第239話 最初の三枚は、名前を伏せたまま
主観報告の分類規則が固定されてから、最初の実記録を扱う日が決まるまでには二日かかった。
その間、アリシアは研究棟へ行かなかった。
人工刺激もない。
研究チームから追加の質問も届かない。
朝になれば学院へ行き、授業を受け、昼になれば友人と食事をして、放課後には生活観測区画へ戻る。そんな当たり前の二日間の中で、アリシアは何度か研究棟の方角を見たが、自分から予定を聞きに行くことはしなかった。
「今日も行かないの?」
二日目の朝、子供に尋ねられた。
「行かない」
「昔の紙は?」
「まだ」
「ずっとまだだね」
「準備する人がいるから」
「アリシアは準備しない?」
「私は待つ方」
「待つの苦手なのに?」
「……前よりは得意」
子供が少し考え、それから頷いた。
「前よりは」
「何でそっちが知ってるの?」
「待てない時、歩くから」
「歩く?」
「ここ」
子供が共用室の端から端を指差した。
「行ったり来たりする」
『してたわね』
窓辺にいたノアまで同意する。
「そんなにしてない」
『研究棟から連絡が遅かった日に、あっちからこっちまで何往復したと思ってるの』
「数えてたの?」
『暇だったから』
「暇なら寝ててよ」
『寝たら寝たで文句を言うでしょう』
「言わない」
『信用がない』
アリシアは頬を膨らませたが、子供は楽しそうに笑っていた。
研究の結果を待っている間にも、こうして朝食は終わっていく。
以前なら、それを遠回りのように感じたかもしれない。
今は違った。
研究をしていない時間も、自分の時間だった。
◇
その日の学院では、午前中に簡単な造形実習があった。
魔法道具の外装に使われる薄い練習板へ、指定された形を刻む授業だ。魔力を使って削るのではなく、今日は細い工具を使った手作業で、線の深さと間隔を揃えることが課題になっていた。
「これ苦手」
隣の友人が開始前から言う。
「まだやってないじゃん」
「見れば分かる」
「何が?」
「細かい」
「それだけ?」
「細かい作業は私に向いてない」
「この前ノート選ぶのにすごい時間かけてたのに」
「あれは選ぶ作業。これは削る作業」
「違うんだ」
「全然違います」
教師が説明を始め、二人は口を閉じた。
板へ引かれた薄い下書き線を、専用の工具でなぞる。
強く押せば溝が深くなりすぎる。
弱ければ途中で線が消える。
アリシアは最初の一本を慎重に刻んだ。
思っていたより難しい。
工具の先端が木目に取られ、ほんの少しだけ横へずれた。
「あ」
隣から声がする。
「何?」
「アリシアも曲がった」
「ちょっとだけ」
「安心した」
「何で?」
「完璧にやられたら腹立つから」
「理不尽」
友人の板を見る。
こちらは最初の線こそ真っ直ぐだったが、途中から少しずつ深くなり、終点近くではかなり濃い溝になっていた。
「そっち、深い」
「見ないで」
「もう見た」
「忘れて」
「無理」
「研究の記憶力をこういうところで使わないで」
「研究関係ないよ」
向かい側の女子生徒が笑った。
「二人とも喋ってないで二本目やった方がいいよ。私、もう三本目」
「早い」
「速さ競争じゃないからね」
教師の声が少し離れた場所から飛んできた。
三人とも黙る。
しばらく教室には、工具が板を擦る乾いた音が続いた。
アリシアは二本目を刻む。
今度は最初より少しだけ力を抜いた。
完全な直線ではない。
それでも一本目よりは揃っている。
うまくいかないところを見つけ、次で少し変える。
今日はそれだけでよかった。
◇
昼休み。
教室へ戻ると、友人が自分の板を机へ置いた。
「見て」
「何?」
「最後だけ上手くなった」
確かに、六本並んだ線のうち、最後の二本だけ深さがかなり揃っている。
「本当だ」
「才能が開花した」
「遅い」
「六本中二本成功なら十分」
「先生は全部見ると思う」
「現実を言わないで」
アリシアは笑いながら、自分の板も鞄へしまった。
「アリシアは?」
「最初より最後の方がいい」
「同じじゃん」
「うん」
「じゃあ二人とも天才」
「基準低すぎない?」
「昼休みくらい高く評価していいの」
そのまま二人で昼食を持って廊下へ出た。
今日は外の風が強いため、校舎内の休憩場所を使う。
窓際にはほかの生徒も何人かいて、展示週間の話や次の実技課題の話をしていた。
「そういえば」
友人がパンの包みを開けながら、アリシアを見る。
「昔の記録、もう見た?」
「まだ」
「まだなんだ」
「規則は決まった」
「じゃあ、もうすぐ?」
「たぶん」
「楽しみ?」
アリシアはすぐには答えなかった。
楽しみ。
その言葉だけでも間違いではない。
けれど、それだけでは少し足りなかった。
「楽しみだけど、怖くもある」
「怖い?」
「欲しいものがなかったら、ちょっと残念だと思うから」
「欲しいもの?」
「前に私が感じた弱い変な感じと、似た報告」
「ああ」
友人は理解したように頷いた。
「あると思ってるの?」
「分からない」
「ないと思ってる?」
「それも分からない」
「じゃあ何で怖いの?」
アリシアはパンを持ったまま、少し視線を落とした。
「あるといいなって思ってるから」
友人は何も言わず、しばらくアリシアを見た。
「それ、言っていいんだ」
「何が?」
「研究してる人って、そういうの言っちゃ駄目なのかと思ってた」
「思うのは止められないから」
「なるほど」
「でも、あるといいなって思ってる人が、自分で『これ似てる』って分けたら危ないでしょ」
「だからアリシアは分けないんだっけ」
「うん」
「大変だね」
「何が?」
「見たいのに見ないの」
アリシアは少し笑った。
「うん。ちょっと大変」
「じゃあ、見られるようになったら教えて」
「結果を?」
「結果じゃなくて、見られたってこと」
「それだけ?」
「難しい研究の話されても、たぶん途中から分かんないし」
「ひどい」
「正直なの」
友人は笑いながら飲み物へ手を伸ばした。
アリシアもパンを食べる。
期待していることを、なかったことにしなくていい。
大事なのは、その期待に分類を合わせないことなのだと思えた。
◇
最初の実分類を行うという連絡が届いたのは、その日の最後の授業が終わった直後だった。
短い連絡票には、実施は翌日。
対象は三記録。
アリシアは分類室には入らない。
記録選定にも関与しない。
分類終了後、規則上の問題の有無だけを先に共有し、その後の開示範囲を相談する。
そう書かれていた。
「明日?」
隣から友人が覗き込む。
「うん」
「昔のやつ?」
「三つだけ」
「ついに?」
「……たぶん」
「何でまだ『たぶん』なの?」
「途中で問題見つかったら止まるかもしれないから」
「慎重」
「そうしないと駄目なの」
「分かってるよ」
友人は鞄を肩へ掛けた。
「じゃあ明日、授業中にそわそわしないように」
「しない」
「本当に?」
「するかもしれない」
「正直でよろしい」
「何その言い方」
友人が笑いながら教室を出る。
アリシアもその後を追った。
◇
翌朝。
アリシアは目を覚ましてすぐに研究のことを考えた。
けれど、寝台から飛び起きることはしなかった。
天井を見上げ、ゆっくり身体を起こす。
窓から入る朝の光は柔らかい。
昨夜は普通に眠れた。
胸の異常感覚もない。
痛みも息苦しさもない。
今日は人工刺激を受けるわけではない。
自分が何かを試される日でもない。
それでも、胸の奥には小さな緊張があった。
(今日、開く)
正確には、自分が開くわけではない。
分類担当者が、匿名化された三件の記録を初めて見る。
アリシア自身は、その場にすらいない。
「変な感じ」
『朝から何が?』
床からノアの声がする。
「今日、昔の記録開くのに、私見ないんだよ」
『自分で決めたんでしょう』
「分かってる」
『じゃあ我慢』
「簡単に言う」
『簡単なことを難しく言う趣味はないの』
「研究棟の人に聞かせたい」
『怒られるわよ』
「ノアがね」
◇
学院へ行けば、時間は普通に進んだ。
一時間目。
二時間目。
休憩。
午前最後の授業。
アリシアは教師の話を聞き、課題を書き、隣の生徒と必要な確認をした。
何度か時計へ目が向いたが、研究棟での分類は放課後に始まる予定だ。
急いでも何も変わらない。
昼食の時、友人が言った。
「思ったより普通だね」
「何が?」
「今日のアリシア」
「普通だよ」
「もっとこう、ずっと研究棟の方向見てるかと思った」
「そんなことしない」
『朝はしてたけどね』
足元にいるノアが言う。
「ノア」
「してたんだ」
「一回だけ」
『三回』
「数えないで」
友人が笑う。
「まあ、授業聞けてるなら大丈夫か」
「何で保護者みたいなの?」
「忘れない係だから」
「それ、まだ続いてるの?」
「アリシアが植物管理の日を忘れるまでは」
「忘れないもん」
「じゃあ永遠に係の仕事ないね」
「それでいいでしょ」
いつものやり取りをしているうちに、昼休みが終わった。
アリシアは少しだけ肩の力が抜けた。
◇
放課後、アリシアは研究棟へ向かった。
ただし、いつもの会議室ではない。
案内されたのは、一階奥の小さな待機室だった。
「ここ?」
「はい」
サーラが扉を開ける。
室内には長椅子と小さな机がある。
窓も一つ。
机の上には水差しと杯、それから何冊かの一般書が置かれていた。
「本まである」
「待ち時間が長くなる可能性がありますから」
『寝床は?』
「ノアさん用ですか?」
『もちろん』
「ありません」
『気が利かないわね』
「私の膝使えば?」
『それで妥協する』
「偉そう」
サーラが少し笑った。
「分類担当者は別室です。三件の記録はすでに選定されていますが、アリシアさんには記録番号も時期も知らせません」
「誰が選んだの?」
「今回の分類担当に入らない記録管理者が、事前に決めた手順で選びました」
「欲しい記録を選んだわけじゃない?」
「はい。特定の結果や表現を狙って選んではいません」
「東西の結果も?」
「選定条件には使っていません」
「新しい二件は?」
「対象外です」
アリシアは顔を上げた。
「何で?」
「直近の二件は、アリシアさん自身も研究チームも内容をよく覚えています。今回の目的は、固定した規則を過去記録へ適用できるかを見ることです」
「じゃあ昔の九件の中から?」
「その範囲です。ただし、どの三件かはまだお伝えしません」
「分かった」
既存九記録。
その中には、対象反応が確認された記録も、確認されなかった記録もある。
ただし、三件の中にどちらが含まれているかは知らない。
「私はここで待つ?」
「はい。途中で分類上の重大な問題が出た場合は作業を止めます」
「私を呼ぶ?」
「原則として、分類内容についてアリシアさんへ質問はしません」
「そっか」
「規則そのものに重大な欠陥が見つかった場合は、分類を中断したことだけお伝えします」
アリシアは頷いた。
サーラが部屋を出る。
扉が閉まった。
「……本当に待つだけだ」
『だから本があるんでしょう』
「読めるかな」
『読めないなら私を撫でてれば?』
「珍しい」
『暇つぶしよ』
「素直じゃない」
『うるさい』
◇
最初の十分ほど、アリシアは本を開かなかった。
長椅子へ座り、膝の上でノアの背中を撫でる。
廊下から時々足音が聞こえる。
けれど、それが分類担当者なのか、別の職員なのかは分からない。
「今、見てるのかな」
『見てるんじゃない?』
「何が書いてあるんだろう」
『知らない』
「ノア、覚えてない?」
『何を?』
「昔の試験で私が何言ったか」
『いくつかは覚えてるわよ』
「言わないで」
『聞いたのあなたでしょう』
「思い出したら駄目な気がした」
『じゃあ聞かない』
ノアはあっさり答えた。
アリシアは手を止める。
今ここで、自分の記憶を掘り返すこともできる。
あの時は何と言った。
別の日にはどうだった。
そんなふうに考えて、三件の中身を予想することもできる。
けれど、やめた。
(今やっても、当たったかどうか気になるだけ)
それに、分類するのは自分ではない。
アリシアはようやく机の上の本を一冊取った。
研究書ではない。
学院周辺の古い建築について書かれた一般向けの本だった。
「何でこれ置いたんだろう」
『研究の本置いたら、待ってる間まで研究するでしょう』
「……それはそう」
ページを開く。
最初の数頁はほとんど頭に入らなかった。
それでも読み続けているうちに、少しずつ文章を追えるようになった。
◇
分類室では、その間に三枚の匿名記録が開かれていた。
アリシアはその場にいない。
ノアもいない。
分類者へ渡された紙には、元の試験番号も日付も記載されていなかった。
東側の波形はない。
西側の波形もない。
人工的な小変動の時刻もない。
既存の確認/非確認判定もない。
残っているのは、分類に必要な範囲で整えられた主観報告原文と、原記録で保持されていた発言順序・相対間隔だけだった。
記録A。
記録B。
記録C。
それだけである。
三人の分類担当者は、それぞれ別の用紙へ結果を書き込んでいった。
互いに相談はしない。
迷った箇所には、勝手な推測を入れず「規則外」「境界不明」「特定不能」の欄を使う。
最初の一枚は、大きな問題なく終わった。
二枚目も進んだ。
三枚目の途中で、一人の手が止まった。
そこにあったのは、強度の数字でも、明確な「冷たい」という言葉でもなかった。
身体部位は記録されている。
身体感覚としての報告もある。
けれど、その感覚種類を既存の粗分類へ入れるには、少し迷う表現だった。
分類者は規則文を読み直した。
そして「その他身体異常表現」に印をつけ、原文をそのまま残した。
規則を変えることはしなかった。
◇
待機室で本を三分の一ほど読んだ頃、扉が開いた。
アリシアは反射的に顔を上げた。
「終わった?」
入ってきたサーラは、すぐには答えず扉を閉めた。
「最初の分類は終わりました」
「問題は?」
「作業を中断するほどの問題はありませんでした」
アリシアの肩から少し力が抜ける。
「じゃあ、三枚とも?」
「分類できました。ただし、一部に『その他身体異常表現』と『境界不明』があります」
「規則外は?」
「ありません」
「新しい分類を途中で作った?」
「作っていません」
「三人で違った?」
「照合作業はこれからです」
「あ、まだなんだ」
「はい。まず独立分類が終わった段階です」
アリシアは立ち上がりかけた身体を戻した。
「まだ待つ?」
「もう少しお願いします」
『座ってなさい』
「分かってる」
サーラは水差しを確認してから部屋を出た。
アリシアは閉じた扉を見る。
「その他身体異常……」
『考えない』
「まだ何も言ってない」
『顔が考えてる』
「顔は――」
『それ言ったら噛むわよ』
アリシアは口を閉じた。
◇
照合には、さらに時間がかかった。
アリシアは今度こそ本を読む気になれず、窓の外を眺めていた。
夕方の光が少しずつ低くなっている。
学院の敷地を歩く生徒の数も減ってきた。
やがて再び扉が開く。
今度はサーラだけでなく、記録担当職員も一緒だった。
「終わりました」
アリシアは長椅子から立つ。
「どうだった?」
「まず、規則運用上の結果からお伝えします」
「うん」
「三件すべてについて、主要分類項目は三名で一致しました」
アリシアの目が少し大きくなる。
「全部?」
「主要項目については、はい」
「違ったところは?」
「一件の発話境界について、一人が『境界不明』、二人が『原記録上の明示境界あり』としました」
「何で?」
「原記録の記号の読み方に差がありました」
「規則の問題?」
「規則そのものというより、匿名化用紙へ転記した際の表示方法の問題です」
アリシアは眉を寄せた。
「転記で変わった?」
「意味を変えたわけではありません。ただ、原記録では発話ごとに行が分かれていたのに、匿名化用紙では行間が狭く、一人が単なる整形上の改行と解釈しました」
「それ、直す?」
「はい。実分類を続ける前に、原記録の発話境界情報を匿名化後も明示的な記号で保持することにします」
「結果見てから規則変えることにならない?」
「分類規則そのものは変えません。原記録に既に存在する境界情報を、匿名化の際に失わないための転記仕様修正です」
「……新しい境界を作るんじゃない?」
「作りません」
「元にあるものだけ?」
「はい」
アリシアは少し考えてから頷いた。
「それなら分かる」
「この修正をした後、同じ三件を再分類する必要はないと考えています。該当箇所は原記録上の境界を確認し、転記上の欠落だったことを記録します」
「その人が間違えたことにする?」
「いいえ。提示資料の問題として扱います」
「うん。その方がいい」
アリシアは椅子へ座り直した。
「じゃあ……次は?」
「ここから、アリシアさんにどこまで見せるかを相談します」
胸が少し高鳴った。
◇
会議室へ移動した。
三枚の匿名記録そのものは、まだ伏せられている。
机の上に置かれているのは分類結果の項目一覧だけだった。
「先に確認します」
サーラが言う。
「アリシアさんは、三件の原文を今見たいですか?」
「見たい」
即答だった。
ノアの耳が動く。
アリシアは少しだけ恥ずかしくなったが、言い直さなかった。
「東西結果も?」
「……見たい」
「同時に?」
そこでは答えが止まった。
原文を見る。
分類を見る。
その直後に東西結果を見る。
そうすれば、似た弱い表現が反応のある記録にあったのか、すぐ分かるかもしれない。
けれど、それを今やる必要があるのか。
「分けた方がいい?」
アリシアが尋ねる。
「私たちは、その方がよいと考えています」
「まず主観報告だけ?」
「はい。分類結果を確認し、規則適用に問題がないことを確定してから、東西情報を別段階で開く」
「何で?」
「一度東西結果を見れば、主観報告の読み方に影響する可能性があるからです」
「でも分類はもう終わってるよ?」
「この三件についてはそうです。ただ、アリシアさん自身が解釈段階へ入ります」
「あ……」
分類者ではない。
けれど、解釈する人にはなる。
ならば、自分が何をどの順番で知るかにも意味がある。
「じゃあ、まず言葉だけ見る」
「よいですか?」
「うん」
「その後、東西結果を開くかどうかは、今日決めなくても構いません」
「分かった」
アリシアの指先が少し冷たくなった気がした。
研究対象としての胸の冷感ではない。
緊張しているだけだ。
◇
三枚の紙が裏返された。
記録A。
記録B。
記録C。
試験番号も日付もない。
人工刺激の位置もない。
東西結果もない。
ただ、自分が過去に口にした言葉が並んでいる。
アリシアは最初の紙を見る。
記録A。
『……冷たい。胸のところ』
その後に、強さについての数字が記録されている。
痛みなし。
息苦しさなし。
少し後に弱まったという報告。
「これは……」
記憶が動きそうになる。
けれど、アリシアは止めた。
「今、どの試験だったか思い出そうとしない方がいい?」
「可能なら、その方がよいでしょう」
「分かった」
分類結果を見る。
身体感覚報告あり。
胸部。
温度関連語あり。
冷感肯定。
記録強度あり。
持続についての表現あり。
発話順序保持。
特別な問題はない。
二枚目。
『胸が冷たい。さっきより弱い』
こちらも明確だった。
温度関連語。
胸部。
比較表現あり。
記録された強度。
持続についての後続報告。
「これも、冷たい」
「はい」
アリシアは三枚目へ視線を移した。
そこで、手が止まった。
記録C。
『胸の奥が、少し変。冷たいっていうより、ぞわっとする感じ』
アリシアは瞬きをした。
もう一度読む。
『胸の奥が、少し変。冷たいっていうより、ぞわっとする感じ』
数字はない。
痛みの訴えはない。
息苦しさの訴えもない。
少し後の記録には、
『もう気にならない』
とある。
アリシアの唇がわずかに開いた。
「……これ」
声が小さくなる。
胸の奥が熱くなった。
欲しかった。
こういうものを探したかった。
明確な「冷たい」ではない言葉。
確認基準へそのまま入るとは限らない、別の弱い表現。
第二の新しい記録で自分が言った「少し変」「冷たいとはまだ言い切れない」という報告と、同じではない。
けれど、完全に無関係とも今は言えない。
(あった)
その言葉が頭の中に浮かび、アリシアはすぐに自分の手を握った。
「待って」
誰に言われたわけでもないのに、自分から言った。
「私、今これ見て、似てるって思った」
サーラは頷く。
「はい」
「でも、似てるって決めたら駄目」
「まだ決める段階ではありません」
「分類は?」
紙の下を見る。
身体感覚報告あり。
胸部。
温度関連語あり――ただし「冷たい」の単純肯定ではなく比較修正。
その他身体異常表現あり。
原文「ぞわっとする感じ」。
強度数値なし。
言語的程度表現「少し」。
持続についての表現あり。
表現推移あり。
そこまでだった。
「『弱い違和感』って分類してない」
「その分類項目はありません」
「第二の新しい記録に似てるとも書いてない」
「書いていません」
「当たり前だけど……」
アリシアはもう一度原文を見る。
胸の奥。
少し変。
冷たいというより、ぞわっとする。
「これ、対象感覚の確認だったの?」
「それはまだ開示していません」
「……そっか」
東西結果だけではない。
既存の対象感覚確認/非確認判定も伏せられている。
今見えているのは、当時の原文と、新しい分類規則による特徴だけ。
「知りたい」
「はい」
「すごく知りたい」
『でしょうね』
ノアの声が静かに入る。
アリシアは紙から目を離さなかった。
「でも、この言葉があっただけで、第二の記録と同じって言っちゃ駄目」
「その通りです」
「『ぞわっと』と『少し変』も違う」
「はい」
「場所も、こっちは胸の奥。あっちは少し左って言った」
「はい」
「冷たいって言葉の使い方も違う」
第二の新しい記録では、「冷たいとはまだ言い切れない」と報告した。
この古い記録では、「冷たいっていうより、ぞわっとする感じ」。
どちらも単純な冷感肯定ではない。
けれど、否定の仕方も、続く言葉も違う。
「……似てるところはある。でも違うところもある」
「今の段階では、それで十分だと思います」
サーラが言った。
アリシアは頷いた。
◇
「この三件を選んだ人は、これが入ってるって知ってた?」
アリシアが突然尋ねた。
「記録管理者は原記録へアクセスできます」
「じゃあ、これをわざと選んだ可能性は?」
「その点は確認できます」
記録担当職員が選定手順の紙を出した。
「今回は既存九記録へ、結果情報を使わず管理番号順の一時番号を付け、その中から事前に決めた間隔で三件を抽出しています」
「この言葉があるから選んだんじゃない?」
「その選定方法であれば、主観報告内容も選定条件に入っていません」
「本当に?」
「手順記録を残しています」
アリシアは紙を見る。
どの一時番号を選ぶかは、分類開始前に記録されている。
主観報告の内容を見て選び直した痕跡はない。
「偶然入った?」
「少なくとも、今回の三件へこの記録が含まれた理由として、表現内容は使われていません」
胸がまた少し高鳴る。
探して選んだ記録ではない。
最初の三枚の中に、こういう表現があった。
だからといって、頻繁にあるとは言えない。
三件中一件という数字にも、今すぐ意味を持たせてはいけない。
母数が小さすぎる。
しかも三件は結果で選ばれていない。
「三分の一って言ったら駄目?」
アリシアが尋ねる。
「事実として三件中一件にこの表現が含まれていたとは言えます」
「でも、昔の記録の三分の一にある、とは言えない」
「はい」
「残り六件見てないから」
「その通りです」
「……危なかった」
『数字を見るとすぐ数えたがる』
「ノアに言われたくない」
『私は数えないわよ』
「寝た時間とか数えてたじゃん」
『あれはあなたたちが勝手に数えたの』
少し笑いが起きる。
アリシアの肩から力が抜けた。
◇
「今日は東西結果まで開きますか?」
サーラが尋ねた。
アリシアはすぐに答えなかった。
目の前の記録Cが気になる。
この時、東側奥部の追加低下は確認されていたのか。
西側の遅れた弱い波形はあったのか。
既存の対象感覚判定では、これは確認だったのか、非確認だったのか。
知りたい。
今すぐ知りたい。
その気持ちは九くらいあると思った。
けれど、数字にする必要はない。
「今日、開けても規則は変わらない?」
「固定版は変えません」
「この三件の分類も?」
「変えません」
「私が『似てる』って思ったことは、結果を見る前に記録する?」
「必要だと思います」
「じゃあ書いて」
記録担当職員が筆を取る。
アリシアは自分の言葉を選んだ。
「記録Cの『胸の奥が、少し変。冷たいっていうより、ぞわっとする感じ』を見て、第二の新しい記録の『胸が少し左、冷たいとはまだ言い切れない』っていう報告と、一部似てるように感じた」
そこで一度止まる。
「でも、同じ感覚だとは判断してない。場所も言い方も違う。似てるかどうかを決める規則もまだない」
「はい」
「あと、私は似たものが過去にあってほしいって思ってた」
記録担当職員の筆が一瞬止まる。
アリシアは続けた。
「それも書いて」
「よいのですか?」
「うん。だって、それ知ってた方がいいでしょ」
「分かりました」
紙に残される。
過去に類似した弱い主観報告が存在してほしいという事前期待あり。
記録Cを見た時点で部分的類似を感じた。
同一性は未判定。
比較規則未設定。
東西結果・既存判定開示前。
アリシアはそれを確認した。
「これでいい」
『自分の期待まで記録にされたわね』
「消せないから」
『何が?』
「期待してたこと」
ノアは少しだけ目を細めた。
『そうね』
◇
「じゃあ、東西結果を開く?」
サーラが改めて尋ねる。
アリシアは記録Cを見る。
それからAとBも見た。
今日ここで開けば、一気に知ることができる。
けれど、三件の主観報告を初めて見たばかりだ。
しかも一件には、思っていなかった表現があった。
「……今日はやめる」
自分で言ってから、少し驚いた。
サーラも確認するように見る。
「よいのですか?」
「知りたいけど」
アリシアは指先で記録Cの端を軽く押さえた。
「今、これ見つけて、頭がそっちに行ってる」
「はい」
「このまま東西見たら、もし二つとも反応してたら『やっぱり同じだ』って思いそう」
「その可能性はありますね」
「反応してなかったら、『じゃあ違う』ってすぐ思うかもしれない」
「はい」
「どっちも早い気がする」
部屋の中に静かな時間が流れた。
「だから今日は、三枚をちゃんと分類できたってところまでにしたい」
「分かりました」
「東西は次」
「はい」
「対象感覚の昔の判定も次」
「承知しました」
言った瞬間、ものすごく惜しい気持ちが湧いた。
「……やっぱり見たい」
『どっちなの』
「見たいけど見ない!」
ノアが尻尾を一度振る。
『なら帰りなさい。気が変わる前に』
「ノアに言われると腹立つ」
『でも帰るんでしょう?』
「帰る」
◇
三枚の原文は再び伏せられた。
ただし、今日行われた分類結果は固定される。
記録Cに含まれていた「ぞわっとする感じ」も、後から別の名称へ変えない。
第二の新しい記録との比較は、まだ探索候補にすぎない。
同一感覚とも、別感覚とも決めない。
東西結果を知る前に生じたアリシアの期待と印象も、その時点情報として残された。
「次に東西を開く時、三件一緒?」
「それも相談できます」
「Cだけ先に見るのは?」
「おすすめしません」
「何で?」
「今、Cだけがアリシアさんにとって特別になっているからです」
「あ……」
「A、B、Cを同じ手順で扱った方がよいでしょう」
「じゃあ三つ一緒」
「まだ正式決定ではありませんが、その方向で整理します」
「うん」
アリシアは立ち上がった。
今日は人工刺激を受けていない。
長い計算もしていない。
それでも頭は少し疲れていた。
最初の三枚を見た。
その中に、探したかったものに少し似た言葉があった。
それだけで、思っていた以上に気持ちが動いた。
(だから、自分で分類しなくてよかった)
もし最初から自分が分類者だったら。
記録Cを見た瞬間、「弱い違和感」に近い分類を作りたくなったかもしれない。
第二の新しい記録と並べたくなったかもしれない。
今だって、並べたい。
けれど、固定された分類規則には「第二の記録に似ている」という欄は存在しない。
それが少し安心できた。
◇
研究棟を出ると、外はもう夕暮れだった。
空の端に薄い橙色が残っている。
ノアが隣を歩く。
『満足?』
「半分」
『何で半分』
「見られたから満足。でも東西見てない」
『自分で止めたんでしょう』
「そうだけど」
『面倒』
「知りたいものは知りたいの」
『なら明日まで我慢』
「明日って決まってない」
『じゃあ次まで』
「長いかもしれない」
『今朝、待つの上手くなったって言ってたじゃない』
「前よりは、だから」
アリシアは少し早足になる。
ノアも遅れずについてくる。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が夕食前の共用室で紙箱を整理していた。
蓋の内側には以前貼った青い紙がある。
中には小石、木の実、白い紐。
ノアの毛は端に寄せられていた。
「見た?」
子供が顔を上げる。
「見た」
「昔の紙?」
「うん。三つ」
「何書いてあった?」
アリシアは少し迷う。
「昔の私が言ったこと」
「何て?」
「冷たいって言ってるのもあったし、ちょっと違う言い方してるのもあった」
「違う?」
「『ぞわっとする』って」
子供は自分の腕をさすった。
「寒い時?」
「それとは違うと思う」
「怖い時?」
「それも分からない」
「じゃあ何?」
「まだ分からない」
子供は少し考えたあと、紙箱へ視線を戻した。
「また分からない増えた」
「うん」
「嫌?」
アリシアは答える前に、自分の気持ちを確かめた。
「嫌じゃない」
「嬉しい?」
「ちょっと嬉しい。でも、嬉しいってだけで同じものにしたら駄目」
「難しい」
「私もそう思う」
子供は白い紐を指へ巻き、それからすぐ解いた。
「次は何見る?」
「その時の東と西」
「今日見なかったの?」
「見なかった」
「何で?」
「今見たら、急いで決めそうだったから」
「アリシアが?」
「うん」
子供は意外そうな顔をした。
「自分で?」
「自分で」
「じゃあ、待つ?」
「待つ」
「前より得意」
「朝もそれ言ったよね?」
「うん」
『事実は繰り返しても事実よ』
「ノアまで」
◇
夕食後、アリシアは研究帳を開かなかった。
代わりに翌日の授業準備をした。
造形実習で使った板を鞄から出し、教師に指定された保管袋へ入れる。
最後の二本は、最初の線より確かにきれいだった。
「本当に最後だけ上手」
『何が?』
「今日の板」
『研究じゃないの?』
「違う」
『珍しい』
「失礼」
ノアは寝台の端へ飛び乗る。
アリシアは板を片づけ、窓を少しだけ開けた。
夜の空気が入ってくる。
胸へ手を当てる。
何もない。
冷たくない。
ぞわっともしない。
第二の新しい記録で感じた、ごく弱い、名前を決められなかった違和感もない。
(昔にも、違う言葉があった)
その事実だけは残った。
まだ「同じ」ではない。
似ていると感じたのはアリシア自身であり、そのアリシアは最初から「過去にもあってほしい」と望んでいた。
だから、次に東西の結果を見た時ほど慎重にならなければならない。
もし記録Cで東と西の両方が確認されていたとしても、それだけで第二の新しい記録と同じ現象とは言えない。
もし確認されていなかったとしても、それだけで無関係とも言えない。
その二つを、今のうちに覚えておきたかった。
アリシアは机の上へ紙を一枚置きかけて、手を止めた。
書かなくても、研究棟には今日の自分の発言が正式に残っている。
今夜まで同じことを自分の帳面へ書き直す必要はない。
代わりに明日の教科書を揃え、鞄の口を閉じた。
『もう寝る?』
「まだ」
『研究しない?』
「しない」
『本読む?』
「今日はそれもいい」
『じゃあ何するの』
アリシアは少し考え、共用室の方を見る。
子供がまだ起きている時間だ。
「ちょっと下行ってくる」
『何しに?』
「別に決めてない」
『珍しいわね』
「決めてないこと、いっぱいあっていいんでしょ」
『誰の受け売り?』
「みんな」
アリシアは部屋を出た。
◇
最初の三枚は、もう白紙ではない。
そのうち二枚には、明確な冷たさの言葉があった。
もう一枚には、今まで強く意識していなかった別の表現が残っていた。
けれど、その三枚がどの試験だったのか。
東側奥部がどうだったのか。
西側に対象波形があったのか。
当時の確認判定がどうだったのか。
それらはまだ伏せられている。
アリシアは、答えの半分だけを持って生活観測区画の廊下を歩いた。
半分しか分からないことが、以前ほど苦しくない。
残りを早く知りたい気持ちは消えていない。
それでも、知る順番を自分で守れる。
共用室の扉を開けると、子供が床に色紙を広げていた。
「何してるの?」
「まだ秘密」
「また?」
「アリシアも、まだ秘密あるでしょ」
「秘密じゃなくて、まだ知らないの」
「似てる」
「違うよ」
「ちょっと似てる」
アリシアは笑いながら、子供の向かいへ座った。
机の上ではなく、床の上。
研究記録ではなく、色紙の隣。
東と西の答えは、まだ研究棟に置いてある。
今夜はそれを取りに戻らない。
最初の三枚を開いた日に分かったのは、答えそのものではなかった。
昔の自分の言葉の中には、今の自分が忘れていた曖昧さも残っている。
そして、それを見つけた瞬間に喜んでしまう自分もいる。
その両方を知ったまま、次の紙を開けばいい。
アリシアは子供から渡された黄色い色紙を受け取り、何を作るのかも知らないまま、示された場所を押さえた。
答えの続きを知らない夜にも、することはちゃんとあった。




