第237話 まだ、過去の紙は開かない
翌朝、学院へ向かう道には昨夜の雨が残っていた。
石畳の窪みに溜まった水が朝日を細く反射し、通り沿いの植え込みからは濡れた土と葉の匂いが漂っている。雨そのものは夜明け前に止んだらしく、空の東側には薄い青が広がり始めていたが、屋根の縁からは時折、大きな雫が落ちていた。
「踏むわよ」
「分かってる」
『さっきから全部避けてるから言ってるの』
「靴濡らしたくないもん」
『子供みたい』
「水溜まりに入らないだけで?」
『そこまで真剣に避ける大人は少ないと思う』
アリシアは返事の代わりに、道の中央にできた大きな水溜まりを少し遠回りした。
ノアは濡れていない石だけを選びながら、その後を器用についてくる。
「ノアだって避けてるじゃん」
『私は猫よ。足が濡れると面倒なの』
「私も面倒」
『靴履いてるでしょ』
「靴が濡れる」
『人間って不便ね』
「猫も十分不便そうだけど」
『聞こえなかった』
朝から研究の話はしていない。
昨夜も、生活観測区画へ戻った後は夕食を食べ、子供が描いた絵を見て、翌日の授業道具を確認して眠った。分類規則について何も考えなかったわけではないが、研究帳を開いて続きを考え続けることはしなかった。
次に研究棟へ行く日も決めていない。
前日の練習分類では、規則が比較的安定して使える部分と、まだ人によって判断が分かれる部分が見えた。
そこから先は、担当者たちが整理する時間だった。
アリシアが横から急かしても、早く正しくなるわけではない。
(……でも、気にはなる)
その気持ちまで消す必要はなかった。
研究をしたい。
過去の報告を見たい。
第二の新しい記録で感じた、確認基準には届かなかった弱い違和感に似たものが、以前にもあったのか知りたい。
その全部を抱えたまま、今日は学校へ行く。
今のアリシアには、それができた。
◇
一時間目は魔法実技だった。
広い実習室の床には六人ずつの区画が白線で分けられ、各区画の中央に小さな木製台が置かれている。その上には薄い金属板と、豆粒ほどの魔石が三つずつ並んでいた。
「今日は出力そのものではなく、停止の練習をする」
教師の声が実習室へ響いた。
「起動するより止める方が簡単だと思っている者がいるが、雑に止めれば残留魔力が増える。指定した明るさまで灯したら、合図に合わせてゆっくり出力を落とせ。消えれば成功、ではない。終了後の板の残留値まで確認する」
アリシアは友人と同じ区画だった。
ほかに男子生徒二人と女子生徒二人がいる。
「消すだけなら得意」
友人が小声で言った。
「先生、消えれば成功じゃないって言ったばっかり」
「聞いてたよ」
「じゃあ何で言ったの」
「願望」
向かい側の男子生徒が吹き出した。
教師がこちらを見る。
六人全員が一斉に口を閉じた。
視線が外れてから、友人がさらに声を落とす。
「今のは私だけじゃないよね?」
「最初に喋ったのはそっち」
「裏切り者」
「事実」
「最近強くない?」
アリシアは少しだけ口元を緩め、金属板へ視線を戻した。
順番が来る。
指先から細く魔力を流すと、中央の魔石が淡い光を帯びた。
強すぎない。
弱すぎない。
指定された線まで明るさを上げる。
「そのまま保持」
教師の声が飛ぶ。
数呼吸。
「落とせ」
アリシアは一気に切らず、流している魔力を少しずつ細くした。
光が弱まる。
最後に小さく瞬き、消えた。
残留値を測る簡易器具が板の端で揺れる。
「低い」
同じ区画の女子生徒が言った。
「上手」
「ありがとう」
「私、最後に切りすぎるんだよね」
「最初から少し早めに細くしたら?」
言ってから、アリシアは相手の手元を見る。
「でも、私と同じやり方が合うか分からないけど」
「やってみる」
女子生徒は次の番で、少し早めに出力を落とし始めた。
途中で一度光が揺れたものの、最後の残留値は前回より低い。
「下がった」
「よかった」
「アリシア、教えるの上手いね」
「そんなことない」
「前なら『こうしたら』で終わってたのに、今は『合うか分からない』までつく」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる」
友人が横から口を挟む。
「最近、考えてから言うようになったんだよ」
「前から考えてるもん」
「考えすぎて言わなかったじゃん」
「それは……」
否定できなかった。
教師の次の合図が飛び、会話はそこで終わった。
実技室には再び、魔石が灯っては消える小さな光が幾つも並び始めた。
◇
昼休みになる頃には、朝の雲はほとんど消えていた。
外へ出ると、濡れていた石畳の大半が乾き始めている。
いつもの中庭はまだ芝生が湿っていたため、アリシアたちは校舎脇の長椅子を選んだ。
「昨日のノート、使った?」
アリシアが尋ねる。
友人はパンを持ったまま固まった。
「覚えてたの?」
「聞こうと思ってたから」
「使ったよ」
「何用?」
「秘密」
「決まったんだ」
「決まった」
「何?」
「秘密って言ったでしょ」
「気になる」
「研究じゃないよ」
「それは分かってる」
「じゃあ何でそんなに知りたいの?」
聞かれ、アリシアは少し考えた。
「昨日、一緒に選んだから?」
「選んだの私だけど」
「横にいた」
「それだけで?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
友人はパンを一口食べ、少し得意そうな顔をした。
「展示週間の時に使うかもしれない」
「展示週間?」
「まだ決めてないから秘密」
「また決めてない」
「決めてないことって世の中にいっぱいあるんです」
「それ、私に言う?」
「アリシアが一番分かるでしょ」
言い返せなかった。
アリシアが黙ると、友人は笑いながら飲み物を差し出す。
「そんな顔しないで。決まったら教えるから」
「約束?」
「たぶん」
「約束じゃない」
「じゃあ、決まって人に見せてもいいものだったら教える」
「長い」
「条件は大事なんでしょ?」
「また研究っぽくする」
「これはアリシアっぽくしたの」
友人の言葉に、アリシアは少し目を瞬いた。
「私っぽい?」
「うん。最近そういう言い方するじゃん。何が決まってて、何がまだか」
「……そんなに?」
「前よりは」
友人はそれ以上深く追及せず、残りのパンを食べ始めた。
アリシアも昼食へ戻る。
研究の方法が、知らないうちに話し方へ少し影響しているのかもしれない。
それ自体が良いのか悪いのかは分からない。
けれど、何でも研究へ結びつけたいわけではなかった。
友人の秘密のノートは、ただ気になる。
それだけだ。
◇
午後は歴史と読み書きの授業が続いた。
放課後の鐘が鳴ると、友人は今日は部活動がないらしく、机へ頬杖をついたままアリシアを見る。
「今日どうする?」
「帰る」
「研究は?」
「連絡来てないから」
「じゃあ途中まで一緒に帰ろう」
「うん」
二人で教室を出た。
昇降口には朝持ってきた傘が何本も残っている。もう雨は降りそうにないが、忘れて帰る生徒が多いらしく、教師が入口で「朝の傘を持って帰れ」と声を張っていた。
「危なかった」
友人が傘立てから自分の傘を抜く。
「忘れてた?」
「完全に」
「先生いなかったら置いてったね」
「たぶん」
「明日また雨だったら?」
「取りに来る」
「晴れだったら?」
「そのうち思い出す」
「忘れ物多い」
「アリシアが少なすぎるの」
「普通だよ」
「普通の人は友達が買ったノートの用途まで翌日覚えてません」
「それは忘れ物じゃないでしょ」
校門を出て、途中の分かれ道まで歩く。
友人は別方向だ。
「じゃあまた明日」
「うん」
「研究行くなら頑張って」
「今日は行かないって」
「明日とか」
「まだ分からない」
「そっか。じゃあ、何するにしてもまた明日」
「うん。また明日」
友人が手を振る。
アリシアも小さく手を振り返した。
そのまま生活観測区画へ戻った。
◇
共用室では、子供が窓際の植物を見ていた。
数日前の植物管理体験の話をしてから、土の状態に少し興味を持ったらしい。
もちろん勝手に触ることはせず、職員が一緒にいる。
「今日は触らないの?」
アリシアが聞く。
「見る日」
「何を見るの?」
「葉っぱ」
「土じゃなくて?」
「土も見る」
「両方?」
「うん」
子供は鉢の周囲をゆっくり回った。
「こっち、昨日より下」
「葉っぱ?」
「うん」
職員が記録紙を確認する。
「朝から少し下がっていますね。ただ、窓の光の向きも違うので、今日は見るだけにしましょう」
「水あげない?」
「土はまだ湿っています」
「じゃああげない」
子供は素直に手を引いた。
アリシアは少し離れたところからその様子を見ていた。
研究とは結びつけない。
植物は植物だ。
水が必要な時もあれば、まだ要らない時もある。
子供が興味を持っているから一緒に見る。
それだけで十分だった。
『今日は研究なし?』
窓辺にいたノアが尋ねる。
「なし」
『平気?』
「何が?」
『連絡待ち』
「平気だよ」
答えてから、少し考える。
「……気にはなるけど」
『でしょうね』
「でも、私が今行ってもやることないし」
『成長したわね』
「何、その言い方」
『褒めてる』
「絶対違う」
ノアは返事をせず、前脚へ顎を乗せた。
◇
研究棟から次の連絡が届いたのは、その翌日の昼だった。
授業が終わってから確認すると、短い文面だった。
『主観報告分類規則の改訂候補整理済み。実記録開示前の最終練習案について相談希望。人工刺激なし。過去実記録の開示なし。』
最後の一文を見て、アリシアは少しだけ安心した。
まだ開かない。
過去の紙は、まだ開かない。
それでいい。
今の規則に穴が残っているなら、先にそちらを見る。
放課後、アリシアは研究棟へ向かった。
◇
会議室へ入ると、前回より机の上がすっきりしていた。
大きな紙は一枚。
その横に、薄い練習用紙の束。
サーラ、若い観測員、記録担当職員がいる。分類作業に参加していた二人の職員も、少し遅れて入ってきた。
「今日は何するの?」
席につきながらアリシアが尋ねる。
「前回残った二点を整理しました」
「『ざわつく』と、一つの発言の中で変わるやつ?」
「はい」
記録担当職員が大きな紙をアリシアの前へ回す。
一つ目。
感覚種類の細分類については、これ以上細かくしすぎない方針が候補になっていた。
身体感覚としての報告が明示されているか。
身体部位はどこか。
温度関連語があるか。
痛み関連語があるか。
圧迫・重量関連語があるか。
それ以外の身体異常表現があるか。
種類を特定できない場合は、無理にどこかへ押し込まず「その他/特定不能」とし、必ず原文を残す。
「『ざわつく』は?」
「その他の身体異常表現。ただし原文『ざわつく』を保持します」
「分類しただけで意味を決めない?」
「はい。『ざわつく』が何を意味するかは分類段階では推定しません」
「それなら分かる」
二つ目。
一発言内で感覚表現が変化する場合。
ここは単一の最終分類へ押し込まず、「表現推移あり」という付帯情報を追加する案になっていた。
「例えば『冷たいと思った。でも違う気がした』なら?」
「温度関連語あり。最初に肯定表現、その後に修正表現。原文順序保持。付帯欄に『表現推移あり』です」
「最終的に冷たいかどうかは?」
「この探索分類では決めません」
「既存の確認判定は別にあるから?」
「その通りです」
アリシアは紙を読み直した。
「こっちで勝手に陽性とか陰性にしない」
「はい」
「言ったことを、言った順番で残す」
「はい」
「でも大きく分けるところは、みんな同じ規則で分ける」
「それを目指します」
アリシアは椅子の背へ少し寄りかかった。
「前より好き」
『また好き嫌い』
「分かりやすいって意味!」
ノアが机の端で尻尾を揺らした。
◇
「それから、今日はもう一つ決めたいことがあります」
若い観測員が言った。
「何?」
「実記録を開く前に、分類者へ何を見せないかです」
アリシアの表情が少し変わった。
これは以前から保留になっていた。
東側結果。
西側結果。
全体の結果ラベル。
可能な範囲の条件情報。
そこまでは隠す方向だった。
けれど、刺激時刻をどうするかは決めていない。
「刺激の時間?」
「それも含みます」
「見せたら駄目?」
「駄目と決まったわけではありません」
「でも見たら、『この近くの発言が大事そう』って思うかも」
「その可能性があります」
「じゃあ隠す?」
「簡単ではありません」
記録担当職員が別の紙を出した。
「発言順序と相対間隔を保持する場合、記録の時刻情報をすべて消すと、発言同士の距離まで失われる可能性があります」
「例えば?」
「一つ目の発言から二つ目までが数秒なのか、かなり後なのか。それは表現推移を読む上で必要かもしれません」
「でも刺激が何時かは要らない?」
「主観報告だけを分類する段階なら、必須ではないと考えています」
「じゃあ、発言同士の間だけ残す?」
「一案です」
アリシアは考え込んだ。
刺激の時刻が見えれば、そこを中心に発言を読んでしまう。
第二の前向き記録でも、自分は入力の瞬間を知らない状態で報告した。
後から東西の結果を知った。
過去の報告を分類する人まで、先に刺激時刻を知る必要はないように思える。
「私は隠したい」
アリシアが言った。
「理由は?」
「刺激の近くにある言葉を、特別に見そうだから」
「はい」
「でも発言同士の間は残したい。『変かも』って言ってすぐ『冷たい』って言ったのと、ずっと後で言ったのは同じじゃないと思う」
「その違いを分類そのものへ使いますか?」
「……そこまではまだ分からない」
アリシアは首を傾げた。
「使わなくても、消さない方がいい?」
「私はそう考えています」
サーラが答える。
「分類段階で使わない情報でも、後で必要になる可能性があります。ただし、分類者へ見せる情報と、原記録として保存する情報は同じでなくても構いません」
「保存は全部」
「原記録は可能な限りそのまま保持します」
「分類する人には必要なものだけ」
「はい」
「じゃあ……刺激時刻は見せない。東西結果も見せない。結果ラベルも見せない。条件も、試験が分かるようなのはできるだけ見せない」
「候補として記録します」
「発言の順番と、発言同士の相対間隔は残す」
「はい」
「でも絶対時間は?」
「試験特定につながるなら、相対化した方がよいでしょう」
「一つ目の発言をゼロにする?」
言ってから、アリシアは眉を寄せた。
「でも、それだと最初の発言より前に何もなかったみたいに見える?」
「良い指摘です」
「じゃあどうするの?」
「分類用紙では発言番号と発言間隔だけを示し、観測開始からの絶対位置は伏せる方法があります」
「一番目、何秒後に二番目、みたいな?」
「概ねそうです。ただし実際の表記方法はもう少し慎重に決めます」
「それなら刺激の場所は分からない」
「はい」
アリシアは頷いた。
◇
「ただし、もう一つ問題があります」
サーラが続ける。
「何?」
「アリシアさん自身です」
「私?」
「実分類への参加範囲をまだ決めていません」
アリシアは少し姿勢を正した。
分かっていた話だった。
自分は直近の結果を知っている。
自分の言葉も覚えている。
過去の試験についても、すべてではないが記憶がある。
文章を見れば、「これはあの時かもしれない」と気づく可能性がある。
「私は分類しない方がいい?」
口にすると、胸の中に少しだけ抵抗が生まれた。
参加したい。
自分の感覚についての記録なのだから、自分も見たい。
けれど、見たいことと、分類者として適していることは同じではない。
「完全に外れる必要があるとは、まだ考えていません」
サーラが答えた。
「例えば規則設計と、分類後の解釈段階には参加できます」
「実際に一枚ずつ分けるところは?」
「そこを相談したいです」
「私がやると、思い出すかもしれない」
「はい」
「でも、私にしか分からない言い方もあるかも」
「それもあります」
若い観測員が頷く。
「ただし、その『本人にしか分からない補足』を分類中に入れると、当時の記録ではなく現在の記憶を追加することになります」
アリシアの指が膝の上で止まった。
「……それは嫌」
「なぜですか?」
「今の私が覚えてることと、その時本当に感じてたことが同じか分からないから」
部屋が静かになる。
「昔の私が『変』ってしか言ってないのに、今の私が『あれは冷たかった気がする』って足したら、変わっちゃう」
「はい」
「逆もあるかもしれない。今は覚えてないから、『何でもなかった』って思うかもしれない」
「その通りです」
「じゃあ、分類する時は今の私の説明を入れない方がいい」
言い切ったあと、少し寂しさが残った。
自分の感覚なのに、自分が説明しない方がいい。
妙な話に思える。
けれど、その違和感は、方法が間違っているという意味ではなかった。
(私の言葉だからこそ、後から変えたくない)
アリシアは息を吐いた。
「私は規則を作るところにはいる」
「はい」
「分類が終わった後も見たい」
「もちろんです」
「でも本分類で一枚ずつ分ける人には入らない」
サーラはすぐには返事をしなかった。
「それを、アリシアさん自身の希望として記録してよいですか?」
「うん」
「後から変更したくなった場合は?」
「相談する。でも、結果見た後に『やっぱり分類したい』は駄目だと思う」
「なぜ?」
「結果見てから変えたら、また結果に合わせることになるから」
記録担当職員が静かにその言葉を書き留めた。
「では、実分類の開始前に参加範囲を正式固定する方向で整理します」
「うん」
『自分で自分を外したわね』
ノアが言う。
「全部じゃないよ」
『分かってる』
「ちょっと悔しいけど」
『それも分かってる』
アリシアはノアを見る。
「何でも分かるみたいに言わないで」
『顔に出てるもの』
「顔は証拠にならない」
『最近それ好きね』
◇
休憩を挟み、最後の練習例を使った確認が始まった。
今回は十例だけ。
規則の新しい穴を探すことが目的だった。
三人の分類者には、東西結果も刺激時刻も存在しない完全な練習文だけが渡される。
アリシアは分類には参加せず、少し離れた席から待った。
窓の外では、夕方の風が木々を揺らしている。
ノアは今日は眠らず、窓辺から鳥を眺めていた。
十分ほどで作業が終わった。
照合。
身体感覚報告の有無は一致。
身体部位も一致。
温度関連語の有無も一致。
時間参照原文も一致。
表現推移の有無も一致した。
一箇所だけ、持続情報で違いが出た。
例文は、
『胸が変な感じだった。少ししたら気にならなくなった。』
一人が「持続情報あり」。
二人が「持続時間の具体情報なし」。
「これ、どっち?」
アリシアが紙を見る。
「『少ししたら』は持続の情報じゃないの?」
「時間の長さを正確には示しませんが、持続が有限だったことは示しています」
「じゃあ『あり』?」
「ただし、『持続時間あり』という欄名だと、数値的な長さがあるように読める可能性があります」
「名前が悪い?」
「その可能性があります」
アリシアは少し考える。
「『持続についての表現あり』なら?」
記録担当職員が顔を上げる。
「それなら、『少ししたら』『すぐ消えた』『ずっと続いた』などを同じ大枠で保持できます」
「時間は原文で残す」
「はい」
「何秒とかに変えない」
「はい」
「じゃあそれがいい」
「候補としてかなり明確ですね」
大きな修正ではなかった。
けれど、実際に別の人が使ったからこそ見えた穴だった。
◇
すべての照合が終わる。
机の上に置かれた改訂候補は、最初の頃より少し長くなっていた。
けれど、複雑になりすぎた感じはしない。
何を推定してはいけないか。
何を原文で残すか。
どこまでを粗く分類するか。
その境界が、少しずつ見えるようになっていた。
「次は?」
アリシアが尋ねた。
今度は急かすつもりではない。
ただ、現在地を知りたかった。
「今日の修正を反映して、規則案を文章として一本化します」
「その後?」
「もう一度だけ、分類に参加していない別の職員へ規則だけを渡して、説明なしで練習例を分類できるか確認したいと思います」
「三人じゃなくて?」
「今回は規則作成過程を見ていない人です」
「あ……」
アリシアは納得した。
「今の三人、もう規則に慣れてる」
「はい。説明を聞いているため、文章だけでは不足している部分を無意識に補っている可能性があります」
「新しい人が読んでも分かるか見る」
「その通りです」
「それが終わったら?」
サーラが少し間を置く。
「大きな問題が出なければ、実記録を開く前の固定候補として扱えると思います」
アリシアの胸が小さく跳ねた。
ようやく、その言葉が出た。
実記録。
過去の、自分の言葉。
けれど、まだ開かない。
「大きな問題が出たら?」
「直します」
「そっか」
アリシアは笑った。
「じゃあ、まだだね」
「はい。まだです」
以前なら、その「まだ」が長く感じただろう。
今日は違った。
待たされているのではない。
開く前に必要なことをしている。
そう思えた。
◇
生活観測区画へ戻る道で、ノアが尋ねた。
『過去の紙、見たかった?』
「見たかった」
『即答』
「だって見たいもん」
『でも見なかった』
「うん」
『偉い偉い』
「その言い方嫌」
『じゃあ何て言えばいいの?』
「別に褒めなくていい」
『面倒な子ね』
「猫に言われたくない」
アリシアは歩きながら、夕暮れの学院を見渡した。
研究棟から本館へ続く道。
その向こうには寮や生活観測区画へ続く道がある。
今日は答えに近づいたのだろうか。
弱い違和感が過去にもあったのかは、まだ一つも分からない。
東西との関係も変わらない。
六つ目の神器について、新しい答えが出たわけでもない。
それでも、実際の記録を開いた時に「欲しい答え」に引っ張られにくくする準備は進んだ。
(見つかってほしい、とは思ってる)
第二の新しい記録だけではなかったと思いたい気持ちはある。
似た報告が過去にもあれば、何か見えるかもしれない。
反対に、一つもなければ、それも気になる。
だからこそ、自分が分類者から外れる意味がある。
見つけたい自分が、見つける人にならないために。
その考えには、まだ少し寂しさがあった。
けれど嫌ではなかった。
◇
共用室へ戻ると、子供が普通の紙箱を開けていた。
中には小さな石と木の実、それから以前入れていたノアの毛がある。
重要な木箱ではない。
子供が作った、ただの箱だ。
「見て」
「何?」
「増えた」
指差した先に、小さな白い紐が入っていた。
「これどうしたの?」
「職員さんにもらった。短くて使わないやつ」
「入れたんだ」
「うん」
「何に使うの?」
「まだ決めてない」
アリシアは思わず笑った。
「みんなそれ言う」
「誰?」
「友達も」
「アリシアも」
『あなたが一番言ってるわね』
「ノアは黙って」
子供が白い紐を箱の中へ戻す。
「研究、分かった?」
「今日は、まだ昔の記録を見ないって決まった」
「見ないのが決まった?」
「うん」
「変なの」
「私もちょっとそう思う」
「いつ見る?」
「準備できたら」
「いつ準備できる?」
「まだ分からない」
「また」
「しょうがないでしょ」
子供は笑い、紙箱の蓋を閉めた。
アリシアも笑った。
◇
その二日後、研究棟から一枚の連絡票が届いた。
規則案の文章化が終わったこと。
次回、作成過程へ参加していない二名の職員による独立練習分類を行うこと。
その確認で重大な解釈差が出なければ、分類規則を実記録開示前の固定版候補とすること。
そして、実分類に入る場合も、最初から全記録を一度に開かないこと。
アリシアは最後の一文を二度読んだ。
「全部じゃないんだ」
『何が?』
「過去の記録。始めても、一気に全部開かないって」
『何で?』
「……何でだろう」
連絡票には理由まで書かれていない。
次回相談、とある。
アリシアは少し考えた。
一度に全部見れば、分類者の負担が増える。
途中で規則の問題が見つかった時、既に大量の記録を分類してしまっているかもしれない。
あるいは、最初の数件で試してから続ける方が安全なのかもしれない。
けれど、それはまだアリシアの推測だった。
(聞いてからにしよう)
連絡票を折らず、そのまま机の端へ置く。
ノアが隣から覗き込む。
『すぐ研究棟に行かないの?』
「今日は予定ないって書いてある」
『気になるんでしょう?』
「気になる」
『じゃあ?』
「次に聞く」
ノアが目を細めた。
『本当に変わったわね』
「何が?」
『前なら、その紙持って走ってた』
「走ってない」
『早歩き』
「……それはしたかも」
『でしょうね』
アリシアは否定せず、窓の外を見た。
夕方の光が、共用室の床を長く照らしている。
まだ、過去の紙は開かない。
けれど、その「まだ」は、何もしていない時間ではなかった。
何を見るのか。
どう見るのか。
誰が見るのか。
何を見せないのか。
それを一つずつ決めている。
答えを急がないためではない。
答えを、欲しい形へ変えてしまわないために。
アリシアは机の端に置いた連絡票へもう一度目を向けたが、手には取らなかった。
次に研究棟へ行った時、理由を聞けばいい。
今日はそれで十分だった。




