第26話 名を持つ影
朝になっても、アリシアの胸には昨夜の言葉が残っていた。
『ノアに名前をつけたことを、私は後悔しません』
練習帳の最後に書いた一文。
眠る前に何度も見返し、朝起きてからも、もう一度見てしまった。
後悔しない。
そう書いた。
そう言った。
それは本当だった。
けれど、怖さが消えたわけではない。
影が名を得る時、古き追跡者もまた目覚める。
シオンが歌った、風の国の古い旅歌。
その一節が、目覚めてからずっと耳の奥で揺れていた。
影が名を得る時。
アリシアはノアに名前をつけた。
継承の儀のあと、黒猫が現れ、アリシアが自分の名前を名乗り、黒猫に「ノア」と名付けた。
その瞬間、契約は終わった。
つまり、ノアは名を得た。
それが何かを呼んだのだとしたら。
影喰いの残滓。
図書館の黒い糸。
自然発生ではないかもしれない異常。
それらが、自分のせいで起きているのだとしたら。
アリシアは机の前で、練習帳の表紙に手を置いたまま固まっていた。
「また悪い方に考えてる」
寝台の上からノアの声がした。
アリシアは顔を上げる。
ノアはいつものように丸くなっているが、目だけはこちらを見ていた。
「……分かる?」
「分かりやすすぎるのよ」
「ごめん」
「謝らない」
「うん……」
ノアは立ち上がり、机の上へ飛び乗った。
練習帳の上に前足を置く。
「読まなくても分かるわ。どうせ、私に名前をつけたせいで何かが起きたらどうしよう、って考えてるんでしょう」
アリシアは答えられなかった。
沈黙が答えになった。
ノアは小さく息を吐く。
「昨日も言ったわ。決めつけない」
「うん……でも」
「でも?」
「もし、そうだったら……ノアが危ないかもしれない」
それを口にした瞬間、胸が痛くなった。
自分が責められることよりも。
自分の黒い力が怖がられることよりも。
ノアに何か起きる方が怖かった。
契約の影。
水晶の中に映った黒猫の影。
もし古き追跡者が目覚めるのなら、狙われるのは自分だけではないかもしれない。
ノアかもしれない。
そう考えると、呼吸が浅くなる。
ノアはしばらく黙っていた。
そして、いつもより少し低い声で言った。
「私を勝手に弱いもの扱いしない」
アリシアは目を瞬かせる。
「え……」
「私はあんたの保護対象じゃないわ。むしろ逆でしょう」
「でも、心配で……」
「心配は受け取る。でも、怯えた顔で私を見るのは減点」
「うぅ……」
ノアは尻尾で練習帳を軽く叩いた。
「私も、あんたを心配してる。だからといって、あんたが危ないから名前をつけなければよかったなんて思わない」
アリシアの胸が震えた。
「ノア……」
「名前は契約よ。繋がりよ。重さもある。でも、それを恐れて全部なかったことにする方が、よほど失礼だわ」
ノアは金色の瞳でアリシアを見上げた。
「私の名前を後悔しないと言ったなら、今日もその通りにしなさい」
厳しい言葉。
でも、そこにあるのは怒りだけではなかった。
ノア自身も、きっと何かを抱えている。
名を得た影。
古き追跡者。
ノアが何を知っているのか、まだアリシアには分からない。
それでも、ノアはここにいる。
逃げずに、アリシアの隣にいてくれる。
なら、自分も逃げたくなかった。
「うん」
アリシアは頷いた。
「後悔しない。怖いけど……しない」
「よろしい」
「でも、グラン先生には相談する」
「それでいいわ」
「名をつけたことと、歌のこと……全部は言えないけど、影が名を得るって歌があったことは報告した方がいいよね」
ノアは少し考えた。
「歌の内容は伝えていい。六つ目という言葉も、旅歌としてなら伝えていいでしょう」
「黒月は?」
「出さない」
「ノアが神獣だってことは?」
「当然出さない」
「うん」
「でも、名前に反応して不安になったことは話していい」
「不安……」
「感情も記録対象でしょう」
アリシアは少しだけ笑った。
ノアがセリア先生やグラン先生の言葉を使っている。
それがなんだか、不思議に嬉しかった。
食堂へ向かう廊下で、アリシアはいつもより少しノアの歩幅を気にした。
ノアはそれに気づいているのか、いないふりをしているのか、尻尾を高くして歩いている。
メリルは部屋の前で合流すると、すぐにアリシアの顔を見た。
「昨日の歌、まだ気になってる?」
「うん……」
「私も。あの追跡者って言葉、怖かった」
「うん」
メリルは無理に明るくしなかった。
怖いものを怖いと言ってくれる。
それがありがたかった。
「でも、今日グラン先生に相談するつもり」
「うん。その方がいいと思う」
「メリルさんも……もし怖かったら、無理に調査に付き合わなくても」
言いかけると、メリルは首を横に振った。
「怖いけど、一緒に調べたい」
「でも……」
「アリシアちゃんが一人で抱え込まないって決めたなら、私も一緒にいるって決めたから」
アリシアは息を止めた。
胸が熱くなる。
「……ありがとう」
「うん」
メリルは少し照れたように笑った。
「それに、怖いからこそ手順を決めるってリーネさんも言ってたしね」
「うん」
二人と一匹で食堂へ入る。
朝の匂い。
温かいスープ。
焼きたてのパン。
人の声。
少し前なら、全部が圧だった。
今も時々圧に感じる。
でも今日は、メリルの言葉が胸に残っていて、少しだけ歩けた。
ガレスとミランダは、いつもの席で手を振っていた。
「アリシア! メリル! こっち!」
「おはよう」
席に座ると、ミランダがすぐに身を乗り出す。
「昨日の歌、リーネから少し聞いたよ。怖いやつ」
「ミランダ、直球すぎ」
メリルが苦笑する。
ミランダは少し眉を下げた。
「あ、ごめん。でも……怖かったでしょ?」
アリシアは頷いた。
「うん。怖かった」
ガレスが腕を組む。
「古き追跡者、か」
「ガレス君も聞いたの?」
「ミランダから聞いた!」
「そうなんだ……」
ガレスは珍しく、少し考え込むような顔をした。
「追跡者ってことは、何かを追うんだよな」
「たぶん」
「なら、追われる側を守るのが影の役目だったのかもしれないな」
アリシアはガレスを見る。
ガレスは言葉を探しながら続けた。
「五つの灯りが道を照らす。でも、灯りがあれば敵にも見つかるだろ? だから影が足跡を消す。追跡者を迷わせる」
「うん……」
「なら、影は逃げる人たちの味方じゃないか?」
単純な言葉だった。
でも、胸に深く入ってきた。
影は、追跡者を呼ぶものかもしれない。
でも同時に、追われる者を守るものかもしれない。
メリルも頷く。
「歌にも、守られし者は朝を見るってあったよね」
「うん」
ミランダが力強く言う。
「じゃあ、やっぱり守る力だよ!」
アリシアは少しだけ目を伏せた。
「そうだと……いいな」
「そうだよ!」
ミランダは真っ直ぐだった。
その真っ直ぐさに、アリシアは少し救われる。
ノアが椅子の上で小さく言う。
「脳筋の直感も、たまには役に立つわね」
アリシアはスープを飲みながら、必死に笑いをこらえた。
生活基礎では、今日は「相談の仕方」の実践だった。
セリア先生は黒板に大きく書いた。
『困っていること』
『自分で試したこと』
『今ほしい助け』
アリシアはその三つを見て、すぐに今日のグラン先生への相談を思い浮かべた。
困っていること。
影が名を得る時、追跡者が目覚めるという歌を聞いて不安になった。
自分で試したこと。
練習帳に記録し、ノアと話し、友人にも共有した。
今ほしい助け。
歌の内容をどう扱うべきか、黒い力との関連をどう見ればいいかを相談したい。
授業中なのに、ほとんど相談内容の整理になっていた。
セリア先生は言う。
「相談は、相手に全部解決してもらうことではありません。自分が何に困っているのかを一緒に整理してもらうことでもあります」
アリシアは強く頷いた。
全部を解決してもらう。
それは無理だ。
グラン先生にも、ノアにも、メリルにも、リーネにも。
でも、一緒に整理してもらうことならできる。
抱え込まないというのは、そういうことなのかもしれない。
授業後、セリア先生がアリシアの机へ来た。
「今日はずいぶん集中していましたね」
「あ……はい。あとで相談したいことがあるので、整理していました」
「良い使い方です」
セリア先生は微笑んだ。
「相談前に書き出すと、言葉にしやすくなります。必要なら、相談用の紙を使いますか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
セリア先生は小さな用紙を一枚渡してくれた。
困っていること。
自分で試したこと。
ほしい助け。
三つの欄がある。
アリシアはそれを大切に受け取った。
「ありがとうございます」
「焦らずに」
「はい」
戦闘基礎では、昨日までの無言連携に加え、「前衛交代」の基礎に入った。
エレナ教官は三班全員を前に立たせる。
「前に立つ者が常に同じとは限らない。疲労、怪我、地形、相手の武器。状況によって前後は入れ替わる」
アリシアはメリルを見る。
メリルが前に出る場面。
自分が後ろに下がる場面。
想像すると少し不安になる。
エレナ教官は言った。
「前衛交代で一番危険なのは、二人が同時に下がること、または同時に前へ出ることだ。片方が引くなら、片方は支える。片方が出るなら、片方は道を空ける」
ガレスとミランダが聞いたら耳が痛そうな内容だ、とアリシアは思った。
訓練が始まる。
アリシアとメリルは、まずゆっくりした動作で交代を確認した。
アリシアが前にいる。
メリルが後ろから杖を構える。
相手の動きに合わせて、メリルが半歩前へ出る。
その時、アリシアは左へずれながら下がる。
木刀を完全に下ろさず、メリルの横を守る。
言葉にすると簡単。
実際にやると難しい。
一度目、アリシアは下がりすぎた。
メリルが前に出た瞬間、二人の間が空きすぎる。
「止め。空間を作りすぎだ」
エレナ教官の指摘。
二度目、アリシアは下がりきれなかった。
メリルの杖の動線を邪魔する。
「止め。迷いがある」
三度目、メリルが前に出るのをためらった。
「止め。出るなら出ろ」
二人とも汗をかく。
難しい。
でも、エレナ教官は焦らせなかった。
「ゆっくりでいい。最初から速度を出すな。形を覚えろ」
その言葉に従い、二人は何度も繰り返した。
アリシアはメリルの足音を聞く。
前に出る気配。
杖の角度。
呼吸。
メリルはアリシアの肩の向き、木刀の位置、下がる方向を見る。
少しずつ、ぶつからない距離が見えてくる。
最後に、相手役の生徒が軽く踏み込んだ。
メリルが前へ出る。
アリシアは半歩左へずれ、木刀を低く構えたまま下がる。
メリルの杖先が通る。
アリシアの木刀が、その脇を守る。
「止め」
エレナ教官が言った。
短い沈黙。
「今の距離を覚えろ」
アリシアとメリルは同時に息を吐いた。
できた。
まだ一回だけ。
でも、できた。
メリルが小さく笑う。
「アリシアちゃん、今のよかった」
「メリルさんも……前に出るの、すごく綺麗だった」
「本当?」
「うん」
二人で少し照れる。
エレナ教官が遠くから言った。
「褒め合いは休憩中にしろ」
「は、はい」
「すみません」
二人は慌てて姿勢を正した。
それでも、胸の中には小さな達成感が残った。
昼食後、アリシアはグラン先生の研究室へ向かった。
今日の相談用紙を手にしている。
ノアも一緒だ。
扉の前で一度呼吸する。
「一回」
ノアが言う。
「うん」
アリシアは扉を叩いた。
「アリシアです。相談したいことがあります」
「どうぞ」
グラン先生の声。
中へ入ると、研究室はいつも通り整っていた。
水晶片。
記録用紙。
魔導具。
そして、机の上には昨日の報告書らしき紙も置かれている。
「今日は個別指導の日ではありませんが、緊急ですか?」
グラン先生が穏やかに聞く。
「緊急……ではないと思います。でも、早めに相談した方がいいと思って」
「分かりました。座ってください」
アリシアは椅子に座る。
ノアは布の上。
アリシアはセリア先生にもらった相談用紙を出した。
「昨日、シオンさんから、風の国の古い旅歌の続きを聞きました」
「シオンさん……風の継承者候補ですね」
「はい」
グラン先生は筆を取った。
「内容を聞かせてください」
アリシアは紙を見ながら、ゆっくり歌詞を伝えた。
五つの灯りが道を照らす。
六つ目の影が足跡を消す。
追う者は夜に迷い、守られし者は朝を見る。
影は名を持たず、灯りに並ばず。
されど灯り尽きる時、影は最後の道となる。
影を讃えるな。
影を呼ぶな。
影が名を得る時、古き追跡者もまた目覚める。
グラン先生は最後まで黙って聞いた。
筆だけが紙の上を走る。
書き終えてから、しばらく沈黙した。
アリシアの胸が少し緊張する。
ノアも静かにグラン先生を見ている。
「非常に興味深い歌です」
グラン先生は言った。
「同時に、慎重に扱うべき内容でもあります」
「はい……私も怖くなって」
「どの部分が一番不安でしたか?」
アリシアは相談用紙を見る。
書いてきた言葉。
でも、口に出すのは少し怖い。
「影が名を得る時……というところです」
「理由は?」
「私は、ノアに名前をつけて契約しました。だから……もしそれが何かを目覚めさせたらって」
言った瞬間、ノアの耳がぴくりと動いた。
でも何も言わない。
グラン先生は責めるような顔をしなかった。
「なるほど」
静かに頷く。
「まず、現時点でその歌とあなたの契約を直接結びつける証拠はありません」
アリシアは息を吐きかけた。
けれどグラン先生は続ける。
「ただし、あなたが不安を感じるのは自然です。歌の言葉と自分の経験が重なったのですから」
「はい……」
「大切なのは、不安から結論へ飛ばないことです」
セリア先生と似た言葉。
信じすぎず、疑いすぎず。
丁寧に扱う。
グラン先生は机の上に小さな紙を置き、三つに線を引いた。
「分けましょう。事実、伝承、推測」
アリシアは顔を上げる。
「事実、伝承、推測……」
「事実。あなたはノアと契約し、名前を与えた。再測定で特殊魔力反応が出た。図書館で影喰いの残滓が発見された」
「はい」
「伝承。風の国の旅歌に、六つ目の影、影が名を得る時、追跡者という言葉がある」
「はい」
「推測。あなたの名付けが追跡者を目覚めさせたかもしれない」
アリシアの胸が少し痛む。
けれど、グラン先生の声は落ち着いていた。
「この三つを混ぜないことです」
「混ぜない……」
「今の段階では、推測は推測です。怖いから真実に見えてしまうことがありますが、まだ確認されていません」
アリシアはゆっくり頷いた。
胸の絡まりが、少しだけほどける。
全部が一つの恐怖になっていた。
でも分けると、少し見える。
事実。
伝承。
推測。
「では、何を確認すればいいでしょうか」
グラン先生が聞く。
アリシアは少し考えた。
「旅歌が……他の資料にもあるか」
「はい」
「追跡者という言葉が、何を指すのか」
「はい」
「影が名を得る、という表現が……契約や神獣に関係あるのか」
「その通りです」
グラン先生は頷いた。
「良い整理です」
アリシアは少し驚いた。
自分で考えられた。
怖いままでも、整理できた。
グラン先生は続ける。
「次回の個別指導では、昨日の影喰いの件と合わせて、あなたの反応が『影を止める』方向に働くかを安全に確認します。ただし、追跡者という言葉については、私の方でも資料を確認します」
「いいんですか?」
「もちろん。あなたの魔力特性に関わる可能性がありますから」
「ありがとうございます」
「それと」
グラン先生は少し声を柔らかくした。
「ノアに名前をつけたことを、今の段階で後悔する必要はありません」
アリシアの目が熱くなる。
「……はい」
「契約とは、制御のためにも必要なものです。名を与えることは、繋がりを安定させることでもあります。少なくとも従魔契約ではそうです」
ノアが静かに目を細める。
「名前は危険だけではありません。形を与え、互いを認識するためのものでもあります」
アリシアは膝の上で手を握った。
昨夜、ノアが言った。
名前は契約。
繋がり。
重さもある。
でも、なかったことにする方が失礼だと。
グラン先生の言葉は、それを別の形で支えてくれた。
「分かりました」
アリシアはしっかり頷いた。
「ノアの名前を、後悔しません」
グラン先生は微笑んだ。
「それがよいと思います」
研究室を出た後、アリシアは廊下で少し立ち止まった。
胸の中が、朝より少し軽い。
怖さは残っている。
でも、形が変わった。
事実。
伝承。
推測。
それを分ける。
ノアが足元で言う。
「相談してよかったでしょう」
「うん」
「私の名前も、後悔しないってまた言えたわね」
「うん」
「なら、今日の減点は少し減るかもね」
「もう採点始まってるの?」
「常に」
アリシアは少し笑った。
その笑いは、朝より自然だった。
放課後、図書館でリーネとメリルにグラン先生との相談内容を共有した。
事実、伝承、推測に分けること。
追跡者についてはグラン先生も資料を確認してくれること。
ノアの名前を後悔する必要はないと言われたこと。
メリルはほっとしたように息を吐いた。
「よかった……」
リーネも頷く。
「整理として妥当です。今後の記録にも、事実、伝承、推測の欄を追加しましょう」
「欄が増えるね」
メリルが笑う。
「必要です」
リーネは真剣だった。
アリシアも頷く。
「うん。分けた方が、怖くなりすぎないから」
「良い判断です」
リーネが言う。
アリシアは少し照れた。
その時、図書館の奥から、シオンが本を抱えて現れた。
こちらを見ると、軽く眉を上げる。
「また真面目な会議?」
「はい」
リーネが即答する。
「即答されると逆に怖いんだけど」
シオンはため息をつきながら近づいてきた。
アリシアは立ち上がり、小さく頭を下げる。
「昨日の歌、グラン先生にも相談しました」
「へえ。怒られた?」
「怒られませんでした。事実と伝承と推測を分けるようにって」
シオンは少しだけ目を細めた。
「まともな先生だね」
「はい」
「で、僕の歌は伝承?」
「はい。まだ確認中です」
「そりゃそうだ」
シオンは肩をすくめる。
「古い歌を真に受けすぎると、面倒なことになるしね」
「でも、無視もできません」
リーネが言う。
「分かってる。だから昨日話したんだよ」
その言葉に、アリシアは少し驚いた。
シオンは、ちゃんと考えて話してくれたのだ。
ただ面倒そうにしていただけではない。
「ありがとうございます」
アリシアが言うと、シオンは顔をしかめた。
「だから礼は一回でいいって」
「でも、言いたいので」
言ってから、アリシアは自分で少し笑った。
ノアやリーネに言ってきた言葉と同じだ。
シオンは一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。
「ほんと調子狂う」
でも、その声は嫌そうではなかった。
夜、部屋に戻ったアリシアは練習帳を開いた。
『今日は、グラン先生に旅歌のことを相談しました。事実、伝承、推測を分けるように言われました。私は、ノアに名前をつけたせいで追跡者が目覚めたのではないかと怖くなっていました。でも、それはまだ推測です』
ペンが進む。
『名前は危険だけではなく、繋がりを安定させるものでもあると言われました。私はまた、ノアの名前を後悔しないと言えました』
ノアは机の上で静かにそれを見ている。
アリシアは続けた。
『戦闘基礎では、メリルさんと前衛交代を練習しました。難しかったけど、一度だけうまくいきました。誰かと場所を入れ替わるには、相手を信じて、自分も動かなければいけないと分かりました』
書き終えて、アリシアは息を吐く。
「今日の点数は?」
ノアは少し考えた。
「九十六点」
「あ、昨日より少し下がった」
「昨日は大きな歌の続きがあったから加点が多かったのよ」
「そうなんだ……」
「今日は相談できた。整理できた。ノアの名前を後悔しないと言えた。メリルとの前衛交代も悪くなかった」
「減点は?」
「朝、私を心配しすぎて弱いもの扱いした。あと、シオンにまた礼を言って嫌がられた」
「でも、言いたかったから……」
「知ってるわ」
ノアは少しだけ目を細めた。
「そこは、まあ加点でもあるわね」
アリシアは笑った。
窓の外には夜が広がっている。
黒い夜。
その中に、少し星が見える。
影が名を得る時。
その言葉はまだ怖い。
けれど、名前は怖いだけではない。
名前は繋がり。
認識。
支え。
アリシアにとって、ノアはただの影ではない。
ノアだ。
毒舌で、厳しくて、姉のようで、本当は優しくて、いつも隣にいてくれる黒猫。
その名前を、アリシアは後悔しない。
何度でも。
アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。
『名前は、怖いものを呼ぶだけではなく、大切なものを繋ぎとめるものでもある』
ノアがその一文を見て、何も言わずに尻尾を揺らした。
その沈黙は、今日も否定ではなかった。




