第19話 白い微笑み
特殊魔力反応。
その言葉は、思っていたよりも早く学園の中に広がっていた。
黒い反応。
未分類。
個別指導。
再測定。
そういった言葉が、数日前までは小さな棘のようにアリシアの背中へ刺さっていた。
けれど今は少し違う。
全部が消えたわけではない。
視線はまだある。
囁きもある。
けれど、そこに以前のような強い恐れや嫌悪は少なかった。
少なくとも、アリシアが食堂へ向かう廊下で聞いた声は、少しだけ形を変えていた。
「特殊魔力反応って、結局何なんだろうな」
「分からないから特殊なんじゃない?」
「個別指導ってすごくない?」
「でも通常の魔法班には入れないんだろ?」
「危険ってわけじゃないらしいよ」
「へぇ……」
危険ではないらしい。
その言葉があるだけで、アリシアは少し息をしやすかった。
もちろん、安心しきることはできない。
未知のものは、人の想像を呼ぶ。
想像は、時々勝手に怖い形へ膨らむ。
それでも、魔族という言葉を聞かない朝は、以前よりずっと軽かった。
アリシアはノアと並んで食堂へ向かいながら、胸元の守り袋にそっと触れた。
「今日は少し、静かだね」
小声で言うと、足元のノアが尻尾を揺らした。
「嵐の前の静けさかもしれないわよ」
「ノア……」
「冗談よ。半分は」
「半分……」
「噂は時間が経てば薄まる。でも、珍しいものに興味を持つ人間は必ずいる」
「うん……」
「昨日のリーネみたいにね」
リーネ。
水の継承者候補。
青髪の少女。
眼鏡の奥の冷静な目。
彼女はアリシアの反応に興味があると言った。
ただし、無理に聞くつもりはないとも言った。
言い方は理屈っぽくて、少し距離があった。
でも、嫌な感じではなかった。
リーネは、怖がっているというより、知ろうとしている。
その姿勢が、アリシアには少し眩しかった。
「リーネさんは……怖くないかも」
「油断はしないこと」
「うん」
「でも、知識で近づく相手は、感情だけで騒ぐ相手より扱いやすいわ」
「扱う……」
「人間関係も間合いよ」
ノアは当然のように言った。
アリシアは思わず足を止めかける。
「人間関係も……間合い?」
「そう。近すぎれば苦しい。遠すぎれば届かない。踏み込みすぎる相手には下がる。下がりすぎたら何も始まらない」
「戦闘みたい」
「似たようなものよ」
ノアは食堂の入口を見上げた。
「だから入口で固まらない」
「うん……」
アリシアは食堂へ入った。
温かい匂いが迎えてくれる。
焼きたてのパン。
卵。
野菜スープ。
少し甘い果物。
朝の食堂は、以前より見慣れた場所になっていた。
壁際の席。
ガレスの大きな声。
ミランダの明るい笑顔。
メリルの穏やかな手招き。
それらがあるだけで、アリシアは少し安心できる。
「アリシア、おはよう!」
ミランダが元気よく手を振った。
「お、おはよう」
「ノアもおはよう!」
ノアは上品に瞬きした。
ミランダはそれだけで満足そうに笑う。
「今日もかわいい!」
ノアの耳がぴくりと動く。
アリシアは小さく咳払いした。
ガレスがパンを片手に言う。
「明日から個別指導だったな!」
「うん……」
「楽しみか?」
真っ直ぐ聞かれて、アリシアは少し迷った。
怖い。
それは変わらない。
でも、知りたい。
それも本当だった。
「怖いけど……少し、知りたい」
そう答えると、ガレスは満足そうに頷いた。
「いいな!」
「いいの?」
「知りたいなら前に進めるだろ!」
単純な言葉。
けれど、今のアリシアには分かりやすくてありがたかった。
メリルも微笑む。
「グラン先生、静かな先生なんだよね?」
「うん。測定の時は、すごく慎重だった」
「慎重な先生なら安心かも」
「うん……たぶん」
ノアが椅子の上からアリシアの袖を軽く叩いた。
「たぶんを減らす」
「あ……うん」
メリルが首を傾げる。
「ノアちゃん、何か言いたそう」
「えっと……パンが欲しいのかな」
ノアは完璧な猫の顔で鳴いた。
「にゃあ」
ミランダが目を輝かせる。
「やっぱり賢い!」
アリシアは内心で冷や汗をかいた。
ノアはもう少し猫らしさを抑えてもいいのではないかと思う。
けれど、本人は平然としている。
朝食の途中、食堂の入口が少しざわついた。
リーネが入ってきたのだ。
青髪のショート。
眼鏡。
手には本。
朝食の時間でさえ、本を抱えている。
彼女は周囲の視線を気にせず、配膳台へ向かった。
その後ろで、何人かの生徒が囁く。
「リーネ様、今日も本持ってる」
「水属性の個別演習、もう進んでるらしいよ」
「やっぱりすごいな」
リーネは料理を受け取ると、席を探すように食堂を見回した。
アリシアはなんとなく目が合いそうになって、慌ててスープへ視線を落としかけた。
だが、ノアの尻尾が椅子の上で動く。
逃げすぎない。
アリシアは顔を上げた。
ちょうどリーネの視線がこちらへ向いた。
アリシアは小さく会釈した。
リーネは少しだけ瞬きをした後、同じように軽く頷いた。
それだけ。
けれど、アリシアには大きかった。
自分から、視線を逸らさずに会釈できた。
メリルが小声で言う。
「今、リーネさんに挨拶した?」
「うん……会釈だけ」
「すごい」
「すごくないよ……」
「ううん。アリシアちゃんにとっては、すごいと思う」
メリルはそう言ってくれた。
アリシアは少し照れながらも、今度は否定しきらなかった。
「……ありがとう」
ガレスが首を傾げる。
「リーネと仲良くなったのか?」
「仲良く……かは、分からないけど。図書館で少し話した」
「リーネは本ばっかり読んでるからな!」
「ガレス君、面識あるの?」
「五大国の集まりで何度か会った!」
ミランダも頷く。
「私も! リーネは小さい頃から本読んでた!」
「小さい頃から……」
アリシアはリーネを見る。
リーネは一人席に座り、食事をしながら本を開いていた。
食べる手は止めない。
ページをめくる動作も無駄がない。
すごい。
アリシアは素直に思った。
自分なら食べるか読むかのどちらかで精一杯だ。
生活基礎では、今日は小さな班活動があった。
テーマは「学園生活で困った時の相談経路を整理する」。
四人一組で話し合い、紙にまとめる。
アリシアはメリルと同じ班になれた。
他に、同じ三班のミーナと、商家出身らしい少年トマが入った。
班活動。
それだけでアリシアは少し緊張した。
話し合い。
自分の意見を言う。
相手の話を聞く。
順番を間違えないようにする。
考えることが多い。
メリルが隣で小さく言う。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
「うん……」
ミーナもにこりとした。
「戦闘基礎で話す時みたいでいいんじゃない?」
「え……」
「アリシア、説明分かりやすいもの」
「そ、そうかな……」
トマも頷く。
「昨日、カイルに教えてたの見た。あれ、普通に先生みたいだった」
「先生……」
アリシアは顔を赤くした。
ノアが机の下の籠から冷静に見ている。
照れすぎ。
そう言われている気がした。
班活動では、まず困った場面をいくつか書き出した。
課題の場所が分からない。
寮で物を壊した。
体調が悪い。
授業についていけない。
友人関係で悩む。
噂を広められた。
最後の項目が出た時、空気が少し止まった。
トマが気まずそうに言う。
「あ、これは……一般的な話で」
アリシアは少し胸が縮んだ。
けれど、セリア先生の授業を思い出す。
事実と感情。
これは自分にも関係ある。
でも、自分だけの話ではない。
「噂は……本人に確認しづらいこともあるから、先生に相談……かな」
アリシアは小さく言った。
三人がこちらを見る。
アリシアは続けた。
「セリア先生も、本人を問い詰めないでって言ってたから……相談窓口とか、担任の先生とか」
ミーナが頷く。
「確かに。広める前に確認するべきよね」
トマは少し真面目な顔になる。
「俺、噂話って軽く考えてたけど……怖いよな」
アリシアは少しだけトマを見た。
トマは慌てて言う。
「いや、アリシアのことを言ってるんじゃなくて……いや、関係なくもないけど……ごめん」
謝られた。
アリシアは驚いた。
自分が謝ることは多いが、誰かが自分に謝ることにはまだ慣れていない。
「ううん……大丈夫」
声は小さかったが、ちゃんと返せた。
メリルがそっと微笑む。
班活動の最後、まとめを書いたのはアリシアだった。
字が丁寧だから、とミーナに頼まれたのだ。
アリシアは少し緊張しながら、相談経路を書いた。
寮の問題――寮監。
授業の問題――担当教師。
体調――医務室。
人間関係や噂――セリア先生または相談窓口。
分からない時――まず聞く。
最後の一文を書いた時、アリシアは少し笑いそうになった。
まず聞く。
数日前の自分なら、その一文を書くだけでも怖かったかもしれない。
でも今は、少しだけ分かる。
聞くことは、弱さだけではない。
生活基礎の後は、戦闘基礎だった。
小演習室に入ると、カイルが手を振ってきた。
「アリシア、今日も頼む」
「えっと……何を?」
「誘いに乗らない練習。俺、昨日全部引っかかったから」
ミーナも笑う。
「私もお願いしたいわ。槍だと距離が違うから、剣の感覚とは別かもしれないけど」
アリシアは困ったように木刀へ触れた。
「私で分かることなら……」
ノアが壁際から見ている。
今のは悪くない。
そんな目だった。
今日のエレナ教官の訓練は、三人一組での観察だった。
一人が攻撃役。
一人が防御役。
一人が観察役。
攻撃役はわざと誘いを入れる。
防御役はそれに乗らず、外を取る。
観察役は、どこに兆しがあったかを言う。
アリシアはカイル、ミーナと組むことになった。
メリルは別の組で、杖と短剣の距離を練習している。
最初はカイルが攻撃役。
ミーナが防御。
アリシアが観察。
カイルは右肩を少し落とし、わざと左側を開けた。
ミーナは槍を構え、慎重に距離を取る。
動く。
ミーナは誘いに乗らず、槍先で距離を保った。
「止め」
アリシアは少し考えてから言った。
「カイルさん、左を空ける前に、右足が少し外を向いてたから……左に誘って、右へ返すつもりだったと思う」
カイルが目を丸くする。
「当たり」
ミーナが感心する。
「足まで見てたの?」
「うん……たぶん」
「たぶん禁止って言われてなかった?」
カイルが笑う。
アリシアは顔を赤くした。
「う……えっと、見えてました」
「おお」
カイルが拍手しそうになる。
エレナ教官が遠くから言う。
「拍手はいらん。続けろ」
「はい!」
次はミーナが攻撃役、アリシアが防御役。
槍は長い。
木刀よりずっと距離がある。
アリシアは息を整えた。
槍先を見るな。
手元。
肩。
腰。
足。
呼吸。
ミーナがわずかに槍先を下げる。
誘いか。
いや、下げた槍先より、後ろ足に重さが残っている。
突きではなく、払い。
アリシアは一歩外へずれた。
槍が横へ払われる。
木刀を添えるようにして軌道を流す。
かつん、と軽い音。
止め。
ミーナが息を吐いた。
「すごい。今のも分かったのね」
「後ろ足が……残ってたから」
アリシアは答えた。
戦闘の空気の中では、声が少し落ち着く。
カイルが観察役として言う。
「俺は槍先見てたから、普通に下から来ると思った」
エレナ教官が近づいてきた。
「カイル、槍先に釣られるな。ミーナ、払いは悪くないが、肩が先に動く。アリシア、流しは良い。ただ、槍相手に近づきすぎる癖がある。相手が引き戻したら危ない」
「はい」
アリシアは頷いた。
具体的な指摘。
また一つ、覚える。
訓練が終わる頃には、アリシアの額に汗が浮かんでいた。
けれど、心は少し澄んでいた。
木刀を握る時間は、今の自分にとって居場所の一つになり始めている。
授業後、エレナ教官がアリシアを呼んだ。
「アリシア」
「はい」
「明日から魔法の個別指導が始まると聞いた」
「はい」
「戦闘基礎への参加に影響が出る場合は、事前に言え」
「分かりました」
「それと」
エレナ教官は少しだけ目を細めた。
「魔力が特殊だろうと、足運びは裏切らない」
アリシアは瞬きをした。
「え……」
「迷ったら、まず立て。立てれば動ける。動ければ選べる」
その言葉は、祖父の教えに似ていた。
アリシアの胸が熱くなる。
「はい……!」
エレナ教官は頷いた。
「返事は悪くない。戻れ」
アリシアは頭を下げた。
廊下へ出ると、メリルが待っていた。
「何か言われた?」
「うん……魔力が特殊でも、足運びは裏切らないって」
「エレナ先生らしい」
「うん」
アリシアは少し笑った。
「私、あの先生……怖いけど、好きかも」
言ってから、自分で驚いた。
人に対して好きかも、なんて自然に言うのは珍しい。
メリルは嬉しそうに笑う。
「うん。分かる」
昼食の食堂で、ガレスとミランダにその話をすると、ガレスは大きく頷いた。
「足運びは裏切らない! いい言葉だ!」
ミランダも拳を握る。
「立てれば動ける! 動ければ選べる! なんか強い!」
「二人とも好きそう」
メリルが笑う。
アリシアも笑った。
その笑いは、前よりも少しだけ大きかった。
午後、図書館へ向かう。
今日はメリルが魔法基礎で遅くなるため、アリシアとノアだけだった。
昨日リーネと会った席のあたりを見ると、やはりリーネがいた。
今日は水属性の理論書ではなく、歴史資料を開いている。
アリシアは少し迷った。
話しかけるか。
邪魔ではないか。
ノアが足元で言う。
「間合い」
朝の言葉を思い出す。
近すぎず。
遠すぎず。
アリシアは本棚から一冊取り、リーネの少し離れた席に座った。
同じ机ではない。
でも、見える距離。
リーネは顔を上げ、アリシアに気づいた。
「こんにちは」
リーネから声をかけてきた。
アリシアは少し驚きながら、頭を下げる。
「こ、こんにちは」
「今日は地方伝承ですか?」
「はい……少し」
「昨日の続きですね」
「うん……」
リーネは開いていた本を閉じた。
「あなたが調べている『夜の守り手』について、少し調べました」
アリシアの心臓が跳ねた。
「え……?」
「昨日、あなたがその系統の棚を見ていたので。興味が出ました」
リーネは淡々としている。
悪気はなさそうだ。
だが、アリシアは緊張した。
夜の守り手。
六つ目に繋がるかもしれない断片。
それをリーネが調べた。
ノアが足元で静かに座る。
警戒はしているが、止める気配はない。
「何か……分かりましたか?」
アリシアは小さく聞いた。
リーネは一枚の紙を差し出した。
そこには、いくつかの本の題名とページ番号が書かれている。
「一般閲覧室で確認できる範囲です。夜、影、名なき守護者に関する記述がある資料をまとめました」
アリシアは目を見開いた。
「これ……私に?」
「はい」
「どうして……」
リーネは少し首を傾げた。
「あなた一人で探すより効率が良いからです」
「効率……」
「それに、私も興味があります」
リーネはまっすぐ言った。
「五聖人史は整いすぎています。整いすぎた歴史には、削られた余白がある可能性があります」
アリシアの胸が震えた。
整いすぎた歴史。
削られた余白。
リーネは、そこに気づいている。
「リーネさんは……五聖人の歴史を疑ってるんですか?」
思わず聞いてしまった。
リーネはすぐに否定しなかった。
「疑うというより、確認したいだけです」
「確認……」
「正史は重要です。しかし、正史が全てを記録しているとは限りません。記録とは選択です。何を書くかを選ぶ時、何を書かないかも同時に選ばれます」
アリシアはリーネを見つめた。
難しい言葉。
でも、意味は分かる気がした。
五聖人が書かれた。
六つ目は書かれなかった。
それも、誰かの選択だったのかもしれない。
「あなたの調べている伝承が、正史を覆すものかどうかは分かりません」
リーネは続けた。
「ですが、調べる価値はあります」
アリシアは紙を両手で受け取った。
胸がいっぱいになる。
「ありがとうございます……」
「礼は不要です」
いつもの言葉。
アリシアは少しだけ笑った。
「でも、言いたいので」
リーネが一瞬、動きを止めた。
それから眼鏡を押し上げる。
「……そうですか」
少しだけ、リーネの耳が赤くなったように見えた。
気のせいかもしれない。
ノアが足元で小さく呟いた。
「あら」
アリシアは笑いそうになった。
その時、図書館の入口付近が少し静かになった。
アリシアは何となく顔を上げる。
白髪の少年が入ってきた。
ルシアンだった。
柔らかな微笑み。
整った制服。
静かな足取り。
彼が歩くと、周囲の生徒が自然と少し道を空ける。
光の継承者候補。
新入生代表。
優しく、物知りで、穏やかな少年。
けれど、アリシアの足元でノアの体がわずかに硬くなった。
ルシアンは本棚を見ていたが、やがてアリシアとリーネに気づいたように近づいてきた。
「リーネさん、アリシアさん。こんにちは」
穏やかな声。
リーネは軽く頷く。
「こんにちは、ルシアン」
アリシアも少し遅れて頭を下げる。
「こ、こんにちは」
「お二人で調べ物ですか?」
ルシアンの視線が、机の上の紙に落ちた。
アリシアは反射的に紙を隠しそうになった。
しかし、それはかえって不自然だ。
手が途中で止まる。
ルシアンは微笑んだまま言う。
「地方伝承ですか。興味深いですね」
リーネが静かに答える。
「五聖人史の周辺記録です」
「なるほど。正史の外側にあるものを調べるのは、視野を広げる良い学びです」
言葉は穏やか。
内容もおかしくない。
けれど、アリシアは少しだけ息苦しさを感じた。
ルシアンの笑顔は優しい。
でも、目の奥が読めない。
ノアの警戒が伝わってくるせいかもしれない。
ルシアンはアリシアを見る。
「再測定、終わったそうですね」
アリシアの胸が跳ねた。
リーネの目が少し細くなる。
「ルシアン、その話をここでする必要がありますか」
リーネの声は冷静だったが、少し硬い。
ルシアンはすぐに微笑んだまま頭を下げた。
「失礼しました。責める意図はありません。心配していただけです」
「……」
リーネは何も言わない。
アリシアは小さく答えた。
「終わりました……特殊魔力反応として、個別指導になるそうです」
「そうですか」
ルシアンは穏やかに頷く。
「危険と判断されなかったのなら何よりです」
その言葉は、優しい。
優しいはずだ。
けれど、アリシアはなぜか胸の奥が少し冷えた。
危険と判断されなかった。
まるで、危険である可能性を当然の前提に置かれているようにも聞こえた。
考えすぎかもしれない。
ルシアンは続ける。
「未知の力は、扱い方次第で祝福にも災いにもなります。どうか慎重に学んでください」
「はい……」
アリシアは頷いた。
その言葉は間違っていない。
ノアも、知らないまま扱うことが危険だと言っていた。
教務主任も同じようなことを言った。
でも、ルシアンの声で聞くと、なぜか少し重かった。
ルシアンはノアへ視線を落とす。
「ノアも、アリシアさんを支えてあげてくださいね」
ノアは普通の猫の顔で見上げる。
鳴かない。
ただ、金色の瞳でルシアンを見る。
一瞬。
本当に一瞬だけ、二人の間に冷たい糸が張ったような気がした。
ルシアンは変わらず微笑んでいる。
「では、私は神殿史の棚へ行きます。失礼しますね」
彼は静かに去っていった。
アリシアはしばらく息を止めていたことに気づいた。
リーネが低く言う。
「今の会話、少し不自然でした」
アリシアは驚いてリーネを見る。
「不自然……?」
「心配という形を取りながら、特殊魔力反応の話題を開いた。場所は図書館。周囲に人がいる。あなたが答えにくい状況でした」
リーネは淡々と分析する。
「意図的か無意識かは不明ですが、あまり良い聞き方ではありません」
アリシアは胸の奥が少し軽くなった。
自分だけが違和感を覚えたわけではなかった。
ノアも足元で小さく言う。
「やっぱりね」
アリシアは小声で聞く。
「ノアも?」
「当然」
リーネはノアを見る。
「今、鳴きましたか?」
「えっ、あ……少し」
ノアは完璧な猫の顔で小さく鳴いた。
「にゃあ」
リーネはじっとノアを見た。
「やはり賢い猫ですね」
アリシアの背中に汗が滲む。
リーネはそれ以上追及しなかった。
「アリシアさん」
「はい」
「ルシアンは基本的に礼儀正しい人です。ですが、礼儀正しい言葉が常に安全とは限りません」
アリシアは息を飲んだ。
ノアと似た警告。
油断しないこと。
「覚えておきます……」
「それがいいでしょう」
リーネは本へ視線を戻した。
アリシアはリーネからもらった紙を見つめる。
歴史の断片。
水の少女との距離。
白い少年への違和感。
いろいろなものが胸の中で静かに重なった。
夕方、部屋に戻ると、アリシアは練習帳を開いた。
『今日は特殊魔力反応という言葉が、少しずつ周りに伝わっていました。怖い噂ばかりではありませんでした。生活基礎では、噂について学びました。戦闘基礎では、誘いに乗らない練習をしました。エレナ先生に、魔力が特殊でも足運びは裏切らないと言われました』
そこまで書いて、アリシアはペンを止める。
リーネのこと。
ルシアンのこと。
どう書けばいいのか迷った。
少し考えてから、続ける。
『図書館でリーネさんが、夜の守り手に関係しそうな資料をまとめてくれました。リーネさんは、正史は大事だけど、全てを記録しているとは限らないと言いました。すごいと思いました』
さらに書く。
『ルシアンさんが来ました。優しい言葉だったのに、少し息苦しく感じました。リーネさんも、聞き方が不自然だと言いました。ノアも警戒していました。私はまだ、ルシアンさんのことがよく分かりません』
書き終えると、胸が少し整理された。
ノアが机の上に飛び乗る。
「よく書けてるじゃない」
「本当?」
「事実と感情を分けようとしてる」
「セリア先生のおかげ」
「それを使えているなら、あんたの力でもあるわ」
アリシアは少し照れた。
「今日の点数は?」
ノアは考える。
「八十九点」
「惜しい……」
「何に?」
「九十に……」
「点数に欲が出てきたわね」
「えっ、だめ?」
「悪くないわ」
ノアは尻尾を揺らした。
「今日はリーネといい距離を取れた。ルシアンに対して違和感を無視しなかった。授業も悪くない」
「減点は?」
「ルシアンに話しかけられた時、紙を隠しかけた。あと、警戒で顔が固まりすぎ」
「うぅ……」
「でも、逃げなかった」
アリシアは頷いた。
逃げなかった。
それだけで、今日も少し進めた気がする。
窓の外は夜に変わり始めていた。
青い影が校舎の壁を包み、遠くの魔導灯が一つずつ灯っていく。
アリシアはリーネにもらった紙を机に置いた。
そこには、いくつもの資料名が並んでいる。
まだ知らない断片。
まだ読んでいない記録。
その先に、夜の守り手の影があるかもしれない。
そして、ルシアン。
光の少年。
優しい微笑みの奥に、何があるのか。
アリシアには分からない。
けれど、分からないことを分からないままにしておかない。
怖くても、見る。
黒い光を見た時と同じように。
「ノア」
「何?」
「人間関係も間合いなんだよね」
「ええ」
「リーネさんとは……少しずつ近づいてもいいのかな」
「悪くないと思うわ」
「ルシアンさんは?」
ノアの目が細くなる。
「今は、半歩下がって見なさい」
「半歩……」
「逃げるんじゃない。見える距離を取るの」
アリシアは頷いた。
半歩下がって見る。
戦闘基礎と同じ。
真正面から受けない。
でも、目を逸らさない。
アリシアは練習帳を閉じた。
明日は、初めての魔法個別指導。
黒い光を、今度は学ぶために見る日。
怖い。
でも、少しだけ知りたい。
その気持ちは、昨日より確かに強くなっていた。




