第252話 違った一件を、すぐに説明しない
追加系列を終えた翌日の学院は、朝からよく晴れていた。
前日まで空に残っていた薄い雲もほとんど消え、教室の窓から差し込む光が机の端を明るく照らしている。開け放たれた窓から入る風はまだ少し冷たかったが、日差しの当たる場所には穏やかな暖かさがあり、授業が始まる前の教室にはいつもよりのんびりとした空気が流れていた。
アリシアは自分の席で、資料修復の選択授業について配られた案内を読み直していた。
最初に扱うのは練習用の紙で、破損状態の観察から始まる。裂け方、折れ方、湿気による変形、表面の擦れなどを見分け、その状態に応じて何をしてよいのか、逆に何をしてはいけないのかを学ぶらしい。
昨日も読んだ内容だったが、研究結果を待ちながら眺めていたときとは、文章の入り方が少し違った。
(本当に資料修復、受けるんだ)
第一希望として名前を書いたときにも実感はあった。それでも、実際に割り振りが決まり、授業内容まで示されると、見学とは違う期待が生まれてくる。
「また見てる」
隣から声がして、アリシアは顔を上げた。
友人が鞄を机の横へ掛けながら、呆れたように笑っている。
「いいでしょ」
「いいけど、昨日も見てたじゃん」
「昨日と今日で内容は変わってないよ」
「じゃあ、なんでまた読むの?」
「楽しみだから」
アリシアが答えると、友人は一瞬だけ黙った。
「何?」
「いや、普通に言うようになったなと思って」
「何を?」
「楽しみって」
「……前から言ってる」
「前より増えた」
そんなことはない、と反射的に返そうとして、アリシアはやめた。
自分では分からない。
けれど、染色を見に行った日も、地図作成を体験した日も、資料修復を見学した日も楽しかった。研究とは関係のない予定を楽しみにすることを、以前ほど後ろめたく思わなくなっているのも確かだった。
「そっちの染色は?」
「もちろん楽しみ」
「何回案内読んだ?」
「三回」
「私より多いじゃん」
「私のは三回読む価値があるから」
「私のもある」
「じゃあお互い様だね」
友人は満足そうに自分の席へ座った。
教室の前方では、数人の生徒が選択授業の割り振りについて話している。第二希望になったらしい男子生徒が、最初は不満そうだったのに、友人から実習内容を聞いているうちに少し興味を持ち始めていた。
誰もが第一希望に進めたわけではない。
それでも授業は始まる。
アリシアは案内を丁寧に畳み、研究記録ではない学院用の紙束へ挟んだ。
◇
午前の授業では、魔力制御の基礎演習が行われた。
大きな術式を扱うものではなく、小さな発光球へ一定量の魔力を流し、明るさをできるだけ安定させる練習だった。実習机の上には拳より小さな透明球が一人一つずつ置かれ、教室の遮光布が半分ほど閉められている。
あちこちで淡い光が灯るたび、教室の壁に生徒たちの影が揺れた。
「一定って難しい」
友人の球は明るくなったり暗くなったりを繰り返している。
「入れすぎなんじゃない?」
「分かってるけど、弱くすると消えそうになるんだよ」
「消えても壊れないよ」
「分かってる。でも消したくない」
「何で?」
「悔しいから」
友人は眉間に皺を寄せながら透明球を睨んでいる。
その横で、アリシアは自分の発光球へ魔力を流した。淡い光が灯り、少し揺れたあと、一定の明るさへ近づいていく。
教師は教室のあいだを歩きながら、一人ずつ手元を確認していた。
「安定させようとして急に修正しすぎると、かえって揺れます。少し暗くなったからといって、すぐ大きく足さないこと。明るくなったからといって、慌てて全部引かないこと」
その説明を聞いた瞬間、アリシアの頭に昨日の東西記録が浮かびかけた。
東は確認。
西は非確認。
初めての不一致。
(……違う)
すぐに研究へ結びつけようとしている自分に気づき、アリシアは発光球へ意識を戻した。
これは授業だ。
目の前の課題は、この小さな球の明るさを保つこと。
研究の不一致を説明する比喩を探す時間ではない。
「アリシア」
「え?」
「明るくなってる」
友人に言われて手元を見ると、透明球が先ほどより強く光っていた。
「あ……」
「人のこと言えないじゃん」
「今のは考え事してたから」
「それが駄目なんじゃない?」
「……そうかも」
アリシアは少しずつ魔力を調整した。
教師の言葉どおり、一度に大きく戻そうとせず、変化を見ながらゆっくり整える。
光は再び落ち着いた。
研究のことを考えないようにする必要はない。
けれど、何を見ても研究の答えへ変換する必要もない。
今は授業に集中すればよかった。
◇
昼休みになると、友人はいつものようにアリシアの机へ椅子を寄せてきた。
「今日、研究行くの?」
「行かないと思う」
「思う?」
「詳しい分析は今日しないって連絡が来てたから。記録の固定確認だけ」
「固定確認って何?」
「昨日の結果を、あとから都合よく変えないように残すこと……かな」
「変えるの?」
「変えないためにやるの」
「研究って、たまに言葉が逆みたいになるね」
友人が首を傾げる。
アリシアは少し笑った。
「昨日の結果、びっくりしたって言ってたじゃん」
「うん」
「悪かったの?」
「悪くはない」
「よかったの?」
「それも、ちょっと違う」
「また難しい」
友人はパンの包みを開きながら眉を寄せた。
「じゃあ何だったの?」
アリシアは答えを探した。
研究の細かな内容を友人へ説明するつもりはない。東側や西側で何を測っているのか、その意味まで共有する必要もない。
「今まで一緒だった二つが、今回は一緒じゃなかった」
「へえ」
「だから、びっくりした」
「じゃあ、何で違ったか調べるの?」
「たぶん。でも、まだ何を調べるか決めてない」
「すぐ決めないの?」
「昨日は決めなかった」
「今日は?」
「今日も詳しくはやらない」
友人はしばらく考えたあと、自分のパンを一口食べた。
「アリシア、我慢できるの?」
「何が?」
「気になるんでしょ?」
「すごく」
「なのに調べないんだ」
「調べないんじゃなくて、すぐには調べない」
「同じじゃない?」
「違うよ」
少し強く返してから、アリシアは自分でも笑ってしまった。
「何?」
「前だったら、たぶん同じって思ってた」
「何が?」
「今日調べないのと、調べるのをやめること」
「今は違うの?」
「うん。明日とか、その次とかに調べてもいいから」
「研究って逃げないんだ」
「記録は逃げない」
「じゃあ昼ご飯食べなよ。さっきから全然減ってない」
言われて見れば、アリシアの昼食はほとんど手つかずだった。
「……食べてる」
「考えてたじゃん」
「今食べる」
「研究より先に」
「分かったってば」
◇
その日の放課後、アリシアは研究棟へ寄らず、まっすぐ生活観測区画へ戻った。
研究側から追加の呼び出しはない。
昨夜から今朝にかけて身体状態にも変化はなく、人工刺激を置かない日として予定どおり過ごすことになっている。
共用室へ入ると、子供が窓際の机で色紙を切っていた。
紙箱の飾りに使うらしく、細長い青い紙と小さな白い紙片が並んでいる。重要な木箱は今日も別の保管場所にあり、閉じられたままだった。
「帰った」
「うん」
「今日、研究ない?」
「ないよ」
「じゃあ遊べる?」
「何するの?」
「これ」
子供が差し出したのは、余った色紙だった。
「紙?」
「切る」
「何作るの?」
「まだ決めてない」
「決めてないのに切るの?」
「切ってから決める」
アリシアは思わず笑った。
「何?」
「何でもない」
研究では、結果を見る前に決めておかなければならないことがある。
けれど、遊びまで同じである必要はない。
「いいよ。やろう」
アリシアは隣の椅子へ座った。
子供が使っているのは刃物ではなく、紙を挟んで押すと一定の形へ切れる安全な道具だった。丸、四角、葉のような形。何種類かの型があり、子供は青い紙から丸をいくつも抜いている。
「何にするの?」
「まだ分かんない」
「ほんとに決めてないんだ」
「うん」
アリシアも淡い黄色の紙を一枚取った。
「じゃあ私も決めない」
「同じ?」
「同じ」
しばらく二人で紙を切った。
途中からノアが机の下へ来たので、子供が黒い紙から猫の耳のような三角を二つ作り始めた。
『嫌な予感しかしないんだけど』
「ノア作る」
『やっぱり』
「丸い顔」
『もう少し格好よく作りなさい』
「猫」
『それは見れば分かるわよ』
アリシアが笑いながら黄色い丸を並べていると、少し離れた窓辺にいた顔のない存在が、わずかに身体の向きを変えた。
職員がその動きを記録する。
十一の胸部灯に特別な変化はない。
誰もその動きを昨日の研究結果と結びつけなかった。
共用室には紙を押し抜く小さな音と、子供の笑い声だけが続いていた。
◇
翌日も人工刺激はなかった。
朝の状態確認では、疲労一、痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ。怖さも二まで下がり、次の研究をしたい気持ちは八だった。
研究棟からは、午後に短時間の打ち合わせを行うという連絡が届いた。
人工刺激は行わない。
昨日の結果について詳細な原因探索へ入るのでもない。
まず、何を事実として固定し、何をまだ説明しないかを整理するための打ち合わせだった。
アリシアは学院の授業を終えてから研究棟へ向かった。
会議室へ入ると、机の上には三枚の記録概要が置かれていた。
ただし、それぞれは最初から一つの系列だったように並べられてはいない。
一枚目は、専用の東西主質問を初めて前向きに確かめた記録。
残る二枚は、その後に件数を固定して実施した追加系列。
役割の違いが分かるよう、紙の置かれる位置も分けられていた。
サーラ、副学院長、魔導具担当教師、若い観測員、記録担当職員が揃っている。
「今日は刺激しない?」
席へ着いたアリシアが念のため尋ねる。
「しません」
サーラが答えた。
「詳細な波形探索も?」
「今日は行いません」
「弱い違和感の三つも?」
「比較方法を決める話までは候補にできますが、実際の詳細比較はまだ行いません」
「分かった」
アリシアは三枚の紙へ視線を向けた。
見たい。
特に昨日の記録を、もっと細かく見たい。
けれど、今すぐ見なくても消えない。
「まず、現在確定している範囲だけ確認します」
若い観測員が説明を始めた。
「専用主質問の最初の前向き記録では、東側奥部対象反応が確認、西側対象反応も確認。主判定は一致でした」
アリシアが頷く。
「その後、追加二実施試行を結果を見る前に固定しました。追加第一実施試行では、東側非確認、西側非確認。主判定は一致」
「うん」
「追加第二実施試行では、東側確認、西側非確認。主判定は不一致」
「うん」
昨日より落ち着いて聞けた。
結果そのものは変わっていない。
「ここまでは確定記録です」
「三つ目だけ違う」
「はい。ただし、『三つ目だけ違う理由』はまだ確定していません」
「入力は同じ条件だったんだよね?」
魔導具担当教師が答える。
「同じ固定条件群に属します。ただし、『同じ条件群』と『記録された全ての細部が完全に同一』は別です」
「前にも聞いた」
「はい。今回も重要なので確認しています」
「細かい入力波形を見たら、違いがあるかもしれない?」
「あるかもしれません」
「それが原因かもしれない?」
「そこはまだ言えません」
アリシアは少し身を乗り出しかけ、そこで止まった。
「東側の事前状態も違ったかもしれない?」
「可能性としてはあります」
「それも原因とは言えない」
「はい」
「私に弱い違和感があったのも?」
「事実として記録されています。ただし、それが東確認・西非確認という主判定不一致の原因だとは言えません」
「六つ目も?」
「今回の不一致を六つ目の神器の働きだと示す証拠はありません」
アリシアは椅子へ座り直した。
「いっぱい候補ある」
「あります」
「全部見たくなる」
「それが今日の問題です」
副学院長の言葉に、アリシアが顔を上げる。
「問題?」
「不一致が出たことで、結果を説明できそうな差を探したくなります」
「うん」
「入力波形の細部、東側事前状態、アリシアさんの主観報告、過去記録との類似点。探せば多くの違いが見つかるでしょう」
「それを見ちゃ駄目なの?」
「探索として見ること自体はできます。ただし、見つけた差をそのまま『不一致の原因』として扱うことはできません」
「結果を見てから探したから?」
「それも理由の一つです」
若い観測員が机の紙を指先で軽く示した。
「今回の結果を知ったあとなら、私たちは不一致を説明できそうな特徴へ無意識に注目しやすくなります。だから、何を比較するかを決めずに細部を開くと、都合のいい差だけを拾う危険があります」
アリシアは黙って三枚の記録を見る。
(見れば何か分かるかもしれない)
そう思う。
同時に、別の考えも浮かんだ。
(でも、何を探すか決めないまま見たら、違って見えるもの全部が大事に思えるかもしれない)
「じゃあ、見る前に決める?」
「それが一つの方法です」
「何を見るか」
「はい。ただし、今日はその項目を全部決め切る必要もありません」
「また止めるの?」
「止めるというより、分けます」
◇
机の上へ新しい紙が置かれた。
見出しには『今回の不一致後に生じた候補』とだけ書かれている。
「候補は候補のまま残します」
サーラが言った。
「今ここで、次の正式主質問へ全部昇格させません」
「どんな候補?」
「まず、アリシアさん自身が昨日から挙げているものがあります」
「入力の細かい違い」
「はい」
「東側の始まる前の状態」
「はい」
「弱い違和感」
「はい」
「時間」
「それもあります」
アリシアは指を折りかけたが、途中でやめた。
「多い」
「だから全部を一度に主質問へしません」
若い観測員が続ける。
「さらに、『東確認・西非確認という不一致が、今後も前向き記録で再び起こるか』という問いもあります」
「もう一回刺激する?」
「今すぐではありません」
「でも確かめるなら、必要になる?」
「将来の候補としてはそうです。ただし、昨日終えた追加系列へ試行を足すことはしません」
「別の計画にする」
「はい」
アリシアは少し考えた。
「逆もある?」
「逆?」
「東が非確認で、西だけ確認」
「固定した主判定規則では、それも不一致です」
「まだ見たことない?」
「現在の専用前向き系列ではありません」
「古い記録は?」
「今この場では、役割の異なる記録を混ぜて答えません」
「あ……」
アリシアは自分で気づいた。
「また足しそうになった」
「気づけています」
「九個のやつは東西全部一致だった」
「はい。それは既存の九記録について確定しています」
「でも、それと今の専用記録を一緒に数えない」
「その通りです」
◇
話し合いはそこで一度止まり、短い休憩が入った。
アリシアは廊下へ出て、水を飲んだ。
窓の向こうでは、夕方の光が中庭の草を斜めに照らしている。風が通るたび、細い葉が同じ方向へ傾き、またゆっくり戻っていた。
ノアは窓枠の下へ座っている。
『頭から煙が出そうな顔ね』
「出てない」
『気分の話よ』
「候補が多い」
『増えたわね』
「一個違っただけなのに」
『一個違ったからでしょう』
「どれから見ればいいと思う?」
『私に聞くの?』
「またそれ」
『昨日も言ったでしょう。私は研究の答えを決めない』
「答えじゃなくて順番」
『それも研究の人たちと決めれば』
「ノア、最近逃げる」
『適材適所と言って』
アリシアは水を一口飲んだ。
「私は、弱い違和感が気になる」
『でしょうね』
「三回目だから」
『三回目だから同じとは限らないんでしょう?』
「分かってる」
『じゃあ、気になるってだけ残せば』
「それでいいのかな」
『さあ。研究の決まりは知らないけど、あんたが気になることまで禁止されてないでしょう』
「……うん」
気になる。
それは事実。
けれど、気になることと、最優先で調べるべきことは同じとは限らない。
アリシアはその違いを頭の中でゆっくり分けた。
◇
休憩後、話し合いは「次に何を調べるか」ではなく、「候補をどう整理するか」へ戻った。
若い観測員が紙へ四つの欄を作る。
一つ目は、専用主質問そのもの。
二つ目は、入力側の記録。
三つ目は、東西それぞれの応答側記録。
四つ目は、アリシアの副次的主観記録。
「分けるの?」
「はい。昨日の一件には、複数の要素が含まれています。それを一つの説明へまとめる前に、どこに属する疑問なのかを分けます」
「主質問は……東と西が一致するか」
「そうです」
「昨日は不一致だった」
「はい」
「入力側は、予定条件の範囲には入ってた」
「そこも確定です」
「でも細かい違いはまだ開いてない」
「詳細比較はしていません」
「東西の応答側は、東確認、西非確認」
「はい」
「私の方は、対象感覚は非確認。でも弱い違和感があった」
「そのとおりです」
アリシアは四つの欄を見た。
昨日までは、全部が一つの出来事に見えていた。
実際、一つの試行の中で起きたことではある。
けれど、一緒に起きたからといって、一つの原因で説明できるとは限らない。
「これを全部一個の質問にすると?」
「答えにくくなります」
「『何で昨日は東だけ出て、私には弱いのがあって、西は出なかったのか』みたいな?」
「まさにそれです」
副学院長が頷いた。
「それは自然な疑問ですが、そのままでは多くの仮説を一度に含みすぎます」
「じゃあ、小さくする」
「そうです」
「でも、どれを先にするかはまだ決めない」
「今日は候補整理までで十分です」
アリシアは少し不満だった。
けれど、以前のように「今日決めないなら意味がない」とは思わなかった。
◇
そのとき、サーラが別の記録紙を一枚取り出した。
「もう一つ、先に固定しておきたいことがあります」
「何?」
「昨日の弱い胸部異常報告です」
アリシアの背筋が少し伸びた。
「三つ目」
「はい。ただし、今から過去二件との詳細比較を始めるわけではありません」
「じゃあ何するの?」
「昨日の報告を、昨日のまま固定します」
紙には、アリシアの発言が順番どおりに書かれていた。
『……今、少し変』
『胸……真ん中より、少し左』
『一より下。……〇・五くらい』
『……弱くなってる』
『……今は、ない』
その下には、痛みゼロ、息苦しさゼロ、既存対象感覚非確認とある。
「温度語なし」
アリシアが言った。
「はい」
「冷たいとは言ってない」
「はい」
「前の一個も言ってない」
「過去二件のうち、より新しい方には温度語がありません。古い方には『冷たい、とはまだ言い切れない』という留保を含む表現があります」
「そこは変えない」
「変えません」
「三つとも『弱い冷たさ』にはしない」
「しません」
アリシアは安心したように息を吐いた。
「昨日、似てるって思ったから、あとで全部同じ言葉にされるの嫌だった」
「そのために原文を残します」
「じゃあ三つ目の名前は?」
「まだ付けません」
「『三件目』だけ?」
「識別上は試行記録に紐づけられます。感覚クラスとして新しい名称を付ける必要はありません」
「うん。それがいい」
サーラはその返答を聞いて、紙を固定記録の束へ戻した。
◇
「今日は、ここまでにしましょう」
副学院長が告げたとき、アリシアは思わず時計へ目を向けた。
「まだ時間ある」
「あります」
「疲労も三くらい」
「はい」
「怖さも一」
「はい」
「なのに終わり?」
「身体的に続けられることと、今続けることに情報上の価値があることは別です」
アリシアは口を開きかけ、閉じた。
「……それ、ずるい」
「何がですか?」
「反論しにくい」
会議室に小さな笑いが広がった。
若い観測員も記録板から顔を上げ、わずかに笑っている。
「じゃあ、次はいつ?」
「明日は人工刺激を予定していません」
「打ち合わせは?」
「今日整理した候補を研究側でも確認します。次にアリシアさんが参加する打ち合わせの日程は、そのあと連絡します」
「何日後?」
「まだ決めていません」
「……分かった」
アリシアは立ち上がった。
以前なら、ここで何か一つでも約束を取り付けたくなったかもしれない。
次に何を見るのか。
いつ見るのか。
いつ刺激するのか。
けれど今日は、候補が候補のまま残った。
それでも研究は止まっていない。
◇
生活観測区画へ戻ったころには、外はすっかり夕方になっていた。
共用室では、子供が昨日切った色紙を大きな紙へ貼っている。
青い丸が三つ。
黄色い丸が二つ。
黒い猫らしき形が一つ。
ノアはそれを見るなり、露骨に顔をしかめた。
『私、こんなに丸い?』
「猫」
『質問に答えなさい』
「ノア」
『名前まで付けられたわ』
アリシアは笑いながら子供の隣へ座った。
「何作ったの?」
「まだ途中」
「昨日は決めてなかったよね」
「今日決めた」
「何にしたの?」
「空」
「青い丸が?」
「光」
「黄色も?」
「違う光」
「黒いのは?」
「ノア」
『空に浮かべないでくれる?』
子供が楽しそうに笑う。
アリシアはその絵を眺めた。
昨日は何を作るか決めずに切った紙が、今日は一枚の絵になっている。
けれど、それを研究の教訓にしようとは思わなかった。
これは子供の遊びだ。
ただ、昨日決めなくても今日決まることはある。
その事実だけが、妙に心地よかった。
◇
夕食のあと、アリシアは共用室の窓辺に座った。
外は暗くなり始め、庭の木々が輪郭だけになっている。遠くの学院棟にはまだいくつか灯りが残り、研究棟の窓にも小さな明かりが見えた。
あそこでは、研究側の人たちが今日の候補を整理しているのかもしれない。
けれどアリシアは行かない。
呼ばれてもいない。
今夜は自分の部屋で記録を開くつもりもなかった。
(東は確認、西は非確認)
昨日から何度も浮かぶ事実が、また頭の中へ現れる。
(私には弱い違和感があった。でも、それが何を意味するかは分からない)
そこまでは変わらない。
その先へ行こうとすると、候補がいくつも出てくる。
入力の細部。
東側の事前状態。
東と西の応答の違い。
自分の弱い主観報告。
時間配置。
そして、同じ不一致がもう一度起こるのかという問い。
どれも気になる。
だからこそ、全部を一度に追わない。
『今日は書かないの?』
隣の椅子へ飛び乗ったノアが尋ねた。
「書かない」
『また?』
「研究棟で記録したから」
『自分のノートは?』
「今書いたら、候補全部に丸つけそう」
『自覚あるのね』
「ある」
『成長したじゃない』
「褒めてる?」
『半分くらい』
「残り半分は?」
『面倒な研究好きになったなって呆れてる』
「ノアに言われたくない」
『私は面倒なこと嫌いよ』
「でもずっと付き合ってる」
ノアは少しだけ目を細めた。
『あんたに付き合ってるだけ』
アリシアは返事をしなかった。
胸の奥が少しだけ温かくなり、代わりに窓の外へ視線を向ける。
しばらくして、ノアも何も言わなくなった。
◇
翌日の学院では、資料修復の初回授業に向けた持ち物の説明が追加で掲示された。
特別な道具の大半は授業側で用意されるが、自分用の記録紙と細い筆記具を持参するよう書かれている。
「これなら持ってる」
アリシアが掲示を読みながら言うと、友人が横から覗き込んだ。
「研究用じゃないやつにしなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「資料修復の授業で東とか西とか書かないよ」
「アリシアなら書きそう」
「書かないってば」
友人は笑いながら自分の染色授業の持ち物を確認している。
そのとき、教室の入口からアリシアを呼ぶ声がした。
研究棟の職員ではない。
学院の連絡係だった。
「アリシアさん、放課後に研究棟から短い打ち合わせの依頼が届いています」
「今日?」
「はい。人工刺激の予定ではないとのことです」
「分かりました」
渡された紙には、簡潔な内容だけが記されていた。
『不一致後の次段階候補について、比較項目を開く前に整理したい。人工刺激なし。詳細波形開示なし。』
アリシアはその最後の一文を二度読んだ。
詳細波形開示なし。
つまり、まだ答えを探す日ではない。
何を問いとして選ぶか、その前段階を考える日だ。
「また研究?」
友人が聞く。
「うん。でも刺激はない」
「何するの?」
「次に何を調べるか考える」
「昨日も考えてなかった?」
「候補を出しただけ」
「今日は選ぶ?」
「……分からない」
「また決まらないかもしれないんだ」
「うん」
「それでも行くの?」
「行く」
友人は少し笑った。
「前だったら、決まらない会議って嫌いそう」
「今も好きじゃない」
「じゃあ何で笑ってるの?」
指摘されて、アリシアは自分の口元へ触れた。
確かに少し笑っていた。
「分からない」
「変なの」
「うん」
◇
放課後の研究棟では、前日より人数が少なかった。
副学院長、サーラ、若い観測員、魔導具担当教師、記録担当職員。そしてアリシア。
机には昨日作った候補整理の紙だけが置かれている。
詳細な入力波形も、東西の時間記録も開かれていない。
「今日は一つだけ決めたいと思います」
若い観測員が切り出した。
「次に答えを出すのではなく、次に何を開く前に固定する必要があるか、です」
「入力?」
「それも含まれます」
「主観?」
「それも候補です」
「時間?」
「はい」
アリシアは眉を寄せた。
「一つじゃない」
「だから、『どの特徴を見てから決めてはいけないか』を先に整理します」
アリシアは少し考えたあと、意味を理解した。
「結果の細かい形を見る前に、見る場所を決める?」
「そうです」
「前に入力の細かい違いを比べるときもやった」
「同じ考え方を使えます。ただし、今回は不一致が出たあとですから、より注意が必要です」
机の紙に、新しい見出しが加えられた。
『不一致後の探索候補――開示前固定が必要な項目』
「今の段階で、最優先候補として残せるものは三つです」
若い観測員が指を置く。
「一つ。入力側の既存固定指標を使った比較」
アリシアが頷く。
立ち上がり時間。
戻り時間。
事前固定区間の自然揺らぎ。
計算可能な場合の揺らぎ間隔。
総偏差量。
すでに定義されている項目なら、結果を見て新しく作った特徴ではない。
「二つ。東側奥部の事前状態について、既存の平均傾きと変動性を用いた比較」
「新しい『平らさ』を作らない」
「はい。過去に固定したものだけを使います」
「三つ目は?」
「今回を含む三件の閾値未満胸部異常報告について、記述比較と時間配置比較をどう拡張するか」
アリシアの目が少し動いた。
「三つ目、やりたい」
「そう思うでしょうね」
「駄目?」
「駄目ではありません。ただ、アリシアさんの関心が強いこと自体を記録したうえで選ぶ必要があります」
「私が同じだと思いたがってるから?」
「それもあります」
アリシアは黙った。
嫌な指摘ではなかった。
自分でも知っている。
「……うん」
「だから除外する、という意味でもありません」
「期待があるから無効にはしない」
「その考え方と似ています」
アリシアは小さく頷いた。
◇
話し合いは、すぐに一つへ決める方向には進まなかった。
入力側の既存指標を先に見る利点。
東側事前状態を先に見る利点。
三件目となった弱い主観報告を整理する利点。
どれにも意味があり、どれか一つが明らかに正解という状態ではない。
そこで副学院長が口を開いた。
「順番そのものを、原因の順位と誤解しないようにしましょう」
「先に見るから、一番大事ってわけじゃない?」
「そうです」
「じゃあ、一番簡単に固定できるものからでもいい?」
「情報を開くことで後続判断へ影響する可能性も考える必要があります」
「難しい」
「はい」
アリシアは机に肘をつかず、両手を膝の上で組んだ。
(早く見たい)
特に自分の三件。
どこで起きたのか。
東との位置関係はどうだったのか。
西が非確認だった今回、以前の二件と何が違うのか。
けれど、それだけを最初に選ぶと、自分が知りたいものへ研究全体を引っ張ってしまうかもしれない。
「私、決めない方がいい?」
思わず尋ねると、サーラが首を横へ振った。
「参加しない方がいい、という意味ではありません」
「でも私、三つ目選びたい」
「その希望も情報です」
「研究の答えにはしない?」
「はい」
「じゃあ言っていい?」
「もちろんです」
アリシアは一度息を整えた。
「私は、三件の弱い違和感を比べたい。一番気になる」
「理由は?」
「似てる気がするから。同じか知りたい」
「ほかには?」
「今回だけ西が非確認だったから。前の二件は西も確認だった」
若い観測員の筆が動く。
「ただし、前二件も互いに完全に同じ時間配置ではありません」
「うん。古い方は東と一部重なって、西とは重ならなかった。新しい方は東とは重ならなくて、西と一部重なった」
「覚えていますね」
「だから今回も、同じ形になるとは思ってない」
「それでも比較したい?」
「うん」
アリシアは迷わず答えた。
「同じじゃないかもしれないから、見たい」
◇
その言葉のあと、会議室には少し長い沈黙があった。
若い観測員はすぐに賛成せず、ほかの担当者と確認する。
詳細波形を開く前に、三件目の主観時間窓を既存ルールだけで構成することは可能だ。
今回の東側確認窓も、既存の固定方法で作れる。
西側は対象反応非確認なので、確認反応窓は存在しない。その代わり、固定された西側対象反応非確認区間をどのように扱うかは、既存の無反応記録で用いてきた境界ルールを流用できる可能性がある。
ただし、それを「弱い違和感と西側非確認の関係」を証明するものにしてはいけない。
「一つ提案があります」
若い観測員が言った。
「次回、まず今回の主観時間窓を、東西の詳細結果を追加開示しない状態で既存ルールに従って構成します」
「前と同じ?」
「基本は同じです。最初の主観発言から、既存の発話前不確実性を適用します。後続の部位報告や弱化報告は、開始を都合よく前へ動かすためには使いません」
「うん」
「その後、東側の確認窓との重なり、重なり幅または隙間、中央配置を、以前と同じ項目で比較します」
「西は?」
「西には確認窓がありません。ですから、過去二件と同じ『西確認窓との重なり』は作れません」
「じゃあ何を見る?」
「そこは、今日決め切らない方がいいでしょう」
アリシアは少し残念そうな顔をした。
「西の非確認区間と私の窓が重なってるかは?」
「それを記述することは可能ですが、『非確認区間と重なる』ことの意味は、確認窓との重なりとは異なります。同じ欄へ並べると誤解を生みやすい」
「……確かに」
「したがって、東側との比較と、西側非確認記録との関係は分けて扱う必要があります」
「分かった」
「これを次の作業候補として、今日は固定準備までにします」
「まだやらない?」
「今日はやりません」
アリシアは天井を見上げそうになり、途中でやめた。
「長い」
「研究はそういうものです」
「知ってる」
◇
研究棟を出るころには、空が薄い紫色へ変わっていた。
人工刺激はない。
詳細波形も開いていない。
原因も分かっていない。
それでも、昨日より一つだけ先へ進んだ。
次に見るものを、結果の細部へ飛びつく前に整え始めた。
アリシアはノアと並んで歩きながら、研究棟の階段を下りる。
『満足?』
「半分」
『高いのか低いのか分からないわね』
「三件目、比べられそうだから嬉しい」
『でも今日は比べてない』
「うん」
『なのに半分満足』
「前ならゼロだったかも」
『ずいぶん安上がりになったわね』
「悪い?」
『いいんじゃない。研究費にも優しいでしょうし』
「そこ関係ない」
アリシアは笑った。
答えはまだ遠い。
不一致が何を意味するのかも分からない。
けれど、違った一件を見つけたからといって、すぐに説明を作らなくてもいい。
まずは、違ったという記録をそのまま残す。
次に、何を見るのかを決める。
そして見ると決めたものだけを、決めた方法で確かめる。
その順番を守れば、昨日の不一致は消えない。
都合の悪い例にも、都合のいい証拠にも変えずに置いておける。
生活観測区画へ戻ると、子供が昨日の絵を壁際の棚へ立てかけていた。青と黄色の丸、その間に浮かぶ不格好な黒猫を見て、ノアがまた文句を言い始める。
アリシアは鞄を置き、そのやり取りのそばへ座った。
研究の答えは、今日も出ていない。
それでも焦って空白を埋めるより、分からない場所を分からないまま残せる方が、今のアリシアには少しだけ心地よかった。
そして次に開く記録は、昨日の不一致を説明するための答え合わせではない。
三度目に現れた、ごく弱い胸の違和感。
それが以前の二件とどこまで似ていて、どこから違うのか。
まずは、その小さな問いを、まだ答えを見ない場所で形にするところから始めることになった。




