第249話 結果を見る前に、終わる場所を決める
翌朝、アリシアが生活観測区画の共用室へ入ると、窓の外には久しぶりに澄んだ青空が広がっていた。
昨日まで残っていた雨雲は夜のうちに流れたらしい。朝日はまだ低く、窓辺の床へ長い光の帯を落としている。開けられた小窓から入る風には少し冷たさがあったが、湿った土と草の匂いは薄れ、代わりに乾き始めた木々の葉が擦れる音がよく聞こえた。
アリシアはいつもの席へ向かい、椅子を引いた。
胸の異常はない。
痛みも息苦しさもなく、頭痛や吐き気もない。二度経験した弱い胸部違和感が戻った様子もなく、身体だけなら研究を避ける理由は見当たらなかった。
ただし、今日も人工刺激の日ではない。
(今日は、何回やるかを考える日)
昨日の最後に残った問いを思い出す。
東側奥部と西側の確認判定が一致するかを確かめる追加の前向き試験。
実施するなら、結果を見る前に件数を決める。
一件ずつ結果を見ながら「もう一回」「あと一回」と増やしてはいけない。
都合のよい結果が出たから終わることも、都合の悪い結果が出たから増やすことも避ける。
それは分かった。
問題は、何件なのかだった。
「おはよう」
先に朝食を食べていた子供が言った。
「おはよう」
「今日、何回?」
アリシアは椅子へ座りかけた姿勢で止まった。
「……何で知ってるの?」
「昨日、何回にするか決めるって言ってた」
「聞いてたんだ」
「うん」
子供は平然としている。
「まだ決まってない」
「十回?」
「多い」
「五回?」
「それもまだ分からない」
「三回?」
「だから決まってない」
「一回?」
「減らしていけば当たると思ってる?」
「うん」
アリシアは小さく息を吐いた。
足元からノアの声がする。
『そのうちゼロ回になるわよ』
「ゼロならやらないじゃん」
「じゃあ二回」
子供が言った。
「何で二回?」
「真ん中」
「何の真ん中?」
「一と三」
「そういう決め方はしない」
「難しい」
「私もそう思う」
朝食を運んできた職員が二人の会話を聞いて、わずかに笑った。
「研究の回数を朝食前に決めるのは難しそうですね」
「決めないよ」
「今日は研究棟で?」
「うん。でも先に学校」
「でしたら、まず食べてください」
「はい」
アリシアは素直にパンへ手を伸ばした。
◇
学院へ着くと、教室の入口近くに人だかりができていた。
何かと思って覗くと、選択授業の希望提出用の箱が置かれている。提出期限まではまだ少しあるが、すでに決めた生徒は早めに入れてよいらしい。
「アリシア」
友人が箱の横から手を振った。
「もう出したの?」
「出した」
「早い」
「決めてるのに持ってても仕方ないじゃん」
「……そうだけど」
「アリシアは?」
「まだ」
「第二希望あるって知ったのに?」
「それと第一希望が決まるかは別」
友人は呆れたような顔をした。
「何でそんなに悩むの?」
「全部面白かったから」
「じゃあ一番やりたいの」
「それが同じくらい」
「本当に?」
「……たぶん」
「『たぶん』なんだ」
アリシアは鞄から希望用紙を取り出した。
第一希望。
第二希望。
どちらも空欄のままだ。
「今日決める」
「本当?」
「たぶん」
「もう信用しない」
「何で」
「昨日も似たようなこと言ってた」
二人が話している横で、別の女子生徒が提出箱へ紙を入れた。
「私も昨日まで迷ったよ」
突然会話へ加わったため、アリシアが少し驚いて振り向く。
同じ教室の生徒だった。
「何で決めたの?」
「友達が行くところ」
「それでいいの?」
「私は一人だと続かないから。それも選ぶ理由でしょ」
女子生徒はそう言って、自分の席へ向かった。
友人がアリシアを見る。
「ほら、決め方なんて人それぞれ」
「あなたは?」
「私はやりたいから染色」
「地図もやりたかったでしょ」
「第二希望」
「……第二希望、便利」
「昨日気づいた人が言わないで」
アリシアは希望用紙を見つめた。
研究なら、先に基準を決める。
けれど、何を学びたいかまで同じ方法で決める必要はない。
(好きだから、でもいい)
そう思えるようにはなった。
それでも、どれが一番好きなのかはまだ迷う。
「放課後までに決める」
「研究は?」
「その前に書く」
「じゃあ見張る」
「何で?」
「研究行ったら忘れそうだから」
「忘れないよ」
「じゃあ証明して」
「何をどうやって」
友人は笑いながら自分の席へ戻った。
◇
午前の実技授業では、四人一組で簡単な魔力灯を組み立てる課題が出された。
高価な魔導具ではなく、基礎授業用の簡素なものだ。台座へ導線を通し、小さな魔石と点灯板を接続する。手順自体は難しくないが、導線の固定が甘いと光が安定しない。
「アリシア、そっち押さえて」
「ここ?」
「もう少し右」
「これくらい?」
「そう」
同じ班の男子生徒が留め具を締める。
友人は説明書を持ち、残った一人が魔石の向きを確認していた。
「よし。点けるよ」
魔力を流す。
淡い光が灯った。
一瞬、班の全員が笑顔になる。
ところが数呼吸後、光が弱くなった。
「あれ?」
「消える?」
「待って、まだ触らないで」
アリシアが言った。
男子生徒の手が止まる。
「何で?」
「どこがおかしいか見る前に動かしたら分からなくなる」
「研究みたい」
友人が笑う。
「違うよ。普通にそうでしょ」
「でも合ってる」
班の四人で接続箇所を見る。
導線の一つがわずかに浮いていた。
「ここじゃない?」
「押さえてみる」
男子生徒が指で軽く固定すると、光が少し強くなる。
「ここだ」
「じゃあ締め直そう」
今度は一度魔力を切り、留め具を締め直した。
再び点灯させると、先ほどより安定した光が続く。
「何呼吸待つ?」
友人が聞く。
「先生、どのくらい点いてれば合格ですか?」
班の男子生徒が教師へ声を掛けた。
「課題用なら二十呼吸ほど安定すれば確認します。ただし、二十で突然壊れるように作れという意味ではありませんよ」
教室に笑いが起きた。
「じゃあ二十」
友人が数え始める。
「一、二、三――」
「声に出すの?」
「分かりやすいじゃん」
「全員で数える?」
「それはうるさい」
近くの班から「もううるさいよ」と声が飛び、さらに笑いが広がった。
アリシアも笑いながら魔力灯を見守った。
二十呼吸。
光は安定したままだった。
「合格」
教師が確認印を付ける。
そこで課題は終わりだ。
もっと長く点け続けて「本当に安定しているか」を調べる必要はない。
授業で求められている確認範囲が決まっているからだ。
アリシアは片づけながら、少しだけ考えた。
(終わる場所を先に決めるって、こういう感じなのかな)
もちろん、研究と授業課題は違う。
それでも、何かを確認するときに「いつまで」を先に決めること自体は、少し身近に感じられた。
◇
昼休み。
アリシアは友人と教室に残った。
窓を開けると、外から乾いた風が入り、机の上の紙が一枚めくれそうになる。アリシアは希望用紙の端を昼食の包みで押さえた。
「決めるんじゃなかった?」
「食べてから」
「先延ばし」
「お腹空いてると決められない」
「本当?」
「たぶん」
「またそれ」
友人が呆れながら果物を一つ口へ入れる。
アリシアもパンを食べながら、四つの候補を頭へ浮かべた。
植物管理は、毎日の小さな変化を見るのが面白かった。
染色は、色が布へ移っていく過程が好きだった。
地図作成は、自分で歩いた場所が紙の上へ形になるのが楽しかった。
資料修復は、古い紙を壊さないように手を入れ、すぐ結果を求めず待つところまで含めて面白かった。
「……資料修復にしようかな」
アリシアが言った。
友人がすぐに顔を上げる。
「第一?」
「うん」
「理由は?」
「一番、もう一回やってみたいって思ったから」
「じゃあそれでいいじゃん」
「でも地図も――」
「第二希望」
「植物も」
「第三希望ないよ」
「……染色も」
「私がやるから見せてあげる」
「授業違ったら見せられないでしょ」
「何か作ったら見せる」
アリシアは少し笑った。
「じゃあ第一、資料修復」
「書きなよ」
「今?」
「今」
「あとででも――」
「今」
友人の圧に負け、アリシアは鉛筆を取った。
第一希望。
『資料修復』
書く。
文字を見た瞬間、思ったより抵抗がなかった。
「第二は?」
「地図作成」
「植物じゃないの?」
「迷わせないで」
「ごめんごめん」
第二希望へ『地図作成』と書く。
「……書いた」
「提出してきなよ」
「昼休み終わる前でいい」
「また持って帰る気?」
「持って帰らない」
「じゃあ行こう」
友人に急かされ、アリシアは希望用紙を持って立ち上がった。
◇
提出箱へ紙を入れる直前、アリシアは一度だけ止まった。
「まだ変えられるよ」
友人が横から言う。
「……うん」
「出したら基本その希望で調整されるけど」
「うん」
「やめる?」
アリシアは紙を見る。
資料修復。
地図作成。
(これが一番正しいって証明できるわけじゃない)
でも、選択授業に証明はいらない。
自分が今、やりたいと思った。
それで十分だ。
「出す」
紙を箱へ入れた。
「決まった!」
友人が自分のことのように喜ぶ。
「大げさ」
「何日悩んだと思ってるの」
「あなた関係ないじゃん」
「毎日聞かされた」
「聞いてきたのそっち」
二人で笑いながら教室へ戻った。
提出したあとも、植物管理が惜しい気持ちは残っている。
染色も面白かった。
けれど、それで選択が間違いになったわけではない。
(選ばなかったものが嫌いになるわけじゃない)
その感覚は、今日の研究にも少しだけ持っていけそうだった。
◇
放課後の研究棟では、机の中央に三枚の紙が置かれていた。
一枚目は、安全面。
二枚目は、研究上の情報量。
三枚目は、実施件数を決める際の規則。
アリシアが席へ着くと、サーラが状態を確認した。
「疲労は?」
「二」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「全部ゼロ」
「参加希望」
「八」
「次の人工刺激を早く行いたい気持ち」
「八」
「昨日は九でしたね」
「うん」
「下がった理由はありますか?」
アリシアは少し考えた。
「今日、学校で選択授業決めたから」
サーラが一瞬だけ目を瞬いた。
「関係がありますか?」
「たぶん。ずっとそれも気になってたから、決まってちょっとすっきりした」
「なるほど」
「第一希望、資料修復」
「決めたんですね」
「うん」
「よかったですね」
「まだ希望通るか分からないけど」
「それでも、選んだことは変わりません」
アリシアは小さく頷いた。
『数日悩んでたものね』
「ノアは何も手伝ってない」
『明日決めればって毎日言ったでしょう』
「それ手伝ったことになる?」
『私の中では』
「便利」
◇
「では、追加前向き試験の件数について検討します」
副学院長が三枚の紙へ目を向けた。
「最初に確認しますが、今日は人工刺激を行いません」
「うん」
「件数を決めたとしても、直ちに翌日から実施するとは限りません」
「うん」
「安全面の確認から始めます」
サーラが一枚目を引き寄せた。
「既存の人工刺激は、安全範囲内で実施してきました。しかし、安全範囲内であることと、連日何度でも行ってよいことは同じではありません」
「うん」
「これまで通り、人工刺激を日常化しません。試験翌日は原則として刺激を置かず、体調と遅れて出る変化がないかを確認します」
「前と同じ?」
「基本は同じです」
「じゃあ二日連続はしない」
「原則として」
「原則?」
「予想外の事情があれば、研究側が勝手に例外を作るのではなく、その時点で改めて検討します。ただ、今回の系列計画では連日実施を前提にしません」
「分かった」
「さらに、予定件数が三件なら、三件すべてを必ず実施しなければならないという意味でもありません」
「安全で止まったら?」
「中止または延期します」
「その場合、三件やるって決めたのに二件で終わるかもしれない?」
「はい」
「それは途中で件数変えたことにならない?」
「安全上の中止は別です」
サーラははっきり答えた。
「結果を見て都合よく件数を変えることと、参加者の安全を理由に実施しないことは区別します」
「記録には残す?」
「当然です」
「『三件予定だったけど、安全で二件しかできなかった』って?」
「そのように残します」
アリシアは頷いた。
◇
次に、若い観測員が二枚目の紙を出した。
「研究上の情報量についてです」
「うん」
「すでに、専用の東西共起前向き試験として一件あります」
アリシアはあの日の記録を思い出す。
東側確認。
西側確認。
主判定は一致。
自分の既存対象感覚は非確認。
ただし、胸の中央より少し左に、ごく弱い違和感が短く現れた。
「一件追加すれば、専用前向き記録は二件になります」
「うん」
「二件目も一致した場合、『固定した条件下で、専用前向き記録二件とも一致した』と記述できます」
「いつも一致するとは言えない」
「言えません」
「二件目が不一致なら?」
「『一件は一致、一件は不一致』です」
「分かりやすい」
「二件追加して専用記録が合計三件になれば、三件分の結果を記述できます。ただし、三件だから十分、二件だから不十分、という絶対的な境界が今あるわけではありません」
「じゃあ何件でもいい?」
「いいえ」
「何が違うの?」
「一件増えるごとに、同じ固定条件で独立に得られる記録が一つ増えます。しかし、人工刺激の負担も一回増えます」
「情報と負担」
「はい」
「十件ならいっぱい分かる?」
「三件より記録は増えます」
「じゃあ十件?」
サーラがアリシアを見る。
「言ってみただけ」
『朝も同じことしてたわね』
「十は朝言ってない。子供が言った」
『似たようなものよ』
◇
「もう一つ大切なのは」
若い観測員が続ける。
「この系列で何を答えたいかです」
「東西の確認判定が一致するか」
「はい。ただし、一度の系列ですべてを決着させる必要はありません」
「……あ」
「たとえば専用前向き記録を数件追加して、その結果を固定したあと、別の疑問が生まれる可能性があります」
「そのときは別の試験?」
「必要なら」
「じゃあ今回で六つ目の神器が何してるかまで分からなくていい」
「もちろんです」
「東と西がどうつながってるかも?」
「今回の主質問ではありません」
「時間順も?」
「主質問ではありません」
「弱い胸の感じが何かも?」
「それも別です」
アリシアは椅子へ少し深く座り直した。
自分でも分かるほど、肩から力が抜けた。
「私、また一回でいっぱい知ろうとしてた?」
「少しだけ、その方向へ寄りかけていたかもしれません」
「……そっか」
『いつものことね』
「最近は減った」
『ゼロとは言ってないでしょう』
「うるさい」
◇
三枚目の紙には、件数決定の規則候補が並んでいた。
一、既存の専用前向き記録一件を起点とする。
二、追加件数は、追加結果を見る前に固定する。
三、固定した追加件数は、結果が一致でも不一致でも変更しない。
四、安全上の中止・延期、装置異常、標準手順を守れない状況は別扱いとする。
五、実施不能が生じた場合は、その理由を記録し、勝手に別試験で埋めない。
六、予定系列終了後に初めて、次の系列が必要かを検討する。
「五番」
アリシアが指差した。
「『別試験で埋めない』って?」
「たとえば三件予定していて、二件目が装置異常で評価不能になったとします」
「うん」
「そこで何も記録せず、翌日の別試験を『二件目だったことにする』ような扱いはしません」
「じゃあ評価不能も残す?」
「はい」
「そのあと三件目をやる?」
「そこを事前に決めます」
「……また決めること増えた」
アリシアが眉を寄せる。
「予定件数を『評価可能な結果三件』とするか、『実施試行三件』とするかで違います」
「どう違う?」
「前者なら、装置異常で一件評価不能になった場合、評価可能な三件を得るため追加実施が必要になる可能性があります」
「後者なら?」
「三回実施した時点で系列終了です。評価不能が一件なら、評価可能なのは二件のままです」
「どっちがいいの?」
「それを結果を見る前に決めます」
アリシアは両手で額を押さえた。
「件数決めるだけなのに」
『研究を甘く見たわね』
「甘く見てない」
『朝は一、二、三で済ませようとしてたじゃない』
「それ子供!」
◇
少し休憩を挟んだ。
アリシアは窓際で水を飲みながら、頭の中を整理する。
何件見るか。
何を一件と数えるか。
途中で装置が壊れたらどうするか。
安全上延期になったらどうするか。
考えることが増えた。
けれど、どれも結果を見てから決めてはいけない理由がある。
(あとで好きなように変えないため)
そこだけは分かりやすい。
「疲労は?」
サーラが近づいてきた。
「三」
「続けられますか?」
「うん」
「止めにくさは?」
「四」
「なら、今日は件数まで決める可能性があります。ただし、疲労が四へ上がったら相談します」
「分かった」
◇
席へ戻ると、アリシアは自分から言った。
「私は、実施試行で数えたい」
若い観測員が顔を上げる。
「理由を聞いても?」
「評価できるまで増やすってすると、装置がおかしかったときに回数が増えるから」
「はい」
「安全で延期は別だけど、始めた試験が評価不能だったら、それもその系列で起きたこととして残した方がいい気がする」
「なるほど」
「でも、装置が最初から壊れてて刺激も入ってないなら?」
「それを実施試行へ数えるか、という問題ですね」
「……また増えた」
アリシアは嫌そうな顔をしたが、逃げなかった。
魔導具担当教師が説明する。
「入力が成立していない場合は、そもそも予定した試験条件を実施していません」
「じゃあ数えない?」
「その方が自然だと思います。ただし、『入力成立後に東側または西側の必要記録が欠落した場合』は別です」
「それは一回やったことになる」
「そう考えられます」
「じゃあ線を引ける?」
紙へ新しい候補が書かれる。
『予定した入力が成立した時点で実施試行一件として数える。入力成立前の中止は実施試行に数えない。入力成立後に必要記録の欠落等で主判定不能となった場合も、一実施試行として保持し、予定件数を補充しない。』
アリシアは二度読んだ。
「これなら好きな結果出るまで増やせない」
「はい」
「評価不能でも一件」
「はい。ただし、安全上、入力成立後に停止した場合も同じく実施試行として残ります」
「主判定はできないかもしれない」
「その通りです」
「それでいい」
◇
「では次に、何件追加するかです」
ついに数字へ戻った。
アリシアは机の紙を見る。
既存専用記録、一件。
追加一件なら合計二件。
追加二件なら合計三件。
追加三件なら合計四件。
もっと増やすこともできる。
ただし、一件ごとに人工刺激が一回増える。
「サーラは何件までなら安全だと思う?」
「『何件までなら安全』と総数だけで保証することはできません」
「どうして?」
「一回ごとの状態が違うからです。三件予定でも、最初の一件後に異常があればそこで止めます。逆に予定件数を多く設定したからといって、すべて安全に実施できるとは限りません」
「じゃあ安全側から数字は決められない?」
「上限を極端に増やさない理由にはなりますが、『安全だから三件』『危険だから二件』と単純には決められません」
「若い観測員さんは?」
「私は、今の問いに対して一度の系列で大量の記録を取る必要はないと考えています」
「何件?」
「私から数字を出す前に、アリシアさんの考えを聞きたいです」
「ずるい」
「誘導を避けたいので」
「……分かった」
◇
アリシアは黙った。
窓の外で風が枝を揺らす。
机の端では、記録担当職員が筆を置いたまま待っている。誰も急かさない。
一件では、次の一つを見て終わる。
二件なら、同じ決まりで二つを見る。
三件なら、さらにもう一つ。
たくさん見たい。
それは本音だ。
けれど、数が多いほど正しいというわけではない。
それも今日聞いた。
(今回で全部分からなくていい)
東西の関係を決着させる必要はない。
六つ目の神器の正体を決める必要もない。
二つの弱い感覚の意味も、今の系列では答えなくていい。
「追加二件」
アリシアが言った。
誰もすぐには反応しなかった。
「理由は?」
副学院長が尋ねる。
「一件だけだと、今ある一件にもう一個足して終わりだから」
「はい」
「三件以上は……今の私だと、いっぱい見たいから増やしたい気持ちが混ざってる」
自分で言うと少し恥ずかしい。
「二件なら?」
「今ある一件と合わせて、専用の前向き記録が最大三件になる」
「はい」
「それで全部分かるとは思わない。でも、今の固定した問いであと二回見て、一回そこで止めるなら……できそう」
「『できそう』は安全面ですか、研究上ですか?」
「両方ちょっと」
「分けてください」
「……研究では、三件あれば十分って意味じゃない。今の問いで一度区切って、次に何するか考える場所として三件」
「はい」
「安全は、一日一回で、翌日は刺激なし。毎回その日の状態を見て、駄目なら延期か中止」
「分かりました」
「だから追加二件がいい」
記録担当職員が、その理由を原文に近い形で残した。
◇
その後、ほかの参加者から意見が出された。
魔導具担当教師は、同じ入力条件をあと二件実施することについて、装置運用上の問題はないとした。ただし毎回、固定済みの入力条件を満たしていることを確認し、範囲外ならその試行を成立させない。
サーラは、一日一件を上限とし、翌日を原則刺激なしとする既存運用を維持することを条件に、追加二件という計画自体へ安全面からの反対はないとした。ただし、予定は安全判断を上書きしない。
若い観測員は、追加二件を結果を見る前に固定し、二件終了後は一致・不一致の内訳にかかわらず一度系列を閉じることを提案した。
「二件とも一致でも終わる?」
アリシアが確認する。
「はい」
「一件一致、一件不一致でも?」
「終わります」
「二件とも不一致でも?」
「終わります」
「評価不能が入っても?」
「入力成立後の試行であれば、予定二件の一件として数えます」
「じゃあ結果で増やさない」
「はい」
「……分かった」
アリシアは紙を見た。
結果を見る前に、終わる場所が決まった。
◇
しかし、副学院長はまだ正式固定を宣言しなかった。
「もう一つあります」
「まだあるの?」
『嫌そうな声出さないの』
「だっていっぱい決めた」
「重要なのは、既存の一件と追加二件をどう表現するかです」
アリシアが首を傾げる。
「三件じゃないの?」
「専用前向き記録としては、系列上三件になります。ただし最初の一件は、今回追加二件を固定する前にすでに得られた記録です」
「……あ」
「したがって、『三件を事前に固定して実施した』とは言えません」
「駄目だ」
「はい」
「一件見たあとで、二件追加するって決めた」
「その通りです」
「じゃあ書き方は?」
「既存の専用前向き記録一件が得られた後、追加二実施試行を結果にかかわらず行う計画を固定した、とします」
「三件全部が最初から決まってたみたいにしない」
「はい」
アリシアは大きく頷いた。
「それ大事」
「非常に」
「前の一件を後から計画に入れ直さない」
「その通りです」
◇
さらに、過去の九記録との関係も確認された。
「九個の東西一致も足さないよね?」
アリシアが自分から言った。
「足しません」
「前の三領域前向き二件も?」
「今回の専用系列の件数へは足しません」
「でも東西だけ見たら、あれも両方確認だった」
「そうですね。別目的で得られた前向き記録として参考にはできますが、専用系列と同じ役割にはしません」
「じゃあ、全部まとめて何件中何件って言わない」
「はい」
「古い九個も、今回の一件も、前の二件も、それぞれ何のために取ったか残す」
「その理解で合っています」
アリシアは少し嬉しくなった。
以前なら、記録が多ければ全部足した方が強いと思ったかもしれない。
今は違う。
同じように見える記録でも、どんな問いのもとで得たのかが違う。
「数字、大きくしない方が大事なときもあるんだね」
「大きく見せない、という意味ではそうですね」
『あなた、数字好きだったものね』
「今も嫌いじゃない」
『知ってる』
◇
正式固定の前に、最後の休憩が入った。
アリシアの疲労は三。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常ゼロ。
怖さは二。
続けたい気持ちは七。
止めにくさは三。
「正式固定まで進めますか?」
サーラが尋ねる。
「うん」
「今日決めたら、変更できないという意味ではありません。安全上や設計上の重大な問題が見つかれば、実施前に計画自体を撤回することはできます」
「結果見て変えるのは駄目」
「はい」
「まだ結果ないから、問題見つかったら止められる」
「そうです」
「分かった」
◇
席へ戻ると、記録担当職員が最終案を読み上げた。
「現在の専用主質問を維持します」
『固定済みの安全範囲内・早期位置単一意図的小変動条件において、東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定は一致するか。』
アリシアは頷く。
「主判定規則も維持します」
東確認/西確認――一致。
東非確認/西非確認――一致。
東確認/西非確認――不一致。
東非確認/西確認――不一致。
「アリシアさんの主観報告は、引き続き副次記録として保持し、主判定には入りません」
「うん」
「既存の専用前向き記録一件を得た後の追加系列として、二実施試行を固定します」
「うん」
「予定した入力が成立した時点で、一実施試行として数えます。入力成立後、装置異常、安全停止その他の理由により主判定不能となった場合も一実施試行として保持し、結果を得るための補充は行いません」
「うん」
「入力成立前に中止された場合は、実施試行へ数えません」
「うん」
「追加二実施試行終了後は、結果の内訳にかかわらず、この追加系列を一度終了します」
「うん」
「安全上の理由による延期・中止は、予定件数より優先します。一日一実施試行を上限とし、翌日は原則として人工刺激を置きません」
「うん」
「既存の九記録、別目的の三領域前向き記録二件、および今回の専用前向き記録を、単一の同質系列として合算しません」
「うん」
「事前期待記録については、現在の自由記述を基準として保持し、各実施直前には特定感覚を誘導する詳細質問を行いません」
アリシアの表情が少し引き締まった。
「何も感じなくても、の確認も」
「入れます」
続けて読み上げられる。
『何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません。』
「また、直前に『何かを報告しなければならないと感じているか』を確認します」
「うん」
「以上を、追加系列の実施前固定案とします」
副学院長がアリシアを見る。
「異論はありますか?」
アリシアはすぐに答えなかった。
一つずつ思い返す。
二回。
結果にかかわらず二回で止まる。
安全なら一日一回。
翌日は刺激なし。
何も感じなくてもいい。
東西が一致しなくても、その結果を残す。
弱い違和感が起きなくても失敗ではない。
期待していることは、すでに記録した。
「ない」
「では固定します」
記録担当職員が日付を入れた。
紙が正式な計画記録へ移される。
◇
その瞬間、アリシアの胸の奥に少しだけ緊張が生まれた。
まだ刺激は受けていない。
日程も決まっていない。
それでも、次に何を見るのかだけではなく、どこで一度終わるのかまで決まった。
「変な感じ」
アリシアが呟く。
「何がですか?」
若い観測員が尋ねる。
「二回しかできないって思うと、もっとやりたくなる」
『子供みたいね』
「でも、二回って決めたの私」
「はい」
「結果見たあと、三回目やりたいって言っても?」
「次の系列として検討することはできます」
「すぐ追加はしない?」
「今回の二件へ後付けでは追加しません」
「そっか」
「それが、今日決めた『終わる場所』です」
アリシアは記録紙を見た。
「……うん」
◇
研究棟を出るころには、空の青がかなり深くなっていた。
今日はいつもより長く話したせいか、頭には少し重さがある。それでも疲労は三のままで、痛みや息苦しさはない。
「明日やる?」
歩き始めてすぐ、アリシアが言った。
『何を?』
「試験」
『私に聞いてどうするの』
「予想」
『知らない』
「明日できるかな」
『研究の人に聞きなさい』
「今日は日程決めなかった」
『なら決まってないんでしょう』
「分かってる」
『だったら明日は学校へ行けば?』
「行くよ」
『ならそれでいいじゃない』
ノアは淡々としている。
アリシアは少し頬を膨らませたが、反論はしなかった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が共用室の机で小さな積み木を並べていた。
「決まった?」
アリシアを見るなり聞かれる。
「何が?」
「何回」
「ああ」
「十?」
「違う」
「五?」
「違う」
「三?」
「追加は二回」
「二!」
子供が嬉しそうに言った。
「朝、当てた!」
「理由は全然違うから」
「でも二」
「たまたま」
「二回やったら終わり?」
「一回そこで終わる」
「もうやらない?」
「そのあと、また必要か考える」
「じゃあ終わらない?」
アリシアは少し考えた。
「今の調べ方は終わる」
「次は?」
「まだ分からない」
「ふうん」
子供は積み木を二個並べた。
「これ?」
「何が?」
「あと二回」
「……そうかも」
その隣には、少し離れて別の積み木が一つ置かれている。
「これは?」
「前の一回」
アリシアは目を瞬いた。
「それ、分けるの?」
「だって前にやったんでしょ」
「うん」
「あとから二回決めたんでしょ」
「うん」
「じゃあ、こっちは前」
子供は一つの積み木を指す。
「こっちはあと」
二つ並んだ積み木。
アリシアはしばらくそれを見た。
「……分かりやすい」
『今日一日かけて決めたことを積み木三つにされたわね』
「でも合ってる」
『そうね』
◇
夕食後、アリシアは自室へ戻る前に、共用室の窓辺で少しだけ立ち止まった。
顔のない存在は部屋の反対側に座っている。
十一の灯りに目立った変化はない。
重要な木箱も、今日開かれることはなかった。
子供の紙箱は机の上にあり、白い紐が蓋の端から少しだけ覗いている。
どれも、今日の研究へ無理に結びつける必要はない。
アリシアはそれぞれを一度ずつ見て、自室へ戻った。
◇
翌朝、研究棟から届いた連絡は短かった。
『本日は人工刺激を実施しません。追加系列第一実施試行の候補日は、翌々日以降として調整します。』
アリシアは紙を二度読んだ。
「明日もない」
『学校に行けるわね』
「毎日行ってる」
『研究のことで頭いっぱいにならずに、って意味』
「……分かってる」
アリシアは連絡票を鞄へ入れず、机へ置いた。
そして学院へ向かった。
◇
教室では、友人が提出箱の前を通ったアリシアを見つけると、すぐに声を掛けてきた。
「今日、紙持ってないね」
「昨日出したでしょ」
「念のため」
「取り戻してない」
「資料修復で後悔してない?」
アリシアは少しだけ考える。
「植物もやりたい」
「後悔してるじゃん」
「違う。資料修復もやりたい」
「じゃあ?」
「選んだ方をやる」
友人は一瞬だけ黙ったあと、笑った。
「なんか今日、潔い」
「そう?」
「研究で何かあった?」
「二回って決めた」
「何が?」
「次の試験」
「……それと関係ある?」
「ちょっと」
「分かんない」
「私も説明しにくい」
友人は首を傾げたまま自分の席へ戻った。
アリシアも席へ座る。
窓から朝の光が入っている。
人工刺激は今日もない。
次の結果もまだない。
それでも、待つ場所は昨日までとは違った。
何が出るまで続けるのではない。
欲しい答えが出るまで繰り返すのでもない。
あと二回。
結果が何であっても、そこで一度止まる。
そして止まった場所から、次に何を知りたいのかを考える。
(終わる場所が決まってるから、待てるのかも)
アリシアはそう思った。
次の人工刺激は、翌々日以降。
その日が来れば、きっとまた期待する。
東と西が一致してほしいと思う。
弱い胸部異常も起きてほしいと思う。
何か新しいことが分かってほしいとも思う。
けれど、どんな結果が出ても二回で止まる。
その約束は、結果がまだ存在しない今だからこそ決められた。
アリシアは授業の準備を始めた。
答えを見る前に決めた終点は、まだ遠くも近くもない。
ただ、そこにある。
そして次に必要なのは、その終点へ向かう最初の一回を、急がず迎えることだった。




