第240話 三枚の裏側を開く日
最初の三枚に対応する東西の結果を開く日は、翌日には来なかった。
研究棟から届いた連絡には、三件の匿名化資料について転記仕様の修正確認を行うこと、主観報告分類そのものは固定したまま保存すること、そのうえで東側・西側・既存の対象感覚判定を同じ手順で開示できるよう準備することが書かれていた。
アリシアは連絡票を二度読んだあと、机の上へ戻した。
「今日じゃない」
『見れば分かる』
「分かってる」
『残念?』
「残念」
『素直ね』
「だって見たいもん」
窓辺では朝の光を受けたカーテンが緩く揺れていた。昨夜は少し風が強かったが、朝になると静まり、空には薄い雲が残っているだけだった。
アリシアは制服の襟元を整え、鞄を持つ。
研究の続きを知りたい気持ちは、昨日より小さくなってはいない。
それでも、連絡票を持って研究棟へ向かうこともしなかった。
「学校行く」
『知ってる』
「ノアも行く?」
『途中まで』
「途中?」
『今日は朝から全部付き合う気分じゃないの』
「自由だね」
『猫だから』
いつもの答えに、アリシアは小さく笑った。
◇
学院へ着くと、教室の後方に貼られた展示週間の案内が増えていた。
前にあった共用場所や申請設備の一覧に加えて、今度は参加希望の仮調査用紙が貼られている。
正式な申請ではない。
どの分野に興味があるか。
見学だけを希望するか。
何か展示してみたいか。
複数人で参加する可能性があるか。
まだ決まっていない者は「未定」でも構わないと、大きく書かれていた。
「未定が正式な選択肢になってる」
アリシアが言うと、隣で掲示を見ていた友人が笑った。
「よかったね」
「何で私に言うの?」
「最近のアリシアにぴったりだから」
「そっちだって秘密のノートの使い道、まだ決まってないでしょ」
「決まってるよ」
アリシアが振り返った。
「決まったの?」
「うん」
「何?」
「秘密」
「決まったら教えるって言った」
「人に見せてもいいものだったら、って条件つき」
「……覚えてる」
「アリシアも覚えてるじゃん」
「覚えてるよ」
友人は楽しそうに仮調査用紙を見る。
「アリシア、展示する?」
「分からない」
「植物は?」
「見る」
「参加じゃなくて?」
「まだ選択授業にするかも決めてないし」
「研究展示とかは?」
アリシアは少し黙った。
六つ目の神器に関する研究。
東側と西側。
人工刺激。
時間窓。
過去の記録。
今進めている主観報告の分類。
学院の展示週間で気軽に見せられるようなものではない。
「それは私が決めることじゃないと思う」
「そっか」
「それに、まだ分かってないこと多いから」
「分かってない研究って展示できないの?」
「……どうだろう」
「知らない」
「聞いたのそっちじゃん」
「今度先生に聞けば?」
「展示したいわけじゃないよ」
「じゃあ未定」
「何でも未定にしないで」
「便利だよ、未定」
担任が教室へ入ってきたため、二人は自分の席へ戻った。
◇
一時間目は地理だった。
今日は地図上の高低差を読み取る課題で、複数の経路から目的地までの道を選ぶ。
最短距離が最も歩きやすいとは限らない。
等高線の間隔が狭い場所は傾斜が強く、荷物が多い場合には遠回りでも緩やかな道を使う方がよいことがある。
「三番」
友人が小声で言った。
「まだ先生、相談していいって言ってない」
「答えじゃなくて予想」
「それを答えって言うんじゃないの?」
「アリシアは?」
「二番かな」
「違うじゃん」
「だから自分で考えて」
「薄情」
教師が相談開始の合図を出す。
二人は地図を机の中央へ寄せた。
「三番は近いけど、ここ急じゃない?」
アリシアが指差す。
「でも二番、遠すぎない?」
「荷物ありって書いてある」
「どのくらいの荷物?」
「そこは書いてない」
「じゃあ軽いかもしれない」
「それなら条件の意味なくない?」
「確かに」
前の席の男子生徒が振り返る。
「俺ら四番なんだけど」
「四番?」
「川沿い」
「橋一個多いよ」
「でも平ら」
四人で地図を見比べる。
結局、教師が求めていたのは一つの正解だけではなかった。
距離を優先するのか。
勾配を優先するのか。
橋や道幅をどう見るのか。
条件によって選択が変わることを説明できればよいらしい。
「じゃあ三番でもいいじゃん」
友人が言う。
「荷物が軽いならね」
「最初からそう言った」
「言ってない」
「心の中で」
「知らないよ」
教室のあちこちから似たような声が聞こえた。
教師は黒板へ幾つかの経路を書きながら、それぞれの理由を整理していく。
アリシアも自分の用紙へ二番を選んだ理由を書いた。
研究とは関係ない。
ただの授業だ。
それでも、友人と違う答えを出して、どちらかがすぐ間違いになるわけではない時間は楽しかった。
◇
昼休み。
今日は中庭の芝も乾いていたため、二人は外へ出た。
日差しは弱いが、風は穏やかだった。
近くでは別のクラスの生徒たちが展示週間について話している。何人かはもう参加内容を決めているらしく、材料の相談をしていた。
「研究、今日?」
友人が尋ねる。
「まだ連絡ない」
「昨日の続き?」
「うん」
「見たいんでしょ?」
「見たい」
「昨日我慢したのに?」
「我慢したから見たくなくなるわけじゃないよ」
「それもそうか」
友人は昼食の包みを開く。
「昨日、見つかったんだっけ。似てるやつ」
「似てるって決まったわけじゃない」
「そうだった」
「一部、似てるように私が感じた言葉があった」
「長くなった」
「大事なの」
「はいはい」
アリシアは少し眉を寄せた。
「本当に違うんだよ。私、最初から似たのがあってほしいって思ってたから」
「だから自分の『似てる』を信用しすぎない?」
「うん」
「でも、似てると思ったこと自体は本当なんでしょ?」
アリシアは友人を見る。
「……うん」
「じゃあ、それはそれでいいんじゃない?」
「研究だと、それだけじゃ駄目」
「研究の答えにするんじゃなくて、アリシアがそう思ったって話」
友人は飲み物へ口をつける。
「嬉しかった?」
「ちょっと」
「じゃあよかったね」
「でも――」
「その後に『でも』つけるの、研究棟でやれば?」
アリシアは口を閉じた。
友人が笑う。
「昼休みなんだから、ちょっと嬉しかったでいいじゃん」
「……そうかな」
「私はそう思います」
アリシアはしばらく考え、それから小さく頷いた。
「じゃあ、ちょっと嬉しかった」
「よろしい」
「何で先生みたいなの」
「友達です」
その答えに、アリシアは少しだけ笑った。
◇
研究棟から連絡が届いたのは、午後最後の授業が終わった直後だった。
準備完了。
三件の主観報告分類は固定済み。
匿名化転記仕様の修正記録も完了。
希望する場合、本日、既存対象感覚判定および東西対象反応の結果を、三件同時に開示可能。
アリシアは連絡票を読み終えたまま、しばらく動かなかった。
「来た?」
隣で友人が聞く。
「うん」
「今日?」
「今日見られる」
「行く?」
「行く」
今度は迷わなかった。
友人は鞄を持ち上げる。
「じゃあまた明日」
「うん」
「急いで転ばないでね」
「転ばない」
「水溜まりもないし」
「何で知ってるの?」
「この前、避けて歩いてたの見たから」
「見てたの?」
「目立ってたよ」
「……普通に避けてただけなのに」
友人が笑いながら手を振る。
アリシアも手を振り返し、教室を出た。
走らない。
けれど、歩幅はいつもより少しだけ大きかった。
◇
研究棟の会議室には、前に見た三枚の匿名記録が置かれていた。
A。
B。
C。
今日は、その横に三枚の伏せられた結果票がある。
サーラ、記録担当職員、若い観測員。
副学院長も少し離れた席にいた。
ノアはアリシアと一緒に入ると、机の端ではなく窓際へ移動した。
「先に体調だけ確認します」
サーラが言う。
「人工刺激ではありませんが、今日はアリシアさん自身の過去記録を扱います。途中で気分が悪くなった場合は止めます」
「うん」
「痛みは?」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸の冷たさや、気になる違和感」
「ゼロ」
「頭痛、吐き気、めまい」
「ない」
「疲労感は?」
アリシアは少し考えた。
「二」
「結果を知りたい気持ちは?」
「九」
『高い』
「知ってる」
アリシアは自分で答えた。
「怖さは?」
少し時間を置く。
「二……か、三」
「何が怖いですか?」
「Cの結果」
即答した。
「反応があっても、なくても、すぐ意味つけそうだから」
「その可能性を自覚している?」
「うん」
「それでも今日開きたいですか?」
「開きたい」
「止める選択肢もあります」
「分かってる。でも、今日は見たい」
サーラは頷いた。
「では、開示前に昨日の記録をもう一度確認します」
記録担当職員が紙を読み上げた。
アリシアには、過去にも第二の新しい前向き記録と一部似た弱い主観報告が存在してほしいという事前期待がある。
記録Cの原文を見た段階で、一部類似している印象を持った。
ただし、同一感覚とは判断していない。
場所、表現、強度記録の有無が異なる。
類似性を判定する事前規則はない。
東西結果および既存対象感覚判定は、その印象記録時点では未開示。
「合ってる?」
「うん」
「追加は?」
アリシアは少し考える。
「今も、似てるかもしれないって思ってる」
「はい」
「でも、昨日より強くなったとかはない」
「分かりました」
◇
「開示方法を確認します」
若い観測員が三枚の結果票へ手を置く。
「A、B、Cを同じ形式で示します。Cだけ先に見たり、特定項目だけ後回しにはしません」
「うん」
「各記録について、まず既存の対象感覚判定、次に東側奥部の対象反応判定、西側の対象反応判定を示します」
「時間窓は?」
「今日はまず確認/非確認のみです。詳細な時間窓や波形形状は、この三件の初回結果開示とは分けます」
「何で?」
「一度に多くの情報を入れすぎないためです。また、今回の最初の問いは、主観報告の新しい分類と既存判定・東西確認状態を対応させて見る準備ができるかどうかです」
「対応を見るのは今日?」
「三件について記述的に並べるところまでは可能です。ただし、三件だけで分類との関係を結論づけません」
「分かった」
「Aから開けます」
アリシアは背筋を伸ばした。
◇
記録A。
原文は前に見た。
『……冷たい。胸のところ』
明確な胸部冷感。
記録強度あり。
後に弱まった報告あり。
結果票が表へ返される。
既存対象感覚判定――確認。
東側奥部対象反応――確認。
西側対象反応――確認。
「三つとも」
「はい」
アリシアは頷いた。
驚きは大きくない。
明確な冷感報告だったから、既存対象感覚判定が確認なのは自然だった。
ただし、東西まで揃っていることは、原文だけでは分からなかった。
「次へ進めますか?」
「うん」
記録B。
『胸が冷たい。さっきより弱い』
こちらも明確な温度表現。
比較表現。
記録強度あり。
結果票が返る。
既存対象感覚判定――確認。
東側奥部対象反応――確認。
西側対象反応――確認。
アリシアは少し唇を結んだ。
「AとBは同じ?」
「三領域の確認/非確認だけを見れば、どちらも三領域確認です」
「でも言葉は同じじゃない」
「はい」
Aは短く明確な冷感報告。
Bは冷感に加えて、前の感覚との比較がある。
新しい分類では、その違いも残っている。
「……C」
アリシアが言った。
「進めますか?」
「うん」
◇
記録Cの原文が、もう一度目の前へ置かれた。
『胸の奥が、少し変。冷たいっていうより、ぞわっとする感じ』
少し後に、
『もう気にならない』
数値強度なし。
胸部。
温度関連語はあるが、単純な冷感肯定ではない。
その他身体異常表現「ぞわっとする感じ」。
言語的程度表現「少し」。
持続についての表現あり。
表現推移あり。
アリシアは自分の呼吸が少し浅くなったことに気づいた。
「一回待って」
「はい」
誰も結果票へ触れない。
アリシアはゆっくり息を吸った。
吐く。
胸に冷たさはない。
痛みもない。
ただ緊張している。
「大丈夫」
「怖さは?」
「三」
「続けますか?」
「うん」
若い観測員が結果票を返した。
既存対象感覚判定――非確認。
アリシアの目が止まる。
その下。
東側奥部対象反応――確認。
さらに下。
西側対象反応――確認。
しばらく、誰も話さなかった。
「……同じ」
アリシアの口から言葉が落ちる。
直後、自分で首を振った。
「違う。待って。『同じ』って言っちゃ駄目」
サーラは何も訂正しなかった。
アリシアは結果票を見つめる。
既存対象感覚は非確認。
東は確認。
西も確認。
それは、第二の新しい前向き記録と、三領域の確認/非確認の並びだけを見れば同じだった。
東、確認。
アリシア対象感覚、非確認。
西、確認。
けれど、同じ試験ではない。
同じ主観報告でもない。
同じ入力条件かどうかすら、今の匿名化された情報だけでは分からない。
だから「同じ現象」とは言えない。
それでも、胸が高鳴る。
(あった)
頭の中に、昨日と同じ言葉が浮かぶ。
今度はもっと強い。
(過去にも、対象感覚は確認されてないのに、東と西が確認された記録があった)
そこまでは、目の前の結果から言える。
「これ……」
アリシアは一度言葉を止めた。
「第二の新しい記録が、最初じゃなかった?」
「少なくとも、現在この形式で見直した既存記録の中に、同じ三領域判定パターンを持つ記録が一件確認されました」
「前は、そんなのないって言ってなかった?」
「『現在比較可能な記録では、この組み合わせは確認していない』という扱いでした」
記録担当職員が慎重に答える。
「なぜ?」
「既存九記録は、これまで主に対象感覚の確認と東西対象反応の組み合わせで整理していましたが、主観報告原文の曖昧な表現まで新しい分類で再整理してはいませんでした。また、記録Cの既存対象感覚判定は非確認です」
「でも東西は確認だった」
「はい」
「それ、前の整理でどうなってたの?」
アリシアの声には責める調子より、純粋な混乱があった。
若い観測員が手元の管理資料を見る。
「ここは重要なので、確認してから答えます」
「今分からない?」
「旧整理のどの集計へ記録Cが含まれていたかを、記憶だけで答えるべきではありません」
アリシアは口を閉じた。
「……分かった」
すぐ答えてほしい。
けれど、今まで自分たちが何度も守ってきたことでもある。
覚えているつもりで決めない。
記録を見る。
「今日はそこ、確認できる?」
「可能です。ただし、匿名化を解除する必要があるかもしれません」
「解除したら、どの試験か分かる?」
「はい」
「それで他の条件も分かる?」
「分かります」
アリシアは結果票を見る。
知りたい。
けれど、今一気に全部開けば、また情報が増える。
「……今はやめる」
「よいですか?」
「うん。まず、今分かったことだけ固定したい」
◇
記録担当職員が新しい紙を出した。
アリシアは自分の言葉で確認する。
「Aは、明確な冷感報告。既存対象感覚確認。東確認。西確認」
「はい」
「Bも、冷感報告。既存対象感覚確認。東確認。西確認」
「はい」
「Cは、胸の奥が少し変。『冷たいっていうより、ぞわっとする感じ』。既存対象感覚は非確認。東確認。西確認」
「はい」
「三件を選ぶ時、結果も主観報告も使ってない」
「はい」
「Cを見つけた後に分類規則は変えてない」
「はい」
「Cだけ先に東西見たわけでもない」
「はい」
「第二の新しい記録との似てる・似てないを決める規則は、まだない」
「はい」
「入力条件が同じかも、今は見てない」
「はい」
「時間窓もまだ見てない」
「はい」
「じゃあ今言えるのは……」
アリシアは一度目を閉じた。
興奮している。
それを消す必要はない。
ただ、興奮したまま言いすぎないようにする。
「最初の三件の中に、既存対象感覚は非確認なのに、東と西は確認されてる記録が一件あった」
「その表現なら事実です」
「その記録には、胸の変な感じの報告があった」
「はい」
「でも、それが東西と関係あるかはまだ分からない」
「はい」
「第二の新しい記録と同じものかも分からない」
「はい」
「……これだけ?」
『十分多いと思うけど』
ノアが窓辺から言う。
「だって気になる」
『だから一気に増やすなって話でしょう』
「分かってる」
アリシアは少し頬を膨らませた。
◇
「一つ、注意があります」
副学院長が初めて口を開いた。
アリシアがそちらを見る。
「何?」
「最初の三件のうち一件にこのパターンがあったことは、興味深い観察です。しかし、三件の抽出は結果を狙っていないとはいえ、三件だけです」
「うん」
「残る六件を開く前に、今の驚きから新しい分類規則を追加しないこと」
「例えば?」
「『弱い違和感型』などの新カテゴリーを作り、残る六件へ適用することです」
アリシアは少し黙った。
まさに考えかけていた。
記録C。
第二の新しい記録。
明確な冷感ではないが、胸部に何らかの弱い違和感がある。
それを一つの種類としてまとめられないか。
「……作りたかった」
「でしょうね」
「駄目?」
「永久に駄目ではありません。ただし、今作れば記録Cと第二の新しい記録を見た後に作った分類です」
「残り六件にそれがあるか探したら、後から作った分類で探すことになる」
「はい」
「じゃあ候補にするだけ?」
「それが妥当でしょう」
アリシアは記録担当職員を見る。
「書いて」
「どのように?」
「『明確な冷感確認に届かない胸部の主観的異常報告をまとめて扱えるか』……」
言いながら、首を傾げる。
「でもこれだと、もうまとめるって決めてる?」
「少し強いですね」
「じゃあ……『明確な冷感確認に届かない胸部主観報告について、共通分類を設定する合理性があるかは未検討。記録Cと第二の新しい記録を見た後に生じた候補』」
「記録します」
「残り六件の今の分類には足さない」
「はい」
「結果見てから分類増やさない」
「はい」
アリシアは少し惜しそうに息を吐いた。
「面白そうなのに」
『面白いから危ないのよ』
ノアが言う。
「猫が研究者みたいなこと言ってる」
『毎日聞かされてれば嫌でも覚えるわ』
◇
「残り六件は、どうする?」
アリシアが尋ねた。
「そこも今日決めておきたいところです」
サーラが答える。
「三件の試行で、固定規則を実記録へ適用できることは確認できました。匿名化転記の仕様問題も修正できます」
「じゃあ六件全部?」
「一度に全件を分類する案もあります」
「結果は見せない?」
「分類担当者には引き続き伏せます」
「私も分類終わるまで見ない?」
「その方がよいでしょう」
「Cみたいなのがあるかも教えてもらわない?」
「分類終了前には伝えない方がよいと思います」
「……長い」
『さっきまで自分で慎重にしろって言ってた子が何か言ってる』
「分かってるよ」
アリシアは机へ頬杖をつきかけ、研究の場だと思い直して姿勢を戻した。
「六件を三件ずつに分ける意味はある?」
「転記仕様修正後の確認という意味では、最初の数件だけ再確認する方法もあります。ただし、分類規則そのものは既に固定しています」
「途中でCみたいなの見つけても規則変えないなら、全部やってもいい?」
「可能です」
「じゃあ全部やってほしい」
言ったあと、アリシアは付け足す。
「でも、私が早く見たいからだけじゃなくて……途中で止める理由がないなら」
「そこは研究側でも検討します」
「うん」
「人工刺激の次回試験とは別です」
「分かってる」
「主観報告の整理が進んだからといって、すぐ新しい刺激条件を組むわけではありません」
「それも分かってる」
アリシアは少し笑った。
「今はこっちが気になる」
◇
その日の研究は、そこで終わる予定だった。
けれど、アリシアは席を立つ前に、もう一度Cの結果票を見た。
「これ、時間は見ないんだよね?」
「今日は見ません」
「東と西がどっち先かも?」
「確認/非確認しか開示していません」
「私の『ぞわっと』がいつだったかも?」
「原文の発言列としての相対情報はありますが、東西との位置関係はまだ対応させていません」
「そっか」
アリシアは頷いた。
東が先だったのか。
「ぞわっと」が先だったのか。
西がどれくらい後だったのか。
そもそも時間窓が重なるのか。
知りたいことは一気に増えた。
しかし、それらを今日全部開けば、何を見て驚いたのか自分でも分からなくなりそうだった。
「次は時間見る?」
「候補の一つです」
「決まってない?」
「残る六件の分類を先に進めるか、三件について既存時間窓との対応を先に確認するか。どちらにも理由があります」
「どっちがいい?」
「今ここで決めなくても構いません」
「また未定」
『便利でしょう?』
ノアが言う。
「友達と同じこと言う」
『賢い友達ね』
「会ったことあるでしょ」
『そういう意味じゃない』
◇
研究棟を出る前に、アリシアは念のため身体状態を確認された。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸の対象感覚ゼロ。
頭痛もない。
疲労は三。
怖さは一。
「知りたい気持ちは?」
サーラが尋ねる。
「まだ九」
『下がってない』
「むしろ増えそう」
「今日は帰りましょう」
「うん」
反論はしなかった。
外へ出ると、日はかなり傾いていた。
秋へ向かう気配を含んだ風が、制服の袖を撫でる。
アリシアは研究棟から少し離れたところで足を止めた。
『どうしたの?』
「嬉しい」
ノアが見上げる。
「まだ何も分かってないけど」
『うん』
「Cがあったの、嬉しい」
『そう』
「第二の新しい記録だけじゃなかったかもしれないって思えるから」
『そこは“かもしれない”なのね』
「うん」
アリシアは小さく笑った。
「今はそれでいい」
◇
生活観測区画へ戻ると、共用室では子供が前日に広げていた色紙を片づけていた。
黄色。
緑。
白。
細く切られた紙が何本かある。
「何作ってるの?」
「まだ秘密」
「まだ秘密なんだ」
「うん」
「いつ教える?」
「できたら」
「いつできる?」
「まだ分からない」
『仕返しされてる』
「してないよね?」
子供は笑うだけだった。
「研究、見た?」
「見た」
「東と西?」
「うん」
子供の手が止まる。
「どうだった?」
アリシアは鞄を置き、近くの椅子へ座った。
「三つのうち二つは、昔の私が『冷たい』って言ってて、東も西も反応があった」
「もう一個は?」
「『冷たい』ってちゃんとは言ってなかった。『少し変』『ぞわっとする』って言ってた」
「東と西は?」
「両方あった」
子供は目を瞬いた。
「じゃあ同じ?」
アリシアはすぐには答えなかった。
「何と?」
「この前の」
子供も第二の新しい試験で、アリシアが弱い違和感を報告したことを簡単には聞いている。
「まだ同じって言わない」
「何で?」
「言葉が違うし、試験も同じか分からないし、時間もまだ見てないから」
「でも似てる?」
「私は、ちょっと似てるって思った」
「じゃあ似てる?」
「私がそう思ったのと、本当に同じものかは別」
子供は難しそうな顔をした。
「面倒」
「ノアみたいなこと言わないで」
『正しい感想よ』
「二人ともひどい」
子供は色紙を箱へ戻しながら尋ねる。
「嬉しい?」
「うん」
今度は迷わなかった。
「ちょっとじゃなくて?」
昼の友人との会話を思い出し、アリシアは笑った。
「結構嬉しい」
「じゃあよかった」
「でも――」
「でも、は研究で言う?」
アリシアは目を丸くした。
『みんなあなたの扱い上手くなったわね』
「何で同じこと言うの……」
子供は意味を完全には分かっていないらしく、それでも楽しそうに笑っていた。
◇
夕食後、アリシアは共用室の窓辺に座った。
顔のない存在も少し離れた場所に座っている。
胸の十一の光には、今夜目立った変化はない。
職員はいつもの距離から状態を記録しているが、誰も今日の研究結果と結びつけようとはしなかった。
子供は色紙の続きをしている。
ノアは窓枠で丸くなっていた。
アリシアは何も持たずに外を見る。
今日分かったことを、頭の中で何度も組み直したくなる。
A。
明確な冷感。
三領域確認。
B。
明確な冷感。
三領域確認。
C。
明確な対象冷感としては非確認。
しかし胸部の曖昧な身体感覚報告あり。
東確認。
西確認。
そして、第二の新しい前向き記録。
対象感覚非確認。
弱い胸部異常報告あり。
東確認。
西確認。
並べれば、どうしても似て見える。
けれど、Cと第二の新しい記録だけを選んで並べたのは、結果を見た後の自分だ。
そこを忘れてはいけない。
(面白い)
直接的な思いが胸に浮かぶ。
(すごく面白い。でも、だから急いだら駄目)
アリシアは膝の上で手を組んだ。
主観報告の分類を始めたのは、第二の新しい記録で起きた曖昧な感覚を、結果に合わせて扱わないためだった。
そして実際に過去を開いてみると、よく似た三領域判定を持つ記録が一つ現れた。
だからといって、目的を「似た記録探し」に変えてはいけない。
残る六件も、同じ固定規則で見る。
そこに何があっても。
明確な冷感ばかりでも。
曖昧な表現がほかに一つもなくても。
逆に、いくつもあっても。
今の分類を変えない。
「アリシア」
子供に呼ばれ、顔を向ける。
「何?」
「これ押さえて」
細い緑色の紙を二本重ねようとしている。
アリシアは床へ移動し、指先で紙の端を押さえた。
「こう?」
「もうちょっと右」
「こっち?」
「うん」
「何になるの?」
「まだ秘密」
「手伝ってるのに?」
「まだ」
「ずるい」
『嫌なら手伝わなければ?』
「嫌とは言ってない」
アリシアは紙を押さえたまま、子供が糊を塗るのを待った。
研究棟には、まだ見ていない六枚がある。
Cの時間窓も見ていない。
旧整理でCがどう扱われていたのかも、確認が必要だ。
新しい人工刺激の予定も決まっていない。
六つ目の神器が何なのかは、もっと分からない。
それでも、今夜は目の前の緑色の紙がずれないように指で押さえる。
そのくらいの余白を、自分の中へ残しておけるようになった。
◇
翌朝、研究棟から短い確認票が届いた。
残る六件について、固定済みの主観報告分類規則を変更せず、匿名化した状態で一括分類する案。
三件の試行で判明した発話境界転記仕様のみ修正。
分類中、東西結果・既存対象感覚判定・刺激条件・試験識別情報は引き続き伏せる。
分類途中で新しい表現が出た場合は、既存規則で扱える範囲のみ分類し、扱えないものは「規則外/要保留」として原文保持。
結果を見て新カテゴリーを追加しない。
アリシアは最後まで読んだ。
「六件、全部やるんだ」
『希望通りじゃない』
「うん」
「何?」
朝食を食べていた子供が尋ねる。
「残ってる昔の記録、まとめて言葉だけ分けるって」
「アリシアは?」
「やらない」
「待つ?」
「待つ」
「歩く?」
「歩かない」
『どうかしら』
「歩かないってば」
子供が笑った。
アリシアは確認票の下へ視線を戻す。
実施日はまだ書かれていない。
担当者の勤務と、資料準備を合わせて決めるらしい。
以前なら、日付がないことに焦れただろう。
今は、内容の方を見る。
固定した規則を変えない。
結果を隠す。
分類できないものは、無理に分類しない。
Cを見つけたからといって、新しい箱を作らない。
「これでいい」
『誰に言ってるの?』
「自分」
アリシアは確認票を畳まず、机の端へ置いた。
◇
学院へ向かう道には、朝露が残っていた。
空は晴れている。
昨日より少しだけ風が冷たい。
途中で友人と合流すると、相手はアリシアの顔を見るなり尋ねた。
「見た?」
「見た」
「どうだった?」
アリシアは一瞬、研究棟で言った長い説明をそのまま話しそうになった。
けれどやめた。
「嬉しかった」
友人が少し驚いた顔をする。
「それだけ?」
「研究の話もする?」
「長い?」
「たぶん」
「じゃあ今はそれだけでいい」
「うん」
「よかったね」
「うん」
二人で並んで歩く。
アリシアは少しだけ笑っていた。
結果を見た。
驚いた。
期待も強くなった。
それでも、まだ答えにはしない。
次は残る六枚の言葉を見る。
Cの時間を開くのが先になるか、六枚の分類が先になるかは、まだ最終的には決まっていない。
どちらへ進んでも、昨日までの規則は動かさない。
それだけは決まっている。
学院の門が近づいてくる。
周囲には同じように登校する生徒たちの声が増えていた。
友人が展示週間の仮調査について何か言い始め、アリシアはそちらへ顔を向ける。
研究の続きは、研究棟に置いてきた。
東と西が確認され、その間にある自分の感覚だけが既存の基準へ届かなかった記録が、過去にも一枚あった。
その事実はもう消えない。
けれど、それが何を意味するのかは、まだ白いままだった。
アリシアはその白い部分を、急いで塗りつぶさないことにした。




