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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第247話 期待は、消さずに別の欄へ



 翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、最初に頭へ浮かんだのは胸の感覚ではなかった。


 昨夜、研究棟から届いた一枚の連絡票だった。


『人工刺激を追加する前に、主観報告に対する事前期待をどのように記録し、どこまで試験設計上の情報として扱うかを検討する』


 寝台の脇に置いた小机の上には、その紙が昨夜と同じ場所に伏せてある。読み返そうと思えばすぐ手が届いたが、アリシアは起き上がってからも触れず、先に制服へ着替えた。


 胸の状態を一度だけ確かめる。


 痛みはない。


 息苦しさもない。


 冷たさも、あの二度経験した弱い違和感もない。


 身体の調子は普通だった。


(今日は試験じゃない)


 それを確認すると、昨夜より少しだけ気持ちが軽くなった。


 人工刺激を行う日であれば、起きた瞬間から「今日は何か感じるだろうか」と考えてしまったかもしれない。けれど今日は、少なくとも何かを感じなければならない日ではない。


 アリシアは鞄を持ち、最後に机の連絡票へ目を向けた。


「……帰ってからでいいか」


『何が?』


 扉の近くで待っていたノアが耳を動かす。


「紙」


『持っていかないの?』


「研究棟にも同じのあるでしょ」


『そりゃあるでしょうね』


「じゃあ置いてく」


『珍しい』


「何が?」


『研究の紙を置いて学校へ行くなんて』


 アリシアは一瞬だけ言葉に詰まった。


「……なくても話せる内容だから」


『そういうことにしておいてあげる』


「本当だって」


 ノアは返事をせず、先に廊下へ出ていった。


     ◇


 学院の朝は、展示週間が近づくにつれて少しずつ騒がしくなっていた。


 本館へ入ると、正面階段の脇には昨日までなかった大きな案内板が立てられている。各実習室の自由見学時間や展示場所が色分けされており、通りかかった生徒たちが足を止めては、友人同士で予定を確認していた。


「アリシア!」


 背後から呼ばれて振り向く。


 友人が小走りで近づいてきた。


「おはよう」


「おはよう。昨日の食文化実習、結局何が一番よかった?」


「まだそれ聞くの?」


「帰るとき決められなかったじゃん」


「だって全部おいしかったし」


「見学の感想じゃない」


「香草の保存方法も面白かったよ」


「今付け足したでしょ」


「失礼な」


 友人は頬を膨らませたあと、すぐに笑った。


「アリシアは?」


「何が?」


「資料修復。選択候補に上がった?」


「上がった」


「また増えた」


「……うん」


「もう紙に書いた方がいいよ」


「書いてる」


「本当に?」


「植物管理、染色、地図、資料修復」


「四つ?」


「今は」


「今はって何」


「まだ見学あるから」


 友人はしばらくアリシアの顔を見たあと、呆れたように息を吐いた。


「研究より選択授業の方が決められないんじゃない?」


「……そうかも」


「珍しい悩みだね」


「普通の学生はこっちで悩むんじゃないの?」


「たぶんね」


 二人で教室へ向かう。


 その途中、アリシアは自分が今朝から研究についてほとんど話していないことに気づいた。


 昨日の時間窓の結果は気になっている。


 一件目は東側確認窓と部分的に重なり、西側とは重ならなかった。


 二件目はその逆で、東側とは重ならず、西側確認窓と部分的に重なった。


 中央位置だけなら、二件とも東側、主観報告、西側という配置だった。


 けれど、今はそれを友人へ説明したいとは思わない。


 友人と話しているのは、選択授業のことだった。


 それでいい。


     ◇


 一時間目は基礎魔法理論だった。


 今日の課題は、同じ術式を複数回使用した際に生じる小さな出力差について考えるものだった。黒板には三本の簡単な波形が描かれているが、研究棟で扱うような精密なものではなく、学生向けに大きく単純化されている。


「三回とも同じ術式です」


 教師が黒板を指した。


「同じ術者が、同じ魔力量を意識して使用しました。しかし測定値には差があります。では、この差があるからといって、『三回は違う魔法だった』と言えるでしょうか」


 何人かの生徒が首を振る。


「逆に、同じ術式だったからといって、『出力まで完全に同じだった』と言えるでしょうか」


 今度も首を振る生徒が多かった。


「そうですね。術式が同じであることと、測定されたすべての値が同一であることは別です」


 アリシアはノートへ教師の言葉を書き留めた。


 昨日、魔導具担当教師から聞いた話と少し似ている。


 同じ安全範囲内。


 同じ早期位置。


 同じ単一意図的小変動。


 それでも入力波形まで完全に同一ではない。


 しかし、授業は研究のために行われているわけではない。


 アリシアはそこで一度思考を切り替え、目の前の問題へ戻った。


 課題用紙には、三つの測定値を見て「同一条件」と「同一結果」を混同しないよう説明する欄がある。


 隣の席の男子生徒が頭を抱えていた。


「これ、同じって書けばいいのか違うって書けばいいのか分かんない」


 前の席から別の生徒が振り返る。


「条件は同じ、結果はちょっと違う、でいいんじゃない?」


「でも同じ術式なんだろ?」


「だから術式は同じ」


「じゃあ同じじゃん」


「だから何が同じか書けってことだろ」


「面倒くさいな……」


 小さな笑いが教室に広がった。


 教師も聞こえていたらしく、苦笑する。


「その『面倒くさい』を言葉にするのが今日の課題ですよ。同じ、違う、という言葉だけでは情報が足りないことがあります」


 アリシアは少しだけ笑った。


(研究棟でも同じこと言われそう)


 だが、それを口には出さなかった。


     ◇


 昼休み。


 友人と中庭へ出ると、空には薄い雲が広がっていた。


 風は昨日より弱く、石造りの校舎の壁際には日差しの暖かさが残っている。二人は花壇から少し離れた長椅子へ座り、持ってきた昼食を広げた。


「今日、研究?」


 友人がパンを半分に割りながら聞いた。


「話し合いだけ」


「何の?」


「次の試験で、私が何を期待してるかをどう扱うか」


「……期待?」


「うん」


「何か起きてほしいって思うこと?」


「そう」


「思っちゃ駄目なの?」


「駄目じゃない」


「じゃあ何で話し合うの?」


 アリシアは答えようとして、一度止まった。


 研究棟で使う言葉をそのまま並べても、友人には分かりにくいだろう。


「たとえば」


「うん」


「今日のお昼に甘いものがあるって聞いてたら、朝から楽しみにするでしょ」


「する」


「それで実際に食べて、おいしかったら?」


「嬉しい」


「最初から期待してたから、おいしかったって感想が全部嘘になる?」


「ならないでしょ」


「でも、期待してなかったときと全く同じ感じ方かは分からない」


 友人はパンを持ったまま少し考えた。


「……なるほど?」


「私もまだそのくらい」


「じゃあ期待しないようにするの?」


「それは無理」


「だよね」


「だから、期待してるなら先に『期待してる』って残すのかなって」


「それ、面倒じゃない?」


「面倒」


「研究って面倒だね」


「うん」


「でもアリシア好きだよね」


「……うん」


 友人が笑った。


「じゃあいいじゃん」


「何が?」


「面倒だけど好きなら」


 あまりにも簡単に言われ、アリシアはしばらく返事ができなかった。


(面倒だけど好き)


 確かにそうだ。


 研究は、知りたいことが増えるほど確認することも増える。


 決めた規則を守るのも面倒だ。


 自分が期待していることまで先に言葉へするのは、もっと面倒かもしれない。


 それでも嫌いではない。


「……あなた、たまにすごく簡単に言うよね」


「難しく言う必要ある?」


「研究棟では怒られそう」


「ここ中庭だもん」


 アリシアは笑った。


     ◇


 放課後、研究棟の会議室へ入ると、机の上には昨日の時間配置図が置かれていなかった。


 代わりに、白紙に近い記録用紙が数枚並んでいる。


「今日は昨日の図を見ないの?」


 アリシアが尋ねる。


「必要になれば確認しますが、主題は別です」


 若い観測員が答えた。


「昨日挙がった、事前期待の扱いについて考えます」


「うん」


「人工刺激はありません」


「分かってる」


「詳細波形の追加解析も行いません」


「うん」


 アリシアは席へ座った。


 ノアはいつものように窓際へ飛び乗る。


 参加しているのは副学院長、サーラ、若い観測員、記録担当職員、魔導具担当教師だった。今日は機器を動かさないため、普段より部屋の音が少ない。


 窓の外から、遠くの訓練場で生徒が掛け声を上げる声がかすかに届いていた。


「まず状態確認から」


 サーラが言う。


「疲労は?」


「二」


「痛み」


「ゼロ」


「息苦しさ」


「ゼロ」


「胸部異常」


「ゼロ」


「頭痛、吐き気、めまい」


「全部ゼロ」


「研究参加希望」


「八」


「今日の話を早く決めたい気持ちは?」


 アリシアは少し考えた。


「七」


「人工刺激を早くやりたい気持ちは?」


 今度はもう少し長く考えた。


「……八」


「弱い胸部異常がもう一度起きてほしい気持ちは?」


 アリシアの指が膝の上で止まった。


「それも聞くの?」


「今日はそこを扱いますから」


「……九」


 口にした途端、少し恥ずかしくなった。


 サーラは表情を変えず記録する。


「東側と西側が次も同じ確認判定になってほしい気持ちは?」


「九」


「既存対象感覚、つまり明確な冷たさが起きてほしい気持ちは?」


 アリシアは目を伏せた。


「……六」


「弱い異常より低いですね」


「今は、弱い方が気になるから」


「分かりました」


「これ、全部毎回聞くの?」


「それも今日決めます」


     ◇


「まず、一つ分けましょう」


 副学院長が話し始めた。


「期待が存在することと、期待によって報告が変化したことは同じではありません」


「うん」


「あなたが『弱い胸部異常がまた起きてほしい』と九で答えた。それだけでは、次の試験で報告する感覚が期待によって作られたとは言えません」


「うん」


「反対に、期待が低ければ主観報告が完全に影響を受けないとも言えません」


「じゃあ、期待の数字だけで何か直したりしない?」


「そのつもりはありません」


 アリシアは少し安心した。


「たとえば、期待九だから私の報告は半分にするとか」


『何よ、その雑な計算』


「そういうのしない?」


「しません」


 副学院長がはっきり答えた。


「期待値は主観報告の強度を補正する数字ではありません」


「よかった」


「また、期待が高いから試験を中止する、と今の段階で決めるものでもありません」


「九でも?」


「九という数字だけでは中止理由にしません。ただし、期待が強すぎて、あなた自身が『何か言わなければならない』『感じなければ失敗だ』と思ってしまう状態なら別です」


 アリシアは黙った。


 それには少し心当たりがある。


 以前、試験を延期されたくなくて、怖さを低く言いたいと思ったことがあった。


 実際には、その気持ちを話した。


 だから試験前に一度止まることができた。


「……何も感じなかったら、がっかりはする」


「はい」


「でも、何か言わなきゃとは思ってない」


「今は?」


「うん」


「次の試験直前にも同じかは、そのとき確認しましょう」


「分かった」


     ◇


 若い観測員が新しい用紙を中央へ置いた。


 上部には、まだ仮の名称として『事前期待記録候補』とだけ書かれている。


「問題は、何をどこまで記録するかです」


「いっぱい聞けばいいんじゃないの?」


「質問が多すぎると、それ自体があなたの注意を特定の感覚へ向ける可能性があります」


 アリシアは目を瞬いた。


「聞くことで?」


「はい。試験前に『胸は冷たくなると思いますか』『左側に違和感が出ると思いますか』『弱い感じを待っていますか』と細かく尋ね続ければ、あなたは当然そこを意識します」


「……それは嫌」


「ですので、期待を詳しく記録しすぎることにも問題があります」


「でも聞かなかったら分からない」


「そのバランスを考えます」


 魔導具担当教師が腕を組む。


「装置側なら、測定前に確認項目を増やしても装置が意識することはありませんが、人間はそうはいきませんからね」


『機械より面倒って言われてるわよ』


「分かってる」


「面倒とは言っていません」


『言ってるようなものじゃない』


 魔導具担当教師が苦笑した。


     ◇


「じゃあ、細かい場所は聞かない?」


 アリシアが提案する。


「候補ですね」


「胸の左とか、冷たいとかを毎回聞かれたら、絶対考える」


「はい」


「でも、『何か感じると思う?』なら?」


 若い観測員が紙へ書く。


「広すぎる可能性はありますが、候補にはできます」


「東と西についても聞く?」


「それも検討が必要です」


「東西共起が主質問なら、次も一致してほしいって思ってることは関係ありそう」


「そうですね。ただし、あなたは東西の装置判定を試験中には見ません」


「うん」


「そのため、あなたの東西結果への期待が直接その装置値を変えるとは考えていません。少なくとも、現在そのような証拠はありません」


「でも私の気持ちには関係する」


「はい」


「東西が一致してほしいから、私も何か感じたいって思うかもしれない」


「そこはあり得ます」


「……もう面倒」


『昼にも言ってたわね』


「何で知ってるの」


『顔に書いてある』


「嘘」


『猫は文字を読めないと思って油断してる?』


「そういう意味じゃない」


 会議室に小さな笑いが起こった。


     ◇


 副学院長が、候補を一度整理した。


「現時点で考えられる事前記録は、大きく三種類あります」


 紙に三つの項目が書かれる。


 一つ。


 試験そのものへの参加希望や不安。


 二つ。


 何らかの対象感覚・胸部異常が起きることへの期待。


 三つ。


 主判定結果への期待。


「一つ目は、これまでも安全確認としてかなり記録しています」


「参加したいとか、怖いとか」


「はい。これは今後も安全面として維持します」


「二つ目が新しい?」


「より明確に扱うなら、そうなります」


「三つ目は東西が一致してほしいとか?」


「今回の主質問ならそうです」


「でも主質問が変わったら変える?」


「その可能性があります」


 アリシアは眉を寄せた。


「毎回質問変えたら比べにくくない?」


「よい指摘です」


「でも主質問と関係ないこと聞いても意味ない」


「そこが難しいところですね」


 若い観測員が言った。


「固定する部分と、試験目的に応じて変える部分を分ける方法があります」


「どうやって?」


「たとえば、感覚への一般的期待は共通項目として固定する。主判定への期待は、各試験の主質問に対応した別項目として記録する」


「……二段?」


「そうです」


「それなら前の試験とも比べられる?」


「完全ではありませんが、共通項目については比較しやすくなります」


     ◇


 アリシアはしばらく紙を見ていた。


 そこで、ふと思う。


「でも、私が『期待八』って言ったとして」


「はい」


「八の意味、日によって同じ?」


 部屋が静かになった。


「昨日の八と来週の八が、本当に同じ強さかってこと」


「厳密には保証できません」


「じゃあ数字にしても、すごく正確じゃない?」


「その通りです」


「だったら、数字だけ残すの危なくない?」


 記録担当職員が頷いた。


「補足の原文を残す方がよいでしょうね」


「原文?」


「たとえば今日なら、『弱い胸部異常がもう一度起きてほしい気持ちは九。理由は現在それが気になっているから』というように」


「全部?」


「全部では負担が大きいでしょう」


「じゃあ大事なときだけ?」


「その基準を先に決めたいですね」


 アリシアは腕を組んだ。


「数字が高いとき?」


「それも一案ですが、高い数字だけ補足すると、中程度や低い期待の理由が失われます」


「……また増えた」


『研究ってそういうものなんでしょう?』


「ノアが楽しそう」


『見てる分にはね』


     ◇


 話し合いはいったん止まり、休憩になった。


 アリシアは水を飲むために席を離れた。


 窓際へ行くと、外では夕方の光が研究棟の石壁を淡い橙色に染めている。訓練場の声はもう聞こえず、代わりに木々の葉が擦れる音が小さく響いていた。


「疲れた?」


 サーラが隣へ来る。


「三」


「頭は?」


「痛くない。でもいっぱい」


「続けたいですか?」


「七」


「止めにくさは?」


 少し考える。


「五」


「なら、もう少しだけ整理して終わりましょう」


「うん」


 アリシアは水の入った杯を両手で持った。


「サーラ」


「はい」


「期待してるのって、悪いことじゃない?」


「私は悪いとは思いません」


「でも研究では邪魔になるかもしれない」


「影響する可能性があるものと、悪いものは同じではありません」


 アリシアは顔を上げた。


「怖さもそうです。怖いから悪い参加者になるわけではありません」


「うん」


「疲れも、参加したい気持ちも、結果を知りたい気持ちも、あなたの状態です。状態があるなら、それを無理に消すのではなく、安全や記録のためにどう扱うか考えます」


「期待も?」


「私はそう考えています」


 アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。


(期待しちゃ駄目って言われなくてよかった)


 自分でも気づいていなかったが、そこを少し怖がっていたらしい。


     ◇


 休憩後、話し合いは「何を聞かないか」を決める方向へ変わった。


「細かな身体部位は事前期待として尋ねない」


 アリシアが言う。


「賛成です」


 若い観測員が書く。


「『左に出ると思うか』とかは聞かない」


「はい」


「冷たい、ぞわっとする、変な感じ、とか、種類を並べて選ばせない」


「はい」


「強さも予想させない」


「これも賛成です」


「時間も?」


「『いつ感じると思うか』は、少なくとも現段階では聞かない方がよいでしょう」


「東のあととか、西の前とかも聞かない」


「はい」


 アリシアは少し安心した。


 もし試験前にそこまで細かく尋ねられたら、自分でもどこまでが実際に感じたものか、どこまでが待っていたものか不安になりそうだった。


「じゃあ、聞くのは広くする?」


「候補としては」


 紙に仮項目が書かれる。


『今回、既存対象感覚または何らかの胸部異常を感じることを、どの程度予想/期待しているか』


 アリシアは読んで首を傾げた。


「予想と期待って同じ?」


「違いますね」


「私は起きてほしいけど、起きると思ってるかは別かも」


「その通りです」


 紙が止まる。


「分ける?」


「分けた方がよさそうですね」


「質問増えた」


『自分で増やしたのよ』


「分かってる」


     ◇


 最終的に、その日は正式な質問票を完成させなかった。


 代わりに、次の人工刺激前に検討する候補として、四つの考え方だけを固定した。


 一つ目。


 安全確認としての恐怖・参加希望・疲労等は従来通り別枠で扱う。


 二つ目。


 感覚については「起きると思う」という予想と、「起きてほしい」という期待を混ぜない。


 三つ目。


 身体部位、感覚種別、強度、時間位置などを試験前に細かく誘導する質問は避ける。


 四つ目。


 期待や予想の数値は主観報告を補正する係数には使わず、主観報告そのものを無効化する根拠にも使わない。


「今日はここまで?」


 アリシアが尋ねる。


「はい」


「質問の文は決めない?」


「今日は決めません」


「……ちょっと決めたい」


「止めにくさは?」


「……五」


「疲労は?」


「三」


「頭がいっぱいなのでは?」


「いっぱい」


「なら終わりです」


 アリシアは口を閉じた。


『珍しく完敗ね』


「負けてない」


『終わらされたじゃない』


「安全確認に従っただけ」


『便利な言い方を覚えたわね』


「本当のこと」


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は床へ大きな紙を広げていた。


 何を描いているのかと思って近づくと、色の違う丸がいくつも並んでいる。


「何これ?」


「食べたいもの」


「食べたいもの?」


「赤が果物。黄色が甘いやつ。茶色がパン」


「いっぱいあるね」


「全部食べたい」


 アリシアは思わず笑った。


「全部今日食べるの?」


「食べない」


「何で?」


「お腹痛くなるから」


「じゃあどうする?」


「今日は一個」


「どれ?」


「まだ決めてない」


 子供は真剣な顔で紙を見ている。


 アリシアも隣へ座った。


「食べたいのいっぱいあってもいいんだね」


「うん」


「一個しか選べなくても?」


「明日もある」


 また同じ言葉だった。


 けれど、今日は少し違って聞こえる。


「私も、知りたいこといっぱいある」


「全部今日やる?」


「やらない」


「何で?」


「頭痛くなるから」


「同じ」


「ちょっと違う」


「似てる?」


 アリシアは笑った。


「似てるところはある」


「同じじゃない?」


「同じじゃない」


「またそれ」


「大事なんだよ」


 子供はよく分からないという顔をしたあと、紙の黄色い丸を指差した。


「今日は甘いやつにする」


「決まったんだ」


「うん」


     ◇


 少し離れた窓際では、顔のない存在が静かに座っていた。


 胸の十一灯に目立った変化はない。


 職員が通常の観察位置から記録している。


 アリシアは一度だけそちらを見たが、今日の期待の話と結びつけようとは思わなかった。


 今は別のことだ。


 分からないものが同じ場所にたくさんあるからといって、全部を一つの答えへ押し込む必要はない。


     ◇


 夕食後、自室へ戻ったアリシアは、朝置いていった連絡票を手に取った。


 昨夜はそこに書かれた「事前期待」という言葉が、少し怖かった。


 自分が期待してしまうことが、研究を悪くするのではないかと思っていた。


 今日は少し違う。


 期待はある。


 次も東側と西側が同じ判定になってほしい。


 弱い胸部異常も、もう一度起きてほしい。


 できれば、二件のどちらかと似たものが起きてほしい。


 明確な冷たさが戻る可能性も気になる。


 何も起きなければ、きっと少しがっかりする。


(でも、それを先に言っても、感じたものが嘘になるわけじゃない)


 その考えに辿り着けたことが、今日一番大きかった。


 ノアが寝台の上で前足を舐めている。


「ノア」


『何?』


「次の試験で、何も感じなかったらどう思う?」


『私が?』


「うん」


『別に』


「本当に?」


『東と西の結果は気になるけど、あなたが何か感じるかは、起きてみないと分からないでしょう』


「……期待ないの?」


『あるわよ』


「あるんじゃん」


『あなたほど大騒ぎしてないだけ』


「大騒ぎしてない」


『九でしょう?』


「何で知ってるの」


『聞こえてたから』


 アリシアは枕を抱えた。


「九って大騒ぎなの?」


『あなたの中ではかなり大きいんじゃない?』


「でも十じゃない」


『そこを誇るところ?』


「十は、起きてくれないと困るくらい」


『じゃあ九は?』


 アリシアは考えた。


「起きてほしい。でも起きなくても記録は残す」


 ノアの前足が止まった。


『それ、そのまま書けば?』


「え?」


『数字の横に』


 アリシアは瞬きをした。


「……九。起きてほしい。でも起きなくても記録は残す」


『そう』


「それ、いいかも」


『知らないわよ。研究の人に聞きなさい』


「明日言う」


『勝手にどうぞ』


 アリシアは机へ向かった。


 けれど、研究記録には書かない。


 まだ正式な質問項目ではないからだ。


 自分の練習帳の端にだけ、小さく残す。


『期待九――起きてほしい。でも、起きなくても記録は残す。』


 その下へ、少し迷ってもう一つ書いた。


『予想は、まだ分からない。』


 書き終えると、思ったより気持ちが落ち着いた。


     ◇


 翌日の研究棟。


 アリシアが前日の話し合いの続きを始める前に、その二つの文章を読み上げると、会議室はしばらく静かになった。


「数字だけより、こっちの方が分かりやすくない?」


 アリシアが尋ねる。


 若い観測員はすぐには答えず、紙へそのまま書き写した。


『期待九――起きてほしい。でも、起きなくても記録は残す。』


『予想――まだ分からない。』


「確かに、期待と予想が別であることは分かりやすいですね」


「毎回長く書く?」


「それは負担になります」


「じゃあ駄目?」


「いいえ。方法を考えましょう」


 副学院長が口を開いた。


「数字を捨てる必要も、原文だけにする必要もありません」


「両方?」


「必要な範囲で」


「また増える」


『嬉しそうじゃない』


「嬉しくない」


 否定したものの、少しだけ口元が緩んでいた。


     ◇


 そこから、質問の形を決める作業が始まった。


 最初に候補となったのは、二つの短い問いだった。


『今回、既存対象感覚または何らかの胸部異常が起きると思いますか。』


『今回、既存対象感覚または何らかの胸部異常が起きてほしいと思いますか。』


 しかし、アリシアはすぐに首を傾げた。


「既存対象感覚って言われたら、冷たさ考える」


「そうですね」


「胸部異常って言われたら、胸に注意する」


「それもそうです」


「でも何も言わなかったら、何の期待か分からない」


「はい」


 また止まる。


「……難しい」


 アリシアが机へ額をつけそうになり、途中でやめた。


『研究やめる?』


「やめない」


『即答ね』


「そこは決まってる」


 副学院長が少し笑った。


「質問文を今日完成させる必要はありません」


「でも次の人工刺激の前には決めるんでしょ?」


「はい」


「だったら今日決めたい」


「なぜですか?」


「早く次やりたいから」


 口にしてから、アリシアは止まった。


 会議室の誰も責めるような顔をしていない。


 それでも、自分で分かった。


「……今、急いでる」


「はい」


「質問をちゃんと決めたいんじゃなくて、次の試験を早くしたいから決めたくなってる」


「そのように聞こえました」


 アリシアは椅子の背へ身体を預けた。


「じゃあ今日決めない方がいい?」


「少なくとも、急いでいると自覚した状態で、無理に完成させる必要はないと思います」


「……分かった」


 少し悔しい。


 でも昨日とは違う種類の悔しさだった。


 結果が思い通りにならなかった悔しさではない。


 自分が急いでいることに、自分で気づいてしまった悔しさだ。


『顔が面白いわよ』


「うるさい」


     ◇


 結局、その日の研究も人工刺激には進まなかった。


 質問文は未完成。


 ただし、何を守るかは昨日より明確になった。


 期待を消すことを目的にしない。


 予想と願望を同じ数字へ押し込めない。


 質問そのものが特定の身体部位、感覚種別、強度、時間位置を過度に意識させないようにする。


 期待の数値を主観報告の補正値にはしない。


 期待があることを理由に、実際の主観報告を軽く扱わない。


 そして、アリシア自身が「何か言わなければならない」と感じていないかは、安全と報告自由度のために確認する。


 最後の一項を見たアリシアは、しばらくそこから目を離さなかった。


「これ、大事かも」


「どれですか?」


「何か言わなきゃって思ってないか」


「はい」


「何も感じなかったとき、『何もない』って言っていいって、最初に確認してほしい」


 サーラが頷く。


「それなら、特定の感覚を誘導せず確認できますね」


「『何も感じなくても失敗じゃない』って」


「それも候補にしましょう」


「うん」


 記録担当職員が新しい一行を加える。


『開始前に、対象となる主観報告がないことも有効な記録であり、報告を作る必要はないことを確認する。』


 アリシアはその文章を読んだ。


 胸の奥に、ほんの少しだけあった重さが軽くなる。


「これなら、次に何も感じなくてもいい」


『昨日までだってよかったでしょう』


「分かってる。でも言葉にしてある方がいい」


『あなた、紙に書くと安心するわね』


「忘れないから」


『人間は大変ね』


「猫も忘れるでしょ」


『都合の悪いことだけね』


「それ忘れたふりじゃん」


     ◇


 会議室を出る前、アリシアは未完成の質問票を見た。


 まだ人工刺激の日程は決まっていない。


 追加の東西共起前向き試験を行うかどうかも、行うなら何件を事前固定するかも決まっていない。


 二つの弱い胸部異常報告をさらに調べる方法も、一つには絞られていない。


 昨日までなら、決まっていないことの多さに焦ったかもしれない。


 今日は違った。


 決まったこともある。


 期待は消さない。


 期待があるからといって、報告を偽物にしない。


 何も感じないことも、失敗にしない。


 そして、自分が何かを待ってしまうなら、それを隠さない。


(これなら、次もちゃんと「ない」って言えるかもしれない)


 そう思えた。


「帰る?」


 サーラが尋ねる。


「うん」


「疲労は?」


「三」


「続けたい気持ちは?」


「六」


「止めにくさ」


「三」


「今日は綺麗に下がりましたね」


「決めなくていいって決めたから」


 サーラが一瞬きょとんとしたあと、笑った。


「不思議な言い方ですね」


「でも本当」


     ◇


 研究棟の外へ出ると、夕方の空には長い雲が伸びていた。


 その端が沈みかけた太陽に照らされ、薄い金色になっている。


 アリシアは少しだけ立ち止まった。


 次の試験では、きっと期待する。


 東と西がまた一致してほしい。


 弱い胸部異常も、もう一度起きてほしい。


 できれば何かが分かってほしい。


 その全部をなくすことはできない。


 けれど、なくせないから失敗なのではない。


「ノア」


『何?』


「期待九でもいいんだね」


『研究の人たちがそう言ってたでしょう』


「うん」


『じゃあ何?』


「確認しただけ」


『最近それ好きね』


 アリシアは笑った。


「でも、次は十になるかも」


『そのとき言えば?』


「うん」


『隠すよりましよ』


「うん」


 二人は生活観測区画へ向かって歩き出した。


 期待は消えない。


 だから、消そうとするのをやめる。


 起きてほしいという願いと、実際に起きたこと。


 起きるだろうという予想と、起きてから残す記録。


 それぞれを同じ箱へ押し込めず、別の欄に置く。


 次の人工刺激へ進む前に、アリシアたちはようやく、そのための場所を作り始めていた。

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