第242話 六枚の結果を、順番に
Dの結果票は、机の中央に置かれていた。
既存対象感覚判定――確認。
そこまでは、すでに見えている。
アリシアは膝の上で重ねた両手へ少しだけ力を入れた。昨日までなら、紙に残された『胸が冷たい』『弱くなった』という言葉しか知らなかった記録へ、これから東側と西側の結果が重なる。
若い観測員が、結果票の二段目を示した。
「東側奥部対象反応――確認です」
アリシアは小さく頷いた。
続いて、三段目。
「西側対象反応――確認」
三つが揃った。
対象感覚、確認。
東側、確認。
西側、確認。
「……Dは三つとも」
「はい」
サーラが答える。
アリシアはDの主観報告票へ視線を移した。
『胸が冷たい』
『弱くなった』
明確な温度表現があり、身体部位も胸部と記録されている。既存基準で対象感覚確認となり、東西も確認された。
AやBと、三領域の確認状態だけを見れば同じだった。
けれど、アリシアはそこで口を閉じた。
まだD一枚しか開いていない。
「次、見ますか?」
「うん」
若い観測員がEの結果票へ手を伸ばす。
アリシアは無意識に少し前へ身体を傾けたが、それに気づいて背中を椅子へ戻した。
Eの主観報告は覚えている。
『今、胸のあたりが冷たい気がする』
少し後に、
『まだ少しある』
明確に「冷たい」という言葉はある。
ただし、最初の発言には「気がする」という推測を含む。
数値強度も記録されていた。
結果票が開く。
「既存対象感覚判定――確認」
アリシアは黙って聞く。
「東側奥部対象反応――確認」
そして、
「西側対象反応――確認」
また三つだった。
DとE。
A、Bも含めれば、ここまで明確な冷感表現を持つ記録は、開示された範囲では三領域が確認されている。
(でも、まだ全部じゃない)
頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま口には出さなかった。
Fが残っている。
Gも。
Iも。
そして何より、Hがある。
「何か言いますか?」
記録担当職員が尋ねる。
「まだいい」
「分かりました」
「全部見てから」
アリシアは結果票へ触れなかった。
紙は一枚ずつ、主観報告票の横へ置かれていく。
D。
E。
同じ三つの「確認」が並んでいた。
◇
「Fへ進みます」
「うん」
Fの主観報告票が、改めて目の前へ置かれた。
『……何か来た?』
少し後に、
『胸。冷たい』
さらに、
『もう弱い』
最初の問いかけだけでは、身体感覚の確認とはしない。
後続発話で胸部冷感が明確になっている。
過去の時間窓整理でも似たような扱いをした記録があったことを、アリシアは覚えていた。
けれど、匿名化されているため、どの試験だったのかは分からない。
「開けます」
若い観測員が結果票を返した。
「既存対象感覚判定――確認」
次。
「東側奥部対象反応――確認」
最後。
「西側対象反応――確認」
アリシアは少し長く息を吐いた。
「Fも」
「はい」
「三つとも」
「はい」
口にしたのは、それだけだった。
ただ、胸の内側では期待が少しずつ膨らんでいる。
明確な冷感報告を持つ記録では、今のところ東西も確認されている。
Cだけが違う。
対象感覚は非確認。
それでも東西は確認。
第二の新しい前向き記録も、同じ三領域判定だった。
(もし残りも……)
そこまで考え、アリシアは唇を軽く噛んだ。
「どうしました?」
「予想しそうになった」
「止めますか?」
「違う。見るのは続ける」
「分かりました」
「ただ、今ちょっと……並びを作りたくなった」
サーラは頷いた。
「それも記録しておきますか?」
「うん」
「どのような並びですか?」
アリシアは少し考え、慎重に言葉を選んだ。
「明確に冷たいって言ってるものは三つ確認で、そうじゃないCだけ対象感覚が確認されてない。でも東西はある、って並べたくなった」
「はい」
「でも、まだG、H、Iを見てない」
「その通りです」
「だから今の答えにはしない」
「記録します」
記録担当職員のペン先が紙の上を動く。
アリシアはその音を聞きながら、肩の力を少し抜いた。
期待を持たないことはできない。
なら、期待を隠していないことを残しておく。
それが今の自分にできることだった。
◇
Gの主観報告は短い。
『胸のところが少し冷たい』
それだけ。
後続する対象感覚の追加発言は残っていない。
数値強度は記録されている。
結果票が返された。
「既存対象感覚判定――確認」
アリシアは呼吸を整える。
「東側奥部対象反応――確認」
次も。
「西側対象反応――確認」
「……Gも」
「はい」
D、E、F、G。
すべて三領域確認。
先に開いたAとBも三領域確認。
六件。
ただし、九件の中でまだ結果を見ていないHとIがある。
そしてCは対象感覚だけ非確認だった。
アリシアは紙を数えかけて、やめた。
数そのものが悪いわけではない。
けれど今、数え始めると、そのまま「多い方」を答えにしたくなる気がした。
『すごい顔』
窓辺からノアが言った。
「どんな顔?」
『頭の中で紙を並べ替えてる顔』
「そんな顔ある?」
『あなたにはある』
「適当」
『じゃあ今、何考えてた?』
アリシアは返事に詰まった。
「……数えようとしてた」
『ほら』
「顔で分かるわけないでしょ」
『長い付き合いだから』
「猫のくせに」
『関係ないわよ』
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
若い観測員も結果票から手を離し、アリシアが落ち着くまで待っている。
「続けますか?」
「うん」
アリシアは答えた。
「次、H」
◇
Hの主観報告票だけは、ほかと見た目が少し違った。
分類欄の一部に「規則外/要保留」が残っている。
『……さっきと違う』
少し後に、
『もう戻ったと思う』
身体部位は不明。
何が違うのかも不明。
何が戻ったのかも、現在の匿名資料だけでは分からない。
温度表現はない。
痛み表現もない。
明確な身体感覚として分類するには情報が足りない。
アリシアは昨日、この記録が一番気になった。
そして、今も気になっている。
「開ける前に確認したい」
「どうぞ」
「既存対象感覚判定は、今の新しい分類と別なんだよね?」
「はい」
サーラが答える。
「当時から使用している既存基準に従った確認/非確認です。今回の主観報告分類によって変更していません」
「Hが新しい分類で保留でも、昔の基準では確認になってる可能性もある?」
「あります」
「非確認の可能性も?」
「あります」
「分かった」
アリシアは結果票を見る。
「開けて」
若い観測員が紙を返す。
「既存対象感覚判定――非確認」
アリシアの目が止まった。
Cと同じ。
少なくとも最初の欄は。
けれど、まだ東西がある。
「続けますか?」
「うん」
「東側奥部対象反応――」
一拍置かれたように感じた。
実際には、若い観測員は他の記録と同じ速さで読んでいる。
「非確認」
アリシアは瞬きをした。
予想していなかった。
いや、予想しないと決めていた。
それでも、Cの結果を見た後の自分は、どこかでHにも東側確認を期待していたのかもしれない。
「西側は?」
「西側対象反応――非確認」
三つとも非確認。
アリシアはHの紙を見つめた。
対象感覚、非確認。
東、非確認。
西、非確認。
それなのに、原文には何かが残っている。
『……さっきと違う』
『もう戻ったと思う』
何が違ったのかは分からない。
何が戻ったのかも分からない。
「……無反応の方?」
言った直後、サーラではなく記録担当職員が慎重に答えた。
「現在開示している三領域判定では、三領域すべて非確認です」
「前にあった二つの無反応試験のどっちか?」
「まだ試験識別情報を開いていません」
「そっか」
アリシアはそれ以上聞かなかった。
過去には、意図的小変動を入れたにもかかわらず三領域すべてが確認されなかった記録が二件ある。
Hがそのどちらかかもしれない。
あるいは、別の記録かもしれない。
匿名符号だけでは決められない。
「H、何もなかったって言えないね」
アリシアが呟く。
「どういう意味ですか?」
「対象感覚も東も西も確認されてない。でも、昔の私は『さっきと違う』って言ってる」
「はい」
「だから三つの対象反応が非確認なのと、本人が何も感じなかったのは同じじゃない」
記録担当職員が頷く。
「その区別は必要です」
「でも何を感じたかは分からない」
「はい」
「それを今、冷たさとか胸の違和感にしちゃ駄目」
「その通りです」
アリシアはHの分類票を見た。
規則外/要保留。
昨日は、その文字が少し邪魔に感じた。
分類できればいいのにと思った。
今は違う。
「保留でよかった」
サーラがアリシアを見る。
「なぜそう思いますか?」
「もし無理に『身体の変な感じ』とかに入れてたら、Cと同じ側に置きたくなったと思う」
「結果を見た後に?」
「うん。Cは東西が確認。Hは東西が非確認。だから逆に、違う分類にしたくなるかもしれない」
アリシアは少し眉を寄せた。
「どっちでも、結果見てから言葉の意味を変えることになる」
「はい」
「今はHが何だったか分からないまま」
「現行分類では、そうです」
「……気持ち悪いけど」
『研究に向いてるのか向いてないのか分からない感想ね』
「分からないの嫌なのと、勝手に決めるのは別」
『成長したわね』
「急に褒めないで」
『気持ち悪い』
「そっちが言ったんでしょ」
ノアは知らん顔で前脚を舐め始めた。
◇
「一度休憩しますか?」
サーラが尋ねる。
残るのはIだけ。
アリシアは少し考えた。
「疲労、今三くらい」
「頭痛や胸部症状は?」
「ない」
「怖さは?」
「二」
「続けたいですか?」
「うん。Iまで見たい」
「分かりました」
水を一口飲んでから、アリシアはIの主観報告票を自分の前へ寄せた。
『胸が少し冷たい』
後続して、
『まだあるけど、弱い』
数値強度あり。
胸部。
明確な温度表現。
断定。
持続あり。
これまで開いたD、E、F、Gと同じように、既存対象感覚確認になりそうだと感じる。
しかし、今度は口にしなかった。
結果票が返される。
「既存対象感覚判定――確認」
そこまでは、予想に近い。
「東側奥部対象反応――確認」
アリシアの指先が少し動く。
「西側対象反応――確認」
Iも三領域確認だった。
これで、九枚すべての三領域判定が机の上に並んだ。
◇
会議室が静かになった。
外では、研究棟の前を誰かが通ったらしく、窓の向こうから短い話し声が聞こえてくる。
アリシアはAからIまでを順番に見た。
A。
明確な胸部冷感。三領域確認。
B。
明確な胸部冷感と比較表現。三領域確認。
C。
胸部の「少し変」「冷たいっていうより、ぞわっとする感じ」。既存対象感覚非確認。東確認。西確認。
D。
明確な胸部冷感。三領域確認。
E。
推測を含むが明確な胸部冷感表現。三領域確認。
F。
問いかけから始まり、後続で胸部冷感を明示。三領域確認。
G。
短い明確な胸部冷感。三領域確認。
H。
「さっきと違う」「もう戻ったと思う」。現行主観分類では一部規則外/要保留。既存対象感覚非確認。東非確認。西非確認。
I。
明確な胸部冷感と弱さ・持続表現。三領域確認。
「……七つ?」
アリシアが言った。
「何を数えていますか?」
「三つとも確認の記録」
指で紙を直接触らず、視線だけで追う。
「A、B、D、E、F、G、I」
「七件です」
「Cは東と西だけ」
「はい」
「Hは三つとも非確認」
「はい」
アリシアは黙った。
七件。
C。
H。
九件の匿名化された記録が、三つの形に分かれて見える。
七件の三領域確認。
一件の東西確認・対象感覚非確認。
一件の三領域非確認。
「待って」
アリシアが顔を上げた。
「過去の記録って、前は……」
そこまで言って、止まる。
記憶の中にある数字と、目の前の九枚が完全には重ならない。
過去の意図的小変動を含む制御試験。
滑らかな十呼吸。
陽性記録。
無反応記録。
時間窓整理に使った七件。
それらは、すべて同じ集合ではなかった。
「混ざりそう」
「何がですか?」
「前に使った記録の数」
若い観測員が頷いた。
「そこは重要です。現在のAからIは『今回、主観報告再分類の対象とした既存九記録』です。過去の各分析で使った集合と、目的によって一部構成が異なる場合があります」
「じゃあ、七件三領域確認って、前の『反応陽性七件』と同じ七件とは限らない?」
「現時点では同一と扱わないでください」
「よかった」
アリシアは胸へ手を当てかけ、途中で止めて膝へ戻した。
「今、同じだと思いそうだった」
「試験識別を開けば対応は確認できます」
「でも今は開いてない」
「はい」
「じゃあ今の九枚だけで話す」
「それがよいでしょう」
◇
記録担当職員が新しい整理紙を出した。
「現在開示済みの範囲だけで、記述的にまとめますか?」
「うん」
「ただし、刺激条件、詳細時間窓、試験識別は未開示です」
「分かってる」
紙の上に三つの行が作られる。
第一群。
既存対象感覚確認/東確認/西確認。
該当匿名記録――A、B、D、E、F、G、I。
七件。
第二群。
既存対象感覚非確認/東確認/西確認。
該当匿名記録――C。
一件。
第三群。
既存対象感覚非確認/東非確認/西非確認。
該当匿名記録――H。
一件。
「今の九件には、東だけ確認とか、西だけ確認とか、東と対象感覚だけ確認みたいなのはない?」
「現在開示した確認/非確認判定上はありません」
「対象感覚だけ確認も?」
「ありません」
アリシアの目が整理紙へ戻る。
「東と西が……」
言いかける。
東が確認された記録では、西も確認されている。
西が確認された記録では、東も確認されている。
少なくともこの九件では。
そして対象感覚確認の七件では、東西も確認。
対象感覚非確認は二件。
そのうちCでは東西確認。
Hでは東西非確認。
「言っていい?」
「事実の記述なら」
「この九枚では、東と西の確認判定が全部同じ」
若い観測員が整理紙を見る。
「はい。現在開示された九件について、東側奥部対象反応と西側対象反応の確認/非確認判定は一致しています」
アリシアの心臓が強く鳴った。
「全部?」
「この九件では」
「九件とも?」
「はい」
「……これ、前に気づいてた?」
問いに対し、副学院長がすぐには答えなかった。
「部分的には、既存の整理でも東側と西側の反応が同じ記録で現れる傾向は把握していました。ただし、今回の九件がどういう基準で再分類対象へ入っているかを確認せず、『九件すべてで一致することを以前から固定済みだった』とは言いません」
「じゃあ今、言えるのは?」
「今回の九件について、既存の確認判定を並べると、東西は九件すべてで一致している」
「原因は?」
「分かりません」
「直接つながってる?」
「分かりません」
「同じものを見てる?」
「分かりません」
「偶然?」
「九件だけから、その確率的評価をする準備はしていません」
アリシアは息を吐いた。
『質問が速い』
「だって……」
声が少し上ずる。
「九枚全部だよ?」
「そうです」
「東があると西もあって、東がないと西もない」
「現在の九記録の確認判定上は、その記述になります」
「でも、時間は?」
「まだ見ていません」
「前の時間窓だと、西は東より後側が多かった」
「過去に処理した反応陽性記録では、西側中央配置が東側より後側でした。ただし、今の匿名九件との対応をまだ開いていません」
「同じ記録か分からないから、混ぜない」
「はい」
アリシアは両手を握った。
(面白い)
強く思う。
Cの存在を見つけたときとは、また違う。
今度は、主観報告を見直すために九件を並べた結果、その横で東西の確認判定が揃っていることが見えてきた。
けれど、それは東が西を起こした証拠ではない。
西が東を起こした証拠でもない。
同じ隠れた状態に反応している可能性もある。
選んだ記録の集合そのものに理由があるかもしれない。
確認基準の性質によるかもしれない。
「これ、次の問いにできる?」
アリシアが尋ねた。
サーラではなく、若い観測員が慎重に答えた。
「候補にはできます」
「東と西が一緒に確認されるか?」
「そのままでは少し広いですね」
「前にも言った」
「はい。『東西の関係』では広すぎると整理しました」
「じゃあ……東の確認判定と西の確認判定が一致するか?」
「それなら、少なくとも確認/非確認の共起に限定した問いになります」
「時間は別?」
「別です」
「波形の大きさも別?」
「別です」
「アリシアの感覚も?」
「主質問から外すことはできます」
アリシアは少し驚いた顔をした。
「私を外す?」
「研究から外すという意味ではありません。問いの中で、東西二領域だけを独立に見るという意味です」
「……そっか」
それは以前にも候補として出ていた。
東と西の関係を独立に問う。
そのときは「関係」という言葉が広すぎて、確認共起、時間配置、波形量などへ分ける必要があるとされた。
今、九件を並べたことで、その中の一つが具体的な形を持ち始めている。
「でも、今この九枚見て思いついた」
「はい」
「だから今の九枚の答えにはしない」
「その通りです」
「次に確かめる候補」
「はい」
アリシアは少し笑った。
「ちゃんと言えた」
『何回やってると思ってるのよ』
「褒めてよ」
『はいはい、偉い偉い』
「雑」
◇
「もう一つあります」
副学院長が言った。
「何?」
「新規前向き二件を、今の九件へ混ぜずに横へ置くことはできます」
アリシアの表情が変わる。
「第一と第二?」
「はい。ただし、役割は別のままです」
「混ぜて十一件にはしない」
「しません」
新しい整理紙が用意された。
既存九記録。
その下に線を引き、
新規前向き独立記録一。
東確認。
アリシア対象感覚確認。
西確認。
さらに、
新規前向き独立記録二。
東確認。
アリシア対象感覚非確認。ただし閾値未満胸部異常報告あり。
西確認。
アリシアは見比べた。
「……新しい二つも、東西は同じ」
「はい」
「両方確認」
「はい」
「でも、これを九件と合わせて『十一件全部東西一致』って言っていい?」
若い観測員は少し考えた。
「記述として、既存九記録と新規前向き独立二記録の双方で、現在開示されている東西確認判定は一致している、と役割を分けて述べることはできます」
「十一件中十一件ってまとめるのは?」
「今は避けた方がよいでしょう。既存九件と新規前向き二件では、取得の役割や選定過程が異なります」
「九プラス二」
「はい」
「混ぜない」
「はい」
アリシアは紙の間に引かれた線を見る。
以前は「九プラス一」だった。
その後、二枚目の前向き記録が加わった。
今は九プラス二。
数が増えても、全部を一つの山にしない。
「それでも、東西が一緒なのは気になる」
「気になることは問題ありません」
「候補に書いて」
「どのようにしますか?」
アリシアは少し考える。
「『既存九記録では東側奥部と西側の確認/非確認判定が九件すべて一致。新規前向き独立二記録でも両者はともに確認。取得役割が異なるため一括集計しない。東西二領域の確認判定共起を独立した前向き質問にできるか検討候補』」
記録担当職員が書き留める。
「これでいい?」
「現時点の候補記録としては十分でしょう」
「因果は書かない」
「はい」
「時間もまだ別」
「はい」
「Cの弱い感じとも別」
「はい」
アリシアは満足したように頷いた。
◇
「じゃあ、Cはどうする?」
少し間を置いて、アリシアが尋ねた。
「時間を見る?」
「今日ですか?」
「……今日じゃなくてもいい」
自分で言って、少し笑う。
「今いっぱいになってきた」
『やっと自覚した』
「うるさい」
サーラが状態を確認する。
「疲労は?」
「四に近い三」
「その言い方、最近増えましたね」
「だって三より疲れてるけど、四って言うほどじゃない」
「では三と四の間として記録します」
「怖さは一」
「頭痛、胸部症状、息苦しさは?」
「ない」
「今日はここで終了する案を勧めます」
「うん」
アリシアは珍しくすぐ頷いた。
「Cの時間は次」
「次に必ずCの時間窓を開く、と今決めますか?」
問われて、アリシアは止まる。
「……決めなくていい?」
「もちろんです」
「今日、東西の共起候補も出たから、それをどうするか話すのが先かもしれない」
「はい」
「Hの追加文脈もある」
「はい」
「残ってるの増えた」
『喜びなさい』
「何で?」
『暇にならない』
「そういう問題じゃない」
アリシアは苦笑した。
◇
研究棟を出る頃には、外はもう夕方だった。
雲の切れ間から細い光が差し、石畳の一部だけが明るい。
アリシアはノアと並んで歩いた。
「九枚、全部見た」
『見たわね』
「思ってたのと違った」
『何が?』
「もっと、冷たいか何もないかの二つだと思ってた」
『実際は?』
「冷たいにも言い方があって、Cみたいなのがあって、Hみたいに何か分からないのもあった」
『で?』
「東と西は全部同じ判定だった」
『そこに食いつくと思った』
「食いついてない」
『十分食いついてたわよ』
「でも答えにはしてない」
『はいはい』
「雑」
少し歩いてから、アリシアは足元を見る。
「ノア」
『何?』
「私が冷たいって感じなくても、東と西が反応することがある」
『今の記録ではそういう例があるわね』
「二つ」
『役割の違う二つね』
「Cと新しい二枚目」
『そう』
「でも、どっちも何も感じてないわけじゃない」
『Cは“ぞわっと”、新しい方は“少し変”だったわね』
「うん」
アリシアはしばらく黙った。
「これ、六つ目と関係あるのかな」
ノアもすぐには答えなかった。
『分からない』
「だよね」
『でも、前より分からない場所は狭くなったんじゃない?』
「狭く?」
『“冷たいかどうか”だけ見てた頃より、“冷たいと判定されなくても別の言葉が残ってることがある”って分かったんでしょう』
アリシアは歩きながら考えた。
「……うん」
『なら今日はそれで十分じゃない』
「ノアがまとも」
『失礼ね』
「いつも毒舌だから」
『あなたが面倒だからよ』
「ひどい」
けれど、アリシアは笑っていた。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は夕食前の手洗いを終えたところだった。
「見た?」
アリシアの姿を見るなり聞いてくる。
「見た」
「どうだった?」
「いっぱいあった」
「何が?」
「言い方」
「東と西は?」
アリシアは靴を整えてから共用室へ入る。
「九枚は、東と西が全部同じだった」
「同じ?」
「東があった紙は西もあって、東がなかった紙は西もなかった」
「アリシアは?」
「七枚は冷たいっていうのも確認。ひとつは冷たいっていうのは確認されてないけど、東と西はあった。もうひとつは三つともなかった」
子供は指を使って数えようとした。
「七と、一と、一?」
「うん」
「九」
「そう」
「じゃあ分かった?」
「何が?」
「東と西」
「全然」
「全部同じなのに?」
アリシアは一瞬、答えに迷った。
「同じだったことは分かった。でも、何で同じだったかは分からない」
「いつもそれ」
「……そうだね」
『研究なんて大体そんなものよ』
「ノア、研究者じゃないでしょ」
『猫よ』
「知ってる」
子供は納得したのかしていないのか分からない顔で、夕食の席へ向かった。
◇
その夜。
アリシアは自室で机に向かったが、研究記録は開かなかった。
研究棟の正式な紙は持ち帰っていない。
代わりに、学院の展示週間でもらった自由見学会の案内が机の端にある。
三日後。
染色。
友人と行く約束。
「忘れてない」
誰に言うでもなく呟く。
ベッドの上で丸くなっていたノアが片目を開けた。
『何を?』
「染色」
『忘れてたの?』
「忘れてないって言った」
『じゃあ何で確認したのよ』
「研究のことばっかりになってないか確認しただけ」
『自分で?』
「うん」
アリシアは案内の紙を少しだけ机の中央へ寄せた。
明日、研究棟へ行くかはまだ決めていない。
Cの時間窓。
Hの追加文脈。
東西確認判定の共起を独立した問いにするか。
局所形状の作業も続いている。
人工刺激の次の試験は、まだ決まっていない。
知りたいことはいくつもある。
(全部、明日じゃなくていい)
その考えは、以前より自然に浮かんだ。
アリシアは机の灯りを消した。
◇
翌日の昼休み。
友人と食堂へ向かう途中で、アリシアは昨日の結果を簡単に話した。
「九枚全部、東と西が同じだった」
「へえ」
「反応があるかないかの判定だけだけど」
「すごいの?」
「分からない」
「また?」
「でも気になる」
「それは分かる」
二人は食堂の列へ並ぶ。
今日は混んでいて、前には十人以上いる。
厨房から温かいスープの匂いが漂い、食器の触れ合う音が続いていた。
「アリシアの冷たいのは?」
「七枚は確認されてた。一枚は確認されてないけど、別の変な感じは言ってた。もう一枚も確認されてないけど、何を言ってたのか今の資料だけじゃよく分からない」
「難しい」
「うん」
「じゃあ、どうするの?」
「まだ決めてない」
「研究の方ね」
「何が?」
「未定でも前より平気そう」
アリシアは友人を見る。
「そう?」
「前は、分からないって言うときもっと嫌そうだった」
「今も嫌だよ」
「でも顔違う」
「みんな顔で判断しすぎ」
「分かりやすいから」
「ノアも同じこと言う」
「じゃあ正しい」
「二人で組まないで」
友人が笑う。
列が少し進んだ。
◇
その日の放課後、研究棟へ行く予定はなかった。
アリシアは友人と途中まで一緒に帰り、分かれ道で手を振った。
生活観測区画へ向かう途中、空を見上げる。
薄い雲。
風は弱い。
研究の答えは、昨日より増えていない。
けれど、昨日見つかった形は残っている。
既存九記録では、東西の確認判定が九件すべて一致した。
新規前向き独立二記録でも、東西はどちらも確認された。
ただし、それらを一つの十一件へ混ぜてはいない。
対象感覚が確認されないのに東西が確認された記録は、役割の異なる記録群に一件ずつ存在する。
その二件には、どちらにも胸部に関する何らかの主観報告が残っている。
けれど、同じ感覚かは分からない。
何を意味するかも分からない。
アリシアは歩きながら、自分の胸元へ一瞬だけ視線を落とした。
今日は何も感じない。
冷たくもない。
変でもない。
それでいい。
◇
翌々日、研究棟から短い連絡票が届いた。
東西確認判定の共起について、次の検討会で「独立した前向き質問候補」として扱う。
ただし、人工刺激の実施決定ではない。
既存九記録と新規前向き二記録は役割を分けたまま扱う。
Cの詳細時間窓開示、Hの追加文脈確認、局所形状指標の作業については、それぞれ別項目として保留。
アリシアは最後まで読み、机へ置いた。
『嬉しそうね』
「うん」
『刺激やるわけじゃないわよ』
「分かってる」
『答えが出たわけでもない』
「分かってるって」
『じゃあ何が嬉しいの?』
アリシアは少し考えた。
「次に聞けることが、一個ちゃんとした形になりそうだから」
ノアは尻尾を一度だけ動かした。
『なるほど』
「何?」
『別に』
「その言い方嫌」
『褒めたら気持ち悪いって言うでしょう』
「言うかも」
『じゃあ言わない』
「それも嫌」
『面倒』
アリシアは頬を膨らませた。
机の上には研究棟からの連絡票。
その隣には、染色見学の案内。
どちらも、これからの予定だ。
片方だけを選ぶ必要はない。
研究では、東と西だけを切り出した新しい問いが形を持ち始めている。
日常では、友人と見に行く約束がある。
そしてそのどちらにも、まだ結果は書かれていなかった。
アリシアは二枚の紙を重ねず、机の上へ並べたままにした。




