第251話 最後の一回を、早めない
追加系列の最初の実施試行を終えてから二日目の朝、生活観測区画には薄い雲を通した柔らかな光が差し込んでいた。
夜のあいだに少しだけ雨が降ったらしく、開けられた小窓からは湿った土と葉の匂いが入ってくる。窓枠の外側には細かな水滴が残り、風が吹くたび、庭の木から落ちた雫が下草を揺らしていた。
アリシアは朝食の前に状態確認を受けていた。
前日は予定通り人工刺激を置かず、遅れて現れる異常がないことだけを確認している。胸の違和感も冷たさもなく、痛みや息苦しさもなかった。夜も途中で目を覚ますことなく眠れており、今朝の身体にも目立った変化はない。
「疲労は?」
「一」
「痛みと息苦しさは?」
「両方ゼロ」
「胸部異常、頭痛、吐き気、めまいはありますか?」
「ない」
職員が記録板へ書き込む音を聞きながら、アリシアは少しだけ迷ったあと、自分から付け加えた。
「次の試験をやりたい気持ちは、八」
「聞く前に申告してくれたんですね」
「昨日も考えたから」
「やりすぎそうな気持ちは?」
「五くらい」
「昨日より下がりましたか?」
「うん。学校にいると、ずっと考えなくて済むから」
職員はその答えも記録したものの、次の実施日については何も言わなかった。アリシアも一瞬だけ続きを待ったが、質問されないまま確認が終わると、素直に椅子から立ち上がった。
(今日できるかは、まだ決まってない)
身体の調子がいい。
遅発性の異常もない。
だからといって、その二つだけで人工刺激の日が決まるわけではない。研究側の実施体制や装置の確認も必要で、何より「早く次を見たい」という自分の気持ちが、日程を前倒しする理由になってはいけない。
分かってはいる。
それでも、気にならないわけではなかった。
「今日?」
朝食の席に着くなり、向かい側の子供が尋ねてきた。
何のことか説明されなくても分かってしまい、アリシアはパンを取る手を止めた。
「まだ決まってない」
「明日?」
「それも分からない」
「明後日?」
「だから、まだ決まってないの」
子供は少し考えたあと、自分の皿へ視線を戻した。今日は焼いた芋と柔らかいパン、それに薄いスープが並んでいる。
「あと一個なのに」
「一個だからって、すぐやるわけじゃないよ」
「早く終わらせないの?」
「……早く終わらせたい気持ちはある」
アリシアが正直に答えると、椅子の下で丸くなっていたノアが片耳を動かした。
『あるんじゃない』
「あるけど、あるから早くするのは違うの」
「なんで?」
子供に聞かれ、アリシアは少し考えた。
研究の設計を細かく説明しても仕方がない。子供が知る必要のない情報もある。
「前の一回が、思ってたのと違ったから」
「うん」
「それで早く次をやったら、『違ったから急いだ』ことになるでしょ」
「駄目?」
「駄目っていうより……同じようにやりたいの」
子供はまだよく分からないらしく、パンをちぎりながら首を傾げている。
アリシアは言葉を探した。
「前の一回で調べてたものが見つかってても、見つかってなくても、次までの待ち方を変えないようにしたい」
「ふうん」
「分かった?」
「ちょっと」
『絶対あまり分かってないわね』
「ノア」
『でも、本人がちょっとって言ってるんだからいいでしょう』
子供はノアを見てから、今度は自分の横に置いていた積み木へ手を伸ばした。
少し離れた場所に一個、その横には二個あったうち、すでに終わった分が前へ出されている。残った一個はまだ後ろだ。
「これは動かさない?」
「まだ」
「今日やったら動かす?」
「ちゃんと一回終わったらね」
「じゃあ置いとく」
子供は残った積み木に触れず、朝食へ戻った。
その何気ない動きを見ているうちに、アリシアの胸にあった落ち着かなさが少しだけ薄くなった。
残り一回は、逃げない。
急いで今日にしなくても、なくならない。
◇
学院へ着くころには、朝の薄雲がかなり切れていた。
校舎前の石畳にはまだ湿った場所が残っていたものの、生徒たちが行き交う中央部分はすでに乾き始めている。昇降口の近くでは、濡れた靴底を滑らせかけた男子生徒が友人に笑われており、その声が朝の校舎へ明るく響いていた。
アリシアが教室へ入ると、いつもの友人が自分の机ではなく、教室後方の掲示板の前に立っていた。
「アリシア、来た!」
「何?」
「出たよ」
「何が?」
「選択授業」
その一言で、アリシアの歩みが少し速くなった。
掲示板には新しい紙が何枚も貼られている。希望人数の調整が終わり、それぞれの生徒がどの選択授業へ割り振られたかが記されていた。
資料修復は希望者が多いと聞いている。
第一希望が通らない可能性もある。
分かっていたはずなのに、自分の名前を探す指先には少しだけ力が入った。
「どこ?」
「自分で見なよ」
「見てる」
「もっと下」
「……あ」
資料修復の欄。
そこに自分の名前があった。
アリシアは数呼吸ほど黙って文字を見つめ、それから隣の友人を振り向いた。
「通った」
「通ったね」
「資料修復」
「昨日からそれしか言ってない」
「だって、通った」
「よかったじゃん」
「うん」
自分でも分かるくらい頬が緩んでいた。
研究で東西が一致したときとは違う嬉しさだった。何かの意味を考える必要もなく、条件を確認する必要もなく、ただ自分が選んだ授業を受けられることが嬉しい。
「そっちは?」
アリシアが尋ねると、友人は得意げに別の欄を指差した。
「染色」
「第一希望?」
「もちろん」
「地図じゃなかったんだ」
「染色が第一って前から言ってたでしょ。地図は第二」
「覚えてる」
「今ちょっと疑ったじゃん」
「確認しただけ」
「研究みたいな言い訳しないで」
「研究じゃない」
友人が笑い、アリシアもつられて笑った。
周囲でも、第一希望が通った生徒が喜んだり、第二希望になった生徒が友人と予定を確認したりしている。中には少し残念そうな顔もあったが、教師が後日詳しい説明をすると告知しているため、大きな混乱にはなっていなかった。
「いつから?」
「来週からだって」
「来週……」
「研究と被る?」
「まだ分からない。でも授業が先」
「お」
友人が意外そうな顔をする。
「何?」
「前なら『研究の予定確認しないと』って言いそうだった」
「授業なんだから行くよ」
「成長したねえ」
「何で上からなの」
「友達だから」
「理由になってない」
そう返しながらも、アリシアは少し嬉しかった。
資料修復の実習日。
忘れないように予定帳へ書いておこうと思ったところで、鞄の中には研究用とは別に学院の予定を書いている小さな紙束があることを思い出す。
(今日はそっちに書こう)
研究記録ではない。
学生としての予定だ。
◇
午前の授業が終わるころには、アリシアの意識から次の人工刺激はかなり遠ざかっていた。
完全に忘れていたわけではない。ふとした瞬間に「連絡が来ているかもしれない」と思うことはあったが、そのたびに鞄を開いて確認するようなことはしなかった。
昼休みになると、友人がいつものように机を寄せてくる。
「今日、研究行く?」
「連絡来てたら」
「まだ見てないの?」
「見てない」
「珍しい」
「朝はまだ決まってなかったから」
「気にならない?」
「気になる」
「じゃあ何で見ないの?」
「……授業中だったから」
「普通だ」
「普通でいいでしょ」
友人は笑いながら昼食の包みを開いた。
アリシアも自分の分を取り出す。今日は薄く切った肉と葉野菜を挟んだパンで、包みを開いた途端、香草の匂いがふわりと立った。
「資料修復、何やるんだろうね」
「見学のときより難しいのかな」
「授業なんだから難しくなるんじゃない?」
「最初から古い資料触らせてもらえるかな」
「壊したら大変そう」
「だから練習からだと思う」
「アリシア、細かい作業好きそう」
「そうかな」
「地図のときも細かく歩数数えてたし」
「それは課題だったから」
「でも楽しそうだった」
アリシアはパンを一口食べながら、以前の見学を思い返した。
傷んだ紙を無理に伸ばさず、状態を見ながら少しずつ扱う作業。派手な魔法を使うわけではなく、手元の変化を見逃さないことが大切だった。
面白かった。
だから選んだ。
「楽しみ」
アリシアが素直に言うと、友人は少し目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「私も染色楽しみ」
「何作るの?」
「まだ分かんない。でも布なら何か作れるでしょ」
「何かって?」
「何か」
「決まってないんだ」
「始まる前から全部決めなくてもいいじゃん」
「……それもそうか」
「アリシアは決めすぎ」
「最近は先に決めるの大事なんだよ」
「授業まで研究にしないで」
「してない」
二人の声に、近くで昼食を取っていた同級生が小さく笑った。
アリシアは少し恥ずかしくなって声を落としたが、それ以上研究の話へ戻ることはなかった。
◇
放課後、鞄を開くと、生活観測区画を経由して届けられた短い連絡票が入っていた。
アリシアは一度だけ息を止め、それから紙を開く。
『追加系列第二実施試行について、明日放課後を第一候補とする。実施体制は確保可能。明朝および実施直前の状態確認、装置確認を経て最終決定する。本日、人工刺激なし。』
「来た?」
帰り支度をしていた友人が気づく。
「うん」
「明日?」
「候補」
「候補?」
「体調とか見て、明日できるか最後に決める」
「じゃあ明日で終わり?」
「予定通りできたら、今決めてる二回は終わる」
「嬉しい?」
アリシアは連絡票を持ったまま考えた。
「嬉しい……けど、ちょっと怖い」
「前より?」
「試験自体が怖いんじゃなくて」
言葉にしようとすると、思ったより難しかった。
「これで一回終わるから」
「終わるのが怖いの?」
「たぶん」
「早く終わらせたかったんじゃないの?」
「早く結果は見たかった」
「難しいね」
「うん」
友人はしばらくアリシアの顔を見ていたが、無理に理解しようとはしなかった。
「じゃあ、明日は終わったらまた教えて」
「嬉しかったかどうか?」
「それも。あと、ちゃんと終われたか」
アリシアは連絡票へ目を落とした。
「……うん」
「約束ね」
「うん」
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は共用室の床に座り、紙箱の中身を全部出していた。
小石、木の実、短い白い紐、ノアの毛。底に敷いていた色紙も一度外され、緑と淡い黄色の位置を入れ替えようとしているらしい。
重要な木箱は別の場所にあり、今日も閉じられたままだ。
「何してるの?」
「変える」
「何を?」
「中」
「全部?」
「場所だけ」
子供は小石を右側へ置き、木の実を左へ移した。
「前と違うね」
「うん。でも同じ箱」
「そうだね」
アリシアはそれ以上何かへ結びつけることなく、近くの椅子へ座った。
顔のない存在は窓辺から少し離れた椅子に腰掛けている。十一の灯りはいつも通り観測されているものの、目立った変化はない。
子供がふと顔を上げた。
「今日やった?」
「やってない」
「積み木、動かさない?」
「動かさない」
「明日?」
「明日かもしれない」
「じゃあ明日動かす?」
「ちゃんとできたら」
「最後?」
「今決めてる分はね」
子供は納得したのか、紙箱へ視線を戻した。
アリシアもそれ以上話さず、しばらく作業を眺めていた。
何かを入れ替えても、同じ箱。
けれど、それを研究へ結びつける必要はない。
子供はただ、自分の箱の中身を好きなように並べている。
アリシアはその普通の時間に付き合った。
◇
夕食後、自室へ戻ったアリシアは、明日の連絡票を机の上へ置いた。
研究記録を開くことはしなかった。
代わりに学院の予定を書いている紙を取り出し、来週の欄へ『資料修復』と記す。少し考えたあと、その横へ小さく『第一希望』と書き足した。
『わざわざ第一希望まで書くの?』
寝台へ上がったノアが言う。
「通ったから」
『見れば分かるでしょう』
「私が書きたいの」
『なら好きにすれば』
アリシアは紙を畳み、鞄へ戻した。
そのあとで、机の上の連絡票を見る。
明日。
実施できれば、追加系列の最後の一回になる。
(何が出るんだろう)
東も西も確認されるかもしれない。
前回のように、両方とも確認されないかもしれない。
片方だけが確認され、初めて主判定が不一致になる可能性もある。
自分に何か感覚が起こるかもしれないし、何もないかもしれない。
考え始めれば、いくらでも想像できる。
アリシアは連絡票を裏返した。
『見ないの?』
「もう読んだ」
『研究記録』
「今日は見ない」
『珍しい』
「明日の結果、予想しすぎそうだから」
『もう十分してるように見えるけど』
「……してる」
アリシアは少し困った顔で笑った。
「でも、これ以上増やさない」
ノアは返事の代わりに尻尾を一度動かした。
◇
翌朝、空は前日よりも明るかった。
雲は残っているものの、その切れ間から朝日が差し込み、生活観測区画の廊下を淡く照らしている。
アリシアはいつもより少し早く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。
夜中に何度も起きたわけでもない。
ただ、目を開けた瞬間に今日が候補日だと思い出した。
(今日、最後の一回かもしれない)
その言葉が頭へ浮かび、胸の奥が少しだけ締まった。
怖いわけではない。
けれど、普段の朝より呼吸を意識してしまう。
洗面を済ませ、共用室へ出ると、朝の状態確認が始まった。
「疲労は?」
職員の問いに、アリシアは自分の身体を確かめる。
「二」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「ない」
「怖さは?」
「四」
職員の筆が少しだけ止まった。
「昨日より高いですか?」
「うん」
「何が怖いと思いますか?」
アリシアはすぐには答えられなかった。
人工刺激そのものが怖いわけではない。
痛みが出ると思っているわけでもない。
「……最後だから」
「追加系列の最後という意味ですか?」
「うん」
「終わることが怖い?」
「たぶん。何が出ても、そこで一回止めるから」
「分かりました」
「でも、やりたくないわけじゃない」
「参加希望は?」
「八」
「やりすぎそうな気持ちは?」
「六」
「何かを報告しなければならないという感覚は、今の時点でありますか?」
アリシアは少し考えた。
「二」
「ありがとうございます」
職員は記録を終えると、実施可否についてその場で判断しなかった。
「この状態を研究棟へ共有します。怖さ四なので、安全上の停止基準ではありませんが、放課後に改めて確認します」
「うん」
「学校へ行っているあいだに気持ちや身体状態が変わった場合は、そのまま申告してください」
「分かった」
◇
学院へ向かう道では、ノアが珍しく研究の話をしなかった。
アリシアも自分から持ち出さない。
道端には昨夜の雨で落ちた小さな葉が残り、朝の通学路を生徒たちが次々と歩いている。前を行く二人組は提出された選択授業の結果について話しており、後ろからは遅刻しそうな男子生徒が友人を急かす声が聞こえた。
いつもと同じ学院の朝だった。
教室へ入ると、友人がすぐにアリシアの顔を見た。
「今日?」
「候補」
「まだ候補なんだ」
「放課後に決める」
「緊張してる?」
「怖さ四」
「昨日より高い?」
「うん」
友人は少しだけ真面目な顔になる。
「嫌ならやらないんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、嫌じゃないならやれば?」
「簡単に言うね」
「研究のこと分かんないから」
友人はそう言ってから、机へ頬杖をついた。
「でも、アリシアがやりたいかやりたくないかなら、研究知らなくても聞けるでしょ」
「……やりたい」
「じゃあ今はそれでいいんじゃない?」
「怖さ四でも?」
「怖いとやりたくないって、同じじゃないんでしょ?」
アリシアは少し驚いて友人を見た。
「前にアリシアが言ってたじゃん。怖さとやりたい気持ちは別って」
「覚えてたの?」
「数字多すぎて全部は覚えてないけど、それは覚えてる」
「……そっか」
「でも放課後に六になったら?」
「止める」
「五なら?」
「相談」
「じゃあ四なら?」
「数字だけじゃなくて、様子も見て相談する」
「難しい」
「だから研究の人がいる」
「なるほど」
友人は納得したように頷いた。
「じゃあ今は授業ね」
「うん」
◇
その日の午前、アリシアは思っていたより授業へ集中できた。
次の試験が最後だと思うと何度か意識が研究棟へ向きかけたが、教師の説明を聞き逃すほどではない。友人が板書を一行飛ばして慌てているのを見つけて教えたり、逆にアリシアが教科書の参照箇所を間違えて隣から指摘されたりしながら、時間は普通に進んだ。
昼休みには、資料修復の選択授業について新しい案内が配られた。
最初の数回は練習用の紙を使い、破れや折れ、湿気による変形など、異なる損傷を見分ける基礎から始めるらしい。実物の古資料へ触れるのは、その後の技能確認を経てからになる。
「やっぱり最初から本物じゃなかったね」
友人が案内を覗き込む。
「うん。でも楽しそう」
「破れ方見るだけで?」
「見るだけじゃないよ。どう直すか決めるんでしょ」
「私は布染めたい」
「そっちの案内は?」
「最初は色材の扱い方」
「いきなり染めないんだ」
「そうみたい」
二人で案内を交換して読む。
自分が選ばなかった授業も面白そうだった。
それでも、アリシアは資料修復を選んだことを後悔しなかった。
全部できないから、一つ選ぶ。
選ばなかったものを否定する必要はない。
それは研究とは関係のない、ただの学生生活の選択だった。
◇
放課後が近づくにつれ、アリシアの緊張は少しずつ戻ってきた。
最後の授業が終わり、教科書を鞄へ入れるころには、胸の鼓動を普段より意識している。
異常ではない。
痛くもない。
ただ緊張している。
「今いくつ?」
友人が小声で尋ねる。
「怖さ?」
「うん」
「四」
「変わってない?」
「たぶん」
「『たぶん』でいいの?」
「研究棟でちゃんと確認する」
「そっか」
友人は鞄を肩へ掛けると、アリシアの肩を軽く叩いた。
「じゃあ、また明日」
「うん」
「終わっても終わらなくてもね」
アリシアは一瞬だけ目を丸くした。
「何それ」
「体調で延期になるかもしれないんでしょ?」
「うん」
「だから、どっちでもまた明日」
「……うん」
友人は笑って教室を出ていった。
アリシアはその背中を見送り、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
研究棟へ入ったのは、それから間もなくだった。
前回と同じ会議室には、副学院長、サーラ、魔導具担当教師、若い観測員、記録担当職員、装置調整担当者が揃っていた。
机の上には、追加系列の計画書が置かれている。
すでに終わった一実施試行の結果も固定されているが、その詳細を改めて机上へ並べることはしていない。今日の実施判断を、前回の非確認結果に引っ張られないためだった。
「お疲れさまです」
サーラがアリシアを迎えた。
「学校はどうでしたか?」
「普通。資料修復の授業の案内もらった」
「第一希望が通ったんですね」
「うん」
「それはよかったですね」
「最初は練習用の紙だって」
「いきなり貴重な資料へ触れるより安心ですね」
「うん。ちょっと残念だけど」
「楽しみにしていたんですね」
研究とは関係のない会話が数往復続いた。
その間に、アリシアの呼吸は少し落ち着いた。
サーラはそれを確認してから、状態確認へ移った。
「では、現在の疲労は?」
「二」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「全部ない」
「怖さ」
アリシアは少しだけ間を置いた。
「四」
「朝から変化なしですね」
「うん」
「参加希望」
「八」
「やりすぎそうな気持ち」
「六」
「何かを報告しなければならないと感じていますか?」
「二」
サーラは記録を確認し、さらにアリシアの表情を見る。
「怖さ四について、数字以外で説明できますか?」
「試験が怖いというより、これで今決めてる分が終わるのがちょっと怖い」
「結果を見るのが怖い?」
「それも少し。でも、終わったあとに何するか決まってないから」
「なるほど」
「あと、前は何も出なかったから……次は何か出てほしいって思ってる」
「その期待は、以前から記録されています」
「うん」
「そのために何かを報告しなければならないと思いますか?」
アリシアは首を横へ振った。
「思わない。何もなかったら、何もないって言う」
「延期したい気持ちは?」
「ない」
「今日、実施したいですか?」
「うん」
サーラはすぐに開始を宣言せず、ほかの担当者へ視線を向けた。
◇
魔導具担当教師が装置側の状態を説明する。
「入力系統は現在正常です。予定している早期位置単一意図的小変動も、既存の固定条件内で実施可能です」
「東西の記録系統も、事前確認では問題ありません」
若い観測員が続けた。
「ただし、最終確認は開始直前にもう一度行います」
副学院長がアリシアへ向き直る。
「今日実施する場合、追加系列の第二実施試行となります。予定した入力が成立した時点で一実施試行として数え、主判定が一致でも不一致でも、あるいは入力成立後に何らかの理由で主判定不能となっても、今回固定した追加系列はそこで終了します」
「分かってる」
「前回が東非確認・西非確認だったことを理由に、今日の条件は変更していません」
「うん」
「今日の結果が何であっても、三回目を今回の追加系列へ後付けしません」
「うん」
「それでも実施しますか?」
アリシアは計画書を見た。
残り一回。
これを終えれば、一度止まる。
もっと見たくなっても、その場で増やさない。
(やりたい)
その思いは変わらなかった。
「やる」
声に出すと、思っていたより落ち着いた響きになった。
「分かりました」
◇
開始準備へ移る前に、短い休憩が入った。
アリシアは水を飲み、窓辺近くの椅子へ座った。外では雲の隙間から差した夕方の光が研究棟の中庭を照らし、濡れていた石の一部が乾いて白っぽく見えている。
ノアが足元へ来た。
『まだ四?』
「何が?」
『怖さ』
「……三かも」
『下がったのね』
「やるって決めたから」
『決めたら下がるものなの?』
「分からない。でも、今は三」
『なら三って言えば』
「戻ったら言う」
アリシアは杯を両手で包んだ。
「ノアは、何が出ると思う?」
『聞くの?』
「……やっぱりやめる」
『賢明ね』
「言い方」
『私が何を予想しても、あんたの胸も東も西も変わらないでしょう』
「そうだけど」
『なら結果が出てから見ればいいじゃない』
「簡単に言うね」
『私は研究者じゃないもの』
「知ってる」
少しだけ笑えた。
◇
休憩後、最後の実施判断が行われた。
疲労二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
怖さ三。
参加希望八。
やりすぎそうな気持ち六。
報告圧力一。
サーラは数字だけではなく、アリシアの声や姿勢、呼吸も確認した。
「開始前の時点で、明確な拒否や迷いはありませんか?」
「ない」
「途中で止めたい場合は、いつでも申告してください」
「うん」
「何も感じなくても、そのままで構いません」
「うん」
特定の感覚名は挙げられなかった。
冷たさを探すよう促す言葉もない。
前回の弱い違和感を思い出させる質問もない。
魔導具担当教師たちが最終確認へ入る。
入力系統は正常。
東側記録系統は正常。
西側記録系統も正常。
共通観測終端は固定済み設定。
予定入力条件は許容範囲内。
東側奥部の事前状態も記録されたが、その見え方によって実施可否は変えられなかった。
「実施可能です」
最終報告が出る。
副学院長が一度だけアリシアを見る。
「開始します」
「うん」
◇
記録が始まった。
室内は前回と同じ配置だった。
アリシアは椅子へ座り、両手を膝の上へ置いている。サーラは少し離れた正面寄りに座り、若い観測員は記録板へ視線を落としていた。ノアは決められた場所で静かに伏せ、余計な声を出さない。
誰も入力の瞬間を知らせない。
誰も東側や西側の変化へ反応を見せない。
アリシアは呼吸を整えながら、何かを探そうとする意識が強くなりすぎないようにした。
(何もなくても、そのまま)
頭の中で言葉になった思いを、それ以上繰り返さない。
時間が進む。
装置の低い駆動音が、ほとんど一定に続いている。廊下の遠くから一度だけ足音が聞こえたが、すぐに消えた。
アリシアの胸には、今のところ何もない。
痛みもない。
息苦しさもない。
それでも前回とは違い、今日は「最後」という意識がどこかに残っていた。
(まだかな)
そう考えた直後、自分で気づく。
入力がいつなのか知らされていないのだから、「まだ」という考え自体に意味はない。
アリシアは小さく息を吐き、姿勢を変えずに待った。
やがて――胸の奥で、ごく弱い感覚が生まれた。
冷たい、と即座に呼べるものではない。
痛くもない。
息が詰まるわけでもない。
胸の中央付近から、わずかに左。
何かが触れたような、けれど触覚とも違う。
アリシアの眉がほんの少し動いた。
「……今、少し変」
サーラは表情を変えない。
「報告を続けられますか?」
「うん。胸……真ん中より、少し左」
「強さを表せますか?」
アリシアは感覚を追いかけすぎないよう注意しながら答えた。
「一より下。……〇・五くらい」
「痛みは?」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
感覚はまだある。
けれど強くならない。
以前のような「冷たい」と言い切れる感覚でもない。
温度を尋ねられていないことに、アリシア自身が気づいた。
(冷たいって言いたいわけじゃない)
似ている。
場所も強さも、過去の二つの弱い異常報告に近い気がする。
だが、その記憶を今の感覚へ貼り付けてはいけない。
「……弱くなってる」
少し時間を置いてから、アリシアが言った。
「今は?」
「ほとんどない」
「消失と表現できますか?」
アリシアは数呼吸待った。
「……今は、ない」
「分かりました」
観測はそこで終わらない。
主観報告が消えたからといって、固定された共通観測終端を前倒しにはしない。
アリシアもそれを知っているため、何も言わず座り続けた。
胸の感覚は戻らなかった。
◇
やがて固定された観測終端へ到達し、試行終了が告げられた。
アリシアは肩から少し力を抜いたものの、すぐに東西の結果を尋ねることはしなかった。
「現在の痛みは?」
サーラが確認する。
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
「今はゼロ」
「試行中に報告した感覚以外の異常は?」
「ない」
「疲労」
「三」
「怖さ」
「二」
「報告しなければならないという感覚」
「一」
「今の感覚について、追加で言っておきたいことはありますか?」
アリシアは少し考えた。
「前のと似てる気はする」
「どの点が?」
「場所と、強さ。あと短かったところ」
「感覚の種類自体は?」
ここでアリシアは長く考えた。
似ていると言いたい。
これで三回目だ、と言いたくなる。
けれど、今回も冷たさとは言っていない。
以前の二件でさえ、同じ感覚とはまだ決めていない。
「……同じとは、まだ言わない」
「分かりました。その表現を残します」
「温度は聞かないの?」
「必要ですか?」
アリシアは自分の胸へ手を置かず、視線だけを少し下げた。
「今思い返しても、冷たかったとは言えない」
「では、そのまま記録します」
「うん」
今回の主観報告も、既存対象感覚の確認基準へは届かなかった。
ただし、弱い胸部異常報告として原文を保持する。
それ以上の分類はしない。
◇
アリシアが休憩室へ移動したあと、会議室では東西の記録判定が始まった。
前回と同じく、アリシアの主観報告を理由に判定基準は動かさない。
若い観測員は、まず東側奥部の記録を固定済み基準へ照らした。
入力は予定範囲内で成立している。
その後の対象区間。
通常の揺らぎと区別される追加低下が、固定された基準へ達しているか。
確認担当者同士が別々に記録を見たあと、判定を照合する。
東側奥部対象反応――確認。
記録欄へ印が付けられた。
次に西側。
こちらも同じように、固定済みの対象反応基準を使う。アリシアが弱い違和感を報告したことは、判定を上げる理由にはならない。
西側の記録を追っていた担当者が、一度だけ手を止めた。
若い観測員は急かさない。
確認対象区間を最後まで見直し、既存の基準と照合したあと、担当者は静かに判定を告げた。
「西側対象反応、非確認です」
室内の空気がわずかに変わった。
誰も声を上げなかった。
記録担当職員は、東と西の欄をもう一度見比べる。
東――確認。
西――非確認。
固定された主判定規則では、答えは一つしかない。
「不一致」
若い観測員が言った。
それは、現在の専用前向き系列で初めて得られた主判定だった。
しかし、驚きによって手順を変える者はいない。
追加試行はこれで二件目。
結果が不一致だからといって、三件目は追加しない。
系列は予定通り、ここで一度終了する。
◇
休憩室では、アリシアが水を飲みながらノアを見ていた。
「今回はあった」
『あったわね』
「〇・五くらい」
『そう言ってた』
「前の二つと似てると思う?」
『私に分類させる気?』
「聞いただけ」
『場所と強さが似てるって、あんた自身が言ったでしょう。それ以上は知らない』
「……そうだよね」
『同じって言ってほしいの?』
アリシアは杯の水面を見る。
「ちょっと」
『なら余計に私へ聞かない方がいいわね』
「何で?」
『欲しい答えをくれそうな相手を探し始めたら面倒でしょう』
アリシアは顔を上げ、少し不満そうにノアを見た。
「毒舌」
『今さら?』
「でも、そうかも」
アリシアは再び杯へ視線を落とした。
(似てる。だから同じって思いたい)
以前にも同じところまで来た。
似ているからこそ、急いで重ねない。
今回も同じだ。
ただし、三件目の弱い異常報告が増えたこと自体は事実だった。
◇
十分な休憩を挟んだあと、アリシアは会議室へ戻った。
机の上には結果紙が伏せて置かれている。
サーラが状態を再確認した。
「疲労は?」
「三」
「痛み、息苦しさ、現在の胸部異常」
「全部ゼロ」
「怖さ」
「二」
「結果を知りたい気持ち」
「九」
「やりすぎそうな気持ち」
「七」
「分かりました。結果開示までは行いますが、その後の詳細分析をどこまで行うかは状態を見て判断します」
「うん」
副学院長が結果紙へ手を置いた。
「今回が、事前に固定した追加系列の第二実施試行です。入力は予定範囲内で成立しました」
「うん」
「まず東側奥部対象反応は――確認です」
アリシアの目が少し大きくなる。
「出た」
「固定基準上、確認です」
「西は?」
思わず声が早くなる。
副学院長は急がず続けた。
「西側対象反応は――非確認です」
アリシアは動かなかった。
数呼吸、言葉も出ない。
東は確認。
西は非確認。
これまで専用前向き記録では、両方確認か、両方非確認だった。
過去の九記録でも、東西の確認判定はすべて一致していた。
けれど、今。
「……違った」
アリシアがようやく呟く。
「はい」
「主判定は?」
答えは分かっている。
それでも自分の耳で聞きたかった。
「不一致です」
アリシアは結果紙を見つめた。
東、確認。
西、非確認。
主判定、不一致。
自分の既存対象感覚は非確認。
ただし、胸中央より少し左に約〇・五の短い違和感報告あり。
「本当に?」
アリシアの声が少し小さくなる。
「記録を再確認したうえでの固定基準判定です」
「西、何もなかった?」
「『何も』という表現は避けます。通常の記録変動はありますが、固定した対象反応基準へ達する西側対象反応は非確認です」
「東は確認」
「はい」
「私には弱い変な感じがあった」
「はい。ただし既存対象感覚は非確認です」
アリシアは唇を軽く結んだ。
胸の内側へ、驚きと嬉しさと戸惑いが同時に広がっていく。
「……嬉しいか分からない」
サーラが静かに尋ねる。
「不安ですか?」
「不安っていうか……ずっと東と西、一緒だったから」
「はい」
「今回も一緒だと思ってた」
「その期待は事前記録にもあります」
「違うの、出た」
「はい」
「これ、悪い結果?」
若い観測員がすぐに首を横へ振ることはしなかった。
「主質問に対する一つの結果です」
「失敗じゃない?」
「失敗ではありません。固定した条件で、固定した方法を使い、事前に決めた判定規則に従って得られた不一致です」
「……そっか」
「むしろ、これを見たあとで条件を変えたり、追加試行を増やしたりせず、そのまま残すことが重要です」
アリシアは結果紙を見たまま頷いた。
◇
「じゃあ、追加系列は終わり?」
「はい」
副学院長の答えは明確だった。
「今回固定した追加二実施試行は終了です」
「不一致だったけど?」
「だからこそ、予定通り終了します」
「もう一回やって、どっちが多いか見ない?」
言った直後、アリシア自身が口を閉じた。
誰かに注意される前に分かった。
「……駄目だ」
「なぜですか?」
副学院長は叱らずに尋ねた。
「不一致を見たから、もう一回やりたくなった」
「はい」
「それで増やしたら、結果を見て件数変えたことになる」
「その通りです」
「じゃあやらない」
アリシアは少し悔しそうに息を吐いた。
「やりたいけど」
『そこは正直ね』
「だって見たい」
「次の研究系列として新たに計画する可能性まで否定する必要はありません」
若い観測員が言った。
「ただし、今回の追加系列へ三件目として足すことはしません」
「別の問いを決めるなら?」
「その必要性を、今回の結果を固定したあとで検討します」
「今日決める?」
サーラがアリシアを見る。
「今、次を早く決めたい気持ちは?」
「十……」
言いかけて、アリシアは自分で少し驚いた。
「九・五くらい」
「止めにくさは?」
「八」
「では、今日は決めません」
「やっぱり?」
「はい」
「でも気になる」
「気になること自体は止めません」
「考えるのも?」
「考えることまでは止められません。ただ、正式な次の設計を今日決めることはしません」
アリシアは椅子の背へ身体を預けた。
「……分かった」
◇
結果を固定するため、最低限の整理だけが行われた。
専用主質問の最初の前向き記録は、東確認・西確認で一致。
追加系列第一実施試行は、東非確認・西非確認で一致。
追加系列第二実施試行は、東確認・西非確認で不一致。
ただし、これら三件を「最初から三件固定して実施した系列」とは扱わない。最初の一件を得たあとで、追加二実施試行を固定したという経緯を維持する。
「三件中二件一致、一件不一致って言っていい?」
アリシアが尋ねる。
「記述として内訳を示すことはできますが、それだけを切り出すと、三件が最初から同一計画で固定されていたように誤解される可能性があります」
「じゃあ、ちゃんと分ける」
「はい」
「古い九個も足さない」
「足しません」
「三領域の前向き二件も別」
「はい」
「今回、不一致が一個出たから、古い九個の一致が間違いになるわけでもない」
「その通りです」
「逆に、古い九個が一致だったから今回の不一致を間違いにもできない」
「はい」
アリシアはそこでようやく、少しだけ笑った。
「面倒だけど、分かる」
『研究への感想がずっとそれね』
「だって面倒なんだもん」
『やめる?』
「やめない」
返事だけは早かった。
◇
「今回の弱い胸部異常についてはどうする?」
アリシアが尋ねると、若い観測員は記録紙を確認した。
「まず、原文を保持します」
そこには、試行中の言葉がそのまま残されている。
『……今、少し変』
『胸……真ん中より、少し左』
『一より下。……〇・五くらい』
『……弱くなってる』
『……今は、ない』
「既存対象感覚の確認基準には達していません」
「うん」
「温度語もありません」
「うん」
「過去の二件と、場所・強さ・短時間で弱まるという記述上の共通点があります」
「やっぱり似てる」
「記述上は、共通点があります」
「同じとは?」
「まだ言いません」
アリシアは少しだけ口元を尖らせた。
「分かってた」
「今回で三件になったため、今後、三件を同じ固定規則で記述比較することは候補になります」
「候補?」
「はい。今日採用はしません」
「……今日決めないんだった」
「そうです」
「時間も比べたい」
「それも候補として記録できます」
「東は確認だったんだよね」
「はい」
「西は非確認だから、西の確認窓は作れない?」
「固定された対象反応が非確認ですから、確認反応の時間窓は作れません」
「じゃあ、前の二件と同じ比べ方はできない」
「少なくとも完全に同じ比較項目にはなりません」
アリシアはそこで目を細めた。
新しい違いだった。
弱い胸部異常は現れた。
東側対象反応も確認された。
けれど西側対象反応は非確認。
以前の二件と似ている部分がありながら、周囲の記録構成は同じではない。
「……余計に気になる」
「でしょうね」
サーラが少しだけ笑った。
「でも今日は?」
「止めます」
今度はアリシアが先に答えた。
◇
研究棟を出る前の最終状態は、疲労三、痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ、怖さ二だった。
次を知りたい気持ちは九。
止めにくさは七まで下がっていた。
それでも詳細分析は行わず、翌日は人工刺激なしと決められた。今回の系列が終わった以上、次の刺激日をその場で予約することもしない。
研究棟の外へ出ると、空はすでに夕暮れへ変わっていた。
雲の縁だけが薄く赤く染まり、学院の建物の窓に残った光が細く反射している。昼間より気温が下がり、アリシアは一度だけ肩をすくめた。
「ノア」
『何?』
「不一致だった」
『聞いてたわよ』
「初めて」
『今の専用の調べ方ではね』
「うん」
アリシアはゆっくり歩いた。
「何でだと思う?」
『知らない』
「東はあったのに、西はなかった」
『そう記録されたわね』
「私には弱いのがあった」
『それもね』
「……つながってないのかな」
ノアはすぐには答えなかった。
『一回違っただけで、今まで考えてたもの全部捨てるの?』
「それも違う」
『なら、今日はそれでいいんじゃない?』
「何が?」
『違った記録が一個増えた。それ以上は、まだ知らない』
アリシアは足を止めかけたが、そのまま歩いた。
「ノアが研究っぽいこと言った」
『失礼ね』
「研究者じゃないって言ってたのに」
『知らないものを知らないって言っただけよ』
「それは最近、研究でも大事」
『じゃあ研究の方が私に追いついたんじゃない?』
「絶対違う」
◇
生活観測区画へ戻ると、共用室には夕食前の匂いが漂っていた。
子供は床に座って待っていた。
アリシアを見ると、すぐに積み木のところへ行く。
「やった?」
「うん」
「最後?」
「今決めてた分は終わった」
「じゃあ動かす」
子供は残っていた一個を、終わった側へ移した。
これで、追加分として並べられていた二個は両方とも前へ出た。
「終わり」
子供が言う。
「うん」
「次は?」
「まだ決めない」
「明日?」
「決めない」
「明後日?」
「だから、まだ決めないの」
子供は少し考えたあと、三つの積み木をまとめて箱へ戻そうとした。
「それ片づけるの?」
「終わったから」
アリシアはその手元を見た。
少し離れていた最初の一個も、追加分の二個も、同じ箱へ入っていく。
研究上は役割が違う。
最初の一件と、あとから固定した二件を同じ系列として扱ってはいけない。
けれど子供にとっては、もう終わった積み木遊びなのだろう。
「うん。片づけていいよ」
アリシアは止めなかった。
◇
夕食後、アリシアは自室へ戻らず、しばらく共用室に残った。
顔のない存在は窓辺に座っており、十一の灯りには目立った変化がない。職員はいつもの距離から記録しているが、今日の研究結果と結びつけるような話は誰もしなかった。
重要な木箱も閉じたままだ。
子供の普通の紙箱は、昼間に並べ替えたまま机の端へ置かれている。
何もかもが、今日の不一致に答えを返してくれるわけではない。
それでいい。
アリシアは窓の外を見た。
(東があって、西がなかった)
直接的な思考が、どうしてもそこへ戻る。
(私には、弱い変な感じがあった)
そしてもう一つ。
(でも、だから何なのかはまだ分からない)
三つの事実を、無理につながない。
今夜できるのは、それだけだった。
◇
翌朝、遅発性の異常はなかった。
疲労二、痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸部異常ゼロ。頭痛や吐き気、めまいもなく、夜間に特別な症状は出ていない。
人工刺激もない。
研究棟から届いた連絡票には、次の刺激予定ではなく、短い確認だけが記されていた。
『固定済み追加二実施試行は完了。追加系列を終了する。本日は詳細分析を開始せず、既存記録の固定確認のみとする。次の研究質問は未決定。』
アリシアは紙を読み終えたあと、少し長くその文字を見ていた。
次の研究質問は未決定。
昨日までは、残り一回という分かりやすい予定があった。
今はない。
知りたいことだけが増えている。
なぜ東だけ確認されたのか。
西が非確認だった意味は何か。
三度目の弱い胸部異常報告は、以前の二件と同じなのか。
時間関係はどうだったのか。
東西の確認判定は、どんな条件でも共起するわけではないのか。
六つ目の神器は、この不一致と何か関係しているのか。
どれも答えはない。
けれど、アリシアは連絡票を握り締めなかった。
机へ静かに置く。
『学校、遅れるわよ』
ノアの声がした。
「分かってる」
『研究棟へ寄らないの?』
「寄らない」
『聞きたいこといっぱいありそうだけど』
「いっぱいある」
『じゃあ?』
アリシアは鞄を持った。
「今日は学校行く」
『そう』
「次に何を調べるか、まだ決めないって決めたから」
『ややこしいわね』
「うん。でも、それでいい」
◇
学院の教室へ入ると、友人がすぐにアリシアへ気づいた。
昨日の約束を覚えているらしい。
「終わった?」
「うん」
「ちゃんと?」
アリシアは少し考えたあと、頷いた。
「ちゃんと終わった」
「嬉しかった?」
「……難しい」
「また両方?」
「今度は、びっくりが一番大きいかも」
「数字だと?」
「数字にしにくい」
「珍しい」
「何でも数字にできるわけじゃないよ」
「研究の人に怒られそう」
「怒られない」
友人はアリシアの顔を少し眺めたあと、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ今日は?」
「普通に授業」
「資料修復の案内、持ってきた?」
「持ってきた」
「見せて」
「昨日見たでしょ」
「もう一回」
「自分の染色見なよ」
二人はいつものように言い合いながら席へ着いた。
研究の追加系列は終わった。
けれど物語が終わったわけではなく、謎が解けたわけでもない。
むしろ、きれいに並んでいたように見えた東と西のあいだへ、初めて一つのずれが残った。
そのずれを急いで埋める必要はない。
間違いとして消す必要もない。
次の一回を足して、多数決のように扱う必要もない。
東は確認され、西は確認されなかった。
アリシアには、ごく弱い胸部異常があった。
今、確かに言えるのはそこまでだった。
アリシアは授業の準備をしながら、窓から差し込む朝の光へ一度だけ目を細めた。
(次は、この違いを消すためじゃなくて、この違いが何を意味するのか確かめるために考えたい)
けれど、その「次」を今日決める必要はない。
結果を見る前に終点を決めたからこそ、予定通りそこで止まれた。
そして止まったからこそ、初めて見えた不一致を、不都合な一件として押し流さずに残すことができた。
次に進むのは、そのあとでいい。
アリシアは教科書を開いた。
研究棟ではなく教室で始まる朝を過ごしながら、答えの出ていない一つの違いを、違いのまま持っていることにした。




