第235話 言葉だけを先に並べる
翌日の昼過ぎ、アリシアは自分の指先に残った、ごく薄い土の色を眺めていた。
手袋は朝にはほとんど乾いていた。布地の指先にわずかな茶色が残っただけで、昨日あれだけ土へ触れた痕跡は思っていたより少ない。それでも手袋を鞄へしまう時、植え替えた植物が少し傾いて、四人で何度も正面を確かめたことを思い出した。
「アリシア」
「……あ」
「聞いてた?」
隣の友人に小声で呼ばれ、アリシアは顔を上げる。
午後最初の授業は計算だった。
教師は黒板へ大きな図形を描き、その周囲をいくつかの区画へ分けている。魔法陣の基礎計算にも使われる面積比の問題らしいが、アリシアは途中から説明を聞き逃していた。
「ごめん」
「珍しい」
「ちょっと昨日のこと思い出してた」
「植物?」
「うん」
「研究じゃなくて?」
「植物」
友人がなぜか満足そうに頷いた。
「何その顔」
「いや、ちゃんと楽しかったんだなって」
「楽しかったよ」
「選択する?」
「まだ決めてない」
「またそれ」
「他のも見てから」
「アリシア、最近決めないね」
からかうような声だった。
アリシアは一瞬だけ口を開き、それから小さく笑った。
「決めないんじゃなくて、まだ決めるところじゃないだけ」
「おお」
「何?」
「なんか格好いいこと言った」
「普通のことだよ」
「じゃあ私も今度使おう。宿題やってない時に」
「それは決めるところじゃなくて、やるところじゃない?」
「厳しい!」
「そこ、何を話している」
教師の声が飛んできた。
二人とも同時に前を向く。
周囲からくすくすと笑いが漏れた。
「問題が簡単すぎて余裕なら、前へ出て解くか?」
「すみません」
友人が即座に謝る。
アリシアも小さく頭を下げた。
教師は呆れたように息を吐いたものの、それ以上は追及せず黒板へ戻った。
アリシアは今度こそ説明へ集中する。
昨日は植物。
今日は授業。
放課後には研究棟へ行く予定が入っている。
それぞれを、混ぜなくていい。
◇
授業が終わると、友人が真っ先に机へ突っ伏した。
「危なかった」
「前で解けばよかったのに」
「絶対嫌」
「できるでしょ」
「できるのと、人前でやりたいのは別」
「それは分かる」
アリシアが答えると、友人が顔だけを上げた。
「あ、そうか。アリシアは分かる側か」
「何それ」
「人前苦手仲間」
「勝手に仲間増やさないで」
「でも前より平気じゃない?」
アリシアは返事をする前に少し考えた。
以前なら、授業中に教師から突然声をかけられただけでも、もっと身体が固くなっていた。
今も好きではない。
大勢の視線が自分へ向くと、胸の辺りが落ち着かなくなる。
それでも、先ほどは友人と一緒だったこともあり、少し恥ずかしいと思った程度だった。
「……ちょっとは」
「ほら」
「でも前で解くのは嫌」
「仲間!」
「そこだけね」
友人が嬉しそうに笑った。
次の授業へ移動する生徒たちの声が廊下から聞こえる。
アリシアも教科書を抱えて立ち上がった。
◇
放課後。
研究棟へ向かう道には、昨日温室へ向かった時とは違う風が吹いていた。
日差しはあるが、雲が少し増えている。
木々の枝が揺れるたび、葉の擦れる乾いた音が頭上から落ちてきた。
『今日は何するか覚えてる?』
ノアが隣を歩きながら尋ねる。
「主観報告の分類方法」
『正確には?』
「過去の私の言葉を、東と西の結果を見ないでどう分けるか考える」
『よくできました』
「子供扱いしないで」
『昨日は土遊びしてたし』
「植物管理」
『土触ってたでしょう』
「管理の一部としてね」
『楽しかった?』
「楽しかった」
『ならいいじゃない』
アリシアは少しだけ歩調を緩めた。
「ノア」
『何?』
「昨日、研究のことほとんど考えなかった」
『知ってる』
「いいのかな」
『何が?』
「研究してるのに」
ノアは数歩先へ進んでから振り返った。
『昨日研究する予定だったの?』
「違う」
『何か急いで調べないと危ない状態だった?』
「違う」
『なら何が問題?』
「……ない」
『自分で答え出てるじゃない』
アリシアは口元を緩めた。
「でも、前なら気になってたと思う」
『前は前でしょう』
「うん」
『今日は研究するんだから、今日は考えればいい』
「そうする」
研究棟の扉が見えてきた。
◇
今日は試験室ではなく、少し広い会議室へ案内された。
中央の机には何枚もの紙が伏せた状態で置かれている。
東側の記録装置から出力された波形も、西側の記録もない。
アリシア自身の主観報告だけを扱うための準備だった。
サーラ、副学院長、若い観測員、安全管理担当者。
そして、普段は記録整理を担当している別の職員も一人参加していた。
「こんにちは」
「こんにちは」
アリシアは席へ座る。
ノアはいつものように隣の椅子へ飛び乗った。
「先に体調確認をしましょう」
「はい。疲労二、痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸の冷たさとか変な感じもゼロ。頭痛、吐き気、眩暈なし」
「研究参加希望は?」
「八」
『昨日休んだから九になるかと思った』
「今日は刺激しないから」
『基準が分からない』
「私の気持ちなんだからいいでしょ」
サーラが笑いながら記録する。
「では今日は予定通り、過去の主観報告をどう整理するか、その方法だけを決めます」
「まだ昔の記録は見ない?」
「少なくとも最初は見ません」
「じゃあ、この紙は?」
アリシアは机の上の伏せられた紙を見る。
「後で使う可能性があるものです。ただし、実際の東西結果は含まれていません」
「私の言葉?」
「一部はそうです」
アリシアの視線が少し鋭くなる。
「昨日のも?」
「入っている可能性はあります」
「可能性?」
「どれがどの試験の報告か、できるだけ分からない形にしています」
「私、覚えてるかも」
「その可能性はあります」
「完全には隠せない」
「はい。だから今日は、アリシアさんが分類者になるかどうかも含めて決めます」
アリシアは椅子へ深く座り直した。
昨日、一番引っかかったところだった。
自分の言葉なのに、自分が知っているからこそ、分類へ影響するかもしれない。
「私、やっぱり参加したい」
「どう参加したいですか?」
副学院長に聞かれ、アリシアはすぐに答えなかった。
(どう、って言われると難しい)
分類を自分でやりたい。
自分が何を感じたか、一番知っているのは自分だと思う。
けれど、それだけなら記録を取った意味が薄くなる。
今の自分は昨日の結果を知っている。
東側と西側が確認され、自分だけが確認基準に届かなかった。
そのことが頭にある状態で昔の言葉を見れば、「これは昨日と似ている」と探したくなる。
「規則を決めるところには参加したい」
ゆっくり言う。
「でも、昔の言葉を一個ずつ私が分けるのは……ちょっと危ないかも」
「なぜそう思いますか?」
「昨日に似てるのを探しそうだから」
「はい」
「あと、どの試験だったか思い出したら、東と西がどうだったかも思い出すかもしれない」
「その可能性もあります」
「でも全部外されるのは嫌」
言葉にした後、アリシアは自分の指先を見た。
「私の感覚だから」
少しだけ部屋が静かになった。
サーラが穏やかな声で言う。
「それは大事な点です」
「じゃあどうする?」
「一つの案として、分類規則を作る段階にはアリシアさんも参加する。ただし、実際の過去報告を分類する作業は、東西結果を知らない担当者が独立して行う方法があります」
「私が作った規則で、別の人が分ける?」
「はい」
「その人は東と西見ない?」
「見ません」
「何の試験だったかも?」
「可能な限り伏せます」
「私の名前は?」
「アリシアさんの記録であること自体は隠す必要がないでしょう。重要なのは、各報告がどの条件・どの結果と対応しているかを見せないことです」
アリシアは考える。
「分類が終わった後なら、私も見られる?」
「はい。固定した後で結果側と照合します」
「途中で変えない?」
「結果を見た後に分類規則を変えた場合は、それを新しい探索として別に扱います。最初の分類結果を書き換えて、最初からその規則だったことにはしません」
「……それならいいかも」
『自分で全部触らなくても参加はできるわね』
「うん」
◇
「では、次に何を分類するかです」
若い観測員が大きな白紙を机の中央へ置いた。
「これまで主に使ってきたのは、対象感覚が確認されたか、されなかったかという判定です」
「冷たいって感じたか」
「正確には、事前に決めた対象感覚基準を満たしたかどうかですね」
「うん」
「ただ、今回はその線の外側にある主観報告を探索するため、もう少し生の情報へ戻ります」
「言ったことをそのまま見る?」
「はい。ただし、全部を自由に読んで好きに分けると、後から分類がいくらでも変えられます」
「だから先に項目を決める」
「その通りです」
白紙へ最初の項目が書かれた。
『身体部位』
「胸か、それ以外か?」
「それだけにしますか?」
アリシアは考えた。
「昨日は胸の少し左だった」
「はい」
「昔は胸って言ってたのが多い」
「現時点で覚えている範囲ではそうですね」
「でも最初から胸だけにすると、他の場所に何かあったの消える?」
「消えるわけではありませんが、探索対象から外れる可能性があります」
「じゃあ部位は、そのまま残す」
「具体的な言葉を記録する?」
「はい。胸、胸の中央、左寄り、腕、指など、報告にある表現をそのまま保存し、その上で大分類を作る方法があります」
「大分類は?」
「胸部、胸部以外、部位不明など」
アリシアは頷いた。
「元の言葉は消さない」
「はい」
二つ目。
『感覚表現』
「冷たい、変、重い……」
アリシアが言いかけて止まった。
「今、私が思いついたのだけ並べたら駄目?」
「例として挙げるのは構いません。ただ、それだけを正式な分類にするのは避けたいですね」
「昨日の『変』を入れたいから」
「はい」
「じゃあ、実際の言葉をまずそのまま残して、その後で分類?」
「その方が安全でしょう」
「でも分類する人が、『冷たい』と『ひやっとした』を同じにするか迷う」
「そこは分類規則が必要です」
別の記録担当職員が口を開いた。
「言葉の意味をこちらで解釈しすぎない方法もあります。第一段階では原文を保持し、明示的な温度感覚語があるか、身体異常を示す非温度語があるか、明確な感覚語がなく質問・推測のみか、といった粗い分類にする」
アリシアはその言葉を頭の中で分ける。
「『冷たい』は温度」
「はい」
「『変』は身体異常の非温度」
「文脈で身体について言っていると確認できれば」
「『今、何かあった?』は?」
「質問・推測だけの可能性があります」
「前にあったやつ」
「そうですね。ただし、その直後に明確な身体報告が続く場合は、発言列として別途残します」
「一個の言葉だけ切らない?」
「はい。順序は消しません」
アリシアは少し安心した。
以前の曖昧な質問形の発言。
後から続いた「冷たい」。
一つだけ抜き出せば意味が変わる。
「順番、大事」
「そうですね」
三つ目。
『強度』
「数字があるものは数字?」
「はい。ただし、数字を報告していない古い記録へ後から推定値を付けることはしません」
「言ってないのに一とか二にしない」
「はい」
「昨日は零点五くらいって言った」
「それはそのまま残せます」
「数字がないのは?」
「欠測。ゼロではありません」
アリシアはすぐに頷いた。
「前の自然な揺れの間隔と同じ」
「考え方としては近いですね。測れない・記録がないことを、値ゼロとはしません」
『その辺はもう染みついてるわね』
「ゼロにしたら違うもん」
『はいはい』
◇
四つ目は『確信度』だった。
そこでアリシアが首を傾げた。
「確信度って?」
「例えば、『冷たい』と言い切った場合と、『冷たいかも』『よく分からない』では、本人の報告上の確かさが違います」
「でも、言い方だけで本当に確信度分かる?」
若い観測員が少し止まる。
「完全には分かりません」
「私、怖い時とか、言い切れなくなるかもしれない」
「その可能性があります」
「逆に弱くても、分かりやすかったら言い切るかも」
「はい」
「じゃあ『確信度』って名前にすると、頭の中まで分かったみたいにならない?」
記録担当職員が頷いた。
「良い指摘です。『発言形式』の方が適切かもしれません」
「言い切り、推測、質問?」
「はい。発言そのものの形だけを記録し、内面的な確信度までは推定しない」
「それがいい」
白紙の『確信度』に線が引かれ、その横へ『発言形式』と書き直された。
『珍しくちゃんと研究者みたい』
ノアが言う。
「珍しくは余計」
『猫から見た評価よ』
「猫の評価いらない」
「でも重要ですよ」
サーラが笑う。
「本人だからこそ、言い方と内面が必ずしも同じではないと分かることがありますから」
アリシアは少しだけ照れた。
「じゃあ役に立った?」
「もちろん」
「よかった」
◇
五つ目は『持続』。
どれくらい続いたか。
すぐ消えたのか。
しばらく残ったのか。
途中で強くなったのか、弱くなったのか。
「これ、全部昔の記録にある?」
「ありません」
「じゃあ欠測多い?」
「かなりあると思います」
「それでも項目にする?」
「今後の記録では意味がありますし、過去でも明示されているものは使えます」
「欠測が多いから消す、じゃないんだ」
「その項目自体に意味があるなら、欠測率も含めて残す価値はあります」
「でも、昔の記録だけ見て都合いい項目作らない」
「はい」
アリシアは白紙を眺める。
身体部位。
感覚表現。
強度。
発言形式。
持続。
発言順序。
まだ正式決定ではない。
けれど、昨日までの「弱い違和感をどう扱うか」という曖昧な問いが、少しずつ形を持ち始めていた。
「対象感覚の確認か非確認かは?」
「別に残します」
「この分類で置き換えない?」
「はい。既存の確認判定は既存の目的で固定されています。新しい探索分類を作ったからといって、過去の判定を変更しません」
「昨日も非確認のまま」
「はい」
「でも別の欄で、胸部、非温度の身体異常語、強度零点五くらい、言い切り……」
アリシアが言いながら止まる。
「昨日の答え作ってるみたい」
「だから、今ここで昨日の報告を例にしすぎない方がいいでしょう」
「……うん」
アリシアは自分から紙を少し遠ざけた。
「今のなし」
「記録から消す必要はありません」
「でも規則を昨日に合わせたくない」
「その意識を持っておけば十分です。むしろ、昨日の報告を知っていること自体を隠さず、設計上の制約として記録しましょう」
副学院長が別紙へ書き込む。
『分類規則設計時、アリシア本人は直近不一致記録の主観報告および東西確認結果を既知。完全盲検ではない。実分類は別担当者が結果情報を伏せて実施する候補。』
アリシアはそれを読む。
「私が知ってることも書くんだ」
「重要ですから」
「知らないふりしない」
「はい」
◇
休憩が入った。
窓が少し開けられ、夕方前の風が室内へ入る。
机の上にはまだ伏せた紙が残っている。
アリシアは飲み物を一口飲んだ。
「まだあれ見ないの?」
「気になりますか?」
「気になる」
『正直』
「だって置いてあるから」
若い観測員が笑う。
「後半で、小さな試行をしようと思っています」
「分類?」
「はい。ただし、本番の過去記録分類ではありません」
「じゃあ何?」
「結果と対応していない練習用の発言例です」
「作った言葉?」
「実記録を参考にしない一般的な例と、過去記録から条件情報を完全に外したものを混ぜる案を考えていますが、今日は前者だけでもいいでしょう」
「本物はまだ見ない?」
「規則が固まっていないので」
「分かった」
アリシアは少し残念だった。
けれど、以前ほど「早く見たい」が身体を押す感じはしない。
昨日の植物管理で、乾いて見える土へすぐ水を足さなかったことを思い出しかける。
そこで小さく首を振った。
『何?』
「何でもない」
『また研究と植物つなげそうになった?』
「……何で分かったの」
『顔』
「ノア、顔読みすぎ」
『分かりやすいのよ』
アリシアは少し笑い、飲み物をもう一口飲んだ。
◇
休憩後、伏せられていた紙の一部が開かれた。
そこに書かれていたのは、短い発言例だった。
『胸が少し冷たい』
『何か変な感じがする』
『今、何かあった?』
『左腕が重い気がする』
『胸のあたり。冷たいかもしれない』
『よく分からないけど、さっき一瞬だけ変だった』
どれも東西結果はない。
刺激条件もない。
誰が言ったかすら書かれていない。
「これを分ける?」
「まず、先ほどの候補項目で記述できるか試します」
一枚目。
『胸が少し冷たい』
「部位、胸部。感覚表現、温度感覚語あり。強度……『少し』は数字じゃない」
「はい」
「どうする?」
「言語的な程度表現として別に残す方法があります」
「数字に変えない」
「はい」
「発言形式は言い切り?」
「そう分類できます」
「持続は分からない」
「欠測」
「順序は一個しかないから、一番目」
アリシアは頷く。
二枚目。
『何か変な感じがする』
「部位不明。非温度の身体異常語……でも身体って書いてない」
「そこです」
記録担当職員が言う。
「『変な感じ』が身体感覚なのか、周囲の異常なのか、この一文だけでは決められません」
「じゃあ身体異常って分類しない?」
「文脈がなければ保留が妥当でしょう」
「部位不明、感覚種類も不明?」
「原文保持の上で、身体感覚確定不能とする方法があります」
アリシアは少し眉を寄せた。
「昨日の私の『今、少し変です』も、これだけなら同じ?」
「その一文だけなら。ただし昨日は直後に胸部位置を明示しています」
「順番残す意味ある」
「そうですね」
三枚目。
『今、何かあった?』
アリシアは見た瞬間、以前の自分の発言を思い出した。
けれど、紙に書かれているのが実際の記録か練習用かは分からない。
「質問形式。部位不明。感覚種類も……分からない」
「はい」
「これだけで対象感覚ありにしない」
「はい」
「でも次の発言があったら一緒に見る」
「発言列として残します」
四枚目。
『左腕が重い気がする』
「部位、左腕。非温度。『重い』。推測形式」
「良いでしょう」
「強度なし」
「はい」
「持続なし」
「はい」
アリシアは少し楽しくなってきた。
正解を当てる作業ではない。
書いてある以上のことを足さずに、どこまで記述できるかを考える。
◇
五枚目で問題が出た。
『胸のあたり。冷たいかもしれない』
「胸部。温度。推測」
アリシアが答える。
「では、『胸のあたり』と『冷たいかもしれない』は一つの発言ですか?」
「紙には一行だけど……」
「実際の記録では、短い間を挟んだ二発言かもしれません」
「それで変わる?」
「時間窓を作るなら変わる可能性があります」
「分類でも?」
「発言順序を扱うなら重要です」
アリシアは紙を見つめた。
「じゃあ、言葉だけじゃ足りない」
「どういう意味ですか?」
「発言した時刻と、どこで区切れてたかも必要」
「はい」
「でも東西の時刻は隠す」
「その通りです」
「私の発言時刻だけは見せる?」
「相対的な発言間隔を残す方法もあります。刺激時刻を見せるかどうかは別途考える必要があります」
「刺激時刻見たら、どの試験か思い出すかも」
「可能性があります」
「じゃあ最初は、発言一、二、三と間隔だけ?」
「一案ですね」
白紙へ新しい注意事項が加わった。
『発言列の区切りと相対間隔を保持する。東西結果時刻とは分離。刺激時刻の提示は要検討。』
「増えた」
『あなたが気づくたびに増えるわね』
「悪い?」
『褒めてる』
「今日は本当に?」
『半分』
「半分だけなんだ」
◇
最後の例。
『よく分からないけど、さっき一瞬だけ変だった』
アリシアは少し悩んだ。
「これ難しい」
「どこが?」
「今じゃない」
「はい」
「『さっき』って言ってる」
「そうですね」
「報告した時間と、感じた時間が違う」
「重要です」
「時間窓にするなら広くなる?」
「少なくとも発話時刻をそのまま感覚発生時刻にはできません」
「分類にも、『遡って報告』みたいなの必要?」
記録担当職員が頷く。
「発言形式とは別に、時間参照の形式を持たせてもいいかもしれません」
「今、さっき、ずっと、分からない」
「はい」
「また増えた」
「増やしすぎにも注意が必要です」
副学院長が言う。
「意味のある項目を追加することと、あらゆる違いを項目化することは別です」
「何でも細かくしたら、また組み合わせいっぱいになる」
「その通りです」
「じゃあ時間参照は必要?」
しばらく全員で考えた。
最終的には、独立した大分類項目へすぐ昇格させるのではなく、原文と発言列情報の付帯情報として保持することになった。
今後、時間関係を主質問にする場合に、改めて固定方法を決める。
「全部一回で完成させなくていい?」
「むしろ今日完成させない方がいいでしょう」
「何で?」
「今、六例しか試していません。これだけで規則を固定すると、別の表現へ対応できない可能性があります」
「じゃあもっと練習例作る?」
「はい。ただし、実際の結果へ合わせず、一般的に想定できる主観報告表現を増やして規則の不足を確認します」
「本物の過去記録はまだ開けない」
「もう少し後ですね」
アリシアは机へ頬杖をつきそうになり、途中で姿勢を戻した。
「遠い」
『何が?』
「昔の言葉見るまで」
『一日で全部やらないって、自分で覚えたんでしょう』
「覚えたけど、気になるものは気になる」
『それは別にいいんじゃない』
「ノア、今日は優しい」
『失礼ね。いつも優しいわよ』
「それは違う」
周囲から小さな笑いが起きた。
◇
今日の最後に、決まったことだけが別紙へまとめられた。
一、既存の対象感覚確認/非確認判定は変更しない。
二、生の主観報告を別層として整理する。
三、原文を必ず保持し、分類後も消さない。
四、身体部位、感覚表現、記録された強度、発言形式、持続情報、発言順序を第一候補項目とする。
五、数字のない強度へ後から数値を与えない。
六、記録がない項目はゼロではなく欠測とする。
七、発言形式から本人の内面的確信度を推定しない。
八、発言列の区切りと相対間隔を保持する。
九、実際の過去報告を分類する担当者には、東西結果・結果ラベル・可能な範囲で条件情報を伏せる。
十、アリシアは分類規則設計へ参加するが、実分類を本人が行うかは保留。少なくとも本人が直近結果を既知である事実を方法上明示する。
十一、実記録を開く前に、追加の結果非依存練習例で規則の不足を確認する。
「十一個」
アリシアが数える。
『増えたわね』
「最初、五個くらいだったのに」
「増えたのは質問ではなく、方法上の条件です」
若い観測員が言う。
「必要なもの?」
「現時点では」
「後で減る?」
「統合できるものは統合するかもしれません。ただし、結果を見て都合よく消すことはしません」
「うん」
アリシアは最後まで読み直した。
「今日、何が分かった?」
自分から尋ねる。
副学院長が少し笑った。
「アリシアさんはどう思いますか?」
「まだ昔の記録は見てないから、弱い違和感が他にもあったかは分からない」
「はい」
「東西と関係あるかも分からない」
「はい」
「でも、どう探すかは前より決まった」
「そうですね」
「……それが今日の答え?」
「今日はそれで十分でしょう」
アリシアは頷いた。
◇
研究棟を出ると、空は薄い橙色へ変わり始めていた。
雲の隙間から光が伸び、学院の石壁へ長い影を作っている。
アリシアは鞄を肩へ掛け直した。
『疲労は?』
「三」
『頭は?』
「ちょっと使った」
『それは疲労じゃない』
「分かってる」
『研究参加希望は?』
「今は六」
『ちゃんと下がるのね』
「終わったから」
歩きながら、アリシアは今日の紙を思い返した。
東側の波形は一度も見なかった。
西側も見なかった。
人工刺激もしなかった。
それでも研究は進んだ。
「ノア」
『何?』
「言葉だけ見るの、思ったより難しかった」
『あなたの言葉でしょう』
「自分のでも難しいよ」
『本人だから余計に意味を足したくなるんじゃない?』
アリシアは少し驚いてノアを見る。
「それ、先生みたい」
『猫にだってそれくらい分かる』
「研究助手?」
『猫』
「即答」
『前にも言ったでしょう』
アリシアは笑った。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が昨日の小さな鉢の前に座っていた。
今日は職員が用意してくれた小さな空鉢と、乾いた土の入った器が隣にある。
「何してるの?」
「比べてる」
「昨日の続き?」
「うん」
子供は乾いた土へ指を入れ、それから鉢植えの表面へ触れる。
「こっちはさらさら」
「うん」
「こっちは少し固まる」
「湿ってるからかな」
「冷たい」
「昨日も言ってたね」
「アリシア、今日植物?」
「今日は研究」
「何した?」
「言葉を分ける方法考えた」
「言葉?」
「『冷たい』とか『変』とか、『何かあった?』とか」
「同じ?」
「それを、勝手に同じにしないようにする方法」
子供は少し考えてから、乾いた土と湿った土を交互に触った。
「これは同じ土?」
「種類は同じ?」
職員を見る。
「同じものです。片方だけ乾燥させています」
「同じ土だって」
「でも違う」
「今は状態が違うね」
「言葉も?」
アリシアはすぐに答えず、少し考えた。
「言葉は……同じものでも言い方が違うこともあるし、似た言葉でも違うものを言ってることもあるから、もっと難しい」
「分かんない」
「私もまだ分かんない」
子供はそれで納得したように、また土へ戻った。
アリシアもそれ以上、研究の例にしなかった。
◇
夕食後。
自室へ戻ったアリシアは、窓際に干してあった手袋を触った。
完全に乾いている。
薄い土色は少し残ったままだ。
それを布袋へ戻してから机へ座る。
五つの候補一覧。
今日の分類規則候補の写し。
二枚を並べた。
五つの候補のうち、三番目――弱い主観違和感の探索準備だけが、少し進んだ。
けれど、丸はつけない。
これは次の人工刺激を決めた印ではない。
六つ目の正体へ近づいた印でもない。
ただ、線の外側に残った自分の言葉を、後から都合よく拾わないための準備が始まった。
(昔の私は、何て言ってたんだろう)
気になる。
とても気になる。
でも、その答えを見る前に決めることがある。
アリシアは今日の紙の一番上へ、小さく一行だけ書き足した。
『結果を見る前に、言葉の見方を決める。』
そこで筆を置く。
『一行だけ?』
ノアが寝台から尋ねる。
「うん」
『最近、本当に短いわね』
「悪い?」
『前なら三ページくらい書いてそう』
「そんなに書いてない」
『気持ちとしては』
「気持ちなら五ページ」
『増えた』
アリシアは笑った。
「でも今日はここまで」
『明日は?』
「学校」
『その後』
「まだ決まってない」
『研究棟へ行きたい?』
アリシアは少し考えた。
「行きたい。でも、明日じゃなくてもいい」
口にしてから、自分で少し驚いた。
ノアは何も茶化さなかった。
『そう』
それだけだった。
アリシアは紙を重ね、机の端へ置いた。
次の人工刺激は決まっていない。
過去の主観報告も、まだ開いていない。
東と西の関係も、弱い違和感の意味も分からない。
けれど今は、分からないものへ手を伸ばす前に、どう手を伸ばすかを決め始めている。
窓の外では、夜風に木々が揺れていた。
アリシアは灯りを落とし、今日は研究帳ではなく、明日の授業で使う教科書を鞄の一番上へ入れた。
昔の自分が残した言葉は、まだ伏せられたままでいい。
次に開く時は、何を探したいかではなく、どう読むかを決めてから。
その方が、きっと今の自分には合っていた。




