第241話 六枚を、同じ規則で
研究棟から届いた確認票を読んだ日の午後、アリシアは研究棟へ向かわなかった。
残る六件の分類を始めるためには、匿名化した転記資料の作成と、分類を担当する職員たちの予定を揃える必要がある。準備が整ったからといってアリシア自身が分類作業へ加わるわけでもなく、むしろ今は、彼女が余計な情報へ触れないことの方が大切だった。
だから放課後になっても、いつもの鞄を持ったまま友人と一緒に教室を出た。
「今日、行かないの?」
「行かない」
「研究」
「うん。向こうで準備する日だから」
「じゃあ暇?」
「暇って言わないで」
「予定ない?」
「……ない」
「暇じゃん」
廊下には授業を終えた生徒たちが溢れていた。展示週間が近づいているせいか、普段なら真っすぐ寮や自宅へ戻る生徒の中にも、掲示板の前で足を止める者が増えている。
大きな紙の前には、今日も数人の生徒が集まっていた。
仮調査用紙の横に、新しい案内が追加されている。
『展示週間・自由見学会』
参加を決めていない生徒向けに、各分野の準備場所を短時間だけ見学できる日を設けるらしい。
「これ」
友人がすぐ食いついた。
「植物管理もある」
「ほんとだ」
「魔導具制作もあるよ」
「うん」
「基礎魔法実演、薬草加工、染色、保存食、地図制作……結構あるね」
アリシアは案内を上から順に読んだ。
学院の授業で触れたことのある分野もあれば、名前しか知らないものもある。展示週間は研究成果だけを発表する場ではなく、生徒が普段取り組んでいることや、選択授業で作ったもの、部活動に近い小規模な活動まで幅広く扱うらしい。
「どれ見る?」
「私も行くことになってるの?」
「一人より二人の方が楽しい」
「それ、理由になってる?」
「なるよ」
友人は迷いなく答えた。
「植物管理はこの前見たから、別のにしない?」
「別の?」
「染色とか」
「布?」
「布も糸もあるって」
アリシアは案内の小さな説明を読む。
植物や鉱物から色を取り出し、糸や布へ定着させる工程の一部を見学できる。実演内容は当日の材料状態によって変わるため、必ずしも希望の色を見られるわけではない、と注意書きまであった。
「面白そう」
「でしょ?」
「でも今日じゃないよ」
「知ってる。三日後」
「じゃあ忘れないようにしないと」
「アリシア、そういうの忘れなさそう」
「研究じゃないことも覚えてるよ」
「知ってるって」
友人は笑いながら階段を下りていく。
アリシアもその横へ並んだ。
研究棟に六枚の記録があることは、もちろん頭の片隅に残っている。
昨日結果を見たCのことも消えてはいない。
けれど、今は三日後の染色見学の時間を確認している。
その二つが同時に自分の中にあっても、もう不思議ではなかった。
◇
残る六件の分類が始まったのは、その翌日の午後だった。
アリシアは学院の授業を終えてから研究棟へ向かったが、分類室には入らなかった。
案内されたのは、廊下を一つ挟んだ小さな待機室だった。
窓は西側にあり、午後の日差しが斜めに机へ落ちている。置かれているのは長机と椅子、飲み物の入った水差し、それから何冊かの一般向け資料だけで、分類対象の記録は一枚もない。
「本当にここ?」
『閉じ込められたみたいね』
「そういう言い方しないで」
ノアは窓辺へ飛び乗ると、外を見下ろした。
中庭を通る生徒の姿が小さく見える。
「アリシアさん」
サーラが入ってきた。
「待たせましたか?」
「そんなに」
「分類担当者は、もう作業を始めています」
「六件全部?」
「まず資料確認からです。匿名化資料に転記上の問題がないかを確認してから、独立分類へ入ります」
「私、何するの?」
「何もしなくて構いません」
「……本当に?」
「はい」
アリシアは少し困った顔をした。
「来なくてもよかった?」
「それも選べました。ただ、アリシアさんが『分類作業中に自分が何を知ってよくて、何を知らない方がいいか確認したい』と言ったので、今日は来てもらいました」
「言った」
「ですから、最初にそこを確認しましょう」
サーラは向かいの席へ座った。
「現在、アリシアさんが知っているのは、先に開示したA、B、Cの主観報告と三領域の確認状態です」
「うん」
「残る六件については、どの記録が選ばれたか、原文、既存対象感覚判定、東西結果、刺激条件、試験時期、識別情報のいずれも知りません」
「うん」
「分類担当者は、六件の匿名化された主観報告と、分類に必要な発話順序・相対間隔だけを受け取ります。東西結果や既存判定、刺激条件は渡しません」
「前と同じ」
「基本的には。ただし、先日の転記問題を受けて、原記録で発話境界が明示されている場合は、匿名資料でも同じ境界が分かるよう統一しています」
「そこだけ直した」
「はい。分類項目そのものは変えていません」
アリシアは頷いた。
「途中で変なのが出たら?」
「既存の欄で記録できる範囲は記録します。無理なら『規則外/要保留』として原文を残します」
「新しい欄は作らない」
「作りません」
「Cみたいなのがあっても?」
「Cに似ているかどうかを、分類担当者へ探させることもしません」
そこを言われて、アリシアはわずかに肩をすぼめた。
「……私が一番やりたいこと」
『自覚あるなら結構』
「ノアは黙ってて」
「やりたくなること自体は問題ありません」
サーラは穏やかに続けた。
「ただ、今回の作業の目的とは分けます」
「うん」
「分類担当者が見るのは、決めてある欄だけです」
身体部位。
感覚表現。
実際に記録されている強度。
発言形式。
明示された持続や変化。
発言順序と相対間隔。
そして原文そのもの。
それ以上を読み取ろうとしない。
東西反応を当てようともしない。
「私も途中で見ない?」
「今日は見ない方がよいと思います」
「全部終わるまで?」
「少なくとも独立分類が固定されるまでは」
「どのくらいかかる?」
「今日中に終わるとは限りません」
アリシアの眉が少し下がった。
『顔』
「何?」
『今ものすごく不満そう』
「不満じゃない」
「少しは?」
サーラに尋ねられ、アリシアは黙った。
「……三」
「何の三ですか?」
「見たいのに見られない不満」
『数値化した』
「聞かれたから」
サーラが小さく笑う。
「分かりました。不満三としておきましょう」
「記録しなくていいよ」
「しません」
◇
分類作業が続いている間、アリシアは待機室を出た。
結果を見られないのに、扉の向こうで何かが進んでいると思うと落ち着かない。
それなら、ずっと廊下で待っているより一度生活観測区画へ戻った方がいいとサーラに勧められた。
「終わったら呼ばれる?」
「今日の作業終了時点で、進捗だけ伝えます。内容は伝えません」
「何件終わったかは?」
「それは伝えられます」
「規則外があったかは?」
サーラが少し考える。
「分類終了前に伝える必要がありますか?」
「……ない」
「では、それも伏せましょう」
「自分で聞いたのに」
「聞く前に思いつかなかっただけです」
「うん」
アリシアは納得した。
規則外が一件あった。
それだけでも、自分は何か特別な表現があったのではないかと想像するだろう。
Cのようなものかもしれない。
全く違うものかもしれない。
想像した時点で、残る資料を見る目が変わる。
「件数だけ」
「はい」
「じゃあ戻る」
◇
生活観測区画では、子供が床に座っていた。
色紙は今日は出ていない。
代わりに、小さな木片が幾つか並んでいる。
重要な木箱とは関係のない、工作用に職員からもらった端材だった。
「何してるの?」
「並べてる」
「何順?」
「まだ決めてない」
「決めないで並べてるの?」
「うん」
アリシアは近くへしゃがんだ。
細長いもの。
四角いもの。
少し丸みのあるもの。
色も濃さも違う。
「大きさ?」
「それもできる」
「色?」
「それも」
「形?」
「それも」
『分類したくて仕方ない人が帰ってきたわ』
「違うよ」
ノアの言葉に、アリシアはすぐ反論した。
「これは遊び」
『じゃあ口を出さない』
「聞いただけ」
子供が一番細い木片を持ち上げる。
「アリシアもやる?」
「何を?」
「並べる」
「どう並べるの?」
「好きに」
「……それが一番難しい」
「何で?」
「決まりがないから」
「決まりなくていいよ」
アリシアは少し考えてから、子供の隣へ座った。
木片を一つ取る。
研究なら、途中で規則を変えれば意味が変わる。
けれどこれは遊びだ。
最初は長さで並べて、途中から色へ変えてもいい。
気に入った形だけ集めてもいい。
意味がなくてもいい。
「じゃあ、これここ」
「何で?」
「置きたいから」
「うん」
子供はあっさり受け入れた。
アリシアもそれ以上説明しなかった。
◇
夕方になって、研究棟から連絡が来た。
六件中、四件の独立分類が終了。
残る二件は翌日へ持ち越し。
分類内容は未開示。
分類規則の変更なし。
アリシアは連絡票を最後まで読んだ。
「四枚」
「何が?」
子供が木片を箱へ戻しながら尋ねる。
「昔の記録」
「見られる?」
「まだ」
「明日?」
「たぶん、全部終わってから」
「じゃあ明日かも」
「うん」
言いながら、アリシアは自分の胸の奥に浮いた期待を感じた。
(あと二枚)
何が書かれているのだろう。
明確に冷たいと報告した記録ばかりなのか。
Cのような曖昧なものがあるのか。
胸以外の報告もあるのか。
何も感覚を言っていない記録はどう扱われているのか。
考え始めると、次々に想像が出てくる。
「アリシア」
「何?」
「それ、ずっと見るの?」
子供が連絡票を指差していた。
「見ても増えないよ」
アリシアは紙を机へ置いた。
『子供にまで言われてる』
「分かってる」
口ではそう答えたものの、少し恥ずかしかった。
◇
翌朝の学院は、風が強かった。
校庭の木々が大きく揺れ、窓を閉めた教室の中まで枝葉の擦れる音が届く。
一時間目は実技ではなく、生活基礎の授業だった。
衣類の簡単な補修について、教師が実物を見せている。
裂けた布をそのまま縫い合わせるのではなく、傷み方によって当て布を使う。
糸を強く引きすぎれば、直した場所だけが縮んでしまう。
「アリシア、できる?」
友人が小声で尋ねた。
「縫うの?」
「うん」
「少しなら」
「私、苦手」
「前に針使ったことある?」
「あるよ。指も刺した」
「それは使えたって言わないんじゃない?」
「一応布も縫えた」
「一応って」
教師が練習用の布を配り始めた。
二人の前にも、小さく切れ目の入った布が置かれる。
「これ直すの?」
「そうみたい」
「アリシアやって」
「自分でやる授業でしょ」
「見本」
「先生が見せたよ」
「近くの見本」
「嫌」
「即答」
アリシアは自分の針へ糸を通した。
子供と一緒に小さな袋を作ったときより、布は薄い。
縫い目を細かくしすぎないよう注意しながら、端を合わせる。
「……うまい」
友人が横から覗く。
「普通」
「私の見て」
「まだ何もしてない」
「糸が通らない」
「貸して」
「やった」
「そこから?」
「そこから」
アリシアは呆れながら針を受け取った。
窓の外では強い風が吹き続けている。
教室の中では、糸を絡ませた生徒が教師を呼び、別の机では当て布の向きを逆にして笑い声が上がっていた。
研究棟の六枚は、今ここにはない。
針穴へ糸を通すことにも、Cの結果にも関係はない。
アリシアは友人へ針を返した。
「はい」
「ありがとう」
「今度は自分で縫って」
「失敗したら?」
「ほどく」
「直せる?」
「たぶん」
「じゃあやる」
友人はようやく針を布へ入れた。
◇
昼休みになる頃には、朝の強風も少し弱まっていた。
今日は外へ出ず、教室で昼食を取る。
展示週間の話題はさらに広がっていて、前方の机では数人が魔導具制作の見学枠について相談していた。
「染色、申し込む?」
友人が尋ねる。
「見学だけなら申し込みいらないって」
「混んだら?」
「人数多いと順番待ち」
「じゃあ早めに行こう」
「授業終わってからで間に合うよ」
「アリシア、研究入ったら?」
手を止める。
「三日後?」
「うん」
「まだ予定ない」
「入ったら?」
アリシアは少し考えた。
以前なら、研究が入ればそちらを優先したかもしれない。
今も重要な試験ならそうする可能性はある。
けれど、分類結果を見る日を自分の都合で三日後へ重ねる必要はない。
「先に約束したから、染色行く」
「研究より?」
「研究は時間ずらせるならずらす」
「へえ」
「何?」
「別に」
「その顔何?」
「ちょっと意外だっただけ」
「私だって約束くらい守るよ」
「知ってる」
友人は笑って昼食を続けた。
アリシアも食べ始める。
胸の奥に、少しだけ不思議な感覚があった。
研究を大事にしなくなったわけではない。
むしろ、今も結果は知りたい。
それでも、知りたいからといって、すべてをそこへ合わせなくてもいいと思える。
(研究がなくなるわけじゃない)
友人との見学も、研究も、どちらか一つしか持てないわけではない。
◇
午後の授業が終わった直後、研究棟から二通目の連絡が届いた。
残る二件の独立分類終了。
六件すべてについて、一次分類完了。
規則変更なし。
ただし、一件に「規則外/要保留」の記載あり。
アリシアの視線が、その一行で止まった。
「……あるんだ」
「何が?」
鞄を閉じていた友人が顔を上げる。
「決めてた分類に入らないところが、一個あったって」
「悪いの?」
「悪いっていうか……」
アリシアは連絡票を見直す。
昨日は、規則外があったかどうかも途中では教えないと決めた。
今は六件すべての一次分類が終わったため、作業状況として伝えられたらしい。
「無理に入れなかったってこと」
「じゃあいいんじゃない?」
「うん。たぶん」
「今日見に行く?」
「まだ」
「終わったんでしょ?」
「一次分類が終わっただけ。担当した人同士で違うところがないか確認する」
「へえ」
「それが終わってから」
友人は連絡票とアリシアの顔を交互に見た。
「気になる?」
「すごく」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「うん」
「……帰る」
「研究棟に?」
「違う。今日は行っても見られないから」
「偉い」
「何で上からなの」
友人が笑う。
アリシアも少しだけ口元を緩めた。
◇
研究棟ではその頃、六件分の分類票が机へ並べられていた。
アリシアはそこにはいない。
分類担当者三名と記録担当職員、若い観測員が、互いの票を一項目ずつ照合していた。
東側結果は別保管。
西側結果も別保管。
既存対象感覚判定も伏せたまま。
試験識別番号も、分類担当者が過去の試験を思い出せないよう別符号へ置き換えられている。
「D、身体部位。三名一致」
記録担当職員が確認する。
「感覚表現、一致」
「強度情報、一致」
「発言形式、一致」
紙を一枚ずつ進めていく。
E。
F。
G。
大部分は、固定した欄で問題なく整理できた。
しかしHに相当する匿名記録で、三名とも同じ箇所へ「規則外/要保留」を付けていた。
「ここですね」
一人の分類担当者が原文転記を指す。
短い発言系列。
身体部位についての明示はない。
感覚の有無を単純に述べてもいない。
質問とも、明確な推測とも少し違う。
既存の粗い発言形式分類へ押し込めようとすればできなくはないが、そのためには分類者側の解釈が必要になる。
「三人とも保留」
「はい」
「なら、現規則では保留のままにします」
若い観測員が言った。
「新しい分類を足す必要は?」
「今はありません」
「残り九件全体を見た後、方法改訂候補として検討することは?」
「可能ですが、現行九件の結果との対応を見る際には、この記録を後付け分類で処理しない方がいいでしょう」
「原文保持、規則外」
「それで固定します」
誰も、その記録の東西結果を見なかった。
◇
翌日の放課後。
アリシアは再び研究棟へ呼ばれた。
今度はノアも最初から会議室へ入る。
机には、先日より多い紙が並んでいた。
A、B、C。
その続きに、D、E、F、G、H、I。
九つの匿名符号。
ただし、結果票はまだ伏せられている。
アリシアは椅子へ座った。
「全部終わった?」
「主観報告の固定規則による分類は終わりました」
サーラが答える。
「三名の分類担当者による照合も終了しています」
「違ったところあった?」
「軽微な記載確認はありましたが、主要項目で解釈が割れて固定不能になった記録はありません。ただし、連絡した通り、一件に規則外/要保留があります」
「それ見ていい?」
「今日はそこを含め、DからIまでの主観報告と分類結果を開示できます」
「東と西は?」
「まだ分けて見ることもできます」
アリシアは机の端に置かれた伏せ札を見る。
「最初に言葉だけ?」
「その方針で始めた作業です」
「うん」
答えは早かった。
「言葉だけ先に見る」
◇
最初はDだった。
記録担当職員が匿名化転記をアリシアの前へ置く。
そこには短い発話が二つあった。
『胸が冷たい』
少し後。
『弱くなった』
身体部位は胸部。
感覚表現は明示的温度語。
記録された強度は数値あり。
発言形式は断定。
持続・変化は「弱くなった」という変化表現あり。
アリシアは読み終え、静かに頷いた。
「これは、AとかBに近く見える」
「その印象は記録しますか?」
「ううん。今はいい」
「分かりました」
E。
『今、胸のあたりが冷たい気がする』
後続の確認に、
『まだ少しある』
数値強度あり。
胸部。
温度語。
ただし発言形式は最初が推測を含む。
持続情報あり。
「同じ『冷たい』でも言い方違う」
「はい」
アリシアはそれ以上言わなかった。
F。
最初の発言は、
『……何か来た?』
少し後に、
『胸。冷たい』
さらに短い間隔の後、
『もう弱い』
アリシアの指が紙の上で止まった。
これは、以前時間窓を整理したときに扱ったような、曖昧な問いかけから明確な身体報告へ続く形だった。
けれど、どの試験だったかは匿名化されている。
「これ、最初の『何か来た?』だけなら、感覚って決めないんだよね」
「はい。報告系列として後続発話まで保持していますが、最初の問いだけを確認済み身体感覚とは扱いません」
「前に決めたのと合ってる」
「時間窓規則とは目的が異なりますが、原文を勝手に強くしないという点は共通しています」
「うん」
G。
『胸のところが少し冷たい』
一発話。
後続の追加報告はなし。
記録された数値強度あり。
明示的温度語。
断定。
身体部位は胸部。
「短い」
「原記録上、この対象報告系列はこれだけです」
「足さない?」
「足しません」
アリシアは頷いた。
そして次の紙へ目を向けた。
「これが保留?」
「次のHです」
◇
Hの紙には、二つの発話が記録されていた。
アリシアは最初の一行を読む。
『……さっきと違う』
その少し後。
『もう戻ったと思う』
それだけだった。
身体部位は明示されていない。
冷たいとも、痛いとも、重いとも言っていない。
何が「違う」のかも、匿名化資料に残された発話だけでは特定できない。
「これ……」
アリシアは眉を寄せた。
「何が違うの?」
「分類担当者には分かりません」
「前に何か言ってたとか?」
「対象系列の前に、分類上必要な範囲を超える文脈がある可能性はあります。ただし、その文脈を追加すれば試験条件や識別情報の推測につながる可能性があるため、今回の匿名分類資料には含めていません」
「だから保留?」
「はい」
記録担当職員が分類票を示す。
身体部位――不明。
感覚表現――規則外/要保留。
強度――記録なし。
発言形式――「違う」という比較的表現はあるが、現行の断定/推測/質問という粗分類だけでは、何を断定しているかが不明なため要保留注記。
持続・変化――「もう戻ったと思う」という変化・復帰表現あり。ただし何が戻ったのかは推定しない。
発言順序と相対間隔――保持。
「三人とも?」
「三人とも、ほぼ同じ理由で保留しました」
「無理に『変な感じ』にはしなかった?」
「していません」
「『戻った』から、何か感じてたって決めてもない?」
「決めていません」
アリシアは紙をじっと見る。
(気になる)
当然だった。
何が違ったのか。
何が戻ったのか。
そのとき東や西では何が起きていたのか。
既存対象感覚判定はどうだったのか。
けれど、その問いは今の紙だけでは答えられない。
「これ、原記録を見たら分かる?」
「分かる可能性はあります」
「じゃあ後で見る?」
「必要性を決めてからです」
「結果見る前?」
部屋に短い沈黙が落ちた。
若い観測員が答える。
「そこは決める必要があります。Hだけ文脈を追加してから結果を見るのか。九件すべてについて同じ追加文脈規則を作るのか。それとも現行分類ではHを保留のままにして、結果との対応を見るのか」
「Hだけ増やしたら?」
「Hを見た後に特別扱いしたことになります」
「でも規則外だから、理由はある」
「はい。ですから絶対に不適切とは言いません。ただし、その場合は『規則外が出たため追加文脈を開いた』という別段階の探索になります」
「……今の九枚の分類には戻さない方がいい?」
「少なくとも、何もなかったことにして後から通常分類へ混ぜるべきではありません」
アリシアは紙から目を離した。
「じゃあ保留のままでいい」
言ってから、少し唇を尖らせる。
「気になるけど」
『あなた、今日はそればっかりね』
「だって気になるもの増えるんだもん」
『研究って便利ね。答えを探すたび疑問が増える』
「便利ではないよ」
『皮肉よ』
「知ってる」
◇
最後はIだった。
そこには、Hとは違って明確な言葉が残されていた。
『胸が少し冷たい』
後続して、
『まだあるけど、弱い』
数値強度の記録あり。
胸部。
明示的温度語。
断定。
持続あり。
アリシアは読み終え、九枚を順に見渡した。
AからI。
紙の枚数だけなら多くない。
けれど、以前は「対象感覚確認」か「非確認」という欄で見ていたものが、今は言葉の違いを持って並んでいる。
明確に「冷たい」と言ったもの。
「気がする」と推測を含んだもの。
問いから始まり、後から冷感を明示したもの。
短い一発話だけのもの。
Cのように「冷たいっていうより、ぞわっとする」と修正したもの。
Hのように、何が違うのかさえ現在の規則では決められないもの。
「思ってたより違う」
アリシアが言った。
「何がですか?」
「昔の私の言い方」
指先で紙の端を揃える。
「もっと、反応あったときは全部『冷たい』って言ってる感じだと思ってた」
「それは、以前の確認/非確認判定から受けた印象ですか?」
「たぶん」
「今回の分類は、その判定を否定するものではありません」
「分かってる。冷たいってちゃんと言って、基準も満たしてる記録は確認のまま」
「はい」
「でも、確認じゃない側にも、何も言ってないとは限らない」
Cを思い出す。
Hはまだ結果を知らない。
だから、Hを「非確認側」と決めてはいけない。
アリシアは自分で言葉を止めた。
「……Hはまだ分からない」
「はい」
「今言えるのは、九枚の主観報告の原文には、言い方の違いがある」
「そうですね」
「その違いと東西の結果が関係あるかは、まだ見てない」
「はい」
アリシアは息を吐いた。
「見たい」
「今日は、そこまで進めることもできます」
サーラが言った。
アリシアが顔を上げる。
「今?」
「主観報告分類は九件すべて固定されました。Hは保留を含む状態で固定です。結果票は別管理されたままです」
「全部?」
「はい」
「A、B、Cはもう知ってる」
「残るDからIについて、既存対象感覚判定と東西確認状態を同じ形式で開く準備はできます」
アリシアの心臓が一度大きく鳴った。
見たい。
今すぐ。
Cのような記録がほかにもあるのか。
明確な冷感記録がすべて三領域確認なのか。
Hは何だったのか。
頭の中で問いが一斉に動き始める。
「……今日、開いていいの?」
「手順上は可能です」
「でも?」
「アリシアさんの状態と、今日どこまで情報を受け取るかです」
サーラは急かさなかった。
「先ほどまで六件の原文を初めて読んでいました。特にHでは、新しい疑問も出ています」
「うん」
「ここで結果を開くか、一度置くか。どちらでも構いません」
アリシアは目の前の紙を見た。
昨日までなら、たぶん開いた。
Cの結果を知った今なら、なおさら開きたい。
けれど、今日は六件の言葉を初めて見た。
その印象がまだ新しい。
結果を見る前の自分が何を感じたのか、少しだけ残しておきたいと思った。
「先に……私が今どう思ったか、書いていい?」
「もちろんです」
「結果の予想じゃなくて」
「はい」
「どれが東西反応ありそうとかじゃなくて、言葉を見て思ったこと」
「それなら、結果開示前の印象として別紙へ残せます」
記録担当職員が新しい紙を出した。
アリシアは少し考える。
「D、E、F、G、Iは、表現は違うけど、明確に冷たいって言ってる」
「はい」
「Cは違う。冷たいっていうより、ぞわっとするって修正してる」
「はい」
「Hは、今の紙だけじゃ何の感覚か分からない」
「はい」
「私はCを第二の新しい記録と似てると思ってる。でも、その期待がある」
「記録済みです」
「Hも気になる。でも、Cと似てるとは思ってない。情報が足りないから」
「はい」
「それと……」
アリシアは六枚を見た。
「明確な冷たさにも、言い方がいろいろあるのが面白かった」
記録担当職員が書き留める。
「以上ですか?」
「うん」
「結果を予想しますか?」
アリシアは首を振った。
「しない」
「理由は?」
「当てたくなるから」
『正直』
「それに、C見た後だから、曖昧な言葉に反応があるって予想しそう」
「分かりました」
サーラが頷く。
「では、ここで一度休憩を入れましょう」
「そのあと結果?」
「アリシアさんが希望すれば」
「……うん」
◇
休憩中、アリシアは研究棟の小さな中庭へ出た。
日が傾き始めている。
植え込みの葉が風で揺れ、その影が石畳の上をゆっくり動いていた。
ノアは低い石壁へ乗る。
『開けるの?』
「たぶん」
『たぶん』
「見たい」
『それは聞かなくても分かる』
「でも、ちょっと疲れた」
『なら帰れば?』
「疲労は三くらい」
『数字じゃなくて』
アリシアはノアを見る。
黒い尻尾が石壁の縁から垂れている。
「頭がいっぱい」
『それを疲れたって言うのよ』
「……うん」
六件の言葉。
Hの保留。
C。
第二の新しい記録。
全部が頭の中で並び始めている。
ここへ東西結果まで入れたら、今日はそればかり考えるかもしれない。
(見たい)
それは変わらない。
(でも、今じゃなくても消えない)
結果票は逃げない。
分類も固定された。
今日帰ったからといって、明日内容が変わるわけではない。
「ノア」
『何?』
「今日は帰る」
『へえ』
「何、その反応」
『別に』
「意外だった?」
『少し』
「私も」
アリシアは笑った。
◇
会議室へ戻ると、サーラたちは結果票をまだ伏せたまま待っていた。
「今日は開かない」
アリシアが言う。
「分かりました」
「明日でもいい?」
「もちろんです」
「明日、学校終わってから」
「予定を確認します」
「それと、Hの原文の追加文脈はまだ見ない」
「はい」
「先に、今の固定された九件の分類と、既存判定と東西だけを見る」
「Hも規則外/要保留のまま?」
「うん」
「その後、追加文脈を見る必要があるか考える」
「分かりました」
アリシアは椅子から立った。
「体調確認だけしましょう」
「痛みゼロ。息苦しさゼロ。胸も何もない。疲労三」
「怖さは?」
「二」
「知りたい気持ちは?」
「九」
『また九』
「でも帰れるからいいでしょ」
「それは大切な違いですね」
サーラの言葉に、アリシアは少しだけ照れたように視線を逸らした。
「明日見るから」
「はい」
「絶対?」
『子供みたい』
「だって」
サーラは笑みを浮かべる。
「予定上の問題がなければ、明日の放課後に」
「うん」
◇
研究棟を出ると、空には薄い夕焼けが広がっていた。
西側の雲だけが淡い橙色に染まり、学院の屋根の影が長く地面へ伸びている。
アリシアは歩きながら、明日開かれる六枚の結果を考えそうになった。
Dはどうだろう。
Eは。
Fは。
Hは。
そこまで考えたところで、意識してやめる。
予想しないと決めたばかりだった。
『難しそうね』
「何が?」
『考えないこと』
「考えてない」
『今、眉間に皺寄ってたけど』
「風が眩しかっただけ」
『風は眩しくない』
「夕日」
『最初からそう言いなさい』
アリシアはむっとしたが、すぐに小さく笑った。
明日になれば見る。
今日は見ない。
その区切りだけで十分だった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が昨日の木片を積み上げていた。
三段目まで積んだところで、一番上の細い木片が傾いている。
「倒れそう」
「言わないで」
「でも」
「言うと倒れる」
「言わなくても倒れるよ」
アリシアが近づいた瞬間、木片が一つ滑った。
その下の二つも巻き込み、小さな音を立てて床へ散らばる。
子供が無言でアリシアを見た。
「……私のせいじゃない」
「言ったから」
「違うよ」
『言霊使いだったのね』
「ノアまでやめて」
子供は笑いながら木片を拾い始めた。
アリシアもしゃがみ、一つ拾う。
「研究見た?」
「言葉だけ見た」
「東と西は?」
「明日」
「今日見なかったの?」
「うん」
「何で?」
アリシアは少し考えた。
「いっぱいだったから」
「何が?」
「頭」
「痛い?」
「痛くないよ」
「じゃあいっぱい?」
「いろいろ考えることが入ってる感じ」
子供は木片を持ったまま首を傾げた。
「入らなくなる?」
「たぶん、入るけど……混ざる」
「じゃあ明日?」
「うん」
「それがいいね」
「簡単に言うね」
「だって明日もあるよ」
アリシアの手が止まった。
子供はもう次の木片を拾っている。
特別な意味を込めて言ったわけではないのだろう。
ただ、明日もある。
それだけ。
「……うん」
アリシアも木片を拾った。
◇
翌日。
授業が終わる少し前から、アリシアは時計を見る回数が増えていた。
友人に二度目で気づかれた。
「今日なんだ」
「何が?」
「研究」
「何で分かるの?」
「時計」
「見てただけ」
「五分で二回」
「数えてたの?」
「たまたま」
アリシアは視線を逸らした。
「今日、結果見る」
「昨日見なかったやつ?」
「うん」
「緊張してる?」
「ちょっと」
「嬉しいの続くといいね」
アリシアは返事を急がなかった。
「違う結果でも、前に嬉しかったのが消えるわけじゃないよ」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
授業終了の鐘が鳴る。
生徒たちが一斉に立ち上がり、教室へざわめきが戻った。
アリシアは鞄を持つ。
研究棟へ向かう足取りは昨日より速い。
それでも走らなかった。
◇
会議室の机には、DからIまでの六枚が並んでいた。
その隣に、伏せられた六枚の結果票。
A、B、Cは別の場所へまとめられている。
アリシアは席へ座り、呼吸を整えた。
「体調から確認します」
サーラの声に頷く。
「痛みゼロ。息苦しさゼロ。胸の違和感ゼロ。頭痛もない」
「疲労」
「二」
「怖さ」
少し考える。
「三」
「何が怖いですか?」
「思ってたのと全然違うかもしれないこと」
「予想しないと決めていましたね」
「決めたけど、勝手に期待はある」
「どんな期待ですか?」
アリシアは結果票を見た。
「Cだけじゃないかもしれないって、ちょっと思ってる」
「Cのような、既存対象感覚非確認でも東西が確認される記録が?」
「うん」
「その期待を記録してよいですか?」
「うん」
記録担当職員のペンが動く。
「ほかには?」
「明確に冷たいって言ってる記録は、東西もあるんじゃないかって思ってる」
「それも期待として記録します」
「でも、外れても分類は変えない」
「はい」
「Hは分からない」
「はい」
「……開けたい」
サーラはアリシアの顔を見た。
「続行希望は?」
「九」
「無理をしてでも知りたい気持ちは?」
「六」
「六」
「昨日帰ったから、今日は見たい。でも具合悪くても見るほどじゃない」
「分かりました」
サーラは他の職員と短く確認を交わした。
「では、昨日固定した通り、DからIを同じ形式で開示します」
既存対象感覚判定。
東側奥部対象反応。
西側対象反応。
詳細時間窓はまだ開かない。
刺激条件も開かない。
試験識別情報も開かない。
アリシアは両手を膝の上へ置いた。
「お願いします」
若い観測員がDの結果票へ手を伸ばす。
紙が裏返される。
アリシアの視線が、最初の一行へ落ちた。
既存対象感覚判定――確認。
その下には、まだ二つの欄が並んでいる。
東側奥部対象反応。
西側対象反応。
昨日まで言葉だけだった六枚に、初めて別の側の情報が重なり始める。
アリシアは息を止めそうになり、ゆっくり吐いた。
ここから先は、もう予想ではない。
だからこそ、急いで一つの答えにしない。
そう自分へ言い聞かせながら、アリシアは次の欄が開かれるのを待った。




