第256話 見る範囲を、結果より先に決める
研究棟へ行かないと決められていた朝は、いつもより時間の流れが緩やかに感じられた。
生活観測区画の窓から見える空はよく晴れており、前日まで残っていた薄い雲もほとんど消えている。庭の木々には朝露が残っていたものの、東から差し込む日差しはすでに明るく、開けた窓から入る風にも数日前ほどの冷たさはなかった。
アリシアは朝食の席へ着くと、研究棟からの連絡紙ではなく学院の時間割を先に開いた。
今日は通常授業が中心で、午後にも特別な研究予定はない。
次に研究棟へ行くのは明日の放課後。そのときに扱うのは、三件の弱い胸部異常報告があった試行について、東側奥部が対象反応を示す前の状態を比較するための準備だった。
平均傾き。
変動性。
見る項目は、その二つだけとすでに決まっている。
けれど、どこまでの記録を並べるのかはまだ決まっていなかった。
(今日は決めなくていい)
頭の中へ浮かんだ研究の続きを、アリシアはそこで止めた。
明日、記録を開く前に話す。
今日は学院へ行く日だ。
「今日は研究ない?」
向かい側で朝食を食べていた子供が尋ねた。
「ないよ」
「じゃあ帰ってきたらいる?」
「いると思う」
「紙やる?」
「何の紙?」
「昨日の続き」
子供の普通の紙箱には、色の違う紙片が少しずつ増えていた。昨日は中身を色で分けていたが、今日は別の遊び方を考えているらしい。
「学院から帰ってきて、宿題なかったらね」
「宿題あったら?」
「先に宿題」
「研究より?」
「今日は研究ないって言ったでしょ」
「明日は?」
「明日は研究ある」
「じゃあ宿題と研究、どっち先?」
アリシアはパンを持ったまま少し考えた。
「宿題」
『即答しなさいよ、そこは』
足元にいたノアが呆れたように言った。
「考えただけ」
『その一呼吸に学生としての危機を感じるわ』
「ちゃんと宿題やってる」
『知ってるわよ。だから余計に、そこで迷うのが面白いの』
「面白くない」
子供は二人を見比べながら笑い、果物を一切れ口へ入れた。
少し離れた窓際では、顔のない存在が椅子に座っている。胸元の十一の灯りに目立った変化はなく、担当職員も普段どおりの生活観測を続けていた。
重要な木箱も、保管場所から動いていない。
研究が進まない一日ではない。
研究を進めない一日だった。
その違いを、アリシアは以前より自然に受け入れられるようになっていた。
◇
学院へ着くと、教室の空気は朝から少し騒がしかった。
資料修復や染色だけでなく、それぞれの選択授業が始まったため、休み時間になるたびに生徒たちは自分の選択先について話している。思っていたより難しかったという者もいれば、早く次の授業を受けたいという者もいた。
アリシアが席へ鞄を置くと、友人が振り返った。
「今日、研究ないんだよね?」
「うん」
「じゃあ放課後、ちょっと付き合って」
「どこ?」
「染色で使う布、売店に見に行きたい」
「学院の?」
「そう。次の授業で自分の練習用を一枚持ってきてもいいんだって。用意された布でもいいんだけど、せっかくだから自分で選びたい」
「色ついてるの?」
「まだ染める前なんだから白とか薄い色でしょ」
「じゃあ何を選ぶの?」
「布の種類」
アリシアは首を傾げた。
「違うの?」
「違うらしいよ。私もまだよく分かってないけど、厚さとか織り方とか」
「へえ」
「その顔」
「何?」
「ちょっと興味あるでしょ」
「少し」
「じゃあ決まり」
友人は満足そうに前を向いた。
断る理由はなかった。
研究予定もない。
生活観測区画へ帰る時間にも余裕がある。
何より、自分が第二希望にすらしていなかった染色の授業が、どんなものを扱っているのか少し気になった。
◇
午前の授業が終わり、昼休みになるころには、教室へ入る日差しがかなり強くなっていた。
窓を開けると風は涼しいが、日向にいると少し暑い。
アリシアと友人は窓から離れた席へ移り、昼食を広げた。
「明日は研究?」
友人がパンをちぎりながら尋ねる。
「うん」
「何見るか決まった?」
「見るものは決まってる」
「昨日言ってた、始まる前のやつ?」
「そう。東側が反応する前の状態」
「じゃあもう決まってるじゃん」
「でも、どの記録まで一緒に見るかが決まってない」
「三つじゃないの?」
「最初は三つを見るつもり。でも、それだけだと、三つが似てても、それが特別なのか分からない」
友人は少し考えながらスープを飲んだ。
「ほかのときも同じかもしれないってこと?」
「うん」
「じゃあ全部見れば?」
「それすると、今度は何と何を比べてるのか分かりにくくなる」
「面倒」
「面倒なんだよ」
「研究ってもっと、魔法をバーンってやって結果を見るものだと思ってた」
「私も前はもうちょっとそう思ってた」
「実際は?」
「紙が多い」
「地味」
「うん」
アリシアが素直に頷くと、友人は吹き出した。
「本人が言うんだ」
「でも嫌いじゃない」
「知ってる。紙見るの好きだもんね」
「資料修復と一緒にしないで」
「どっちも紙じゃん」
「違う紙」
友人は笑いながら残りのパンを口へ運んだ。
しばらくしてから、ふと思い出したように尋ねる。
「でもさ、三つだけ見るか、ほかも見るかって、明日決めるんでしょ?」
「うん」
「三つ見てから決めたら駄目なの?」
「駄目っていうより、先に決めた方がいい」
「何で?」
「三つを見て、都合よく似てたら『ほかとも比べよう』とか、違ってたら『これは三つだけでいい』とか変えたくなるかもしれないから」
「アリシアが?」
「私もだし、みんなも」
「先生たちも?」
「たぶん」
友人は少し意外そうな顔をした。
「先生なのに?」
「先生でも、見たら考えるから」
「そっか」
友人はそれ以上深く追及せず、自分の飲み物へ手を伸ばした。
アリシアはその横顔を見ながら、自分が口にしたことをもう一度考えた。
先生だから間違えないわけではない。
研究者だから期待を持たないわけでもない。
自分だけが結果に引っ張られるのではない。
だから、みんなで先に決める。
そのための手順なのだ。
◇
放課後、二人は約束どおり学院内の売店へ向かった。
授業用の筆記具や紙、簡単な魔導具部品などを扱う店の奥には、選択実習で使う素材の棚も設けられている。染色用の布は巻いた状態で何種類か並べられており、棚の端には小さな見本布が紐でまとめられていた。
「思ったよりある」
アリシアが見本を指先で触る。
「でしょ?」
「これ柔らかい」
「それ、染まりやすいらしい」
「こっちは?」
「厚いから時間かかるって」
友人は授業で渡された説明紙を見ながら、二種類の見本を並べた。
片方は目が細かく、表面も滑らかだ。もう片方は少し粗く、指で撫でると織り目の感触が分かる。
「どっちにするの?」
「迷ってる」
「好きな方でいいんじゃない?」
「失敗したくない」
「練習でしょ?」
「練習でも失敗したくないの」
アリシアは少し笑った。
「私が研究で言ったら、絶対何か言うくせに」
「研究と染色は違うから」
「失敗したくないのは同じじゃない?」
「……そう言われると嫌」
「何で」
「アリシアに正しいこと言われた感じする」
「ひどい」
二人で笑っていると、近くで同じ布を見ていた別の女子生徒が会話に加わった。
「最初なら薄い方がいいって先生言ってたよ。染まり方が見やすいから」
「ほんと?」
「うん。でも濃く入りすぎることもあるって」
「結局どっちがいいの?」
「知らない。私は厚い方買った」
三人で見本を見比べる。
答えは一つではないらしい。
友人はしばらく迷った末、薄手の布を一枚選んだ。
「決めた」
「失敗しても?」
「それ言わないで」
「でも練習なんでしょ?」
「アリシア、最近ちょっと意地悪になった?」
「ノアのせいかも」
『人のせいにしないでくれる?』
足元から声が飛んできた。
近くにいた女子生徒はノアを見下ろし、くすりと笑った。
「本当にいつも一緒なんだね」
「うん」
「授業にも?」
「教室の外にいるときもあるけど、だいたい近くにいる」
『監視役だから』
「違うでしょ」
『暴走防止装置でもあるわね』
「もっと違う」
友人まで笑い始め、アリシアは少し頬を膨らませた。
◇
生活観測区画へ戻ったのは、いつもより少し遅い時間だった。
子供は共用室の机で待っており、アリシアを見るとすぐに紙箱を持ち上げた。
「宿題ある?」
「少し」
「じゃあ先?」
「先」
「終わったら?」
「やろう」
約束どおり、アリシアは自室で学院の課題を済ませてから共用室へ戻った。
子供が用意していたのは、色紙を小さく切ったものだった。
「何するの?」
「並べる」
「色で?」
「今日は形」
昨日は色だった。
今日は形らしい。
丸に近い紙。
細長い紙。
四角い紙。
形の曖昧な切れ端。
子供はそれらを机いっぱいに広げ、一つずつ場所を決めていく。
「これは?」
アリシアが、角の一つだけ丸くなった四角い紙を持ち上げる。
「四角」
「丸じゃない?」
「四角」
「ここ丸いよ」
「でも四角」
「じゃあこっちは?」
今度はかなり歪んだ紙を見せる。
子供は眉を寄せた。
「……分かんない」
「新しいところ作る?」
「作らない」
「何で?」
「一個だけだから」
アリシアは少し驚いた。
「一個だけだと駄目?」
「増えたら作る」
「なるほど」
『また研究の顔してる』
ソファの上からノアが言った。
「してない」
『してるわよ』
「今日は研究しない日」
『頭の中まで休業とは誰も言ってないものね』
アリシアは手に持っていた紙を子供へ返した。
「これは?」
「端」
「端?」
「まだ決めないやつ」
「そこに置くの?」
「うん」
子供は分類できなかった紙片を、丸にも四角にも入れず、机の端へ置いた。
アリシアは何も言わなかった。
似ているからといって無理にどこかへ入れなくてもいい。
新しい分類をすぐ作らなくてもいい。
ただし、それを研究の教訓として子供へ語る必要もない。
「次これ」
子供が青い細長い紙を渡してくる。
「細長い」
「こっち」
「色は見ないの?」
「今日は形」
「昨日と違うね」
「今日は形って言った」
「はい」
遊びの規則は子供が決める。
アリシアはその規則に従って紙を並べた。
重要な木箱は、今日も閉じたままだった。
◇
翌日の放課後、アリシアは研究棟へ向かった。
朝から身体状態に異常はなく、学院での授業も普段どおり受けている。昼食後にも頭痛や胸部異常はなく、研究棟へ到着した時点での確認は、疲労二、痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ、怖さ一だった。
参加したい気持ちは八。
東側事前状態を見たい気持ちは九。
結果を早く知りたい気持ちは八。
「昨日より少し整理できましたか?」
サーラが尋ねる。
「うん。今日は、見る前に範囲決める」
「それが今日の主な目的ですね」
「決まったら、記録も見る?」
「状態と時間に余裕があれば可能です。ただし、範囲を決める議論が長くなった場合は次回へ回します」
「分かった」
アリシアは少し残念そうな顔をしたものの、反論しなかった。
◇
会議室には副学院長、サーラ、若い観測員、魔導具担当教師、記録担当職員がいた。
机の上には三件の比較表が置かれているが、東側事前状態の数値や波形は伏せられている。
若い観測員が最初に確認した。
「前回決めた内容からです。三件の東側事前状態を見る場合、使用する項目は平均傾きと変動性の二つだけです」
「うん」
「局所的な波形形状、特定の小さな揺れの数、その他の新しい特徴は追加しません」
「うん」
「三件で共通していても、それだけで弱い胸部異常報告に特有の状態とは判断しません」
「ほかの記録でも同じかもしれないから」
「はい。また、三件で一致しなくても、三件が別種の感覚だったとは判断しません」
「そこも分かってる」
「では、今日決めるのは比較対象範囲です」
記録担当職員が別の紙を机へ置いた。
そこには数値ではなく、既存記録群の区分だけが記されている。
過去の滑らかな入力条件。
意図的小変動を含む過去の比較可能記録。
対象反応が確認された記録。
対象反応が確認されなかった記録。
その後に実施された前向き記録。
さらに、現在扱っている三件の弱い胸部異常報告。
アリシアは紙を見ながら眉を寄せた。
「全部入れたら多い」
「はい」
「でも三件だけだと、特別か分からない」
「はい」
「じゃあ、どこまで必要?」
副学院長が答える前に、魔導具担当教師が一枚の紙を指した。
「まず目的を一文にしましょう」
「目的?」
「比較範囲を決めるためです。何を知りたいかによって、必要な記録が変わります」
昨日、友人から聞かれたことと同じだった。
アリシアは少し考える。
「三件の弱い違和感が出たときに、東側の始まる前が似てたか知りたい」
「それだけなら三件で足ります」
「でも、それが弱い違和感と関係あるかは分からない」
「はい」
「だったら、弱い違和感がなかったときも見ないと駄目?」
「関係があるかどうかまで踏み込むなら、比較対象が必要になります」
「どれ?」
「そこを決めます」
若い観測員が、既存記録群を指しながら説明した。
「比較候補として最も近いのは、同じ種類の意図的小変動条件を含み、東側事前状態の二項目が同じ方法で算出できる記録です」
「滑らかな十呼吸は?」
「入力条件が異なります」
「じゃあ入れない?」
「今回の問いを『意図的小変動条件下での事前状態比較』とするなら、主比較から外す方が自然です。ただし、滑らかな条件の記録を消すという意味ではありません」
「別の条件だから、同じ表に混ぜない」
「はい」
「昔の意図的小変動八回は?」
「候補です」
アリシアは少し身を乗り出した。
「全部?」
「そこで次の問題があります」
「また?」
「あります」
ノアが机の端で尻尾を揺らす。
『研究者は問題を増やす職業なのかしら』
「問題を見つける職業でもあります」
若い観測員が真面目に返すと、ノアは一瞬黙った。
『……それ、返しとしては悪くないわね』
「ありがとうございます」
「仲良くならないで」
アリシアが小さく口を挟むと、会議室の空気が少し和らいだ。
◇
問題は、現在の三件と過去の記録群が、完全に同じ役割の記録ではないことだった。
過去の意図的小変動八件は、現在の三件だけを調べるために集められたものではない。
また、九件の主観報告整理は別の目的で構成された資料群であり、時間窓を詳しく検討した七件とも一致しない。
さらに、現在の三件には前向きに記録された弱い胸部異常報告という共通点があるものの、それぞれが属していた試験設計も完全には同一ではない。
「全部まとめて一個にしたら駄目なんだ」
「はい」
若い観測員が答える。
「記録自体が使えないのではありません。何のために集められた記録なのかを失わないようにする必要があります」
「八件と九件と七件は、数が違うからじゃなくて、中身の役割が違う」
「その理解で大丈夫です」
「じゃあ、比較するなら、元のまとまりを残したまま?」
「はい」
「三件と、昔の全部を一つの数にしない」
「そうします」
アリシアは紙の上へ指を置かず、目だけで区分を追った。
以前なら、多い方が強いと思ったかもしれない。
記録が八件あるなら三件より八件。
九件ならもっと多い。
けれど、今は数だけを足せない理由が分かる。
(同じ箱に入れたら、たくさんになる。でも、同じものになるわけじゃない)
昨日、子供が紙片を形で分けていた光景を思い出す。
ただし、それを口にして研究の説明へ変えることはしなかった。
あれは子供の遊びだ。
こちらは研究だ。
似たことを考えたとしても、同じものとして扱う必要はない。
◇
「一つ提案があります」
魔導具担当教師が言った。
「今回の第一段階では、まず三件だけを比較する。ただし、それだけで特有性を論じない」
「うん」
「第二段階を行う場合は、結果を見る前に比較対象群を別に固定しておく」
アリシアは眉を寄せた。
「三件を見たあとじゃ駄目なんじゃなかった?」
「ですから、第二段階を行うこと自体と、その対象群を今決めます」
「あ」
「実際に第二段階の記録を開くのは後でも構いません。しかし、三件の結果を見てから対象を選び直さないよう、今の時点で範囲だけ固定する方法です」
アリシアは少し考え、ゆっくり頷いた。
「それなら、三件が同じでも違ってても、比べる相手は変わらない」
「はい」
「第二段階をやめるのも駄目?」
「安全上や記録上の理由があれば別ですが、『三件の結果が気に入ったから必要ない』『気に入らなかったから広げる』という変更はしない方がよいでしょう」
「じゃあ、やるって決めるなら今」
「そうなります」
会議室に短い沈黙が落ちた。
アリシアは比較候補の一覧を見る。
「第二段階は、昔の意図的小変動八件全部?」
「八件すべてで、現在と同じ方法による東側事前状態の平均傾きと変動性が利用可能かをまず確認する必要があります」
「使えないのがあったら?」
「結果を見て除外するのではなく、計算可能性の基準を先に固定します」
「どんな基準?」
魔導具担当教師が説明する。
「意図的小変動開始前の固定区間について、必要な東側記録が残っており、現在と同じ算出方法を適用できること。欠損がある場合、その記録は事前状態比較については評価不能として残します」
「別の場所まで伸ばして計算しない」
「はい」
「足りないから違う時間使うのもなし」
「はい」
「評価不能になっても、別の記録を足して数を合わせない」
「その方針が適切です」
アリシアはさらに尋ねる。
「前向きの記録は?」
「現在の三件以外にも、対象感覚が確認された前向き記録や、対象感覚非確認で弱い胸部異常報告がなかった記録があります」
「それも入れた方がいい?」
「比較対象としては有用です。ただし、過去八件とは役割を分けたまま扱います」
「一個に混ぜない」
「はい」
若い観測員が紙へ新しい枠を書いた。
第一群。
現在の弱い胸部異常報告三件。
第二群。
既存の比較可能な意図的小変動条件記録。過去のまとまりを維持し、事前状態二項目を同一方法で算出可能なもののみ評価。算出不能は欠損として保持。
第三群。
現在の三件以外の前向き記録のうち、同じ事前状態二項目を固定区間から算出可能なもの。こちらも元の試験設計ごとの役割を保持し、統合した一つの母集団のようには扱わない。
「三つに分ける?」
アリシアが尋ねる。
「管理上はそうです。ただし、第一群と第二群と第三群を一つの割合へまとめません」
「何対何とかしない」
「はい」
「じゃあ、何を見るの?」
「まず第一群の三件に共通性があるかを記述します。その後、第二群、第三群にも同じ二項目の分布や範囲が見られるかを、群ごとに記述します」
「それで、三件だけ特別かを見る?」
「『特別だ』と断定するためではなく、少なくとも三件の値が既存記録の中で珍しい位置にあるのか、広く見られる範囲なのかを探索できます」
「探索」
「はい。確認試験ではありません」
アリシアはその言葉をもう一度頭の中で確かめた。
原因を決めるためではない。
弱い違和感の正体を決めるためでもない。
次の問いを作る材料を探すための比較だ。
「それならやりたい」
アリシアが言った。
「範囲、これで決める」
◇
比較範囲が正式に固定されるまで、さらに細かな確認が続いた。
滑らかな十呼吸条件は今回の主比較から除外する。ただし、それは不都合だから除くのではなく、意図的小変動条件と入力設計が異なるためだった。
過去の意図的小変動記録については、反応が確認されたものだけを選ばない。対象反応非確認の二件も含め、算出可能なら同じ二項目を記述する。
前向き記録についても、弱い胸部異常があったものだけを選ばない。対象感覚が確認された記録、対象感覚が確認されず胸部異常も報告されなかった記録など、あらかじめ定めた条件に該当するものを含める。
ただし、それぞれの試験設計上の役割は維持する。
「これで、三件を見てから増やしたり減らしたりしない?」
アリシアが確認する。
「はい」
「結果がすごく似てても?」
「変えません」
「全然違ってても?」
「変えません」
「一件だけ変でも?」
「変えません」
「見たい記録が途中で出てきても?」
「候補として別に残します。今回の比較へその場で追加はしません」
アリシアは満足そうに頷いた。
「じゃあ見たい」
副学院長は時計を確認した。
「状態確認をしてからにしましょう」
疲労は三。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいなし。
知りたい気持ちは九。
続けたい気持ちは九。
止められた場合の止まりにくさは五だった。
「五」
サーラが繰り返す。
「昨日より高いですね」
「今、範囲決まったから」
「疲労は?」
「三。頭はまだ大丈夫」
「今日、第一群の三件だけ開くとして、その後に第二群まで進みたくなると思いますか?」
「なる」
「どのくらい?」
「九」
「では、第一群だけで止められますか?」
アリシアはすぐに答えず、自分の手元を見た。
今すぐ三件を見たい。
もし三件が似ていれば、そのまま過去記録も見たくなるだろう。
違っていても、なぜ違うのか気になって過去記録を見たくなる。
どちらに転んでも、続きを求める自分が想像できた。
「……止められる。でも嫌だと思う」
「嫌でも帰れますか?」
「帰れる」
「では、第一群だけ開いて今日は終了することを、開示前に固定しますか?」
アリシアは唇を少し噛んだ。
目の前には、まだ数値の見えない三件の記録がある。
(見たら、絶対続きが見たくなる)
分かっている。
だからこそ、見る前に終点を決める意味がある。
「……うん。三件だけ」
「第二群と第三群は別の日です」
「うん」
「今日の結果を理由に前倒ししません」
「分かった」
◇
三件の東側事前状態が開示された。
表示されるのは、固定された入力前区間から算出された二項目だけだった。
平均傾き。
変動性。
詳細な波形そのものは見せない。
局所的な形状も評価しない。
アリシアは最初の記録を見る。
一件目。
平均傾きは、わずかな下降側。ただし大きな傾きではない。
変動性は、三件比較用に固定された同一尺度上で中程度の範囲。
二件目。
平均傾きは、ほぼ平坦に近い範囲。
変動性は、一件目よりやや小さい。
三件目。
平均傾きは、ごく弱い下降側。
変動性は、一件目と二件目の中間付近。
アリシアは三つの欄を何度も見比べた。
「……同じじゃない」
「はい」
若い観測員が答える。
「でも、すごく離れてる?」
「その評価をするための新しい閾値は設けていません」
「あ」
「ですから、現時点では数値上の位置関係をそのまま記述します」
「一件目と三件目は下降側。二件目は平坦に近い」
「はい」
「変動性は一件目が一番大きくて、二件目が一番小さい。三件目はその間」
「はい」
「じゃあ、三件全部に同じ事前状態があったとは言えない」
「少なくとも、平均傾きと変動性が完全に同じだった、とは言えません」
「でも、違うから別の感覚とも言わない」
「はい」
アリシアは三件目の欄へ目を移した。
東側確認、西側非確認だった試行。
そのときの東側事前状態は、ごく弱い下降側。
「西が出なかったの、これのせい?」
「分かりません」
答えはすぐ返ってきた。
アリシア自身も、尋ねた直後には分かっていた。
「だよね」
「過去には下降傾向の事前状態で対象反応が確認されなかった記録があります。しかし、下降傾向なら必ず非確認になるわけではありません」
「前にもう分かってる」
「はい」
「平坦でも反応しなかったのがある」
「あります」
「じゃあ、三件目が下降側だったから西が出なかった、にはできない」
「できません」
アリシアは少し息を吐いた。
期待していたほど、きれいな共通点ではなかった。
けれど、不思議と落胆は小さい。
三件が完全に同じ事前状態なら、それはそれで嬉しかっただろう。
しかし、違ったからといって、記録が失敗したわけでもない。
「三つ、揃わなかった」
アリシアが言う。
「そうですね」
「でも、これで終わりじゃない」
「はい。比較範囲は既に固定しています」
「次は第二群と第三群」
「別の日に」
「分かってる」
返事をしながらも、視線はまだ表から離れなかった。
◇
魔導具担当教師は、アリシアが三件の表を見つめている間、その表情を静かに観察していた。
以前なら、期待した共通点が崩れたとき、彼女はまず自分の報告を疑ったかもしれない。
感じ方が間違っていたのではないか。
言葉にするのが遅かったのではないか。
もっと集中すれば同じものとして捉えられたのではないか。
今の彼女は、そこへ向かわなかった。
違っていた二つの数値を、違ったまま見ている。
「アリシアさん」
「何?」
「今、自分の報告について何か気になっていますか?」
「報告?」
「三件の事前状態が揃わなかったことで、主観報告の方を疑いたくなったりは?」
アリシアは少し考えた。
「……前だったら、したかも」
「今は?」
「同じって決めてないから」
指先が、一件目から三件目までの欄をゆっくり追う。
「私は三回とも、あのとき感じたことを言った。それが同じものだったかは分からない。でも、東側の始まる前が違ったからって、私が言ったことまで消えない」
「はい」
「逆に、東側が全部同じだったとしても、三回が同じ感覚だった証明にはならない」
「そのとおりです」
教師は小さく頷いた。
その答えを聞けたことの方が、三件の数値そのものより印象に残った。
◇
約束どおり、第二群と第三群は開かなかった。
アリシアは一度だけ「少しだけでも」と言いかけたが、口を開いたところで自分から止めた。
「……いや、やめる」
ノアが片耳を動かす。
『珍しい。言い切る前に自分で止めた』
「珍しくない」
『昔のあんたなら、少なくとも三回は粘ってたわよ』
「そんなに?」
『控えめに言ってる』
「嘘」
『じゃあ四回』
「増えた」
周囲から小さな笑いが漏れた。
アリシアも笑ったあと、もう一度三件の表を見る。
「次に見る範囲、もう決まってるから」
「はい」
若い観測員が答える。
「今日急いで見なくても変わりません」
「うん」
「第二群と第三群の算出可能性だけは、職員側で事前確認します。ただし、数値や傾向は比較担当にも必要以上に開示せず、どの記録が同一方法で評価可能かだけを確定します」
「それ、結果見ちゃわない?」
「算出担当者は必要な原記録を扱いますが、比較結果を選別に使わないよう、基準は今日固定したものだけにします」
「使えなかった記録は?」
「評価不能として残します」
「消さない」
「はい」
「代わりも足さない」
「はい」
そこまで確認して、今日の作業は終了した。
◇
研究棟を出るころには、外はすっかり夕方の色になっていた。
西側の窓から差し込む光が廊下を橙色に染め、石床にはアリシアとノアの影が長く伸びている。
疲労は三。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
続きを見たい気持ちは八。
止まりにくさは四まで下がっていた。
「揃わなかったわね」
ノアが歩きながら言う。
「うん」
『残念?』
「少し」
『嬉しい?』
「少し」
『面倒な答え』
「だって、揃ってたら分かりやすかった。でも揃ってない方が、変に決めなくて済む気もする」
『それも十分面倒よ』
「研究だから」
『便利な言葉を覚えたわね』
アリシアは少し笑った。
研究棟を出たところで、夜に近づく空を見上げる。
三件は同じ場所に近い。
強さも近い。
痛みも息苦しさもない。
短く弱まるところも似ている。
けれど、温度語は揃わない。
東側との時間配置も完全には揃わない。
そして今度は、東側事前状態の二項目も完全には揃わなかった。
(それでも、三つを捨てなくていい)
似ていないところが増えたからといって、なかったことにはならない。
同じだと証明できないことと、記録として価値がないことは別だった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が昨日分類していた紙片を、今日は全部紙箱へ戻していた。
「もう分けないの?」
「終わったから」
「明日は?」
「また出すかも」
「形で?」
「違うかも」
「じゃあ何で?」
「明日決める」
アリシアは上着を脱ぎながら笑った。
「それいいね」
「何が?」
「明日決めるの」
「アリシアも?」
「私はもう次に見る範囲決めた」
「じゃあ違う」
「違った」
子供は満足そうに紙箱の蓋を閉じた。
重要な木箱とは違う、普通の紙箱。
中身も遊び方も、その日の気分で変わる。
少し離れた場所では、顔のない存在が職員と一緒に短い距離を歩いていた。歩数を競うようなことはせず、疲れが見えたところで椅子へ戻っている。十一の胸部灯にも特筆する変化はなく、職員はいつもどおり、その日の状態だけを記録していた。
アリシアはそちらを一度見たものの、今日の研究結果と結びつけようとはしなかった。
違う記録は、違う記録のままでいい。
◇
夜、自室の机で研究ノートを開いた。
今日固定した比較範囲から先に書く。
『東側事前状態比較。使用項目は平均傾き・変動性のみ。新規項目追加なし。』
『第一群=既存対象感覚非確認・閾値未満胸部異常報告三件。』
『第二群=既存の比較可能な意図的小変動条件記録。元の役割を維持し、同一方法で算出可能なものを評価。算出不能は評価不能として残す。』
『第三群=第一群以外の前向き記録のうち、同じ固定区間・同じ方法で二項目を算出可能なもの。元の試験設計ごとに役割を維持する。』
『三群を一つの割合へ統合しない。』
その下へ、今日開いた第一群の結果を書く。
一件目は平均傾きがわずかな下降側で、変動性は三件内では高め。
二件目は平均傾きがほぼ平坦に近く、変動性は三件内では低め。
三件目は平均傾きがごく弱い下降側で、変動性は二件の中間付近。
ただし、「高い」「低い」という新しい閾値を作ったわけではなく、三件内での位置関係としての記述に留める。
『二項目は三件で完全一致しなかった。』
そこまで書いてから、アリシアは少し考えた。
最後に、自分の言葉を一行だけ加える。
『揃わなかったからといって、三回の報告を消さない。揃っていたとしても、同じ感覚だったとは決めない。』
筆を置く。
研究ノートの隣には、学院で使っている記録紙がある。
今日は売店で友人と布を選んだことを書こうか迷ったが、結局、短く残すことにした。
『友達が染色用の薄い布を選んだ。失敗したくないと言っていたので、練習なら失敗してもいいと言ったら嫌そうな顔をされた。』
読み返して、アリシアは小さく笑った。
(私も同じこと言われたら嫌かも)
研究では、望んだ結果にならないことを失敗とは呼ばないようになってきた。
けれど、自分が何かを作るときや、授業でうまくやりたいときには、失敗したくないという気持ちは普通にある。
それを全部同じ理屈で片づけなくてもいい。
明日すぐに第二群と第三群を見るわけではない。
まず職員側で、今日固定した基準だけを使って、どの既存記録が同じ方法で事前状態を算出できるかを確認する。その作業が終わってから、アリシアたちは群ごとの比較へ進む。
そこで三件の位置が珍しく見えるのか。
それとも、似た事前状態がほかの記録にも広く存在するのか。
まだ分からない。
入力側の詳細比較も残っている。
新しい人工刺激の問いも決まっていない。
六つ目の神器が東と西の間で何をしているのか、それとも何もしていないのかさえ、まだ言えない。
アリシアはノートを閉じ、椅子の背へ身体を預けた。
見たい記録は増えている。
分からないことも減ってはいない。
それでも、今日は一つだけ確かなことがあった。
結果を見る前に、見る範囲を決められた。
そして三件の値が思ったほど揃わなくても、その範囲を変えなかった。
答えそのものではない。
けれど、どんな答えが出ても同じ場所から見られるようにしておくことは、今のアリシアにとって、答えへ近づくための大切な準備になっていた。




