第24話 風の少年は笑わない
翌朝、アリシアは練習帳の最後に書いた一文をもう一度見返していた。
『次に影を見つけた時、私は一人で抱え込まない』
昨日の夜、そう書いた。
書いた時は、少しだけ強くなれた気がした。
けれど朝になると、その言葉の重さが改めて胸に沈んでくる。
次に影を見つけた時。
それは、次があるかもしれないということだ。
影喰いの残滓は、自然発生ではないかもしれない。
夜の守り手関連の資料を調べ始めた直後に、図書館の棚で異常が起きた。
偶然かもしれない。
けれど、偶然ではないかもしれない。
もし誰かが、アリシアたちの調査に気づいているなら。
もし誰かが、夜の守り手の記録を探されることを嫌がっているなら。
そう考えるだけで、指先が少し冷たくなる。
「また朝から暗い顔ね」
机の上に座っていたノアが言った。
アリシアは練習帳を閉じる。
「暗い顔……してた?」
「鏡を見なくても分かるわ。空気がしぼんでるもの」
「空気……」
「そう。部屋の隅で埃になりそうな顔」
「そんなに……?」
「ええ」
ノアは尻尾で机を軽く叩いた。
「怖い?」
「怖い」
「でしょうね」
「でも……昨日決めたから。抱え込まないって」
「なら、それを守りなさい」
「うん」
アリシアは鞄に練習帳を入れた。
リーネと決めた調査手順を書いた紙も一緒に入れる。
一人で奥棚へ行かない。
読んだ資料名を記録する。
異常を見つけたら触れない。
司書に報告する。
必要ならグラン先生かセリア先生にも共有する。
ノアの反応も記録する。
手順があると、怖さは少しだけ形になる。
形になると、ほんの少し扱える。
リーネの言葉が、今朝もアリシアを支えていた。
「今日は、リーネさんと図書館に行く約束をしてる」
「ええ」
「メリルさんも、魔法基礎の後に来てくれるって」
「いいじゃない」
「ノアもいる」
「当たり前でしょう」
ノアは当然の顔で言った。
その当たり前が、アリシアにはありがたかった。
扉が叩かれる。
「アリシアちゃん、おはよう」
メリルの声。
アリシアは扉を開けた。
メリルは少し心配そうな顔をしていた。
「おはよう。眠れた?」
「うん……少し途中で起きたけど、大丈夫」
「昨日の話、気になっちゃうよね」
「うん。でも、今日は一人じゃないから」
そう言うと、メリルは柔らかく笑った。
「うん。一緒に気をつけよう」
廊下へ出る。
朝の第一寮は、いつもと同じように動いていた。
生徒たちが食堂へ向かう。
眠そうに欠伸をする者。
課題の紙を見ながら歩く者。
友人と昨夜の訓練の話をする者。
誰もが、自分の日常を持っている。
アリシアの日常も、少しずつその中に混ざり始めている。
でも、その日常の足元には、黒い糸のような不安が残っている。
食堂では、ガレスとミランダが今日も元気だった。
「おはよう!」
「お、おはよう」
「アリシア、昨日の影喰いの話、先生たちも確認してるんだろ?」
ガレスが聞いた。
アリシアは頷く。
「うん。図書館も点検してるし、グラン先生にも報告した」
「なら大丈夫だ!」
「ガレス君、言い切るね」
メリルが少し笑う。
ガレスは真剣に言った。
「大人に報告したなら、一人で抱えてないってことだろ? なら、前より大丈夫だ!」
その言葉に、アリシアは少し目を見開いた。
一人で抱えていない。
それだけで、前より大丈夫。
確かに、そうかもしれない。
問題が消えたわけではない。
影喰いの原因も分かっていない。
でも、一人で抱えていた時よりは、ずっとましだ。
「……うん。そうだね」
アリシアが頷くと、ガレスは満足そうに笑った。
ミランダが身を乗り出す。
「もし怖かったら、私も図書館行くよ!」
「ありがとう。でも、図書館で大声出したら怒られるかも」
「我慢する!」
ミランダは拳を握った。
「たぶん!」
「たぶんなんだ……」
メリルが笑う。
アリシアも小さく笑った。
ノアが椅子の上で呟く。
「ミランダが図書館で静かにできるかは、なかなか興味深い実験ね」
アリシアは吹き出しそうになり、慌ててスープを飲んだ。
朝食の途中、リーネが食堂に入ってきた。
今日も本を持っている。
けれど、いつもより少しだけ周囲を見ているように感じた。
アリシアと目が合う。
リーネは会釈し、珍しくこちらへ歩いてきた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
ガレスが明るく言う。
「リーネ、おはよう!」
「おはようございます、ガレス。ミランダも」
「おはよう!」
ミランダが元気よく返す。
リーネはアリシアへ視線を戻した。
「今日の放課後、予定通り図書館でいいですか」
「はい。メリルさんも来てくれます」
「分かりました。司書にも、共同で資料を見ることを伝えておきます」
「ありがとうございます」
「礼は不要です」
いつもの返し。
だが、今日は少しだけ柔らかい気がした。
リーネは去り際に、ノアを一度見た。
「ノアの反応も記録します」
ノアは普通の猫の顔で瞬きした。
「にゃあ」
ミランダが小声で言う。
「ノア、研究協力猫だね」
アリシアは笑いそうになった。
ノアは明らかに不満そうだったが、猫のふりを崩さなかった。
生活基礎の授業では、セリア先生から学園内の「連絡網」について説明があった。
異常発見時、誰にどう連絡するか。
寮内なら寮監。
授業中なら担当教師。
図書館なら司書。
魔法に関わる異常なら魔法演習棟の担当教師。
判断に迷う時は、最寄りの大人。
アリシアはそれを丁寧にノートへ写した。
これも、昨日からの流れにぴったり合っていた。
セリア先生は教室を見渡しながら言う。
「皆さんはまだ一年生です。自分たちだけで解決しようとする必要はありません」
その言葉に、何人かが少しほっとした表情を浮かべる。
「もちろん、気づくことは大切です。避難することも、周囲に知らせることも、立派な行動です。ただし、危険なものに対して、無理に英雄になろうとしないこと」
無理に英雄になろうとしない。
アリシアはその言葉をノートに書きながら、少し複雑な気持ちになった。
英雄。
自分には遠い言葉だ。
でも、この物語の中心には、聖人たちがいる。
五聖人。
人類を導き、魔族に勝利した英雄たち。
そして、忘れられた六つ目。
夜の守り手。
もし、その存在が本当にいたのなら。
その人は、英雄になろうとしたのだろうか。
それとも、誰にも知られず、ただ守るために動いたのだろうか。
アリシアにはまだ分からない。
けれど、自分が今できるのは、無理に英雄になることではない。
異常を見つけたら、抱え込まずに報告すること。
それが今の一歩だ。
戦闘基礎では、昨日に続いて無言連携の練習だった。
アリシアとメリルは、少しずつ互いの癖を掴み始めていた。
アリシアが左へ動く前に肩を少し落とす。
メリルはそれを見て半歩下がる。
メリルが杖を右へ向ける時、足音が少し軽くなる。
アリシアはそれを背中で感じ、射線を空ける。
まだ失敗は多い。
でも、昨日より迷いが少なかった。
エレナ教官もそれを見て、短く言った。
「形になり始めたな」
アリシアとメリルは同時に顔を上げた。
褒められた。
エレナ教官の褒め言葉はいつも短い。
だからこそ、重みがある。
「ありがとうございます」
アリシアは頭を下げた。
「ただし、油断するな。合ったと思った瞬間が一番危ない」
「はい」
「連携は慣れた頃に崩れる。相手を分かった気になった時、見落とす」
その言葉は、戦闘だけではないように聞こえた。
人間関係も。
調査も。
黒い力も。
分かった気になった時が危ない。
アリシアは木刀を握り直した。
休憩中、カイルが声をかけてきた。
「アリシアとメリル、だいぶ合ってきたな」
「まだぶつかりそうになるけど……」
メリルが言うと、ミーナが笑った。
「私たちよりはましよ。カイルは無言でも突っ込むもの」
「無言関係ないな」
カイルが苦笑する。
アリシアはその会話を聞きながら、少しだけ楽しいと思った。
戦闘基礎の時間が、怖いだけではなくなっている。
体を動かし、失敗し、指摘され、少しできるようになる。
周囲と話す。
笑う。
それは、山で祖父と二人きりだった稽古とは違う。
学園の稽古だった。
昼食後、アリシアは一度部屋へ戻り、図書館用の記録紙を整えた。
リーネが作った手順表。
資料名記録欄。
異常記録欄。
ノア反応欄。
メリルが見たことを書く欄も追加した。
それを見たノアが言う。
「ずいぶん本格的になってきたわね」
「リーネさんが、記録は大事って」
「確かに大事よ」
「ノア反応欄もある」
「勝手に研究対象にしない」
「でも、重要ってリーネさんが」
「減点」
「えっ」
アリシアは少し笑った。
その時、扉が叩かれた。
メリルだった。
「アリシアちゃん、図書館行ける?」
「うん」
「私も記録用の紙、持ってきた」
メリルは少し恥ずかしそうに紙を見せた。
風の魔法基礎で使っているノートを一部切り出したものらしい。
「何を書けばいいか分からないけど、私が見たことを書くね」
「ありがとう」
「一人で抱え込まないって決めたんだもんね」
「うん」
その言葉だけで、アリシアは少し勇気が出た。
二人と一匹で図書館へ向かう。
中庭を抜ける途中、風が吹いた。
メリルの髪が揺れる。
アリシアの黒髪も頬にかかった。
その風は少し冷たく、けれど心地よかった。
「今日の風の基礎、どうだった?」
アリシアが聞くと、メリルは少し嬉しそうに顔を上げた。
「羽根、少し浮かせられたよ」
「すごい」
「でもすぐ落ちた」
「それでも、浮いたんだよね」
「うん」
メリルは笑った。
「アリシアちゃんが、失敗しても見たいって言ってくれたから、落としても前より落ち込まなかった」
「私が?」
「うん。練習してるところも大事って言ってくれたでしょ」
アリシアは少し照れた。
自分の言葉が、誰かの支えになった。
そう思うと、胸がくすぐったい。
「私も……メリルさんにそう言ってもらってるから」
「お互い様だね」
「うん」
図書館に着くと、リーネはすでに受付近くで待っていた。
珍しく本を開いていない。
代わりに、数枚の記録紙を持っている。
「時間通りですね」
「お待たせしました」
メリルが軽く頭を下げる。
リーネは頷く。
「司書には話してあります。今日は東側棚には入らず、西側の地方伝承資料と、水の国の避難記録を確認します」
「はい」
アリシアも頷く。
司書が受付から声をかけた。
「三人とも、何か違和感があればすぐに知らせてください」
「はい」
アリシア、メリル、リーネが同時に返事をした。
ノアだけが足元で小さく鳴く。
「にゃあ」
司書は少しだけ笑った。
「ノアもお願いしますね」
ノアはすました顔で瞬きした。
閲覧席に座る。
アリシアは地方伝承資料。
リーネは水の国の避難記録。
メリルは二人の記録補助として、資料名と時間を書く。
ノアは足元。
いつもと違い、三人で机を囲む形だった。
一人で本を開いた時とは、空気が違う。
少し緊張する。
でも、安心もある。
リーネが言う。
「まず、今日読む資料を確認します」
彼女は紙に資料名を書いた。
『辺境夜祭記録・西部編』
『水国避難民口承集・第二巻』
『山間部の黒布信仰』
「この三冊だけに絞ります。範囲を広げすぎると、記録が雑になります」
「分かりました」
メリルが頷く。
アリシアも続く。
「はい」
「ノアの反応は、アリシアさんが記録してください。私たちには分からないこともあるので」
「うん」
ノアは足元で不満そうに尻尾を動かした。
「完全に記録対象ね」
アリシアは小声で言う。
「ごめんね」
「後で魚を要求するわ」
「うん……」
リーネが顔を上げる。
「何か?」
「あ、ノアが座り直しただけです」
ノアは完璧な猫の顔で丸くなった。
調査は静かに始まった。
アリシアは『山間部の黒布信仰』を開く。
古い祭礼の記録。
五色の布。
黒い布。
祭りの外側に置かれる影の席。
昨日まで見つけた断片と似た内容が多い。
けれど、今日の資料には少し違う記述があった。
『黒布は祭壇に置かず、入口に敷く。これは招くためではなく、入らざるものを留めるためなり』
アリシアは手を止めた。
「留める……」
小さく呟く。
リーネが顔を上げる。
「該当箇所ですか?」
「うん。黒布は、招くためじゃなくて、入らないものを留めるためって」
リーネが紙に書く。
「留める。停止、遮断系と一致」
メリルも記録する。
「黒布、入口、留める……」
アリシアは続きを読む。
『夜を敬わぬ者は、道を失う。夜へ礼を尽くす者は、追う目より隠される』
追う目より隠される。
追跡妨害。
遮断。
隠蔽。
リーネの仮説と、グラン先生の見解にまた近づく。
アリシアの胸の奥が静かに震えた。
怖い。
でも、これは知りたい怖さだ。
メリルが小さく言う。
「アリシアちゃんの力が、影を止めたのと似てるね」
「うん……」
「怖いけど……でも、守るための使い方っぽい」
アリシアはメリルを見る。
メリルの声は優しかった。
無理に明るくしているわけではない。
本当にそう思ってくれている。
「ありがとう」
アリシアが言うと、メリルは微笑んだ。
リーネも静かに続ける。
「伝承だけなら偶然とも言えます。しかし、実際の現象と重なる点が増えています」
「現象……」
「影喰いの停止。黒布の留める役割。追跡から隠す記述。黒い反応の性質を考える材料になります」
リーネの言葉は淡々としている。
でも、その淡々とした分析が、アリシアの不安を少しずつ形にしてくれる。
しばらく調査を続けた。
異常は起きなかった。
ノアも特に強い反応を示さない。
時々耳を動かすだけで、魔力の違和感はないようだった。
メリルは丁寧に記録を取っている。
リーネは必要な箇所を正確に抜き出す。
アリシアは自分が気になった文章を読み上げる。
三人の役割が少しずつでき始めていた。
アリシアが断片に気づく。
リーネが整理する。
メリルが記録し、分かりやすい言葉に置き換える。
ノアが異常を感知する。
小さな調査班。
そう思うと、アリシアは少しだけ胸が温かくなった。
けれど、調査が終わりかけた時。
図書館の入口付近で、軽い足音がした。
アリシアは顔を上げる。
そこにいたのは、緑髪の少年だった。
細身。
ポニーテール。
少し眠そうにも見える目。
風の継承者候補、シオン。
彼は片手に薄い本を持ち、こちらを見ていた。
アリシアの胸が少し緊張する。
これまで、シオンとはほとんど話していない。
属性測定の時に見た、皮肉めいた雰囲気。
人を少し斜めから見るような目。
彼はアリシアたちの机へ近づいてきた。
「ずいぶん真面目な集まりだね」
声は軽い。
けれど、どこか刺がある。
リーネが顔を上げる。
「シオン。何か用ですか」
「いや。図書館に来たら、例の特殊魔力反応さんと、水の本の虫と、風の普通代表が揃ってたから」
メリルが少し困った顔をする。
「風の普通代表って……」
「褒めてるよ。普通は貴重だからね」
褒めているようには聞こえなかった。
アリシアはどう反応していいか分からず、少し俯きかける。
ノアの尻尾が足元で揺れた。
下を向くな。
アリシアは顔を上げる。
シオンはその様子を見て、片眉を上げた。
「へえ。前より顔を上げるようになったんだ」
「……少しだけ」
アリシアは小さく答えた。
シオンは意外そうに目を細める。
「答えた」
「え?」
「いや、逃げるかと思った」
言葉は皮肉っぽい。
けれど、完全な悪意ではなさそうだった。
リーネが冷静に言う。
「用件がないなら、静かにしてください。図書館です」
「はいはい」
シオンは肩をすくめた。
それから、机の上の記録紙に視線を落とす。
「夜の守り手? また面倒そうなものを調べてるね」
アリシアの胸が跳ねる。
リーネの目が細くなる。
「勝手に見ないでください」
「見えたんだよ。隠す気があるなら、もう少し字を小さくしたら?」
シオンは軽く言う。
しかし、その目はさっきより少し真剣だった。
「夜の守り手って、山間部の異伝だろ。影がどうとか、追跡を消すとかいう」
アリシアは驚いた。
「知ってるんですか?」
思わず聞いてしまう。
シオンはアリシアを見る。
「風の国は、伝承の吹き溜まりみたいな場所だからね。旅人、斥候、吟遊詩人、逃亡者。いろんな話が風に乗ってくる」
言い方は皮肉っぽい。
でも、情報は重要だった。
リーネがすぐに聞く。
「具体的な資料名は?」
「資料じゃない。歌」
「歌?」
メリルが反応する。
シオンは本棚に背を預け、軽く口ずさんだ。
「五つの灯りが道を照らす。六つ目の影が足跡を消す。追う者は夜に迷い、守られし者は朝を見る」
アリシアの呼吸が止まった。
六つ目の影。
今まで見つけた資料は、「一つの影」と書いていた。
でも今、シオンは言った。
六つ目の影。
リーネの表情も変わった。
「今、六つ目と言いましたか」
「言ったね」
「その歌はどこで?」
「風の国の古い旅歌。正史じゃないよ。子どもの頃、偏屈な弓爺が歌ってた」
「弓爺……」
「風の神殿の古い訓練師。歴史学者じゃない。だから信憑性は知らない」
シオンは肩をすくめる。
「でも、あんたたちが調べてるものとは近いんじゃない?」
アリシアは胸が高鳴るのを感じた。
六つ目。
初めて、学園内で自分たち以外の口からその言葉が出た。
ノアも足元で静かにシオンを見ている。
警戒している。
でも、ルシアンの時とは違う警戒だった。
シオンはそれに気づいたのか、ノアを見下ろす。
「その猫、目つき悪いね」
ノアが低く鳴いた。
「にゃあ」
シオンは笑った。
「褒めてるよ」
アリシアは少し慌ててノアを見る。
ノアは猫のふりをしているが、明らかに不機嫌だった。
リーネはすぐに記録を取り始める。
「歌詞をもう一度お願いします」
「本気?」
「本気です」
「面倒だな」
「重要です」
シオンはため息をついた。
けれど、もう一度歌詞を言った。
リーネが書き取り、メリルも記録する。
アリシアはただ、胸の奥でその言葉を繰り返した。
五つの灯り。
六つ目の影。
足跡を消す。
朝を見る。
自分の中の夜が、静かに震えた気がした。
シオンは記録が終わると、軽く手を振った。
「じゃ、僕は自分の本を探すから」
「あ、あの」
アリシアは思わず声をかけた。
シオンが振り返る。
「何?」
「教えてくれて……ありがとうございます」
声は小さかった。
でも、言えた。
シオンは少しだけ目を丸くした。
それから、ふいと視線を逸らす。
「別に。隠すほどの話でもないし」
「でも、助かりました」
「……そう」
シオンは少し居心地悪そうに頭をかいた。
「変な子だね、あんた」
「え……」
「皮肉に礼を返すとか、調子狂う」
そう言って、彼は本棚の奥へ歩いていった。
アリシアはしばらくその背中を見ていた。
リーネが静かに言う。
「貴重な情報です」
「うん……」
メリルも頷く。
「六つ目って、はっきり言ってたね」
アリシアは胸元に手を当てた。
怖い。
でも、今の怖さは違う。
真実に近づく怖さ。
そして、少しだけ希望のある怖さ。
部屋に戻った夜、アリシアは練習帳を開いた。
『今日は、リーネさんとメリルさんと一緒に図書館で調査しました。一人ではありませんでした。黒布は、招くためではなく、入らざるものを留めるために敷くと書かれていました。やっぱり、私の黒い力の「止める」性質と繋がるかもしれません』
手が震える。
けれど、続きを書く。
『シオンさんが、風の国の古い旅歌を教えてくれました。「五つの灯りが道を照らす。六つ目の影が足跡を消す。追う者は夜に迷い、守られし者は朝を見る」。初めて、六つ目という言葉を他の人の口から聞きました』
アリシアはペンを置き、深く息を吐いた。
ノアが机の上へ飛び乗る。
「シオン、どう思った?」
アリシアは少し考える。
「皮肉っぽいけど……悪い人ではなさそう」
「今のところはね」
「ノアは?」
「ルシアンよりは分かりやすいわ」
「それは……いいこと?」
「ええ。皮肉を言う人間は面倒だけど、何を隠しているか分からない笑顔よりは扱いやすい」
ルシアンの白い微笑みを思い出す。
アリシアは少し頷いた。
「シオンさんの歌……本当かな」
「断片の一つよ」
「でも、六つ目って」
「ええ」
ノアは静かに言った。
「少し近づいたわね」
アリシアの胸が震えた。
少し近づいた。
忘れられた六つ目へ。
夜の守り手へ。
自分が選ばれたものの意味へ。
「今日の点数は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。
「九十六点」
「高い……!」
「生活基礎、戦闘基礎、図書館調査、シオンへの礼。どれも悪くなかったわ」
「減点は?」
「シオンが六つ目と言った時、息を止めすぎ。あと、ノア反応欄に私の機嫌を書こうとした」
「だって、記録が……」
「減点」
「うぅ……」
アリシアは困ったように笑った。
でも、胸の奥は温かかった。
九十六点。
そして、六つ目の影。
夜は窓の外に広がっている。
今日の夜は、昨日より少し深く見えた。
怖い。
でも、その奥に何かがある。
アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。
『六つ目の影は、足跡を消して、誰かを朝へ連れていくのかもしれません』
ノアはその一文を見て、何も言わなかった。
ただ静かに目を細めた。
その沈黙は、否定ではなかった。
アリシアはそう感じた。




