第255話 三つ並んでも、名前はまだない
翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い朝靄が残っていた。
夜のうちに気温が下がったらしく、生活観測区画の庭を囲む低木の葉には細かな露がついている。東の空から差し込み始めた光はまだ弱く、共用室の窓際に置かれた椅子や机の輪郭を、白っぽく柔らかく浮かび上がらせていた。
研究棟へ行く予定はある。
ただし、今日も人工刺激はない。
追加で予定されていた試行はすでに終わっており、結果を見てから回数を増やすこともしない。次に人工刺激を行うとしても、それは今回終えた一連の追加試行へ後から継ぎ足すものではなく、必要性と問いを改めて決めた別の計画になる。
そのことは、アリシア自身も分かっていた。
それでも目を覚ました直後、胸の奥には少しだけ続きを求める気持ちがあった。
(もう一回やったら、どうなるんだろう)
考えたところで、すぐに答えは出ない。
東側と西側がまた一致するかもしれないし、一致しないかもしれない。自分が何かを感じるかもしれないし、何も感じないかもしれない。
そして何より、その「もう一回」は今の計画には含まれていない。
アリシアは寝台から起き上がると、胸元へ手を当てることなく、自分の身体の状態をゆっくり確かめた。痛みも息苦しさもなく、昨日まで扱っていた弱い違和感も残っていない。
そこでようやく立ち上がり、身支度を始めた。
◇
共用室へ行くと、子供が朝食のパンを前にして真剣な顔をしていた。
二種類ある。
一つはいつもの丸いパンで、もう一つには乾燥させた果実が少し練り込まれていた。
「まだ決めてないの?」
アリシアが向かいへ座る。
「決めてる」
「どっち?」
「こっち」
子供が果実入りの方を指した。
「じゃあ何で食べないの?」
「普通のも食べたい」
「二つ食べたら?」
「朝は一つって言われた」
近くにいた職員が笑いながら頷いた。
「昼食もありますからね」
「じゃあ明日、普通のにしたら?」
アリシアが言うと、子供はしばらく二つのパンを見比べた。
「明日もこっちあったら?」
「また迷うね」
「ずっと食べられない」
『壮大な朝食問題ね』
ノアが椅子の下を通りながら呆れた声を出す。
「ノアならどっち?」
『肉』
「ないよ」
『なら質問しないで』
子供は果実入りのパンを取った。
普通のパンは職員が籠へ戻す。
「今日はこっち」
「うん」
「普通の嫌いじゃないよ」
「分かってる」
「選ばなかっただけ」
アリシアの手が、飲み物へ伸びる途中で少し止まった。
資料修復を第一希望にしたとき、自分も似たことを考えた。
地図作成を第二希望にしても、植物管理や染色を選ばなくても、嫌いになったわけではない。
選ばなかったものを否定したことにはならない。
「何?」
子供が気づいた。
「何でもない」
「研究?」
「違うよ」
『最近あんた、何でも研究かって聞かれてるわね』
「ノアのせいでもある」
『何でよ』
「すぐ研究って言うから」
『実際ずっと研究してるじゃない』
「学校も行ってる」
「紙も見てる」
子供が付け足した。
「そう。紙も見てる」
アリシアは少し得意そうに答えた。
◇
学院では、資料修復の選択授業が始まったことで、廊下の話題も少し変わっていた。
それぞれの選択先で何をしたのか。
思っていたより難しかった。
次はもっと本格的な作業をするらしい。
そんな声が教室のあちこちから聞こえてくる。
アリシアが席へ着くと、友人がすぐ振り返った。
「書いた?」
「何を?」
「資料修復で楽しかったこと」
「あ」
「忘れてた?」
「忘れてない。書いたよ」
「ほんと?」
「昨日の夜」
「何て?」
「言わない」
「何で?」
「私の記録だから」
「研究ノートみたい」
「研究ノートじゃない」
友人は疑わしそうに目を細めた。
「絶対ちょっと研究っぽく書いたでしょ」
「『毛羽立ちを見つけたのが楽しかった』って書いた」
「やっぱり変」
「昨日も言われた」
「だって、そこ?」
「そこが楽しかったんだからいいでしょ」
「いいけど」
友人は笑いながら前を向いた。
その日の午前は、座学が続いた。
研究と直接結びつくような内容ではなく、王国各地で使われる生活魔導具の歴史や、地域によって形の異なる日用品についての授業だった。
北部では寒さのため保温用の魔導具が発達し、南部では湿気への対策が重視される。
同じ用途の道具でも、土地によって形が違う。
教師が古い図版を掲げると、教室の後方から「鍋みたい」という声が上がった。
「鍋ではありません」
「でも鍋に見えます」
「保温器です」
「蓋ありますよ」
「蓋がある保温器です」
教室に笑いが広がった。
アリシアも口元を緩めながら図版を見る。
研究のことを考えずに授業を聞いている時間は、以前より自然になっていた。
研究を忘れているわけではない。
頭のどこかには、三件並んだ弱い胸部異常報告がある。
けれど、それを四六時中前へ出しておく必要はなかった。
◇
昼休みになると、友人は弁当を開きながら尋ねた。
「今日は研究?」
「行くよ」
「また窓?」
「今日は、たぶん三つの記録をどうするか話す」
「昨日比べたんじゃなかった?」
「比べた」
「じゃあ終わりじゃないの?」
アリシアは箸を止めた。
「比べたら、似てるところと違うところがあった」
「それなら似てるところと違うところがある、で終わりじゃない?」
「……今のところはそう」
「じゃあ終わってるじゃん」
「でも、次に何を見るか決めないと」
「何で?」
「もっと知りたいから」
「それは分かる」
友人はあっさり答えた。
「でも、何を知りたいの?」
「それを今日考える」
「まだ決まってないんだ」
「候補はあるよ。入力の細かい違いを見るとか、東側が始まる前の状態を見るとか」
「それ見たら何が分かるの?」
「……まだ分からない」
「じゃあ何で見るの?」
アリシアは答えに詰まった。
意地悪で聞かれているわけではない。
友人は単純に疑問に思っている。
「違いがあるかもしれないから」
「何の?」
「三回の間に」
「違いがあったら?」
「何か分かるかも」
「何が?」
「……それを考えてから見ないと駄目かも」
友人は弁当のおかずを一つ口へ運び、何度か噛んでから頷いた。
「よく分かんないけど、分かってないことは分かった」
「私も今そう思った」
「じゃあ役に立った?」
「たぶん」
「研究参加料ちょうだい」
「何で」
「相談したから」
「してないよ」
「今いいこと言ったじゃん」
「普通に質問しただけでしょ」
「じゃあお菓子一個」
「嫌」
二人の会話はそこで研究から離れ、午後の授業と夕食の話へ移っていった。
けれどアリシアの中には、友人の単純な問いが残った。
違いを見る。
それで、何を知りたいのか。
見られるものがあるから見るのではなく、何を確かめるために見るのか。
(今日、そこから話した方がいい)
◇
放課後の研究棟は静かだった。
人工刺激を行う日ではないため、観測室周辺の人員も少ない。廊下を行き来する職員の足音もまばらで、窓から差し込む午後の光が長く床へ伸びていた。
参加前確認では、疲労二、痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ、頭痛・吐き気・めまいなし。怖さ一、参加したい気持ち八、知りたい気持ち九だった。
今日の「早く続きを決めたい気持ち」は七。
「昨日より少し低いですね」
サーラが言う。
「学校で考えたから」
「何を?」
「見る前に、何を知りたいのか決めた方がいいって」
「何かきっかけが?」
「友達に『違いを見て何が分かるの』って聞かれた」
「なるほど」
「答えられなかった」
アリシアは少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「それで七?」
「たぶん。早く見たいけど、見れば分かるわけじゃないって思ったから」
「その説明も残しておきます」
「うん」
会議室へ入ると、机には昨日作成した三件比較の表が置かれていた。
表題はまだ長い。
『既存対象感覚非確認・閾値未満胸部異常報告三件――記述・時間配置比較』
アリシアは席へ着くと、その文字を見て少しだけ眉を寄せた。
「やっぱり長い」
「名前を短くしますか?」
若い観測員が尋ねる。
「新しい感覚の名前?」
「いいえ。管理上の表題だけです」
「だったら今のままでいい」
「即答ですね」
「短くして、それが感覚の名前みたいになったら嫌だから」
若い観測員は頷いた。
「では維持します」
◇
最初に確認されたのは、昨日までに分かったことだった。
三件すべてで、既存の対象感覚――これまで確認基準として扱ってきた胸部冷感――は非確認。
三件とも胸部左寄りの位置表現を含む。
強さはいずれもおよそ〇・五。
痛み、息苦しさは伴っていない。
いずれも短時間で弱まり、または消失している。
一件目のみ、『冷たい、とはまだ言い切れない』という留保された温度語を含む。
二件目と三件目には温度語がない。
時間配置では、一件目と三件目の主観窓が東側確認窓と部分的に重なり、二件目は東側確認窓と非重複。
一方、三件とも中央配置だけを見れば、東側確認窓の中央が主観窓の中央より先側にある。
西側については、一件目では主観窓と西側確認窓が非重複、二件目では部分重複。
三件目では西側対象反応そのものが非確認であるため、確認窓は存在しない。ただし、主観窓全域は固定された西側対象反応非確認区間の内側に位置していた。
そこまでを読み上げたあと、若い観測員が資料を伏せた。
「今日は、この三件から新しい結論を作ることが目的ではありません」
「じゃあ何する?」
「次に何を比較する価値があるかを整理します」
アリシアは頷いた。
「私もそれ話したい」
「何かありますか?」
「入力を見るって候補があったけど、入力の何を見るの?」
魔導具担当教師が答える。
「以前固定した入力側の項目なら、意図的小変動の立ち上がり時間、戻り時間、事前区間の自然な揺れの数や大きさ、計算可能な場合の揺れ間隔、それから基準からの総偏差があります」
「それを三件で比べる?」
「可能ではあります」
「違ってたら?」
教師はすぐには答えなかった。
「違いがある、という記述はできます」
「それだけ?」
「現時点では、それだけになる可能性が高いでしょう」
「じゃあ、同じだったら?」
「固定項目上は大きな違いが見られなかった、と記録できます」
「それで、この三つが同じ感覚か分かる?」
「分かりません」
「東西の違いが何で出たか分かる?」
「それだけでは分かりません」
アリシアは腕を机へ置かず、膝の上で両手を重ねた。
友人に聞かれた問いと同じだった。
見られる。
比較できる。
でも、比較した結果を何に使うのか。
「じゃあ、今すぐ見る理由、弱い?」
「そう考えることもできます」
副学院長が答えた。
「ただし、無意味という意味ではありません。既に候補として残っている交絡要因の一つですから、後の問いを作るための探索として見る価値はあります」
「探索」
「はい。確認ではなく、探索です」
「見てから気づいた違いは、次の候補」
「その扱いになります」
アリシアは少し考えた。
「だったら、見るなら最初から『これで原因を決めない』ってしておく」
「必要でしょう」
「三件が同じか違うかも決めない」
「はい」
「入力が似てても、同じ感覚の証明じゃない」
「はい」
「違ってても、別の感覚の証明じゃない」
「そのとおりです」
◇
次に、東側奥部の事前状態について話し合った。
こちらも以前から候補として残っている。
対象となる反応が現れる前の平均傾きと、変動性。
過去の無反応試行では、事前状態が比較的平坦だったものもあれば、下降傾向だったものもある。したがって、単純な「平坦なら反応する」「傾いていれば反応しない」という説明はすでに成立していない。
「三件の弱い違和感が出たときの東側事前状態を見ることはできます」
若い観測員が説明する。
「でも、それも三件だけで原因を決めるためではありません」
「もし三件とも同じだったら?」
「共通していた候補になります」
「違ったら?」
「少なくとも、その項目が完全に同一であることは三件の共通条件ではなくなります」
「それは入力より分かりやすいかも」
「ただし注意が必要です」
「何?」
「東側事前状態は、こちらが選んで作った条件ではありません。観測された開始状態です」
「いい状態になるまで待ったりしない」
「はい。今後も、それを見て試行するかどうかを決めません」
「結果が出そうなときだけやったら駄目だから」
「そのとおりです」
アリシアは三件の表を見る。
入力。
東側の事前状態。
主観報告。
東側の対象反応。
西側の対象反応。
並べられるものは多い。
だからこそ、一度に全部を開けば、何かしら似たものが見つかってしまう気がした。
(似てるものを探すだけなら、たぶん見つかる)
その考えを、アリシアは口にした。
「いっぱい見たら、どこかは似てるよね」
「可能性は上がります」
「それを見つけて、『これかも』って言いたくなる」
「はい」
「じゃあ、次に見るもの、一つにしたい」
会議室の空気が少し変わった。
副学院長が尋ねる。
「どちらを優先したいですか?」
アリシアはすぐには答えなかった。
入力側の詳細。
東側の事前状態。
どちらも以前から候補として残っている。
どちらを先に開いても、それ自体は既存方針に反しない。
「……東側の始まる前」
「理由は?」
「入力は私たちが作ったものだから、ある程度は同じ種類なの知ってる。でも東側の始まる前は、こっちが作ってない」
「はい」
「三件の弱い違和感が出たとき、東側が始まる前に似た状態だったかは、まだ見てない」
「そうですね」
「それを先に見たい」
魔導具担当教師が記録へ目を落とした。
「比較項目は既に固定されている二つだけにしますか?」
「平均の傾きと、ばらつき?」
「はい」
「新しい形とかは見ない」
「局所波形の形状を新規項目として追加しない、という意味ならその方針でよいと思います」
「じゃあ二つだけ」
副学院長が全員を見回す。
異論は出なかった。
◇
ただし、その場で記録は開かなかった。
「今日見ないの?」
アリシアが尋ねる。
「見ても構いませんが、先に比較方法をもう少し固定した方がよいでしょう」
「二つだけじゃ足りない?」
「項目は二つで足ります。ただ、何と何を比較するのかを明確にしたい」
「三件同士?」
「それが第一です」
「ほかは?」
「三件だけを見て『似ている』『違う』と評価するのか。それとも既存の反応確認・非確認記録における事前状態の分布も参照するのかで、意味が変わります」
アリシアは眉を寄せた。
「また増えた」
「だから今日は開かない選択もあります」
机の端で座っていたノアが尻尾を一度振った。
『見たいものが増える速度だけは一流ね』
「増やしたの私じゃない」
『研究ってそういうものでしょ。箱を一つ開ける前に、横から二つ箱が生える』
「嫌な言い方」
『でも合ってる』
アリシアは否定できなかった。
「三件だけ比べるのと、昔の記録も入れるの、どっちがいい?」
若い観測員は少し考えてから答えた。
「目的次第です。三件の弱い胸部異常報告に共通する事前状態があるかを探索するなら、まず三件だけでも記述できます。ただし、それが弱い胸部異常報告に特有かどうかは分かりません」
「ほかでも同じかもしれないから」
「はい」
「昔の記録も入れたら?」
「特有性について少し広い比較はできます。ただし、分析対象が増えますし、どの記録を含めるかを先に決める必要があります」
「都合いいのだけ選んじゃ駄目」
「そのとおりです」
アリシアは椅子の背へ少し身体を預けた。
知りたい気持ちはまだ強い。
けれど、ここで昔の記録まで開き始めれば、今日中に終わる話ではなくなる。
「今日は決めるだけにする」
「どこまで?」
「次に三件の東側事前状態を見る。そのときは平均傾きと変動性だけ」
「はい」
「まず三件同士の記述比較」
「はい」
「それで何か同じでも、それがこの弱い違和感だけの特徴とは言わない」
「はい」
「違ってても、三件が別物って決めない」
「はい」
「そのあと昔の記録と比べるかは、三件の結果を見てその場で決めない」
最後の一言に、若い観測員が少し目を見開いた。
「では、既存記録との比較を行うかどうかも、三件を開く前に決めるということですか?」
「その方がいい?」
「結果を見てから都合よく比較範囲を広げることを避けるなら、方法としては明確です」
「じゃあ次にそこ決める」
「今日は?」
「決めない」
アリシアは少し悔しそうに三件の表を見る。
「今日はもう疲労三になりそう」
サーラが確認する。
「今は?」
「二と三の間。二・五くらい」
「珍しいですね」
「前も半分使ったことある」
「そうでしたね」
記録担当職員がそのまま二・五と記した。
数字は整数でなければならない決まりではない。
本人がその間だと感じるなら、そのまま残す。
◇
研究棟を出たあと、アリシアはまっすぐ生活観測区画へ戻らず、学院近くの小さな広場で少しだけ立ち止まった。
夕暮れの空には薄い橙色が残っている。
学生たちの姿は減り始めており、遠くから部活動を終えた生徒たちの声が聞こえてきた。
「今日、何も見なかった」
『いっぱい見てたじゃない』
「新しい記録」
『ああ』
「見ようと思えば見られた」
『そうね』
「でも見なかった」
『褒めてほしいの?』
「別に」
『顔はちょっと褒めてほしそうだけど』
「違う」
アリシアは歩き始めた。
ノアも隣をついてくる。
「三つあるのに」
『何が?』
「弱い違和感」
『ええ』
「三つもあったら、前なら名前つけたくなってたと思う」
『今もつけたいんじゃない?』
アリシアは少し黙った。
「……つけたい」
『なら変わってないわね』
「でもつけない」
『そこは変わったわね』
ノアはそれ以上何も言わなかった。
そのくらいが、アリシアにはちょうどよかった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は紙箱の中身を全部机へ出していた。
小さな石。
木の実。
短い白い紐。
ノアの毛。
色紙。
工作用の丸みを帯びた木片。
「何してるの?」
「分けてる」
「何で?」
「同じの」
子供は木の実と木片を近くへ置いていた。
「それ同じ?」
「茶色」
「色が?」
「うん」
「石も少し茶色いよ」
子供は石を見た。
「じゃあこっち」
三つが並ぶ。
白い紐は離れている。
青い紙も離れている。
ノアの毛も別だった。
「色で分けてるんだ」
「うん」
「形じゃない?」
「今日は色」
「明日は?」
「分かんない」
アリシアは子供の向かいへ座った。
「色で同じところに置いても、同じものじゃないよね」
「石と木?」
「うん」
「違うよ」
「でも茶色は同じ」
「うん」
子供は当然のように答えた。
アリシアは少し笑った。
「何?」
「研究のこと考えた」
「また?」
「ちょっとだけ」
「石と木、研究?」
「違うよ」
「じゃあやめて」
「はい」
子供に叱られ、アリシアは素直に口を閉じた。
そのまま二人で紙箱の中身を眺める。
大事な木箱は今日も閉じたままだった。
顔のない存在は少し離れた椅子に座っており、胸元の十一の灯りにも目立った変化はない。
今日は、それでいい。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは二冊の紙を机へ並べた。
一つは学院の記録。
もう一つは研究ノート。
先に学院の方を開く。
今日の生活魔導具の授業で見た、鍋のように見える保温器について少しだけ書いた。
『北部の古い保温器。鍋に見えた。先生は鍋ではないと言っていた。』
書き終えてから、自分で少し笑った。
役に立つ記録ではないかもしれない。
でも、後で見れば今日の授業を思い出せそうだった。
次に研究ノートを開く。
『三件を並べても、新しい感覚名はつけない。』
『次の候補――三件それぞれの東側事前状態。既存固定項目の平均傾きと変動性だけ。局所形状は追加しない。』
『まず三件同士を記述比較する。ただし、共通していても三件に特有とは言わない。違っていても別の感覚とは決めない。』
さらに一行。
『既存記録との比較範囲は、三件の結果を見る前に決める。』
そこで筆を止めた。
三件。
胸の少し左。
〇・五ほど。
痛みなし。
息苦しさなし。
既存の冷感基準には届かない。
似ている。
でも同じとは決められない。
(名前があったら楽なのに)
名前をつければ、三件を一つのものとして話せる。
けれど、その便利さが今は危ういことも分かっていた。
同じ名前を与えた瞬間、自分の中では「同じものだった」という感覚が強くなってしまうかもしれない。
だから、まだ長い呼び方のままでいい。
既存対象感覚非確認・閾値未満胸部異常報告三件。
面倒で、言いにくくて、少し嫌になるくらい長い。
それでも今は、その不便さの方が正確だった。
◇
翌日の研究参加は予定されていなかった。
学院と生活観測区画で過ごす日になる。
その次に研究棟へ行くとき、まず決めるのは、三件の東側事前状態だけを見るのか、それとも既存のどの記録まで比較対象として先に含めるのかという範囲だった。
まだ記録そのものは開かない。
何が出るかを見てから範囲を変えないために、先に見る場所を決める。
机の上の研究ノートを閉じると、アリシアはその隣に学院の記録紙を重ねた。
研究の紙。
授業の紙。
どちらも今日の自分が書いたものだった。
三つの弱い違和感には、まだ名前がない。
六つ目の神器にも、まだ正式な名前はない。
東と西の間で何が起きているのかも、分からない。
分からないものは多い。
それでも、分からないからといって、急いで名前を与える必要はなかった。
アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。
明日は研究の記録を開かない日だ。
資料修復の次の授業について考えてもいいし、友人と昼食の話をしてもいい。子供の紙箱を見てもいいし、何もしない時間があってもいい。
その全部を終えてからでも、三件の記録は消えない。
答えを急がなくても残るものがあると知ったことは、今のアリシアにとって、答えそのものと同じくらい大切になり始めていた。




