第236話 同じ言葉を、同じように分けられるか
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る少し前、アリシアは中庭の石段に腰掛け、膝の上に置いた小さな紙袋を覗き込んでいた。
朝、生活観測区画の食堂でもらった焼き菓子が一つ残っている。昼食を食べ終えたあとで食べようと思って持ってきたのだが、隣に座っている友人が先ほどから何度も紙袋へ視線を向けていた。
「……食べる?」
「何を?」
「これ」
「別に欲しいとは言ってないよ?」
「見てた」
「見ただけ」
「三回くらい」
「数えてたの?」
「たまたま」
アリシアが紙袋から焼き菓子を取り出すと、友人は数秒だけ迷った末に半分なら、と手を伸ばした。
最初から欲しかったのだろう。
アリシアが二つに割ると、少し大きさが違った。
「大きい方どうぞ」
「いいの?」
「見てたから」
「まだ言う?」
「事実だもん」
友人が笑いながら大きい方を受け取る。
空は朝より雲が多く、時折日差しが隠れた。風が吹くたびに木陰の形がゆっくり変わり、近くの芝生では数人の男子生徒が丸めた布を投げ合っている。
今日は朝から、ごく普通の授業が続いていた。
研究棟から呼び出しはない。
アリシアも自分から予定を入れていなかった。
昨日、主観報告の分類方法について話し合ったばかりだ。次に何をするかは決まっている部分もあるが、だからといって毎日研究棟へ行く必要はない。
「今日、放課後どうするの?」
焼き菓子を食べながら友人が尋ねた。
「まだ決めてない」
「研究は?」
「今日は予定ないよ」
「じゃあ一緒に購買寄らない?」
「何か買うの?」
「ノート」
「昨日も持ってなかった?」
「あれは授業用。別のが欲しい」
「何用?」
「まだ決めてない」
アリシアは友人を見る。
友人もこちらを見た。
二人の間に、ほんの短い沈黙が落ちる。
「真似した?」
「何が?」
「今の」
「たまたまです」
「絶対わざと」
「証拠ある?」
「顔」
「顔は証拠になりません」
得意そうに言われ、アリシアは少しむっとした。
「ノアみたいなこと言わないで」
「え、私、猫っぽい?」
「そこじゃない」
友人が笑う。
アリシアもつられて笑った。
以前なら、放課後に予定が空いていれば、その空白へ研究を入れることを最初に考えていたかもしれない。
今日は違う。
研究へ行かないと決めたわけでもない。
何もしないと決めたわけでもない。
ただ、予定がない。
それだけだった。
◇
午後の授業が終わる頃には、雲がさらに厚くなっていた。
雨が降るほどではないが、教室の中は少し薄暗い。教師が黒板の文字を消すと、生徒たちは一斉に帰り支度を始めた。
「購買行く?」
「行く」
「やった」
「ノート見るだけね」
「何でアリシアが制限するの?」
「前、買う予定じゃなかったものまで買ってたから」
「あれは必要になったの」
「その日のうちに?」
「必要になる予定だった」
「便利な言葉」
鞄を持って教室を出る。
廊下は帰宅する生徒と部活動へ向かう生徒で混み合っていた。壁際へ寄りながら歩いていると、前方から同じクラスの男子生徒が友人に声をかける。
「今日、練習来る?」
「行くよ。購買寄ってから」
「遅れるなよ」
「分かってるって」
男子生徒はそのまま階段を下りていった。
アリシアは友人を見る。
「部活あるの?」
「ある」
「じゃあ急がないと」
「まだ大丈夫」
「さっき遅れるなって」
「アリシアまで言わなくていいの」
「購買、混んでるかも」
「だから一緒に来て。私が余計なもの見始めたら止めて」
「私、そういう係じゃないよ」
「今日だけ」
「嫌」
「即答!」
二人で話しながら購買へ向かう。
放課後の購買は予想通り混んでいた。
筆記具の棚には何人もの生徒が集まり、その隣では展示週間に使うらしい色紙や紐を選んでいる生徒たちがいる。店員が奥から追加の商品を運び、狭い通路を通るたびに「すみません」と声をかけていた。
「ノート、こっち」
友人が棚へ向かう。
アリシアも後を追った。
「どれにするの?」
「まだ決めてない」
「大きさは?」
「これくらい」
「色は?」
「迷ってる」
「何に使うかも決まってないのに?」
「形から入るの」
「逆じゃない?」
「気に入ったノートがあれば、何か書きたくなるでしょ」
「……ちょっと分かる」
「でしょ?」
友人が嬉しそうに振り返る。
棚には色も厚さも違うノートが並んでいる。
アリシアも何となく眺めていると、深い青色の表紙が目に入った。手に取るほどではない。ただ、きれいだと思った。
「アリシアも買う?」
「買わない」
「今見てたじゃん」
「見ただけ」
「昼に私が言ったやつ!」
「見るのは自由でしょ」
「じゃあ私が焼き菓子見てたのも自由」
「三回は多い」
「まだ言う!」
近くでノートを選んでいた女子生徒が吹き出した。
アリシアは少し恥ずかしくなったが、以前のように黙り込むことはなかった。
「ごめん」
「いや、面白かったから」
女子生徒が笑いながら答える。
「その青いの、私も使ってるけど書きやすいよ」
「そうなの?」
「紙が少し厚いから、インクが裏に抜けにくい」
「へえ……」
「買わないんじゃなかった?」
友人が横から覗き込む。
「買わないよ」
「顔が迷ってる」
「見てるだけ」
「四回目」
「数えないで!」
また笑いが起きた。
◇
結局、友人は薄い緑色のノートを一冊だけ買った。
アリシアは何も買わなかった。
「偉い」
購買を出たところで友人が言う。
「何が?」
「私、余計なもの買わなかった」
「自分で褒めるんだ」
「アリシアも買わなかった」
「私は最初から買う予定なかったし」
「青いの欲しそうだったのに」
「欲しいまではいってない」
「何段階あるの?」
「気になると、欲しいは違うでしょ」
「研究みたい」
その言葉に、アリシアは一瞬だけ目を瞬いた。
友人も言ってから気づいたらしい。
「あ、ごめん。何でも研究にするつもりじゃなくて」
「ううん」
アリシアは首を振った。
「今のはちょっと似てた」
「いいの?」
「似てるものは似てるから。でもノートはノート」
「じゃあ買う?」
「買わない」
「そこは変わらないんだ」
友人は部活動があるため、本館前で別れた。
「また明日!」
「うん。部活遅れないでね」
「大丈夫!」
「走らないで」
「お母さんみたい!」
「違う!」
友人は笑いながら手を振り、練習場の方へ向かっていった。
アリシアはその背中を見送る。
さて、どうしよう。
鞄の中には授業道具がある。
研究棟へ行く予定はない。
図書館へ行ってもいい。
生活観測区画へ戻ってもいい。
少し散歩してもいい。
(今日は、どうしようかな)
決めなければならないことではない。
アリシアは少し考え、生活観測区画へ戻ることにした。
◇
共用室へ入ると、子供が床に座っていた。
目の前には何枚かの紙が並んでいる。
重要な木箱ではない。
少し前から作っている普通の紙箱に使う色紙だった。
「ただいま」
「おかえり」
子供が顔を上げる。
「今日は早い」
「研究ないから」
「学校だけ?」
「うん。あと購買」
「何買った?」
「何も」
「行ったのに?」
「友達がノート買った」
「アリシアは?」
「見ただけ」
『随分その話気に入ったわね』
ノアが後ろから入ってくる。
「ノアいたの?」
『途中からついてきた』
「気づかなかった」
『ひどい』
ノアは窓辺へ向かい、いつもの場所へ飛び乗った。
顔のない存在は少し離れた椅子に座っている。胸部の十一の光は静かに灯っており、近くの職員が普段通り距離を取って状態を記録していた。
子供が色紙を一枚持ち上げる。
「これ、どこに貼る?」
「私が決めるの?」
「聞いてるだけ」
「じゃあ……ここ?」
紙箱の側面を指す。
子供は箱を回して確認した。
「やめる」
「聞いたのに」
「聞いただけ」
「……今日そればっかり」
「何が?」
「何でもない」
アリシアは笑いながら鞄を置いた。
◇
夕食まではまだ時間があった。
子供は紙箱の飾り付けを続け、アリシアは共用室の端で翌日の授業に必要な資料を確認していた。
研究帳は持ってきていない。
途中、職員が郵便物と学院内連絡をまとめて持ってきた。
「アリシアさん、研究棟から連絡があります」
「今日?」
「いえ、明日以降の相談です」
差し出された小さな封筒を受け取る。
開くと、中には短い連絡文が入っていた。
『主観報告分類規則について、追加練習例を準備済み。次回は複数分類者による試行を提案。都合の良い放課後に相談されたし。人工刺激予定なし。』
アリシアは最後まで読み、もう一度中央の文へ目を戻した。
「複数分類者……」
『何?』
ノアが窓辺から尋ねる。
「昨日決めた分け方を、何人かで試すみたい」
『同じ紙を?』
「たぶん」
『それで?』
「……同じように分けられるか見るのかな」
アリシアは連絡文を机へ置いた。
昨日は、分類の項目を考えた。
身体部位。
感覚表現。
記録された強度。
発言形式。
持続。
発言順序。
けれど、規則を書いたからといって、誰が読んでも同じように分けられるとは限らない。
(確かに、それを見ないと駄目かも)
例えば「胸の辺りが変な気がする」という言葉を、一人は身体感覚と判断し、別の人は曖昧だから保留にするかもしれない。
それでは、東西結果を隠しても、分類する人によって答えが変わる。
「行きたい?」
子供が紙箱から顔を上げた。
「研究?」
「うん」
「行きたい」
「今日?」
「今日はもう行かないよ」
「明日?」
「まだ決めてない」
「また?」
「またって何」
「ずっと決めてない」
アリシアは言葉に詰まった。
ノアが小さく喉を鳴らす。
『子供にも言われたわね』
「必要な時は決めてるもん」
「ご飯は?」
「食べる」
「すぐ決めた」
「それは決められるから!」
子供が笑う。
アリシアも少し遅れて笑った。
連絡文には期限がない。
人工刺激もない。
なら、今日ここで決める必要はなかった。
けれど内容は気になる。
「明日の授業終わって、元気だったら行こうかな」
『それは決めたの?』
「条件つき」
『便利ね』
「本当にそうするんだからいいでしょ」
◇
翌日の放課後。
アリシアは研究棟の会議室にいた。
朝から身体の調子は普段通りで、授業中にも特別な違和感はなかった。人工刺激を行う日ではないため細かな試験前確認は不要だったが、研究棟へ入る前に自分でも疲れが強くないことだけは確かめている。
今日は昨日までより人数が少し多かった。
サーラと若い観測員。
記録担当職員。
さらに、普段は別系統の資料整理を担当している二人の職員が参加している。
机の上には、三組の紙束が置かれていた。
それぞれ同じ枚数らしい。
「これが複数分類者?」
アリシアが尋ねる。
「はい」
サーラが頷く。
「昨日の候補規則が、実際に別の人でも同じように使えるかを確認します」
「私もやる?」
「今日はまず見学と、規則上の問題点を確認してもらいたいと思っています」
「分類はしない?」
「一部だけ一緒に検討する可能性はあります。ただし、アリシアさんの判断と他の分類者の判断を同じ扱いにはしません」
「私、結果知ってるから?」
「それもあります。それから、本人だからこそ言葉へ補足できてしまう可能性があります」
アリシアは頷いた。
昨日、自分でも気にしていたことだ。
「今日の紙は本物?」
「追加の練習例です。実際の東西結果と結びついた過去報告の本分類ではありません」
「まだ練習」
「はい」
「何人で?」
「まず三人です」
記録担当職員と、新しく参加した二人が席を分ける。
「相談しながら?」
「最初は相談しません。同じ規則説明を読み、それぞれ独立して分類します」
「終わったら比べる?」
「はい」
「違ったところを見る?」
「そうです」
アリシアの目が少し明るくなった。
「それ、見たい」
『始まった』
「何が?」
『研究顔』
「どんな顔?」
『面倒な顔』
「ひどい」
部屋の空気が少し和らいだ。
◇
分類作業が始まる前に、昨日作った規則候補が全員へ配られた。
アリシアも同じ紙を受け取る。
昨日の十一項目が整理され、重複していた説明は少しまとめられていた。
ただし、内容そのものは変えられていない。
原文保持。
後付け数値禁止。
欠測とゼロを分ける。
発言形式から内面を推定しない。
発言列の区切りと相対間隔を保持する。
アリシアは一行ずつ読み直した。
「質問していい?」
「どうぞ」
「三人が違う分け方したら、多い方にするの?」
「今日はしません」
若い観測員が答える。
「なぜ違ったかを確認します」
「二対一でも?」
「はい」
「多数決じゃない?」
「分類規則の試験ですから。多数派が正しいとは限りません」
「じゃあ、一人だけ違って、その人が規則をちゃんと読めてなかったら?」
「その場合も、なぜ読めなかったかを見ます。説明が曖昧だった可能性があります」
「人の間違いじゃなくて、規則の問題かもしれない」
「はい。もちろん単純な記入ミスもありますが、最初からそう決めつけません」
アリシアは紙へ視線を落とした。
(同じ規則を渡しても、同じになるとは限らないんだ)
結果を隠すだけでは足りない。
分類する人が変わると結果も変わるなら、そこにも別の揺れがある。
そのことを、今まであまり考えていなかった。
◇
三人の分類者へ最初に渡されたのは十二の練習例だった。
アリシアから内容は見えないようになっている。
これは意図的だった。
アリシアが表情を変えれば、それ自体が分類者への手がかりになるかもしれない。
「私、向こう向いてた方がいい?」
「そこまでしなくても大丈夫ですよ」
「でも顔見える」
「では、少し席をずらしましょうか」
サーラが笑いながら机の配置を変える。
アリシアは分類者の手元が直接見えない位置へ移った。
『存在自体が情報源ね』
「嬉しくない」
『有名人みたい』
「もっと嫌」
小声で返す。
作業中の部屋は静かだった。
紙をめくる音。
筆記具が走る音。
窓の外から聞こえる鳥の声。
時折、廊下を誰かが歩く足音。
アリシアは自分の規則候補を眺めながら待った。
何かしたくなる。
分類例を見たい。
どこで迷っているのか聞きたい。
けれど、今は口を出さない方がいい。
自分が作成に参加した規則を、説明なしでどこまで使えるかを見る時間だからだ。
十五分ほどして、最初の一人が筆を置いた。
その数分後、残り二人も終わる。
「では照合します」
記録担当職員が三組の紙を集めた。
◇
十二例すべてが違っていたわけではなかった。
身体部位が明示されている例。
「冷たい」とはっきり書かれている例。
数値強度が記録されている例。
質問形式が明確な例。
そうしたものは、三人の分類がほぼ一致していた。
「じゃあ使える?」
アリシアが聞く。
「まだ早いですね」
「分かってるけど」
『分かってない顔』
「分かってる」
問題は三つの練習例で起きていた。
一つ目。
『胸の奥が妙な感じ。痛くはない。』
一人は「胸部/非温度身体異常語」と分類した。
一人は「胸部/感覚種類不明」。
もう一人は「胸部/非温度身体異常語」だが、「妙な感じ」を独立した感覚語として扱うか迷ったという注記を残していた。
「『妙』は変と同じじゃない?」
アリシアが言う。
すぐに、自分で止まった。
「……同じって決めたら駄目か」
「必ずしも駄目ではありません」
記録担当職員が答える。
「ただし、同じ群へ入れるなら、その理由と境界を規則に書く必要があります」
「『変』『妙』『おかしい』とか?」
「そうですね」
「でも全部並べたら、知らない言葉が出た時また困る」
「その通りです」
新しく参加した職員の一人が、自分の分類紙を示した。
「私は『妙な感じ』だけでは、温度・圧迫・痛みなどの種類が決められないので、感覚種類不明にしました。ただ、身体部位が明確なので身体感覚そのものはあると読みました」
別の職員が言う。
「私は、非温度身体異常語を『温度語以外の身体異常を示す語』と読んだので、妙な感じもそこへ入れました」
「どっちも規則読んでる」
アリシアが呟く。
「はい」
「じゃあ規則が曖昧」
「その可能性が高いですね」
白紙へ最初の問題点が書かれる。
『非温度身体異常語と感覚種類不明の境界が曖昧。』
◇
二つ目。
『胸のあたりが、さっき一瞬だけ変だったような気がする。』
これはさらに分かれた。
部位は全員が胸部。
感覚表現については二人が非温度身体異常語、一人が感覚種類不明。
発言形式では、一人が推測、二人が「推測+遡及報告」と書いていた。
「遡及報告、正式な項目じゃないよね?」
「はい」
「昨日、付帯情報にするって話した」
「そのため、独自注記として書いたようです」
アリシアは分類者を見る。
「何で書いたの?」
「『さっき』が気になりました。発言形式を推測だけにすると、この例の特徴を落とす気がしたので」
「もう一人も?」
「同じです」
「でも一人は書かなかった」
「私は付帯情報欄が明示されていなかったので、原文に残っていれば十分だと判断しました」
アリシアは眉を寄せた。
三人とも、間違ったことをしているようには思えない。
むしろ、昨日自分たちが曖昧なまま残した部分が、そのまま違いになって現れている。
「時間の言葉、やっぱり置き場所決めた方がいい?」
「少なくとも、分類者が自由に判断する状態は避けた方がよさそうですね」
「でも独立した大項目にするかはまだ決めなくていい?」
「はい。付帯情報欄を正式に作り、時間参照表現を原文のまま転記するだけでも揺れは減らせます」
「『さっき』なら『さっき』って書く」
「そうです。そこから何分前だったかを勝手に推定しない」
「うん」
二つ目の問題点が記録された。
『時間参照表現の保持位置が不明確。付帯情報欄の明示を検討。』
◇
三つ目の例を見た時、アリシアはしばらく何も言わなかった。
『冷たい、というより変。胸の左側。すぐ消えた。』
三人の身体部位は一致。
持続も「短時間を示す表現あり」で一致。
けれど感覚表現が分かれた。
一人は「温度感覚語あり+非温度身体異常語あり」。
一人は「非温度身体異常語。温度語は否定的比較のため対象外」。
一人は「温度語関連表現あり。ただし明示的温度感覚とは分類しない」。
「これ……」
アリシアの指が紙の上で止まる。
直近の自分の報告とは同じではない。
それでも近い。
「冷たい」という語が出ているのに、本人がそのまま冷たさとして言い切っていない。
「これをどう分けるかで、かなり変わるね」
「はい」
サーラの声は静かだった。
「だから練習例に入れました。ただし、直近記録を再現した例ではありません」
「分かってる」
アリシアはもう一度読む。
『冷たい、というより変。』
言葉だけなら、「冷たい」がある。
けれど意味としては、単純な「冷たい」と違う。
「単語が入ってるだけで温度感覚語ありにしたら、違う気がする」
「なぜですか?」
「本人が『冷たい』から離そうとしてるから」
「はい」
「でも完全に温度と関係ないとも言えない」
「はい」
「……難しい」
アリシアは椅子へ背を預けた。
昨日までは、原文を残せば大丈夫だと思っていた。
もちろん原文保持は必要だ。
でも分類を作るなら、否定や比較も扱わなければならない。
「冷たくない」と「冷たい」は同じではない。
「冷たいというより変」も同じではない。
単語だけを拾えば、言葉の向きが消えてしまう。
(私のあの時の言葉も、単語だけ取ったら変わる)
第二前向き試験で、自分は「冷たい、とはまだ言い切れない」と報告した。
そこから「冷たい」だけを抜けば、まるで確認したように見える。
それは嫌だった。
「否定とか比較、残したい」
「原文には残ります」
「分類にも」
アリシアは少し身を乗り出した。
「『冷たい』って単語があった、だけじゃなくて、冷たいって言い切ったのか、否定したのか、比べただけなのかを分けたい」
若い観測員が少し考える。
「感覚表現そのものと、その語が文中でどう扱われているかを分ける方法があります」
「どういうこと?」
「例えば、語彙として温度関連語が含まれるかという欄と、その温度感覚を本人が肯定的に報告しているか、否定しているか、比較・保留しているかという欄を別にする」
「増えるね」
「増えます」
「増やしすぎじゃない?」
「そこを検討する必要があります」
副学院長は今日は参加していない。
だから、その場で大きな方法変更を確定することはしなかった。
記録担当職員が白紙へ候補として書く。
『感覚語の出現と、当該感覚の肯定/否定/比較・保留を分離する案。独立項目化は未決定。』
「今決めない?」
「今日は分類者間でどこが揺れるかを見るのが主です」
「そっか」
「この一例だけで新しい項目を固定すると、この例に合わせた規則になる可能性があります」
アリシアはゆっくり頷いた。
「じゃあ候補だけ」
「はい」
◇
十二例の照合が終わる頃には、窓の外が少し暗くなっていた。
雨は降っていない。
ただ、雲が夕日を隠している。
机の中央には、最初より多くの紙が並んでいた。
分類そのものより、分類が揺れた理由を書いた紙の方が目立つ。
「一致した数、出す?」
アリシアが尋ねる。
「今日は単純な一致率だけを主結果にはしません」
「何で?」
「十二例しかありませんし、項目によって難しさも違います。身体部位のようにほぼ一致した項目と、感覚表現のように揺れた項目を全部一つの数字へまとめると、問題の場所が見えにくくなります」
「じゃあ項目ごと?」
「将来的には一致度を数値化する方法も検討できます。ただし、どの方法を使うかは先に決める必要があります」
「また方法を決める方法が増えた」
『研究ってそういうものなんじゃない?』
ノアが言う。
「ノアがまともなこと言った」
『失礼ね』
「でも今日は本当にそうかも」
アリシアは三つの問題点を見直した。
非温度身体異常語と感覚種類不明の境界。
時間参照表現の置き場所。
感覚語が出た時、その語を肯定しているのか、否定・比較・保留しているのか。
どれも、東側が反応したかどうかとは関係なく出てきた問題だった。
西側も見ていない。
実際の過去結果も開いていない。
「これなら、まだ結果に合わせてない?」
「少なくとも今日扱った問題点は、結果非依存の練習例から出ています」
「完全に?」
「完全という言葉は慎重に使いましょう。規則設計にアリシアさんが参加していて、直近の報告を知っている事実は変わりません」
「うん」
「ただ、その制約を明示した上で、実際の東西結果を見ずに規則を改善することはできます」
「それならいい」
◇
サーラが休憩を提案した。
アリシアは立ち上がり、窓際へ移る。
ずっと座っていたせいか、肩が少し固い。
腕を上げて伸ばすと、ノアが下から見上げた。
『疲れた?』
「三くらい」
『また数字』
「研究棟だからいいでしょ」
『場所で変わるの?』
「変わる」
『便利』
「今日はみんな便利って言う」
水を飲みながら窓の外を見る。
学院本館の窓に灯りがつき始めている。
遠くには生徒たちがまだ歩いていた。
研究棟の中にいると、ついここだけで時間が進んでいるような気持ちになる。
けれど学院全体では、部活動をしている生徒もいれば、帰宅する生徒もいる。図書館で勉強している人も、購買で何かを選んでいる人もいるだろう。
友人は昨日買ったノートを何に使うか決めただろうか。
(明日聞こうかな)
そう思った時、少しだけ笑みが浮かんだ。
「どうしました?」
サーラに尋ねられる。
「何でもない。友達のノート思い出しただけ」
「ノート?」
「昨日買ってたんです。何に使うか決めてないのに」
『あなたも青いの見てたじゃない』
「買ってないから」
サーラは事情が分からないまま笑った。
◇
休憩後は、新しい練習例を増やさなかった。
代わりに、今日見つかった三つの揺れをどう扱うかについて、次回までの作業を分けることになった。
記録担当側は、過去実記録を見ずに、一般的な文章分類として境界案を作る。
別の職員は、時間参照表現を付帯情報として保持する場合の記入様式を考える。
感覚語の肯定・否定・比較・保留については、まず既存の言語記録規則や学院内の他分野で似た方法がないか確認する。
「他の研究の方法使える?」
「そのまま使えるとは限りませんが、参考にはできます」
「医療とか?」
「治療記録や魔法酔いの主観報告で、否定表現を区別する記録法があるかもしれません」
「じゃあ探す?」
「担当者が確認します」
「私も?」
「アリシアさんは、どうしたいですか?」
アリシアは少し考えた。
以前なら「やる」とすぐ答えたかもしれない。
けれど、治療記録の方法を探すことが、自分でなければできない仕事とは思えない。
「今回は任せる」
言うと、記録担当職員が少しだけ目を丸くした。
「よろしいんですか?」
「うん。私、明日授業あるし」
『学生らしい』
「学生だもん」
『知ってる』
「あと、私が探すと、直近の言葉に似た方法ばっかり気になるかもしれない」
「その判断も妥当だと思います」
サーラが頷いた。
「では、アリシアさんには次回、候補が出揃った段階で確認してもらいましょう」
「うん」
「今日はここまでにしますか?」
アリシアは机の紙を見る。
まだ見たい。
もっと分類したい。
けれど、今日の目的だった「複数の人が同じ規則で同じように分けられるか」は、一度試せた。
そして揺れる場所も見つかった。
「ここまででいい」
『珍しい』
「何が?」
『自分から終われるの』
「前も終われたでしょ」
『止められて終わったのと、自分で言うのは違う』
アリシアは反論しかけ、やめた。
「……そうかも」
◇
研究棟を出ると、空気が思ったより冷たかった。
雲の向こうではもう日が沈みかけている。
アリシアは上着の前を少し閉じ、石畳を歩き出した。
ノアが横を歩く。
『で、今日何が分かったの?』
「同じ規則を読んでも、違う分け方になるところがあった」
『それだけ?』
「それが大事なんでしょ」
『私に聞かれても』
「ノアが聞いたんじゃん」
『あなたがどう思ってるか聞いたの』
アリシアは歩きながら考える。
弱い違和感が過去にあったかどうかは、まだ分からない。
第二前向き記録が特別なのかも分からない。
東側と西側の反応が何を意味するのかも分からない。
今日も答えそのものは増えていない。
けれど、過去の言葉を開いた時に、読む人によって別の答えができてしまう可能性が見つかった。
「同じ言葉を見てるのに、同じにならないことがある」
『人間だもの』
「猫は?」
『猫はそもそも分類表なんて作らない』
「役に立たない」
『頼まれてないし』
アリシアは笑った。
◇
生活観測区画へ戻ると、夕食の準備が始まっていた。
共用室には温かいスープの匂いが流れている。
子供は机で何かを書いていた。
「ただいま」
「おかえり。研究行った?」
「行った」
「言葉?」
「うん」
「分かった?」
「分からないところが増えた」
「失敗?」
アリシアは靴を整えながら首を振った。
「違うよ」
「何で?」
「分からないところがどこか分かったから」
子供は納得していない顔をする。
「分かんない」
「私も前ならそう思ったかも」
「今は?」
「今は……悪くないと思う」
「答えないのに?」
「答えにする前に、ちゃんと同じように見られるか確かめてるから」
子供はしばらく考えた後、自分の紙へ戻った。
「これ、同じ?」
紙には丸がいくつも描かれていた。
大きさが微妙に違う。
「何と何?」
「これとこれ」
「ちょっと違う」
「こっちは?」
「それも少し違う」
「全部違う?」
「完全に同じではないかも」
「でも丸」
「うん。丸ではある」
子供は満足そうに頷いた。
アリシアはその紙を研究へ結びつけなかった。
ただ、一緒に丸を眺めた。
◇
夕食では、今日のスープが少し熱かった。
子供が慌てて息を吹きかけ、ノアは自分の皿へ顔を近づけてから、まだ熱いと判断したのか一度離れた。
「猫も熱いの苦手?」
『舌は大事なの』
「私も熱い」
「じゃあ待とう」
「うん」
誰も急がない。
顔のない存在もいつもの場所で静かに食事をしている。
十一の光について、新しい変化は報告されなかった。
アリシアも確認しに行かなかった。
食事の時間は食事の時間だった。
スープが少し冷めるまで、子供が今日描いた丸の話を聞く。
職員が昼間に窓辺の植物の向きを少し変えた話をする。
ノアが自分の皿だけ量が少ない気がすると文句を言い、職員に「同じ量です」と返される。
そんな時間が過ぎていった。
◇
数日後。
追加の連絡を受けたアリシアは、再び研究棟の会議室へ入った。
今回は最初から机の上に三枚の大きな紙が置かれていた。
「できた?」
「候補はできました」
記録担当職員が一枚目を示す。
最初の問題だった「非温度身体異常語」と「感覚種類不明」の境界について。
新しい案では、感覚の種類を分類する前に、「身体感覚としての報告が明示されているか」という一段階を置くことになっていた。
身体部位が明示される。
「胸が変」「腕がおかしい」など、身体についての異常表現が直接結びついている。
その場合は身体感覚報告あり。
一方、「何か変」「何かあった?」だけでは身体感覚か周囲の異常認知か分からないため、身体感覚確定不能。
その上で、身体感覚報告ありの中を温度関連、圧迫・重量関連、痛み関連、その他の異常表現などへ分ける。
「前より分かりやすい」
アリシアが言う。
「ただし、『その他』を何でも入れる箱にしないよう注意が必要です」
「『変』とか『妙』は?」
「身体部位と直接結びついていれば、その他の身体異常表現候補です」
「でも原文は残す」
「もちろん」
二枚目。
時間参照表現は、独立した結果分類ではなく『時間参照原文』という付帯欄を作る。
「今」「さっき」「一瞬前」「ずっと」など、本人が使った表現をそのまま転記する。
数値化しない。
勝手に実時間へ変換しない。
明示がなければ欠測。
「これは好き」
『好き嫌いで決めるの?』
「分かりやすいって意味」
ノアが尻尾を揺らした。
三枚目。
最も難しかった、感覚語の肯定・否定・比較・保留。
学院内の治療記録に似た方式があったらしい。
ただし、そのまま転用はできないため、参考だけにして新しい候補が作られている。
『明示肯定』
『明示否定』
『比較・修正』
『保留・不確定』
『判定不能』
「例えば?」
「『冷たい』なら明示肯定」
「『冷たくない』は明示否定」
「はい」
「『冷たいというより変』は比較・修正?」
「候補としてはそうです」
「『冷たいかもしれない』は?」
「保留・不確定」
「『冷たい、とはまだ言い切れない』も?」
口にした瞬間、部屋の空気がほんの少し変わった。
直近のアリシア自身の言葉だからだ。
アリシアも分かっている。
それでも今は、自分から例に出した。
「候補上は保留・不確定に近いでしょう。ただし実記録を本分類する際は、その場で都合よく決めず、規則文へ具体的な境界を先に書きます」
「うん」
「そして、それを既存の対象感覚確認へ置き換えるわけではありません」
「分かってる。あれは非確認のまま」
「はい」
アリシアは紙を見つめた。
自分の言葉が、ようやく少し離れたところに置かれた気がした。
消されたわけではない。
陽性へ変えられたわけでもない。
「何もなかった」にされたわけでもない。
確認基準の線には届かなかった。
でも、その線の手前で何を言ったのかは別に残せる。
(これなら、あの時の私の言葉を変えなくていい)
胸の奥が少しだけ軽くなった。
◇
「今日、これを固定する?」
アリシアが尋ねる。
「まだです」
「まだ?」
『残念そう』
「ちょっとだけ」
サーラが笑った。
「前回の三人に、この改訂案で別の練習例を分類してもらいます」
「同じ例じゃなくて?」
「同じ例だけだと、前回の答えを覚えている可能性があります」
「あ」
「別の例でも同じ境界が使えるかを見ます」
「それで揃ったら?」
「揃ったから即完成、ではありません。ただ、実記録へ進める根拠は少し増えます」
「少し」
「はい」
アリシアは口を尖らせた。
「研究って、何でも少しだね」
『一気に全部分かったら三百年分くらい暇になるんじゃない?』
「そんなに生きないよ」
『私だって嫌よ』
「そこ?」
サーラたちが笑う。
アリシアも笑った。
◇
新しい練習例は、その日のうちには分類しなかった。
分類者のうち一人が別業務に戻る必要があったためだ。
以前のアリシアなら、別の人に代わってもらって今日中にやれないかと考えたかもしれない。
けれど今回は、同じ三人で比較する意味もある。
「次でいい」
自分から言った。
「ありがとうございます」
「でも、いつ?」
『やっぱり気になるのね』
「日付くらい聞いていいでしょ」
「二日後の放課後を予定しています」
「分かった」
人工刺激はない。
過去実記録もまだ開かない。
それでも、二日後にやることは決まった。
アリシアは予定表へその日だけ印をつけた。
◇
二日後の放課後、三人の分類者が再び集まった。
今度は十五例。
前回とは違う文章。
新しい境界規則。
アリシアはまた、分類者の表情や手元が直接見えにくい位置へ座った。
待っている間、ノアは完全に眠っていた。
「自由」
小声で呟く。
返事はない。
十五分。
二十分。
紙をめくる音が止まる。
最後の一人が筆を置いた。
照合が始まった。
身体感覚としての報告が明示されているか。
三人は十五例すべてで一致した。
アリシアが少し身を乗り出す。
「全部?」
「この項目は全部です」
「感覚種類は?」
一例で違いが出た。
『胸がざわつく感じがした。』
二人は「その他身体異常表現」。
一人は「感覚種類判定不能」。
「また境界?」
「そうですね」
アリシアは落胆しかけた。
けれど、その違いは前回とは少し違う。
身体感覚としての報告であること自体は三人とも一致している。
その次の細分類で揺れた。
「前より一個先まで揃った?」
「そう見ることはできます」
「じゃあ直す?」
「候補として検討します。ただ、この一例のためだけに規則を複雑にしすぎないことも重要です」
「原文残ってるなら、『ざわつく』はそのまま見られる」
「はい」
「大分類を無理に細かくしなくてもいい?」
「その可能性もあります」
アリシアは頷いた。
何でも分類箱へ押し込む必要はない。
原文が残っている。
粗い分類で十分なところは、粗いままでもいい。
◇
時間参照表現は、十五例すべてで転記内容が一致した。
「今」は「今」。
「さっき」は「さっき」。
「一瞬前」は「一瞬前」。
書いていないものは欠測。
勝手な換算はない。
「ここは大丈夫そう」
「現時点の練習例では、ですね」
「はいはい」
アリシアが少し笑う。
最後の、肯定・否定・比較修正・保留不確定・判定不能。
ここでは二例に違いが出た。
一つは、
『冷たかった気もするけど、よく分からない。』
二人が「保留・不確定」。
一人が「比較・修正」。
もう一つは、
『冷たいと思った。でもすぐ違う気がした。』
一人が「明示肯定+後続修正」。
二人が「比較・修正」。
「一発言の中で変わってる」
アリシアが言う。
「はい」
「一個の分類だけにしようとするから難しい?」
部屋が静かになる。
記録担当職員が紙を見る。
「その可能性があります」
「発言順序は残すんだよね」
「はい」
「だったら、『最初はこう、後でこう』って残せない?」
「発言列だけでなく、一つの発言内部でも?」
「うん。私だって、言いながら直すことあるから」
アリシアは自分の言葉を思い返す。
何かを感じた瞬間、最初から完璧な言葉が出るとは限らない。
口にしながら探す。
違うと思えば直す。
曖昧なら曖昧と言う。
その動きまで一つの箱へ押し込めると、途中が消える。
「分類するために、言葉を平らにしたくない」
アリシアが言うと、誰もすぐには返さなかった。
やがてサーラが頷く。
「大事な方針だと思います」
「でも細かくしすぎる?」
「可能性はあります。ですから、主分類を粗く保ち、修正過程を原文と順序情報で保持する方法も考えられます」
「じゃあ、今日決めない?」
「はい。ここはもう一度整理しましょう」
「分かった」
不思議と、アリシアは残念ではなかった。
前なら、また先延ばしになったと思ったかもしれない。
今日は違う。
揃わなかった場所が、前よりはっきりしている。
そして、なぜ揃わなかったかも少し見えている。
◇
照合作業が終わった後、記録担当職員が全体をまとめた。
「現時点では、身体感覚報告の有無、身体部位、明示された数値強度、時間参照原文、発言順序については、練習例の範囲で比較的安定しています」
アリシアは聞きながら頷く。
「感覚種類の細分類と、肯定・否定・比較・保留が一発言内で変化する場合の扱いはまだ調整が必要」
「はい」
「じゃあ過去記録は?」
「まだ開きません」
「うん」
返事が早かったので、サーラが少し笑った。
「今日は反対しないんですね」
「だって、まだ揺れるところあるから」
「そうですね」
「でも……」
アリシアは机に並んだ紙を見る。
「前より近い?」
「実記録分類へ?」
「うん」
「近づいてはいます」
「そっか」
その言葉だけで十分だった。
◇
研究棟を出る頃、外はすっかり夕方になっていた。
西の空だけが淡い金色で、その上には薄い灰色の雲が伸びている。
ノアが大きく伸びをする。
『よく寝た』
「本当にずっと寝てた」
『静かにしないといけないんでしょう?』
「便利な言い訳」
『あなたたちが同じ言葉をどう分けるかで一時間悩んでる間、猫にはすることないの』
「一時間も悩んでない」
『体感よ』
「それならノアの体感は信用できない」
『ひどい』
石畳を歩きながら、アリシアは少しだけ振り返った。
研究棟の窓には灯りが残っている。
過去の記録は、まだあの中にある。
自分が昔、何と言ったのか。
弱い違和感が他にもあったのか。
それが東側や西側の反応とどう並んでいたのか。
まだ見ていない。
けれど今は、それでいい。
開く前に、読む人によって意味が変わりすぎないようにする。
原文を消さない。
言葉を無理に一つの箱へ押し込めない。
後から都合のいい意味へ変えない。
(同じ言葉を、同じように見られるところまで)
そこまで行ってから、初めて過去を開けばいい。
アリシアは研究棟から視線を戻した。
『何笑ってるの?』
「笑ってない」
『ちょっと笑ってた』
「気のせい」
『顔は証拠になるんじゃなかった?』
昨日、友人に言われた言葉を思い出す。
アリシアは一瞬だけ黙り、それからノアを見下ろした。
「顔は証拠になりません」
『誰の真似?』
「秘密」
ノアが怪訝そうに耳を動かす。
アリシアはそれ以上説明せず、少しだけ歩調を速めた。
研究の答えは、今日も出ていない。
けれど、答えを見るための目盛りは、昨日より少しだけ揃っていた。




