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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第254話 ない窓とは、同じように比べない



 次の打ち合わせの日、朝から空には薄い雲が広がっていた。


 雨になるほど重い雲ではなく、ときおり切れ間から淡い日差しが落ちてくる。生活観測区画の庭では、前日の雨を吸った土がまだ少し濃い色をしており、窓を開けると湿った草の匂いと冷たい風が一緒に入ってきた。


 アリシアは朝食を終えたあと、学院へ持っていく鞄を椅子の上へ置いたまま、研究棟から届いていた連絡紙をもう一度読んでいた。


 今日も人工刺激はない。


 議題は、三度目の弱い胸部異常報告について、西側の対象反応非確認記録とどう並べるか。その方法を先に決め、必要ならそのあとで記録を開く。


 もう一つ、過去二件との正式な時間配置比較を行うかどうかも検討する。


 入力の詳細波形は開かない。


 東側の事前状態比較もまだ行わない。


「今日も窓?」


 向かい側で朝食後の牛乳を飲んでいた子供が尋ねた。


「たぶん」


「四つ目?」


「増やさないよ」


「じゃあ三つ目?」


「三つ目の続きを見るの」


 子供は少し首を傾げた。


「昨日作ったのに?」


「作ったけど、西側とはまだ比べてないから」


「西に窓ないんでしょ?」


 アリシアは瞬きをした。


「……覚えてたの?」


「昨日言ってた」


「そっか」


「ないのに比べるの?」


「それを今日考える」


 自分で答えてから、アリシアは少し笑った。


 まさに今日の問題だった。


 東側には確認された対象反応の時間窓がある。


 自分にも、弱い胸部異常報告から構成した主観時間窓がある。


 だから二つは、重なるか、離れているか、中央がどちら側にあるかという同じ方法で並べられた。


 けれど、西側では対象反応が確認されなかった。


 確認されたものの開始と終了を示す窓は存在しない。


「ないなら、ゼロ?」


 子供が続けて尋ねる。


「ゼロって?」


「窓の大きさ」


「違うと思う」


「何で?」


「窓が小さくてゼロになったんじゃなくて、確認できる窓がなかったから」


「同じじゃない?」


「……たぶん、違う」


 アリシアはそこで言葉に詰まった。


 感覚としては分かる。


 けれど、子供へ説明しようとすると難しい。


 ノアが椅子の下から欠伸をしながら顔を出した。


『朝から子供相手に研究会を始めないで』


「始めてない」


『その顔はもう始まってるわよ』


「どんな顔?」


『答えを説明できなくて悔しがってる顔』


「悔しがってない」


「ちょっと悔しそう」


 子供まで加わった。


「……学院行く」


『逃げた』


「時間だから」


 アリシアは連絡紙を畳んで鞄へしまった。


 重要な木箱は今日も閉じたまま保管されている。子供の普通の紙箱は机の端にあり、青や紫の紙片、小さな石、木の実、短い白い紐、工作用の木片が収められていた。


 窓辺近くの椅子では、顔のない存在が静かに座っている。十一の胸部灯に目立った変化はなく、職員も通常の生活観測記録だけを取っていた。


 研究の問いを抱えたままでも、朝は朝として進んでいく。


     ◇


 学院へ着くと、友人はすでに自分の席で染色授業の記録紙を広げていた。


「何してるの?」


「昨日使った布のこと書いてる」


「授業の宿題?」


「違う。忘れたくないから」


 友人の紙には、染めた布の色について簡単な感想が並んでいた。専門的な記録というより、自分が気に入った色や、思っていた色と違ったところを書き留めているらしい。


「アリシアも書いた?」


「資料修復?」


「うん」


「授業中に記録したよ」


「そうじゃなくて、楽しかったこと」


「……書いてない」


「じゃあ忘れるじゃん」


「忘れないよ」


「絶対?」


「たぶん」


「ほら」


 友人は得意げに笑った。


「研究のことはいっぱい書くのに」


「研究は記録が必要だから」


「好きなことだって残していいじゃん」


 アリシアは返事をしなかった。


 昨日の夜、自分の研究ノートには、東側確認窓との部分重複について書いた。


 嬉しかったことも書いた。


 けれど、資料修復の授業で何が楽しかったかは、どこにも残していない。


(別に、書かなきゃいけないわけじゃない)


 そう思う一方で、書いてはいけない理由もなかった。


「今日帰ったら書く」


「何を?」


「最初の授業で、見るだけでも楽しかったって」


「それだけ?」


「あと、紙の毛羽立ち見つけた」


「そこが楽しかったの?」


「見つけたことが」


「やっぱりちょっと変」


「そっちだって布の色ずっと見てたんでしょ」


「私は普通」


「私も普通」


 言い合っているうちに始業の鐘が鳴り、二人は笑いながら机を前へ向けた。


     ◇


 午前の授業は、学院の中庭を使った基礎実習だった。


 数人ずつの組に分かれ、決められた範囲に置かれた小さな魔力標識を探し、その位置を簡単な図へ記録する。地図作成の選択授業ほど本格的なものではなく、周囲を見ながら位置関係を把握する基礎訓練だった。


 アリシアの組には友人もいた。


「こっちに一個」


 友人が低い植え込みの脇を指差す。


「待って。先に今いる場所書く」


「あとでよくない?」


「あとだと分からなくなる」


「じゃあ書いて」


 アリシアは中庭の噴水と歩道を基準にして、簡単な線を引いた。


 そこから植え込みまでの位置を目測し、標識の場所へ印をつける。


 別の生徒が少し離れたところから声を上げた。


「こっちにもあるぞ」


「そっちはあと!」


 友人が返す。


「先に行けばいいじゃん」


「アリシアが今書いてるから」


「俺らだけ見てくる?」


「待って。全員で動いた方が場所分かりやすい」


 アリシアが顔を上げて言うと、男子生徒は足を止めた。


「じゃあ早く」


「急かさないで」


 簡単な実習だったが、四人で同じ場所を見ていると、意外に認識がずれる。


 噴水から近いと思う者もいれば、植え込みの端を基準にした方が分かりやすいという者もいる。


 アリシアは地図作成を第二希望に選んだことを思い出した。


(やっぱり、これも好き)


 第一希望を決めたからといって、第二希望だったものへの興味が消えるわけではない。


 そのことが少し嬉しかった。


 実習の終盤、教師が各組の図を確認して回った。


「位置そのものは合っています。ただ、この印は何を表していますか?」


 アリシアたちの紙にある、小さな丸を指す。


「標識です」


「では、こちらの丸は?」


「噴水」


「同じ記号ですね」


「あ……」


「自分たちだけが見るなら分かるかもしれません。しかし、ほかの人が見る記録なら、意味を区別できるようにしましょう」


 友人が小さく笑った。


「アリシア、研究みたい」


「今言わないで」


「だって記録」


「これは授業」


「でも同じ丸で困ってる」


「分かったから」


 アリシアは噴水の印を書き直した。


 研究へ結びつけなくても、記録には記録の難しさがある。


 同じ形を使えば、別の意味が混ざる。


 それは単純に、今やっている課題の問題だった。


     ◇


 昼休み、友人は朝の話をまだ覚えていた。


「今日、研究なんだよね?」


「うん」


「窓?」


「何で知ってるの?」


「昨日言ってたじゃん。時間の窓作ったって」


「……みんな覚えてる」


「誰が?」


「子供も覚えてた」


「じゃあ分かりやすい言葉なんじゃない?」


「でも本物の窓だと思われる」


「私は思ってないよ」


 友人はスープを飲みながら少し考えた。


「今日は何するの?」


「昨日作った窓と、窓がない方をどう比べるか考える」


「何それ」


「私も朝うまく説明できなかった」


「窓がないなら比べられないじゃん」


「同じ比べ方はできない」


「じゃあ別にする?」


 アリシアの手が止まった。


「……たぶん、そうする」


「簡単じゃん」


「簡単じゃないよ」


「でも同じようにできないなら、別にすればいいんでしょ?」


「どう別にするか決めないと駄目なの」


「研究って、そこからなんだ」


 友人はそれ以上追及しなかった。


 代わりに自分の染色授業で、思ったより布が染料を吸わなかった話を始める。


 アリシアも研究のことを頭の端へ置き、友人の話を聞いた。


 昼食が終わるころには、午後の授業の話へ変わっていた。


     ◇


 放課後、研究棟へ向かう前に、アリシアは学院の中庭で少し休んだ。


 午前中より雲が薄くなり、傾いた日差しが石造りの校舎の壁を淡い金色に染めている。生徒たちは部活動や選択実習へ向かい、中庭を横切る足音や話し声が途切れず続いていた。


 研究棟へ急ぐ必要はない。


 開始時刻には十分間に合う。


 アリシアは水を飲み、呼吸を整えてから立ち上がった。


 今日の身体状態は悪くない。


 けれど、身体が平気だから早く行く、という決め方もしなくなった。


 研究棟へ到着すると、サーラが入口近くで待っていた。


「少し早いですね」


「中庭で休んできた」


「それならちょうどよさそうです」


 状態確認では、疲労二、痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ。頭痛、吐き気、めまいもない。怖さ一、参加したい気持ち八、早く西側を見たい気持ちは九だった。


「九」


 サーラが確認する。


「うん」


「それを理由に中止したいとは思いません。ただ、今日の比較方法を決める前に記録を開きたくなる感じはありますか?」


 アリシアは少し考えた。


「ある。でも、開けない方がいいと思ってる」


「どちらが強いですか?」


「見たい方が強い。でも、勝手に開けたいわけじゃない」


「分かりました」


 そのまま補足として記録された。


 期待や欲求が高いからといって、数字だけで行動を決めない。


 アリシア自身が、今どんな状態なのかを言葉でも残す。


     ◇


 会議室には、副学院長、サーラ、若い観測員、記録担当職員、魔導具担当教師が揃っていた。


 机の中央には、前回固定した三件目の主観時間窓だけが置かれている。


 西側の詳細記録は伏せられたままだ。


「まず、今日の目的を確認します」


 若い観測員が言った。


「西側の対象反応非確認記録を開く前に、三件目の主観時間窓との関係を、何として記録するかを決めます」


「確認窓との重なりみたいにはしない」


「はい」


「西には確認窓がないから」


「そのとおりです」


「でも、観測してた時間はある」


「あります」


「その中で対象反応が確認されなかった」


「はい」


 アリシアはそこで少し考えた。


「朝、子供に『窓がないなら大きさゼロ?』って聞かれた」


 若い観測員がわずかに眉を上げた。


「面白い質問ですね」


「私は違うって答えた。でも、うまく説明できなかった」


「違う、で合っています」


「何が違う?」


 魔導具担当教師が答えた。


「幅ゼロの確認窓というのは、仮に定義するなら『確認された対象反応が一点にだけ存在した』という意味に近くなります。しかし今回は、そういう記録ではありません」


「対象反応が確認されてない」


「はい。ですから、確認窓の幅がゼロなのではなく、確認窓を構成する対象がない」


「ゼロと、ないは違う」


「少なくともこの記録上は、明確に分けます」


 アリシアは頷いた。


 朝より少し説明できる気がした。


「じゃあ、西側にあるのは?」


「固定された観測範囲の中で、対象反応が確認されなかった区間です」


「非確認区間」


「はい」


「でも、その区間ずっと何も起きてなかったって意味じゃない」


「そのとおりです。固定基準に該当する対象反応が確認されなかった、という範囲です」


 副学院長が机の紙へ目を落とした。


「ここを曖昧にすると、確認窓と非確認区間を同じ種類のものとして扱ってしまいます」


「同じ時間の線なのに?」


「時間軸上には置けます。しかし、示している意味が違います」


 アリシアは少しずつ理解していく。


 東側の確認窓は、「対象反応が確認されたものの時間的不確実性」を示している。


 西側の非確認区間は、「その範囲で固定基準に該当する対象反応を確認しなかった」という観測範囲を示している。


 どちらも時間に関する記録だが、同じものではない。


「じゃあ、私の窓が西の非確認区間の中に全部入ってたら?」


「それを事実として記述することはできます」


「『私の主観窓の全域が、西側対象反応非確認区間の範囲内にある』?」


「はい。その表現なら、かなり直接的です」


「でも、『私が感じてる間、西では反応がなかった』とは言わない」


「言いません」


「何で?」


「西側の非確認区間は、対象反応が存在しなかったことそのものを証明するものではないからです。また、主観窓も実際の感覚発生時刻を一点精度で示すものではありません」


「うん」


「さらに、西側の記録には機器側の検出条件があります。基準未満の変化まで存在しなかったという意味でもありません」


「じゃあ、重なってても原因とか順番には使えない」


「少なくとも、それだけでは使えません」


     ◇


 記録方法の候補が紙へ書かれていった。


 最初に出たのは、「主観窓と西側非確認区間の重なり」という表現だった。


 しかし、それでは東側確認窓との「重なり」と同じ意味に読める可能性がある。


「言葉を変えた方がいい?」


 アリシアが尋ねる。


「そう考えています」


 若い観測員が答える。


「たとえば『包含関係』」


「難しい」


「では、『主観窓が西側対象反応非確認区間の内側に位置するか』」


「それなら分かる」


「全部入ってたら『全域が内側』?」


「はい。一部だけなら『一部が内側』。完全に外なら『外側』。ただし、境界の不確実性をどう扱うかも必要です」


 魔導具担当教師が記録へ加える。


「西側非確認区間の始端と終端は、既存の観測記録上の境界をそのまま使います。今回の主観窓に合わせて広げたり狭めたりしない」


「主観窓も昨日作ったまま」


「はい」


「どっちも動かさない」


「そうです」


 さらに、もう一つの問題が出た。


 仮に主観窓全域が西側非確認区間内にあったとしても、その区間のどこに位置するかを細かく測る必要があるのか。


「端からの距離?」


 アリシアが言う。


「候補にはできます」


「でも、最初から決めてなかった」


「そうですね」


「じゃあ、今それを足すと……」


「今回の結果を見てからではありません。まだ西側記録は開いていないので、現時点で固定すること自体は可能です」


「でも必要?」


 会議室が少し静かになった。


 アリシアは自分で言ってから、考え込んだ。


 測れるから測る。


 それだけで項目を増やしてよいのか。


「私は、今は要らないと思う」


「理由は?」


 副学院長に尋ねられる。


「東とのときは、確認窓が二つあったから、重なりとか中央が意味あった。でも西は確認窓じゃない。端から何呼吸って測っても、それが何を意味するかまだ分からない」


「私も同意します」


 若い観測員が頷いた。


「今回の目的は、主観窓が西側の固定された対象反応非確認区間のどこに存在するかを、過剰に特徴づけることではありません」


「じゃあ、内側かどうかだけ?」


「まずはそれで十分でしょう」


 固定する項目は一つに絞られた。


 三件目の主観時間窓について、その全域が西側対象反応非確認区間の内側に位置するか。


 境界が交差する場合は一部。


 完全に外れる場合は外側。


 ただし、これは確認窓との重なり比較とは別種の記述であり、対象反応の不存在、因果関係、実際の出来事の順序を示すものではない。


「これで開ける?」


 アリシアが尋ねる。


「その前に、もう一度確認します」


 副学院長が言った。


「結果がどれでも、項目は変えません」


「うん」


「全域が内側でも、一部でも、外側でも、追加の距離測定を今日その場で増やしません」


「うん」


「予想はありますか?」


 アリシアは少し迷った。


 期待方法の正式な刺激前記録ではない。


 それでも、今の自分の予想を隠す必要もない。


「全域、入ってる気がする」


「理由は?」


「西の共通観測は、私が感じてた時間より長かった気がするから。でも記憶だから、自信はない」


「分かりました。結果判定には使いません」


「あと、入っててほしい気持ちもある」


「それは予想とは別ですね」


「うん」


 アリシアは自分から分けた。


「何で入っててほしい?」


 サーラが尋ねる。


「三件目が、ちゃんと西を見てた時間の中にあった方が、比べられる気がするから」


「分かりました」


 記録担当職員の筆が動く。


 予想。


 願い。


 結果。


 それぞれ別の場所に置かれた。


     ◇


 西側記録が開示された。


 アリシアは、まず固定された対象反応非確認区間の始端と終端を見る。


 その上へ、昨日作った主観時間窓を置く。


 主観窓の開始側。


 終了側。


 西側の固定観測範囲。


 若い観測員と記録担当職員が別々に確認した。


「全域が内側です」


 アリシアの肩から、少し力が抜けた。


「全部?」


「はい。昨日固定した主観時間窓の全域が、西側対象反応非確認区間の内側に位置します」


「境界も出てない?」


「出ていません」


「じゃあ……」


 言いかけて、止まる。


「じゃあ、何?」


 ノアが部屋の端から尋ねた。


 アリシアは紙を見たまま答えた。


「西側を見てた時間の中で、私は弱い違和感を報告してた」


 若い観測員が少しだけ首を傾ける。


「もう一段正確に言うなら、『西側対象反応非確認区間として固定された観測範囲の内側に、主観時間窓全域が位置した』です」


「長い」


「短くすると意味が変わりやすいので」


「……じゃあ長いままでいい」


 アリシアはもう一度紙を見る。


「でも、西が何も起きてなかったとは言わない」


「はい」


「私が感じたから西が出なかったとも言わない」


「はい」


「西が出なかったから私が感じたとも言わない」


「はい」


「六つ目が途中で止めた、とかも言わない」


「もちろんです」


「じゃあ、これだけ?」


「今日固定した問いに対する答えは、これだけです」


 アリシアは唇を少し尖らせた。


「やっぱり研究って、答えが短い」


『そこへ行くまでが長すぎるのよ』


 ノアの言葉に、若い観測員が苦笑した。


     ◇


 ここで一度休憩になった。


 アリシアは会議室の外へ出て、廊下の窓辺で水を飲む。


 疲労は三。


 痛みゼロ。


 息苦しさゼロ。


 胸部異常ゼロ。


 知りたい気持ちは九。


 続きをしたい気持ちも九近くまで上がっていた。


「過去二件、今日見たい?」


 サーラが隣へ来て尋ねる。


「見たい」


「かなり?」


「九」


「止められたら?」


「嫌だけど、帰れる」


「難しさは?」


「四くらい」


 サーラは頷いた。


「では、休憩後に相談しましょう」


「できるかも?」


「状態だけなら、短い比較は可能です。ただし、今日の目的を広げすぎないことが条件です」


「入力は見ない」


「はい」


「東側の事前状態も見ない」


「はい」


「過去二件と今回の主観時間配置だけ」


「それなら候補になります」


 アリシアは水をもう一口飲んだ。


(見たい)


 三件。


 ようやく正式に並べられるかもしれない。


 けれど、その期待で休憩を短くはしなかった。


 決められた時間まで窓の外を眺め、ノアが廊下を歩く生徒の靴音へ耳を動かしているのを見ていた。


     ◇


 休憩後、研究者側でも相談が行われた。


 今日の身体状態には問題がない。


 比較する項目も、過去二件で既に固定されている。


 新しい指標を追加せず、三件目を同じ表へ加えるだけなら、結果を見てから項目を作ることにもならない。


「行いますか?」


 副学院長がアリシアへ尋ねる。


「やりたい」


「では、既存二件の正式記録を開きます。ただし、三件を同じ感覚だと仮定しません」


「うん」


「違う感覚だとも仮定しません」


「うん」


「比較対象は、あくまで『既存対象感覚非確認・閾値未満胸部異常報告三件』です」


 以前は二件だった表題が、三件へ変わる。


 それ以上の名前は付かない。


 一件目。


 胸部、少し左。


 強度およそ〇・五。


 『冷たい、とはまだ言い切れない』という留保を含む温度語あり。


 既存対象感覚非確認。


 主観窓と東側確認窓は部分重複。


 主観窓と西側確認窓は非重複で、間に隙間あり。


 中央配置は、東側確認窓、主観窓、西側確認窓の順。


 二件目。


 胸部中央よりやや左。


 強度およそ〇・五。


 温度語なし。


 既存対象感覚非確認。


 主観窓と東側確認窓は非重複で、小さいが明確な隙間あり。


 主観窓と西側確認窓は部分重複。


 中央配置は、東側確認窓、主観窓、西側確認窓の順。


 そして三件目。


 胸部中央よりやや左。


 強度およそ〇・五。


 温度語なし。


 既存対象感覚非確認。


 主観窓と東側確認窓は部分重複。


 中央配置は東側確認窓が先側、主観窓が後側。


 西側対象反応は非確認であるため確認窓なし。


 主観窓全域は、西側対象反応非確認区間の内側。


 アリシアは三件をじっと見つめた。


「一件目と三件目は、東と一部重なってる」


「はい」


「二件目だけ東とは重なってない」


「はい」


「でも三件とも、東の中央が私より先?」


「三件目についてはそのとおりです。過去二件についても、既存記録上は東側中央が主観中央より先側です」


「じゃあ三件とも、中央だけ見ると東、私」


「はい。ただし、そこから実際の発生順序を断定しません」


「分かってる」


 アリシアはすぐ答えた。


「西は……一件目は私のあと。二件目は私と一部重なってる。でも中央は私よりあと」


「はい」


「三件目は確認窓がない」


「はい」


「だから同じ表の同じ欄には入れられない」


「そのとおりです」


 アリシアはしばらく黙った。


 似ている。


 でも、揃ってはいない。


 場所と強さは近い。


 温度語は一件目だけ違う。


 時間配置も完全には同じではない。


 そして三件目では、西側対象反応そのものが確認されていない。


(同じって言いたい)


 その気持ちはまだあった。


 弱い同じ何かが三度出ているのだと思えれば、分かりやすい。


 けれど、記録はそこまで言っていない。


「……まだ名前つけない」


 アリシアが言った。


「はい」


「三件とも同じとも言わない」


「はい」


「でも、似てるところはある」


「あります」


「違うところもある」


「あります」


「じゃあ、それをそのまま残す」


 若い観測員が頷いた。


「それが現在できる比較です」


     ◇


 若い観測員は、三件を並べた表を見ながら、アリシアとは少し違うことを考えていた。


 最初のころの彼女なら、共通点を見つけた瞬間に、その共通点へ名前を与えたがったかもしれない。


 あるいは違いを見つければ、自分の予想が外れたことに落ち込み、どちらかを例外として外したくなったかもしれない。


 今は、似ていることを喜びながら、違う部分を消そうとしない。


 しかも、自分が「同じであってほしい」と望んでいることを、隠していない。


 その変化は、研究技法を覚えたというだけでは説明しきれない気がした。


 分からないものを前にしても、自分の気持ちまで敵にしなくなった。


 若い観測員には、そう見えた。


「何?」


 視線に気づいたアリシアが尋ねる。


「いえ。疲れていないか見ていました」


「ほんと?」


「半分は」


「残り半分は?」


「記録には書かない観察です」


「何それ」


 ノアが小さく鼻を鳴らした。


『研究者って便利な逃げ方を覚えてるわね』


「あなたほどではありません」


『言うようになったじゃない』


 会議室に小さな笑いが広がった。


     ◇


 今日の作業はそこで終了した。


 詳細入力波形は開かない。


 東側事前状態も比較しない。


 三件の記述と時間配置を並べたところで止める。


 新しい感覚名も付けない。


 原因仮説の順位づけもしない。


 研究棟を出る前、アリシアは最後に状態を確認した。


 疲労三。


 痛みゼロ。


 息苦しさゼロ。


 胸部異常ゼロ。


 怖さ一。


 満足度八。


 もっと見たい気持ちは九。


「九のまま?」


 サーラが尋ねる。


「うん。でも今日は帰れる」


「理由は?」


「次に見るものが残ってるから」


「入力?」


「入力も。東の始まる前も」


「ほかには?」


「三件が本当に同じなのかも分からない。でも、それは今日見たからって答え出ない」


「そうですね」


「だから帰る」


 アリシアは鞄を持った。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は夕食前の共用室で紙箱を開いていた。


「比べた?」


 アリシアを見るなり尋ねる。


「比べた」


「ない窓と?」


「うん」


「どうだった?」


「私の窓は、西側を見てた時間の中に全部入ってた」


「窓ないのに?」


「西側の窓じゃなくて、西側を見てた時間」


「ふうん」


 子供は分かったのか分からないのか曖昧な顔をした。


「ゼロだった?」


「違った」


「じゃあ、なかった?」


「確認できる窓はなかった。でも、見てた時間はあった」


「……難しい」


「私も朝よりは分かった」


「朝は分かってなかった?」


「ちょっとだけ」


「研究してるのに?」


「研究してても、分かんないことあるよ」


「いっぱい?」


「いっぱい」


 子供は安心したように笑った。


「じゃあいいや」


「何が?」


「私も分かんなかったから」


 アリシアは笑い、子供の向かいへ座った。


 紙箱の中では、色紙が少し増えていた。


 大事な木箱は今日も開けない。


 そのことを誰も問題にしなかった。


     ◇


 夜、自室へ戻ったアリシアは、学院用の記録紙を先に開いた。


 研究ノートではない。


 資料修復の授業について書くための紙だった。


『最初の授業。破れた練習紙をすぐ直さず、最初に状態を見た。』


 少し考え、続ける。


『右下の裂け目。中央の折れ。端の毛羽立ちを見つけた。触る前に見るのが思ったより楽しかった。』


 そこで一度、筆を止めた。


 研究のことを書きそうになったわけではない。


 ただ、今日一日の中で、研究以外に楽しかったことが確かにあったと残せたことが嬉しかった。


 その紙を閉じてから、研究ノートを開く。


『三件目の主観窓全域は、西側対象反応非確認区間の内側。』


『これは西側確認窓との重なりではない。西側対象反応が存在しなかった証明でもない。』


 そして三件比較について書く。


『三件とも胸部左寄り、強さ約〇・五、既存対象感覚非確認、短時間で弱くなる。』


 そこまで書いてから、一件目だけに温度語があること、東側との時間配置が三件で完全には同じでないこと、西側は三件目だけ確認窓が存在しないことも記した。


 最後に、少し迷ってから自分の気持ちを添える。


『同じものだと思いたい気持ちはまだある。似ているところを見ると嬉しい。でも、違うところも残す。』


 筆を置いた。


 窓の外では、昼間の雲がほとんど消え、夜空にいくつか星が見えていた。


 研究の中には、確認されたものの窓がある。


 確認されなかった時間もある。


 分からないままの場所もある。


 それらを全部同じ形へ押し込めなくてもいい。


 ない窓を、ある窓と同じように扱わない。


 似ている三件を、無理に一つの名前へまとめない。


 違いを残したまま並べる。


 今のところ、それができる一番正確な形だった。


 そして机の端には、研究ノートとは別に、資料修復の初回授業について書いた一枚の紙が置かれている。


 アリシアはそれを見てから、灯りを少し落とした。


 明日すぐに新しい人工刺激をする予定はない。


 入力の詳細を開くか。


 東側の事前状態を比較するか。


 それとも三件の弱い胸部異常報告について、記述上の共通点と相違点をもう一段整理するか。


 候補は残っている。


 けれど、今夜決める必要はなかった。


 今日分かったことを、今日分かった範囲のまま置いておく。


 その横に、研究とは関係なく楽しかったことも残しておく。


 以前なら空白に見えたかもしれない時間が、少しずつ自分の生活として埋まり始めていた。

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