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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第23話 残された黒い糸


 朝の食堂は、いつもより少しだけ落ち着いて見えた。


 けれど、それはアリシアの心が昨日より静かだったからかもしれない。


 パンをちぎる手は、もう粉々にはしていなかった。


 スープも、ちゃんと温かいと分かる。


 食堂のざわめきも、以前のように全部が自分へ向いているようには感じなかった。


 もちろん、視線が消えたわけではない。


 特殊魔力反応。


 個別指導。


 図書館の影喰い。


 アリシアの周囲には、まだ人の興味を引く言葉がいくつもある。


 けれど、それでも。


 アリシアは食堂の壁際の席で、メリルたちと一緒に朝食を食べていた。


 それが、今の自分にとって、とても大きなことなのだと思った。


「アリシア、今日はパンが無事だな!」


 ガレスが言った。


「無事……?」


 アリシアが自分の皿を見ると、確かにパンは普通の大きさでちぎられていた。


 細かすぎない。


 粉にもなっていない。


 ミランダが嬉しそうに笑う。


「成長だね!」


「パンで成長を測られてる……」


 メリルがくすりと笑った。


 アリシアは少し恥ずかしくなったが、嫌ではなかった。


「今日は……少し落ち着いてるから」


「よかった」


 メリルが優しく言う。


「昨日、グラン先生にちゃんと報告できたからかな」


「うん……怒られなかったし、良い判断だったって言ってもらえたから」


 ガレスは大きく頷いた。


「だから言っただろ! 報告できたなら守ったってことだ!」


「うん……」


 アリシアは小さく頷いた。


 守った。


 その言葉はまだ少し大きく感じる。


 けれど、前ほど全力で否定したいとは思わなかった。


 昨日、ノアにも言われた。


 図書館の本を守った、と。


 大きな事件ではない。


 英雄らしい戦いでもない。


 けれど、確かに小さな異常に気づき、触れずに報告し、被害を防いだ。


 それは、アリシアにとって初めての「黒い力で何かを守ったかもしれない」出来事だった。


 ミランダが身を乗り出す。


「影喰いって、まだいるのかな?」


「昨日、司書さんが点検するって言ってたから……たぶん、大丈夫だと思う」


 アリシアは答えた。


 けれど、自分で言いながら少し不安になった。


 たぶん。


 まだ、完全に終わったとは聞いていない。


 東側歴史棚は点検中だった。


 影喰いの残滓は札で封じられた。


 でも、なぜそこに発生したのかは分からない。


 ノアが椅子の上で魚の小皿を見下ろしながら、低く言う。


「終わったと決めるのは早いわね」


 アリシアは少しだけ目を伏せた。


「……うん」


 メリルが心配そうに見る。


「アリシアちゃん?」


「あ、ううん。ノアが、魚を見てて」


 ノアは自然に鳴いた。


「にゃあ」


 ミランダが笑顔になる。


「ノア、今日もかわいい!」


 ノアはそっぽを向いた。


 その仕草が余計に猫らしく見えて、アリシアは内心で少しだけ笑った。


 食事の途中、リーネが食堂に入ってきた。


 彼女は今日も本を持っている。


 アリシアと視線が合うと、短く会釈した。


 アリシアも会釈を返す。


 昨日より少し自然にできた。


 メリルが小さく言う。


「リーネさんと、本当に少し仲良くなってきたね」


「仲良く……なのかな」


「少なくとも、共同研究なんだよね?」


 メリルの声にからかいはない。


 でも、アリシアは顔が少し熱くなる。


「うん……リーネさんが、そう言ってくれた」


「いいな。調べ物の仲間がいるの」


「メリルさんも、一緒だよ」


 自然に出た言葉だった。


 言ってから、アリシアは少し驚く。


 メリルも一瞬目を丸くした。


 そして、ふわりと笑った。


「ありがとう。じゃあ私も、できるところで手伝うね」


「うん」


 胸の奥が温かくなる。


 リーネは資料を探す仲間。


 メリルは隣で支えてくれる友達。


 ノアは、いつも厳しく背中を蹴ってくれる姉のような存在。


 ガレスとミランダは、明るく前を照らしてくれる人たち。


 いつの間にか、自分の周りにはいくつもの声があった。


 生活基礎では、今日は「小さな異常への対応」について学んだ。


 セリア先生が黒板に書いた文字を見た瞬間、アリシアは背筋を伸ばした。


『異常を見つけた時』


『触れない』


『離れる』


『報告する』


『記録する』


 昨日と一昨日、自分がまさに経験したことだった。


 セリア先生はいつもの穏やかな声で話す。


「学園には、多くの魔導具、古い資料、訓練設備があります。安全管理はしていますが、時に小さな異常が起こることがあります」


 生徒たちは真剣に聞いている。


 図書館の点検の話を聞いた者も多いのだろう。


「大切なのは、興味本位で触らないことです。珍しいものを見つけると、近づきたくなるかもしれません。でも、危険かどうか分からないものに触れる前に、大人へ報告してください」


 アリシアの胸に、昨日の影の糸が浮かぶ。


 するりと動いた黒い糸。


 それに触れずに済んだこと。


 司書に報告できたこと。


 セリア先生の言葉で、自分の行動が改めて整理されていく。


「異常を見つけた時、怖いと感じるのは自然なことです。怖いから逃げるだけではなく、怖いから慎重になる。それが大切です」


 怖いから慎重になる。


 その言葉を、アリシアはノートに丁寧に書いた。


 怖いことは、悪いことだけではないのかもしれない。


 怖がりだから気づけるものもある。


 怖がりだから触れずに済むこともある。


 怖がりだから、報告しようと思えることもある。


 アリシアはほんの少しだけ、自分の弱さを別の角度から見られた気がした。


 授業の後半では、模擬報告の練習があった。


 机の上に教師が用意した小さな絵札が置かれる。


 割れた魔導灯。


 倒れた薬瓶。


 見知らぬ魔法陣。


 落ちている古い本。


 それぞれについて、見つけた時にどう報告するかを班で考える。


 アリシアはメリル、トマ、ミーナと同じ班だった。


 絵札の中に「落ちている古い本」が出た時、全員の視線が一瞬アリシアに向いた。


 アリシアは少しだけ肩を縮めた。


 けれど、トマがすぐに言った。


「これ、アリシアに全部任せるのは違うよな」


 ミーナも頷く。


「そうね。経験者だから聞きたいけど、押しつけるのは違う」


 メリルがアリシアを見る。


「話せる範囲で大丈夫だよ」


 アリシアは三人を見た。


 その配慮が、ありがたかった。


 怖いことを話す時、全部を求められないだけで、ずいぶん息がしやすい。


「うん……ありがとう」


 アリシアは絵札を見ながら、ゆっくり話した。


「まず、近づきすぎない。本が落ちているだけに見えても、古い資料なら魔力が残っているかもしれないから」


 トマがメモを取る。


「近づきすぎない」


「それから……周りを見る。影とか、匂いとか、魔導灯の光が変じゃないか」


 ミーナが少し驚く。


「匂いも?」


「ノアは魔力の匂いが薄いって気づいたから……私には分からなかったけど」


 ノアは机の下の籠で静かに座っている。


 メリルが頷く。


「従魔が反応した時も報告した方がいいね」


「うん。あと、触らずに司書さんか先生を呼ぶ」


 トマが言う。


「報告する時は、何がどこにあったか。触ったかどうか。周りに誰がいたか」


「うん……それでいいと思う」


 アリシアは話し終えた後、少し息を吐いた。


 ちゃんと話せた。


 怖かったことを、経験として伝えられた。


 セリア先生が班を回り、アリシアたちのまとめを見る。


「とても良いですね。経験をもとにしていますが、一般的な対応として整理できています」


 アリシアは少し顔を赤くした。


「ありがとうございます」


 セリア先生は優しく続けた。


「怖かった経験を、次の備えに変えられるのは大切なことです」


 その言葉に、アリシアの胸がじんわり温かくなる。


 怖かった経験。


 それを、ただ怖いままにしない。


 次の備えにする。


 戦闘基礎では、連携練習がさらに一段難しくなった。


 エレナ教官は木剣を肩に担ぎ、三班全員を見渡す。


「今日は、声を出せない状況を想定する」


 生徒たちがざわついた。


「昨日までは、右、風、下がる、止まれ、と声で伝えた。だが実戦では、声が届かないこともある。声を出せば敵に読まれることもある。だから、目線と位置で伝える練習をする」


 アリシアは思わずメリルを見た。


 目線。


 位置。


 声なしの連携。


 難しそうだった。


 メリルも少し緊張した顔で頷く。


 エレナ教官は続ける。


「最初から完璧にやろうとするな。今日は失敗していい。むしろ失敗して、自分たちが何を見ていないか知れ」


 訓練が始まった。


 アリシアとメリルはまた組む。


 相手役の生徒がゆっくり踏み込む。


 アリシアが前。


 メリルが後ろ。


 声は使えない。


 アリシアは木刀を構えながら、メリルの位置を感じようとした。


 足音。


 杖の微かな擦れる音。


 呼吸。


 背中にある気配。


 けれど、見えない相手の動きを感じ取るのは難しい。


 相手役が右から来る。


 アリシアは左へずれようとした。


 しかし、その左にはメリルが動こうとしていた。


 ぶつかりそうになる。


「止め」


 エレナ教官の声が飛んだ。


 二人は止まる。


 メリルが慌てて言う。


「ごめん、アリシアちゃん」


「ううん、私も……」


 エレナ教官が近づく。


「謝罪は後。今の原因は?」


 アリシアは少し考える。


「私が、メリルさんの位置を見ずに左へ動きました」


 メリルも言う。


「私も、アリシアちゃんが左へ逃げる可能性を考えていませんでした」


「その通り。ではどうする」


 メリルは少し考え、杖を握り直す。


「私が、先に半歩下がって位置を空けます」


 アリシアも言う。


「私は……動く前に、肩だけ少し向けて、どっちへ行くか分かるようにします」


 エレナ教官は短く頷いた。


「試せ」


 もう一度。


 相手役が踏み込む。


 アリシアは左へ行きたい。


 だが、すぐには動かない。


 左肩をわずかに下げる。


 メリルがそれを見て、半歩下がる。


 空間ができる。


 アリシアは左へずれ、木刀を低く置く。


 メリルの杖が後ろから伸びる。


「止め」


 エレナ教官の声。


「今のはましだ」


 まし。


 褒め言葉としては小さい。


 でも、アリシアとメリルは顔を見合わせ、少し笑った。


 ましになった。


 昨日より。


 一回目より。


 少しずつ。


 訓練は何度も繰り返された。


 声なしでは失敗も多かった。


 アリシアが動きを小さくしすぎて、メリルに伝わらない。


 メリルが下がりすぎて、アリシアが孤立する。


 相手役のフェイントに二人とも反応が遅れる。


 それでも、少しずつ合う瞬間が増えた。


 アリシアは、背中でメリルの呼吸を感じることを覚え始めた。


 メリルも、アリシアの肩や足の向きから次の動きを読むようになった。


 言葉がない分、相手を見る。


 相手を感じる。


 それは難しく、同時に少し嬉しい訓練だった。


 休憩中、メリルが額の汗を拭きながら言う。


「声がないと、急に難しいね」


「うん……でも、少し分かった気がする」


「何が?」


「メリルさんが後ろにいる時、足音が少し軽い。下がる時は、杖の先が少し床を擦る」


 メリルが目を丸くした。


「そんなところまで聞いてたの?」


「あ……うん。怖い時ほど音を聞いちゃうから」


 アリシアは言ってから、少しだけ笑った。


「でも、今日は役に立ったかも」


 メリルは嬉しそうに頷く。


「うん。すごく役に立ってる」


 アリシアは胸が温かくなる。


 怖がりな自分。


 音に敏感な自分。


 それが、少しだけ誰かと合わせる力になった。


 授業後、エレナ教官がアリシアとメリルを呼んだ。


「二人とも」


「はい」


「連携の形はまだ粗い。だが、観察の相性は悪くない」


 アリシアは驚いた。


「相性……」


「アリシアは後ろの気配を拾う。メリルはそれに合わせて位置を変えられる。声を使えばまだ遅いが、無言の方が余計な迷いが減る時がある」


 メリルも驚いている。


「私たち、無言の方がいいんですか?」


「今は声も必要だ。だが、いずれ短い合図や視線だけで動けるようになる可能性はある」


 エレナ教官は淡々と言った。


「覚えておけ。連携は、似た者同士が組めばいいわけではない。足りないものを補い合えるかだ」


 足りないものを補い合う。


 アリシアはその言葉を胸に刻んだ。


 昼食では、ガレスとミランダが一班の訓練で派手に失敗した話をしていた。


「俺が前に出たら、ミランダも前に出た!」


「だってガレスが楽しそうだったから!」


「それで二人とも先生に怒られた!」


「後ろが空っぽだって!」


 メリルが笑いをこらえている。


 アリシアも少し笑った。


「でも、二人が前に出たら……すごく強そう」


 アリシアが言うと、ガレスとミランダはぱっと顔を上げた。


「だろ!」


「でしょ!」


 メリルが慌てて言う。


「でも後ろも大事だよ」


「分かってる!」


「分かった!」


 二人は本当に分かっているのか少し怪しかった。


 けれど、その明るさはやはり心強い。


 午後、アリシアは図書館へ向かった。


 東側歴史棚の点検札はまだ出ていたが、司書がアリシアを見つけて手招きした。


「アリシアさん。少しよろしいですか」


「はい」


 アリシアは受付へ向かう。


 ノアも足元で耳を立てていた。


 司書は声を落とす。


「昨日の影喰いの残滓について、点検結果が出ました」


 アリシアの胸が少し緊張する。


「どう……でしたか?」


「資料の損傷は軽微です。魔導灯への影響もありません」


 まず安心する。


 しかし、司書の表情はまだ硬かった。


「ただし、少し気になる点がありました」


「気になる点……」


「影喰いは通常、古い魔力溜まりや長期間放置された資料棚に発生します。ですが、あの棚は定期点検済みで、魔力溜まりも確認されていませんでした」


 アリシアは言葉を失った。


「じゃあ……自然に出たんじゃない?」


「断定はできません。ただ、外から何らかの影響を受けた可能性があります」


 外から。


 誰かが?


 何かが?


 アリシアの背中が冷たくなる。


 ノアの目が細くなった。


 司書はさらに続ける。


「また、落ちていた本は、昨日あなたが読んでいた地方伝承資料の近くにありました」


「私が……読んでいた本の?」


「はい。ただし、あなたを疑っているわけではありません。むしろ、あなたが気づいたから被害がありませんでした」


「あ……はい」


「ですが、今後しばらく、夜の守り手関連の資料を読む際は、できるだけ一人にならないようにしてください」


 アリシアの胸がぎゅっとなる。


 夜の守り手。


 影喰い。


 外からの影響。


 それらが繋がっているのかもしれない。


「分かりました……」


「リーネさんにも、必要なら伝えてください。あなたたちは同じ資料を見ているようですから」


「はい」


 司書は静かに言った。


「怖がらせるつもりはありません。ただ、慎重に」


 慎重に。


 その言葉は、最近何度も聞いている。


 未知のものと向き合う時。


 黒い力を扱う時。


 人間関係で間合いを取る時。


 そして、歴史の断片を調べる時。


 アリシアは頷いた。


「ありがとうございます」


 司書のもとを離れると、アリシアはすぐにリーネを探した。


 リーネはいつもの閲覧席にいた。


 青髪を耳にかけ、分厚い資料を読んでいる。


 アリシアは少し迷ったが、近づいた。


「リーネさん」


 リーネが顔を上げる。


「アリシアさん。どうしました?」


「あの……昨日の影喰いのことで、司書さんから聞いたことがあって」


 リーネの表情が真剣になる。


「聞きます」


 短い返事。


 アリシアは司書から聞いた内容を話した。


 資料棚は定期点検済みだったこと。


 自然発生とは言い切れないこと。


 外からの影響の可能性。


 夜の守り手関連の資料を読む時は、一人にならないようにと言われたこと。


 リーネは黙って聞いた。


 途中で遮らない。


 最後まで聞いてから、眼鏡を押し上げる。


「偶然とは考えにくいですね」


 静かな声だった。


 アリシアの胸が重くなる。


「やっぱり……?」


「断定はしません。ただ、夜の守り手の資料を調べ始めた直後に、関連棚で影喰いの残滓。しかも自然発生の条件が薄い。無視するには不自然です」


「誰かが……何かしたってこと?」


「可能性の一つです」


 リーネは机の上に紙を出した。


「今後の調査方法を変えましょう」


「調査方法……」


「一人で資料を読まない。読んだ資料名と時間を記録する。異常があればすぐ司書に報告する。資料を机に残したまま離れない」


 リーネはすらすらと書く。


 アリシアは少し圧倒された。


「すごい……」


「安全管理です」


「リーネさん、怖くないんですか?」


 思わず聞いてしまった。


 リーネはペンを止めた。


 少し考えてから言う。


「怖くないわけではありません」


 意外な答えだった。


「でも、怖いからこそ手順を決めます」


 セリア先生の言葉と似ている。


 怖いから慎重になる。


 リーネは続けた。


「恐怖は判断を乱します。だから、恐怖を感じる前に行動手順を決めておく。そうすれば、怖くても動けます」


 アリシアは胸が震えた。


 リーネも怖い。


 でも、怖さに飲まれないために手順を作る。


 それがリーネの強さなのだ。


「私も……手順があると、少し動きやすいです」


「なら作りましょう」


「うん」


 アリシアは頷いた。


 共同研究の最初の約束が、そこで決まった。


 夜の守り手関連資料を読む時の約束。


 一人で奥棚へ行かない。


 読んだ資料名を記録する。


 異常を見つけたら触れない。


 司書に報告する。


 必要ならグラン先生かセリア先生にも共有する。


 ノアの反応も記録する。


 最後の項目を書いた時、リーネがノアを見た。


「ノアの反応は重要です」


 ノアは普通の猫の顔で座っている。


 アリシアは少し冷や汗をかく。


「ノアは……勘がいいから」


「従魔の感覚は人間と違います。記録価値があります」


「うん……」


 ノアは小さく鳴いた。


「にゃあ」


 リーネは真剣に頷いた。


「協力的ですね」


 アリシアは笑いそうになった。


 その日の夕方、アリシアは部屋に戻り、練習帳を開いた。


『今日は、生活基礎で異常への対応を学びました。昨日のことを少し話せました。怖かった経験を、次の備えに変えられると言われました』


 書きながら、今日の流れを思い出す。


『戦闘基礎では、メリルさんと声を出さない連携を練習しました。何度も失敗しました。でも、最後は少し合いました。エレナ先生に、観察の相性は悪くないと言われました』


 胸が少し温かくなる。


 そして、図書館のこと。


『図書館の影喰いは、自然発生ではない可能性があるそうです。夜の守り手関連の資料を読む時は、一人にならないように言われました。怖いです。でも、リーネさんと手順を決めました。怖いからこそ、手順を決める。リーネさんはそう言いました』


 ペンが止まる。


 怖い。


 確かに怖い。


 でも、一人ではない。


 ノアがいる。


 メリルがいる。


 リーネがいる。


 ガレスとミランダもいる。


 セリア先生、グラン先生、エレナ教官、司書。


 自分が報告すれば、受け止めてくれる大人もいる。


 アリシアは続きを書いた。


『怖いことが増えました。でも、怖い時にどうするかも、少しずつ増えています』


 書き終えると、ノアが机の上に飛び乗った。


「今日は?」


「点数?」


「ええ」


 ノアは少し考えた。


「九十四点」


「あ、昨日より下がった」


「昨日が高すぎただけよ」


「そっか……」


「生活基礎で話せた。連携も進んだ。司書の話をリーネに伝えた。手順を決めた。かなり良いわ」


「減点は?」


「司書の話を聞いた時、顔が真っ白。あと、リーネに怖くないのか聞くまでに迷いすぎ」


「うぅ……」


「でも、聞けた」


 ノアは尻尾を揺らした。


「それは加点ね」


 アリシアは少し笑った。


 夜が部屋に降りてくる。


 窓の外には、学園の魔導灯が点々と灯っていた。


 その光の間に、黒い影が落ちている。


 以前なら、影はただ怖いだけだったかもしれない。


 でも今は違う。


 影には、何かが隠れている。


 危険も。


 秘密も。


 そして、守るための力も。


 アリシアは胸元の守り袋に触れた。


 夜の守り手。


 影喰い。


 黒い糸。


 自然発生ではないかもしれない異常。


 物語は、少しずつ日常の外側へ広がっている。


 怖い。


 でも、逃げない。


 ひとりではないから。


 アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。


『次に影を見つけた時、私は一人で抱え込まない』


 ノアがその文字を見て、静かに頷いた。


「それでいいわ」


 アリシアは小さく頷き返した。


 夜は静かだった。


 けれど、その静けさの奥で、何かが少しずつ動き始めている気がした。

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