第248話 何も感じないことも、先に残しておく
翌朝、生活観測区画の食堂には、焼いたパンと温かいスープの匂いが満ちていた。
窓の外は薄曇りで、夜のうちに降ったらしい雨が石畳を濡らしている。屋根の端からは、ときおり溜まった雫が落ち、規則的ではない小さな音を立てていた。
アリシアは朝食の席に着くと、まずスープを一口飲んだ。
胸の冷たさはない。
痛みもない。
息苦しさもない。
二度経験した弱い違和感もない。
昨日までなら、その確認をしたあとで「次はいつ試験だろう」と考えていたかもしれない。
今日は少し違った。
(何も感じなくても、失敗じゃない)
昨日、研究棟で記録候補へ加えた言葉が頭に残っている。
『開始前に、対象となる主観報告がないことも有効な記録であり、報告を作る必要はないことを確認する。』
当たり前のようでいて、アリシアにとっては大きな一文だった。
「パン食べないの?」
向かいから子供に言われ、アリシアは自分の皿を見た。
「食べる」
「ずっと持ってる」
「考えてた」
「研究?」
「少し」
「今日ある?」
「分からない。たぶん話し合いはある」
「また?」
「また」
子供はスープへ小さく切ったパンを浸しながら、少し不思議そうな顔をした。
「研究なのに、やらないの?」
「話すのも研究だよ」
「昨日も話してた」
「うん」
「その前も」
「……うん」
「ずっと話してる」
アリシアは返事に困った。
足元でノアが小さく鼻を鳴らす。
『正論ね』
「必要なの」
「何が?」
「次にやる前に、どうやるか決めるのが」
子供はパンを口へ入れ、ゆっくり噛んだ。
「やるとき決めたら?」
「それだと遅いこともある」
「なんで?」
「結果見てから決めると、自分の好きな決め方にしちゃうかもしれないから」
「好きじゃ駄目?」
「好きな食べ物を選ぶならいい」
「うん」
「でも、何が起きたか調べるときは、好きな答えに変えちゃ駄目」
子供はしばらく考えたあと、自分の皿に残っている二切れのパンを見た。
「こっちは好き」
「うん」
「こっちは普通」
「うん」
「好きな方から食べる」
「それはいいよ」
「研究じゃないから?」
「朝ごはんだから」
子供は納得したらしく、好きだと言った方のパンを先に取った。
『ずいぶん平和な結論ね』
ノアが呟く。
「朝だから」
◇
学院へ向かうころには、雨は完全に止んでいた。
空はまだ灰色だったが、雲の切れ間から少しずつ明るさが戻り始めている。濡れた木々の葉は普段より色が濃く、学院へ続く道には土と草の匂いが混ざっていた。
アリシアが本館へ入ると、友人が掲示板の前に立っていた。
「何見てるの?」
「あ、アリシア。これ」
友人が指差した先には、選択授業の希望提出についての新しい掲示があった。
『第一希望提出――五日後』
「……五日後」
「そう」
「もう?」
「前から言われてたよ」
「知ってる」
「その顔、忘れてたでしょ」
「忘れてない」
「じゃあ何?」
「まだ決めてない」
「私は決めた」
アリシアが振り向いた。
「染色?」
「うん」
「地図は?」
「最後まで迷ったけど、染色」
「七割だったのに」
「昨日の夜で九割になった」
「残り一割は?」
「地図」
「残ってるじゃん」
「でも第一希望は染色」
友人は少し得意そうに胸を張った。
アリシアは掲示へ戻る。
植物管理。
染色。
地図作成。
資料修復。
どれも面白かった。
どれを選んでも、選ばなかったものが少し惜しい気がする。
「アリシアは資料修復じゃない?」
「何で?」
「一番集中してた」
「植物のときも集中してた」
「地図のときも?」
「してた」
「染色は?」
「色見るの好きだった」
「もう知らない」
「聞いたのそっちじゃん」
二人で教室へ向かいながら、友人が笑う。
「研究なら、こういうときどうするの?」
「何が?」
「四つから一個選ぶとき」
「条件決める」
「じゃあ決めれば?」
「選択授業を研究みたいに決めたくない」
「なんで?」
アリシアは少し考えた。
「……好きだから選ぶ、でもいい気がする」
「いいに決まってるじゃん」
友人は迷いなく答えた。
その速さに、アリシアはまた少し笑った。
◇
午前の授業が終わるころには、雲の隙間から青空が見え始めていた。
昼休みになると、窓際の生徒たちが「晴れた」と声を上げ、中庭へ出ようと席を立つ。
アリシアと友人も昼食を持って外へ向かった。
濡れている長椅子を避け、今日は回廊の下へ座る。
「今日も研究?」
「たぶん」
「また話すだけ?」
「たぶん」
「試験しないの?」
「まだ次の日決まってない」
「やりたい?」
アリシアはパンを持ったまま少し止まった。
「やりたい」
「すごく?」
「うん」
「どのくらい?」
「……九」
友人が吹き出した。
「何で普通の会話でも数字なの」
「聞き方がそうだったから」
「『すごく?』しか聞いてないよ」
「研究だと数字で答えるから」
「じゃあ十じゃないの?」
「十は、やらないと困るくらい」
「九は?」
アリシアは昨日ノアに答えた言葉を思い出す。
「やりたい。でも、やらなくても記録はなくならない」
「それなら八くらいじゃない?」
「私の九なの」
「数字って人によって違うんだね」
「たぶん」
友人は自分の昼食へ戻りながら、何気なく言った。
「じゃあ研究の人、アリシアの九をずっと覚えないといけないんだ」
アリシアの手が止まった。
「……そうなのかな」
「知らないよ」
「昨日、同じ八でも日によって同じか分からないって話した」
「じゃあ覚えても意味ない?」
「意味ないわけじゃないと思う」
「難しいね」
「うん」
「私は染色九」
「それ、どういう九?」
「地図も惜しいけど染色選ぶ九」
「分かりにくい」
「アリシアの九も分かりにくいよ」
二人は顔を見合わせた。
先に笑ったのは友人だった。
◇
放課後、研究棟の会議室には新しい紙が一枚だけ置かれていた。
昨日までの候補を整理したものだ。
人工刺激用の機器は動いていない。
東西の記録紙も、二件の弱い胸部異常報告を比較した図も、今日は机の上にない。
アリシアが席へ着くと、サーラがいつもの状態確認を始めた。
「疲労は?」
「二」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部異常」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「全部ゼロ」
「参加希望」
「八」
「早く次の人工刺激を行いたい気持ち」
「九」
「止めにくさ」
アリシアは少し考える。
「五」
「分かりました」
サーラが記録する。
「今日は試験日ではありません」
「分かってる」
「確認です」
「うん」
若い観測員が、中央の紙をアリシアの方へ向けた。
「昨日までに決まったことを踏まえて、今日は事前確認の形式をもう少し絞ります」
「完成させる?」
「完成させること自体を目的にはしません」
「……はい」
『先に釘刺されたわね』
「聞こえてる」
「私にも聞こえています」
若い観測員が苦笑する。
◇
「昨日、アリシアさんから重要な希望が出ました」
サーラが記録を確認する。
「試験開始前に、『何も感じなくても失敗ではない』『報告を作る必要はない』と確認してほしい、というものです」
「うん」
「これを安全確認と同じく、毎回の固定確認へ入れるかを考えます」
「私は入れてほしい」
「理由は?」
「分かってても、言ってもらった方が安心するから」
「何に対して安心しますか?」
アリシアは膝の上で指を組んだ。
「……何か言わなきゃって思わなくていいこと」
「はい」
「試験して、東と西で何か出たのに私が何も感じなかったら、前はちょっと嫌だった」
「今も嫌ですか?」
「少しは」
「どの程度?」
「今なら……四くらい」
「以前より下がっていますか?」
「たぶん」
「なぜでしょう」
アリシアは答えるまでに少し時間がかかった。
「一回、本当にそうなったから」
部屋が静かになった。
二度目の三領域前向き記録。
東側は確認。
西側も確認。
けれどアリシアの既存対象感覚は非確認だった。
胸の左寄りに、ごく弱い違和感はあった。
しかし「冷たい」と言い切れる感覚ではなかった。
「それでも記録になった」
「はい」
「失敗にはならなかった」
「はい」
「だから前より分かる」
サーラがゆっくり頷いた。
「では、その経験を前提にしても、開始前の確認は必要だと思いますか?」
「思う」
「分かりました」
◇
固定確認の文章について、最初の案が読み上げられた。
『今回、対象感覚またはその他の異常を感じない場合も、有効な記録として扱います。何らかの感覚を報告する必要はありません。』
アリシアは首を傾げた。
「ちょっと硬い」
『研究の紙なんだから硬いでしょう』
「言われるときもこれ?」
「記録上の文章と、実際にあなたへ伝える文章を同一にする必要はありません」
副学院長が答える。
「違っていいの?」
「意味が変わらない範囲なら」
「じゃあ、言うときはもっと普通がいい」
「どのように?」
アリシアは少し考えた。
「今日は何も感じなくても大丈夫です。何か言おうとしなくていいです……とか」
「『大丈夫』が安全面と混同されませんか?」
魔導具担当教師が言う。
「確かに」
「じゃあ……」
アリシアは眉を寄せる。
「『何も感じないことも記録です。何もなければ、何もないと答えてください』」
若い観測員が書き留めた。
「分かりやすいですね」
「でも『答えてください』って言われると、答えなきゃってなる」
「何もないと答えるのは必要では?」
「聞かれたら答える。でも途中で何もないのに、自分から『何もない』って何回も言わなくていいよね?」
「もちろんです」
「だったら……」
また止まる。
ノアが窓辺で尻尾を揺らした。
『言葉一つ決めるのに大仕事ね』
「大事なの」
『分かってるわよ』
◇
しばらく試した末、口頭確認の候補は少し短くなった。
『何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません。』
アリシアは二度読んだ。
「これがいい」
「『探して』という言葉はどうでしょう」
サーラが尋ねる。
「私は分かる」
「どのように受け取りますか?」
「胸の中をずっと探して、ちょっとした変な感じを無理に見つけなくていいって」
「なるほど」
「でも、本当に何か変だったら言う」
「はい」
「そこは変えない」
「では、この意味で仮固定しましょう」
正式採用ではなく、次回までの確認候補として記録された。
アリシアは少し満足そうに頷いた。
◇
「次に、予想と期待です」
若い観測員が二本の線を引く。
「昨日、同じ項目へ入れないことは決めました」
「うん」
「ですが、質問文を細かくすると誘導になります」
「うん」
「そこで、質問する対象を『何らかの主観的変化』まで広げる案があります」
「胸って言わない?」
「はい」
「冷たいとも言わない?」
「はい」
「でも頭痛とかも入る?」
「入ってしまいます」
「それは違う気がする」
「そうですね」
また問題が出る。
「試験に関連してると思う変化?」
アリシアが言った。
「それだと、感じた後に関連性を判断することになります」
「じゃあ駄目?」
「駄目とまでは言いませんが、別の問題が生じます」
「……研究、言葉が難しい」
『今さら?』
「今さら」
アリシアは机へ肘をつきかけ、研究中だったことを思い出して姿勢を戻した。
◇
副学院長が一度、議論を止めた。
「少し方向を変えましょう。私たちは今、『正しい質問文を一つ作る』ことへ寄りすぎています」
アリシアが顔を上げる。
「違うの?」
「一つの質問で全部を測ろうとする必要はありません」
「増やす?」
「むしろ減らせるかもしれません」
「どうやって?」
「試験直前に細かな期待を毎回尋ねるのではなく、人工刺激を含む研究へ入る前に、現在どのような結果を期待しているかを自由に話してもらう。その原文を残します」
「数字なし?」
「必要なら補助的に数字を付けてもよいでしょう。しかし数字を主にしません」
「毎回?」
「試験ごとではなく、期待に変化があったとき、あるいは新しい研究目的へ移るときです」
アリシアは考え込んだ。
「でも、試験の日に急に期待強くなるかも」
「そのため、直前には別の短い確認だけを置きます」
「何を?」
「『今、何かを報告しなければならないと感じていますか』」
アリシアの表情が変わった。
「それなら分かる」
「感覚の種類を指定しません」
「うん」
「何が起きると思うかも聞きません」
「うん」
「報告への圧力だけを確認します」
「それ、いいかも」
◇
若い観測員が二段階の案を書いた。
第一段階。
人工刺激を含む新しい試験系列へ入る前、または期待内容に明確な変化が生じたとき、アリシア自身の言葉で現在の予想・期待を記録する。
第二段階。
各試験の直前には、特定の感覚を誘導せず、「何かを報告しなければならないと感じているか」を確認する。
さらに、開始前には固定文として、
『何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません。』
と伝える。
「これなら質問少ない」
「はい」
「毎回、冷たいと思う? 胸変になると思う? って聞かれない」
「はい」
「でも私が何を期待してるかは残る」
「系列開始時点の情報としては残ります」
「途中で変わったら?」
「あなたが変わったと感じた場合、または研究側が明らかな変化を確認した場合に追加します。ただし、何を『明らかな変化』とするかは、もう少し詰める必要があります」
「結果見てから勝手に増やさない?」
「そこは事前に条件を決めます」
「うん」
アリシアは紙を見つめた。
昨日より、かなりすっきりしている。
「これ、好き」
『研究の決まりに好き嫌いがあるのね』
「分かりやすいから」
『それを好きって言うのよ』
◇
サーラが少し違う角度から質問した。
「アリシアさん。もし次の試験直前に、『何か報告しなければならない』という気持ちが八だったら、どうしたいですか?」
「八……」
「はい」
「止める?」
「今はあなたの希望を聞いています」
アリシアはしばらく黙った。
八。
何か言わなければいけない。
それはかなり強い。
そんな状態で刺激を受けたら、小さな身体感覚を必死に探してしまうかもしれない。
「休む」
「どのくらい?」
「決めない。いったん休んで、もう一回聞く」
「下がらなければ?」
「その日はやめる」
「では七なら?」
「……分からない」
「六は?」
「数字だけで決めたくない」
サーラが微笑んだ。
「よいと思います」
「試した?」
「少し」
「ずるい」
「安全担当ですから」
『仕事してるだけでしょう』
「分かってる」
◇
ここで、既存の安全基準との関係が整理された。
恐怖六は停止。
恐怖五は相談。
痛み一、息苦しさ一は即時申告し、安全側で判断する。
疲労五以上は延期。
疲労四は必ず相談。
そして新しく検討している「報告しなければならないという圧力」は、安全基準と同じ種類の数値にはしない。
「同じ五でも意味が違う?」
「はい」
「じゃあ『五だから相談』って固定しない?」
「現段階では固定しません」
「でもすごく強かったら止める?」
「数字ではなく、あなたが自由に報告できない状態かどうかを見ます」
「何もないって言えないくらいなら?」
「その状態で主観報告を主要な記録として扱う試験を進めるのは慎重になるべきでしょう」
「東西だけ見る試験でも?」
若い観測員が答える前に、副学院長が少し考えた。
「今回の東西共起試験では、主判定そのものにあなたの主観感覚は入りません」
「うん」
「ですが、あなた自身が試験参加者であることは変わりません。『何か言わなければならない』という強い圧力を抱えた状態で、主判定から外れているから問題ない、と単純には扱いません」
アリシアはゆっくり頷いた。
「私が主質問に入ってなくても、私の状態は関係ある」
「はい」
「それなら分かる」
◇
話し合いはそこで一度休憩になった。
アリシアは窓際へ行き、外を眺めた。
午後の雲はほとんど消え、濡れていた石畳もかなり乾いている。西日を受けた水溜まりだけが、細い金色の光を残していた。
ノアが窓台の端からアリシアを見上げる。
『今日はあまり焦ってないわね』
「そう?」
『昨日は質問文をさっさと決めて次の試験やりたいって顔してた』
「顔でそこまで分かる?」
『分かる』
「今日は九だけど」
『何が?』
「次の試験やりたい気持ち」
『数字だけなら昨日と同じじゃない』
「うん」
『でも違う?』
アリシアは少し考えた。
「昨日の九は、早く決めて次やりたい九」
『今日は?』
「ちゃんと決めたら次やりたい九」
『面倒ね』
「違うんだよ」
『分かってるわよ』
ノアは前足を折りたたみ、窓台へ伏せた。
◇
休憩後、若い観測員が一枚の新しい紙を出した。
「次に、現在の期待を実際に自由記述してみませんか」
「今?」
「試験ではありません。形式を確認するためです」
「うん」
「私たちから感覚の種類は挙げません。今後の人工刺激試験について、あなたが現在予想していることと、起きてほしいと思っていることを、分けて話してください」
アリシアは背筋を伸ばした。
「予想から?」
「どちらでも構いません」
「じゃあ予想」
少し考える。
「次も、東側と西側のどっちかは何か出るかもしれないと思ってる」
若い観測員は書きながら、すぐには質問しない。
アリシアは続けた。
「でも両方出るかは分からない。今まで見たのだと一緒だったけど、次もそうだって決まってないから」
「はい」
「私の感覚は……何かあるかもしれない。でも、何もないかもしれない。冷たいのか、弱い変な感じなのかも分からない」
「それが予想ですか?」
「うん」
「では期待は?」
アリシアは息を吸った。
「東と西は、次も同じ判定になってほしい」
「はい」
「弱い変な感じも、もう一回起きてほしい」
「はい」
「できれば……」
一度止まる。
「できれば、今度はもう少し分かりやすく感じたい」
記録する筆が止まらない。
「冷たい方ですか?」
若い観測員が尋ねかけて、途中で口を閉じた。
アリシアがそれに気づく。
「今、聞こうとした?」
「はい。感覚種別を誘導する質問になりかけました」
「……本当に難しいね」
「ええ」
「でも、今の『分かりやすく』は、冷たいって意味じゃない」
「では、そのまま補足してください」
「弱い変な感じが〇・五くらいだったから、次に何かあるなら、もう少し自分で分かるくらいだと嬉しい」
「分かりました」
「でも強すぎるのは嫌」
「安全面ですね」
「うん。痛いのも苦しいのも嫌」
「それは当然です」
◇
記録が終わる。
若い観測員が原文を読み返した。
予想と期待は、やはり違っていた。
アリシアは「次も東西が一致する」と予想しているわけではない。
けれど、一致してほしいとは強く思っている。
何らかの主観感覚が生じる可能性は考えているが、何もない可能性も認めている。
一方、願望としては、もう一度弱い異常を経験したい。
しかも今度は、少し分かりやすく感じたい。
「数字一個より分かる」
アリシアが言った。
「はい」
「でも長い」
「毎回行うものではありません」
「期待変わったら追加?」
「その予定です」
「結果が出たら絶対変わると思う」
「可能性は高いでしょうね」
「じゃあ毎回にならない?」
若い観測員が止まった。
「……確かに」
『また問題増やしたわね』
「私のせい?」
『半分くらい』
「残り半分は?」
『研究そのもの』
◇
ここで、記録担当職員が口を開いた。
「変化するたびに全文を書き直す必要はないのではありませんか」
全員の視線が集まる。
「どうするの?」
「最初の自由記述を基準として保存します。その後は、試験前に詳細を尋ねず、試験後の次回計画時に『前回記録した予想・期待から、自分で変わったと感じる点があるか』だけ確認する方法です」
「何が変わったかは私が言う?」
「はい」
「研究側が『これ変わったでしょ』って言わない?」
「明確な安全上の問題がない限り、まず本人の申告を優先する形にできます」
「それなら誘導少ない?」
「少なくとも、毎回感覚種別を列挙するよりは」
副学院長が頷いた。
「よい案です。ただし、本人が変化に気づいていない可能性もあります。そこは研究目的ではなく安全面と分けて考えましょう」
「うん」
◇
夕方までかけて、ようやく次回へ持ち越せる形が見えてきた。
まだ正式採用ではない。
だが、候補はかなり絞られた。
人工刺激を含む新しい試験系列へ入る前に、アリシアの現在の「予想」と「期待」を自由記述で分けて保存する。
各試験直前には、特定の感覚内容を尋ねない。
代わりに、「何かを報告しなければならないと感じているか」を確認する。
そして、必ず、
『何も感じないことも、そのまま記録になります。感じていないものを探して報告する必要はありません。』
という意味の確認を行う。
試験後、次の計画へ進む前に、アリシア自身へ「予想や期待が変わったと感じるか」を尋ねる。
変わっていなければ、無理に書き直さない。
変わった場合のみ、その変化を本人の言葉で追加する。
期待の数字は補助的に残すことがあっても、主観報告の補正係数にはしない。
期待が強いことだけを理由に、感覚報告を無効にはしない。
また、期待が弱いことを理由に報告を強い証拠として扱うこともしない。
「今日はここまでにしましょう」
副学院長が言った。
アリシアは紙を見た。
「まだ正式じゃない?」
「はい」
「あと何決めるの?」
「この方法を、次の人工刺激系列だけに用いるのか、今後の主観報告を含む試験全般へ適用するのか」
「広げるかどうか?」
「そうです」
「今決めない?」
「疲労は?」
サーラに聞かれ、アリシアは少し考えた。
「三」
「止めにくさ」
「四」
「明日でも困りませんね」
「……困らない」
「では明日以降です」
アリシアは諦めて紙から手を離した。
◇
研究棟を出ると、夕方の空は雨上がりらしい澄んだ色になっていた。
西の端だけが淡く赤く、反対側には濃い青が広がっている。
歩きながら、アリシアは今日の自由記述を思い返した。
次も東西が一致してほしい。
弱い違和感も、もう一度起きてほしい。
今度はもう少し分かりやすく感じたい。
全部、本当だ。
(思ってることを先に残すの、ちょっと恥ずかしい)
研究記録に「起きてほしい」と残る。
自分がどれだけ結果を待っているかも残る。
けれど、隠したままよりはいい。
「ノア」
『何?』
「私、次の結果に期待しすぎかな」
『知らないわよ』
「九だよ」
『数字は聞いた』
「高いよね」
『高いんでしょうね』
「下げた方がいい?」
ノアが足を止めた。
アリシアも止まる。
『下げられるの?』
「……分からない」
『だったら、下げたふりする方が面倒でしょう』
「でも研究に影響したら」
『影響するかもしれないから残すんじゃないの?』
「そうだけど」
『なら九は九でいいでしょう』
ノアはまた歩き出した。
アリシアは数歩遅れて追う。
「今日ちょっと研究者っぽい」
『二度と言わないで』
「嫌なの?」
『私は猫よ』
「黒猫」
『そこはどうでもいい』
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は昨日選んだ甘い菓子を食べ終えたあとだった。
机の上には空の小皿があり、その隣に紙箱が置かれている。
「おいしかった?」
「うん」
「期待してた?」
「何を?」
「おいしいって」
「してた」
「どのくらい?」
子供は少し考えた。
「いっぱい」
「数字なら?」
「九」
アリシアは思わず笑った。
「なんで?」
「アリシアが九って言うから」
「聞いてたの?」
「前に言ってた」
「九は何でもすごく欲しい数字じゃないよ」
「違うの?」
「人によって違うし、何の数字かでも違う」
「難しい」
「うん」
子供は空の皿を見る。
「でもおいしかった」
「期待してたから、おいしかったの嘘?」
「嘘じゃない」
「そうだよね」
「何の話?」
「研究」
「また?」
「また」
子供は少し呆れた顔をした。
◇
その夜、アリシアは自室で選択授業の希望用紙を机へ広げた。
提出まではまだ数日ある。
第一希望の欄は空白だ。
植物管理。
染色。
地図作成。
資料修復。
研究なら、条件を決めて比べる。
けれどこれは、自分がこれから学びたいものを選ぶ紙だ。
(何が一番役に立つかじゃなくて、何を一番やりたいか)
友人に言った言葉を思い出す。
アリシアは鉛筆を持った。
植物管理、と書きかける。
止まる。
消す。
地図、と書こうとする。
また止まる。
「……決まらない」
『まだやってたの?』
寝台の上からノアが顔を上げる。
「研究より難しい」
『それはないでしょう』
「研究は分からないって書ける」
『これも分からないって書けば?』
「提出できない」
『じゃあ明日決めれば』
「明日も決まらなかったら?」
『明後日』
「その次は?」
『提出日』
「ぎりぎりじゃん」
『期限内ならいいでしょう』
アリシアは希望用紙を見た。
まだ空白。
けれど、不思議と焦りは少なかった。
決めていないことと、何も考えていないことは違う。
研究でも、それを覚えた。
◇
翌朝。
学院の教室へ入ると、友人がすぐに寄ってきた。
「決めた?」
「まだ」
「私はもう書いた」
「染色?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
「地図は?」
「第二希望」
「第二希望あるんだ」
「あるよ」
アリシアは希望用紙を出し直した。
「……第二希望あるなら少し楽かも」
「掲示ちゃんと読んでなかったでしょ」
「第一希望しか見てなかった」
「研究の紙は細かく読むくせに」
「それは……」
「はい、言い訳なし」
友人が笑う。
アリシアも笑いながら希望用紙をしまった。
◇
その日の研究棟では、前日に残った最後の論点から始まった。
「期待記録の方法を、すべての試験へ広げるかどうか」
若い観測員が言う。
アリシアはすぐには答えなかった。
「今は広げない方がいいと思う」
副学院長が目を上げる。
「理由は?」
「まだ一回も使ってないから」
「はい」
「使ってみてないのに、全部の試験の決まりにするのは早い」
若い観測員が頷いた。
「私も同意します」
「じゃあ次の人工刺激系列だけ?」
「まずは、現在検討している東西共起の追加前向き試験へ適用する候補として固定するのが妥当でしょう」
「まだ追加試験するって決まってないよね?」
「そこも重要です」
アリシアは少し嬉しそうに頷いた。
自分で気づけた。
「じゃあ順番がある」
「どのような?」
「先に、東西共起の前向き試験を追加するか決める」
「はい」
「やるなら、何件やるかを結果見る前に決める」
「はい」
「それから期待の記録方法を、その系列で使うか決める」
「順序としてはそうなります」
「人工刺激の日を決めるのはそのあと」
「はい」
アリシアは紙へ目を落とした。
ようやく、次に決めるべきことが見えた。
◇
「では、今日は追加前向き試験の件数まで決めますか?」
記録担当職員が尋ねた。
アリシアは反射的に「うん」と言いかけた。
けれど、止まった。
何件がいいのか。
一件。
二件。
三件。
多ければ多いほど知りたいことは増える。
でも、人工刺激を受けるのは自分だ。
刺激自体は固定済みの安全範囲内でも、回数を増やすことには意味がある。
「今日、決めるための材料ある?」
アリシアが尋ねた。
副学院長が少し目を細める。
「何を材料として必要だと思いますか?」
「安全に何回できるか」
「はい」
「同じ条件で何件あれば、何を言えるようになるのか」
「はい」
「一件増やすのと、二件増やすので何が違うのか」
「そのあたりですね」
「じゃあ、それ見てから決めたい」
「分かりました」
「今日全部見る?」
「疲労は?」
「二」
「参加希望」
「八」
「急いで決めたい気持ち」
アリシアは少し笑った。
「七」
「昨日より下がりましたね」
「順番分かったから」
◇
人工刺激の回数については、その場で数字を選ばなかった。
代わりに、次に検討する項目だけを固定した。
既存の安全範囲内で、同条件の人工刺激をどの程度の間隔で繰り返せるか。
現在の主質問――東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定が一致するか――に対して、追加記録数によって何が増えるのか。
一致だけでなく、不一致が出た場合も同じ価値で残すこと。
必要な件数を結果を見ながら増減させないこと。
途中で都合のよい結果が出たから終了する、あるいは都合の悪い結果が出たから追加する、という運用をしないこと。
そして、安全上の理由による中止・延期は、研究上の予定件数とは別に扱うこと。
「次はここから?」
「はい」
「件数決められそう?」
「検討はできます」
「一件じゃ駄目?」
「駄目とは言っていません」
「三件なら?」
「多いからよいとも限りません」
「五件」
『増やすんじゃない』
「言ってみただけ」
「回数を多くすれば情報は増える可能性がありますが、あなたへの負担も増えます」
サーラが言う。
「うん」
「ですので、『多い方が研究として立派』とは考えないでください」
「分かった」
「本当に?」
「……ちょっと多い方がいいと思ってた」
「でしょうね」
アリシアは目を逸らした。
◇
研究棟を出たころには、夕暮れが近かった。
今日も人工刺激はない。
それでも、止まっている感じはしなかった。
むしろ、次の試験を始める前に必要なものが、一つずつ形になっている。
何も感じなくても失敗ではない。
期待と予想は別。
期待は消さない。
報告を作らなくていい。
そして、試験を何件行うのかも、結果を見る前に決める。
(何も起きなかった記録も、一件)
アリシアは歩きながら考える。
(東も西も出なかったら、それも一致)
それは以前から決めている。
だから、次の試験で何も起きなかったとしても、空白ではない。
「ノア」
『何?』
「次、東も西も何も出なかったら、私、喜べるかな」
『知らない』
「一致ではある」
『そうね』
「でも何か出てほしい」
『それが期待九なんでしょう』
「うん」
『なら、がっかりしながら記録すれば?』
アリシアは少し笑った。
「それでいいの?」
『駄目なの?』
「……いいのか」
結果を好きになる必要はない。
嫌な結果でも、消さなければいい。
何も感じないことも。
何も反応しないことも。
期待と違うことも。
全部、先に「残す」と決めておく。
そのうえで、次に何件を見るのかを決める。
アリシアは研究棟から離れながら、一度だけ振り返った。
次の人工刺激は、まだ始まっていない。
けれど、その前に決めなければならないことは、もう一つだけはっきりしていた。
結果を見る前に、どこまで見るのかを決めること。
次の問いは、そこへ移っていた。




