった。


 違う値もある。


 けれど、どれか一つを境にして「こちら側なら弱い胸部異常」「あちら側なら違う」と分けられるような線はなかった。


「これで、東側の始まる前は候補から消える?」


 アリシアが尋ねた。


 副学院長が少し考えてから答える。


「消える、とはしません」


「何で?」


「今回見たのは二項目だけだからです。平均傾きと変動性だけでは明確な分離が確認できなかった。それが今回の結果です」


「でも、新しい形を今から探したら駄目」


「今回の比較へ追加するのは避けます」


「局所波形とか」


「はい。それは以前から候補にはありますが、今回の結果を見て都合よく第三の項目として加えることはしません」


「じゃあ別の問い」


「扱うなら、そうなります」


 アリシアは少し迷った。


「見たい」


 誰もすぐには答えなかった。


 アリシア自身が、その沈黙の意味に気づく。


「……でも今日じゃない」


「はい」


 サーラが微笑む。


「今日の状態確認をしましょう」


 疲労三。


 痛みゼロ。


 息苦しさゼロ。


 胸部異常ゼロ。


 頭痛、吐き気、めまいなし。


 結果への驚きは三。


 落胆は二。


 次を知りたい気持ちは九。


 今すぐ別の項目を見たい気持ちも九。


 止まりにくさは六まで上がっていた。


「六」


 アリシアは自分で言い直した。


「今、見始めたら止まりにくい」


「では今日はここまでですね」


「うん」


 返事まで少し時間がかかった。


 それでも、反対はしなかった。


     ◇


 片づけが始まってからも、アリシアは席を立つ前に三群の表をもう一度見た。


「一個だけ確認していい?」


「内容によります」


 副学院長が答える。


「今日、三件が特別じゃなかったって決まったわけじゃないよね?」


「はい」


「平均傾きと変動性では、三件だけにある明確な範囲が見つからなかった」


「その表現が適切です」


「事前状態全部が関係ないとも決まってない」


「はい」


「でも、それを理由に今から形とか別の数字を探さない」


「はい」


「三件が同じ感覚かどうかも変わらない」


「変わりません」


「東西が違った理由も分からないまま」


「そのとおりです」


 アリシアはようやく立ち上がった。


「じゃあ帰る」


『今日は一回で帰った』


 ノアが感心したように言う。


「帰るって言ったから」


『成長したわね』


「何かむかつく」


『褒めてるのに』


「ノアが言うと違う」


 若い観測員が笑いを堪えるように口元へ手を当てた。


 張り詰めていた空気が少しだけ緩む。


     ◇


 研究棟の外へ出ると、夕暮れの風が頬に触れた。


 昼間は暖かかったが、日が傾くと少し冷える。学院の校舎の向こうでは、部活動を終えた生徒たちが何人か連れ立って歩いていた。


「思ってたのと違った?」


 ノアが尋ねる。


「少し」


『どんなの想像してたの?』


「三件だけ同じところに集まってるとか」


『都合いいわね』


「分かってる」


『で、集まってなかった』


「うん。でも、全然ばらばらって感じでもなかった」


『ほかの記録と重なった』


「うん」


『それで?』


 アリシアは歩きながら考えた。


「困った」


『でしょうね』


「でも、前より嫌じゃない」


『何が?』


「分からないの」


 ノアは隣を歩いたまま、すぐには返さなかった。


 アリシアも続きを急がない。


 以前なら、「分からない」という言葉は答えを失ったように感じた。


 今は少し違う。


 どこまでなら言えるのかが分かった。


 平均傾きと変動性という二つの項目では、三件だけを分ける明瞭な位置は確認できなかった。


 それ以上でも、それ以下でもない。


『じゃあ、その困ったまま夕飯食べなさい』


 しばらくしてノアが言った。


「何それ」


『空腹で考えるよりましよ』


「それはそうかも」


『珍しく素直』


「今日はいっぱい考えたから」


『なら余計に食べなさい』


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は共用室の床に座り、紙箱の中身ではなく積み木で遊んでいた。


 以前、研究の予定を表すために使っていた積み木はすでに片づけられており、今日並べているのはただの家だった。


 四角い積み木を壁にして、その上へ三角形を載せる。


 隣には細長い積み木が立っている。


「これ何?」


 アリシアが尋ねる。


「家」


「こっちは?」


「木」


「細いね」


「まだ作ってる」


「そっか」


 アリシアは隣へ座った。


「研究見た?」


「見たよ」


「分かった?」


「少し分かった」


「何が?」


「見た二つだけだと、三つを特別には分けられなかった」


 子供は積み木を持ったまま首を傾げた。


「分かんない」


「うん。説明難しかった」


「じゃあ、分かんなかった?」


 アリシアは少し考えた。


「答えは分からなかった。でも、これだけじゃ答えにならないって分かった」


「それ、分かった?」


「うん」


「じゃあ分かった」


「そうかも」


 子供はそれ以上興味を示さず、家の隣へもう一本の積み木を立て始めた。


 アリシアも手を出さずに眺める。


 重要な木箱は閉じたまま。


 顔のない存在は夕食前の休息中で、十一の灯りにも大きな変化はない。


 研究棟で見た表と、ここにあるものを無理に結びつける必要はなかった。


     ◇


 夕食後、アリシアは自室へ戻って研究ノートを開いた。


 今日の結果を残す前に、前回書いた比較範囲を読み直す。


 第一群。


 第二群。


 第三群。


 三群を一つの割合へ統合しない。


 結果を見る前に決めた範囲だ。


 その下へ今日の内容を書き足す。


『第二群:固定範囲内の一件は、入力前固定区間の東側記録欠損により平均傾き・変動性を同一方法で算出不能。評価不能として保持。別区間への拡張・代替記録追加なし。』


『第三群:対象記録は固定方法で算出可能。』


 さらに少し間を空ける。


『第一群三件の平均傾き・変動性が位置する範囲と、第二群・第三群の複数記録に重なりがある。第一群三件だけに認められる明瞭な値域は、今回の二項目では確認できなかった。』


 そこまで書いてから、筆先を止める。


 重要なのは次だった。


『したがって、平均傾き・変動性だけでは、弱い胸部異常報告三件を他記録から明確に分離できない。』


 さらに続ける。


『ただし、東側事前状態全体が無関係とは判断しない。局所波形形状等を今回の比較へ後付けで追加しない。扱う場合は別の探索質問として事前に方法を決める。』


『三件の同一性/非同一性、東西判定不一致の原因、六つ目の神器との因果については結論なし。』


 最後の一文を書いたところで、アリシアは長く息を吐いた。


 結論なし。


 以前なら、その文字を見るだけで落ち着かなかった。


 今も嬉しい言葉ではない。


 できれば答えがほしい。


 弱い胸部異常が何なのか知りたい。


 東側と西側がなぜ一致したり一致しなかったりするのか知りたい。


 自分がその間で何をしているのか、それとも何もしていないのか知りたい。


(でも、分からないところを分かったことにしたら、あとでもっと分からなくなる)


 言葉にした思考を胸の中で確かめると、少しだけ肩の力が抜けた。


 今日の比較は、答えを出さなかった。


 けれど、候補の一つを必要以上に強く扱わなくてよいことは分かった。


 平均傾き。


 変動性。


 その二つだけでは足りない。


 だからといって、三つ目、四つ目、五つ目の特徴を今すぐ探し始めるのではない。


 次に何を見るかは、また見る前に決める。


     ◇


 翌朝、研究棟から新しい試験予定は届かなかった。


 人工刺激の予定もない。


 届いたのは短い確認だけだった。


『東側事前状態・固定二項目による群間記述比較を終了。追加指標は現比較へ導入しない。次の研究質問は未決定。』


 アリシアは紙を読み、少しだけ口を尖らせた。


「未決定」


『不満そうね』


「ちょっと」


『昨日、自分で今すぐ決めないって言ってたでしょう』


「言った」


『じゃあ何が不満なのよ』


「決まってないのが不満」


『面倒くさいわね、ほんと』


「分かってる」


 それでも、紙を持ったまま研究棟へ走ることはしなかった。


 今日は学院がある。


 資料修復の授業で使った刷毛の動かし方をもう一度練習したいし、友人が染色の布を持ってくると言っていた。


 研究の次の問いは、まだ決まっていない。


 入力側の固定済み項目を探索する候補も残っている。


 局所的な波形形状を別の問いとして扱う候補もある。


 三件の弱い胸部異常報告そのものを、さらに別の角度から比較する可能性もある。


 そして、どれを選ぶとしても、今見た結果だけを理由に都合よく方法を作ることはできない。


 アリシアは連絡紙を研究用の鞄へ入れ、その隣に学院の教科書を収めた。


 比べる相手を結果より先に決めたからこそ、期待していた線が見つからなくても、途中で相手を入れ替えずに済んだ。


 次に必要なのは、新しい答えを急いで探すことではない。


 どの問いなら、今ある記録に答えさせてよいのか。


 そこを決めることだった。


 玄関では、すでにノアが待っている。


『遅刻するわよ』


「今行く」


『研究の紙は置いていきなさい』


「鞄に入れただけ」


『学院で開く気じゃないでしょうね』


「開かないよ」


『なら結構』


 アリシアは靴を履き、扉を開けた。


 朝の光が差し込む。


 分からないものは、今日もたくさん残っている。


 それでも、その全部を一度に追いかけなくてもいい。


 今日は学院へ行く。


 次の問いは、そのあとで決めればよかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。