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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第21話 影に残る足跡



 個別指導を終えた翌朝、アリシアはいつもより少しだけ早く食堂へ向かった。


 特別な理由があったわけではない。


 ただ、胸の奥に残っている小さな感覚を、歩きながら確かめたかった。


 昨日、グラン先生の指導で触れた黒い魔力。


 水晶片の中に、ほんの少しだけ浮かんだ黒い靄。


 それは大演習場で見た黒い光よりもずっと小さかった。


 けれど、アリシアにとっては大きな一歩だった。


 黒い力は、いきなり暴れるだけのものではなかった。


 怖いだけのものでもなかった。


 胸の奥にある、深い夜の空気。


 そこへ意識を向けると、静かな井戸を覗き込むような感覚がある。


 まだ深さは分からない。


 底も見えない。


 けれど、そこに何かがあることだけは、以前よりはっきり分かるようになっていた。


「歩きながら考え込まない」


 足元からノアの声がした。


 アリシアははっとする。


「あ……ごめん」


「謝らない」


「うん……気をつける」


「廊下で転ぶわよ。せっかく魔法より足運びの評価が高いのに、普通の廊下で転んだら減点どころじゃないわ」


「うぅ……」


 アリシアは足元を見て、それから前を向いた。


 廊下には朝の光が差し込んでいる。


 第一寮の窓から見える中庭は、まだ人が少ない。


 白い石畳の上を、朝靄が薄く流れていた。


 昨日の夜、練習帳に書いた言葉が頭に残っている。


『私の中の夜は、怖いだけではありませんでした』


 自分で書いたくせに、読み返すと少し恥ずかしかった。


 でも、消さなかった。


 あれは、昨日の自分が確かに感じたことだから。


「ノア」


「何?」


「昨日の黒い靄……ノアにも見えた?」


「見えたわ」


「どうだった?」


「小さかったわね」


「う……」


「でも、悪くなかった」


 アリシアは少しだけ顔を上げる。


「本当?」


「ええ。無理に引き出したものじゃなかった。あんたが恐怖で潰したものでもなかった。自然に滲んだ反応だった」


「自然に……」


「最初はそれでいいのよ」


 ノアは尻尾を揺らしながら歩く。


「ただし、調子に乗って一人で試さないこと」


「うん。グラン先生にも言われた」


「言われたなら守りなさい」


「守る」


「よろしい」


 ノアの声は厳しい。


 けれど、いつもより少し満足げだった。


 食堂に着くと、まだ席には少し余裕があった。


 いつもの壁際の席も空いている。


 アリシアはそこへ座り、ノアを椅子の上に乗せた。


 食堂の職員がこちらに気づき、にこりと笑う。


「今日は早いのね」


「あ、はい……少し」


「朝のスープ、今ちょうど温かいわよ」


「ありがとうございます」


 自然に礼が言えた。


 ほんの少し前なら、職員に声をかけられただけで固まっていたかもしれない。


 それを考えると、胸の奥が少し温かくなった。


 トレーを持って席に戻る。


 パン。


 卵。


 野菜のスープ。


 果物。


 ノア用の小皿。


 今日は魚だった。


「また魚ね」


 ノアが言う。


「肉の方がよかった?」


「魚も悪くないわ」


「昨日も言ってた」


「悪くないものは悪くないのよ」


 アリシアは少し笑った。


 そこへ、メリルが食堂に入ってきた。


 アリシアを見つけると、少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに手を振る。


「アリシアちゃん、早いね」


「うん……少し早く目が覚めて」


「眠れなかった?」


「ううん。眠れた。だから……少し歩きたくて」


「そっか」


 メリルは向かいに座った。


 彼女のトレーにも、同じ朝食が載っている。


「昨日の個別指導の後、疲れなかった?」


「少し疲れたけど……嫌な疲れじゃなかった」


「それ、いいね」


「うん」


 アリシアはスープを一口飲んだ。


 温かい。


 昨日より味が分かる。


 メリルはパンをちぎりながら、少し楽しそうに言った。


「今日の魔法基礎、風の制御練習なんだ。小さい羽根を浮かせるんだって」


「羽根……」


「うん。風を強く出すんじゃなくて、落とさないように支える練習」


「難しそう」


「たぶん難しい。でも、昨日アリシアちゃんが言ってた『感じる練習』に少し似てるかもって思った」


 アリシアは目を瞬かせた。


「似てる?」


「うん。出すより、支える。無理に動かすより、流れを見る。そんな感じかなって」


「そっか……」


 メリルの言葉で、アリシアは胸の奥にある夜の感覚を思い出した。


 黒い魔力も、いきなり出すのではなく感じるところから始まった。


 メリルの風も、強く吹かせるのではなく、羽根を支える練習。


 属性は違う。


 けれど、学ぶことには似た部分があるのかもしれない。


「メリルさんの風も……見てみたい」


 アリシアは小さく言った。


 メリルが少し驚き、それから笑う。


「いつか見せるね。失敗しないようになったら」


「失敗しても……見たいかも」


「え?」


「あ、えっと……その、練習してるところも、大事だと思うから」


 言ってから、少し照れた。


 けれどメリルは嬉しそうだった。


「じゃあ、いつか一緒に練習しよう。アリシアちゃんの黒い魔力は一人で試しちゃだめだけど、呼吸とか感覚の練習なら一緒にできるかも」


「うん……できたら嬉しい」


 また一つ、未来の約束が増えた。


 そこへ、ガレスとミランダが賑やかにやって来た。


「おはよう!」


「今日は早いな、アリシア!」


「お、おはよう」


 ガレスはいつも通り山盛りの朝食を持っていた。


 ミランダも負けずにしっかり食べる気満々の量だ。


 二人が座るだけで、食卓の空気が明るくなる。


「今日の一班、合同訓練かもしれないんだ!」


 ミランダが嬉しそうに言う。


「合同?」


 メリルが聞き返す。


「うん。戦闘基礎一班と二班で、簡単な連携を見るんだって!」


 ガレスが胸を張る。


「俺が前に出る!」


「だと思った」


 メリルが笑う。


 ミランダも元気よく言う。


「私も前に出る!」


「二人とも前に出たら、後ろ誰が見るの?」


 メリルの冷静な一言に、ガレスとミランダが同時に固まった。


「……後ろ」


「……誰かが見る?」


「それが連携なんじゃないかな」


 アリシアは思わず小さく笑った。


 ガレスは真剣に腕を組む。


「なるほど。前に出るだけでは連携ではないのか」


「今気づいたの?」


 ミランダも頷く。


「でも、前に出る人も必要だよ!」


「それはそうだね」


 メリルが優しく言う。


 アリシアは二人を見ながら、少しだけ考えた。


 連携。


 自分はまだ、人と一緒に戦うことに慣れていない。


 祖父との稽古は一対一だった。


 山で魔物に遭遇した時も、基本は自分と祖父、あるいは自分一人で逃げるための動きだった。


 誰かと呼吸を合わせる。


 誰かの前に出る。


 誰かの後ろを守る。


 そういうことを、自分はこれから学ぶのだろう。


 ノアが椅子の上で小さく言う。


「そのうち、必要になるわ」


 アリシアはノアを見る。


「連携?」


「ええ」


「私に、できるかな」


「できるようにするのよ」


「うん……」


 ガレスがアリシアを見る。


「アリシアは三班で連携やったか?」


「まだ……足運びとか、誘いに乗らない練習が中心」


「そうか! でもアリシアは後ろも見られそうだな!」


「後ろ?」


「なんか、周りをよく見てるだろ」


 アリシアは少し驚いた。


 ガレスにそう言われるとは思わなかった。


 自分では、ただ周囲が気になりすぎるだけだと思っていた。


 視線や声に敏感で、すぐに怖くなる。


 でも、それを「周りをよく見ている」と言われると、少し違って感じる。


「怖くて、見ちゃうだけかも」


 アリシアが言うと、ガレスはあっさり頷いた。


「怖くても見てるなら、見てることに変わりないだろ!」


「……そうなのかな」


「そうだ!」


 ミランダも頷く。


「怖い時に目を閉じないの、すごいよ!」


 その言葉に、アリシアは胸が少し震えた。


 怖い時に目を閉じない。


 再測定の日、ノアに言われた。


 黒い光を見ろ、と。


 怖くても見る。


 それは、自分の弱さだけではないのかもしれない。


 生活基礎の授業では、今日は「共同作業」について学んだ。


 セリア先生は黒板に大きく三つの言葉を書いた。


『役割』


『報告』


『確認』


「学園では、個人で学ぶことも大切ですが、共同で課題に取り組むことも増えていきます」


 セリア先生は穏やかに言った。


「共同作業で大切なのは、自分が何をするのか、相手が何をしているのか、今どこまで進んでいるのかを確認することです」


 アリシアはノートに丁寧に書き写す。


 役割。


 報告。


 確認。


 戦闘にも似ている。


 ガレスとミランダが言っていた連携にも。


 セリア先生は続ける。


「何も言わずに我慢することは、優しさとは限りません。困っていることを言わないと、周囲も助けられません」


 アリシアの胸に刺さる。


 自分は、すぐ我慢する。


 怖くても、大丈夫と言おうとする。


 でも、それで余計に周りを心配させることもある。


 メリルが隣の席からちらりとこちらを見た。


 目が合う。


 メリルは少し笑った。


 アリシアも小さく頷く。


 今日の班課題は、三人一組で小さな地図を完成させる作業だった。


 一人が地図の断片を持つ。


 一人が建物名の一覧を持つ。


 一人が道順の説明を持つ。


 互いに情報を伝え合わなければ、完成しない。


 アリシアはメリルと、そして昨日も同じ班だったトマと組んだ。


 アリシアの役割は、道順の説明を読む係。


 紙には細かい文章が並んでいる。


『正門から入り、左手に噴水を見る。噴水の北側を通り、二つ目の角を右へ。訓練場を正面に見て、左へ進むと……』


 読むだけならできる。


 けれど、それを相手に分かるように伝えるのは難しい。


 アリシアは紙を握りしめる。


「えっと……正門から入って、左に噴水があって……」


「左って、地図のこっち?」


 トマが聞く。


「あ……地図だと、こっちが北だから……えっと、左じゃなくて西?」


 混乱しかける。


 メリルが優しく言う。


「ゆっくりで大丈夫。まず正門をここに置こう」


「うん」


 アリシアは深呼吸した。


 役割。


 報告。


 確認。


 まず、自分が持っている情報を伝える。


「私の紙には、正門から入って左手に噴水って書いてある。だから、地図上では……南から入って、西側に噴水」


 トマが頷く。


「分かりやすい。じゃあ噴水はここだな」


 メリルが建物名の札を置く。


「次は?」


「噴水の北側を通って、二つ目の角を右へ」


「右って、進行方向の右だね」


「うん……たぶん。あ、違う……進行方向だから東側」


「なるほど」


 少しずつ、地図が埋まっていく。


 最初は緊張したが、役割がはっきりしていると話しやすかった。


 自分は道順を読む係。


 分からなければ確認する。


 間違えそうなら言い直す。


 黙って抱え込まない。


 最後に地図が完成した時、トマが笑った。


「できた!」


 メリルも嬉しそうに頷く。


「アリシアちゃん、説明分かりやすかったよ」


「本当?」


「うん。途中から、方角で言い直してくれたのが助かった」


 トマも頷く。


「戦闘基礎でも思ったけど、アリシアって観察して整理するの得意だよな」


「え……」


 アリシアは驚いた。


 得意。


 自分にそんなものがあるとは、まだうまく思えない。


 でも最近、何度か似たことを言われている。


 周りをよく見ている。


 説明が分かりやすい。


 観察が細かい。


 もしかしたら、自分が怖がりだと思っていた部分は、別の使い方もできるのかもしれない。


「……ありがとう」


 アリシアは小さく言った。


 否定しなかった。


 メリルが嬉しそうに笑った。


 戦闘基礎では、ガレスたちが言っていた通り、三班でも連携の基礎に入った。


 エレナ教官はいつも通り無駄なく説明する。


「今日から、二人組での位置取りを見る」


 生徒たちの間に緊張が走った。


「派手な連携技など期待するな。最初は、相手の邪魔をしないことからだ」


 アリシアは真剣に聞いた。


「一人で動く時と、二人で動く時は違う。自分だけが避ければいいわけではない。自分だけが打てばいいわけでもない。相手の位置を見ずに動く者は、味方を危険にする」


 味方を危険にする。


 その言葉が重かった。


 アリシアは木刀を握る手に力が入る。


 今日の練習は、二人組で前衛と後衛を交代しながら、相手役の攻撃を避けるものだった。


 アリシアはメリルと組む。


 メリルは杖と短剣。


 アリシアは木刀。


 自然とアリシアが前、メリルが後ろになった。


「よろしく、アリシアちゃん」


「うん……よろしく」


 エレナ教官が近くへ来る。


「アリシア、前に出すぎるな。メリルの視線と杖の角度を殺す」


「はい」


「メリル、下がりすぎるな。アリシアが孤立する」


「はい」


 始まった。


 相手役の生徒が軽く踏み込んでくる。


 アリシアは木刀を構え、半歩外へ。


 いつもなら、そのまま自分だけで相手の外を取る。


 しかし、今日は後ろにメリルがいる。


 自分が外へ動きすぎると、メリルの前が空く。


 逆に、止まりすぎるとメリルの杖の射線を塞ぐ。


 難しい。


 アリシアは一瞬迷った。


 その迷いで、足が止まりかける。


「アリシアちゃん、右に風を出す想定!」


 メリルが後ろから小さく声をかけた。


 右。


 風。


 アリシアは瞬時に半歩だけ左へずれた。


 メリルの杖先が、アリシアの右肩越しに前へ向く。


 実際に魔法は出さない。


 でも、もし風が出ていれば、相手の進行を止められる位置だった。


 エレナ教官が言う。


「止め」


 アリシアは息を吐いた。


 メリルも少し緊張した顔をしている。


 エレナ教官は二人を見る。


「悪くない。声を出したメリルは良い判断だ。アリシアも反応はできた」


「はい」


「ただし、アリシア。最初に一人で処理しようとしたな」


 アリシアは肩を跳ねさせる。


「……はい」


「癖だ。悪い癖ではないが、連携では邪魔になる時がある」


「はい……」


「メリル。声を出せたのは良いが、もっと短くていい。右、風。それだけで伝わる」


「はい」


 エレナ教官は頷く。


「もう一度」


 何度も繰り返す。


 アリシアは前に立ち、メリルの位置を感じる。


 足音。


 杖の向き。


 呼吸。


 風を出すならどこか。


 自分がどこに立てば、邪魔にならないか。


 これは戦闘でありながら、朝の生活基礎にも似ていた。


 役割。


 報告。


 確認。


 メリルが後ろから言う。


「左、下がる」


 アリシアは左へずれ、半歩下がる。


「右、風」


 右を空ける。


「止まって」


 踏み込みすぎず止まる。


 何度か失敗した。


 アリシアが下がりすぎてメリルとぶつかりそうになった。


 メリルの声が遅れて、アリシアが迷った。


 相手役の動きに集中しすぎて、後ろを忘れかけた。


 そのたびにエレナ教官の指摘が飛ぶ。


「一人で戦うな」


「後ろを信じろ」


「声を聞け」


「声を待ちすぎるな」


「自分の位置を伝えろ」


 汗が滲む。


 難しい。


 一人で動く方が、ずっと楽かもしれない。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 後ろにメリルがいる。


 声が聞こえる。


 自分が少し位置を変えると、メリルが動きやすくなる。


 メリルの声で、自分も迷わず動ける。


 一人ではない動き。


 まだぎこちない。


 でも、少しだけ形になった瞬間があった。


 最後の一回。


 相手役が前へ踏み込む。


 アリシアは一瞬、左へ行きかける。


 その前にメリルの声。


「右、風」


 アリシアは右を空ける。


 木刀を低く構え、相手の足を止める位置に置く。


 メリルの杖先がアリシアの肩越しに伸びる。


 実際に魔法は出ていない。


 けれど、風がそこにあるような位置だった。


 相手役の生徒が止まる。


 エレナ教官が短く言った。


「そこだ」


 その一言で、アリシアとメリルは同時に息を吐いた。


 メリルが小さく笑う。


「できたね」


「うん……少し」


 アリシアも笑った。


 戦闘中の緊張が抜けた後の笑顔。


 以前より、少し自然だった。


 授業後、カイルが近づいてきた。


「アリシアとメリル、最後よかったな」


「ありがとう」


 メリルが答える。


 アリシアも小さく頷く。


「後ろに人がいるの、難しいね」


 カイルが言う。


「俺、前に出すぎてミーナに怒られた」


 少し離れたところでミーナが腕を組む。


「本当に危なかったわ。槍の前に飛び込まないで」


「悪かったって」


 そのやり取りに、アリシアは少し笑った。


 みんな同じように苦戦している。


 自分だけではない。


 それが安心だった。


 昼食の食堂では、ガレスとミランダが一班の連携訓練について大騒ぎしていた。


「俺は前に出すぎた!」


「私も出すぎた!」


「二人ともやっぱり……」


 メリルが笑う。


 ガレスは真剣に言う。


「でも、後ろを見るのは大事だと分かった!」


 ミランダも頷く。


「あと、声を出すの大事! 私、全部『行くよ!』って言ってたら、先生に何をするのか言えって言われた!」


「行くよだけだと分からないね」


 アリシアは笑いながら言った。


 ミランダは大きく頷く。


「そう! だから次は『右に行くよ!』って言う!」


「少し進歩したな!」


 ガレスが褒める。


 メリルが小さく笑う。


「みんな、同じようなことやってるんだね」


「うん……」


 アリシアは少し嬉しかった。


 班は違う。


 属性も違う。


 でも、学んでいることは繋がっている。


 昼食後、アリシアは少しだけ図書館へ向かった。


 リーネがくれた資料リストの続きを探すためだった。


 メリルは魔法基礎へ。


 ガレスとミランダは一班の補習確認へ。


 ノアと二人で図書館へ入る。


 いつもの紙の匂い。


 静けさ。


 高い本棚。


 アリシアは受付の司書に軽く会釈した。


 司書も頷く。


「今日は地方伝承ですか?」


「はい」


「昨日の資料の続きなら、右奥の二段目です」


「あ……ありがとうございます」


 覚えてくれている。


 それが少し嬉しかった。


 アリシアはリストの本を一冊手に取り、閲覧席へ向かった。


 今日はリーネはいない。


 少し寂しいような、少し落ち着くような気持ちだった。


 ノアは足元で丸くなる。


 アリシアは本を開いた。


 古い地方伝承。


 山の夜道。


 失われた村の祭礼。


 黒い布。


 影の席。


 直接的な答えはない。


 けれど、同じような言葉が少しずつ見つかる。


『灯りを持つ者の後ろに、灯りを持たぬ者あり』


『追跡者から逃れるには、夜へ礼をせよ』


『影を踏むな。影は道を隠すものなり』


 アリシアは一つずつ書き写した。


 意味はまだ分からない。


 けれど、断片が増えていく。


 まるで、暗い部屋に小さな星を一つずつ置いていくようだった。


 しばらくして、本棚の向こうから小さな物音がした。


 こつん。


 何かが床に落ちたような音。


 アリシアは顔を上げる。


 図書館は静かだ。


 誰かが本を落としたのかもしれない。


 ノアの耳が動いた。


「ノア?」


「……変ね」


「え?」


 ノアが立ち上がる。


 金色の瞳が、本棚の奥を見ている。


 アリシアの胸が少しざわついた。


「何か……あるの?」


「匂いが薄い」


「匂い?」


「魔力の匂いよ。普通なら図書館には紙と人と魔導灯の魔力がある。でも、あそこだけ少し抜けてる」


 アリシアには分からない。


 けれど、ノアの声は低かった。


 冗談ではない。


 アリシアは練習帳を閉じ、そっと立ち上がった。


「司書さんを呼ぶ?」


「まだ。まず見るだけ」


「うん……」


 怖い。


 けれど、ノアがいる。


 アリシアは本棚の間をゆっくり進んだ。


 足音を小さく。


 戦闘基礎の足運びを思い出す。


 膝を固めない。


 肩に力を入れすぎない。


 真正面から覗き込まない。


 半歩下がって見る。


 本棚の奥。


 そこには、誰もいないように見えた。


 ただ、一冊の本が床に落ちていた。


 古い革表紙。


 開かれたページ。


 アリシアは近づこうとして、足を止めた。


 違和感。


 本の周囲だけ、影が少し濃い。


 図書館の魔導灯は柔らかい光を落としている。


 普通なら、本の下に影ができる。


 でも、その影が、本の形より少し大きい。


 まるで、何かがそこに隠れているような。


 アリシアの胸の奥が、ひやりとした。


 恐怖とは少し違う。


 昨日感じた夜の井戸が、ほんのわずかに揺れる。


 ノアが低く言う。


「触らない」


「うん……」


「見える?」


 アリシアは影を見る。


 じっと。


 怖くても、目を逸らさない。


 黒い力を感じた時のように、押し込めず、暴かず、ただ見る。


 すると、影の端に何かが見えた。


 細い線。


 黒い糸のようなもの。


 本から伸びて、棚の隙間へ続いている。


「糸……みたいなのが」


 アリシアが小声で言うと、ノアの目が鋭くなった。


「見えるのね」


「ノアにも?」


「ええ。でも普通の生徒には見えないでしょうね」


「これ、何?」


「まだ分からない。でも、自然な影じゃない」


 その言葉で、アリシアの背筋に冷たいものが走った。


 自然な影ではない。


 図書館の中。


 古い本。


 影の糸。


 夜の守り手の資料を読んでいた直後。


 偶然だろうか。


 アリシアは唇を結ぶ。


「司書さんに知らせよう」


「それがいいわ」


 アリシアは本から目を離さないまま、少しずつ下がった。


 背を向けるのが怖かったからだ。


 ノアも同じように、影を見ている。


 その時、影の糸がわずかに動いた。


 するり、と。


 まるで、こちらに気づいたかのように。


 アリシアの心臓が跳ねる。


 影が本の下へ引っ込もうとする。


 直感的に、逃がしてはいけないと思った。


 だが、触れてはいけないとも分かる。


 どうする。


 木刀は腰にある。


 でも図書館で振るわけにはいかない。


 魔法は使えない。


 黒い力を一人で試してはいけない。


 でも、これは。


 アリシアは胸の奥に意識を向けた。


 無理に出さない。


 感じるだけ。


 そこにある夜の空気を、少しだけ見る。


 影の糸がまた動く。


 アリシアは小さく息を吸った。


「止まって……」


 声にもならないほどの小さな願い。


 その瞬間、アリシアの足元の影が、ほんの少しだけ濃くなった。


 黒い魔力を出したつもりはなかった。


 けれど、胸の奥の夜がわずかに揺れた。


 本から伸びていた影の糸が、ぴたりと止まる。


 ノアがアリシアを見た。


「アリシア」


「い、今の……」


「動かないで」


 ノアの声は鋭かった。


 アリシアはその場で固まる。


 影の糸は、止まっている。


 まるで、アリシアの影に縫い止められたように。


 怖い。


 でも、暴れてはいない。


 アリシアは息を止めないようにする。


 グラン先生の声を思い出す。


 怖くなったら、怖いと口に出していい。


「……怖い」


 小さく言った。


 ノアが答える。


「でも、よく止めたわ」


 その言葉に、少しだけ力が戻る。


 ノアが続けた。


「今すぐ司書を呼びなさい。走らなくていい。影から目を離しすぎない」


「うん」


 アリシアはゆっくりと後退した。


 影の糸は動かない。


 足元の自分の影が少し濃い。


 でも、それも次第に薄れていく。


 受付へ戻ると、司書がアリシアの顔を見てすぐに立ち上がった。


「どうしました?」


 アリシアは息を整える。


 報告。


 事実と感情。


 慌てない。


「あの……歴史棚の奥で、本が落ちていて……その周りの影が、変です」


 司書の表情が変わった。


「影?」


「はい。普通の影じゃなくて……黒い糸みたいなものが見えました。ノアも反応しています」


 司書はすぐに机の下から小さな銀の鈴を取り出し、鳴らした。


 澄んだ音が図書館に響く。


 すると奥の扉から、司書補らしき職員が二人現れた。


「東側歴史棚。異常影反応の可能性。封鎖準備」


 司書の声は先ほどまでと違い、鋭かった。


 アリシアは驚く。


 異常影反応。


 そういうものがあるのだろうか。


「アリシアさん、案内できますか?」


「は、はい」


「ただし、近づきすぎないように」


「分かりました」


 アリシアは司書たちを案内した。


 本棚の奥。


 床の本。


 影の糸。


 まだそこにあった。


 司書が目を細める。


「……確かに。これは影喰いの残滓に似ていますね」


 影喰い。


 初めて聞く言葉。


 ノアの尻尾が大きく揺れた。


「影喰い……?」


 アリシアが小さく呟くと、司書は職員に指示を出しながら答えた。


「古い本や魔力の残る場所に稀に発生する小さな魔性です。人を襲うほどではありませんが、放置すると記録や魔導灯の魔力を食べてしまうことがあります」


「魔性……」


「魔物の一種ですが、非常に小さい。普通は専用の札で封じます」


 司書補が札を取り出す。


 白い紙に銀の文字が書かれている。


 それを本の周りへ置くと、影の糸がびくりと震えた。


 アリシアは息を飲む。


 司書がアリシアを見る。


「あなたが見つけてくれなければ、気づくのが遅れたかもしれません」


「あ……いえ、ノアが気づいて……」


「それでも、報告してくれました」


 司書は静かに言った。


「よい判断です」


 よい判断。


 胸が熱くなる。


 怖かった。


 でも、報告できた。


 影に触れず、隠さず、知らせた。


 その事実が、アリシアの中に残る。


 司書たちは札で影喰いの残滓を封じ、落ちていた本を慎重に回収した。


 影の糸は最後に一度だけ震え、紙札の中へ吸い込まれて消えた。


 アリシアはそれを見届けた。


 自分がほんの少しだけ止めた影。


 それが何だったのか、まだ完全には分からない。


 けれど、確かに小さな異常だった。


 そして、自分はそれに気づいた。


 図書館を出る頃には、夕方の光が中庭を照らしていた。


 ノアはアリシアの隣を歩きながら、珍しくしばらく黙っていた。


「ノア」


「何?」


「さっきの……私、黒い魔力を使っちゃった?」


「ほんの少しね」


「グラン先生に、一人では練習しないようにって言われたのに……」


「練習ではないわ。異常への反応よ」


「でも……」


「後で記録して、グランに報告しなさい」


「うん……」


「隠さないこと。いいわね」


「うん」


 ノアは少しだけ声を柔らかくした。


「それと、暴走ではなかった」


 アリシアはノアを見る。


「本当?」


「ええ。あんたは影を掴んだんじゃない。止まってほしいと思って、足元の影が反応しただけ」


「それって……危なくない?」


「危うさはある。でも、今日のは小さい。何より、すぐに報告した」


 ノアは尻尾を揺らす。


「判断は悪くなかったわ」


 アリシアは胸を撫で下ろした。


 部屋に戻ると、すぐに練習帳を開いた。


 今日のことを書かなければならない。


 グラン先生に報告するためにも。


『午後、図書館の歴史棚の奥で、本が落ちていました。本の下の影が普通より濃く、黒い糸のようなものが見えました。ノアも異常に気づきました。影の糸が動いた時、私は怖くなりました。でも、止まってほしいと思ったら、足元の影が少し濃くなり、糸が止まりました』


 手が震える。


 でも書く。


『その後、司書さんに報告しました。司書さんは影喰いの残滓に似ていると言いました。札で封じてもらいました。私は一人で練習したつもりはありません。でも、黒い魔力が少し反応したかもしれません。次の個別指導でグラン先生に報告します』


 書き終えると、息が長く漏れた。


 ノアが机の上に飛び乗る。


「よく書けてるわ」


「……怖かった」


「でしょうね」


「でも、少しだけ……誰かの役に立てた?」


 ノアはアリシアを見た。


 金色の瞳が、いつもより優しく見えた。


「ええ」


 短い答え。


 それだけで、胸が熱くなった。


「図書館の本を守ったわ。少なくとも、今日のあんたは」


 アリシアは目を伏せた。


 涙が出そうだった。


 黒い力。


 怖い力。


 でも、それで影を止めた。


 大きな事件ではない。


 誰かの命を救ったわけでもない。


 けれど、放っておけば本や魔導灯の魔力が食べられていたかもしれない。


 アリシアは気づき、止め、報告した。


 自分の闇が、ほんの少しだけ何かを守った。


「ノア……今日の点数は?」


 声が少し震えた。


 ノアは考えた。


「九十四点」


 アリシアは目を丸くした。


「高い……」


「生活基礎で役割を果たした。戦闘基礎で連携を学んだ。図書館の異常に気づいた。触らず報告した。黒い反応を隠さず記録した」


「減点は?」


「影が動いた時、息を止めた。あと、司書に報告する前に少し泣きそうだった」


「うぅ……」


「でも、逃げなかった」


 その言葉に、アリシアは小さく頷いた。


 逃げなかった。


 見た。


 止めた。


 報告した。


 今日の一歩は、いつもより少し大きかった気がした。


 夜、窓の外には静かな闇が広がっていた。


 アリシアはノアと並んで、空を見上げた。


「黒い力で……守れるのかな」


 小さく呟く。


 ノアはすぐには答えなかった。


 しばらく夜を見てから、静かに言う。


「今日、少しだけ守ったでしょう」


「うん……」


「なら、その問いの答えは、少し出始めているわ」


 アリシアは胸元の守り袋に触れた。


 黒い力は怖い。


 まだ分からないことばかり。


 でも、今日、影を止めた。


 夜の力で、影を止めた。


 それが正しい使い方だったのかは、まだ分からない。


 グラン先生に報告しなければならない。


 もしかしたら注意されるかもしれない。


 けれど、隠さない。


 自分の中の夜を、怖いだけのものに戻さないために。


 アリシアは練習帳の最後に、一行を書き足した。


『今日、私の黒い力は、少しだけ何かを守ったのかもしれません』


 書いた後、しばらくその文字を見つめる。


 ノアが机の上からそれを見て、尻尾を一度だけ揺らした。


「悪くないわ」


 アリシアは小さく笑った。


 夜は静かだった。


 けれど、その静けさの中に、以前より少しだけ確かなものがあった。


 アリシアの中の夜は、怖いだけではない。


 今日、ほんの少しだけ。


 その夜が、誰かのために動いた。

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