第234話 土に触れる午後
午後の授業を終える鐘が鳴ると同時に、教室の空気が一気にほどけた。
椅子を引く音が重なり、部活動へ向かう生徒たちが鞄を抱えて廊下へ飛び出していく。窓の外には朝から続く穏やかな晴天が広がっており、昨日まで雨に濡れていた中庭の木々も、午後の日差しの下ではすっかり乾いていた。
アリシアは急いで立ち上がらなかった。
机の中を確認してから教科書を鞄へ収め、最後に小さな布袋を取り出す。
中に入っているのは、少し前に用意した薄手の作業用手袋だった。
「持ってきた?」
前の席から友人が振り返る。
「うん」
「やっぱり」
「何が?」
「絶対持ってくると思った」
「体験の案内に、持ってる人は持参って書いてあったから」
「私は持ってない」
「借りられるよ」
「それも覚えてるの?」
「書いてあったでしょ」
「やっぱり忘れない係じゃん」
「違うって言ってるのに」
何度目か分からないやり取りに、近くで帰り支度をしていた女子生徒が笑った。
「でも助かるよ。私も手袋忘れた」
「貸し出しは温室入口だよ」
「ほら」
「何で私が言うと係になるの?」
友人が肩を揺らして笑う。
「集合時間は?」
「まだ少しある」
「何分?」
「十五分くらい」
「それも即答」
「時計見ただけ!」
今度は周囲からも笑いが起こった。
アリシアは少し頬を膨らませながら布袋を鞄へ戻す。
今日は研究棟へ行く予定はない。
昨日整理した五つの候補も、そのまま残してある。
朝、一度だけ紙を見た。
けれど、丸はつけなかった。
研究側から今日の予定も入っていない。
だから放課後は、以前から申し込んでいた植物管理体験へ参加する。
『遅刻だけはしそうにないわね』
足元にいたノアが言う。
「ノアも来るの?」
『駄目なの?』
「温室だよ」
『猫が植物を食べるとでも?』
「食べない?」
『ものによる』
「駄目じゃん」
『食べないわよ』
アリシアは少し笑いながら立ち上がった。
◇
温室は学院本館から少し離れた場所にあった。
普段の授業で使われる実習棟のさらに奥。低い石壁に囲まれた広い区画の中に、透明な板を組み合わせた細長い建物が三棟並んでいる。
入口へ近づくにつれ、空気の匂いが変わった。
湿った土。
青い葉。
少し甘い花。
肥料らしい独特の匂いも混ざっている。
「暑そう」
友人が温室を見上げた。
「中、もっと暑いかな」
「たぶん」
「制服で来てよかったの?」
「上着脱いでいいって」
「それも覚えて――」
「案内に書いてあった!」
「まだ何も言ってないじゃん」
「絶対言うつもりだった」
集合場所には、すでに十人ほどの生徒がいた。
同学年だけではないらしく、見覚えのない上級生も混じっている。植物管理の選択授業を検討している生徒向けの体験なので、普段あまり話さない生徒も多かった。
入口脇には木製の長机が置かれ、その上に貸し出し用の手袋が何組も並んでいた。
「あ、本当にある」
「だから言ったでしょ」
友人が一組取る。
「サイズあるかな」
「何種類かあるみたい」
「これ?」
「たぶん」
「入った」
「よかったね」
「アリシアのは?」
「持ってきた」
布袋から手袋を取り出す。
まだほとんど使っていないため、布地はきれいなままだ。
手へはめて指を曲げる。
少し余裕はあるが、作業には問題なさそうだった。
『準備だけなら熟練者ね』
「初めてなんだから仕方ないでしょ」
「ノアも手袋する?」
友人がしゃがみ込む。
『いらない』
「肉球汚れるよ」
『洗うからいい』
「じゃあ私も手袋いらない?」
『あなたは爪で土掘るつもり?』
「しないよ」
「二人とも何の話してるの」
アリシアが呆れていると、温室の扉が開いた。
◇
「全員いるな?」
出てきたのは、普段この区画を管理している中年の職員だった。
腰には剪定用の鋏や細い紐を入れた道具袋を下げている。
「今日は体験だから、難しいことはやらせない。枯れ葉取り、土の状態確認、支柱への結び直し、それから一部の鉢の植え替えだ。勝手に枝を切るな。勝手に実を取るな。勝手に魔力を流すな」
最後の一つで数人が笑った。
「笑ってるが、毎年いる」
「いるんですか?」
上級生らしい男子が尋ねる。
「いる。元気がないから魔力を流せば元気になると思った、とかな」
「ならないんですか?」
「植物による。量にもよる。時期にもよる。少なくとも、分からない植物に勝手に流すな」
「はい」
「それから、今日触る植物の中に危険なものはない。ただし、葉の縁が硬いものはあるから手袋は推奨だ。貸し出しもある。暑くなったら我慢せず言え。水も飲め」
アリシアは説明を聞きながら温室の中を見る。
外から眺めた時より広い。
左右に長い棚が並び、大小さまざまな鉢が置かれている。天井近くまで伸びた蔓植物もあれば、掌に乗るほど小さな草もある。
透明な屋根から午後の日差しが入り、葉の影が床へ複雑な模様を落としていた。
扉が開いているのに、中は外より明らかに暖かい。
「まず三人か四人ずつに分かれろ。初めてのやつだけで固まるなよ。経験者を一人ずつ入れる」
生徒たちが動き始める。
アリシアと友人は、二年生らしい女子生徒、それから同じ一年の男子生徒と組むことになった。
「よろしく」
二年生の女子生徒が笑う。
「植物管理の授業、取ってるんですか?」
友人が尋ねる。
「今年からね。私も去年この体験来たよ」
「難しいですか?」
「覚えることは多いけど、面白いよ。植物によって全然違うから」
「枯らしたことあります?」
「ある」
「あるんだ……」
「授業用じゃなくて、自分で育ててたやつだけどね」
あっさり答えられ、友人が少し安心したような顔をした。
アリシアも小さく笑った。
◇
最初の作業は枯れ葉取りだった。
案内された棚には、腰ほどの高さまで育った葉物が並んでいる。
元気な葉は濃い緑色だが、根元近くには黄色く変色した古い葉がいくつか残っていた。
「引っ張らないでね」
二年生の女子生徒が見本を見せる。
「ここ。付け根を見て、もう完全に枯れてるものだけ取る。まだ半分生きてるやつは残す」
「黄色いの全部じゃないんですか?」
男子生徒が聞く。
「全部じゃない。こっちはまだ残す」
「違い分かんない」
「触ってみる?」
アリシアも隣から覗き込む。
一枚は乾いて薄くなっている。
もう一枚は黄色い部分が多いが、中央付近にはまだ張りがあった。
「こっちは柔らかい」
「そうそう」
「じゃあ取らない?」
「今日は残す」
アリシアは頷いた。
自分の担当する鉢へ移る。
根元へ指を入れると、土の湿気が手袋越しにも少し伝わった。
枯れた葉を一枚選び、付け根を確かめる。
軽く動かすだけで外れた。
「取れた」
『大事件ね』
「初めてなんだから」
『葉っぱ一枚よ』
「ノアは何もしてないでしょ」
『見守ってる』
「便利な役」
ノアは棚の下の日陰へ座っていた。
土へ入ろうとはしない。
少し離れたところで友人が声を上げた。
「これ取っていい?」
「どれ?」
「これ」
二年生が近づく。
「それはまだ」
「黄色いよ?」
「先だけね。根元見て」
「あ、本当だ」
「危なかった」
「一枚なら大丈夫じゃないですか?」
「一枚くらい、ってやると毎回一枚ずつ減るよ」
「怖いこと言う」
また笑いが起きる。
作業はゆっくり進んだ。
誰かが一枚取るたびに確認するほどではない。
けれど、判断に迷った時だけ経験者を呼ぶ。
アリシアも最初の数枚は慎重だったが、次第に乾いた葉の感触が分かるようになってきた。
指先へ残るかさついた感覚。
葉を動かした時の軽さ。
付け根の色。
見ただけでは分からない違いもあった。
◇
二つ目の作業は土の状態確認だった。
「これは水やり体験じゃないからな」
管理職員が先に念を押した。
「乾いてるように見えたから勝手に水を足した、はなしだ。今日は状態を見るだけ」
「水やりしないんですか?」
「一部だけ後でやる。水が多すぎても根が傷む」
各班へ細い木の棒が渡される。
土の決められた位置へ浅く差し、抜いた時の付着具合を見るらしい。
さらに表面の色、指で触れた感触、鉢の重さも参考にする。
「重さ?」
友人が鉢を持とうとする。
「待って。先に両手で」
二年生が止めた。
「落としたら終わるよ」
「怖っ」
「大丈夫。持ち方だけ」
教えられた通り、友人が鉢を少し持ち上げる。
「重い」
「それだけ?」
「重いものは重い」
「比較用にこっちも」
隣の鉢を持つ。
「あ、違う」
「でしょ?」
アリシアも二つを持ち比べた。
同じ大きさの鉢なのに、確かに重さが違う。
「土の量は同じくらい?」
「ほぼね。だから水分量の違いも出る」
「これだけで決める?」
「決めない。土も見る」
アリシアは棒を差し、抜く。
細かな土が少し付着している。
「これは?」
「まだ湿ってる」
「表面は乾いてるのに」
「上だけ先に乾くから」
「へえ……」
友人が横から覗く。
「面白い?」
「うん」
「アリシア、こういうの好きそう」
「何で?」
「細かいから」
「それだけ?」
「あと、すぐ水あげないところ」
「どういう意味?」
「元気ない、じゃあ水! ってしないじゃん」
「さっき説明されたからでしょ」
「研究でもすぐ何かしなくなったし」
アリシアは一瞬だけ黙った。
けれど、土から抜いた棒を見てから首を振る。
「今は植物の話」
「はいはい」
友人もそれ以上は続けなかった。
アリシアは次の鉢へ移る。
研究と似ているところを探そうと思えば、いくらでも見つけられる。
でも今日は植物管理体験に来た。
土が湿っている。
鉢が重い。
葉が元気だ。
それだけで十分面白かった。
◇
三つ目の作業では、背の高い植物を支柱へ結び直した。
古い紐を外し、新しい柔らかな紐へ交換する。
「きつく結ぶなよ」
管理職員が全体へ声をかける。
「茎は太くなる。今ぴったりでも、後で食い込む」
アリシアは自分の担当する茎を見る。
支柱との間には少し隙間が必要らしい。
「これくらい?」
二年生へ見せる。
「もう少し余裕あっていいよ」
「落ちない?」
「この結び方なら大丈夫」
教えられた形で紐を交差させる。
支柱側は動きにくく、植物側には少し空間が残る。
「変な結び方」
「八の字にするの。茎と支柱が直接擦れにくいから」
「なるほど」
アリシアはもう一度やってみた。
一回目よりきれいに結べる。
少し離れて確認すると、茎は無理に引かれず、それでも支柱から離れすぎていない。
「できた」
「上手いじゃん」
友人が隣から言う。
「そっちは?」
「見て」
友人の紐は、明らかにきつい。
「締めすぎじゃない?」
「やっぱり?」
「指入らないよ」
「でも倒れなさそう」
「植物が苦しそう」
「植物の気持ち分かるの?」
「分かんないけど」
二年生が笑いながら近づいた。
「これは締めすぎ。もう一回やろう」
「はーい」
友人が結び直す。
今度は緩すぎて紐がずり落ちた。
「難しい!」
「真ん中」
「その真ん中が分かんないんだって」
「二回目なんだから当たり前だよ」
アリシアが言う。
「アリシアはできたじゃん」
「私も最初、もう少し緩くって言われた」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ仲間」
「何の?」
「一回失敗した仲間」
「失敗ってほどじゃないでしょ」
温室の中に笑い声が広がる。
少し暑い。
額に薄く汗がにじんでいる。
土と葉の匂いが濃い。
それでも、不快ではなかった。
◇
休憩が入った。
温室の外へ出ると、風が思った以上に涼しく感じた。
参加者たちは石壁沿いの日陰へ座り、水を飲んでいる。
アリシアも手袋を外し、飲み物を口にした。
「疲れた?」
友人が尋ねる。
「二か三くらい」
「何で数字?」
「聞かれたから」
「普通は『ちょっと』じゃない?」
「じゃあ、ちょっと」
「研究に染まってる」
『今さらね』
「ノアまで」
ノアは日陰の石の上へ寝そべっている。
アリシアは自分の手を見る。
手袋をしていたのに、指先には少し土が付いていた。
「入ってた」
「どこから?」
「手首かな」
「私もっとすごいよ」
友人が両手を見せる。
貸し出し用手袋の表面は土だらけだった。
「それ外側でしょ」
「でも働いた感じする」
「それなら私も」
アリシアは自分の手袋を持ち上げる。
新品同然だった布地に、茶色い土がついていた。
少し嬉しい。
用意した時には、まだ何をするかもよく分かっていなかった。
今日はちゃんと使った。
「洗ったら落ちるかな」
「落ちるでしょ」
「色残ったら?」
「それはそれでよくない?」
「うん」
アリシアは手袋を膝へ置いた。
研究棟へ行かない放課後。
何かを測るためでもない。
身体の感覚を報告する必要もない。
東も西も気にしなくていい。
ただ植物に触れ、分からなければ尋ね、失敗したらやり直す。
それだけの時間が、思っていたより心地よかった。
◇
休憩後は、最後の植え替え作業へ移った。
全員が一鉢ずつ行うわけではなく、班ごとに二鉢。
対象は成長して今の鉢が少し窮屈になった若い植物だった。
「根を全部崩すなよ」
管理職員が見本を見せる。
鉢の縁を軽く叩き、植物を土ごと慎重に抜く。
現れた根は、思った以上に細く複雑だった。
「うわ」
友人が声を漏らす。
「こんなになってるの?」
「土の中だから普段見えないだけだ」
白っぽい細根が土を抱え込むように広がっている。
一部は鉢の形に沿って曲がっていた。
「これ、全部ほどくんですか?」
男子生徒が尋ねる。
「今回は外側だけ少し。種類によって扱いは違う。何でも同じように崩すな」
新しい鉢へ土を入れる。
中央に植物を置く。
周囲へ少しずつ土を足す。
押し固めすぎない。
浅すぎても深すぎてもよくない。
説明を聞いていると簡単そうなのに、実際にやると植物が少し傾く。
「右」
友人が言う。
「どっちから見て?」
「私から」
「じゃあ私からだと左」
「面倒くさい!」
「正面決めようよ」
二年生が笑いながら鉢の印を指した。
「こっちを正面にしよう」
「じゃあ右」
「ちょっとだけね」
アリシアが植物を支え、友人が土を足す。
男子生徒が反対側から高さを見る。
「今、真っ直ぐ」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんって何」
「俺の目では」
「信用できない」
「ひどくない?」
四人で何度も位置を確かめる。
最終的には二年生にも見てもらい、少しだけ修正した。
「これで大丈夫」
その言葉を聞いて、全員がほっとする。
「一鉢でこんな疲れるんだ」
友人が言った。
「慣れれば早くなるよ」
「先輩は何分くらい?」
「急ぐ作業じゃないから測ったことない」
「そうなんだ」
「早ければいいわけじゃないしね」
アリシアは新しい鉢を見た。
植え替えられた植物は、作業前と見た目が大きく変わったわけではない。
花が咲いたわけでもない。
急に背が伸びたわけでもない。
ただ、少し広い場所へ移った。
今日の作業の意味が見た目に現れるのは、もっと先なのかもしれない。
それを研究へ結びつけようとは思わなかった。
単純に、枯れなければいいなと思った。
◇
すべての作業が終わる頃には、温室の中へ差し込む光がかなり低くなっていた。
参加者たちは使った道具を戻し、貸し出し用の手袋を指定された籠へ入れる。
アリシアは自分の手袋についた大きな土だけを落とし、布袋へ戻した。
「洗うの?」
友人が聞く。
「うん。たぶん」
「記念にそのままにしたら?」
「汚いでしょ」
「働いた証拠」
「洗っても使ったことは消えないよ」
「真面目」
「普通だよ」
管理職員が参加者を集める。
「今日は体験だから、やったのは管理作業のごく一部だ。植物管理の授業を取るなら、種類ごとの違い、土、病気、虫、季節ごとの管理、魔力環境との相性なんかも扱う」
「虫も?」
誰かが嫌そうな声を出した。
「いる」
「触ります?」
「必要なら」
「やめようかな……」
周囲から笑いが起こる。
「選択するかは今日決めなくていい。実際にやってみて、自分に合うか考えろ。見学だけじゃ分からないこともあるからな」
説明が終わる。
参加者たちはそれぞれ友人同士で話しながら散り始めた。
「どうだった?」
友人がアリシアに尋ねる。
「面白かった」
「取る?」
「まだ分かんない」
「え、即決しないの?」
「他の選択も見たいし」
「前も言ってたね」
「うん」
「私は結構好きかも。でも虫……」
「まだそこ気にしてるの?」
「大事だよ」
「植物あるなら虫もいるでしょ」
「分かってるけど、分かりたくない」
友人が真剣な顔をするので、アリシアは吹き出した。
◇
温室を離れる頃には、空が橙色に染まり始めていた。
研究棟はここから見えない。
アリシアは一度もそちらを探さなかった。
友人とは本館前で別れた。
「また明日!」
「うん。また明日」
「手袋洗うの忘れないでね、忘れない係!」
「そっちが言うの?」
「今日は私が覚えてる係!」
「明日には忘れてそう」
「ひどい!」
笑いながら手を振る。
友人が校門の方へ去ってから、アリシアは生活観測区画へ向かった。
『楽しかった?』
ノアが尋ねる。
「うん」
『研究より?』
「比べない」
『即答ね』
「違うものだから」
『前ならちょっと悩んだかも』
「そう?」
『そう』
アリシアは歩きながら布袋を触った。
中の手袋には土が付いている。
「植物管理、取ろうかな」
『もう決めるの?』
「まだ」
『研究の次の問いも?』
「まだ」
『今日は何も丸つけない日が続くわね』
「選ぶのって、すぐじゃなくていいんでしょ」
『誰に聞いてるの』
「ノア」
『なら好きにすれば』
「適当」
『あなたの選択でしょう』
いつもの少し突き放すような言い方だった。
けれど、アリシアは嫌ではなかった。
「うん」
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は共用室の机で紙箱を開いていた。
昨日並べていた色紙のうち、紫色の細い紙だけが箱の外側へ追加されている。
「決めたんだ」
「これだけ」
「赤と白は?」
「やめた」
「捨てた?」
「残してある」
「そっか」
アリシアは鞄を置く。
「何してきた?」
「植物」
「研究じゃない?」
「今日は研究なし」
「何したの?」
「枯れた葉を取って、土を見て、紐を結んで、植え替えした」
「土見て何するの?」
「濡れてるか見る」
「見たら分かる?」
「上だけだと分かりにくいのもあった」
「触る?」
「棒も使った」
「やりたい」
「体験だから勝手にはできないよ」
「ここに植物ある」
子供が窓際の小さな鉢を指す。
生活観測区画で育てられている普通の観葉植物だった。
「それ、勝手に棒刺したら駄目だよ」
「じゃあ聞く」
「うん」
子供は近くにいた職員へ本当に尋ねに行った。
アリシアはその背中を見送りながら笑う。
『広めたわね』
「私のせい?」
『植物管理体験の成果』
「悪いことじゃないでしょ」
『誰も悪いって言ってない』
◇
夕食前、職員の許可をもらった子供は、鉢植えの土を指で少し触らせてもらっていた。
棒は使わない。
水やりもしない。
「湿ってる?」
アリシアが聞く。
「分かんない」
「私も最初分かんなかったよ」
「どうしたら分かる?」
「違うのと比べると分かりやすいかも」
言ってから、アリシアは職員を見る。
「乾いた土、ありますか?」
「植え替え用の乾燥土なら少しありますよ」
小皿へほんの少量だけ出してもらう。
子供が両方を指先で触る。
「あ、違う」
「ね」
「こっち冷たい」
「湿ってる方?」
「うん」
「色も違うね」
「重さは?」
「鉢ごと持つと分かることもあるって」
「持っていい?」
「これは大きいからやめよう」
職員が笑う。
「小さい鉢なら今度用意しましょうか」
「うん!」
子供が嬉しそうに頷く。
顔のない存在は少し離れた場所からその様子を見ていた。
胸部の十一の光に特別な変化はない。
誰もそれを植物と結びつけなかった。
ただ同じ部屋の中で、それぞれの時間が流れていた。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは最初に手袋を洗った。
洗面器の水が少し茶色くなる。
布地を強く擦りすぎないようにしながら土を落とし、窓際へ干す。
完全には色が戻らなかった。
指先の部分に、ほんの少しだけ薄茶色が残っている。
「残った」
『嫌?』
「ううん」
アリシアは濡れた手袋を眺めた。
「使った感じする」
『友達と同じこと言ってる』
「……言わないで」
『仲いいわね』
「うん」
以前なら、そこで少し照れていたかもしれない。
今日は自然に答えられた。
アリシアは机へ戻る。
昨日の候補一覧がある。
手に取った。
五つの項目。
昨日と同じ。
丸はない。
今日一日、ほとんど考えなかったはずなのに、改めて見ると気持ちが少し変わっている。
一番気になるのは、やはり弱い主観違和感だった。
けれど昨日ほど、今すぐ過去記録を開きたいとは思わない。
(明日でも、同じかな)
それを確かめてからでも遅くない。
アリシアは紙を戻した。
『書かないの?』
「今日はいい」
『植物の感想は?』
「研究帳には書かないよ」
『別のノートなら?』
アリシアは少し考える。
机の引き出しから、授業用でも研究用でもない小さな紙束を取り出した。
一枚だけ抜く。
『書くんじゃない』
「これは違う」
『何が?』
「植物管理体験の感想」
短く書く。
『枯れ葉取りは思ったより迷う。土は表面だけでは分からない。支柱の紐は締めすぎない。植え替えは四人でやっても少し傾いた。面白かった。』
最後に少し迷って、もう一行加えた。
『選択するかは、まだ決めない。』
『結局それ』
「いいでしょ」
『研究も授業も決めないのね』
「決める時に決める」
ノアが小さく喉を鳴らした。
『まあ、それでいいんじゃない』
「適当」
『昨日と同じこと言ってる』
「だってノアが同じこと言うから」
紙を畳んで引き出しへしまう。
窓際では、洗った手袋から小さな水滴が落ちた。
今日は新しい記録を取っていない。
波形も見ていない。
六つ目について何かが判明したわけでもない。
それでも、空白の日ではなかった。
土へ触れた。
葉を選んだ。
紐を結び直した。
友人と笑った。
植え替えた植物が、この先ちゃんと根付くか少し気になっている。
研究とは別の続きが、また一つ増えた。
アリシアは灯りを落とす前に、窓際の手袋をもう一度見た。
明日の朝には乾いているだろう。
候補一覧の五つの行は、明日になっても逃げない。
だから今夜は、土の匂いがわずかに残った手を布団の中へ引き込み、そのまま目を閉じた。




