第246話 二つの弱い感覚と、四本の窓
翌朝、生活観測区画の窓には薄い雲を通した白い光が差し込んでいた。
夜のあいだに少しだけ気温が下がったらしく、廊下へ出た瞬間、アリシアは寝間着の袖から出ていた指先を軽く握った。寒いというほどではないが、昨日までより空気が乾いていて、窓枠の近くでは外から入り込む風の気配が分かる。
胸に異常はない。
昨夜も、寝る前に一度だけ確かめた。
痛みも息苦しさもなく、研究中に現れたあの弱い違和感も戻っていない。
「おはよう」
共用室へ入ると、窓際の椅子に座っていた子供が振り返った。
「おはよう」
「今日、研究?」
「学校のあと。たぶん」
「たぶん?」
「昨日、次に見るものは決めたけど、今日やるって約束したわけじゃないから」
「じゃあ、やらないかもしれない?」
「うん」
以前なら、その曖昧さに少し落ち着かなかったと思う。
決めたなら早く見たい。続きを知りたい。今日できるなら今日やりたい。
今もその気持ちはある。
けれど、「次に見るものが決まっている」ことと、「今日必ず見なければならない」ことが同じではないと、少しずつ分かってきた。
子供はそれ以上研究のことを聞かず、自分の朝食へ戻った。小さく切ったパンを一つずつ食べながら、ときどき窓の外を見ている。
少し離れた席には顔のない存在が座っていた。
胸元の十一の灯りは、朝の明るさの中では夜より淡く見える。職員の一人が決められた位置から状態を記録しているが、特別な動きはない。
アリシアも一度だけ視線を向け、それ以上は追わなかった。
『ずいぶん素直に朝ごはん食べてるじゃない』
椅子の下からノアの声がした。
「朝ごはんはいつも食べてる」
『頭の中で時間窓を並べながら食べてないって意味よ』
「……ちょっとは考えてる」
『でしょうね』
「でも、まだ開いてないものを考えても仕方ないから」
『成長したわね』
褒められたのかと思ってノアを見ると、黒猫は欠伸をしていた。
「今の褒めた?」
『好きに解釈したら?』
「研究では駄目なやつ」
『朝から面倒ね』
アリシアはパンをちぎりながら、小さく笑った。
◇
午前の学院は、展示週間が近づいているせいか、普段より少しだけ落ち着かなかった。
廊下の壁には新しい案内札が増え、教室の前を上級生が大きな布を抱えて通っていく。階段の踊り場では何人かの生徒が展示用らしい木枠を運んでおり、教師に「そこでは止まらないように」と注意されていた。
アリシアの教室でも、始業前から展示の話をしている生徒が多い。
「ねえ」
席へ着いた途端、友人が振り返った。
「何?」
「資料修復、今日の放課後だよ」
「……え?」
「忘れてた?」
「忘れてない」
「今の間は何?」
「確認しただけ」
「便利だね、その言葉」
昨日自分がノアに言われたことと似ていて、アリシアは少しだけ眉を寄せた。
「研究棟から連絡来たらどうしよう」
「行くの?」
「まだ分からない」
「資料修復は今日しか自由見学ないよ」
「分かってる」
友人はアリシアの顔を少し見た。
以前なら、ここで「研究があるなら仕方ないね」と言っていたかもしれない。
けれど最近のアリシアは、研究の予定を聞いたあとでも普通に昼休みの約束をし、展示の見学予定を紙へ書き込むようになった。染色の自由見学へ行った日も、研究のことを気にしながらではあったが、途中で抜けようとはしなかった。
「先に資料修復行けば?」
友人が言った。
「研究、今日じゃないかもしれないんでしょ?」
「うん」
「今日でも、時間ずらせるか聞けばいいじゃん」
「……うん」
「前に私との予定を優先するって言ってたじゃん」
「優先っていうか、先に決めてた予定は勝手に消さないっていうか……」
「同じようなものじゃない?」
「ちょっと違う」
「研究の人みたいなこと言い始めた」
「やめて」
友人が笑った。
アリシアは鞄から小さな予定紙を出した。
今日。
放課後。
資料修復自由見学。
確かに書いてある。
(忘れてたわけじゃない)
ただ、昨日の研究が頭に残っていたせいで、朝からそちらを先に考えてしまっていた。
予定紙の文字を指先でなぞり、アリシアはそれを机へ戻した。
「行く」
「資料修復?」
「うん」
「研究は?」
「連絡来たら、見学のあとでもいいか聞く」
「偉い」
「何であなたに褒められるの」
「前だったら研究棟に走ってたから」
「走ってない」
「気持ちは走ってた」
「……それは否定しにくい」
◇
昼前の授業は、読解だった。
今日の教材は短い旅行記で、旅人が山道を歩いたときの記録を読んで、書かれている事実と、書き手自身の推測を分ける課題だった。
文章の中には、途中で道が濡れていたという記述がある。
その少しあとに、旅人が「夜のうちに雨が降ったのだろう」と書いている。
「では、この二つは同じ種類の情報でしょうか」
教師が教室を見渡す。
一人の生徒が手を挙げた。
「違います。道が濡れていたのは見たことですけど、夜に雨が降ったのは推測です」
「そうですね。では、雨が降った可能性は低いのでしょうか」
「低くはないと思います」
「なぜですか?」
「道が濡れてるから」
「ですが、水を撒いた人がいた可能性もありますね」
教室のあちこちから小さな笑いが起きた。
教師も口元を緩める。
「もちろん、この文章の状況では雨という推測は自然です。しかし、自然な推測と、直接確認した事実は区別できます。大切なのは、推測してはいけないということではありません。どこまでが見たことなのか、どこからが自分の考えなのかを分けることです」
アリシアはノートへ線を引いた。
似たことを何度も研究棟でやっている。
けれど、今日は研究のことを考えないようにしようとは思わなかった。
授業で学んでいることが、たまたま自分の経験にも重なる。
それなら、そのまま受け取ればいい。
(似ている。だから同じ、は推測)
昨日の二つの弱い感覚もそうだ。
胸の左寄り。
およそ〇・五。
短く、弱まり、消えた。
そこまでは記録。
同じものだったかもしれない。
それはまだ推測。
アリシアはノートへ授業の答えだけを書き、自分の研究については書き足さなかった。
◇
昼休みになって間もなく、研究棟から連絡が届いた。
小さく折られた紙を届けに来たのは、研究棟の連絡係を兼ねる職員だった。
「アリシアさん。今日の放課後についてです」
「はい」
「昨日固定した比較項目の準備が整いました。ただし、本日中に行う必要はありません。都合が悪ければ明日以降へ変更できます」
アリシアは紙を受け取った。
横で友人が何も言わずにこちらを見ている。
「今日、資料修復の見学があります」
口にすると、少しだけ緊張した。
研究を断るわけではない。
それでも以前の自分なら、こういうことをわざわざ言うのに躊躇したかもしれない。
「承知しています」
職員はごく普通に頷いた。
「見学後でも、時間と体調に余裕があれば実施できます。難しければ明日へ回します」
「見学、どのくらいかかるか分からないです」
「でしたら、終了後に状態を見て決めましょう」
「それでいい?」
「もちろんです」
「……分かりました」
職員が去ったあと、友人がじっとアリシアを見る。
「何?」
「普通だったね」
「何が?」
「研究の人」
「普通だよ」
「アリシア、もっと『研究を優先してください』とか言われると思ってた?」
「……ちょっと」
「言われてないじゃん」
「うん」
「じゃあ見学行こう」
「うん」
友人は満足そうに昼食へ戻った。
アリシアも自分の皿へ視線を落とした。
胸の奥にあった小さな引っ掛かりが、少しだけほどけている。
(研究を後にしても、研究がなくなるわけじゃない)
当たり前のことなのに、それを身体で覚えるには時間がかかった。
◇
放課後の資料修復自由見学は、学院本館の北側にある小さな実習室で行われた。
普段は古文書や教材用資料の保存処置に使われているらしく、室内へ入ると紙と乾いた布、それからわずかに糊に似た匂いがした。窓には薄い布が掛けられ、強い西日が直接古い紙へ当たらないようにされている。
参加者は十人ほどだった。
机の上には、破れた紙片、補修用の薄紙、小さな刷毛、重し、木板などが整然と並んでいる。
「今日は貴重資料そのものには触れません」
担当教師が最初に説明した。
「練習用に用意した古紙を使います。破れた紙は、強く貼ればよいわけではありません。元の紙より補修部分が硬くなりすぎれば、今度はその境目へ負担が集中します」
友人がアリシアの横で小さく囁く。
「好きそう」
「まだ何もしてない」
「説明聞いてる顔がもう好きそう」
「どんな顔?」
「すごい見てる」
アリシアは少し恥ずかしくなり、机へ視線を戻した。
実習では、まず破れた紙の繊維の向きを見る。
完全に切れているように見えても、端には細かな毛羽立ちが残っている。それを無理に重ねるのではなく、元の位置を確かめながら合わせ、必要最小限の補修紙を裏側から当てる。
アリシアは細い刷毛を持った。
力を入れすぎると紙が動く。
弱すぎれば補修紙が密着しない。
「アリシア、息止まってる」
「止まってない」
「止まってたよ」
「集中してただけ」
「顔怖いよ」
「紙破りたくないの」
向かいの席にいた女子生徒が小さく笑った。
「分かる。最初、怖いよね」
アリシアは少しだけ顔を上げた。
「うん」
「でもその紙、練習用だから。失敗しても先生怒らないって」
「失敗したくない」
「それは私も」
女子生徒は自分の紙を持ち上げ、端が少しずれてしまったところを見せた。
「ほら、もう失敗した」
「まだ直せるんじゃない?」
「先生、直せますか?」
「乾く前なら一度戻せます。ただし、何度も触ると紙を傷めますよ」
担当教師が近づき、刷毛の先で補修紙をそっと持ち上げる。
周囲の生徒も自然に手を止め、その動きを見た。
「間違えたからといって、すぐ何度も直そうとしないこと。まず、どこまでなら戻せるかを見ます。触るほど悪くなることもありますから」
アリシアはその手元をじっと見た。
友人が横からこちらを見る。
「今また研究のこと考えた?」
「考えてない」
「本当?」
「紙見てる」
「ならいいけど」
今度は本当だった。
薄い紙が少しずつ元の位置へ戻されていくのを見るだけで面白い。
補修紙を貼り終えたあとは、乾燥中に紙が反らないよう、吸水紙と板で挟む。
結果はすぐには見られない。
「これ、開けないの?」
友人が尋ねる。
「十分ほど待ちます」
「長い」
「短いですよ」
担当教師が笑った。
「古い資料の修復では、もっと長く待つこともあります」
「待ってる間、何するんですか?」
「次の作業です」
「休めないんだ」
「作業量によります」
実習室に笑いが広がった。
アリシアも肩の力を抜いた。
◇
見学が終わったころには、窓から差す光が少し橙色になっていた。
補修した練習紙は持ち帰ってよいと言われ、アリシアは厚紙に挟んで鞄へ入れた。
「どうだった?」
廊下へ出てから友人が聞く。
「面白かった」
「植物管理とどっち?」
「決められない」
「染色は?」
「それも面白かった」
「地図は?」
「好き」
「全部じゃん」
「だから困ってる」
「もう全部選べば?」
「選べないでしょ」
「じゃあ悩んで」
「他人事」
「私も染色と地図でまだ悩んでるから」
「八割染色じゃなかった?」
「今七割」
「減ってる」
「地図も楽しかったから」
二人で笑いながら階段を下りる。
玄関近くまで来たところで、アリシアは研究棟の方向を見た。
まだ明るい。
疲れてはいない。
「行く?」
友人が聞いた。
「うん。でも先に状態見てもらう」
「終わったら?」
「生活観測区画に戻る」
「じゃあ明日ね」
「うん。また明日」
友人が手を振る。
アリシアも小さく手を振り返した。
その姿を見ていた友人は、少しだけ不思議そうに目を細めた。
以前のアリシアなら、研究の予定がある日は別れ際からもう研究棟の方ばかり気にしていた。今日は資料修復の話を最後までして、明日の約束までしてから向かっていった。
「……ちゃんと学校の人になってきたなあ」
誰に聞かせるでもなく呟き、友人も寮へ続く道へ歩き出した。
◇
研究棟へ入ったアリシアは、最初にサーラの確認を受けた。
「疲労は?」
「二」
「痛み、息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部の違和感や冷感は?」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「全部ゼロ」
「知りたい気持ちは?」
「九」
「続けたい気持ち」
「八」
「止めにくさは?」
アリシアは少し考える。
「六」
「昨日より下がっていますね」
「見学行ったからかも」
「どうでした?」
「面白かった」
「それはよかったです」
サーラは記録票へ状態を書き込んだ。
「今日の作業は人工刺激なし。固定済みの時間比較だけです。途中で疲労が上がった場合は終了します」
「うん」
会議室には、副学院長、若い観測員、記録担当職員、魔導具担当教師がいた。
昨日構築した二本の主観報告時間範囲が、机の中央に置かれている。
東西の確認窓はまだ伏せられていた。
アリシアは席へ座ると、一度だけ深く息を吐いた。
『緊張してる?』
ノアが窓辺から尋ねる。
「少し」
『数字は?』
「聞かれてない」
『珍しい』
「何でも数字にしなくていいの」
『ようやく気づいた?』
「前から知ってる」
◇
「始める前に、昨日固定した項目を確認します」
若い観測員が紙を読む。
「対象は二件の前向き記録内で報告された、既存対象感覚非確認・閾値未満胸部異常報告です」
アリシアは頷く。
「各記録について、すでに固定した主観報告時間範囲と、東側奥部確認窓の重なり有無を記述します。重なる場合は重なり幅。重ならない場合は両窓間の間隔」
「うん」
「西側確認窓についても同様です」
「うん」
「各窓の中央配置は、重なり判定とは別に記録します」
「うん」
「時間配置から因果関係は判断しません。また、二件の主観報告が同一感覚か別種感覚かも、時間配置だけでは決定しません」
「それでいい」
「では開示します」
アリシアの指先が、膝の上でわずかに動いた。
まず一件目。
第二の三領域前向き記録。
この記録については、以前の整理で大まかな配置をすでに見ている。
東側奥部の確認窓が表示された。
その上へ、閾値未満胸部異常報告の時間範囲が重なる。
アリシアは目を細めた。
「……重なってる」
「はい」
完全に同じではない。
主観報告範囲の一部と、東側確認窓の一部が重なっている。
以前の整理で「近い、あるいは一部近接している」と見ていた内容を、今回の固定済み表示方法で改めて記述している。
「重なり幅を記録します」
数値は機器時刻で記入された。
アリシアはその細かな値を暗記しようとはしなかった。
重要なのは、今決めた規則で「一部重なり」となることだ。
「中央配置は?」
「東側確認窓の中央位置に対し、主観報告範囲の中央位置は後方寄りです。ただし窓自体が一部重なっています」
「分かった」
次に西側確認窓が表示された。
こちらは後方。
主観報告範囲とは重ならない。
間には空きがある。
「西側は非重複」
「はい」
「中央も後ろ」
「はい。西側確認窓の中央位置は、主観報告範囲の中央位置より後方です」
アリシアは頷いた。
ここまでは、以前に知っていた大まかな形と矛盾しない。
東側に近い。
西側は後ろ。
だからといって、東が自分へ何かを送り、西へ続いたとは言えない。
それも何度も確認してきた。
「一件目、固定します」
記録担当職員が書き込む。
東側――一部重なり。
西側――非重複。西側中央位置は後方。
因果解釈なし。
「次」
アリシアの声が少しだけ硬くなった。
◇
二件目。
最新の東西共起前向き記録。
こちらの時間配置は、まだ見ていない。
アリシアは無意識に背筋を伸ばした。
(似ていてほしい)
昨日より、はっきりそう思った。
一件目と同じように。
東側の近くに、自分の弱い感覚があってほしい。
西側より前にあってほしい。
そうなら、二つの感覚に共通するものが一つ増える。
しかし、願ったから配置が変わるわけではない。
「開きます」
東側奥部の確認窓が表示された。
アリシアは息を止めかけ、すぐに浅く吐いた。
二件目の主観報告範囲。
その位置は――。
「……重なってない」
誰より先に、アリシアが言った。
「はい」
若い観測員の声は変わらない。
東側確認窓と、主観報告範囲の間には、わずかだが明確な空きがあった。
固定済みの不確実性を含めても、窓同士は接していない。
「間隔を記録します」
記録担当職員が数値を書く。
アリシアは紙を見たまま動かなかった。
「遠い?」
「『遠い』の基準は固定していません」
「……そうだった」
「ですので、現時点では非重複であり、両窓間にこの間隔がある、とだけ記述します」
「うん」
「中央配置は、主観報告範囲が東側確認窓より後方です」
「一件目も後ろだった?」
「中央位置だけを見れば、主観報告側が東側より後方でした。ただし一件目は窓の一部が重なっています」
「今回は重ならない」
「はい」
アリシアは唇を軽く噛んだ。
悔しい。
自分でも分かる。
期待していた。
二件とも東側に近く、同じように一部重なっている形を。
(でも、違った)
胸の奥が重くなるような失望ではない。
もっと小さい。
手を伸ばしたものが指先から少し離れた場所に置かれたような、じれったさだった。
「西、開ける?」
声は出た。
「続けられますか?」
サーラが尋ねる。
「うん」
「今の疲労は?」
「二のまま」
「怖さは?」
「二」
「結果への落胆は、数字にするなら?」
アリシアは少し考えた。
「四」
「続けたい気持ちは?」
「八」
「では続けます。ただし、今の結果を理由に西側へ何かを期待しているなら、それも先に言葉にしておきましょう」
アリシアは黙った。
自分の中を見る。
「……西側よりは前にいてほしい」
「なぜですか?」
「一件目がそうだったから」
「はい」
「二件目もそうなら、東と重ならなくても、東のあとで西の前って並びは似るから」
「その期待を記録しますか?」
「して」
記録担当職員が、結果開示前の期待として別欄へ残した。
『二件目について、アリシアは主観報告範囲が西側確認窓より前方に位置することを期待。理由は一件目との配置類似性への期待』
「これで見る」
「はい」
◇
西側確認窓が表示された。
アリシアは紙を見つめる。
主観報告範囲。
西側確認窓。
今度は――。
「……重なってる?」
「一部重なっています」
アリシアは瞬きをした。
一件目とは逆だった。
第一の弱い胸部異常報告では、東側確認窓と一部重なり、西側とは重ならなかった。
第二の弱い胸部異常報告では、東側とは重ならず、西側確認窓と一部重なっている。
「中央は?」
「主観報告範囲の中央位置が先です。西側確認窓の中央位置は後方です。ただし、窓の一部は重なります」
「……前にはいる」
「中央配置ではそうです」
「でも重なってる」
「はい」
アリシアは二枚を見比べた。
似ていると思った二つの感覚。
時間配置は、同じではなかった。
一件目。
東と一部重なる。
西とは重ならない。
二件目。
東とは重ならない。
西と一部重なる。
どちらも中央配置だけなら、東側のあと、西側の前という大まかな並びを保っている。
けれど窓の重なり方は逆だ。
「……嫌な結果」
アリシアがぽつりと言った。
若い観測員が眉を上げる。
「嫌ですか?」
「面白いけど」
『どっちなのよ』
「両方」
アリシアはノアを見ずに答えた。
「同じ形だったら、すごく分かりやすかった」
「はい」
「二つとも東と重なって、西とは離れてたら、もっと似てるって言えた」
「少なくとも時間配置上の共通性は増えましたね」
「でも違った」
「はい」
「なのに、中央だけ見るとどっちも東のあと、西の前?」
「現在の表示では、その配置です」
「……ややこしい」
アリシアは額へ手を当てた。
◇
副学院長が二枚の紙を横へ並べた。
「ここで、情報を減らさずに整理しましょう」
「うん」
「一件目。主観報告範囲は東側確認窓と一部重なり、西側確認窓とは非重複。中央配置では東側より後方、西側より前方」
「うん」
「二件目。主観報告範囲は東側確認窓とは非重複、西側確認窓と一部重なり。中央配置では東側より後方、西側より前方」
「うん」
「共通している記述は?」
アリシアは考える。
「中央だけなら、東、私、西の順」
「中央位置の配置としては、はい」
「違うのは、窓の重なり方」
「はい」
「一件目は東と重なって、二件目は西と重なる」
「その通りです」
「じゃあ……」
アリシアは口を開きかけて、止まった。
何か言えそうな気がした。
一件目では感覚が早かった。
二件目では遅かった。
だから――。
そこまで考えて、自分で止める。
「何か思いましたか?」
「思った」
「言って構いません」
「でも候補」
「もちろんです」
「一件目と二件目で、私が感じる位置が前後したのかなって」
「時間位置が、ですね」
「うん。でも……」
アリシアは二枚を見る。
「入力の細かい形とか、東側の反応の形とか、まだ見てない」
「はい」
「総変位量も比べてない」
「はい」
「だから何でずれたかは分からない」
「その通りです」
「あと、窓の幅があるから、本当の瞬間が中央にあるとも限らない」
「はい」
「だったら今は、二件で重なり方が違った、まで」
「よいと思います」
◇
魔導具担当教師が、ここで初めて長く口を開いた。
「一つ、装置側から注意しておきたいことがあります」
アリシアが顔を向ける。
「何?」
「二件とも同じ安全範囲内の早期位置単一意図的小変動として実施されています。しかし、同じ条件名であることは、入力波形が完全に同一であることを意味しません」
「前にも言ってた」
「はい。総変位量や立ち上がり、戻り時間など、既存の固定項目には許容範囲内の自然な差があります」
「その差で私の感じる時間が変わった?」
「それはまだ分かりません」
「そっか」
「ここで入力波形の細かな違いを見て、時間配置に合う特徴を探し始めると、結果を見た後の探索になります」
「だから、やるなら別の候補」
「はい」
「今の答えにはしない」
「その通りです」
アリシアは頷いた。
以前なら、すぐに二つの波形を並べたかった。
今も見たい。
けれど、何を見つけたいのか自分で分からないまま探せば、「違って見えるもの」をいくらでも拾えてしまう。
(似てる理由を探したいのか、違う理由を探したいのか、自分でも両方ある)
それなら、今は開かない方がいい。
「入力は今日見ない」
「分かりました」
◇
「もう一つ質問」
アリシアが言った。
「どうぞ」
「これって、東と私と西が順番に並んだって言っていい?」
会議室が少し静かになった。
副学院長が紙へ目を落とす。
「どの意味で言っていますか?」
「中央の位置」
「中央位置についてなら、『両記録とも東側確認窓の中央、主観報告範囲の中央、西側確認窓の中央の順に配置された』とは記述できます」
「じゃあ順番はある?」
「中央位置の記述としてはあります。しかし、それを実際の現象発生順序と同一視することはできません」
「窓だから」
「はい。各領域にはそれぞれ異なる不確実性があります。東側は装置記録上の反応範囲。あなたの報告は発話までの遅れを含む主観範囲。西側は装置形式と処理による別の幅があります」
「一件目は東と私が重なってる」
「はい」
「二件目は私と西が重なってる」
「はい」
「だから、本当の瞬間が東、私、西だったって決められない」
「その通りです」
アリシアは少し残念そうに息を吐いた。
『矢印を書きたかった?』
「ちょっと」
『我慢なさい』
「分かってる」
ノアの尻尾が窓辺から垂れ、ゆっくり左右へ揺れた。
◇
記録担当職員が、今日の結果を新しい整理紙へ固定していく。
そこには、余計な名前を付けなかった。
二件を「中間感覚」や「弱冷感」などとは呼ばない。
単に、
『既存対象感覚非確認・閾値未満胸部異常報告二件 時間配置比較』
とした。
一件目は、東側窓との部分重複あり、西側窓とは非重複。
二件目は、東側窓とは非重複、西側窓との部分重複あり。
両件とも中央配置では、東側中央――主観報告中央――西側中央の順。
ただし、中央配置を実際の現象発生順序とは解釈しない。
重なり方の相違から、二件を同一現象とも別現象とも判定しない。
時間配置と主観表現の違いを保持する。
「固定します」
「うん」
「異論は?」
「ない」
ほかの参加者も確認した。
紙が正式な記録束へ移される。
アリシアはそれを目で追った。
期待通りではなかった。
けれど、期待が外れたからといって、何かが壊れた感じもしない。
むしろ、二つを無理に同じものへ押し込めなくてよかったという気持ちが、少し遅れて出てきた。
「私、昨日は同じだと思いたかった」
「はい」
「今日も最初はそうだった」
「はい」
「今は……」
アリシアは言葉を探した。
「同じでも違っててもいいから、もう少し見たい」
サーラが静かに頷く。
「それは昨日と少し違いますね」
「うん」
◇
休憩に入ると、窓の外はもう夕方の色へ変わっていた。
アリシアは水を飲み、椅子から立って肩を回した。
頭の中には二つの図が残っている。
一件目は東と重なる。
二件目は西と重なる。
それなのに中央配置は同じ大枠。
分かりやすくなったようで、分かりにくくなった。
「疲れた?」
サーラが近くで尋ねる。
「少し」
「今はいくつですか?」
「三」
「頭痛は?」
「ない」
「胸部異常は?」
「ない」
「では、今日は追加解析をしない方がよいと思います」
「うん」
アリシアは素直に頷いた。
「でも、次に何するかだけ候補出していい?」
「もちろんです。ただし決定まではしません」
「うん」
再び席へ戻り、紙を一枚だけ出してもらう。
「一つ目」
アリシアは指を一本立てた。
「二件の入力側の違いを見る。でも、見る項目を先に決める」
「はい」
「二つ目。既存九記録の主観報告の中で、胸部だけど対象感覚非確認だったものを、結果隠して同じ方法で時間配置まで見る」
若い観測員が少し考える。
「対象選択方法を先に決める必要があります」
「Cだけ選ばない」
「はい」
「Hも勝手に変な感じ扱いしない」
「その通りです。Hは現行分類では規則外/要保留です」
「三つ目」
少し迷う。
「東西共起の追加前向き試験」
「はい」
「でも今すぐじゃない」
「理由は?」
「この二つの弱い感じが気になるから、今やったら次の試験でも自分がそれを待つと思う」
部屋が静かになった。
アリシア自身も、口にしてからその意味を考えた。
「それは重要ですね」
副学院長が言う。
「意識して待ってしまうこと自体が、主観報告へ影響する可能性があります」
「前より期待が強くなってる」
「はい」
「じゃあ、次の人工刺激の前に考えた方がいい?」
「少なくとも、期待の扱いを整理する価値はあります」
「隠せないよね。もう二回あったの知ってるから」
「知識を消すことはできません」
「じゃあどうする?」
「それを次回考えましょう」
アリシアは頷いた。
◇
会議が終わり、若い観測員は記録紙をまとめながら、少し離れた場所にいるアリシアを見た。
少女はノアへ何か小声で言いながら鞄を閉じている。
少し前なら、予想と違う図が出たあとには、もう一枚、もう一つと結果を求めることが多かった。
今日は違う。
期待していた配置と違ったことを隠さず、落胆も認めた。それでも記録を変えようとはせず、次の刺激では自分自身が「弱い感覚を待ってしまう」可能性まで口にした。
観測される側でありながら、自分の期待も条件の一部になり得ると考え始めている。
もちろん、それを理由にアリシア自身を「誤差」として扱うつもりはない。
主観報告は、彼女が感じたことそのものだ。
だからこそ、感じる前から何を待っているかも、必要なら別に残す。
「何ですか?」
視線に気づいたアリシアが振り返った。
「いえ」
「見てた」
「少し考えていました」
「私のこと?」
「はい」
アリシアが警戒するように目を細める。
「何?」
「以前より、自分が何を期待しているかを早く言葉にするようになったと思いまして」
「……褒めてる?」
「褒めています」
『今日は褒められる日ね』
「ノアに褒められた覚えない」
『朝にしたでしょう』
「あれ本当に褒めてたの?」
若い観測員は思わず笑った。
◇
研究棟を出ると、空は群青色へ変わり始めていた。
昼間の薄い雲はほとんど消え、学院本館の上には細い月が見えている。風は朝より冷たく、アリシアは制服の上着を少しだけ身体へ寄せた。
「資料修復、面白かった」
『急にそっち?』
「今日それもあったから」
『研究のあとまで覚えてたのね』
「覚えてるよ」
『選択授業、決めた?』
「まだ」
『植物、染色、地図、資料修復』
「うん」
『全部やれば?』
「できないって友達にも言った」
『同じこと言われてるじゃない』
「何でみんな同じこと言うの」
『あなたが全部面白いって言うからでしょう』
アリシアは少し考える。
「前なら、一番役に立つの選んだかも」
『何に?』
「神器とか研究に」
『今は?』
「一番やりたいの選びたい」
ノアは少しだけ振り返った。
『じゃあ決めるの難しいわね』
「何で?」
『全部やりたそうだから』
「……そうなんだよね」
アリシアは困ったように笑った。
◇
生活観測区画では、夕食が始まる少し前だった。
子供は共用室の低い机で、紙箱の中身を並べ替えている。
小石。
木の実。
白い紐。
色紙。
そして、いつの間にか小さな丸い木片が一つ増えていた。
「それ何?」
「もらった」
「誰に?」
「工作してた人」
近くにいた職員が補足する。
「端材です。角は確認してあります」
「何に使うの?」
「まだ決めてない」
子供は木片を箱へ入れたり出したりする。
「研究、見た?」
「見た」
「同じだった?」
アリシアは隣へ座った。
「似てるところと、違うところがあった」
「また?」
「また」
「どこ違った?」
「時間」
「時間?」
「一つは東の反応と少し重なってた。もう一つは西の反応と少し重なってた」
子供は少し考えた。
「じゃあ一緒じゃない?」
「同じ形ではなかった」
「でも似てる?」
「似てるところもある」
「難しい」
「私もそう思う」
子供は木片を紙箱の中央へ置いた。
「じゃあ、まだ分かんない?」
「うん」
「明日もある?」
以前、自分が結果を翌日に回したときにも聞いた言葉だった。
アリシアは笑う。
「あるよ」
「じゃあいいね」
「うん」
それだけで話は終わった。
◇
夕食後、アリシアは自室へ戻る前に、共用室の窓辺へ立った。
外はすっかり暗くなっている。
ガラスには室内の灯りが映り、その向こうに学院の遠い窓明かりが点々と浮かんでいた。
今日分かったことを、頭の中で一度だけ並べる。
一件目の弱い胸部異常報告。
東側確認窓と部分的に重なる。
西側とは重ならない。
二件目。
東側とは重ならない。
西側確認窓と部分的に重なる。
両方とも中央位置だけを見れば、東側、主観報告、西側という並び。
でも、それは実際の出来事の順番を証明しない。
(同じじゃなかった)
期待していた形ではなかった。
それでも、二件の共通点まで消えたわけではない。
(違うとも決まってない)
だから今は、その両方を持っていればいい。
ノアが足元へ来た。
『まだ考えてる』
「ちょっとだけ」
『寝るまで研究は禁止、とは言われてないの?』
「禁止じゃない」
『じゃあ好きにすれば』
「でも今日は終わり」
アリシアは窓から離れた。
◇
翌日。
学院へ向かう途中、友人がアリシアの鞄から少しだけ覗いている厚紙に気づいた。
「それ昨日の?」
「うん」
「補修した紙?」
「乾いたから持ってきた」
「何で学校に持ってくるの?」
「先生に見てもらおうかなって」
「資料修復にする気?」
「まだ決めてない」
「またそれ」
「だって本当に決めてないから」
「植物も楽しい、染色も楽しい、地図も楽しい、資料修復も楽しい」
「うん」
「欲張り」
「研究でも言われる」
「自覚あるんだ」
友人が笑う。
アリシアも笑った。
昨日の結果は、まだ頭の片隅にある。
けれど今日は学校だ。
朝の教室には、展示準備のために持ち込まれた色紙や布が増え、窓際では二人の生徒が飾りの位置について言い合っている。廊下からは木槌の軽い音が聞こえ、誰かが教師に「そこへ釘を打つな」と叱られていた。
研究棟とは違う騒がしさ。
アリシアは自分の席へ座った。
◇
その日の昼過ぎ、研究棟ではアリシアのいない時間に、昨日の整理票の複写が作られていた。
若い観測員と記録担当職員は、二件の時間配置をもう一度確認している。
「ここは表現を変えた方がいいですね」
記録担当職員が一箇所を指す。
「『東―主観―西の順』だと強すぎますか」
「中央位置の話だと明記した方がいいです。窓は重なっていますから」
「では、『三領域の各中央位置は東側、主観報告、西側の順に配置。ただし一件目は東側―主観報告窓が部分重複、二件目は主観報告―西側窓が部分重複』」
「その方がいいと思います」
記録担当職員が書き直す。
「アリシアさん、自分で止まりましたね」
「東を先に見たいと言ったときですか?」
「それも。昨日は、次の人工刺激で弱い感覚を待ってしまうかもしれない、とも」
若い観測員は少しだけ考えた。
「主観報告を扱う以上、期待をゼロにはできません」
「ええ」
「でも、期待があるから主観報告が無価値になるわけでもない」
「そこは間違えたくありませんね」
「本人にも」
二人はしばらく記録を見た。
アリシアが「感じた」と言ったものを、期待のせいだと片づけるのも違う。
期待があることを隠して、純粋な測定値のように扱うのも違う。
どちらにも寄せない方法が必要になる。
「次の人工刺激より先に、そこを整理しますか」
「候補に上げましょう」
まだ決定ではない。
紙には、そう明記された。
◇
放課後。
アリシアが研究棟へ呼ばれることはなかった。
代わりに、友人と一緒に食文化実習の自由見学へ向かった。
「本当に来た」
「行くって言ったでしょ」
「研究に呼ばれたらそっち行くと思ってた」
「今日は呼ばれてない」
「呼ばれてたら?」
「先に約束してたなら、動かせるか聞く」
「おお」
「何、その反応」
「成長」
「みんなそれ言う」
「みんな思ってるんじゃない?」
アリシアは少しだけ顔をしかめた。
けれど、嫌ではなかった。
実習室からは焼いた穀物と香草の匂いが漂っている。
友人が急に足を速めた。
「ほら、試食ある!」
「やっぱりそれ目当てじゃん!」
「見学目当て! 試食は結果!」
「絶対違う!」
二人の声が廊下へ響き、前を歩いていた生徒たちが振り返って笑った。
アリシアは恥ずかしくなって声を落としたが、友人はまったく気にしていない。
そのまま人の流れに混ざり、実習室へ入った。
◇
その夜、研究棟から届いた次回検討事項は一つだけだった。
『人工刺激を追加する前に、主観報告に対する事前期待をどのように記録し、どこまで試験設計上の情報として扱うかを検討する』
アリシアは紙を読んだ。
「私の期待?」
『そう書いてあるわね』
「期待をなくす方法じゃないんだ」
『なくせるの?』
「無理」
『じゃあそういうことでしょう』
アリシアはもう一度読む。
弱い胸部異常を待ってしまうかもしれない。
東と西がまた一致してほしい。
でも、不一致も見たい。
冷たさが戻るかもしれないと思う。
何も感じなかったら少し悔しい。
そういう気持ちは、試験の外へ置いていけない。
(じゃあ、持ったままどう測るんだろう)
今度の問いは、東でも西でもなかった。
自分の中にある期待を消すのではなく、それがあると分かったまま、どう記録と分けるのか。
アリシアは連絡票を机へ置いた。
答えはまだない。
けれど、急いで次の刺激を入れるより、先に考えておいた方がいいことだけは分かった。
「ノア」
『何?』
「研究って、調べるもの増えるね」
『あなたの場合、自分まで調査対象に追加しただけじゃない』
「前から私も対象だよ」
『そういう意味じゃないわ』
「じゃあどういう意味?」
『自分が何を期待してるかまで気にし始めたってこと』
「……面倒?」
『かなり』
「でも必要?」
ノアは寝台の端へ飛び乗り、丸くなる前にアリシアを見た。
『必要かどうかを調べるんじゃないの?』
「それもまだ決まってない」
『なら明日考えなさい』
「うん」
アリシアは灯りを落とした。
二つの弱い感覚は、同じ場所には並ばなかった。
それでも、違いが見えたことで消えたものは何もない。
似ている部分も。
違う部分も。
期待していた自分の気持ちも。
全部をそのまま残したところから、次の問いが始まろうとしていた。




