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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第22話 報告する勇気


 翌朝、アリシアは練習帳を鞄に入れるだけで、少し手が震えた。


 昨日の記録。


 図書館の歴史棚の奥で見つけた、黒い糸のような影。


 司書が「影喰いの残滓に似ている」と言ったもの。


 そして、その影の糸が動いた時、アリシアの足元の影が少し濃くなり、糸を止めたこと。


 そのすべてを、練習帳に書いた。


 隠さないために。


 グラン先生に報告するために。


 でも、書くことと、実際に見せることは違った。


 机の前に立ったまま、アリシアは鞄の口を閉じられずにいた。


「また固まってる」


 寝台の上からノアが言った。


「うん……」


「返事だけ素直ね」


「だって……」


「勝手に黒い魔力を使ったと思われるのが怖い?」


 言い当てられて、アリシアは肩を揺らした。


 ノアは寝台から降り、机の上へ飛び乗る。


 金色の瞳が、アリシアをまっすぐ見た。


「昨日も言ったけど、あれは練習じゃないわ。異常への反応よ」


「でも……グラン先生、一人で試しちゃだめって言ってた」


「試したの?」


「……試してない」


「なら、そう報告しなさい」


 ノアの声は厳しい。


 でも、その厳しさはアリシアを責めるものではなかった。


「怖かった。影が動いた。止まってほしいと思った。足元の影が反応した。司書へ報告した。全部、事実でしょう」


「うん」


「感情は?」


「怖かった。怒られるかもしれないって不安。少しだけ、役に立てたかもしれないって思った」


「それも書いた?」


「書いた」


「なら、それを見せなさい」


 アリシアは練習帳の入った鞄を見る。


 胸の奥にある夜の感覚は、今日は静かだった。


 暴れていない。


 でも、昨日の影の糸を思い出すと、少しだけざわめく。


 黒い力で、黒い影を止めた。


 それは偶然だったのか。


 ノアが言ったように、影を掴んだのではなく、止まってほしいという願いに足元の影が反応しただけなのか。


 グラン先生はどう判断するのだろう。


 危険だと言われたら。


 今後、図書館に行くなと言われたら。


 黒い力を使ったことを責められたら。


 考えれば考えるほど、鞄の口を閉じる手が重くなる。


「アリシア」


 ノアが少しだけ声を低くした。


「報告しない方が、もっと危険よ」


 その言葉は、胸にまっすぐ落ちた。


 隠したら。


 もし次に同じことが起きても、グラン先生は知らないままになる。


 司書が記録しているかもしれないが、自分の影が反応したことは、アリシアが言わなければ分からない。


 知らないまま扱うことが危険。


 教務主任の言葉。


 グラン先生の言葉。


 ノアの言葉。


 全部が同じ場所へ繋がっていた。


「……報告する」


 アリシアは鞄の口を閉じた。


「怖いけど」


「怖くてもいいわ」


「うん」


「でも、背筋」


「あっ」


 アリシアは慌てて背筋を伸ばした。


 ノアは満足げに尻尾を揺らす。


「よろしい」


 扉が叩かれた。


「アリシアちゃん、おはよう」


 メリルの声だった。


 アリシアは扉を開ける。


 メリルはいつものように制服姿で、杖を持っていた。


 けれど、アリシアの顔を見ると、すぐに心配そうに眉を下げる。


「大丈夫? 顔、少し硬いよ」


「うん……昨日のことを、グラン先生に報告しようと思って」


「影喰いのこと?」


「うん。あと……私の影が反応したこと」


 メリルは一瞬だけ驚いた顔をした。


 昨日、アリシアは夕食後に図書館で起きたことを簡単に話していた。


 影喰いの残滓を見つけたこと。


 司書に報告したこと。


 ただ、自分の影が反応したことについては、詳しく話せていなかった。


 メリルは少し考えてから、静かに言った。


「報告するの、怖いよね」


「うん」


「でも……ちゃんと話した方がいいって、アリシアちゃんが思ったんだよね」


「うん」


「じゃあ、それは良い判断だと思う」


 良い判断。


 昨日、司書にも言われた言葉。


 ノアにも近いことを言われた。


 メリルにも言われて、アリシアの胸が少し温かくなる。


「ありがとう」


「終わったら、また食堂で聞くね。話せる範囲で」


「うん」


 二人と一匹で食堂へ向かう。


 廊下では、いつもの朝のざわめきがあった。


 特殊魔力反応の噂は、少しずつ落ち着いてきている。


 視線はまだある。


 でも、数日前ほど鋭くない。


 代わりに、戦闘基礎の話や、生活基礎の班活動、魔法基礎の課題の話が増えていた。


 学園の日常は動いていく。


 アリシアの不安だけで止まってはくれない。


 それが少し寂しく、少し救いでもあった。


 食堂では、ガレスとミランダが相変わらず元気だった。


「おはよう!」


「お、おはよう」


「アリシア、昨日図書館で何か見つけたんだって?」


 ミランダが興味津々に聞いてきた。


 アリシアは少し迷い、簡単に答える。


「影喰いの残滓……かもしれないものを」


「影喰い?」


 ガレスが首を傾げる。


 メリルが説明する。


「古い本とか魔力の残る場所に出る小さな魔性なんだって。司書さんが封じたらしいよ」


「魔性!?」


 ガレスの目が輝いた。


 怖がるより先に興味が出るらしい。


「戦ったのか?」


「戦ってないよ……司書さんに報告しただけ」


「報告できたのがすごいよ!」


 ミランダが言う。


「私なら、びっくりして大声出しちゃうかも!」


「大声を出したら図書館で怒られるな!」


 ガレスが真剣に言う。


 メリルが苦笑する。


「そこなんだ」


 アリシアは少し笑った。


 ガレスが腕を組む。


「でも、異常を見つけて報告したなら、アリシアが図書館を守ったってことだな!」


 その言葉に、アリシアの胸が跳ねた。


「守った……のかな」


「守っただろ! 放っておいたら本が危なかったんだろ?」


「たぶん……」


「なら守った!」


 ガレスの理屈は単純だった。


 でも、単純だからこそ、胸に届く。


 ミランダも力強く頷く。


「本を守った! すごい!」


 アリシアは顔を赤くした。


「そんな、大きなことじゃ……」


 言いかけたところで、ノアの視線を感じる。


 否定しすぎない。


 アリシアは少し息を吸い直した。


「……でも、報告できたのは、よかったと思う」


 メリルが嬉しそうに笑う。


「うん」


 ガレスも満足げに頷いた。


「それでいい!」


 朝食後、アリシアはグラン先生の研究室へ向かった。


 魔法個別指導の日ではない。


 けれど、報告は早い方がいい。


 昨日のうちに司書からも報告が行っているかもしれないが、自分の口から話す必要があると思った。


 グラン先生の研究室は、魔法演習棟の二階にあった。


 第二測定室の近く。


 廊下には魔導具の保管庫が並び、壁には小さな魔法陣の注意書きが貼られている。


 アリシアは扉の前で足を止めた。


 呼吸。


 一回。


 ノアが足元で言う。


「一回で十分」


「うん……」


 アリシアは扉を叩いた。


「はい」


 中からグラン先生の声がする。


「アリシアです。報告したいことがあって……」


「どうぞ」


 扉を開けると、研究室には本と魔導具が整然と並んでいた。


 机の上には透明な水晶片、記録用紙、銀の針のような測定具。


 壁際の棚には、小瓶や魔力石が分類されて置かれている。


 乱雑ではない。


 むしろ、几帳面すぎるほど整っていた。


 グラン先生は机から顔を上げ、アリシアを見る。


「おはようございます。急ぎの報告ですか?」


「はい……昨日、図書館で」


「影喰いの残滓の件ですね」


 すでに知っていた。


 アリシアは少し肩を揺らす。


 グラン先生は椅子を示した。


「司書から報告を受けています。まず座ってください」


「はい」


 アリシアは椅子に座る。


 ノアは足元。


 グラン先生はノアにも待機用の小さな布を用意してくれた。


 ノアはそこへ移動し、静かに座る。


「司書からは、あなたが異常影反応を発見し、接触せず報告したと聞いています」


「はい……」


「良い判断でした」


 その言葉に、アリシアは少しだけ息を吐いた。


 まず怒られなかった。


 でも、まだ本題がある。


「あの……それだけじゃなくて」


 アリシアは鞄から練習帳を出した。


 手が少し震える。


「影の糸が動いた時に……私の足元の影が少し濃くなって、糸が止まりました」


 言った。


 言ってしまった。


 グラン先生は表情を変えなかった。


 ただ、筆を取った。


「詳しく聞かせてください」


「はい」


 アリシアは練習帳を開き、昨日書いた記録を見せた。


 グラン先生はそれを丁寧に読む。


 文字を追う目は静かだった。


 責めるでもなく、驚きすぎるでもなく、観察する目。


 アリシアはその間、膝の上で手を握っていた。


 ノアは布の上でじっとグラン先生を見ている。


 やがてグラン先生は顔を上げた。


「よく記録できています。時間、場所、現象、感情、行動が分かれています」


「セリア先生に……事実と感情を分けるように習ったので」


「とても役に立っていますね」


 褒められた。


 アリシアの胸が少しだけ軽くなる。


 グラン先生は続ける。


「確認します。あなたは影を止めようとして、意識的に魔力を出しましたか?」


 アリシアは首を横に振る。


「いいえ。黒い魔力を使おうとは思っていません。ただ……影の糸が動いて、逃げちゃうと思って……止まってほしい、と」


「その時、自分の中の夜の感覚へ意識を向けましたか?」


「少し……見ようとしました。昨日の指導みたいに、無理に出さないで、感じるだけのつもりで」


「なるほど」


 グラン先生は記録する。


「恐怖は?」


「ありました。怖かったです。でも、前みたいに頭が真っ白になる感じではなくて……」


「呼吸は?」


「一瞬止めました。でも、その後、怖いって口に出しました」


「よい対応です」


 アリシアは少し驚いた。


「いいんですか?」


「はい。恐怖を自覚できたこと、口に出したことは重要です。無自覚に魔力が暴れるより、ずっとよい」


 グラン先生は練習帳を返した。


「結論から言うと、今回の反応は注意すべきですが、あなたを責めるものではありません」


 アリシアの肩から力が抜けそうになった。


「本当ですか……?」


「本当です。ただし、今後同じような異常を見つけた場合、まず周囲の大人に報告してください。今回のように動き始めた場合は、距離を取り、無理に止めようとしないこと」


「はい」


「あなたの影が反応したことは、重要な情報です」


「重要……」


 怖い言葉にも聞こえる。


 でも、グラン先生の声は落ち着いていた。


「あなたの特殊魔力反応には、単純な攻撃性ではなく、干渉、停止、遮断に近い性質がある可能性があります」


 アリシアは目を瞬かせた。


「干渉……停止……遮断」


「はい。まだ仮説です」


 グラン先生は机の上に三つの小さな石を置いた。


「火属性なら燃焼、水属性なら流動や冷却、風属性なら移動や切断、土属性なら固定や防御、光属性なら治癒や浄化。もちろん一例ですが、属性には傾向があります」


 アリシアは真剣に聞く。


「あなたの黒い反応は、前回の測定で五属性石と共鳴しました。そして昨日、影喰いの残滓の動きを止めた」


「はい……」


「闇、あるいは未分類の魔力が、何を得意とするのかは分かりません。しかし少なくとも、昨日の現象は『壊す』より『止める』に近い」


 壊すより、止める。


 その言葉が、胸に深く落ちた。


 黒い力は、何かを破壊するものだと思っていた。


 怖がられるもの。


 不吉なもの。


 魔族と結びつけられるもの。


 けれど、昨日の力は影を止めた。


 図書館の本を守ったかもしれない。


「私の力……止める力、なんですか?」


「まだ断定できません」


 グラン先生は慎重に言った。


「ですが、その可能性を考えて訓練する価値はあります」


「訓練……」


「次回の個別指導では、魔力の微弱反応と、対象への干渉を安全な範囲で確認します。もちろん、非常に小さな実験です」


 怖い。


 でも、知りたい。


 アリシアは練習帳を握る。


「分かりました」


 グラン先生は少しだけ表情を柔らかくした。


「あなたは昨日、三つ良い判断をしました」


「三つ……?」


「一つ、異常に気づいた。二つ、直接触れなかった。三つ、隠さず報告した」


 アリシアは息を止めそうになる。


「魔法の訓練では、力そのものより判断が大事な場面があります。昨日のあなたの判断は、良かった」


 良かった。


 また、そう言われた。


 胸が熱くなる。


 怒られるかもしれないと思っていた。


 危険だと言われるかもしれないと思っていた。


 もちろん注意はされた。


 でも、判断を認めてもらえた。


「……ありがとうございます」


 声が少し震えた。


 グラン先生は静かに頷く。


「それと、図書館での件は教務主任にも共有します。司書側の記録と合わせて確認が入るでしょう。あなたが責められることはありませんが、追加で質問される可能性はあります」


「はい……分かりました」


「不安ですか?」


 聞かれて、アリシアは少し考えた。


 不安だ。


 でも、前ほどではない。


「不安です。でも……隠してないので、少し大丈夫です」


 グラン先生は微笑んだ。


「それは良い状態です」


 研究室を出た時、アリシアは大きく息を吐いた。


 ノアが足元で言う。


「報告できたわね」


「うん……怒られなかった」


「怒られるかどうかより、報告することが大事よ」


「うん」


「でも、認めてもらえてよかったわね」


 ノアの声が少し柔らかい。


 アリシアは頷いた。


「止める力……かもしれないって」


「そうね」


「ノアは、どう思う?」


 ノアはしばらく黙った。


 廊下の窓から朝の光が差し込んでいる。


 その中で、ノアの黒い毛並みが静かに光を吸い込んでいた。


「闇は、奪うだけじゃないわ」


 ノアは言った。


「隠す。包む。遮る。眠らせる。守る。そういう役割もある」


「守る……」


「昨日、少しだけ分かったでしょう」


「うん」


 アリシアは胸元に手を当てた。


 胸の奥の夜は静かだった。


 怖いだけではない。


 壊すだけではない。


 止めること。


 隠すこと。


 守ること。


 そんな可能性がある。


 午前の生活基礎では、昨日の共同作業に続いて「報告の順番」を学んだ。


 セリア先生は黒板に書く。


『何が起きたか』


『いつ、どこで』


『誰が関わったか』


『自分は何をしたか』


『今どうなっているか』


「報告では、感情より先に事実を伝えます。ですが、感情を無視するわけではありません。怖かった、困った、不安だという気持ちは、その後の相談として伝えてよいのです」


 アリシアは思わずノートを握った。


 今朝、まさにそれをした。


 グラン先生へ、事実を伝えた。


 その後、不安も話した。


 セリア先生の授業が、自分の日常に繋がっている。


 アリシアはそれが少し嬉しかった。


 班練習では、架空の事故を報告する練習をした。


 廊下で魔導灯が割れた場合。


 訓練場で怪我人が出た場合。


 図書館で本が破損した場合。


 最後の例に、アリシアは少し反応した。


 メリルが小さく聞く。


「昨日のこと、報告できた?」


「うん。グラン先生に話した」


「どうだった?」


「怒られなかった。注意はされたけど……良い判断だったって」


 メリルの顔が明るくなる。


「よかった」


「うん……」


 トマが横から言う。


「昨日の図書館の件、少し聞いた。影喰いって珍しいらしいな」


 アリシアは少し身構える。


 けれどトマの声に悪意はない。


「よく気づいたな」


「ノアが先に気づいて……私は、少し見えただけ」


「それでもすごいよ。俺なら絶対、本が落ちてるだけだと思う」


 アリシアはどう答えればいいか迷った。


 ノアの視線を机の下から感じる。


 受け取りなさい。


「……ありがとう」


 言えた。


 トマは自然に頷いた。


 生活基礎の後、戦闘基礎では、昨日に続いて二人組の連携練習だった。


 アリシアとメリルは、昨日より少しだけ動きが良くなっていた。


 もちろん失敗はする。


 アリシアが前に出すぎる。


 メリルの声が遅れる。


 距離が詰まりすぎる。


 エレナ教官の指摘は容赦なく飛ぶ。


「後ろを忘れるな」


「声が遅い」


「合図を決めろ」


「動いた後に止まるな。次を考えろ」


 それでも、昨日より二人の呼吸は少し合っていた。


 途中、メリルが小さく言う。


「右、風」


 アリシアは右を空ける。


 木刀を低く置く。


 メリルの杖先が通る。


 相手役の攻撃が止まる。


 エレナ教官が短く頷く。


「今のは良い」


 たった一言。


 それだけで、二人の胸に小さな達成感が生まれた。


 休憩中、メリルが水を飲みながら言った。


「アリシアちゃん、昨日より合わせやすい」


「本当?」


「うん。私の声を聞いてから動くのが早くなった」


「メリルさんも、声が短くて分かりやすい」


「エレナ先生のおかげかな」


「うん……」


 アリシアは木刀を見下ろした。


 誰かと一緒に動く。


 まだ難しい。


 でも、できた瞬間は少し嬉しい。


 一人で木刀を振る時とは違う感覚。


 自分の動きが、誰かの動きに繋がる。


 そのことが、怖くもあり、温かくもあった。


 授業後、カイルが近づいてきた。


「アリシア、メリルとの連携よくなってたな」


「ありがとう……」


「俺とミーナはまだぶつかりそうになる」


 少し離れたところでミーナが言う。


「カイルが突っ込みすぎるからよ」


「分かってるって」


 ミーナはため息をつきながらも、少し笑っていた。


 アリシアはそのやり取りを見て、自然に笑えた。


 昼食では、ガレスとミランダに朝の報告結果を話した。


「止める力かもしれないのか!」


 ガレスが目を輝かせる。


「強そうだな!」


「ガレス君は何でも強そうって言うね」


 メリルが苦笑する。


 ミランダは少し考えてから言った。


「でも、止めるって大事だよね」


「うん……」


「土もね、守ったり止めたりするの得意って先生に言われた。壁を作るとか、足場を固めるとか」


「そうなんだ」


「だから、アリシアの黒い力も、怖いだけじゃないと思う!」


 ミランダの言葉は明るく、まっすぐだった。


 アリシアは胸が温かくなる。


「ありがとう」


 ガレスも頷く。


「火は燃やすだけじゃなくて、明かりにもなるしな!」


「うん」


「だから闇も、きっと何かある!」


 単純だけど、強い。


 アリシアは少し笑った。


「うん……そう思いたい」


 午後、図書館へ向かうと、入口に小さな札が置かれていた。


『東側歴史棚 一部点検中』


 昨日の影喰いの件だろう。


 アリシアは少し胸が重くなる。


 自分が見つけた場所。


 そこが封鎖されている。


 けれど、司書に声をかけると、彼女は静かに微笑んだ。


「昨日はありがとうございました」


「あ……いえ」


「東側棚は今日一日点検しますが、資料に大きな損傷はありませんでした」


「よかった……」


 心からそう思った。


 司書はアリシアを見て言う。


「影喰いは、本来なら本棚の奥でしばらく潜みます。早期に見つけられたのは幸いでした」


「ノアが気づいてくれたので……」


「ノアも優秀ですね」


 ノアは足元で当然のように目を細めた。


 司書は少し笑う。


「今日は西側の地方伝承棚なら使えます。必要な本があれば出しますよ」


「ありがとうございます」


 図書館の奥へ進むと、リーネがいた。


 彼女は点検中の札を見てから、アリシアに気づいた。


「昨日の影喰いの件、聞きました」


「もう……?」


「図書館利用者には点検理由が簡単に共有されています。あなたの名前は出ていませんが、状況から推測しました」


「そ、そうなんだ……」


 リーネは近づいてきた。


「怪我は?」


「ないです」


「魔力汚染は?」


「グラン先生に報告して、大丈夫だと思うって……」


「そうですか」


 リーネは少しだけ息を吐いた。


 安心したように見えた。


 アリシアは目を瞬かせる。


「心配……してくれたんですか?」


 聞いた瞬間、少し失礼だったかと焦る。


 リーネは眼鏡を押し上げた。


「共同研究の可能性がある相手が、初期段階で汚染されたら困ります」


「共同研究……?」


「あなたが夜の守り手を調べる。私も興味がある。資料を共有している。これは広義では共同研究です」


 淡々と言われ、アリシアは少し驚いた。


 共同研究。


 自分とリーネが。


「迷惑ですか?」


 リーネが聞く。


 アリシアは慌てて首を横に振った。


「迷惑じゃないです。むしろ……嬉しいです」


 言ってから、顔が熱くなる。


 リーネは少しだけ目を見開いた。


「そうですか」


「はい……一人だと、見つけられないことが多いので」


「それは事実です。複数人で資料を見る方が、抜けが減ります」


 リーネはいつもの調子に戻った。


 でも、少しだけ耳が赤い気がした。


 ノアが足元で小さく言う。


「面白い子ね」


 アリシアは笑いそうになるのをこらえた。


 その日の図書館では、東側棚が使えないため、リーネが持っていた資料を一緒に読むことになった。


 水の国に残る古い災害記録。


 大戦期、魔族の追跡を逃れた避難民が、夜の間だけ足跡を失ったという話。


 そこには「黒き幕が地を覆い、追う者の目を惑わせた」と書かれていた。


 アリシアは息を飲む。


 足跡を消す。


 黒い幕。


 昨日の影を止めた感覚と、どこかで繋がる。


 リーネは静かに言った。


「夜の守り手に関する伝承は、直接攻撃よりも隠蔽、遮断、追跡妨害に関わるものが多いようです」


「隠蔽……遮断……追跡妨害」


「グラン先生の見解と一致しますか?」


 アリシアは少し驚いた。


「どうして……」


「あなたの反応が影喰いを止めたなら、停止または干渉系と考えるのが自然です」


 リーネは本のページを軽く叩く。


「伝承と現象が少し一致している」


 アリシアの胸がざわめいた。


 伝承。


 現象。


 自分の力。


 全部が少しずつ繋がっていく。


 怖い。


 でも、知りたい。


「リーネさん」


「何ですか?」


「私……自分の黒い力が、怖いだけじゃないって、少し思えました」


 リーネは静かにアリシアを見た。


「良い変化だと思います」


「本当?」


「はい。力への認識は制御に影響します。恐怖だけでは、良い制御はできません」


 グラン先生と似た言葉。


 リーネの言葉は理論的だった。


 でも、その理論がアリシアを支えてくれる。


「ありがとうございます」


「礼は不要です」


「でも、言いたいので」


 リーネは少しだけ視線を逸らした。


「……以前も聞きました」


「うん」


 アリシアは少し笑った。


 部屋に戻った夜、アリシアは練習帳を開いた。


『今日は、昨日の影喰いのことをグラン先生に報告しました。怒られませんでした。注意はされました。でも、良い判断だったと言われました。私の黒い反応は、壊すより止めること、干渉すること、遮ることに近い可能性があるそうです』


 ペンが進む。


『戦闘基礎では、メリルさんとの連携が少しだけできました。自分一人で動くのではなく、後ろの声を聞くことが大事だと分かりました』


 さらに書く。


『図書館でリーネさんと話しました。リーネさんは、私と夜の守り手を調べることを共同研究と言いました。少しびっくりしました。でも嬉しかったです』


 アリシアはそこで手を止める。


 胸の中を確かめる。


 今日の自分は、昨日より少しだけ軽い。


 黒い力のことを話せた。


 責められなかった。


 止める力かもしれないと言われた。


 メリルと連携できた。


 リーネと共同研究になった。


 怖いことの中に、嬉しいことがいくつも混ざっている。


 ノアが机の上に飛び乗る。


「今日は?」


「点数?」


「ええ」


 ノアは少し考えた。


「九十五点」


 アリシアは目を丸くした。


「九十五……!」


「報告できた。注意を受け止めた。力の性質について考えた。連携も少し進んだ。リーネとの距離も悪くない」


「減点は?」


「グランの部屋に入る前、三秒だけ逃げる顔をした。あと、共同研究と言われて挙動不審」


「うぅ……」


「でも、今日はかなり良かったわ」


 アリシアは胸がいっぱいになった。


「ありがとう、ノア」


「礼はいいわ」


「でも、言いたいから」


「……知ってるわ」


 ノアはそう言って、机の上で丸くなった。


 夜の窓に、アリシアとノアの影が映る。


 黒い少女と黒い猫。


 少し前なら、その黒さに自分で怯えていた。


 けれど今は、少しだけ違う。


 闇は、奪うだけではない。


 隠す。


 包む。


 遮る。


 眠らせる。


 守る。


 ノアの言葉が胸に残っている。


 アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。


『私の闇は、何かを止めて、守るために使えるのかもしれません』


 書き終えて、そっと息を吐く。


 まだ分からない。


 まだ怖い。


 でも、今日また一つ、黒い力との向き合い方が変わった。


 夜は静かに部屋を包んでいる。


 アリシアはその夜を、少しだけ優しいと思った。

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