第253話 三つ目の窓を、先に作る
翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲を通した柔らかな光が差し込んでいた。
昨夜のうちに少し雨が降ったらしく、庭の石畳にはところどころ濃い色が残り、開けられた窓からは湿った土と葉の匂いが入ってくる。雨そのものは止んでいたが、屋根の端に残った雫が、ときおり小さな音を立てて落ちていた。
アリシアは朝食を終えると、学院へ持っていく鞄の中身を確認した。
教本。
筆記具。
昼食。
資料修復の選択授業で使うために用意した、新しい記録紙。
最後の紙束へ指を触れたところで、少しだけ手が止まる。
(研究用じゃない)
わざわざ心の中で確認した自分がおかしくなって、口元がわずかに緩んだ。
今日は学院で、選択授業としての資料修復に初めて参加する日だった。
研究棟からも連絡は届いている。
放課後、昨日固定準備をした三件目の弱い胸部異常報告について、まず主観時間窓を作る。ただし人工刺激は行わず、入力の詳細波形も開かない。東西の詳細記録についても、時間窓比較に必要な既存項目だけを段階的に扱う。
楽しみにしている予定が二つある。
以前のアリシアなら、研究の予定がある日には、学院の出来事をその前に置かれた待ち時間のように感じていたかもしれない。
けれど今日は違った。
資料修復の授業も楽しみだった。
研究も気になる。
どちらか一つを、本物の予定にする必要はない。
「何笑ってるの?」
向かい側から子供が尋ねた。
朝食後も席に残り、紙箱の中身を一つずつ取り出して並べている。小さな石、木の実、短い白い紐、ノアの毛、色紙、それから丸みのある工作用の木片。大事な木箱とは別の、子供が自分で作った普通の紙箱だった。
「笑ってないよ」
「笑ってた」
「ちょっとだけ」
「何で?」
「今日、楽しみな授業があるから」
「研究?」
「授業」
子供の手が止まった。
「研究じゃない?」
「うん。紙を直す勉強」
「破れた紙?」
「そう」
「新しい紙にしたら?」
「古い紙を残したいときもあるんだって」
子供は少し考え、小さな青い紙片を持ち上げた。
「これ破れたら?」
「それを残したいなら、直すかも」
「新しい青いのあるよ」
「新しいのがあっても、それが好きなら残していいんじゃない?」
子供は手元の青い紙を眺めたあと、紙箱へ戻した。
「じゃあ残す」
「うん」
『朝から紙一枚にずいぶん壮大な価値を与えてるわね』
椅子の下で丸くなっていたノアが、眠そうに片目を開けた。
「ノアの毛も入ってるよ」
『それは紙より価値があるわ』
「いっぱい落ちてる」
『そういう現実的なことを言うんじゃないの』
子供が笑い、アリシアも鞄を閉じながら笑った。
大事な木箱は、今日も開けない。
顔のない存在は窓辺から少し離れた椅子に座っており、胸元の十一の灯りにも目立った変化はなかった。職員は必要な記録だけを取り、アリシアたちの会話へ研究的な意味を足そうとはしない。
穏やかな朝だった。
◇
午前の授業を終えたあと、アリシアは友人と一緒に選択授業用の教室へ向かった。
途中で道が分かれる。
「じゃあ、あとでね」
染色を第一希望に選んだ友人は、染色実習室のある別棟へ向かう。
「うん」
「研究あるんでしょ?」
「放課後に」
「紙の授業中に研究のこと考えないようにね」
「考えないよ」
「昨日、発光球明るくしてたじゃん」
「今日はしない」
「紙を光らせないでよ」
「光らせないってば」
友人は笑いながら手を振り、廊下の角を曲がっていった。
アリシアも資料修復室へ向かう。
見学のときにも入った部屋だったが、授業として席へ着くと印象が少し違う。
窓には薄い布が掛けられ、直射日光が机へ当たらないよう調整されている。室内には乾いた紙と糊、それから木製の道具が混じった独特の匂いがあり、壁際の棚には練習用資料や刷毛、重し、薄い補修紙が種類ごとに並べられていた。
受講者は十数人ほどだった。
見学時にいた生徒もいれば、初めて部屋へ入るらしく周囲を興味深そうに眺めている生徒もいる。
担当教師は全員が着席したのを確認すると、机の上へ一枚の紙を掲げた。
端が大きく裂け、中央にも折れ跡が残った練習用資料だった。
「最初に覚えてほしいのは、直す方法ではありません」
何人かの生徒が意外そうに顔を上げる。
「触る前に、状態を見ることです。破れているから貼る、折れているから伸ばす、汚れているから拭く。そうやって見た瞬間に手を出すと、かえって傷めることがあります」
アリシアは机の上に置いた筆記具へ手を伸ばした。
けれど、教師の言葉を一字一句書き写すのはやめた。
今日は研究記録を取るために来たのではない。
自分が後で思い出せる程度に、必要なことだけを書く。
「まず、どこが傷んでいるか。紙の厚さはどうか。裂け目は新しいのか古いのか。触らずに分かる範囲を見ます。そのあとで、必要なら道具を使います」
各机へ練習用の紙が配られた。
アリシアの前に置かれたものは、右下の角が斜めに裂け、中央付近には細い折れ跡がある。端の一部には、わずかな毛羽立ちも見えた。
すぐに触らず、目で追う。
裂け目。
折れ。
端の毛羽立ち。
紙全体の色の違い。
少し離れた席では、早くも指先を伸ばしかけた生徒が教師に止められ、周囲から小さな笑いが起きていた。
「触りたくなるでしょう?」
教師自身も笑っている。
「なります」
止められた男子生徒が素直に答えた。
「だから最初に止まる練習をします」
アリシアは練習紙を見つめた。
(触りたい)
自分も同じだった。
裂け目を近くで見たい。
紙の厚みも確かめたい。
でも今は、見る時間だ。
研究のことを持ち込まなくても、その感覚自体が面白かった。
何かを直したいから見るのではなく、まず今どうなっているのかを知る。
教師の指示が出てから、細い道具で紙の端をわずかに持ち上げ、厚みや繊維の状態を確かめる。
隣の生徒の紙とは裂け方が違う。
同じ練習用資料でも、傷み方は一枚ずつ異なっていた。
「楽しい……」
気づけば小さく声が漏れていた。
隣の女子生徒がこちらを見た。
「こういうの好き?」
「うん」
「私、破らないか怖い」
「私も怖いよ」
「そう見えない」
「触るときは怖い」
アリシアは道具を置き、少しだけ笑った。
怖くないから慎重なのではない。
壊したくないから、慎重になる。
それでいいのだと思った。
◇
授業の後半では、実際の補修へ入る前段階として、裂け目の位置を記録紙へ写す練習が行われた。
細かすぎる絵を描く必要はない。
どの位置に、どの程度の傷みがあるのか。
後で別の人が見ても、おおよその状態が分かるように残す。
アリシアは夢中になった。
最初は線を細かく描きすぎてしまい、教師から「全部を写す必要はありません」と言われる。
「でも、ここも少し毛羽立ってます」
「気づいたことを書くのはいいですよ。ただし、何を目的に残す記録なのかを忘れないように」
「目的……」
「今は、補修前の状態を共有するための記録です。紙そのものを再現する絵ではありません」
「分かりました」
アリシアは少しだけ線を減らした。
何でも細かくすればよいわけではない。
それでも教師は、アリシアが見つけた毛羽立ちを消せとは言わなかった。必要なら短い注記として残せばいいと教えてくれた。
授業が終わるころには、最初の緊張よりも次回への楽しみの方が大きくなっていた。
今日はまだ本格的な補修をしていない。
それでも十分に楽しかった。
廊下へ出ると、染色実習を終えた友人が少し遅れて走ってきた。
「どうだった?」
「楽しかった」
「早い」
「そっちは?」
「楽しかった!」
「同じじゃん」
「こっちは布を触った」
「こっちは紙をあんまり触らなかった」
「何する授業なの?」
「最初に見る」
「見るだけ?」
「見るだけじゃないよ。記録もした」
「やっぱり研究っぽい」
「違うって」
「顔が研究のときと同じだったりして」
「してない」
「今すごい嬉しそうだけど」
アリシアは否定しようとして、やめた。
「……楽しかったから」
「ならいいじゃん」
友人は満足そうに頷いた。
◇
放課後。
アリシアは一度水分を取り、軽く休んでから研究棟へ向かった。
今日の研究参加前確認では、疲労二、痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ、頭痛・吐き気・めまいもなし。怖さ二、参加したい気持ち八、早く答えを見たい気持ちは七だった。
昨日より少し下がっている。
「資料修復が楽しかったから?」
サーラに尋ねられ、アリシアは考えた。
「分からない。でも、今日は研究棟に来るまで研究だけ考えてなかった」
「それはそのまま記録しておきましょう」
「数じゃないの?」
「数だけで十分とは限りません」
「期待のときと同じ?」
「少し似ていますが、今の発言を新しい評価項目にするわけではありません。今日の状態を理解する補足です」
「うん」
会議室には昨日とほぼ同じ顔ぶれが揃っていた。
副学院長、サーラ、若い観測員、記録担当職員。魔導具担当教師も後から加わる予定だが、最初の主観時間窓作成には立ち会わず、必要になった段階で入室することになっている。
机の上にあるのは、今回のアリシアの主観報告記録だけだった。
東側の確認窓は伏せられている。
西側の記録も伏せられている。
入力開始時刻は、主観時間窓を共通基準へ置くために必要な最低限の基準情報だけが、記録担当側で管理されている。
「今日、最初にするのは三件目の主観時間窓の構成です」
若い観測員が説明する。
「東側確認窓の位置は、まだアリシアさんにも私にも開示されていません」
「あなたも?」
「窓を構成する担当としては見ていません」
「西も?」
「見ていません」
「昨日、結果は知ってたよね」
「東確認、西非確認という判定結果は知っています。ただし、東側の具体的な時間配置は見ない状態で今日の作業へ入ります」
「完全に知らないわけじゃない」
「はい。そこは重要です。判定結果を知っている以上、完全な盲検ではありません。その制限自体も記録します」
アリシアは頷いた。
「知らないふりはしない」
「その通りです」
机へ置かれた紙には、今回の発言が時系列で記されていた。
『……今、少し変』
最初の報告。
その後に部位確認があり、
『胸……真ん中より、少し左』
強さを尋ねられて、
『一より下。……〇・五くらい』
さらに、
『……弱くなってる』
最後に、
『……今は、ない』
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
温度語なし。
既存対象感覚非確認。
「前の二件は見ない?」
「今は見ません」
「覚えてるけど」
「記憶を消すことはできません。だから、覚えていること自体は問題にしません。ただし、以前の窓に似せるために今回の境界を動かさないよう、既存規則だけで作ります」
「分かった」
◇
まず、開始側の境界を決める。
最初の『……今、少し変』は、明確な胸部異常報告として扱える。
ただし、その言葉を発した瞬間に感覚が発生したとは限らない。
アリシアが感じてから言葉へするまでには時間がある。
これまでと同じ、既存の発話前不確実性を適用する。
「『今』って言ってるけど、点にはしない」
「はい」
「『今』は時刻一点の意味じゃなくて、報告した時点で感じてるって意味」
「その解釈も既存ルールと一致します」
若い観測員が境界候補を書き込む。
アリシアはそれを見ながら、以前の二件を思い出していた。
最初の一件では、『今、少し変』という言葉から始まり、そのあとに胸の少し左、冷たいとはまだ言い切れないという報告があった。
二件目では、『今』に続いて胸が少し変だと伝え、場所を答えた。
今回も言葉の形は似ている。
けれど、それだけで同じ窓にはしない。
「次に、終了側です」
『弱くなってる』。
この発言だけでは、その時点で消失したことにはならない。
まだ存在しているが弱くなっている。
その後の『今は、ない』で、少なくとも報告時点では消失している。
「消えた瞬間は、この二つの間?」
「少なくとも、現在の報告からはその範囲を含む不確実性があります」
「『今は、ない』の直前に消えたとは限らない」
「はい。もっと前に消えて、言葉にするまで時間があった可能性もあります」
「じゃあ、前と同じ発話の遅れを考える?」
「終了側にも既存の扱いを適用します」
アリシアは紙へ視線を落とした。
一本の細い線ではなく、幅を持った窓になる。
曖昧だから雑なのではない。
曖昧な部分を、分かったことにしないための幅だった。
「部位の報告は?」
「開始を前へ動かす根拠にはしません」
「強さ〇・五も?」
「開始境界には使いません」
「温度語がないのも時間には関係ない」
「はい。記述比較では重要ですが、時間窓の開始を動かす理由にはしません」
少しずつ、三件目の主観時間窓が紙の上へ形を持っていく。
アリシアは途中で何度か以前の記録と比べたくなった。
それでも口に出さず、まず今回だけを見る。
最終的に作られた窓を、若い観測員と記録担当職員が別々に確認した。
「既存規則から外れた処理はありません」
「追加の境界調整もなし」
記録担当職員が答える。
「アリシアさん、ここまでで何か異議はありますか?」
アリシアはしばらく紙を見た。
「ない。でも、思ったより広い」
「狭くしたいですか?」
「……狭い方が比べやすい」
「はい」
「でも、それで狭くしたら駄目」
「その通りです」
「じゃあ、このまま」
◇
主観時間窓が固定されたあと、短い休憩を入れた。
疲労は二のまま。
胸部異常なし。
頭痛もない。
知りたい気持ちは八へ少し上がっていた。
アリシアは水を飲みながら、伏せられた東側記録を見る。
「次、開ける?」
「状態に問題がなければ」
「あるように見える?」
「ありません。ただ、アリシアさん自身は?」
「続けたい。止めろって言われても怒らないくらい」
「その表現は記録していいですか?」
「何で?」
「続行意欲と停止受容が両立していることが分かりやすいので」
「……いいけど」
ノアが部屋の端で尻尾を揺らした。
『そのうち研究記録があんたの妙な言い回し集になるわね』
「ノアの言葉よりまし」
『私の発言集なら売れるわよ』
「誰に?」
『見る目のある人に』
張っていた空気が少し緩んだ。
休憩を終えると、魔導具担当教師も入室した。
「ここから東側の確認窓を開示します」
若い観測員が言った。
紙が表へ返される。
アリシアはすぐに自分の窓と重ねようとせず、まず東側の記録だけを見る。
固定済みの基準で確認された東側奥部対象反応。
開始側と終了側には、機器記録上の不確実性を含む幅がある。
「比較項目を確認します」
「重なるか」
「はい」
「重なったら幅」
「はい」
「重ならなかったら隙間」
「はい」
「中央の位置は別」
「はい」
「時間だけで同じ感覚か違う感覚か決めない」
「そのとおりです」
確認してから、二本の窓を同じ時間軸へ置いた。
アリシアの視線が止まった。
「……重なってる」
「はい」
東側確認窓と、今回の主観胸部異常窓には部分的な重なりがあった。
完全に一致しているわけではない。
どちらかがもう一方を丸ごと含むわけでもない。
固定された方法で測れば、重なり幅を記録できる。
「中央は?」
計算担当が既存の方法で求めた値を確認する。
「東側確認窓の中央が先です。主観窓の中央は、その後ろ側です」
アリシアは息を止めるように紙を見た。
以前の一件が頭へ浮かぶ。
「最初の弱い違和感も……」
そこまで言って、止まった。
「今言っていい?」
「記憶上の比較として発言することは構いません。ただし、正式比較は過去記録を開いてからです」
「最初のは、東と一部重なってた。中央も東が先で、私があとだった」
「その記憶は、正式記録と照合するまで暫定として扱います」
「うん」
嬉しさに似たものが胸へ広がりかける。
(似てる)
けれど、その言葉を確定事項にはしない。
今回の窓は今回の窓。
過去の一件は、あとで正式に開いて比べる。
「これだけなら、同じって言えない」
アリシアが自分から言った。
「はい」
「東と重なったから、東が私に何かしたとも言えない」
「はい」
「東の方が中央が先でも、実際の出来事が必ず東から私の順だったとは言えない」
「その通りです」
副学院長が静かに頷いた。
「今確定できるのは、固定した二つの時間窓の配置です」
「東と私の窓が一部重なった。中央は東が先側」
「はい」
「それだけ」
「まずは、それだけです」
アリシアは紙を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
◇
「西は今日見る?」
当然のように出た問いに、研究者たちはすぐ答えなかった。
西側には対象反応確認窓がない。
東側と同じ比較欄へそのまま置くことはできない。
「昨日の段階では、西側非確認記録との関係をどう記述するかは未固定でした」
若い観測員が言った。
「だから、今から結果を開いてから方法を作るのは避けたい」
「うん」
「西側については、対象反応非確認区間の既存ルールがあります。ただし、それを今回の主観窓比較へどう用いるかは、確認窓との比較とは役割が違います」
「西側の対象反応が確認されなかった区間に、私の窓が入ってたとしても……」
「『西が反応していないときにアリシアさんが感じた』と単純化はできません」
「非確認だから?」
「はい。対象反応が存在しなかったことそのものを証明しているのではなく、固定された観測区間・基準で対象反応が確認されなかったという記録だからです」
アリシアは少し考えた。
「じゃあ、西は今日は開けない方がいい?」
「私はその方がよいと考えます」
「私も」
サーラも同意した。
副学院長がアリシアを見る。
「どうしますか?」
アリシアは伏せられた紙を見つめた。
見たい。
かなり見たい。
けれど、開いたあとで比較方法を決めれば、また結果に引かれる。
「……開けない」
「分かりました」
「次に、西の非確認区間と主観窓をどう並べるか先に決めてから」
「はい」
「でも、今日の東との結果は固定する」
「もちろんです」
記録紙に、新しい一件が加えられた。
第三の閾値未満胸部異常報告。
既存対象感覚非確認。
胸部中央よりやや左。
強度およそ〇・五。
温度語なし。
短時間で弱化し消失。
痛みゼロ、息苦しさゼロ。
主観時間窓と東側確認窓は部分重複。
中央配置は東側確認窓が先側、主観窓が後側。
それ以上の意味づけは保留。
◇
アリシアが研究棟を出たのは、まだ完全に日が沈む前だった。
西の空には雲の切れ間から橙色の光が伸び、雨上がりの石畳が淡く光っている。
ノアが隣を歩く。
『満足度は?』
「八」
『高いわね』
「東と重なってたから」
『それで?』
「嬉しかった」
『素直ね』
「でも、同じって決めてない」
『そこまで聞いてないけど』
「言いたかった」
『成長報告?』
「違う」
アリシアは少しだけ歩調を速めた。
『で、西は見なかった』
「見なかった」
『見たかった?』
「九くらい」
『欲望が具体的ね』
「でも見なかった」
『はいはい、偉い偉い』
「適当」
『猫に研究倫理の称賛まで求めないで』
アリシアは笑った。
研究棟を離れても、頭の中には二本の窓が残っている。
東。
自分。
一部重なり。
中央は東が先側。
以前の一件と似ている気がする。
でも、まだ正式には並べていない。
(早く比べたい)
その気持ちは消さない。
消したふりもしない。
ただ、今日の記録へ混ぜない。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が共用室の机で何かを待っていた。
「遅い」
「ごめん」
「今日、紙直した?」
「まだ直してないよ。今日は傷んでるところを見た」
「直さないの?」
「次からかな」
「見るだけだった?」
「記録もした」
「楽しかった?」
「すごく」
子供は少し不思議そうな顔をした。
「直してないのに?」
「うん」
「変なの」
「そうかも」
アリシアは上着を脱ぎ、自分の椅子へ掛けた。
「研究は?」
「今日は時間の窓を作った」
「窓?」
「本物の窓じゃないよ」
「知ってる」
「知ってるの?」
「前も言ってた」
アリシアは少し驚いた。
子供は細かな研究内容を理解しているわけではない。
それでも、アリシアが以前から「窓」という言葉を使っていたことは覚えていたらしい。
「三つ目の窓」
「三つ?」
「似たような弱い感じが三回あったから」
「同じ?」
あまりにも自然に聞かれて、アリシアは一瞬だけ黙った。
「まだ分からない」
「違う?」
「それも分からない」
「じゃあ三つ?」
「三回あったのは本当だから」
「ふうん」
子供はそれ以上追及せず、机の上に置いていた紙を見せた。
昨日の絵に、細い緑の紙が何本か追加されている。
「草?」
「木」
「細いね」
「遠いから」
「なるほど」
アリシアは隣へ座った。
答えが分からなくても、三回あったという事実は残る。
同じとも、違うとも決めずに。
◇
夕食後、研究棟から短い確認文書が届いた。
今日固定した内容だけが書かれている。
アリシアは共用室の灯りの下で一度だけ読んだ。
主観時間窓の構成完了。
東側確認窓との部分重複。
中央配置は東側先側、主観後側。
西側非確認記録との比較方法は未固定のため未開示。
過去二件との正式比較は未実施。
入力詳細波形未開示。
原因解釈未実施。
短い文書だった。
アリシアは二度目を読もうとして、やめた。
「今日はノート書く?」
子供が尋ねる。
「少しだけ」
「研究?」
「うん。でも結果を写すだけじゃない」
自分の部屋へ戻ったあと、アリシアは研究用のノートを開いた。
今日の正式な数値や時間幅は研究棟に記録されているので、自分のノートへ細かく転記する必要はない。
代わりに、短く書いた。
『三つ目の主観窓を、東西の詳細を見る前に作った。』
『東側確認窓とは一部重なった。中央は東側が先。』
そこまで書いて、筆が止まる。
次に浮かんだのは、
『最初の弱い違和感と似ている。』
だった。
けれど、それは書かなかった。
正式比較をしていない。
代わりに、
『似ている気がして、嬉しかった。まだ正式比較前。』
と書いた。
事実と感情を分ける。
嬉しかったことまで消す必要はない。
最後にもう一行。
『西は見たかった。でも、比較方法を決める前だから開かなかった。』
アリシアは筆を置いた。
以前なら、ここから過去のノートを開き、二件分の記録を探して、自分の記憶だけで線を並べ始めていたかもしれない。
今夜はしない。
窓の外では、雲の隙間から星が一つだけ見えていた。
◇
翌朝。
研究棟では、アリシアが学院へいる時間に、担当者だけの短い確認が行われていた。
若い観測員は昨日の記録を机へ広げる。
アリシアがいない場で、新しい結論を確定するためではない。
次回、何をアリシアへ提示する前に固定しておくべきかを確認するためだった。
「主観窓は既存ルールどおりです」
記録担当職員が言う。
「境界調整なし。東側窓との比較項目も既存の三項目だけ」
「問題ありません」
サーラが頷いた。
「西側はどうします?」
若い観測員が尋ねる。
副学院長は少し考えたあと、伏せられた西側記録へ目を向けた。
「確認反応窓が存在しない以上、過去二件と同じ比較表へ入れるのは避けましょう」
「対象反応非確認区間との関係を別表にしますか?」
「候補です。ただし、何を意味する表なのか明確にする必要があります」
「主観窓が西側対象反応非確認区間の共通観測範囲内に位置するか、という記述ならできます」
「できます。ただ、それを『西側反応がない時間に主観が起きた』と言い換えないこと」
「はい」
若い観測員は記録板へ書き込んだ。
昨日のアリシアは、東側との部分重複を見て明らかに嬉しそうだった。
それでも境界を狭めようとはしなかった。
西側も見たいと言いながら、方法を決めるまで開かないことを自分で選んだ。
研究に慣れたから慎重になった、というだけではない。
欲しい結果がある状態で、その欲しさを隠さずに記録から切り離せるようになってきている。
若い観測員には、その変化の方が昨日の時間窓より印象深かった。
けれど、それを研究結果の欄へ書くことはない。
それはアリシアという一人の少女を見ている側の、別の記憶だった。
◇
同じころ、学院の教室では、アリシアが友人に資料修復の初回授業について話していた。
「まだ直してないの?」
「うん」
「昨日ずっと見てたの?」
「見るだけじゃないって言ったでしょ」
「でも修復って名前なのに修復してないじゃん」
「最初に状態を見るの」
「じれったい」
「楽しいよ」
「アリシア、待つの好きになった?」
友人が何気なく言った。
アリシアは少し考える。
「好きではない」
「じゃあ何で平気なの?」
「待った方がいいときがあるって分かったから」
「それ、研究の話?」
「資料修復の話」
「本当に?」
「……両方かも」
結局つながってしまったことがおかしくて、二人で笑った。
それでも、どちらかをもう片方の例えにする必要はなかった。
資料修復には資料修復の時間がある。
研究には研究の時間がある。
そして今のアリシアには、そのどちらも自分の生活の中にあった。
◇
放課後に届いた次回打ち合わせの連絡には、人工刺激なしと明記されていた。
議題は二つ。
一つは、三件目の主観時間窓と西側対象反応非確認記録を、誤解を生まない形でどう記述比較するか。
もう一つは、その方法を固定したあと、過去二件の主観時間配置と今回を正式に並べるかどうか。
入力詳細波形の比較は、まだ別候補として残されている。
東側事前状態の比較も同じだ。
どれも消えていない。
ただ、今は一つずつ進む。
アリシアは連絡紙を畳み、学院用の鞄へしまった。
昨日作った三つ目の窓は、まだ何かの答えではない。
東側との部分重複も、原因を示してはいない。
西側が非確認だった意味も分からない。
それでも、三度目の弱い違和感は、曖昧な記憶の中ではなく、既存の規則で作られた時間窓として残った。
次は、その窓を西側の「確認されなかった時間」とどう並べるのかを、見る前に決める。
答えへ近づいているのか、それとも新しい分からないことを増やしているだけなのか、今のアリシアには判断できなかった。
けれど、分からないままでも進める方法を、彼女は少しずつ覚えていた。




