第245話 似ているからこそ、まだ重ねない
試験の翌朝、アリシアが最初に見たのは、研究棟から届いた短い連絡票だった。
朝食を終えたばかりの生活観測区画には、まだ一日の動きが本格的に始まる前の静けさが残っている。窓の外はよく晴れており、昨夜までの冷たい空気を押し退けるように、淡い朝日が床へ長く伸びていた。
連絡票に書かれている内容は、昨日の帰り際にも聞いている。
東側奥部対象反応――確認。
西側対象反応――確認。
事前固定した判定規則による主判定――一致。
アリシアの既存対象感覚――非確認。
ただし、胸部中央よりやや左に、強度およそ〇・五の短い異常感覚報告あり。
詳細時間解析、既存記録との比較、第二の新規前向き記録との主観報告類似性評価は未実施。
そして、一番下。
『本日は人工刺激・詳細解析ともに実施しない。通常生活を優先すること』
「……分かってる」
アリシアは誰に言うでもなく呟いた。
窓辺で身体を丸めていたノアが、片目だけを開ける。
『誰に言い訳してるの?』
「言い訳じゃない」
『じゃあ何?』
「確認」
『紙に書いてあることを声に出して?』
「そう」
『便利な言葉ね、確認』
「研究でも使うでしょ」
『日常生活にまで持ち込まないでちょうだい』
ノアはそれだけ言うと、また目を閉じた。
アリシアは連絡票を畳む。
昨日、知りたい気持ちは十まで上がった。
東と西の確認判定は一致した。
嬉しかった。
その直後、自分の胸に残った弱い異常感覚が、以前のものと似ていることにも気づいた。
胸部。
少し左。
強さは〇・五ほど。
明確な「冷たい」には届かない。
似ている。
(でも、同じとはまだ言えない)
昨日もそう確認した。
今日は、それを確かめに行く日ではない。
アリシアは鞄を持ち上げた。
「学校行く」
『普通ね』
「普通でいいの」
『昨日も聞いたわ』
「今日も言う」
今度はノアが小さく鼻を鳴らした。
◇
一時間目は、基礎魔法理論だった。
教室の前方では、教師が三つの簡単な術式を黒板へ描いている。
一つ目は、必要な線だけで組まれた簡素な術式。
二つ目は、同じ効果を持つが、補助線が多い。
三つ目は、見た目こそ複雑だが、一部の線が重複している。
「では、この三つのうち、実際に使用する場合に最も安定させやすいものはどれでしょう」
教師が尋ねる。
何人かの生徒が手を挙げた。
アリシアも黒板を見る。
答えはすぐに分かった。
一つ目。
以前にも、不要な線を減らす考え方を授業で扱ったことがある。
「アリシア」
隣から小声が飛んできた。
「何?」
「三つ目じゃない?」
「何で?」
「いっぱい書いてあるから強そう」
「強そうで選ぶの?」
「だって一番すごそうじゃん」
「見た目だけでしょ」
「じゃあ一つ目?」
「たぶん」
「何で?」
「必要な線だけだから」
「本当に?」
「授業聞いてた?」
「聞いてたよ」
「今先生が説明してたじゃん」
「ちょっとだけ別のこと考えてた」
「何を?」
友人は一瞬だけ黙り、それから小声で答えた。
「昼ごはん」
アリシアは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
教師がこちらを見る。
「何か面白いことがありましたか?」
「……ありません」
「では、一つ目と三つ目の違いを説明してもらえますか」
友人が横で露骨に目を逸らした。
(絶対あとで覚えてて)
アリシアは心の中で恨みながら立ち上がった。
「一つ目は、目的の効果に必要な線が整理されています。三つ目は一部の補助線が重なっていて、同じ方向の働きを複数の線で持たせているので、調整する場所が増えます」
「はい。その通りです」
教師が頷く。
「複雑であることと、高性能であることは同じではありません。必要な機能を分け、何のための線か分からないものを安易に足さないことも、術式設計では重要です」
アリシアは席へ座る。
友人が小声で囁いた。
「助かった」
「助けてない」
「でも正解だった」
「あなたのせいで当てられたんだけど」
「お昼、パン一個あげる」
「いらない」
「焼き菓子半分」
「……考える」
「いるんじゃん」
友人が笑う。
アリシアは黒板へ視線を戻した。
必要なものを分ける。
何のためか分からないものを足さない。
昨日の研究と少し似ている気もした。
けれど、今はそれ以上考えなかった。
授業は授業だ。
◇
昼休み。
友人は本当に焼き菓子を半分くれた。
「賄賂」
「お詫び」
「同じじゃない?」
「違うよ」
「どこが?」
「気持ち」
「便利」
「アリシアが言う?」
「何で?」
「昨日、研究どうだったの?」
話題が急に変わった。
アリシアは焼き菓子を一口食べてから答える。
「やった」
「東と西の?」
「うん」
「どうだった?」
「両方確認」
「じゃあ同じ?」
「判定は一致」
「よかったじゃん」
「うん」
自然に頷いた。
嬉しかったことまで否定する必要はない。
「アリシアの冷たいのは?」
「確認されなかった」
「え?」
友人の手が止まる。
「でも、少し変な感じはあった」
「大丈夫だったの?」
「痛くないし、苦しくもない。もう消えてる」
「前にもそんなのなかった?」
アリシアは友人を見る。
「覚えてるの?」
「前に、冷たいって言えるほどじゃないけど変だったって言ってたじゃん」
「……みんな私より覚えてる」
「だからアリシアが忘れすぎなんだって」
友人は呆れたように言う。
「同じだったの?」
「分からない」
「場所は?」
「似てる」
「強さは?」
「似てる」
「じゃあ同じじゃないの?」
その問いに、アリシアはすぐ答えなかった。
一般的な会話なら、「たぶん同じ」で済ませてもおかしくない。
けれど、研究としては違う。
「似てるからって同じとは決めない」
「難しいね」
「うん」
「でもアリシアは同じだと思ってる?」
「……思いたい」
自分でも意外なくらい、素直に言えた。
「何で?」
「同じなら、一回だけの変な感じじゃなくなるから」
「ああ」
「でも、そう思いたいから余計に決めちゃ駄目」
友人は少しだけ考えたあと、残っていた焼き菓子を自分の口へ入れた。
「研究って面倒」
「うん」
「でも楽しそう」
「……うん」
「やっぱり好きじゃん」
アリシアは少しだけ頬を赤くした。
「食べる」
「何を?」
「もう一個ない?」
「さっき半分いらないって言ったじゃん!」
◇
放課後。
研究棟へ向かう道には入らなかった。
友人と途中まで一緒に歩き、掲示板の前で足を止める。
展示週間の自由見学会はまだ続いている。
染色。
地図制作。
植物管理。
資料修復。
ほかにもいくつかの実習や公開授業が並んでいた。
「次、どれ見る?」
友人が尋ねる。
「資料修復ちょっと気になる」
「古い紙とか本直すやつ?」
「うん」
「また細かそうなの選ぶ」
「好きなんだからいいでしょ」
「私は食文化実習」
「食べたいだけじゃん」
「見学だから」
「試食あるって書いてる」
「偶然」
「絶対それでしょ」
友人が笑う。
「別々に行く?」
アリシアが尋ねた。
「え?」
「見たいの違うなら」
「それでもいいけど……アリシア、一人で行ける?」
「行けるよ!」
「人多いよ?」
「……行ける」
「間があった」
「行けるってば」
『無理そうなら私がいるでしょう』
ノアが足元から言う。
「ノアは人じゃない」
『猫で悪かったわね』
「悪いって言ってない」
友人が掲示板を見比べる。
「日、違うよ」
「本当?」
「資料修復はこっち。食文化は次の日」
「じゃあ両方行ける」
「行く?」
「試食目当てじゃないなら」
「見学目当てです」
「怪しい」
研究とは関係のない予定が、また一つ増えた。
アリシアは掲示板の日付を確かめ、自分の小さな予定紙へ書き込んだ。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は窓際で鉢植えを見ていた。
土の表面へ指を押し込むのではなく、職員と一緒に細い木の棒を使って中の状態を確認している。
「どう?」
アリシアが近づく。
「まだ湿ってる」
「水いらない?」
「うん」
子供は棒についた土を見た。
「上は乾いてるのに、中はまだ」
「前もそうだったね」
「見ただけだと分かんない」
「そうだね」
アリシアは鉢へ触れず、その横へしゃがむ。
「研究した?」
子供が聞いた。
「今日はしてない」
「昨日したから?」
「それもある」
「東と西、一緒だった?」
「うん」
「冷たいのは?」
「冷たいって言えるほどじゃなかった。でも少し変だった」
「前のと同じ?」
今日、二度目の問いだった。
アリシアは少し笑う。
「分からない」
「似てる?」
「似てる」
「じゃあ何で分からないの?」
「似てるのと同じなのは違うから」
子供は棒を見た。
「土みたい?」
「土?」
「上、乾いてる。前も上、乾いてた。でも中も同じかは分からない」
アリシアは少し驚いた。
「……そういう感じかも」
『また何でも研究につなげるの?』
ノアが言う。
「今のはこの子が言ったんでしょ」
「土の話だよ」
「ほら」
『はいはい』
子供は棒を職員へ返し、鉢から離れた。
重要な木箱には、今日も触れない。
紙箱の方は棚に置かれている。
石や木の実、短い白い紐などが入った、ただの自分の箱だ。
「明日は?」
「何が?」
「研究」
「まだ分からない」
「休み?」
「たぶん整理するなら、研究棟から連絡くる」
「早く見たい?」
「うん」
「どのくらい?」
アリシアは少し考えた。
「八」
「十じゃない?」
「今日は八」
「何で?」
「ほかのこともあるから」
「学校?」
「学校も。見学も」
「ぼくも?」
アリシアは目を瞬いた。
「……うん」
子供は満足したように頷いた。
◇
その夜。
研究ノートを開きたい気持ちはあった。
けれど、アリシアは机の引き出しを開けなかった。
正式な原記録は研究棟にある。
自分の記憶だけで二つの弱い感覚を比べ始めれば、後から都合のいい形へ寄せてしまうかもしれない。
代わりに、選択授業の見学予定を書いた紙を机へ置く。
「資料修復」
『地味ね』
「染色も地味って言ってたでしょ」
『言ってないわ』
「言いそう」
『言ってないことまで私の発言にしないで』
「研究でも駄目?」
『何で私が研究倫理で怒られるのよ』
アリシアは笑った。
机の上には、研究資料がない。
それでも頭の中には、昨日の感覚が残っている。
胸の中央より少し左。
ほんのわずかな違和感。
強さは〇・五ほど。
冷たいとは言わなかった。
その前の試験でも、似た場所で、似た強さの異常を感じた。
あのときは「冷たい、とはまだ言い切れない」と言った。
今回は「少し変」としか言わなかった。
(同じだったらいいな)
そう思う。
なぜ「いい」のか。
弱い感覚にも再現性のようなものが見えるかもしれないから。
これまで確認/非確認だけでは落としていた情報に、何か意味があるかもしれないから。
けれど、それは期待だ。
記録ではない。
アリシアは机の灯りを消した。
◇
翌日は、人工刺激のない日だった。
朝の体調は良好。
疲労一。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部異常なし。
学校では午前に魔法史、午後に生活基礎の授業があった。
魔法史では、古い都市で使われていた公共魔導具の管理制度について扱った。
複数の時代に修理された魔導具では、同じ装置の中に異なる時代の部品が残っていることがある。
「古い部品があるから、装置全体が古い時代のものだと決めてはいけません」
教師が説明する。
「逆に、新しい部品が入っているからといって、装置全体が新しいとも限りません。修理記録、素材、構造、設置記録などを分けて見る必要があります」
友人が横からアリシアを見る。
「今、研究のこと考えた?」
「……ちょっと」
「やっぱり」
「でも授業聞いてる」
「本当に?」
「昨日あなたのせいで当てられたから」
「まだ根に持ってるの?」
「焼き菓子半分じゃ足りなかった」
「追加請求!?」
教師がこちらを見る。
二人とも同時に前を向いた。
◇
放課後、研究棟から連絡が来た。
人工刺激は行わない。
昨日の休息を挟み、主観報告の比較整理のみを実施する。
ただし、最初から二件を「同じ感覚」と仮定しない。
アリシアが研究棟へ着くと、会議室の机には二つの封筒が置かれていた。
「これ?」
「はい」
若い観測員が答える。
「第二の三領域前向き記録と、最新の東西共起前向き記録。その二件に残された主観報告です」
「時間は?」
「今日はまず、時間を見ません」
「東と西の波形も?」
「見ません」
「総変位量も?」
「見ません」
「じゃあ言葉だけ?」
「最初は」
アリシアは椅子へ座る。
「前にやったのと同じ?」
「考え方は同じです」
以前、既存九記録の主観報告を分類した。
結果を見てから言葉の意味を変えないために。
今回は二件しかない。
だからこそ、二件だけを見て新しい都合のいい分類を作らない。
「既存の分類規則を使う?」
「はい」
「新しい『弱い変な感じ』って分類は作らない?」
「少なくとも今日、二件を見てから作ることはしません」
「分かった」
「また、アリシアさんは両方の記録を経験しています。完全な盲検化はできません」
「覚えてる」
「ですから主分類者にはなりません」
「うん」
「ただし、分類結果が固定された後に、本人として原文を確認してもらいます」
「分かった」
分類担当は二人。
どちらも、すでに固定済みの主観報告分類規則を使った経験がある職員だった。
東西結果。
刺激時点。
試験目的。
詳細時間。
それらは伏せられている。
封筒には主観報告だけ。
「始めます」
アリシアは頷いた。
◇
一件目。
匿名記号は、今回だけの仮のものへ置き換えられていた。
分類担当者が原文を読む。
『……今、少し変です』
続いて、
『胸。少し左……冷たい、とはまだ言い切れないです』
アリシアはすぐに分かった。
(あのとき)
第二の前向き試験。
東と西は確認された。
自分の対象感覚だけが非確認だった。
けれど、今はその結果を口にしない。
分類担当者が記入していく。
身体部位――胸部。
位置補足――「少し左」を原文保持。
温度関連語――あり。
ただし単純肯定ではない。
原文――「冷たい、とはまだ言い切れない」。
実記録強度――およそ〇・五。
発話形式――身体異常の陳述後、温度表現に留保。
時間参照――「今」。
後続変化――弱まり、その後ほぼ消失。
原文の発話境界と順序も、そのまま残される。
アリシアは黙って見ていた。
次。
二件目。
『……今』
少し間を置いて、
『胸……少し……変』
さらに位置確認への回答。
『胸の真ん中より、少し左』
実記録強度――一未満、おおよそ〇・五。
その後、
『……弱くなった』
さらに、
『もう、ほとんどない』
分類担当者が記入する。
身体部位――胸部。
位置補足――「真ん中より、少し左」を原文保持。
温度関連語――なし。
その他身体異常表現――「変」。
実記録強度――およそ〇・五。
時間参照――「今」。
後続変化――弱まり、ほぼ消失。
発話系列――位置、強度、消失方向の追加情報あり。
ただし感覚種別の明確化はなし。
アリシアは二枚を見比べた。
似ている。
やはりそう思う。
胸。
左寄り。
〇・五ほど。
短い。
明確な対象感覚確認には届かない。
けれど。
「違う」
小さく口から出た。
「何が違いますか?」
分類終了を確認してから、若い観測員が尋ねる。
「一枚目には冷たいって言葉がある」
「はい」
「でも、冷たいって断定してない」
「はい」
「二枚目には、冷たいって言葉自体がない」
「はい」
「場所も完全に同じ言い方じゃない」
「はい」
「強さは似てる」
「そうですね」
「消えるのも似てる」
「はい」
「でも……」
アリシアは二枚の紙を見た。
「同じって言ったら、違うところが消える」
「その通りです」
◇
「じゃあ、同じじゃない?」
アリシアが尋ねる。
「それもまだ言えません」
「え?」
「同じと確認できていないことと、違うものだと確認できたことは別です」
アリシアは少し黙った。
「あ」
「現時点で言えるのは、複数の共通特徴があること。そして感覚表現には相違があることです」
「同じとも違うとも決めない」
「はい」
「……難しい」
『今さら?』
窓辺からノアが言う。
「ノア、ずっと寝てたでしょ」
『耳は起きてるって何度言わせるの』
「じゃあノアは同じだと思う?」
『知らない』
「役に立たない」
『猫に何を求めてるのよ』
部屋に小さな笑いが広がった。
◇
「一つ聞いていい?」
アリシアが紙を指す。
「もちろん」
「一枚目の『冷たい、とはまだ言い切れない』って、温度語ありにしてるよね」
「はい」
「でも確認にはしてない」
「はい」
「二枚目は温度語なし」
「はい」
「じゃあ、この二つをまとめて『閾値未満の冷感』って呼ぶのは?」
「現段階では避けます」
アリシアは頷いた。
予想していた答えだった。
「二枚目には冷たいって記録がないから」
「そうです」
「今の私が、あれもたぶん冷たかったって思っても?」
「原記録には足しません」
「うん」
「本人の現在の回想を、別資料として記録すること自体は可能です。ただし当時の原報告とは分けます」
「今はやらなくていい」
「分かりました」
アリシアは紙から手を離した。
「じゃあ、大きい括りなら?」
「例えば?」
「既存対象感覚確認には届かなかった胸部異常報告」
「その記述なら、両方に該当します」
「その中で、一つは温度語あり・留保。一つは温度語なし」
「はい」
「場所はどっちも左寄りだけど、原文は別」
「はい」
「強さはどっちも〇・五くらい」
「はい」
「短く消えた」
「はい」
「……これなら?」
「結果を見た後に感覚種別を一つへ統合せず、共通項と相違点をそのまま残せます」
アリシアは少しだけ笑った。
「それがいい」
◇
記録担当職員が新しい整理欄を作る。
仮の見出しは、名前を付けすぎないよう慎重に選ばれた。
『前向き記録内の既存対象感覚非確認・胸部異常報告二件――記述比較』
アリシアはそれを見て、少し顔をしかめる。
「長い」
「正確です」
「名前ないの?」
「今は名前を付けない方が安全です」
「『弱い何か』とか」
『研究資料にそんな名前つけたら怒られるわよ』
「分かってるよ」
整理欄には、共通点と相違点が分けて書かれた。
共通点。
両方とも胸部に関する異常報告。
両方とも左寄りの位置表現を含む。
両方とも記録強度およそ〇・五。
両方とも既存対象感覚確認基準には届かない。
両方とも短時間で弱まり、ほぼ消失。
両方とも痛みゼロ、息苦しさゼロ。
相違点。
一件は温度関連語を含むが、「冷たい、とはまだ言い切れない」という留保表現。
もう一件は温度関連語なし。「変」という異常表現のみ。
位置表現も完全一致ではない。
発話系列の構成も同一ではない。
「ここまで?」
「今日はここまでを固定できます」
「時間は?」
「まだ開きません」
「東側の反応との近さは?」
「まだです」
「西側は?」
「まだです」
「総変位量は?」
「それも別です」
アリシアは机へ突っ伏しそうになり、途中で止めた。
「いっぱい残ってる」
『よかったわね』
「何で?」
『暇にならない』
「前も言った」
『便利な言葉は再利用するのよ』
「研究では同じ言葉でも意味変わることあるよ」
『面倒な反論覚えたわね』
◇
「では、次に何を見るかを決めますか?」
若い観測員が尋ねた。
アリシアはすぐに「時間」と答えそうになった。
口を開き、止める。
「……候補を並べる」
「はい」
「一つ目、二件の時間配置を見る」
「はい」
「二つ目、東と西の反応との位置関係を見る」
「一つ目とかなり重なりますが、分けて考えることはできます」
「三つ目、既存九記録の中に似た胸部報告があるか」
「すでに主観分類を行った九件ですね」
「うん。Cとか」
言った瞬間、自分で気づく。
「でもCを先に選んだら駄目?」
「なぜそう思いますか?」
「Cは結果を知ってるから。東と西が確認で、対象感覚は非確認だった」
「はい」
「だからCに似てるものを探したら、欲しい結果に寄せるかもしれない」
「その危険があります」
「じゃあ、既存九件を見るなら、先にどう探すか決める」
「はい」
「四つ目、東西共起の次の前向き試験をどうするか」
「はい」
「五つ目……」
アリシアは考えた。
「何もしない」
サーラが少し笑う。
「それも候補ですか?」
「すぐ人工刺激増やさないで、自然観測だけ続ける」
「十分候補です」
「じゃあ五つ」
記録担当職員が並べる。
一、前向き胸部異常報告二件の時間配置整理。
二、東側・西側確認窓との位置関係整理。
三、既存九記録の主観報告群との比較方法を事前固定してから探索。
四、東西共起主質問の追加前向き記録計画。
五、人工刺激を追加せず、自然観測と方法整理を継続。
「今日どれ決める?」
「全部は決めません」
「分かってる」
「では、アリシアさんはどれが一番気になりますか?」
迷わなかった。
「時間」
「理由は?」
「二つの弱い感じが、東側の反応と近いところにあるか見たい」
「西側は?」
「それも見たい。でも……」
アリシアは考える。
「東と西を一緒に見ると、また三つを並べたくなる」
「はい」
「だったら、まず二件それぞれの主観報告時間だけ固定して、そのあと別に東と西を開く?」
若い観測員が少し考えた。
「良い分離だと思います」
「できる?」
「できます。二件の主観報告時間範囲を、既存の発話不確実性規則に従って先に固定する。その時点では東西の窓を重ねない」
「それがいい」
「では、それを次回候補とします」
「候補?」
「今日はまだ、方法が両記録へ同じように適用できるかを確認していません」
「……分かった」
『昔ならここで“今やろう”って言ってたわね』
「今も言いたい」
『言わないの?』
「今日はもういっぱい」
アリシアは正直に答えた。
◇
サーラが状態を確認する。
「疲労は?」
「三」
「頭痛」
「ゼロ」
「胸部異常」
「ゼロ」
「怖さ」
「一」
「知りたい気持ち」
「九」
「続けたい気持ちは?」
「八」
「止めにくさは?」
アリシアは少し考えた。
「七」
「今日はここで終了を勧めます」
「うん」
今度は反論しなかった。
「明日やる?」
「明日と決めません」
「学校もあるから?」
「それもあります。担当者側で時間窓構築手順を再確認してからにします」
「分かった」
「人工刺激は?」
「予定しません」
「うん」
◇
研究棟を出ると、外は夕暮れだった。
空の西側だけが淡い橙色に染まり、研究棟から学院本館へ続く道には長い影が伸びている。
アリシアはノアと並んで歩いた。
「似てた」
『そうね』
「でも違った」
『そうね』
「同じとも違うとも言えない」
『便利ね、研究』
「何が?」
『どっちも言わなくて済む』
「そういうことじゃない」
『分かってるわよ』
ノアの尻尾がゆっくり揺れる。
「私、同じだと思いたかった」
『言ってたわね』
「今も思ってる」
『それで?』
「でも、二つ目に冷たいって言葉がなかったのは消したくない」
『なら消さなきゃいい』
「うん」
少し歩く。
「前は、同じっぽいの見つけたら嬉しくてすぐつなげてた?」
『かなり』
「そんなに?」
『かなり』
「……恥ずかしい」
『別に。今も頭の中ではつなげてるでしょう』
「うん」
『なら変わったのは、つなげたくなることじゃなくて、それを記録と同じにしなくなったことじゃない』
アリシアは歩みを少し緩めた。
「それ、サーラ先生みたい」
『撤回するわ』
「何で!」
◇
生活観測区画へ戻ると、夕食前だった。
子供は紙箱の中身を一度全部出し、箱の底へ小さな紙を敷いていた。
緑と薄い黄色。
以前使った色紙の余りらしい。
「また変えたの?」
「底」
「貼るの?」
「置くだけ」
「何で?」
「変えたくなったら取れるから」
「なるほど」
アリシアは隣へ座る。
子供は緑の紙の上へ、小さな石を置いた。
その横へ木の実。
短い白い紐は端へ寄せる。
ノアの毛は、小さな紙片に挟まれていた。
『まだ持ってるのね』
「いる」
『返して』
「抜けたやつだからもうノアのじゃない」
『妙に強い理屈ね』
アリシアが笑う。
「研究どうだった?」
子供が尋ねる。
「二つの変な感じを比べた」
「同じ?」
「似てるところもあった」
「違うところも?」
「あった」
「じゃあ別?」
「それもまだ分からない」
「難しい」
「うん」
子供は二枚の色紙を見た。
「これ、同じ紙」
「色違うね」
「でも同じ種類」
「うん」
「研究も?」
アリシアは少し考える。
「まだ、それも分からない」
「そっか」
子供はあっさり頷き、紙箱へ視線を戻した。
アリシアは、その「あっさり」が少し羨ましかった。
◇
夕食後。
顔のない存在は、共用室の窓際に座っていた。
胸元の十一の灯りには、遠目に分かるような特別な変化はない。
職員がいつもの位置から記録している。
子供は少し離れたところで紙箱を抱えている。
アリシアはそれを一度見ただけで、確かめ直しには行かなかった。
昨日の人工刺激。
今日の主観報告比較。
だからといって、十一の灯りに何かを探す理由はない。
何も起きていない日常の景色として、そのまま残す。
◇
翌朝。
アリシアは学校へ向かう前、研究棟から届いた短い確認文を読んだ。
『前向き二記録の胸部異常報告比較について、以下を固定する』
一、両記録とも既存対象感覚確認には届かない。
二、両記録とも胸部左寄りの位置表現を含み、記録強度はおよそ〇・五。
三、両記録とも短時間で弱まり、消失方向の後続報告を持つ。
四、一方は温度関連語を含むが留保表現であり、他方は温度関連語を含まない。
五、現時点で同一感覚とも別種感覚とも判定しない。
六、「閾値未満の胸部異常報告二件」として記述比較を継続するが、新たな感覚分類名は付与しない。
七、次の候補として、両記録の主観報告時間範囲を既存規則で独立に構築し、東西結果を重ねる前に固定する。
アリシアは最後まで読み、頷いた。
「いい」
『朝から何が?』
「昨日の整理」
『同じにしてくれなかったやつ?』
「そう」
『不満じゃないの?』
「ちょっとは」
『どのくらい?』
「三」
『聞き方を間違えたわ』
アリシアは笑いながら連絡票を畳んだ。
◇
その日の放課後。
時間窓整理の準備が整ったという連絡を受け、アリシアは研究棟へ向かった。
人工刺激はない。
会議室の机には、昨日の二件が再び置かれている。
ただし今回は、東側と西側の記録は伏せたままだ。
「まず一件ずつ?」
「はい」
若い観測員が答える。
「既存の主観報告時間範囲構築規則だけを使います」
「新しく変えない」
「変えません」
「一枚目が前の第二試験って私は分かってるけど?」
「その記憶は構築規則へ足しません」
「うん」
一件目。
最初の発話。
『……今、少し変です』
そこから、既存の標準的な発話前不確実性を考慮する。
後続して、
『胸。少し左……冷たい、とはまだ言い切れないです』
その発話は、最初の異常報告を補足する。
しかし「冷たい」と断定した時点として扱わない。
既存対象感覚確認窓は作らない。
あくまで、閾値未満胸部異常報告の原発話範囲として構築する。
「前に一回やってる?」
「この記録については、すでに第二の前向き記録を固定した際、原報告時刻自体は保存されています。ただし今回は、もう一件との比較に用いるため、同じ規則で表示形式を揃えます」
「結果見て広げない?」
「はい」
範囲が固定される。
二件目。
『……今』
『胸……少し……変』
こちらも同じ標準的な発話前不確実性を適用する。
位置確認への回答は、発生開始を新しく早めるためには使わない。
後続する弱まり・ほぼ消失の報告は、終了側の記述に用いる。
同じ方法。
同じ種類の不確実性。
ただし原文は違う。
こちらも範囲が固定された。
「できた?」
「はい」
「二つ重ねる?」
アリシアの声が少し速くなる。
「まず、主観報告同士だけなら重ねられます」
「東と西なしで?」
「はい」
「見たい」
二本の時間軸が、同じ基準表示へ置かれた。
ただし、試験そのものの刺激時点は表示されていない。
東側も西側もない。
ただ二件の主観報告範囲だけ。
アリシアは身を乗り出した。
「……似てる?」
「何をもって似ているとしますか?」
「位置」
「時間軸上の?」
「うん」
「刺激時点を隠しているため、今表示されているのは各記録内の相対的な報告範囲だけです。二試験を直接同じ絶対時間へ置いているわけではありません」
「あ」
アリシアは身体を戻した。
「刺激から何呼吸後とか見えないんだ」
「はい」
「じゃあ今見えるのは、どっちも短い範囲ってことくらい?」
「それと、発話系列の長さや終了側の報告構造です」
「でも刺激との位置はまだ分からない」
「はい」
アリシアは少し笑った。
「焦った」
『知ってる』
「ノアは黙って」
◇
「ここで止めることもできます」
若い観測員が言った。
「え」
「次に東側の窓を開けば、結果との位置関係を見始めることになります」
「それが見たいんだけど」
「分かっています」
「今日見ちゃ駄目?」
「駄目ではありません。ただ、その前に何を見るかを固定したい」
アリシアは少し考えた。
「二つの主観報告が、東側確認窓と重なるか?」
「候補です」
「西側は?」
「同時に見ると、再び三領域の並び全体を一度に解釈したくなる可能性があります」
「じゃあ東だけ先」
「なぜ東ですか?」
アリシアは答えようとして、止まった。
「……前の記録で、弱い感じが東側に近かったから」
「それはすでに知っている結果です」
「あ」
「東を先に選ぶ理由が、既知の近さに引かれていませんか?」
アリシアは黙り込んだ。
まさにそうだった。
第二の前向き記録では、弱い異常感覚の範囲が東側の時間に近い、あるいは一部近接していた。
それを覚えている。
だから東を先に見たい。
「……引かれてる」
「悪いことではありません。気づければ分けられます」
「じゃあどうする?」
「東と西のどちらを先に開くかに意味を持たせない方法を決めるか、あるいは両方の窓を構築済みのまま同時開示し、見る項目を先に固定する方法があります」
「見る項目?」
「例えば、各主観報告範囲について、東窓との重なり有無・幅、西窓との重なり有無・幅を機械的に記述する。どちらが“近そう”かを印象で選ばない」
「……それがいい」
「今日決めますか?」
「決めたい」
「では、詳細値を開く前に書きます」
記録担当職員が新しい紙を出した。
アリシアは自分で口にする。
「二件それぞれについて、主観報告範囲と東側確認窓の重なりがあるか。あれば幅。なければ間の幅」
「はい」
「西側も同じ」
「はい」
「中央の位置も?」
「既存の時間窓分析で使用した中央配置を別記できます」
「じゃあそれも。でも重なりと混ぜない」
「はい」
「どっちが原因とかは言わない」
「はい」
「二件が似てるかどうかも、時間だけで決めない」
「はい」
紙へ固定される。
「これで見れる?」
「今日はここまでにする案もあります」
「ええ……」
『出た』
「だって今決めたのに!」
「決めた直後だからこそ、次回にそのまま適用できます」
サーラがアリシアを見る。
「疲労は?」
「三」
「知りたい気持ち」
「九」
「続けたい気持ち」
「九」
「止めにくさ」
アリシアは黙った。
「……八」
「では今日はここまでを勧めます」
「分かってた」
「それでも聞きます。どうしますか?」
アリシアは二本の時間軸を見る。
東西の窓は、まだ伏せられている。
開けば分かる。
今すぐ見たい。
でも、今日決めた見方は逃げない。
紙に残った。
「……やめる」
「はい」
「次にする」
『偉い偉い』
「今日は雑でもいい」
『前にも聞いたわね、それ』
◇
帰り道。
アリシアは少しだけ不満だった。
でも、その不満よりも大きいものがある。
次に何を見るかが、結果を見る前に決まった。
二件の弱い胸部異常報告。
それぞれについて。
東側確認窓との重なり、または間隔。
西側確認窓との重なり、または間隔。
中央配置は別。
因果は言わない。
時間だけで同一感覚とは決めない。
「ノア」
『何?』
「次、違ったらどうしよう」
『何が?』
「一つは東に近くて、一つは全然違ったら」
『残すんでしょう』
「うん」
「両方似てたら?」
『残すんでしょう』
「うん」
『じゃあ同じじゃない』
「気持ちは違う」
『それも前に聞いた』
アリシアは笑った。
「最近、同じこと言ってる?」
『同じことを違う記録で何度も覚えてるのよ』
「それ、悪い?」
『別に』
ノアは前を向いたまま歩く。
『同じ言葉を覚えるのと、同じ結果しか欲しがらないのは違うでしょう』
アリシアは少しだけ目を丸くした。
「……またいいこと言った」
『気のせい』
「逃げないで」
◇
生活観測区画の窓には、夕方の光が残っていた。
子供は紙箱を棚へ戻している。
顔のない存在は少し離れた椅子に座り、十一の灯りには目立つ変化がない。
職員たちは普段通りの記録を続けている。
アリシアは部屋へ入ると、鞄を置いた。
「今日分かった?」
子供が尋ねる。
「まだ途中」
「昨日も途中」
「うん」
「明日も?」
「たぶん」
「長いね」
「長い」
「嫌?」
アリシアは少し考えた。
「前より嫌じゃない」
「何で?」
「途中でも、消えないから」
「何が?」
「決めたこと」
子供はよく分からない顔をした。
それでも「そっか」と答えた。
◇
その夜。
アリシアは寝台へ入ってから、暗い天井を見つめていた。
明日、東西の時間窓を開くかもしれない。
まだ確定ではない。
担当者の確認が終わり、自分の状態もよければ。
それでも、期待はある。
(同じようなところにあってほしい)
そう思う。
そして、すぐに別の気持ちも出てくる。
(違ったら、それも見たい)
どちらも本当だった。
同じなら嬉しい。
違えば悔しい。
でも、どちらも消さない。
アリシアは目を閉じた。
似ているからこそ、まだ重ねない。
重ねるなら、何を見るのかを決めてから。
その手順を残せたことが、今日得た一番確かなものだった。




