第250話 何も起きなかった一回も、同じ一回
追加系列の最初の実施試行が決まったのは、予定を固定した翌日の夕方だった。
研究棟から生活観測区画へ届いた連絡票には、翌日の人工刺激は行わず、その次の日の放課後を第一候補日とすることが簡潔に記されていた。ただし当日の体調、安全確認、装置状態のいずれかに問題があれば延期し、予定日だからという理由だけで実施しないという一文も添えられている。
アリシアはその紙を読み終えてから、机の端へ置いた。
以前なら、決まった日付を何度も確認したかもしれない。けれど今回は、日付そのものよりも、その先にある二つの空欄の方が気になった。
追加二実施試行。
そのうちの一つ目。
(あと二回。その最初が明後日)
胸の奥に、楽しみとも緊張とも言い切れないものが小さく広がった。
『また難しい顔してる』
寝台の上で丸くなっていたノアが片目だけ開ける。
「難しい顔?」
『眉間にちょっと力入ってる』
アリシアは指先で眉間を触った。
「怖いわけじゃない」
『じゃあ楽しみ?』
「それもある」
『なら半分ずつでいいんじゃない?』
「そんな綺麗に半分じゃない」
『誰も測れとは言ってないわよ』
「研究だと測るから」
『今は部屋でしょう』
ノアはそれだけ言うと、また目を閉じた。
アリシアは連絡票へ視線を戻した。
東と西が、次も一致してほしい。
これはすでに期待として記録してある。
自分にも何か起きてほしい。
できれば、以前のような〇・五程度の曖昧な違和感より、もう少し分かりやすい何かがあれば嬉しい。
それも隠さず残した。
だから今さら、期待していないふりをする必要はない。
(期待してても、そのまま見る)
そのことだけ確認して、アリシアは連絡票を伏せた。
◇
翌日は、本当に何も研究しない日になった。
朝の状態確認は普段通り行われたが、人工刺激の準備も、東西の波形についての詳しい話もない。学院へ行けば授業があり、昼になれば友人と食事をして、放課後には翌日の実技授業で必要になる材料の確認をした。
「ねえ、資料修復、希望多いらしいよ」
帰り支度をしていると、友人がそんな話を持ってきた。
アリシアの手が止まる。
「多いの?」
「うん。希望人数によっては調整あるかもって」
「……通らないかもしれない?」
「第二希望になる人もいるかも」
友人はそう言ってから、アリシアの顔を覗き込んだ。
「そんなにショック?」
「まだ決まってない」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
アリシアは鞄の留め具を閉じながら、少しだけ唇を尖らせた。
「資料修復やりたいって決めたのに」
「じゃあちゃんと第一希望にしてよかったじゃん」
「通らなかったら?」
「地図作成」
「それもやりたい」
「なら大丈夫じゃん」
「でも資料修復が第一」
「だから第一希望なんでしょ」
あまりに当然のことを言われ、アリシアは返事に詰まった。
友人は笑いながら自分の鞄を肩へ掛ける。
「選んだら絶対その通りになるわけじゃないよ。でも、選ばなかったら第一希望にもならないし」
「……うん」
「研究もそうなの?」
「何が?」
「決めた通りの結果になるわけじゃないけど、先に決めるんでしょ」
アリシアは少し驚いた。
友人は研究の詳しい内容を知らない。人工刺激が何を確かめているのかも、東側や西側の観測についても知らない。
ただ、アリシアが「結果を見る前に回数を決めた」と話したことだけは知っている。
「似てるところは、ちょっとあるかも」
「じゃあ明日、決めた通りの結果になるといいね」
「それは違う」
「違うの?」
「決めたのは結果じゃなくて、見る回数だから」
「難しいなあ」
「結果は決められない」
「じゃあ何が出てもいい?」
アリシアはすぐには答えなかった。
「……いいって言うと、ちょっと違う」
「どう違うの?」
「私は、出てほしい結果があるから」
「あるんだ」
「うん。でも、違う結果が出ても変えない」
「何を?」
「結果」
「変えられるの?」
「変えちゃ駄目なの」
「普通、変えられなくない?」
「……そうなんだけど」
説明しようとして、アリシアはやめた。
友人が笑う。
「明日終わったら、結果は言えなくても、嬉しかったかどうかくらい教えてよ」
「それなら言えるかも」
「約束ね」
「うん」
研究の中身ではなく、アリシア自身の気持ちを聞いている。
その違いが、今は心地よかった。
◇
実施当日の朝は、風の弱い晴天だった。
生活観測区画の窓から見える木々には薄い朝露が残り、日が当たるたび葉の先が小さく光った。食堂では子供が昨日から残していた木の実を一つ、紙箱の中でどこへ置くか迷っている。
重要な木箱には触れていない。
顔のない存在も、窓から少し離れた場所に座っているだけだった。胸部の十一の灯りには、朝の時点で特別な変化は見られない。
アリシアは朝食を終えると、いつもの状態確認を受けた。
「疲労は?」
「一」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「全部ゼロ」
職員が記録する。
「今日は放課後に実施候補ですね」
「うん」
「朝の時点で、参加したくない気持ちはありますか?」
「ない」
「分かりました。ただし、放課後にもう一度確認します」
「うん」
それだけだった。
朝から細かな期待を聞かれることはない。
胸が冷たくなりそうか。
弱い違和感が出そうか。
東西が一致すると思うか。
そうした質問は置かれなかった。
昨日までに決めた方法が、もう実際の運用へ入っている。
アリシアはそのことに気づき、少しだけ安心した。
◇
学院での午前は、驚くほど普通に過ぎた。
授業中に研究棟のことをまったく考えなかったわけではない。
窓の外へ目を向けた瞬間、ふと今日の試験を思い出したこともある。教師が黒板へ三つの項目を書いたとき、机の上に並んでいた追加系列の紙が頭をよぎったこともあった。
それでも、意識を授業へ戻せた。
(今考えても、結果は増えない)
そう思えるようになったのは、自分でも少し意外だった。
昼休みになると、友人がアリシアの向かいへ座った。
「今日だよね?」
「うん」
「緊張してる?」
「少し」
「数字だと?」
「聞くの?」
「最近ちょっと面白くなってきた」
「研究の人じゃないのに」
「いいじゃん」
アリシアは少し考える。
「今は三」
「低いね」
「怖さなら三。やりたいは八」
「別なの?」
「別」
「面倒」
「昨日の私と同じこと言わないで」
「昨日?」
「研究で言った」
「じゃあ研究の人も面倒だと思ってるんだ」
「違う」
思わず強めに否定すると、友人が笑った。
「終わったら?」
「何が?」
「約束。嬉しかったかどうか」
「覚えてる」
「じゃあ待ってる」
友人はそれ以上聞かなかった。
その距離がありがたかった。
◇
放課後。
研究棟の会議室へ入った瞬間、アリシアはいつもより空気が静かだと感じた。
人が少ないわけではない。
副学院長、サーラ、魔導具担当教師、若い観測員、記録担当職員、装置調整を担当する職員が揃っている。東側と西側の観測担当者も、それぞれ持ち場へ入る準備を終えていた。
ただ、誰も結果を予想する話をしていなかった。
机の中央には、正式固定された追加系列の計画書だけが置かれている。
「座ってください」
サーラに促され、アリシアは椅子へ座った。
ノアはいつもの位置へ移動する。
人工刺激中、彼は余計な反応を見せない。
アリシアの感覚報告へ影響しないためだ。
「現在の状態を確認します。疲労は?」
「二」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「全部ゼロ」
「怖さ」
アリシアは少し迷った。
「三」
「参加希望」
「八」
「やりすぎそうな気持ち」
「六」
「何かを報告しなければならないと感じていますか?」
これが新しい確認だった。
アリシアはすぐに数字を言わなかった。
胸の中を探すのではなく、自分の気持ちを確かめる。
何か起きてほしい。
それはある。
弱い違和感でもいいから、もう一度経験したい。
けれど、何もなかったときに何かを言わなければならないと思っているか。
「……三」
「三ですね」
「うん」
「何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません」
昨日まで何度も検討した文章が、初めて本番前に使われた。
アリシアは一度だけ息を吸った。
「うん」
「今の確認を聞いて、数字は変わりますか?」
「二」
「報告圧力、二」
記録担当職員が書き留める。
サーラはアリシアの表情を見てから続けた。
「延期を希望しますか?」
「しない」
「今日は実施したいですか?」
「うん」
「もし何も起きなくても?」
一瞬だけ、アリシアはサーラを見た。
その問いが誘導にならないかと考えたのだろう。サーラ自身もわずかに眉を動かした。
「今の聞き方、必要?」
アリシアが言った。
サーラがすぐに頷く。
「いい指摘です。撤回します。実施意思だけで十分でした」
「じゃあ、やりたい」
「分かりました」
そのやり取りも記録された。
◇
実施前の装置確認が始まった。
魔導具担当教師と調整職員が、固定済みの条件から外れていないことを確認する。
使うのは、これまでと同じ安全範囲内の早期位置単一意図的小変動。
強さを上げない。
速度を新しくしない。
二重の変動を入れない。
東側奥部の事前状態が都合よく見えるから実施する、あるいは都合が悪そうだから延期するという判断もしない。
今日の事前状態は観測され、記録される。
しかし、それを理由に試験の実施可否は変えない。
「入力系統、正常」
魔導具担当教師が告げる。
「記録系統、東側正常」
「西側正常です」
「共通観測終端、既定設定」
「入力条件、許容範囲内」
短いやり取りが続く。
アリシアはそれを聞きながら、両手を膝の上に置いていた。
以前なら、東側が今どんな波形なのか聞きたくなったかもしれない。
今日は聞かなかった。
(良さそうでも悪そうでも、やるなら同じ)
結果が出る前に決めたことを守る。
それだけでいい。
◇
「開始します」
部屋の空気が変わった。
誰かが大きく動いたわけではない。
声も上がっていない。
それでも、アリシアには分かった。
記録が始まった。
ノアも黙っている。
サーラはアリシアを見ているが、表情を動かさない。
若い観測員も記録板へ視線を落としたまま、東側や西側の結果をアリシアへ悟らせるような動きをしない。
時間が進む。
アリシアは胸の内側を意識しすぎないようにした。
何も探さなくていい。
感じたら言う。
感じなければ言わない。
それだけ。
固定された位置で、意図的小変動が入力された。
アリシアには、その瞬間は知らされない。
誰も合図をしない。
室内の音は、紙を押さえる小さな摩擦音と、遠くの装置が発する低い駆動音だけだった。
胸は――。
何もない。
少なくとも、今は。
冷たくない。
ぞわっともしない。
左寄りに、以前のような弱い違和感もない。
(探さない)
その言葉が浮かんだ瞬間、アリシアは意識的に別のことを考えようとはしなかった。
無理に逸らすことも、無理に集中することも違う。
ただ座っている。
呼吸は普通。
痛みもない。
息苦しさもない。
時間が進む。
サーラは何も言わない。
誰も「どう?」とは聞かない。
アリシアも、何も言わない。
◇
共通観測区間は、予定された終端まで続いた。
途中で反応が見えたから短くすることも、見えないから延ばすこともない。
固定された場所で終わる。
「観測終了」
その声が出たとき、アリシアは小さく息を吐いた。
サーラがすぐに状態確認へ入る。
「今、痛みは?」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
アリシアは少しだけ考えた。
「ゼロ」
「試験中、何らかの胸部変化はありましたか?」
「なかった」
「胸部以外で、普段と違う身体感覚は?」
「……ないと思う」
「『ないと思う』の意味を確認します。何か曖昧な感覚がありますか?」
「違う。何もないけど、全部の身体を完璧に覚えてるわけじゃないから」
「分かりました。では原文を残します」
「うん」
「疲労」
「三」
「怖さ」
「二」
「報告しなければならないという感覚」
「一」
「参加を後悔していますか?」
「してない」
サーラが頷いた。
「ここで休憩します。東西の判定は、休憩後に固定記録として開示します」
「今じゃないの?」
「まずあなたの状態を落ち着いて確認します」
「……分かった」
アリシアは少しだけ不満そうだったが、席を立った。
◇
休憩室へ移動すると、ノアがようやく口を開いた。
『何もなかったわね』
「うん」
『残念?』
「……ちょっと」
『どのくらい?』
「聞くの?」
『あんたがいつも数字にするから』
アリシアは水を一口飲んだ。
「六くらい」
『結構残念じゃない』
「何か起きてほしかったから」
『でも嘘は言わなかった』
「言うものなかったし」
『それでいいんでしょう』
「うん」
そう答えたものの、胸の中には小さな引っかかりが残っている。
もし東と西では反応が出ていたら。
また、自分だけ対象感覚が非確認になる。
それ自体は、もう失敗ではないと分かっている。
けれど、期待していた感覚が何もなかったことを、完全に平気だと言うこともできなかった。
(東と西はどうだったんだろう)
知りたい。
すぐにでも。
けれど、今は休憩時間だ。
アリシアは水の入った杯を両手で持ち、窓の外へ目を向けた。
夕方の光が研究棟の中庭を斜めに照らしている。
今日は晴れていた。
学校では普通に授業を受けた。
友人とは昼食を食べた。
そして今、試験を一回終えた。
その全部が同じ一日の中にある。
◇
一方、会議室では、アリシアが休憩へ入ったあとも記録の確認が続いていた。
若い観測員は東側の記録紙と西側の記録紙を別々に受け取り、固定された確認基準に沿って判定欄を埋めていく。
誰も、アリシアの「何もなかった」という報告に合わせて基準を変えない。
東側奥部。
固定された対象反応基準に達する追加低下は――確認されない。
西側。
固定された対象反応基準に達する遅延弱波形は――確認されない。
若い観測員の手が一度止まった。
隣にいた記録担当職員も、紙へ視線を落とす。
これまで専用の前向き記録として得られていた一件は、東確認・西確認だった。
今回の追加系列第一実施試行は違う。
東非確認。
西非確認。
だが、主質問の規則では――。
「一致ですね」
記録担当職員が小さく言った。
「はい」
若い観測員は静かに答えた。
「両領域非確認による一致です」
その声に興奮はない。
しかし、意味が小さいわけでもない。
入力は成立している。
固定済みの早期位置単一意図的小変動は、許容範囲内で実施された。
それでも、東側奥部の対象反応も、西側の対象反応も確認されなかった。
過去にも、意図的小変動を入れながら対象三領域が確認されなかった試行は存在する。
だから、人工刺激を入れれば必ず反応が出るわけではないこと自体は新しくない。
ただし今回は、東西二領域の確認判定共起を専用の主質問として、結果を見る前に判定規則と追加件数を固定した後の記録だ。
若い観測員は記録欄へ余計な解釈を書き加えなかった。
『東:非確認』
『西:非確認』
『主判定:一致』
『主観対象感覚:非確認』
『その他主観異常:非確認』
それ以上は、まだ書かない。
◇
休憩後。
アリシアが会議室へ戻ると、机の上には結果をまとめた一枚の紙が置かれていた。
彼女は座る前から、その紙が気になっていた。
「状態をもう一度確認します」
サーラが言う。
「疲労」
「三」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「ない」
「怖さ」
「二」
「結果を早く知りたい気持ち」
「九」
『高いわね』
「今はいいでしょ」
「はい。安全上の問題はありません」
副学院長が結果紙をアリシアの方へ向けた。
「では、固定された主判定から開示します」
アリシアの背筋が伸びる。
「東側奥部対象反応――非確認」
アリシアの目が少し大きくなった。
「……出なかった?」
「固定基準では非確認です」
「西は?」
「西側対象反応――非確認」
数呼吸、アリシアは黙った。
「両方……ない」
「はい」
「じゃあ」
「主判定は、一致です」
アリシアは紙を見つめた。
東、非確認。
西、非確認。
一致。
自分も、対象感覚非確認。
その他の異常も非確認。
「……全部、なかった」
「今回確認した対象については、三領域とも非確認です」
若い観測員が慎重に言う。
「ただし、『何も起きなかった』を無制限な意味で使わないようにしましょう。入力は成立しています。装置は動作しました。観測された通常変動もあります。そのうえで、固定した対象反応・対象感覚が確認されなかったという記録です」
「うん」
アリシアはまだ紙を見ていた。
「嬉しい?」
サーラは聞かなかった。
代わりに、アリシアが自分から言った。
「……変な感じ」
「どのような?」
「一致したのは嬉しい」
「はい」
「でも、何も出なかったのは残念」
「両方同時に感じていいと思います」
「嬉しいのに残念でもいい?」
「感情ですから」
アリシアは少し口元を緩めた。
「研究の判定みたいに、一個じゃなくていいんだ」
『感情まで四区分にしないでよ』
「しないよ」
◇
そこから先は、あえて深く掘らなかった。
若い観測員が最初に確認したのは、入力条件が予定範囲内だったことだけだった。
「早期位置単一意図的小変動は、固定済みの許容範囲内で成立しています」
「前の専用試験と同じ条件?」
「同じ固定条件に属します。ただし、個々の入力波形が完全に同一という意味ではありません」
「うん」
「今回の主質問に必要な範囲では、予定条件を満たしています」
「東側の前の状態は?」
アリシアが聞きかける。
若い観測員はすぐに答えなかった。
「記録はあります。ただし、それを今ここで結果説明の原因として扱うのは避けます」
「……そっか」
「今回非確認だったから、『東側の事前状態がこうだったからだ』と後から理由を作ることはしません」
「候補にするのも駄目?」
「観察された違いとして将来の候補になる可能性はあります。ただし今回の答えにはしません」
「結果見てから気づいた違いは、次に確かめる候補」
「はい」
「今回の答えにはしない」
「その通りです」
何度も使ってきた規則だった。
それでも、実際に「出なかった」結果を前にすると、その規則の重さは少し違って感じられた。
理由を探したい。
なぜ出なかったのか知りたい。
前の試験と何が違ったのか、全部並べたくなる。
けれど、それを今日すぐに答えへ変えてはいけない。
(知りたい)
強く思う。
同時に、止まる。
◇
「一つ確認したい」
アリシアが言った。
「どうぞ」
「前の専用の一回は、東も西も確認だった」
「はい」
「今回、東も西も非確認」
「はい」
「だから専用の前向き記録は、今は二つ?」
「その表現ならはい。ただし役割を明確にしておきます」
若い観測員が二枚の紙を離して置いた。
「最初の一件は、専用主質問を固定して実施した最初の記録です。その結果を得た後で、追加二実施試行を固定しました」
「今日が、その追加の一つ目」
「はい」
「あと一つ」
「予定上はそうです。ただし安全判断が優先されます」
「分かってる」
「二件を最初からまとめて結果別に増減することはありません」
「今日非確認だったから、次を増やしたりしない」
「はい」
「次が何でも、追加系列はそこで一回終わる」
「その通りです」
アリシアは二枚の記録を見た。
一枚目。
東確認、西確認。
二枚目。
東非確認、西非確認。
どちらも主判定は一致。
「一致って、同じ結果じゃないんだね」
アリシアが呟いた。
副学院長が視線を向ける。
「どういう意味ですか?」
「前は両方あったから一致。今日は両方ないから一致」
「はい」
「『一致』だけ見たら同じだけど、中身は逆」
「その区別は重要です」
「じゃあ、あとで『二件とも一致』だけにしちゃ駄目?」
「それだけでは情報が不足します」
「東西の確認・非確認も残す」
「必ず」
アリシアは頷いた。
大きな数字へまとめない。
同じ言葉へ潰さない。
何が一致したのかまで残す。
◇
「私の感覚は?」
アリシアが次に尋ねた。
「既存対象感覚は非確認です」
「弱い変な感じも?」
「今回は報告されていません」
「じゃあ、前の〇・五くらいのときとは違う」
「報告内容としては違います」
「同じ原因かどうかは?」
「分かりません」
「今日何もなかったのも、東西が出なかったからかは?」
「分かりません」
「東西が出なかったから私も何も感じなかった、とは言えない」
「はい」
「私が何も感じなかったから東西も出なかった、も言えない」
「はい」
「三つとも別の何かのせいかもしれない」
「可能性としては残ります」
「……分からないこと多い」
『今さらね』
「今日は言っていいでしょ」
ノアの声に、会議室の空気が少しだけ緩んだ。
◇
サーラが記録板を閉じる前に、最後の感情確認を行った。
「アリシアさん。今回の結果に対する残念さは、今どの程度ですか?」
「五」
「先ほど六でしたね」
「東と西もなかったって分かったから、ちょっと下がった」
「なぜでしょう」
アリシアは少し考えた。
「私だけ何もなかったんじゃなかったから……だと思う」
「それは安心ですか?」
「少し」
「どの程度?」
「三」
「一致したことへの嬉しさは?」
「七」
「次の試行を早く行いたい気持ち」
アリシアは迷わず答えた。
「九」
「やりすぎそうな気持ち」
「……八」
サーラの筆が止まる。
「八ですね」
「うん」
「今日はこれ以上の詳細分析を行いません」
「まだ九じゃないよ」
「九になるまで待つ必要はありません」
「相談は九でしょ」
「それは既存の安全目安です。しかし、八なら無制限に進めるという規則ではありません」
「……分かってる」
「今回、結果を見た直後で、次を早く行いたい気持ちが九です。やりすぎそうな気持ちも八まで上がっています。今日はここで止めるのが適切です」
「次の試験の日だけでも」
「今日決めません」
「なんで?」
「今日の結果を見た直後だからです」
アリシアは口を閉じた。
その理由には反論できなかった。
「明日は予定通り人工刺激を置きません。体調確認だけ行います」
「……うん」
「追加系列の最後の一実施試行については、その後に候補日を調整します」
「うん」
「今日非確認だったから早めません」
「うん」
「今日一致だったから早めることもしません」
「分かった」
少し不満は残った。
けれど、アリシアは席を立った。
◇
研究棟を出たころ、日はかなり傾いていた。
空の端には薄い橙色が残り、学院の塔の影が長く伸びている。昼間より風が冷たくなり、アリシアは制服の袖口を少し引いた。
胸は普通だった。
試験中も普通だった。
何も感じなかった。
「ノア」
『何?』
「何もなかったのに、一回って感じする」
『実際一回でしょう』
「前だったら、何もなかったらやり直したいって思ったかも」
『今も思ってない?』
「思ってる」
『でしょうね』
「でも、今日の分を消してやり直したいとは思ってない」
ノアが少しだけアリシアを見上げた。
『それなら進歩なんじゃない?』
「褒めてる?」
『事実を言っただけ』
「褒めてることにする」
『勝手にしなさい』
◇
翌朝。
人工刺激は予定通り行われなかった。
アリシアの疲労は二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
頭痛、吐き気、めまいもない。
遅れて現れた異常も確認されなかった。
生活観測区画では、子供が朝食のあと、例の積み木をまた机へ出していた。
少し離れた一個。
その横に並んだ二個。
昨日までは、追加分の二個とも同じ向きだった。
今日は片方だけを少し動かしている。
「何してるの?」
「一回やったから」
「……あ」
前の一件。
追加一件目。
まだ残っている追加一件。
子供は研究上の意味など知らない。
ただ、「前の一回」と「あとから決めた二回」を積み木で分けているだけだ。
「こっちは終わった」
子供が追加側の一つを指した。
「うん」
「何かあった?」
アリシアは少し考えた。
「調べてたものは、なかった」
「失敗?」
「違う」
「成功?」
「それもちょっと違う」
「じゃあ何?」
「一回」
子供が首を傾げる。
アリシアは笑った。
「何も確認できなかったっていう、一回」
「ふうん」
子供はそれ以上興味を示さず、残った積み木を二つ重ねようとした。
重要な木箱は今日も閉じたままだった。
紙箱の中身も大きく変わっていない。
顔のない存在は窓辺近くに座り、十一の灯りにも目立った変化はない。
研究で一つ新しい記録が増えたからといって、生活観測区画のすべてが意味を持って動き始めるわけではない。
それでよかった。
◇
学院へ着くと、友人が教室の入口で待っていた。
「昨日どうだった?」
約束を覚えていたらしい。
アリシアは少しだけ迷った。
「中身は言えないけど」
「うん」
「嬉しい七、残念五」
「同時?」
「同時」
「器用だね」
「器用なの?」
「私は嬉しかったら嬉しいし、残念なら残念だけど」
「私もそうだよ」
「両方なんでしょ?」
「うん」
「じゃあ器用」
友人はよく分からない理屈で納得した。
「次もあるの?」
「あと一回」
「いつ?」
「まだ決まってない」
「早くやりたい?」
「九」
「また高い」
「でも今日はやらない」
「何で?」
「やらないって先に決めてたから」
「体調悪くないのに?」
「うん」
友人は少し不思議そうだったが、やがて肩をすくめた。
「じゃあ今日は普通に学校ね」
「いつも普通に学校だよ」
「昨日ずっと頭の半分研究だったでしょ」
「……半分もない」
「三割?」
「数字にしない」
「研究の人なのに?」
「学生だから」
友人が笑った。
アリシアも笑う。
◇
放課後になっても、その日は研究棟へ向かわなかった。
代わりに友人と途中まで一緒に歩き、選択授業の希望について他の生徒たちが話しているのを聞きながら、ゆっくり学院を出た。
資料修復の希望人数はやはり多いらしい。
第一希望が必ず通るとは限らない。
それでも、アリシアは提出した紙を取り戻したいとは思わなかった。
選んだときには、選んだ理由があった。
結果がどうなるかは、そのあとだ。
研究も少し似ている。
追加二回と決めた。
一回目は、期待していた対象反応が三領域とも確認されなかった。
それでも、その一回をなかったことにはしない。
残っているのは、あと一回。
(次は出てほしい)
その気持ちは消えていない。
(でも、出なくても一回)
今なら、その二つを同時に持てる。
答えを好きになる必要はない。
結果にがっかりしてもいい。
大切なのは、がっかりしたから記録を変えないことだった。
◇
夕方、生活観測区画へ戻ると、研究棟から新しい連絡票が届いていた。
アリシアは少しだけ期待して紙を開いた。
そこに書かれていたのは、次の人工刺激の日付ではない。
『追加系列第一実施試行の記録固定完了。翌日までの安全確認で遅発性異常なし。第二実施試行の候補日は、体調および実施体制を確認後に調整する。』
「まだ決まらない」
『残念ね』
「うん」
『九?』
「七」
『下がった』
「今日は学校あったから」
『毎日あるでしょう』
「そうだけど」
アリシアは連絡票を机へ置いた。
急がなくても、一回目の記録は消えない。
東側非確認。
西側非確認。
主判定は一致。
アリシアの既存対象感覚も非確認。
弱い異常報告もなし。
入力は予定範囲内で成立。
それ以上の理由は、まだ決めない。
そして追加系列には、あと一実施試行だけが残っている。
次に東西とも確認されるかもしれない。
東西とも非確認かもしれない。
あるいは、初めて確認判定が分かれるかもしれない。
どれが出るかは分からない。
どれが出ても、追加はしない。
そこまで先に決めてある。
アリシアは窓を少し開けた。
夜へ変わり始めた風が部屋へ入り、机の上の連絡票の端をわずかに揺らす。彼女は紙が飛ばないよう指先で押さえながら、暗くなっていく空を見た。
欲しかった反応が出なかった一回。
けれど、それは空白ではない。
何も確認されなかったことを、そのまま残せた一回だった。
そして、その一回を消さずに次へ進むことが、今のアリシアにはできる。
残るのは、あと一回。
その結果を見る前に決めた終点は、もうすぐそこまで来ていた。




