第238話 開く前の、最後の確認
研究棟から届いた連絡票を机の端へ置いた翌朝、アリシアはいつもより少し早く生活観測区画の食堂へ下りた。
窓の外は薄い曇り空だった。雲の向こうから朝日が滲むように差し込み、まだ人の少ない食堂の床へ淡い光を広げている。厨房からは焼いたパンと温かいスープの匂いが流れ、食器を準備する小さな音だけが静かな室内に響いていた。
「早い」
先に席へ着いていた子供が、アリシアを見る。
「ちょっとだけね」
「研究?」
「今日は学校」
「そのあと?」
「研究棟に行く予定」
「昔の紙見る?」
アリシアは椅子を引きながら、少しだけ考えた。
「まだ見ないと思う」
「まだ?」
「今日は、見る前の最後の確認をする予定だから」
「最後?」
「予定ではね」
「じゃあ次は見る?」
「問題がなかったら」
「問題あったら?」
「直す」
「いつ見るの?」
「……だから、まだ分からないって」
子供はパンを一口食べながら笑った。
「また」
「もう、それ言わなくていいから」
『朝から同じ会話してるわね』
ノアが椅子の下から現れた。
「ノア、いつからいたの?」
『最初から』
「見えなかった」
『猫だから』
「理由になってない」
職員が朝食を運んでくる。
アリシアは温かいスープへ手を伸ばした。
身体に痛みはない。
息苦しさもない。
胸に冷たさや妙な違和感も残っていない。
人工刺激を行う日ではないから細かな試験前確認をする必要はなかったが、ここ数日の生活の中で、自分の状態を必要以上に数字へ置き換えなくても把握できる時間が増えていた。
眠れている。
食欲もある。
授業へ行くのも嫌ではない。
研究棟へ行きたい気持ちはある。
それで十分だった。
◇
午前中の授業では、展示週間についての簡単な連絡があった。
「まだ一か月近くあるが、直前になって材料がない、場所がない、時間がないと騒ぐ者が毎年いる」
担任が教壇の上から教室を見渡す。
「学院側で使える共用場所と、申請が必要な設備の一覧を後ろへ貼っておく。個人参加、複数人参加、授業単位の展示、どれも詳細は後日だ。今すぐ申請する必要はない」
何人かの生徒が後ろを振り返った。
友人も振り返る。
その横で、アリシアは友人の顔を見た。
「何?」
「ノート」
「何で今?」
「展示週間って先生が言ったから」
「まだ覚えてたの?」
「だって、この前使うかもって言ってた」
「怖いんだけど」
「何が?」
「記憶力」
「普通だよ」
「研究関係以外もそんなに覚えてるんだ」
「失礼」
アリシアが少し頬を膨らませる。
友人は笑いを堪えながら前を向いた。
「まだ秘密です」
「聞いてない」
「顔が聞いてる」
「顔は証拠になりません」
「それ最近好きだね」
同じことをノアにも言われた気がする。
アリシアは何も返さず、教師の説明へ視線を戻した。
展示週間。
植物管理の選択授業。
授業。
友人の秘密のノート。
研究。
以前より、自分の中に同時に存在するものが増えている。
どれか一つだけを考え続けなくてもいい。
それが少しずつ普通になっていた。
◇
昼休みには、展示週間の掲示を見ようとする生徒たちで教室後方が混み合った。
「見に行く?」
友人に聞かれ、アリシアは首を伸ばして人の隙間を見る。
「今じゃなくていい」
「珍しい」
「混んでる」
「それは分かる」
「あとで見られるし」
「じゃあ昼ご飯」
「うん」
二人で教室を出る。
今日は中庭ではなく、校舎の東側にある小さな休憩場所を使った。石造りの低い壁に囲まれ、風が弱い。雲が多いため少し肌寒かったが、外で食べられないほどではなかった。
「今日、研究行くんだっけ?」
友人が飲み物の蓋を開けながら尋ねる。
「うん」
「何するの?」
「前に決めた、昔の言葉の分け方を別の人にも使ってもらう」
「……昔の言葉?」
「私が前に何か感じた時の報告」
「ああ」
友人は少し考える。
「それを分けるの?」
「まだ本物は分けないよ。今日は練習」
「ずっと練習してない?」
「してる」
「大変だね」
「でも、見る人で違う分け方になったら困るから」
「例えば?」
アリシアはパンを持ったまま考えた。
「『冷たい気がする』って言った時に、ある人は『冷たい』にして、別の人は『分からない』にしたら、同じ言葉なのに結果が変わるでしょ」
「なるほど」
「だから、どう分けるかを先に決める」
「アリシアが決めるの?」
「みんなで考えてる。でも本物を分ける時、私はやらないことにした」
友人の手が止まった。
「何で?」
「私は結果を知ってるから」
「自分のことなのに?」
「自分のことだから、かも」
言葉にしてみると、不思議だった。
友人も少し不思議そうな顔をしている。
「嫌じゃない?」
「ちょっと嫌」
「ちょっとなんだ」
「見たいから。でも、昔の私が言ったことに、今の私が『本当はこうだった』って足すのも違うと思う」
「覚えてても?」
「覚えてるつもりでも、本当に同じか分からないし」
「難しいね」
「うん」
友人はそれ以上聞かなかった。
代わりに、自分のパンの端をちぎる。
「じゃあ、今日は昔のやつを開ける前の練習?」
「そう」
「頑張って」
「うん」
「でも授業終わるまでは授業ね」
「分かってる」
「前、考え事して先生に当てられてたじゃん」
「いつの話?」
「結構前」
「覚えてるんだ」
「私だって覚えてます」
友人が得意そうに笑った。
アリシアも笑い返した。
◇
午後の授業を終え、アリシアが研究棟へ着いた頃には、空の雲が少し薄くなっていた。
今日はノアも一緒だ。
会議室へ入ると、見慣れた研究チームのほかに、二人の職員が座っていた。
どちらも学院内では何度か見かけたことがあるが、これまでの主観報告分類規則の作成には参加していない。
一人は資料保管部門の中年女性。
もう一人は魔法実習記録の整理を担当している若い男性だった。
「この二人が新しい分類者?」
「はい」
記録担当職員が答える。
「今回の規則作成過程には参加していません。直近の練習例の内容も知りません」
「第二の新しい記録は?」
アリシアが尋ねる。
「研究棟全体の出来事として概要を耳にしている可能性はあります。ただし、今回の練習例は実記録ではありませんし、分類作業中に東西結果や試験結果へ関する情報は提示しません」
「完全に何も知らない人は無理?」
「学院内で研究業務に携わる以上、主要な進展を完全に遮断するのは難しいです」
「そっか」
「その制約も記録します」
アリシアは頷いた。
完璧に何も知らない人を作ることはできない。
だから、知らないふりをするのではなく、どこまで知らない状態を作れるのかを残す。
「規則はこれ?」
机の中央に置かれた紙を見る。
「はい。現時点の文章化版です」
「もう変えない?」
「今日の試行中には変えません」
「終わった後は?」
「問題が見つかれば検討します」
「分かった」
◇
アリシアにも同じ規則文が渡された。
以前より文章が整理されている。
最初に大きく書かれていたのは、この分類の目的だった。
『本分類は、既存の対象感覚確認/非確認判定を変更するためのものではない。主観報告原文に含まれる特徴を、東側・西側結果および既存結果ラベルから独立して整理する探索用分類である。』
アリシアはその一文をゆっくり読んだ。
次に原則。
原文保持。
後付け数値禁止。
欠測とゼロを区別。
本人の内面的確信を発言形式から推定しない。
発言順序を保持。
時間参照表現を原文のまま付帯情報として保持。
分類者へ刺激時刻、東側結果、西側結果、既存結果ラベルを提示しない。
試験特定につながる条件情報も可能な範囲で伏せる。
発言間の相対間隔は保持するが、観測開始からの絶対位置は分類用紙では原則伏せる。
アリシアは次の項目へ進む。
『身体感覚報告の有無』
『身体部位』
『感覚関連語』
『記録された強度』
『発言形式』
『持続についての表現』
『発言順序』
『表現推移』
感覚関連語は、温度、痛み、圧迫・重量、その他身体異常、特定不能という粗い区分。
複数が含まれる場合は一つへ無理に絞らない。
肯定・否定・比較修正・保留不確定など、表現の向きも別に保持する。
分類結果だけで原文を置き換えない。
「長くなったね」
アリシアが言った。
「最初よりは」
サーラが答える。
「でも、やることが増えたというより、勝手にやってはいけないことが明確になった感じ」
「私もそう思う」
「アリシアさんが読んで分からない箇所はありますか?」
問われ、アリシアはもう一度最初から目を通した。
「『特定不能』と『欠測』は違うよね?」
「はい」
「言葉はあるけど種類を決められないのが特定不能。そもそも情報が書いてないのが欠測?」
「その理解です」
「『何か変』だけなら?」
「身体部位も身体感覚かどうかも不明なら、身体感覚報告については確定不能。部位は欠測です」
「『胸が何か変』なら?」
「身体感覚報告あり、胸部、その他身体異常表現候補」
「分かった」
それ以上、大きな疑問はなかった。
◇
二人の新しい分類者には、規則文と十二件の練習例だけが渡された。
「質問はしていいんですか?」
中年女性が尋ねる。
「規則文の語句そのものについての確認は記録した上で可能です。ただし、例文をどう分類すべきかという答えは伝えません」
「了解しました」
「質問したこと自体も残す?」
アリシアが聞く。
「はい」
「何で?」
「規則文だけで理解しにくい箇所があれば、それも規則の問題かもしれないからです」
「なるほど」
二人は作業を始めた。
アリシアは今回も離れた席へ移る。
分類者からこちらの表情が見えにくい位置だ。
練習例だから、アリシア自身の過去の言葉は入っていない。
それでも、規則作成に関わった自分が無意識に頷いたり首を傾げたりすれば、余計な手がかりになるかもしれない。
『また待つの?』
ノアが小声で聞く。
「待つ」
『今日は何分?』
「知らない」
『暇』
「寝てれば?」
『昨日は寝たら文句言ったでしょう』
「文句じゃないよ」
『猫の自由を侵害された』
「大げさ」
ノアは机の下へ潜り、そのまま丸くなった。
アリシアは笑いそうになったが、分類者の方を見ないように窓へ視線を向けた。
雲の切れ間から、細い日差しが庭へ落ちている。
風が木の枝を揺らすたび、光の場所がゆっくり移動した。
◇
最初の質問が出たのは、作業開始から少し経った頃だった。
「確認です」
若い男性職員が手を上げる。
「『発言形式』の『質問』と『保留不確定』は同時に付けられますか?」
記録担当職員はすぐに答えず、質問内容を記録した。
「規則文では、発言形式と表現の向きは別項目です」
「ということは、『冷たいのかな?』なら発言形式は質問、温度表現の向きは保留不確定、と両方記録できる理解でいいですか?」
「はい。その理解で規則文は作られています」
「分かりました」
作業が再開する。
アリシアは自分の紙を見る。
(そこ、私は普通に分けて読んでた)
規則作成に参加していたからだ。
文章だけを初めて読む人には、同時に付けてよいかが分かりにくかった。
しばらくして、もう一人からも質問が出た。
「『持続についての表現』ですが、『今はもうない』は持続表現に含みますか?」
また記録される。
「例文の分類答えは伝えられません。ただ、規則文では『感覚が継続している、消失した、短時間だった、長く続いた等、時間的持続へ言及する表現』を対象としています」
「了解です」
女性職員はそれ以上聞かなかった。
アリシアは少しだけ眉を寄せる。
答えそのものは教えていない。
けれど、規則文を口頭で読み直してもらった。
これを「説明なしで使えた」と言っていいのだろうか。
その疑問を口にしたくなったが、今は作業中だ。
アリシアは黙って覚えておいた。
◇
二人の分類が終わった。
今度は、これまで規則作成へ参加していた三人の分類者が、同じ十二例を現行規則で独立分類していた。
合計五人。
照合が始まる。
最初の数例は大きな差がなかった。
身体感覚報告の有無。
身体部位。
温度関連語。
数値強度。
時間参照表現。
発言順序。
ほぼ同じ。
「すごい」
アリシアが小さく言う。
「まだ全部ではありません」
「分かってる」
六例目。
『胸のあたりが少し重い気もする。今はもうない。』
五人全員が身体感覚報告あり。
部位は胸部。
圧迫・重量関連語あり。
強度は数値なし、言語的程度表現「少し」保持。
発言形式は平叙。
表現の向きは保留不確定。
時間参照原文「今」。
持続についての表現あり。
一致した。
「質問したところだ」
アリシアが女性職員を見る。
「はい。規則文の確認後はそう分類しました」
記録担当職員が、その点に印をつける。
完全な自力一致として扱うかは後で検討するのだろう。
七例目。
『何かあった? 胸がちょっと変な気がする。』
ここで一つ差が出た。
最初の「何かあった?」を、四人は身体感覚確定不能の独立した第一発言として保持。
一人だけ、後続の「胸がちょっと変な気がする」と一続きの報告として扱った。
「発言の区切り」
アリシアが呟く。
「はい」
若い観測員が頷いた。
これは重要だった。
以前から、曖昧な質問形式の最初の発言と、その後の明確な身体報告をどう扱うかは、時間窓の整理でも問題になったことがある。
ただし、今は過去の特定記録を開いているわけではない。
練習文だけで同じ問題が出た。
「何で一つにしたんですか?」
サーラが分類者へ尋ねる。
「意味として連続しているように読んだからです」
「規則には?」
「『発言順序を保持する』とはありましたが、同一記録内で句点ごとに別発言とするのか、発話単位をどう切るのかが明確ではありませんでした」
アリシアはすぐに紙へ目を落とした。
本当に書いていない。
「これ、大事じゃない?」
「かなり重要ですね」
「区切り方が違ったら、順番も変わる」
「はい」
「間隔も」
「はい」
「じゃあ実記録開く前に決めないと駄目」
アリシアの声が少し強くなった。
サーラが静かに頷く。
「同意します」
その瞬間、アリシアは少しだけ落胆した。
今日、大きな問題がなければ固定版候補になると思っていた。
けれど、あった。
発言の区切り方。
原文を残しても、どこからどこまでを一つの発言単位として扱うかが違えば、分類結果が変わる。
(また延びる)
そんな思いが一瞬だけ浮かぶ。
アリシアは膝の上で指を組んだ。
けれど、すぐに別の考えが続いた。
(でも、今見つかった)
実記録を開いた後ではない。
欲しい結果を見た後でもない。
まだ練習例だけの段階で見つかった。
それなら、今日見つかった方がいい。
◇
照合は最後まで続けられた。
ほかにも小さな差は二つあったが、どちらも原文転記の表記揺れで、意味上の分類差ではなかった。
最大の問題は発言単位だった。
「今日は固定しない?」
アリシアが確認する。
「はい」
「実記録も開かない」
「はい」
返事を聞き、アリシアは息を吐いた。
『残念?』
机の下からノアの声がする。
「ちょっと」
『ちょっとねえ』
「本当にちょっと」
ノアが顔だけ出した。
『顔はもっと残念そうだけど』
「顔は証拠にならない」
『それ、もう禁止にしない?』
部屋の何人かが笑った。
アリシアも少し笑う。
「でも、開かない方がいいと思う」
今度は研究チームへ向けて言った。
「発言をどこで切るか決まってないまま開いたら、私たちが昔の記録見ながら決めることになるから」
「そうですね」
「そしたら、知ってる記録に合う切り方になるかもしれない」
「その危険があります」
「じゃあ先に決める」
自分で言うと、落胆が少し薄れた。
◇
発言単位の規則について、その場で結論は出さなかった。
ただし、何を考える必要があるかだけは整理した。
記録上の句点や改行をそのまま発言単位にするのか。
実際の発話記録に明確な時間差がある場合、それを優先するのか。
一息の中で言い直した表現は一発言として扱うのか。
問いかけの後に明確な身体報告が続いた場合、別単位として保持するのか。
記録者が後から文章として整えた古い記録では、句読点そのものが当時の発話境界を正確に示さない可能性もある。
「古い記録、全部同じ書き方じゃない?」
アリシアが尋ねる。
「同じではありません」
記録担当職員が答えた。
「現在ほど統一されていない時期の記録もあります」
「じゃあ句点だけで切るの危ない」
「はい」
「時間記録があるものとないものもある?」
「あります」
「……難しい」
「そうですね」
アリシアは紙を見つめる。
「でも、ない情報を作るのは駄目」
「はい」
「発話境界が分からない古い記録は?」
「『境界不明』として保持する方法もあります」
「無理に分けない?」
「それも候補です」
アリシアはすぐに頷いた。
「それがいい気がする」
「まだ候補ですよ」
「分かってる」
『今日はちゃんと候補って言われる前に止まったわね』
「ノア、うるさい」
◇
短い休憩に入った。
アリシアは廊下へ出て、水を飲んだ。
窓の外では、雲がかなり薄くなっている。
夕方の光が石壁を柔らかく照らしていた。
サーラが少し遅れて廊下へ出てくる。
「疲れましたか?」
「少し」
「今日はここで終えても構いませんよ」
「ううん。もう少しだけ」
「無理は?」
「してない」
アリシアは水の入った杯を両手で持つ。
「残念ではあるけど」
「実記録を開けなかったことですか?」
「うん」
「そうですよね」
「でも……」
アリシアは窓の外を見る。
「今日見つからないで、本物見てから気づく方が嫌だったと思う」
「私もそう思います」
「最初から全部ちゃんと決めるのって、無理なのかな」
「おそらく難しいでしょう」
「練習して、穴見つけて、直して。また穴見つけて」
「そういう作業になることは多いですね」
「終わらない?」
「終わらせる基準は必要です」
アリシアがサーラを見る。
「完璧になるまでじゃない?」
「完璧を待てば、いつまでも実記録へ進めない可能性があります」
「じゃあ、どこで?」
「重大な解釈差が生じる曖昧さが、練習の範囲で十分減ったか。残る曖昧さを欠測や判定不能として扱えるか。そして、規則を実記録を見る前に固定できるか。そのあたりでしょう」
「分からないものを、分からないって残せるなら進める?」
「それも大切です」
アリシアはゆっくり息を吐いた。
「全部きれいに分けなくていいんだ」
「はい」
「分類するのに?」
「分類するからこそ、分類できないものの場所も必要です」
その言葉は少し不思議だった。
けれど、アリシアには分かる気がした。
第二の新しい記録でも、自分の弱い違和感を無理に「確認」へ入れなかった。
だからといって、何もなかったことにもしていない。
線のどちらかへ押し込めないものを、そのまま残す。
今作っている分類にも、同じような場所が必要なのかもしれない。
ただし、アリシアはその考えを声にはしなかった。
今は研究を別の研究へ例える必要はない。
「戻る」
「はい」
◇
休憩後、発言単位について次回までの作業だけを決めた。
実記録は見ない。
過去の特定報告も参照しない。
一般的な練習文と、結果に結びつかない記録形式の例だけを使う。
候補規則を二つか三つ作り、どれが最も原文を壊さず、分類者の恣意性を減らせるか比較する。
「私も考える?」
アリシアが尋ねる。
「希望しますか?」
「ちょっと考えたい」
「では、規則案ができた段階で意見をください。ゼロから作る作業まで抱える必要はありません」
「分かった」
「それから、先ほどの二人から出た質問も規則文へ反映します」
「質問と保留を同時につけられるかってやつ?」
「はい。別項目なので併記可能だと明記します」
「『今はもうない』も?」
「持続についての表現として扱う例を、結果に結びつかない説明文へ追加する予定です」
「それなら次の人、聞かなくても分かるかも」
「それを確認します」
今日の試行は失敗ではなかった。
固定できなかっただけだ。
むしろ、固定する前に問題を一つ見つけた。
アリシアはそう考えることができた。
◇
研究棟を出る頃には、夕日が雲の下から顔を出していた。
濡れていた地面はもう乾いている。
朝に避けた水溜まりも、ほとんど残っていなかった。
『朝はあんなに避けてたのに』
ノアが地面を見る。
「何が?」
『水』
「もうないじゃん」
『あれだけ真剣だったのに消えるものね』
「普通でしょ」
『人間の悩みもそんな感じなら楽なのに』
「急に変なこと言うね」
『猫は時々深いことを言うの』
「自分で言わないで」
アリシアは笑いながら歩く。
少し先で、生徒たちが展示週間の掲示について話していた。
何を出すか。
誰と組むか。
場所をどうするか。
まだ決まっていないことばかりらしい。
それでも楽しそうだった。
(決まってないって、悪いことじゃないんだよね)
直接的にそう考えたあと、アリシアは自分で少しおかしくなった。
研究でも、学校でも、日常でも、今の自分の周りには未決定のものが多い。
次の人工刺激。
過去主観報告の分類。
植物管理を選択するか。
展示週間で何をするか。
友人のノートの用途。
どれも、今すぐ答えを出す必要はない。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が職員と一緒に紙を切っていた。
普通の工作だ。
重要な木箱は収納場所に置かれたままで、今日は誰も触れていない。
「おかえり」
「ただいま」
「昔の紙見た?」
「見てない」
「また?」
「問題見つかったから」
「何の?」
「言葉をどこで分けるか」
子供が鋏を止める。
「言葉を切るの?」
「紙を切るみたいに言わないで」
「でも分けるんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
子供は手元の細長い紙を見る。
「ここで切るのと、ここで切るので違う」
「うん」
「同じ?」
「長さ変わるから違うね」
「じゃあ言葉も?」
アリシアは一瞬だけ答えに迷った。
「……言葉はもっと難しい」
「何で?」
「切る場所が見えない時あるから」
「線ない?」
「ないこともある」
「じゃあ切らない」
子供は簡単に言った。
アリシアは目を瞬いた。
「切らない?」
「分かんないなら」
「……それも候補になってる」
「じゃあ同じ」
「同じではないと思う」
『何でも研究にするなって言ってたの誰だったかしら』
ノアが横から言う。
「私が始めたんじゃないもん」
「僕?」
「そう」
「でもアリシア答えた」
「……そうだけど」
職員が笑いを堪えている。
アリシアは少し恥ずかしくなり、子供の隣へ座った。
「何作ってるの?」
「まだ秘密」
「また秘密?」
「うん」
「最近みんな秘密多くない?」
『あなたが聞きすぎなんじゃない?』
「そんなことない」
◇
翌日は研究棟へ行かなかった。
発言単位の候補規則を作るのは担当者側の仕事だったからだ。
学院では通常通り授業を受けた。
昼休みには友人と展示週間の掲示をようやく見に行った。
共用展示場所。
小型魔導具の実演区画。
美術・工芸展示。
研究紹介。
植物・栽培展示。
音楽演奏。
ほかにも幾つかの区分がある。
「植物もある」
友人が言う。
「本当だ」
「この前の体験の人たち出すのかな」
「分からない」
「見たい?」
「見たい」
「じゃあ一緒に見ようよ」
「うん」
展示週間当日に何をするかはまだ決めていない。
それでも、一緒に見たい場所が一つ増えた。
アリシアはそれを覚えておくことにした。
◇
発言単位についての候補案が届いたのは、さらに翌日の午後だった。
放課後、研究棟の小会議室で、アリシアは三つの案を見比べていた。
一つ目。
記録上の句読点・改行を原則単位とする。
二つ目。
記録された発話時刻または明確な間隔情報を優先し、一定以上の間がある場合に分ける。
三つ目。
原記録に明示された発話境界のみを使い、境界が不明な場合は無理に分割せず「発話境界不明」を付す。
「三つ目が一番安全そう」
アリシアが言った。
「理由は?」
「一つ目は、昔の記録を後から書き直した人の句点かもしれない。二つ目は、間隔がない記録で使えない」
「はい」
「三つ目なら、分からない時は分からないまま」
「欠点もあります」
「細かく分けられない記録が増える?」
「そうです。情報を取りこぼす可能性があります」
「でも、ない境界を作るよりいい気がする」
「その考え方は有力です」
若い観測員が別紙を示す。
「ただし、三つ目を基本にしながら、明示的な連続発言については原記録の発言順をそのまま保持する方法があります」
「無理に一個ずつ切らない?」
「はい。『発言列』として保持する」
「その中に、『何かあった? 胸が変』って続いてたら?」
「原記録で二つの発話として区別されているなら二つ。区別がないなら一列の原文として保持し、境界不明」
「分類する人が勝手に切らない」
「そうです」
アリシアはしばらく紙を見つめた。
「それがいい」
今度は「好き」ではなく、理由を持って言えた。
「少なくとも私は、それが一番後から変えにくいと思う」
「では、これを候補規則として練習例で確認しましょう」
「今日?」
「時間はありますが、どうしますか?」
アリシアは窓を見る。
まだ夕方まで余裕がある。
身体も疲れていない。
けれど、候補が決まった直後だ。
「練習例、もう作ってある?」
「はい。どの案を選んでも使える一般例です」
「じゃあやりたい」
「分かりました」
◇
再び三人の分類者が呼ばれた。
今度は発言境界だけに焦点を絞った八例。
他の分類項目まで同時に確認しない。
問いを増やさないためだ。
一つ目。
原記録で明確に二つの発話として分かれているもの。
二つ目。
一続きの文章だが、途中に言い直しがあるもの。
三つ目。
句点はあるが、原記録が後から整文されたため実際の発話境界が不明なもの。
四つ目。
発言時刻が二つ明示されているもの。
分類者たちは新しい規則を使った。
照合結果。
八例すべてで、「分ける/発言列として保持/境界不明」の判断が一致した。
アリシアは思わず顔を上げる。
「全部?」
「はい」
「本当に?」
『疑い深い』
「確認してるだけ」
記録担当職員も、もう一度紙を確認する。
「少なくともこの八例では一致しています」
「じゃあ……」
アリシアは言いかけて止まった。
固定できる?
実記録を開ける?
その言葉が喉まで出た。
けれど、自分から結論を急がなかった。
「今日の結果を見てから決めるんだよね」
「はい」
サーラが微笑んだ。
「全体をもう一度確認します」
「うん」
◇
会議室の中央へ、これまでの規則が一枚にまとめられた。
既存対象感覚判定は変更しない。
原文を保持する。
身体感覚報告の有無。
部位。
感覚関連語。
記録された強度。
発言形式。
感覚表現の向き。
持続についての表現。
時間参照原文。
発言順序。
表現推移。
発話境界。
欠測とゼロを分ける。
後付け数値禁止。
内面的確信を勝手に推定しない。
刺激時刻、東西結果、既存結果ラベル、試験特定につながる条件情報を分類者へ可能な限り伏せる。
発言間の相対情報は必要な範囲で保持。
境界不明は無理に切らない。
アリシア本人は規則設計へ参加するが、実分類担当からは外れる。
実分類終了後の解釈には参加できる。
「長い」
アリシアが小さく呟いた。
『最初も言ってたわね』
「だって本当に長い」
「ただし、分類用紙そのものはもっと簡潔にできます」
記録担当職員が言う。
「これは規則全文です」
「分類する人、毎回これ読む?」
「最初には読んでもらいます」
「大変」
『研究したかったんでしょう?』
「したかったけど」
『現実を知ったわね』
「ノア何もしてないじゃん」
『見守るのも仕事よ』
「誰に頼まれたの」
『私が決めた』
◇
最終的な判断は、その場で全員が声を揃えて決めるようなものではなかった。
サーラ。
記録担当。
若い観測員。
研究責任側。
それぞれが確認する。
人工刺激の安全規則とは別の方法論上の固定だからこそ、急いで署名する必要もない。
しばらく紙を確認した後、記録担当職員が口を開いた。
「現時点で、実記録を見る前に解決すべき重大な分類規則上の曖昧さは、練習範囲では残っていないと判断します」
アリシアの背筋が自然に伸びる。
「ただし、実記録には練習例で想定していない表現が含まれる可能性があります」
「その時は?」
「規則にないものを、その場で都合よく新分類へ入れません」
「じゃあ?」
「『規則外/要保留』として原文のまま残します」
「後で考える?」
「はい。ただし、その記録の東西結果を見ない状態で、規則追加が必要か検討します」
「結果見てから直さない」
「その原則は維持します」
アリシアはゆっくり頷いた。
「じゃあ、固定?」
今度こそ尋ねた。
サーラが答える。
「実記録開示前の固定版として扱うことを提案します」
誰も反対しなかった。
記録担当職員が日付を記入する。
規則版番号が付けられる。
その横に、適用開始前であることが明記された。
アリシアは、その筆先をじっと見ていた。
大きな音はしない。
神器が光るわけでもない。
誰かが歓声を上げるわけでもない。
ただ、紙の端に日付と版番号が増えただけだった。
それでも、ここ数日ずっと作ってきたものが、初めて動かさない線になった。
「……決まった」
『決まったわね』
「うん」
◇
「では、次に実分類の開始方法を相談します」
その言葉で、アリシアの緊張が戻った。
「全部開かないんだよね?」
「はい」
「何で?」
前から気になっていたことをようやく聞く。
記録担当職員が三枚の無地の封筒を机へ置いた。
「最初は少数の記録だけを、分類者へ匿名化した状態で渡します」
「何件?」
「まだ最終決定していませんが、三件程度を考えています」
「三件」
「これは結果を見るためではありません」
「規則が本物でも使えるか?」
「はい。練習例では想定できなかった記録形式の問題がないかを確認するためです」
「そこで変な言葉が出たら?」
「規則外として保留します」
「東西結果は見ない?」
「分類者には見せません」
「私にも?」
部屋が少し静かになった。
「最初の分類が終わるまでは、アリシアさんにもどの記録を選んだか分からない形を提案しています」
アリシアは目を瞬いた。
「私、見ないの?」
「実分類担当から外れると決めたので」
「……そっか」
分かっていたはずなのに、実際に言われると少し胸が沈んだ。
過去の自分の言葉が初めて開かれる。
その瞬間に、自分はいない。
見たい。
すごく見たい。
(でも、自分で決めた)
アリシアは膝の上の手へ力を入れ、それからゆっくり緩めた。
「終わったら見られる?」
「分類が固定された後、解釈段階では見られます」
「分類者が何て分けたかも?」
「はい」
「原文も?」
「はい。ただし、どの段階で東西結果を開くかは別に決めます」
「……分かった」
『嫌そう』
「ちょっとね」
アリシアは隠さなかった。
「でも、私がいない方がいいと思う」
「理由は?」
「顔に出るから」
部屋に一瞬の沈黙が落ちた。
ノアが吹き出すように喉を鳴らした。
『顔は証拠にならないんじゃなかったの?』
「今日はなる!」
笑いが広がった。
アリシア自身も笑った。
少しだけ沈んでいた胸が軽くなる。
◇
最初の少数実分類をいつ行うかは、翌日以降に決めることになった。
今日は規則固定まで。
過去の実記録は一枚も開かない。
アリシアはそれを受け入れた。
帰り際、机の上には三枚の無地の封筒が残っていた。
中身はまだ入っていない。
どの記録を選ぶかも、アリシアには知らされない。
新しい分類規則の紙だけが、その隣に置かれている。
「本当に、開かなかった」
『開く前の最後の確認って言ってたものね』
「うん」
『次は?』
アリシアは扉の前で一度振り返った。
次こそ過去の記録へ進む可能性が高い。
けれど、「絶対」とは言わない。
何か問題が出れば止まる。
止まっても失敗ではない。
「準備できたら、開く」
『またそれ?』
「今度は前より準備できてるもん」
『はいはい』
アリシアは研究棟を出た。
外には夕暮れの風が吹いていた。
少し冷たい。
けれど胸の奥に、試験の時のような違和感はない。
ただ、期待がある。
過去に何が残っているのか。
弱い違和感は、本当にあの日だけだったのか。
似た言葉があるのか。
全くないのか。
まだ何も知らない。
だからこそ、今は知らないままでいる。
見るための規則が固定される前に答えを覗かなかったことを、アリシアは少しだけ誇らしく思った。
(次に開く時も、欲しい答えを探すんじゃなくて、書いてあるものを見る)
その思いを胸の中で言葉にしてから、アリシアは前を向いた。
過去の紙は、今日も開かなかった。
けれど今度は、その手前に引いていた線が、ようやく動かなくなっていた。




