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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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20/50

第20話 はじめての個別指導


 魔法個別指導の日の朝、アリシアはいつもより早く目を覚ました。


 鐘はまだ鳴っていない。


 窓の外は青白く、中央学園の校舎は夜と朝の境目に沈んでいた。


 遠くの空だけが少しずつ淡くなり、星の光が一つ、また一つと薄れていく。


 アリシアは寝台の上で体を起こし、しばらく窓の外を見つめた。


 今日から始まる。


 魔法基礎ではない。


 みんなと同じ教室ではない。


 第二測定室で、グラン先生と行う個別指導。


 特殊魔力反応。


 未分類。


 黒い光。


 水晶の中に見えた黒い月。


 そして、黒猫の影。


 怖さはある。


 けれど、再測定の朝とは違った。


 あの日は、何が起こるのか分からない怖さだった。


 今日は、少し違う。


 黒い光が出るかもしれない。


 また水晶の中に黒い月が浮かぶかもしれない。


 それを、今度は学ぶために見る。


 怖い。


 でも、知りたい。


 アリシアは胸元の守り袋に触れた。


「おじいちゃん……今日から、ちゃんと学ぶね」


 小さく呟く。


 返事はない。


 けれど、守り袋の中の木片は、いつものように温かい気がした。


「朝から決意表明?」


 枕元からノアの声がした。


 アリシアは少し驚き、振り返る。


 ノアは寝台の端で丸くなっていた。


 金色の瞳だけを開けている。


「起きてたの?」


「あんたが起きたら分かるわよ」


「そっか……」


「今日は個別指導ね」


「うん」


「再測定とは違うわ」


「違う?」


「測るだけじゃない。扱いを覚えるために行くのよ」


 扱い。


 その言葉に、胸が少し引き締まる。


 黒い光をただ見るだけではない。


 少しずつ、自分の中にあるものとして向き合う。


「私に、扱えるかな」


「今すぐ扱えるなら苦労しないわ」


「う……」


「でも、感じることはできる」


「感じる……」


「まずはそれで十分」


 ノアは立ち上がり、寝台から軽く降りた。


「今日の目標は、黒い魔力を無理に出すことじゃない」


「うん」


「怖がって押し込めすぎないこと。出そうとして暴かないこと。あるものを、あると認めること」


 アリシアはゆっくり頷いた。


 あるものを、あると認める。


 それは簡単そうで、難しい。


 アリシアはずっと、自分の中の闇を怖がっていた。


 黒い反応を、周囲に見られることも怖かった。


 自分が何か悪いものなのではないかと、勝手に胸の中で怯えていた。


 でも、ノアは言った。


 勝手に自分を悪者にするな、と。


 そして教務主任も言った。


 危険なのは、知らないまま無理に扱うことだと。


 なら、知らなければならない。


 アリシアは制服に袖を通した。


 リボンを結ぶ。


 鏡の中の自分を見る。


 黒髪。


 黒い瞳。


 紺色の制服。


 腰には木刀。


 足元には黒猫。


 以前なら、黒という色が少し怖かった。


 けれど今は、少しだけ違う。


 ノアの色。


 夜の色。


 星を抱く色。


 そして、自分の中にある黒い光の色。


「背筋」


 ノアが言った。


「あっ」


 アリシアは慌てて背筋を伸ばす。


「よろしい」


「ありがとう」


「礼を言うところじゃないわ」


「でも、言いたいから」


「朝から頑固ね」


 ノアは呆れたように言った。


 けれど、声は柔らかかった。


 扉が叩かれる。


 メリルだった。


「アリシアちゃん、おはよう」


「おはよう、メリルさん」


 扉を開けると、メリルは少し緊張した顔で立っていた。


「今日、個別指導だよね」


「うん」


「朝ごはん、一緒に行こう」


「うん」


 廊下へ出ると、いつもの朝の音が聞こえた。


 扉が開く音。


 階段を下りる足音。


 誰かの眠そうな声。


 案内紙を確認する紙の音。


 数日前まで、すべてが怖かった。


 今も人の多さは得意ではない。


 でも、知っている音も増えてきた。


 メリルの足音。


 ノアの爪が床を軽く叩く音。


 遠くから聞こえるガレスの大きな声。


 ミランダの笑い声。


 それらがあると、廊下は少しだけ歩きやすくなる。


 食堂では、ガレスとミランダがいつもの席にいた。


「アリシア! 今日から特別訓練だな!」


 ガレスが言う。


 声は少し大きい。


 近くの生徒が振り返ったが、アリシアは前ほど怯えなかった。


「特別訓練……なのかな」


「個別指導だろ? なら特別だ!」


 ミランダも頷く。


「専用授業だもんね! すごい!」


「すごいかは、まだ……」


 言いかけて、アリシアは少し止まった。


 否定しすぎない。


 ノアの視線を感じる。


「……まだ分からないけど、ちゃんと受けてくる」


 そう言い直すと、メリルが嬉しそうに笑った。


「うん。頑張って」


 ガレスがパンを差し出すような勢いで言う。


「食え!」


「うん……食べる」


「今日は粉々にするなよ」


「気をつける……」


 ミランダが笑う。


「アリシア、緊張するとパン細かくなるもんね」


「うぅ……」


 恥ずかしい。


 けれど、嫌ではない。


 自分の癖を笑われているのではなく、知ってもらえている。


 そう思えた。


 アリシアはパンを小さく、しかし粉々にはしない程度にちぎって食べた。


 スープも飲む。


 果物も少し。


 ノアの小皿も忘れない。


「今日は食べられてるね」


 メリルが言う。


「うん……少し」


「それだけでも大事だよ」


「うん」


 ガレスが力強く頷く。


「飯は大事!」


 全員が少し笑った。


 朝食後、メリルたちは通常授業へ向かう。


 アリシアは魔法演習棟へ向かった。


 ノアは足元を歩いている。


 中庭の空気は少し冷たい。


 朝の光が白い校舎の壁に反射し、まぶしく見えた。


 アリシアは歩きながら、ノアに小さく聞く。


「ノア」


「何?」


「グラン先生に、どこまで話していいのかな」


「聞かれたことに、必要な範囲で答えなさい」


「必要な範囲……」


「黒月の名は出さない。六つ目の神器も出さない。私が神獣であることも出さない」


「うん」


「でも、黒い魔力が怖いこと。見えたものがあること。体の感覚。それは話していい」


「黒い月が見えたことは?」


 ノアは少し考えた。


「水晶内の形状反応としてなら、すでに先生たちも見ている。黒い月に見えた、と言う程度なら問題ないわ」


「黒猫の影は?」


「契約の影として説明されている。詳しく聞かれたら、ノアのように見えた、とだけ」


「うん……」


「嘘をつくより、言葉を選ぶの」


 アリシアは頷いた。


 言葉を選ぶ。


 これもまた、戦闘の間合いに似ている気がした。


 全部を正面から受けない。


 でも、逃げすぎない。


 届く距離で、必要な分だけ出す。


 魔法演習棟の入口に着いた。


 五つの属性石が朝の光を受けて淡く輝いている。


 赤、青、緑、黄、白。


 アリシアはそれを見上げた。


 黒はない。


 けれど、その事実に胸が沈むだけではなくなっていた。


 五つの火は道を照らし、一つの影は足跡を消す。


 五つがある。


 一つは見えない。


 でも、ないわけではない。


 アリシアは第二測定室へ向かった。


 扉の前で、深呼吸を一度する。


 二度目をしようとした時、ノアが言った。


「一回で十分」


「う……」


「呼吸で時間稼ぎしない」


「バレてる……」


「当然」


 アリシアは扉を叩いた。


「どうぞ」


 中から静かな声がした。


 扉を開けると、グラン先生が立っていた。


 ローブ姿の男性教師。


 年齢は四十代くらいだろうか。


 細身で、黒に近い茶色の髪を後ろで軽く束ねている。


 目元は穏やかだが、表情は慎重だった。


 部屋の中央には小型の水晶柱。


 その周囲に五つの属性石。


 前回と同じ銀色の円環。


 ただ、今日は机の上に小さな水晶片や、魔力測定用の細い金属棒、記録用紙が置かれていた。


「おはようございます、アリシアさん」


「お、おはようございます」


「ノアも一緒ですね」


 ノアは普通の猫のように鳴いた。


「にゃあ」


 グラン先生は静かに微笑んだ。


「賢い子ですね。従魔待機用の布はそちらに」


「はい」


 ノアは布の上へ移動した。


 だが、今日は前回より少し近い位置だった。


 グラン先生はそれを確認して言う。


「今日は初回ですので、強い反応を見るつもりはありません」


 アリシアは少し驚いた。


「そうなんですか?」


「はい。最初に行うのは、魔力を出す訓練ではなく、感じる訓練です」


 ノアが朝言っていたことと同じだった。


 アリシアは少しだけ安心する。


「感じる……」


「あなたの反応は、通常の五属性測定とは違います。無理に出力を上げれば、あなた自身が怖くなるでしょうし、こちらも正確に観察できません」


 グラン先生は椅子を示した。


「まず座りましょう」


「はい」


 アリシアは水晶柱の前ではなく、机を挟んだ椅子に座った。


 グラン先生も向かいに座る。


 まるで相談の時間のようだった。


 それだけで、少し緊張が和らぐ。


 グラン先生は記録用紙を開いた。


「確認します。前回の再測定で、あなたは黒い弧状の反応を『黒い月のよう』と表現しました」


「はい」


「その時、体に痛みは?」


「ありません」


「息苦しさは?」


「少し緊張していたので……でも、魔力のせいかは分かりません」


「よい答えです。分からないことを分からないと言えるのは大切です」


 アリシアは少し目を丸くした。


 褒められた。


「めまいは?」


「少しだけ。でも手を離した後は落ち着きました」


「黒い反応を見た時、恐怖以外に何か感じましたか?」


 アリシアは手を膝の上で握った。


 怖かった。


 でも綺麗だった。


 それを言っていいのか少し迷う。


 ノアが布の上でじっと見ている。


 アリシアは小さく息を吸った。


「怖かったです。でも……綺麗だとも思いました」


 グラン先生の筆が止まる。


「綺麗」


「はい。黒いのに、光みたいで……水晶の中に夜があるみたいでした」


 言ってから、恥ずかしくなる。


 詩みたいなことを言ってしまったかもしれない。


 けれどグラン先生は笑わなかった。


 真剣に記録する。


「重要な感覚です。魔力への印象は、制御に影響します」


「印象が……?」


「はい。魔力を恐怖だけで捉えると、無意識に押し込めたり、逆に暴発したりしやすくなります。綺麗だと感じられたなら、あなたはその反応を完全には拒絶していない」


 完全には拒絶していない。


 その言葉が胸に残った。


 確かに、黒い光を怖がりながらも、どこかで目を離せなかった。


 自分に繋がるものだと感じた。


「では、今日は簡単な内観から始めます」


 グラン先生は小さな透明水晶を机に置いた。


 手のひらに収まるほどの水晶片。


「これは測定柱ほど強く反応を拾いません。魔力の流れを見る補助具です」


「はい」


「両手で包んでください」


 アリシアは水晶片を両手で包んだ。


 冷たい。


 小さくて、透明で、少し頼りない。


 けれど、その小ささが逆に安心だった。


「目を閉じてください」


 アリシアは目を閉じた。


「まず呼吸を整えます。魔力を出そうとしなくていい。自分の体の中を、静かに確認してください」


 グラン先生の声は穏やかだった。


 低く、ゆっくり。


「足。膝。腰。背中。肩。腕。指先」


 アリシアは言葉に合わせて意識を動かす。


 戦闘基礎の時と少し似ている。


 立ち方を確認するように。


 ただ、今日は体の外ではなく内側を見る。


「胸の奥に、何か流れを感じますか?」


 アリシアは少し探した。


 魔力。


 普通の魔法使いなら、火や水のような属性の感覚があるのだろうか。


 自分にはよく分からない。


 胸の奥は静かだ。


 でも、その静けさの下に、深い井戸のようなものがある気がした。


「……深いところに、何かある気がします」


「どんな感覚ですか?」


「冷たい……でも、嫌な冷たさじゃなくて……夜の空気みたいな」


「続けて」


「近づくと怖いけど……落ち着く感じもします」


 グラン先生は静かに記録している。


「その感覚へ、無理に触れようとしないでください。遠くから見るだけでいい」


「はい」


 遠くから見る。


 半歩下がって見る。


 ルシアンへの警戒をノアがそう言った。


 今は、自分の中の闇に対しても同じなのかもしれない。


 近づきすぎず。


 逃げすぎず。


 見える距離で見る。


 アリシアは胸の奥に意識を置いた。


 深い井戸。


 夜の空気。


 そこに、小さな黒い月が沈んでいるような気がした。


 まだ遠い。


 まだ眠っている。


 けれど、ある。


 それを認めた瞬間、両手の中の水晶片が少しだけ冷たくなった。


「……反応しました」


 グラン先生の声。


 アリシアは目を開けそうになる。


「目は閉じたまま。焦らないで」


「はい……」


「今、水晶片の中心にごく薄い黒色反応があります。とても弱い。良い状態です」


 良い状態。


 黒い反応なのに、良いと言われた。


 アリシアの胸が少し震える。


「そのまま、呼吸を続けてください」


「はい」


「怖くなったら、怖いと口に出していい」


 アリシアは水晶片を包む手に意識を向ける。


 冷たい。


 でも、手を離したいほどではない。


 胸の奥の夜も、静かにそこにある。


「……怖いです」


 小さく言った。


「はい」


「でも……大丈夫です」


「はい」


 グラン先生はそれだけを受け止める。


 励ましすぎない。


 否定しない。


 その距離がありがたかった。


 水晶片の中で、黒い反応が少しだけ濃くなる。


 アリシアは目を閉じたまま、それを感じた。


 自分の手の中に、小さな夜が生まれているようだった。


 その時、足元の方から、微かな気配がした。


 ノア。


 見なくても分かる。


 ノアがこちらを見ている。


 契約の繋がりだろうか。


 胸の奥の夜に、金色の小さな灯りが触れたような気がした。


 アリシアは思わず呟く。


「ノアが……近くにいる感じがします」


 グラン先生の筆がまた止まる。


「ノアの位置は分かりますか?」


「見なくても……あっちに」


 アリシアは目を閉じたまま、ノアのいる布の方を少し指した。


 グラン先生が確認する気配がする。


「正確です」


「本当ですか?」


「はい。従魔契約の感覚かもしれません」


 ノアは何も言わない。


 けれど、アリシアには少しだけ誇らしげな気配が伝わった気がした。


「では、そこで止めましょう。水晶片を机に置いて、ゆっくり目を開けてください」


 アリシアは言われた通りにした。


 水晶片を机に置く。


 目を開ける。


 小さな水晶の中心に、本当に薄い黒い靄のようなものが残っていた。


 それはすぐに消えていく。


 けれど、確かにあった。


 アリシアはそれを見つめた。


「……黒い」


「はい。ごく微弱ですが、あなたの特殊魔力反応です」


「これも……私の」


「そうです」


 自分の魔力。


 特殊で、未分類で、黒い。


 でも、今の小さな反応は怖くなかった。


 机の上の水晶片に宿った黒い靄は、まるで小さな夜の息のようだった。


 グラン先生は記録を終えると、静かに言った。


「初回としては、非常に良いです」


「本当ですか?」


「はい。暴発もなく、恐怖で遮断もしませんでした。自分の感覚を言葉にできています」


 アリシアは胸が熱くなった。


 言葉にできた。


 それを褒められた。


「ありがとうございます……」


「こちらこそ、よく話してくれました」


 グラン先生は小さく頷いた。


「次に、注意点を話します」


「はい」


「あなたは今後、自分の魔力を感じる練習を続けることになります。ただし、一人では行わないでください」


「一人では……」


「はい。未知の魔力です。興味が出て、自分だけで試したくなるかもしれませんが、それは危険です」


 アリシアはすぐに頷いた。


「分かりました」


 ノアも布の上で静かに頷いたように見えた。


「練習する時は、私の指導時のみ。もし普段の生活で黒い反応を感じた場合は、記録してください。時間、場所、気分、体調、近くにいた人やもの」


「記録……」


「セリア先生から、事実と感情を分ける練習を受けていますね?」


「あ、はい」


「それが役に立ちます。魔力は感情に反応することがあります。特に、未知の魔力ではその傾向を見る必要があります」


 アリシアは頷いた。


 事実と感情。


 また繋がった。


 生活基礎も、戦闘基礎も、魔法個別指導も、全部別々ではないのかもしれない。


 自分を知ること。


 体を知ること。


 心を知ること。


 魔力を知ること。


 それらが少しずつ繋がっている。


「今日の指導はここまでにしましょう」


「もう……?」


 思ったより短かった。


 グラン先生は微笑む。


「物足りないくらいで止めるのが、初回にはちょうどいい」


「そうなんですか?」


「怖い記憶で終えるより、できた記憶で終える方が次に繋がります」


 その言葉に、アリシアは強く納得した。


 確かに、今は怖さよりも「できた」が少し残っている。


 水晶片に小さな黒い反応を出せた。


 ノアの位置を感じられた。


 それを、今日の最後にしていい。


「分かりました」


「次回は三日後です。それまでに、今日の感覚を練習帳に記録してください。無理に再現しようとしないこと」


「はい」


 アリシアは立ち上がり、頭を下げた。


「ありがとうございました」


 今回は、深すぎず、きちんと礼ができた。


 グラン先生も頷く。


「お疲れさまでした、アリシアさん」


 ノアを抱き上げ、第二測定室を出る。


 廊下に出た瞬間、アリシアは大きく息を吐いた。


 再測定の時とは違う息だった。


 緊張が解けた息。


 そして、少しだけ達成感の混じった息。


「ノア」


「何?」


「できた……のかな」


「できたわね」


 ノアは腕の中で言った。


「初回にしては、上出来よ」


「本当?」


「私が嘘を言うと思う?」


「思わない」


「なら信じなさい」


 アリシアは頷いた。


 胸の奥に、温かいものが広がる。


 黒い魔力の訓練だったのに、終わった後の気持ちは少し温かかった。


 食堂へ向かうと、昼食にはまだ少し早かった。


 けれど、メリルが約束通り壁際の席で待っていた。


 今日は授業の合間に来てくれたらしい。


「アリシアちゃん」


「メリルさん」


「どうだった?」


 アリシアは少し考えた。


 うまく言葉にしたい。


 怖かった。


 でも、できた。


 小さな黒い反応。


 ノアの位置。


 グラン先生の言葉。


「今日は……黒い魔力を出すんじゃなくて、感じる練習だった」


 メリルは真剣に聞いてくれる。


「水晶片に、少しだけ黒い反応が出た。でも、怖くなかった。少し怖かったけど……大丈夫だった」


「そっか……」


 メリルの顔がぱっと明るくなる。


「よかったね」


「うん」


「すごいよ、アリシアちゃん」


 すごい。


 その言葉に、アリシアは少し照れた。


 でも、今日は否定しなかった。


「ありがとう」


 メリルは嬉しそうに笑った。


 そこへ、ガレスとミランダもやって来た。


「終わったか!」


「どうだった!?」


 二人の勢いに、アリシアは少し笑った。


「小さい水晶に……黒い反応が少し出た」


「おお!」


 ガレスの目が輝く。


「制御訓練っぽいな!」


「うん。たぶん……少しだけ」


 ミランダが身を乗り出す。


「怖くなかった?」


「少し怖かった。でも……前よりは」


「よかったぁ」


 ミランダは本気で安心したように息を吐いた。


 その反応が嬉しかった。


 ガレスは腕を組んで頷く。


「一歩前進だな!」


「うん……一歩」


 アリシアはその言葉を繰り返した。


 一歩。


 祖父が言っていた言葉。


 ノアが何度も背中を押してくれた言葉。


 今日も一歩進めた。


 昼食後、午後の戦闘基礎に参加した。


 グラン先生から無理はしないようにと言われていたが、体調は悪くなかった。


 むしろ、木刀を握りたい気持ちがあった。


 小演習室に入ると、カイルがすぐに声をかけてきた。


「個別指導どうだった?」


「えっと……少し、できた」


「おお」


 ミーナも微笑む。


「顔色は悪くないわね」


「うん……大丈夫」


 エレナ教官もアリシアを見て言った。


「体調は?」


「大丈夫です」


「なら動け。ただし、違和感があればすぐ言え」


「はい」


 今日の戦闘基礎は、防御後の立て直しだった。


 相手の攻撃を避けた後、体勢を崩さず、次の動きへ繋げる。


 グラン先生の内観で、自分の体の内側を見た後だったからだろうか。


 アリシアはいつもより、自分の重心を細かく感じ取れた。


 足の裏。


 膝。


 腰。


 木刀を握る手。


 呼吸。


 そして胸の奥に、静かな夜の感覚。


 それは戦闘の邪魔をしなかった。


 むしろ、深く息をする時、心のざわつきを少し沈めてくれた。


 エレナ教官がそれに気づく。


「アリシア」


「はい」


「今日は軸が静かだな」


「軸……」


「昨日より、余計な揺れが少ない」


 アリシアは驚いた。


 魔法個別指導の影響だろうか。


 自分の内側を見る練習が、体の動きにも繋がっている。


「午前に……魔力を感じる練習をして、呼吸を見たからかもしれません」


 エレナ教官は少し目を細めた。


「なるほど。魔法指導も無駄ではないらしい」


「はい」


「覚えておけ。戦闘と魔法は別物ではない。どちらも体と呼吸を使う」


 また繋がった。


 アリシアは頷いた。


 授業の終わり、カイルと短い確認をした。


 カイルの攻撃を避け、外へ出る。


 木刀を止める。


 戻る。


 以前より、動きが少しなめらかだった。


 カイルが驚いた顔をする。


「今日、なんかいつもより静かだな」


「静か?」


「うん。動きが」


 ミーナも頷く。


「分かる。力が抜けてる感じ」


 アリシアは少し照れた。


「午前の訓練で……呼吸を意識したからかも」


「魔法の訓練で剣も良くなるのか」


 カイルは感心したように言った。


 アリシアは少し考える。


「たぶん……自分の中を見るのは、同じなのかも」


 言ってから、自分で驚いた。


 少し難しいことを言った気がした。


 でも、カイルとミーナは真剣に頷いた。


「なるほどな」


「面白いわね」


 ノアが壁際で満足げに尻尾を揺らしていた。


 放課後、図書館へ行く前に、アリシアは部屋へ戻った。


 今日の感覚を忘れないうちに書くためだった。


 机に向かい、練習帳を開く。


 ペンを持つ。


 少し考えてから、書き始めた。


『今日、初めての魔法個別指導がありました。グラン先生は、魔力を出すのではなく感じる練習をすると言いました。小さな水晶片を両手で包み、目を閉じて、自分の中を見ました』


 アリシアは目を閉じた時の感覚を思い出す。


 足。


 膝。


 腰。


 背中。


 肩。


 腕。


 指先。


 胸の奥。


 深い井戸。


 夜の空気。


『胸の奥に、夜の空気のようなものがありました。怖いけど、落ち着く感じもしました。水晶片に、少しだけ黒い反応が出ました。前ほど怖くありませんでした』


 さらに書く。


『ノアの位置が、目を閉じていても分かりました。契約の感覚かもしれないそうです。ノアが近くにいると分かるのは、少し安心しました』


 書きながら、顔が少し熱くなる。


 ノアが机の上へ飛び乗った。


「読めるわよ」


「ひゃっ」


「隠すならもっと早く隠しなさい」


「うぅ……」


 ノアは練習帳を見た。


 そして、少しだけ視線を逸らす。


「……悪くない記録ね」


「本当?」


「ええ。事実と感情が分かれてる。感覚も書けてる」


「よかった」


「ただし」


「ただし?」


「私の位置が分かって安心した、のくだりは少し余計に照れくさい」


「えっ、そこ?」


「減点候補ね」


「ひどい……」


 アリシアは少し笑った。


 その後、図書館へ向かった。


 今日はリーネが先に来ていた。


 彼女は昨日渡してくれた資料リストのうち、一冊を開いている。


 アリシアを見ると、軽く頷いた。


「こんにちは」


「こんにちは、リーネさん」


「個別指導は終わりましたか?」


「はい」


 リーネは本を閉じる。


「差し支えない範囲で、どうでしたか?」


 差し支えない範囲。


 その言い方に、アリシアは少し安心した。


「小さな水晶片で……黒い反応を少しだけ出しました。出したというより、感じたら反応した感じで……」


 言葉を選びながら話す。


 リーネは真剣に聞いていた。


「意図的出力ではなく、内観による微弱反応。なるほど」


「えっと……」


「すみません。考えをそのまま口にしました」


「ううん……」


 リーネは少しだけ身を乗り出す。


「怖かったですか?」


 直球だった。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


「少し。でも、前よりは怖くなかったです」


「なぜ?」


 アリシアは少し考えた。


「小さかったから……それと、グラン先生が無理に出さなくていいって言ってくれたから。あと……」


「あと?」


「黒い反応を、完全に悪いものだと思わなかったから」


 リーネは黙った。


 眼鏡の奥の目が、少しだけ柔らかくなった気がした。


「重要ですね」


「重要?」


「自分の力をどう認識するかは、魔法制御に影響します。水属性でも、感情によって形が乱れますから」


「リーネさんも?」


「あります。私は乱れにくい方ですが、ゼロではありません」


 意外だった。


 リーネの魔法はいつも完璧に見える。


 水の測定でも、澄んだ光はまったく乱れなかった。


 アリシアがそう言うと、リーネは首を横に振った。


「乱れないように見せる訓練をしているだけです」


「訓練……」


「はい。私も最初からできたわけではありません」


 その言葉は、アリシアにとって少し意外で、少し嬉しかった。


 リーネも積み重ねている。


 ただの天才ではなく、努力している。


 そう思うと、少しだけ距離が縮まった気がした。


「リーネさんは……どうやって訓練したんですか?」


 アリシアが聞くと、リーネは一瞬だけ驚いたようだった。


 アリシアから質問されると思っていなかったのかもしれない。


「水面を観察しました」


「水面?」


「器に水を張り、自分の魔力を流します。感情が乱れると波紋が歪む。呼吸が整うと波紋も整う」


 リーネは淡々と説明する。


「地味な訓練です」


「でも……すごく大事そう」


「はい。地味な訓練ほど大事です」


 その言葉に、アリシアはエレナ教官を思い出した。


 足運び。


 立つこと。


 呼吸。


「戦闘基礎も……地味な訓練が大事って言われます」


「共通していますね」


「うん……」


 二人の間に、静かな会話が続いた。


 以前なら、ここまで話す前にアリシアの方が萎んでいただろう。


 けれど今日は、少しだけ言葉が出た。


 リーネが急に踏み込まないでくれるから。


 そして、話題が知識や訓練だから。


 人間関係も間合い。


 ノアの言葉通りだった。


 図書館から戻る途中、アリシアは少し不思議な気持ちだった。


 朝は個別指導で黒い魔力を感じた。


 昼は戦闘基礎で体の軸を感じた。


 夕方はリーネと水の訓練について話した。


 全部が、どこかで繋がっている。


 部屋に戻ると、ノアが机の上で言った。


「今日は濃い一日だったわね」


「うん……疲れたけど、嫌な疲れじゃない」


「ならいいわ」


「今日の点数は?」


 ノアは少し考えた。


「九十三点」


 アリシアは目を丸くした。


「昨日より高い……!」


「個別指導で逃げなかった。黒い反応を小さく扱えた。戦闘基礎にも繋げた。リーネに自分から質問した」


「減点は?」


「水晶片を持つ時、手が震えすぎ。あと、私の位置が分かって安心したという記録が少し恥ずかしい」


「まだ言う……」


「当然」


 アリシアは困った顔をしながら笑った。


 九十三点。


 それが嬉しい。


 点数そのものより、ノアが今日の自分を見てくれていることが嬉しかった。


 夜。


 窓の外には静かな闇が広がっていた。


 アリシアは机の上に小さな予定表を置き、明日の欄を見る。


 生活基礎。


 戦闘基礎。


 図書館自習。


 魔法個別指導は三日後。


 焦らなくていい。


 小さく感じるところから。


 アリシアは胸元に手を当てた。


 深い場所に、夜の空気のようなものがある。


 それを無理に呼び出さない。


 ただ、あると知る。


 それだけで、以前より少し自分の内側が怖くなくなった。


「ノア」


「何?」


「私の中の夜……少しだけ、静かだった」


 ノアは窓辺で夜を見ていた。


 黒い毛並みが、外の闇と溶け合うように見える。


「夜は騒がないものよ」


「うん」


「でも、何もないわけじゃない」


 ノアは振り返った。


「ちゃんと見れば、星も道もある」


 アリシアは小さく頷いた。


 今日、水晶片に映った小さな黒い靄。


 あれはまだ星ではないかもしれない。


 道でもないかもしれない。


 でも、最初の目印にはなった。


 アリシアは練習帳の最後に一行を書き足した。


『私の中の夜は、怖いだけではありませんでした』


 書き終えて、ペンを置く。


 ノアはそれを見て、何も言わなかった。


 ただ、尻尾の先で机を軽く叩いた。


 それは、今日の一歩を認める合図のようだった。

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