第25話 六つ目の影
朝、目を覚ました時、アリシアの頭の中にはまだ昨日の歌が残っていた。
五つの灯りが道を照らす。
六つ目の影が足跡を消す。
追う者は夜に迷い。
守られし者は朝を見る。
何度思い返しても、胸の奥が静かに震える。
これまで見つけた記録は、どれも遠回しだった。
名を持たぬ夜の守り手。
一つの影。
黒布。
追跡から隠すもの。
留めるもの。
守るもの。
けれど、昨日シオンが口にした歌には、はっきりと「六つ目」とあった。
五つではなく、六つ。
五聖人の正史から消えた、もう一つの影。
アリシアは寝台の上で膝を抱え、しばらく動けずにいた。
嬉しい、とは少し違う。
怖い、だけでもない。
自分がずっと探していたものの輪郭が、遠くの霧の向こうから一瞬だけ見えたような感覚だった。
手を伸ばせば消えてしまいそうで。
でも、確かにそこにあったと信じたい。
「朝から歌を反芻してる顔ね」
ノアが枕元で言った。
アリシアは小さく瞬きする。
「分かるの?」
「分かるわよ。目が遠いもの」
「昨日の歌……すごかったね」
「ええ」
「六つ目って……言ってた」
「言っていたわね」
「シオンさん、どこまで知ってるのかな」
ノアは少しだけ耳を動かした。
「本人が言った通りなら、ただ古い旅歌を知っているだけでしょうね」
「でも……」
「でも、その歌を覚えていた。しかも、あの場で出した」
「うん」
「偶然にしては、面白いわ」
面白い。
ノアがそう言う時、たいてい少し警戒している。
アリシアはそれも分かるようになってきた。
「シオンさんは……味方かな」
「早い」
「う……」
「人を味方か敵かで急いで分けない。まずは、どの距離で話せる相手かを見るの」
「間合い……」
「そう」
ノアは尻尾で寝台を軽く叩いた。
「シオンは皮肉屋で、面倒で、素直じゃない。でも、ルシアンの笑顔よりは表情が読める」
「ノア、ルシアンさんには本当に厳しいね」
「油断しないだけよ」
「うん……」
アリシアは布団から出た。
制服に着替える。
リボンを結び、木刀を腰に差す。
鏡を見る。
黒髪。
黒い瞳。
紺色の制服。
少し前と何も変わらない自分。
でも、胸の奥には昨日より少し多くの断片がある。
黒い光。
夜の守り手。
六つ目の影。
アリシアは小さく息を吸った。
「今日は……シオンさんに、もう少し聞けるかな」
「聞くなら、リーネと一緒の方がいいわ」
「どうして?」
「あんた一人だと、皮肉に刺されて萎むから」
「うぅ……」
「リーネがいれば、話が資料寄りになる。メリルがいれば、空気が柔らかくなる」
「ノアは?」
「私は睨む」
「それは……怖いかも」
「効果的でしょう」
ノアは当然のように言った。
アリシアは少し笑った。
怖さはある。
でも、昨日までとは違う種類の緊張だった。
新しい手がかりを前にした緊張。
それを一人ではなく、誰かと追えるかもしれないという期待。
食堂へ向かうと、廊下にはいつもの朝のざわめきがあった。
生徒たちの話題は、魔法基礎の課題や戦闘基礎の連携訓練、図書館の点検が終わるかどうかなどに移っている。
特殊魔力反応の噂は、まだ完全には消えていない。
けれど、少しずつ学園の日常に飲み込まれていくようだった。
アリシアはそれを、少しありがたいと思った。
食堂では、メリルが先に来ていた。
アリシアを見つけると、手を振る。
「おはよう、アリシアちゃん」
「おはよう、メリルさん」
「昨日の歌、まだ考えてた?」
「うん……」
「私も。六つ目って、はっきり言ってたもんね」
メリルの声は小さい。
周囲に聞こえないよう、気をつけてくれている。
アリシアは頷いた。
「うん。今までの資料より、ずっと近い気がして」
「今日、リーネさんとまた話す?」
「うん。できれば、シオンさんにも……」
言いかけると、メリルは少し笑った。
「ちょっと怖い?」
「……少し」
「シオン君、言い方が独特だよね」
「皮肉っぽいけど、昨日は教えてくれた」
「うん。悪い人ではなさそう」
そこへガレスとミランダがやって来た。
「おはよう!」
「おはよう!」
いつもの勢いに、少しだけ食堂の空気が明るくなる。
ガレスは席につくなり言った。
「昨日、シオンが何か歌ったんだって?」
アリシアは驚く。
「知ってるの?」
「ミランダが聞いた!」
ミランダが手を挙げる。
「昨日、リーネに聞いた!」
どうやら情報は思ったより早く回っているらしい。
ただし、リーネが話したなら内容はかなり制限しているはずだ。
ミランダは声を少し落とす。
「六つ目って言ってたんだよね?」
アリシアは少し迷ってから頷いた。
「うん……でも、古い旅歌だから、まだ本当かは分からない」
ガレスは真剣な顔で腕を組んだ。
「歌か。火の国にも古い戦歌はあるが、結構大事なことが残ってたりするぞ」
「そうなの?」
「おう。文字に残らなくても、歌なら残ることがあるって兄貴が言ってた」
ミランダも頷く。
「土の国も作業歌に昔の話が残ってるって聞いたよ。畑の歌とか、砦作りの歌とか」
アリシアは少し驚いた。
歌。
正史ではないもの。
けれど、人々の口に残り続けるもの。
消された歴史が、歌の中に隠れることもあるのかもしれない。
メリルが言う。
「風の国は旅人が多いから、歌も残りやすいのかも」
「うん……」
ノアが椅子の上で小さく言った。
「記録に残らないものほど、歌や祈りに逃げるのよ」
アリシアはノアを見る。
その声は、少し遠かった。
「ノア……」
「何?」
「ううん……」
今は聞けない。
ノアは何か知っている。
でも、まだ全部は話せない。
アリシアはそれを感じ取り、スープを一口飲んだ。
温かい味が、胸の中のざわめきを少し落ち着かせてくれた。
生活基礎の授業では、今日は「記録の信頼性」について学んだ。
セリア先生は黒板に、三つの言葉を書いた。
『公式記録』
『個人記録』
『口承・伝承』
アリシアは思わず背筋を伸ばした。
まるで昨日の歌のために用意されたような内容だった。
セリア先生は穏やかに話す。
「情報には種類があります。国や学園が保管する公式記録。個人の日記や手紙。人から人へ語り継がれる口承や伝承。それぞれに長所と弱点があります」
リーネが聞いたら喜びそうだ、とアリシアは思った。
「公式記録は、整理されていて確認しやすい反面、記録する側の判断が入ります。個人記録は当時の感情や細部が残りやすい反面、主観が強くなります。口承や伝承は、文字にならない記憶を残すことがありますが、変化や脚色も起こります」
アリシアは必死にノートを取った。
公式記録。
五聖人。
そこには六つ目がない。
口承。
旅歌。
そこには六つ目の影があった。
どちらが正しいのか、今は分からない。
でも、片方だけを見て決めつけてはいけないのだろう。
セリア先生は続ける。
「大切なのは、一つの情報だけで結論を出さないことです。複数の情報を照らし合わせ、何が共通しているか、どこが違うかを見ること」
アリシアの胸に、リーネの言葉が重なる。
正史は重要。
でも、すべてを記録しているとは限らない。
記録とは選択。
セリア先生の授業と、リーネの考えが繋がった。
授業の後半では、短い昔話を三種類の記録として比較する練習があった。
公式記録では「村が水害から避難した」と書かれている。
個人の日記では「夜中に謎の音を聞いた」とある。
伝承では「白い鹿が村人を導いた」と語られている。
どれが真実かではなく、何が共通しているかを見る。
アリシアはメリルと同じ班で考えた。
「共通してるのは、夜に避難したこと……かな」
メリルが言う。
「うん。あと、何かが村人を動かした」
「公式記録では避難命令、日記では謎の音、伝承では白い鹿」
「同じ出来事を、違う形で残してるのかも」
アリシアが言うと、メリルは少し嬉しそうに頷いた。
「昨日の歌にも使えそうな考え方だね」
「うん……」
アリシアはノートの隅に小さく書いた。
『六つ目の影――伝承。共通点を見る』
授業後、セリア先生がアリシアのノートを見て微笑んだ。
「丁寧に整理できていますね」
「あ、ありがとうございます」
「最近、歴史資料を調べているそうですね」
アリシアは少し緊張した。
「はい……地方伝承を少し」
「今日の授業は役に立つかもしれません」
「はい。すごく……」
「伝承を調べる時は、信じすぎず、疑いすぎず、丁寧に扱ってください」
信じすぎず。
疑いすぎず。
丁寧に扱う。
アリシアはその言葉を胸にしまった。
戦闘基礎では、無言連携の続きだった。
昨日より動きが少しずつ良くなっているとはいえ、まだ簡単ではない。
アリシアとメリルは、まず立ち位置の確認から始めた。
アリシアが前。
メリルが後ろ。
右へ動く時は肩をわずかに下げる。
左へ動く時は足先を半歩開く。
メリルが風を通す想定なら、杖先を少し上げる。
短剣へ切り替える想定なら、半歩前に出る。
最初は覚えるだけで大変だった。
けれど、何度も繰り返すうちに、少しずつ体が反応する。
相手役の攻撃が来る。
アリシアが半歩下がる。
メリルが前に出すぎず、杖を斜めに構える。
アリシアが木刀で低い位置を押さえる。
メリルの杖先が、その上を通る。
「止め」
エレナ教官の声。
短い沈黙。
「今のは良い」
その一言に、アリシアとメリルは顔を見合わせた。
嬉しい。
でも、すぐにエレナ教官は続ける。
「ただし、最後に二人とも満足して止まった。次が来たら崩れる」
「はい」
「良い動きの後ほど、次を考えろ」
アリシアは頷いた。
良い動きの後ほど、次を考える。
図書館の調査にも似ている。
六つ目の影という大きな手がかりを見つけた。
だからこそ、そこで満足して止まってはいけない。
次を見る。
確認する。
照らし合わせる。
休憩中、カイルがやってきた。
「アリシア、メリル、今の良かったな」
「ありがとう」
メリルが言う。
カイルは少し悔しそうに笑った。
「俺たちも無言でやろうとしたけど、ミーナがすごい目で睨んでくる」
ミーナがすぐ後ろから言った。
「カイルが突っ込むからでしょう」
「目線だけで怒られるの怖いんだよ」
「声を出さなくても伝わっているなら成功ね」
ミーナが涼しく言う。
アリシアは思わず笑った。
ミーナも少し笑う。
こうして戦闘基礎の中で、少しずつ会話が増えていく。
アリシアはそれが嬉しかった。
午後、図書館へ向かう前に、アリシア、メリル、リーネは食堂横の小さな休憩所で集まった。
シオンにもう一度歌を確認したい。
ただし、いきなり一人で聞くのは避ける。
リーネがそう提案した。
「シオンは昼食後、図書館か中庭の北側にいることが多いです」
リーネは淡々と言う。
アリシアは驚いた。
「知ってるんですか?」
「五大国の継承者候補の行動傾向は、最低限把握しています」
「把握……」
メリルが少し苦笑する。
「リーネさんらしいね」
「必要です。協力する可能性も、警戒する可能性もあるので」
アリシアは少しだけルシアンを思い出した。
白い微笑み。
優しい言葉。
けれど読めない目。
リーネも、きっとそれを警戒している。
「シオンさんには、どう聞けばいいかな」
アリシアが聞くと、リーネは即答した。
「歌詞の出典、聞いた人物、地域、歌の前後に続きがあるか。この四点です」
「急に聞いたら、嫌がらないかな」
メリルが心配そうに言う。
「嫌がるでしょうね」
リーネは平然と言った。
「えっ」
「シオンは面倒くさがりです。ただし、完全に拒むなら昨日も歌いません。聞き方次第です」
「聞き方……」
アリシアは少し考えた。
シオンは皮肉を言う。
でも、礼を言った時に少し調子が狂ったようだった。
押しつけるより、助かったことを伝えた方がいいのかもしれない。
「昨日の歌が、私たちの調査にすごく助かったって……先に言うのはどうかな」
アリシアが小さく提案すると、リーネが少し目を瞬かせた。
「感情面から入るということですか」
「う、うん……迷惑じゃなければ、もう少し教えてほしいって」
メリルが頷く。
「それがいいと思う。シオン君、理屈だけで詰めると逃げそう」
「なるほど」
リーネは少し考えた。
「では、アリシアさんが最初に礼を言い、メリルさんが場を柔らかくし、私が確認事項を聞きます」
「役割分担だね」
メリルが言う。
アリシアは頷いた。
生活基礎の役割、報告、確認。
ここでも使える。
三人で中庭の北側へ向かった。
白い校舎の影が落ちる、少し静かな場所。
木陰のベンチに、緑髪の少年が座っていた。
シオンだった。
片手に薄い本。
もう片方の手で、風に揺れる葉をぼんやり眺めている。
ポニーテールの緑髪が、風に合わせて少し揺れていた。
「本当にいた……」
メリルが小声で言う。
リーネは当然のように頷く。
「行動傾向通りです」
アリシアは少し緊張した。
ノアは足元で言う。
「萎まない」
「うん……」
三人と一匹が近づくと、シオンは顔を上げた。
「何。昨日の真面目三人組じゃん」
「こんにちは、シオンさん」
アリシアは小さく頭を下げた。
シオンは少し目を細める。
「こんにちは。で、今日は何? また図書館の棚でも呪われた?」
言い方に刺がある。
けれど、アリシアは昨日より少しだけ受け止められた。
「昨日の歌のことで……お礼を言いたくて」
「礼?」
「はい。あの歌、私たちの調査にすごく助かりました」
シオンは少しだけ黙った。
それから、視線を逸らす。
「別に、ただの古い歌だけど」
「それでも、初めて六つ目って言葉が出てきたので」
アリシアは続けた。
声は小さい。
でも、ちゃんと言えた。
「教えてくれて、ありがとうございました」
シオンは少し居心地悪そうに本を閉じた。
「……あんた、そういうの真正面から言うんだね」
「え?」
「皮肉が効かないタイプって、やりづらい」
シオンはため息をついた。
だが、昨日よりは拒絶していない。
メリルが柔らかく言う。
「もしよかったら、もう少し歌のことを聞いてもいいかな? 無理なら大丈夫だけど」
「無理って言ったら、そこの眼鏡が記録用紙持ったまま無言で圧かけてきそうだけど」
リーネは真顔で答える。
「必要なら待ちます」
「ほら怖い」
シオンは肩をすくめた。
だが、逃げなかった。
「で、何が聞きたいの」
リーネがすぐに紙を開く。
「歌を教えた人物、地域、歌詞の前後、歌の用途です」
「尋問かな」
「質問です」
「はいはい」
シオンはベンチに座ったまま、空を見上げた。
「教えたのは、風の神殿にいた古い弓の訓練師。名前はバルド。爺さんだよ。口が悪くて、弟子を褒めない。僕は嫌いじゃなかったけど」
アリシアは少し意外だった。
シオンが誰かを「嫌いじゃなかった」と言うのは、かなり大きいことのように感じた。
リーネが記録する。
「風の神殿、訓練師バルド」
「地域は?」
「風の国の北西。旅人の通る山道に近い神殿」
「歌の用途は?」
「子どもの頃は、夜道の歌って聞いた。迷わないように歌うんだってさ。まあ、実際に夜道で歌ったら魔物に見つかりそうだけど」
メリルが苦笑する。
「確かに」
アリシアは聞いた。
「歌詞の続きは……ありますか?」
シオンはアリシアを見る。
少し沈黙した。
風が木の葉を揺らす。
シオンの緑の髪が、頬にかかった。
「ある」
短い答えだった。
アリシアの胸が跳ねる。
リーネの筆が止まる。
シオンは少し面倒そうに、でも慎重に言った。
「ただ、あんまり明るい歌じゃない」
「それでも……聞きたいです」
アリシアは言った。
怖い。
でも、聞きたい。
シオンはアリシアの顔を見て、少しだけ目を細めた。
「ほんと、変な子」
そう言って、彼は低く歌うように続けた。
「影は名を持たず、灯りに並ばず。されど灯り尽きる時、影は最後の道となる」
アリシアの呼吸が浅くなる。
シオンは続ける。
「影を讃えるな。影を呼ぶな。影が名を得る時、古き追跡者もまた目覚める」
風が止まったような気がした。
アリシアは動けなかった。
影が名を得る時。
古き追跡者もまた目覚める。
昨日まで見つけた伝承にも、「名を問えば夜は去り、追うものが来る」とあった。
同じだ。
繋がっている。
リーネが低く言う。
「追跡者……」
メリルの顔も少し青い。
「それって、魔族……?」
シオンは肩をすくめた。
「知らない。爺さんは、そういう歌だって言っただけ」
アリシアは胸元を押さえた。
ノアが足元で静かに座っている。
その体が、わずかに硬い。
「ノア……」
小さく呼ぶと、ノアは答えない。
ただ、金色の瞳でシオンを見ている。
シオンはノアを見下ろした。
「その猫、やっぱり分かってる顔するね」
ノアは鳴かなかった。
シオンは少し笑う。
「まあ、猫にしては目が良すぎる」
アリシアは慌てる。
「ノアは……その、賢いので」
「知ってる」
「え?」
「従魔なんだろ。賢くても不思議じゃない」
シオンはあっさり言った。
深く追及する気はなさそうだった。
それが逆に少し安心する。
リーネが記録を確認する。
「シオン、この歌を他に知っている人は?」
「さあ。風の神殿の古株なら知ってるかも。でも、今どれだけ残ってるかは知らない」
「バルド氏は今も?」
「生きてると思うよ。しぶとい爺さんだから」
シオンは少しだけ口元を緩めた。
「ただ、簡単には会えない。風の国まで行く必要があるし、あの爺さん、人に説明するの嫌いだから」
「あなたに似ていますね」
リーネが淡々と言う。
シオンは顔をしかめた。
「最悪なこと言うね、リーネ」
「事実です」
メリルが慌てて場を和らげる。
「で、でも、貴重な話を聞けて助かったよ。ありがとう、シオン君」
シオンは視線を逸らした。
「別に」
アリシアも言った。
「ありがとうございます。怖い歌だったけど……聞けてよかったです」
シオンは少しだけアリシアを見た。
「怖いのに聞くんだ」
「怖いけど……知らない方が、もっと怖いから」
言った後、自分で少し驚いた。
そんなことを言えるようになっていた。
シオンも一瞬だけ黙った。
それから、軽く笑う。
「本当に変な子」
でも、その声には昨日より刺が少なかった。
「まあ、調べるなら気をつけなよ」
「気をつける?」
「歌の通りなら、影が名を得る時、追跡者も目覚めるんだろ」
シオンは立ち上がる。
「ただの古い歌だとしても、昨日みたいな影喰いが出てるなら、偶然だけで済ませるのは楽観的すぎる」
リーネが頷く。
「同意します」
シオンは本を脇に抱えた。
「じゃ、僕は行く。あんまり真面目な空気にいると息が詰まる」
「あ、ありがとうございました」
アリシアがもう一度言うと、シオンは振り返らずに手を振った。
「礼は一回でいい」
そう言って、彼は中庭の向こうへ歩いていった。
三人はしばらくその場に立っていた。
メリルが小さく言う。
「また、すごい歌詞が出てきたね」
「はい」
リーネは記録紙を見つめている。
「影が名を得る時、古き追跡者もまた目覚める」
アリシアは胸が冷たくなるのを感じた。
名。
ノア。
継承の儀。
アリシアが名乗り、猫にノアと名付け、契約が成立した。
影が名を得る時。
それは、ノアのことなのか。
黒月のことなのか。
それとも、アリシアが六つ目の影を知ろうとすることなのか。
分からない。
でも、怖い。
ノアが足元で言った。
「考えすぎない」
アリシアは小さく頷いた。
「うん……でも」
「分かってるわ」
ノアの声は静かだった。
「この歌は、覚えておく必要がある」
放課後、三人は図書館へ戻り、シオンから聞いた歌詞を正式に記録した。
司書にも、風の国の旅歌として新しい証言を得たことを伝えた。
司書は歌詞を聞くと、表情を少し曇らせた。
「追跡者……ですか」
「何か知っているんですか?」
リーネが聞く。
司書は首を横に振る。
「断片的な言葉としては見たことがあります。ただ、詳しい資料は一般閲覧室には少ないでしょう」
「上級資料室には?」
「確認しておきます」
アリシアの胸がまた少し重くなる。
上級資料室。
また新しい資料。
また新しい怖さ。
でも、知る必要がある。
部屋に戻った夜、アリシアは練習帳を開いた。
『今日はシオンさんに、風の国の旅歌の続きを聞きました。影は名を持たず、灯りに並ばず。されど灯り尽きる時、影は最後の道となる。影を讃えるな。影を呼ぶな。影が名を得る時、古き追跡者もまた目覚める』
手が止まる。
胸が苦しい。
けれど、書く。
『怖い歌でした。でも、聞けてよかったです。知らない方が、もっと怖いからと、私は言いました。自分で言って、少し驚きました』
ノアは机の上で静かに座っている。
アリシアはペンを置き、ノアを見た。
「ノア」
「何?」
「影が名を得る時って……ノアのこと?」
ノアはすぐには答えなかった。
長い沈黙。
窓の外で、夜風が木を揺らす。
「可能性の一つではあるわ」
やがてノアが言った。
アリシアの胸がきゅっと縮む。
「じゃあ、私がノアに名前をつけたから……追跡者が?」
「まだ決めつけない」
ノアの声は強かった。
「伝承は断片。歌は歌。全部をそのまま受け取るなって、今日学んだでしょう」
「うん……」
「でも、無関係とも言えない」
「……うん」
アリシアは膝の上で手を握った。
「もし、私が名前をつけたせいで、何かが起きるなら……」
「アリシア」
ノアが机から降り、アリシアの膝へ飛び乗った。
いつもより少し強引に。
金色の瞳が、アリシアを見上げる。
「私に名前をくれたことを、後悔しないで」
その声は、いつもの毒舌ではなかった。
静かで、深くて、少しだけ震えているように聞こえた。
アリシアの目が熱くなる。
「後悔なんて……しない」
「本当に?」
「しない」
アリシアはノアを抱きしめた。
「ノアはノアだよ。私が名前をつけたけど……でも、ノアがいてくれたから、私はここまで来られた」
ノアは黙っていた。
アリシアは続ける。
「怖いことが起きても、名前をつけなければよかったなんて、思わない」
ノアの体から、少しだけ力が抜けた。
「……そう」
「うん」
「なら、いいわ」
ノアは短く言った。
けれど、その声は少し柔らかかった。
アリシアはノアの背を撫でる。
黒い毛並み。
夜の色。
星を抱く色。
名前を得た影。
もしその名が、何かを呼ぶのだとしても。
それでも、ノアはノアだ。
アリシアにとって、大切な存在だ。
「今日の点数は?」
アリシアは少し涙声で聞いた。
ノアはため息をついた。
「泣きながら聞くことじゃないでしょう」
「でも……」
「九十七点」
アリシアは目を丸くした。
「高い……」
「シオンに聞けた。歌を記録した。怖いと言えた。知らない方がもっと怖いと言えた。私の名前を後悔しないと言えた」
「減点は?」
「シオンの歌の途中で顔が真っ白。あと、私を抱きしめる力が少し強い」
「あ、ごめ……」
「謝らない」
「うん……」
ノアはアリシアの膝の上で丸くなった。
アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。
『ノアに名前をつけたことを、私は後悔しません』
その一文を書いた時、胸の奥の夜が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
窓の外には、黒い夜が広がっている。
その夜のどこかで、古き追跡者と呼ばれるものが眠っているのかもしれない。
怖い。
でも、アリシアは一人ではない。
膝の上にはノアがいる。
学園には、共に調べてくれる仲間がいる。
そして、名前を持った影は、もう消えない。
アリシアはそう信じたかった。




